先日、成田市内の分譲地の開発許可の概要を調べに成田市役所に赴いた際、元々は別の分譲地の開発許可を調べに行ったのだが、開発許可案件の一覧に、以前紹介した、成田市臼作の放棄分譲地の開発許可が記載されているのが目に入った。臼作の放棄分譲地といえば、なかなかの高規格な造成工事が施され、街路も舗装され、調整池や公園などの共有設備も備えているにもかかわらず、何故か全く利用された形跡もなく放棄されていることが不思議であった分譲地だ。(「成田市臼作 無住の放棄住宅地」)
臼作再訪 (7)
これまでの投稿記事の中で、特に大きな反響を頂いた臼作の放棄住宅地。

 誰も住んでいない放棄分譲地の紹介というのは、そもそもこのブログの趣旨から若干外れてしまうので、僕としてもさして熱心に調べていなかったのだが、実際のところこのブログは、その分譲地の居住性と記事のアクセス数が反比例するという倒錯した現象が起こりやすく、あの記事を投稿したのち数日はかなりアクセス数が増加した(あくまで比較だが)。だから再調査を行うというわけでもないのだが、読者の方から放棄分譲地の情報を求めるお声も頂いており、僕としても、開発許可が出された住宅地が、なぜ放棄にまで至ったのか、純粋な興味もあるので、今回は臼作の放棄分譲地の再調査を行うことにした。

(前回予告した、インフラ設備のない下総の分譲地の記事は次回投稿します)

 まず手始めに、そもそも成田市は、この分譲地の存在を把握しているのか、成田市役所の都市計画課を訪れてみた。ここは現在は成田市域に属するとは言え、この分譲地は合併前の旧大栄町が開発許可を出したものである。平成16年に立命館大学の吉田友彦教授が行った放棄分譲地の調査では、吉田教授は放棄分譲地を抱える自治体にアンケートの回答を求めているのだが、旧大栄町を含めた、都市計画区域の指定が比較的新しい自治体は、総じて返答状況が良くなく、報告書内で「関心の度合いが低い」「あまり関心がない」とやんわりと指弾されている。果たして合併後の現在はどうなのか。
臼作再訪 (1)
成田市役所。

 都市計画課で応対頂いた職員は、以前開発許可の概要を訪ねた職員と同じ方であり、向こうも僕のことを覚えていたが、見たところ年齢は僕よりも若い方で、案の定臼作の放棄分譲地に関しては、そこが放棄され荒れ果てていることはまったく知らなかった。しかしこれは無理もない。旧大栄町の都市計画課の資料はすべて成田市役所に移管されているが、開発許可が出されたのは今から40年以上も前であり、職員の方はもちろん僕すらまだ生まれていない。一人の居住者もなく、再開発の計画もない、山林に埋もれた分譲地のことを問い合わせる奇特な市民もまずいないだろう。

 次に建築住宅課で、この分譲地の街路が、建築基準法の定める道路に指定されているか調べてもらったところ、「1項3号ですね」と回答いただいた。だが不勉強な僕はそんなことを聞いても、即座にパッと建築基準法の条文など浮かんでこない(と言うか、特例としてそんな条項があるというくらいは知っているが、そもそも頭に入っていない)。1項3号道路とは、都市計画区域に指定される以前から存在した幅員4m以上の道路のことで、私道である場合が多い。

 旧大栄町が都市計画区域に指定されたのは2001年。先に紹介した吉田教授による放棄分譲地の調査は2004年であり、その時点でこの分譲地は既に車両の進入が困難なほど荒れ果てていたのだから、おそらく分譲地の現況を鑑みることもなく、機械的に分譲地の街路を建築基準法上の道路として認定したのであろうが、ともかくこの分譲地の街路が、建築基準法で定める道路として認定されていることは分かった。

 続いて資産税課に赴き、当該の分譲地の地番図の写しを発行していただくことにした。成田市の発行する地番図は「地積合成図」と銘打たれ、発行代金は何と1部あたり10円という超破格値である。地番図はこれまで、匝瑳市役所と芝山町役場でも発行してもらったことがあるが両市町とも1部300円であり、ほとんど実費のみに近い成田市のそれは、調査費用も限られる僕にとって非常に助かるものだが、実際発行された地積合成図は、何故か地形図と土地の境界に若干のずれがあり、見辛いことこの上ない。

