今から約16年前の2002年、当時21歳だった僕は、たまたま仕事を求めて半年ほど暮らした、三重県桑名市の社宅の近所に同和地区があったことから、同和問題に関心を持ち、それから数年ほどの間、この問題についていろいろ調べていた。最近ではあまりこの問題が広く語られることもなく、同和行政、並びに部落解放運動において中心的な役割を担った部落解放同盟自体が、同和行政の終結とともに大幅に同盟員の数を減らし、併せて行政への影響力も失っていったことから、僕自身もこの問題から距離を置くようになってしまったが、当時、調査のために訪れた大阪府東大阪市の旧同和地区、荒本地区を訪問した際に撮影した写真が今でも手元に残っている。

 荒本はそもそも北総とは何の関係もないうえ、大阪市からも近く限界ニュータウンとは到底言えない立地で、なぜこのブログでそんな町を取り上げるのかというと、東大阪市は、不正が横行した同和行政の歴史の中でも、特に問題のある同和行政を行っていた自治体の1つで、当時の荒本の団地内は、その同和行政の歪みが起因であるとしか考えられない無惨な状況に陥っていたためだ。僕はしばしばこのブログで地域コミュニティのあり方や、自治体当局の都市計画のあり方について意見を述べている。それは、これからの限界ニュータウンの住環境を守る上で重要な視点であると考えているためであるが、行政が主体的にかかわることなく、地域社会が歪んだ方向性を示しだすと、いったい町はどうなるか。これまでは主に北総の寂れたニュータウンを実例に挙げてきたが、今日は同和対策事業特別措置法失効(2002年)直後の旧同和地区の状況を実例として挙げ、地域社会とまちづくりのあり方を、まったく異なる視点から考えてみようということである。

 …とまあ、もっともらしい能書きを垂れてきたが、既にお察しの通り、現在仕事の都合で調査が滞っていてネタ切れであるというのも大きな理由であり、長く引き出しに眠っていたこの写真をネットで公開するのも今回が初めてなので、これも日本の現代史の一面ということで、あくまで番外編としてお気軽にお読みいただければ、と思う。実はウィキペディアの「部落解放同盟全国連合会」の項目を創設し記事を執筆したのも僕なのだが(お読みいただければ何となく僕の文章だとお分かりいただけると思う)、のちに何者かによって内容を奇妙に改竄されて現在は前後矛盾した意味不明な記事になってしまっているので、自身のブログで改めて荒本の歴史を簡単に書いていきたいという思いもある。

 ただ、もう十数年前の話なので、その詳細をすべて覚えているわけではないため基本的には写真とその歴史的背景の解説にとどめるが、今日、荒本をグーグルストリートビューで見る限り、当時とは全く状況が異なっている。また、荒本で起きた問題は、全国に多数あった同和地区の中で唯一無二のレアケースであり、この記事は一般論としての同和問題を語るものではないということは強く述べておきたい。
 
荒本4
近鉄けいはんな線の荒本駅。

 さてそもそも僕が荒本を訪問したのは、解放同盟の分派で、当時中核派と共闘関係にあった(現在は決裂)「部落解放同盟全国連合会(以下・全国連)」の中央本部に書籍を買いに訪れたためである。荒本の同和住宅は近鉄けいはんな線の荒本駅からも近く、徒歩でも十分アクセス可能だ。ちなみに訪問したのは2003年の2月。粉雪の舞う寒い冬の日であった。


荒本8
荒本1
荒本人権文化センター。

 荒本にある公共施設「人権文化センター」。元は「荒本解放会館」という名称であった。部落解放同盟は、同和地区の地名を特定しようとする者を「差別者」として厳しく糾弾し続けてきた割には、地区内に、それがあるだけで一目で同和地区と分かってしまうような特有の公共施設の建設を行政に要求し続けてきたが、その中で「解放会館」は大阪の同和地区に多く見られた公共施設である。「東大阪市立」とあるように、いずれの解放会館もれっきとした公共施設なのだが、内部に解放同盟の支部の事務所が設置されていることがほとんどで、「公共施設の私物化」として共産党などからしばしば非難されていたものだ。

荒本9
市営荒本会館。

 その荒本解放会館の近くに、もう一つの公共施設「荒本会館」がある。こちらは便宜上、全国連の所在地で(詳しくは後述)、この荒本会館は、かつて解放同盟の荒本支部が派閥抗争を起こした際、その抗争の舞台として一時的に占拠されたことがある。

 元々部落解放同盟は70年代は過激派「中核派」と共闘関係にあったが、中核派が対立セクトと泥沼の内ゲバを繰り返し多数の死傷者を出すようになると、解放同盟は世論の反発を恐れ、同盟に在籍していた中核派メンバーの排除に取り掛かるようになった。1981年、特に中核派のメンバーや支持者を多く抱えた荒本支部は、支部丸ごと権利停止処分を受け、代わりに解放同盟大阪府連が設置した「荒本支部再建準備会」と激しく対立するようになる。その際、除名処分を受けたメンバーが占拠したのがこの荒本会館だ。占拠中、会館が何者かに銃撃される事件まで発生し、結局抗争の末支部は分裂し、権利停止処分を受けた元メンバーが新たに立ち上げたのが前述の「全国連」である。
荒本7
旧解放会館の敷地に放置された街宣車の看板。

