5/27集会+デモに参加してきました。
『福島の子どもたちを放射能から守ろう!原発も再処理もいらない!』
http://www.peace-forum.com/gensuikin/katsudou/110527yotei.html
共催:原発とめよう!東京ネットワーク/再処理とめたい!首都圏市民のつどい
写真を交えながら、記録を記してゆきます。(文責:栗原優)
17:30 日比谷野外音楽堂に集合。
日比谷野外音楽堂の前に着くと、既に入り口には大きな旗やノボリを掲げた方が沢山いて、開場前に入り口に歩を進めると、沢山の方からチラシを配られました。
反原発に関する講演、シンポジウム、集会、デモや講座の案内、学習会の案内、プロジェクト、署名運動、FAXでの訴えをするためのマニュアル、政府に対する抗議の記事、学生たちの意思表明、原発教育への討議資料、そして、今回の集会+デモのチラシ。
野音に入り、最初、17:30時点では雨が降っており、傘を差して濡れないようにチラシを読みながら集会開始を待ちました。最初は人数もそういなかったので、僕は前の方に座っていました。舞台上に掲げられた幕たち、そして、次々と舞台下に貼られていく幕たち。
集会が始まる前に、生田卍さんの歌。
・何度も、集会で歌を歌ってきたとのこと。
・70年代に既に作っていた、平和を唄う歌を、歌われた。
・このように現在脱原発の動きが目覚しくなってきても、「地下原発」計画などで姑息に原発を残そうとする人々がいるらしい、という話などを話してくれました。
18:00、集会開始、この頃には雨も止み、ふと後ろをむくと、野音をほぼ埋め尽くす人々とノボリの数々に圧倒されました。
<原子力資料情報室、伴英幸さん>
・主催者挨拶にて、今回の福島原発事故は「過酷事故」と表現される。
<福島原発事故と子供達の被曝問題についての発言>
<社民党、福島みずほさん>
・浜岡がストップした。残りの原発も全て、みんなで止めていこう。
・23日の月曜、文部科学省に福島の父母の方々が大挙し、20mSV問題撤回を訴え、交渉した。
自分は大臣と直接会い、話をした。
→文科省はここで、「1mSV以下を目指す」「線量を下げていく為、国が財政措置をとる」ことを表明した。(この集会当日、27日付け)
・社民党としては、脱原発アクションプログラムを作った。(2020年までに原発ゼロ、2050年には自然エネルギー100%に、を掲げている)
・G8に向かう前の菅さんに会い、「ドイツが2022年、原発0を掲げているが、それよりも前に日本で実現しましょう」と伝えた。
次に、
<福島老朽原発を考える会、青木一政さん>と<国際環境NGO FoE Japan、満田夏花さん>
・当初、海に流された放射能について、拡散するから大丈夫などと発表されていたが、実際は生物濃縮が起こり、放射能汚染が進んでいる問題について。
・事故の収束が困難な状態
・労働者の大量被曝の問題
・菅政権の対応が問題であるという話
・G8において、菅総理はオバマ大統領に「原発は安定してきた」といい、
・公式宣言では「原発事故周辺以外の土地は、人体に全く影響がないレベル」といったこと。
◎「子供の生命と健康をコスト計算するようなやり方に断固反対せねばならない。」
・20mSV問題:発表後、世界中の専門家が非難が届いた。
・文科省は当初、「原子力安全委員会」がOKを出したから」といい、それに対し原子力安全委員会はそれを否定するような擦り付け合いが始まった。
→先の福島みずほさんの話にもあったように、本日5/27、文科省に文面化させたことは大きな一歩である。
→しかしながらまだ問題は山積みである。「明確な撤回はまだ」であること、「財政措置の中に、避難などの分が含まれていないこと」「アドバイザーである専門家が(山下氏)100mSVで大丈夫などと吹聴していること」など。
→今後も、国会議員へのFAXでの訴え・こうやって声を上げ続けること、などが必要である。
続いて、
<六ヶ所再処理工場について>
<ふぇみん婦人民主クラブ、山口泰子さん>
・原発で発生した高レベル放射性廃棄物を保管するために、ガラス固化体を作るのだが、六ヶ所ではガラス固化体を作る工程がうまくいかない状態が続いている
・現在、長崎原爆の40コ分のプルトニウムが溜まっている。