 「あくまで目安として使用しているものです」とのことであり、権利関係の手続きには使用できないものなので、課税業務においては差し支えないのかもしれないが、地形図の線と区画の境界がグチャグチャに入り乱れて何が何だかよくわからない。結局法務局で公図を取得するしかないようだ。
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臼作の分譲地の地番図。地形図と境界にズレがあり、表記された地番がどの筆のものなのかよくわからない。

 しかしその法務局であるが、合併前は香取郡であった旧大栄町と旧下総町は、同じ成田市内でありながら法務局の成田支局ではなく、香取支局が管轄している。成田市役所から法務局の香取支局まではおよそ25㎞。元々大栄町や下総町にお住まいの方ならまだしも、都市計画課のある市役所から遠すぎる。合併によって、かえって効率が悪くなっているではないか。とはいえ成田にないものは仕方ないので国道51号を延々走ることおよそ1時間弱、香取支局に到着した。

 ちなみに香取支局のある旧佐原市は、古くからの街並みが残る観光地として知られているが、あいにく今回は観光などしている時間もないので、趣深い旧市街は完全にスルーして、そのまま法務局に直行した。佐原の名を挙げておいてその街並みを紹介しないのも何なので、以前初詣で香取神宮を参拝した際に撮影した写真を紹介するが、佐原はできれば、放棄分譲地の登記簿取得などというアホな目的ではなく、ゆったりと観光で訪れたい町だ。
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古くからの家並みが残る佐原の旧市街。
臼作再訪 (2)
千葉地方法務局香取支局。

 佐原のイメージとは真逆な、妙にモダンな外観の香取支局ではまず公図を取得したが、発行された公図をよく見ると、造成後に分筆されたと思われる区割りに重複するように、おそらく造成前のものと思われる筆がそのまま残されている。当初は不審に感じたが、こうした怪しげな分譲地に関しては、北総のニュータウンの雄である成田ニュータウンを抱えこの世の春を謳歌する成田よりも、長年無責任な地元業者の乱開発に晒され、今もその負の遺産に苦しむ八街の都市計画課の方がはるかに実情に詳しいのではと推察し、八街市役所の職員の方にこの公図を見せて尋ねてみると、「このような造成地は他でも目にしたことはありますね」とのことで、「一見おかしなように見えますが、開発許可を得ていれば旧来の赤道が国有地や町有地である可能性はなく、仮に筆ごとに所有者が異なっている状況でもなければこうした分筆が実利用に差支えることはありません」と、まさに百戦錬磨のプロに相応しい模範的回答を淀みなくいただいた(実際、自分で土地関連の資料を調べてると、資料もなく口頭で法律用語を駆使してスラスラ回答できる職員が本当にすごく見える)。
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分譲地の公図の写し。造成前と造成後の筆が入り混じり、極めて細かい区割となっている。

 造成前の筆に、そのまま上書きするように分筆されたこの分譲地は、公図上では極めて細かく分筆され、ほとんどけし粒のような筆もあるが、その中で、造成後の街路で比較的地積の大きい筆の地番を指定して登記事項証明書を取得してみた。僕としては、この街路が、各区画の所有者の共有として登記され、労することなく一気に分譲地全体の所有者情報が判明するというバラ色の未来を思い描いていたのだが、現実はそんなに甘くなく、単一の事業者の名義で所有権が登記されていた。となると、結局のところ、少なくとも僕が登記簿を取得した私道部分に面する区画は、たとえこの道路が建築基準法の道路として認められていようとも、共有持分がないゆえに家屋の建築が出来ないということになる。

 しかしそれより気になったのは、現在の所有者に所有権が移転した原因が「真正な登記名義の回復」となっていることだ。真正な登記名義の回復とは何か。またしてもさっぱりわからないのでグーグルでカンニングしてみると、例えばその土地に抵当権が設定されていたり、前所有者の協力が得られない状況にある、正当な所有者ではない名義で登記されている登記情報を、正しい登記情報に訂正する際に取られる手続きの1つであるとのことだ。
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私道の一部の登記事項証明書。所有権移転の原因に「真正な登記名義の回復」とある。

 現在の登記は、平成13年に所有権の移転登記が行われ、東京の西日暮里にある株式会社の所有となっているのだが、では、この会社に所有権が移転される前に登記簿上で所有者となっていた「真正ではない」名義人は一体何者なのか。これ以前の登記情報は電子化される以前のものですでに閉鎖されているので、今度は同地番の閉鎖登記簿の写しを取得してみた。