 その旧解放会館の敷地には、そんな全国連の下部団体である「反戦・反核・平和とくらしを守る東大阪市民の会」の街宣車の看板が放棄されていた。この団体、東大阪市の市会議員に選出された全国連の幹部が事務局長を兼任していた団体なのだが、仮にも市会議員であろう者が事務局長を務める団体が、公共施設の敷地を私物化するというのは常軌を逸している。東大阪市は、多くの自治体同様、解放同盟の言いなりの同和行政が続けられてきて、この程度のことはもはや問題にもならなかったようだ。

荒本2
団地内に張り巡らされた全国連のポスターの剥がし痕。

 団地内には、そんな全国連が勝手に張り巡らしたポスターの剥がし痕が残されていた。「戦争と差別・法うちきりを切り裂く三〇〇万部落大衆の総団結を!」と、2002年の同和対策事業特別措置法の失効を激しく非難しているが、同時に、この地区の住民を「部落民」と規定する役割をも果たしてしまっている。
 
 当時の全国連の主張は、基本的に中核派のそれと全く同じで、活動内容も、部落の解放というよりは反戦デモなどがほとんどだったのだが、21世紀にもなってこんな団体が堂々とポスターを張り出す町など全国広しといえども荒本だけだったであろう。
荒本3
荒本地区の同和住宅と路上に放棄された車両。写真左手前から5台はすべて放置車両。

 荒本の同和住宅は、この当時深刻な家賃滞納問題を抱えていたが、団地内には異常な数の放置車両が存在していた。放置車両といっても路上駐車ではなく、盗難車なのか、廃棄車両なのかはわからないがナンバーも取り外された廃車が路上にズラリと並んで、中にはヘッドライトやタイヤまで持ち去られ、既に放置されてから時間が経過していると思われるものがほとんどであった。当時は駐車監視員制度もなく、今ほど路上駐車の取り締まりは厳しくなかった時代だが、しかしどうしてこのような状態が放置され続けていたのかはわからない。

 東大阪市の同和住宅は、れっきとした公営住宅であるにもかかわらず、信じがたいことに市当局は入居審査にほとんど関与することがなく、事実上、地区協議会と呼ばれる民間の自治組織が独断で入居者を決定していたのだが、先の家賃滞納問題も含めて、それが大きくマイナスに作用していたようだ。こんなデタラメな不正入居が横行したおかげで、ここの入居者は、もはや「被差別部落」の言葉から連想される江戸時代の賤民身分とは一切関係ない人も少なくなく(外国人もいた)、荒本は「部落」でも何でもなかったのだ。

 
荒本5
全国連の事務所(当時)。
 
 さて、本来の目的の訪問先である全国連の事務局は、団地から少し離れた住宅地の一角にあったが、中核派と関係を持っていた全国連はしばしば家宅捜索を受けていたためか、事務局は監視カメラが設置された電子錠システムで看板も何もなく、非常に厳重で物々しい雰囲気ではあった。ただ、事務局に居たメンバーは特段威圧的ということもなく、パッと見どこにでもいるようなおじさんばかりであったが、この辺の話は町とはあまり関係ないところなので割愛しよう。


 と言うことで、以上の写真が当時撮影した荒本の模様であるが、東大阪市は特に杜撰な同和行政が行われ、地区の民間団体の身勝手な振る舞いにも我関せずの無責任な姿勢を最後まで押し通し、それが結果として、全国的にその悪名を轟かすほどの「同和地区」を作り上げてしまった。荒本は、同和問題を詳しく調べていた人なら多分誰でも知っているが、同和かどうかに関係なく、無計画で杜撰な住宅政策の、最悪の結果と言える。行政が舵取りをせず、地元のデタラメな集団に町の運営を任すと、こんな有様になってしまうのだ。今後、地方自治体の財政規模が縮小していく中、ますます住民自身の自治管理が問われる時代となっていくが、航路を見失うことなく、最善の道筋を進んでいくことの重要さを、かつての荒本地区が反面教師として伝えている。そして、いくら住民の権利を尊重する必要があろうとも、ときには行政の強気の介入が、荒療治となろうとも必要とされるケースもあり得るのだ。

 


参考資料:
・『同和利権の真相1・2』(寺園敦史・一ノ宮美成・グループK21/宝島社)
・『ドキュメント「荒本闘争」』(部落解放理論センター/部落解放同盟荒本支部)
・『荒本支部機関誌「闘魂」縮刷版』(部落解放同盟荒本支部)