・六ヶ所再処理工場は、つい最近も2010年10月の再開予定が2012年10月へと、2年間の延期となった。本格稼働の延期はこれで18回目である。
・当初7600億円予定の資金が2兆200億円にもなっている。
◎しかも、原発が出す1年分の放射能を、この工場は1日で排出してしまう。
・再処理工場建設反対の声を上げていかねばならない。
→ずっと運動をしてきたが、年々人数は減り、今年2月には10人程度だった。しかし3/11の事故の後、人々の意識が向き、1200人にまで膨れ上がった。
→運動の人数が増えたことはよいのだが、実際このような事故が起こらないと人は本当にきづくことが出来ないということを痛切に感じ、複雑である。しかし、今後も続けて声をあげていこう。
・青森の方からメッセージ「もし六ヶ所村で、今回の福島のような震災が起こり電源が途切れた場合、非常に大変なことになる。」「使用済み核燃料再生の政策を即時止める運動を引き続き続けてほしいと願う」
<柏崎刈羽原発について>
<柏崎刈羽原発の閉鎖を訴える科学者・技術者の会、山口幸夫さん>
・世界最大の原子力発電所である柏崎刈羽原発。
・新潟県中越沖地震により、国の制定した限界地震度を"数倍"上回る揺れが起こり、全面停止をした。
→しかし、国は1、2年で再稼動をすることを前提に発言。
→この状況対し強い危惧の念を抱き、地震から1ヶ月後、会を発足し、全閉鎖を訴える。(山口幸夫さん、石橋克彦さんら4人からスタート)
→しかし、2年5ヶ月後、運転は再開されてしまった。
・御用学者の居ない検討が必要だ。との考えを持つ。自分たちは80回以上も公開審議をしてきた。柏崎刈羽原発は、建設当初から反対運動が強く起こっていた。しかし再開が、なされてしまった。3/11も会議の最中であり、国の「大丈夫だ」という姿勢に対し、反対派が抗議をあげていたまさにそのとき、東日本大震災が起こった。
・今回の福島原発事故の後、すぐこのような会が発足しなかったことが悔しい。つくるべきである。原子力村に関係の無い、専門家ではなく市民代表をいれるべき。IAEAもあちら側(国側ということ)だから、闘うことになると思うが。とのこと。
<浜岡原発について>
<たんぽぽ舎、槌田春美さん>
・4つのプレート上にある、世界にも稀な、地震集中している国、日本。そして、浜岡原発は、危険なプレート境界の真上に建てられている。
・今回、「津波対策」ということで2~3年目安でとめたが、津波以前に、地震自体が危険なのである。
・浜岡原発を地震が襲えば、今回よりも更に多くの被曝被害が出るはず。
・菅首相の本音は、「自分が首相の間は止めておく」なのではないか?
・浜岡原発と海の間にある砂丘が津波を防ぐと言われるが、有り得ません。
最後に、
<原水禁、市村忠文さん>
<6/11脱原発100万人アクションについて>
http://nonukes.jp
<9/19全国集会について>
5万人を目標とする集会を!
集会終了、もう一度生田卍さんが歌う。
20年以上も前に作られた、原発事故を想定した曲、「空が落ちてくる!」
歌を聴きながら、野音の最後列からもパシャリ。デモ隊列がこれから動き出すところ。
19:00、デモスタート。
集会開始当初は、(僕はここに居てよいのだろうか・・?)と不安にもなりましたが、デモ出発の際にずっと舞台上から唄ってくださっていた生田さんの声に元気をもらいました。
また、僕は手作りNO NUKES傘を差してさりげないアピールをしていたのですがあまりにもさりげなさすぎて気づかれず(?!(笑))主催の方が作った「原発はいらない!」や「エネルギー転換を!」などの文言の印刷されたしっかりしたプラカードを配ってくれようとした方が何人もいて、みなさんの、誰もを受け入れる気持ちが伝わりました。
そして、出発直前に、どなたかが僕に「割ると光ります」とサイリュームを手渡してくれて、それがすごく心あたたかかったです。傘を掲げ、サイリュームを握って、出発しました。
すっかり、夜です。
横断幕、ノボリ、いくつも見られました。
日比谷野音舞台から、図書館と公会堂の間を抜けて大通りへ。
今回は、僕が前回・前々回参加した高円寺や渋谷の「素人の乱」の方主催のデモよりも、比較的年配の方が多い集会でした。
福島原発事故よりも更に昔からずっと運動してきた方たちの集まりのようでした。(僕が反対運動を少しだけしていた20年前には、きっと既に彼らの多くは動いていたのではないかと思われます。)
市民団体、労働組合の方たちが沢山いらっしゃいました。そして、その中にも、素人の乱のデモ関係の方々も加わり、外国人の方や若い方も加わり、本当に様々なところからやってきた集まりとなっていました。
(※5/7渋谷デモにて、不当拘束されていた最後の1名の方が、この日釈放されたそうです。
(トラブルについてはhttp://57nonukes.tumblr.com/に詳細が記載されています。)
「こうやって、若い団体を狙って弾圧をかけてくる」、という話を訴えられていました。)
中部電力東京支社。ここで改めて、浜岡原発廃炉を訴えるシュプレヒコール。
隊列は、先導カー4台それぞれに続き、進みます。東電前でも改めてシュプレヒコールをし、
銀座を通ってゆきます。(写真はブレブレですが、雰囲気だけでも伝われば・・・!いくつか写真つづきます)
駅前では、街頭の人々へのアピールの声は強くなる。
ちなみにこの日も、横をずっと警官達が警護していました。
デモの人数が、前回の渋谷のような物凄い数ではなかったからか、警察からの「妙な分断」はされなかったです。
東京大手町、常盤橋公園。ここが解散場所。21時くらいになっていたかな。約2時間。
高円寺や渋谷の時よりは短いコースでしたが、時間も場所も僕にとっては新鮮で様々な発見がありました。
公園に着き、後続の方たちを出迎える。
<解散地での小集会>
何人もの方がお話されましたが、その中から少し、記録を記します。
<たんぽぽ舎の方から>
・6/20に、60畳の常設スペースを開設し、原発講座を連続して行うそうです。
→解説記念に、4/10高円寺15000人デモを実現した素人の乱の松本哉さんをお呼びし、お話してもらうそうです。(6/22)
・7/16・17、浜岡原発NO連帯ツアーを行うそうです。実際に浜岡原発を見学し、全国集会、抗議。石橋克彦さん講演など。参加者募集中だそうです。
そして、印象的だったお話。
<助産婦をされていた87歳の方からの話>↓
・ヒロシマ・ナガサキ原爆の後、奇形の赤ちゃんが数多く生まれた。当時はそのような赤ちゃんが生まれることが、社会から批判を受ける時代だった。
→頭が無い赤ちゃん、頭が半分しかない赤ちゃんなどが生まれると、死産扱いにすることになっていた。
助産婦だった自分は、そのような赤ちゃんが生まれると、母親には知らせず、父親にだけ事実を述べ、赤ちゃんの息を止め、頭の形を整え、その後、母親に、お産が厳しかったから。。ごめんなさいね、と、死産を告げた。
→このようなことを、「自分達の手で」してはいけない。(原爆ではなく、今、原発という、自分達の選択で行っているといっても過言ではないもの、による放射能汚染により起こり得る被害のこと。)このような毒を、自分たちでまいてはいけない。
(静かに、丁寧にお話されていたが、聴いていた人々はみんな釘を打たれたように固まって聞いていたと思う。少なくとも僕自身がそうだった。それに伴い、彼女も、段々語気強く、必死に訴えかけるような強さでお話を続けた。デモ終了後の短時間の集会だったので、時間が限られており、司会の方が促してお話が終わりにされたが、非常に必死さが伝わった。直接、放射能の被害を自らの手で、触れてきたからだろう。)
この後、完全に解散し、大手町から電車に乗り帰りました。
不思議なことに、自らの家の最寄駅に着くと、友人からメールが。たまたま同じ駅にいるという。合流して、飯をゴチになってしまった!デモどうだった?おつかれ!と労ってくれ、あたたかいきもちに。サンキュー!
そして帰宅後、カバンの中に光る物体を発見!本日最初にもらったサイリューム。ありがとう!
そして、今日一日大活躍だった手作り「NO NUKES」傘。お疲れ様!またともに歩こう。
以上、5/27デモ参加の記録と感想などなど、でした。
これからも、自分の出来る範囲でですが、いろいろ参加し、脱原発に向けて取り組んでいきたいと思います。
参加された方、みなさんお疲れ様でした。励ましをくれたみなさん、本当にいつもありがとうございます。ともに頑張りましょう!
ここまで読んでくれて、ありがとうございました!
栗原優