 閉鎖登記簿は、古いものでは明治時代の所有権の情報が記載された、ほとんど古文書に近い代物だ。見てみると、最初の登記は明治39年のもので、大正時代に一度家督相続で所有権の移転が行われている他は、長く動きもなかった土地であるが、昭和43年に茨城県の建材会社が取得したのを皮切りに、昭和48年、新宿の「興和物産」という会社が取得している。この「興和物産」こそが、昭和49年の3月に旧大栄町から開発許可の確認を受けた会社だ。
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閉鎖登記簿の写し。順位番号六番にある「興和物産」が、開発許可を申請した事業者だ。

 だが、その開発許可を受けてわずか1年にも満たない昭和49年12月、この土地は東京国税局から差押えを受けている。この「興和物産」という会社は既に会社の登記も閉鎖されており現存しないので、おそらく資金がショートして差し押さえを食らったのだと思われるが、代わって新たな所有者として名を挙げているのが、順位番号九番に記載された西日暮里の株式会社だ(当初は神田鍛冶町に本社があったようだが移転している)。商号は今日までに何度か変更されているが、神田鍛冶町からの移転後は住所はそのまま現在の所有者名義のそれと同じである。分譲地の完成時期(造成完了は昭和55年)から考えても、実際に造成工事の大半を手掛けたのは当初開発許可を申請した興和物産ではなく、この西日暮里の会社とみてほぼ間違いないだろう。

 さてその後、昭和55年に、西日暮里の同一番地の会社(子会社?これもよくわからない)に所有権が移されたのち、平成二年に、芝公園の有限会社に所有権が移転されているが(順位番号11番)、不可解なことに、ここでも「真正な登記名義の回復」を原因とした所有権の移転が行われている。その後平成13年に、先述のように再度「真正な登記名義の回復」を原因として、元の西日暮里の株式会社に所有権が戻されて現在に至るのだが、一体これはどういうことなのか。「真正」の所有者は一体どちらなのか。両社の会社名をググってみても、一応両社とも法人番号はヒットするのだが、会社のホームページや情報などは一切出てこない。
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閉鎖登記簿の続き。「真正な登記名義の回復」が繰り返されている。

 住所を検索すると、西日暮里のその番地は民間のマンションであった。枝番が一つ違う隣の雑居ビルに不動産の仲介業者が入居していたので、試しにその不動産業者に電話で問い合わせて、この株式会社について何か知らないか尋ねてみたものの、本当に知らないのか応対が面倒なのかはわからないが、一切知らないとのことであった。この会社が現在も存続しているのかどうかは、この西日暮里のマンションを訪問してみないと分からないが(登記簿に部屋番号は記載されていない)、現状ではそれ以外の連絡手段はない。

 吉田教授の調査によれば、この分譲地の区画の所有者はこの西日暮里の業者の他に、千代田区や港区、品川区といった事業者や、個人名義で登記されているものもあるようなのだが、さすがにその全ての登記簿を取得していたら僕が破産してしまうので、これ以上登記簿を取得するわけにもいかないが、何にしてもこの分譲地は私道が共有持分とされていないので、仮にどこかの区画を取得したとしても、この点をクリアしないと現時点では家屋の建築は難しいかもしれない。

 吉田教授は、所有者名義に事業者が多いことを理由に、分譲販売が振るわなかったのだろうと推察しているが、果たしてそんな単純な理由であろうか。以前の記事でも指摘したが、この分譲地は、その立地やスペックから考えても、当時の宅地開発ブームにおいて見向きもされず、市場からこぼれ落ちてしまうようなものには見えないからである。それこそ前回紹介した、津富浦の北向き分譲地の方が、その居住性においては明らかに劣っているはずだ。


 さて、香取支局を後にしたのち、物は試しに、旧大栄町役場である成田市役所の大栄支所にも足を運んでみたが、当然のことながら現在の大栄支所には土地や道路を管轄する部署はなく、職員の方は臼作に放棄分譲地があることは知っていたが、詳細は一切知らないとのことであった。「擁壁が残ってて城跡みたいになってますね」などとまったく呑気なもので、仮にも開発許可を与えた山林が無残な姿を晒しているのだから、もうちょっと真剣な現状認識があってもいいのではないかと、さすがに疲れてきた僕は内心思わないでもなかったが、合併前の町職員のほとんどは既に退職し、今は成田市の職員が出向してきている以上、元々危機感の薄かった旧町職員から引き継がれることもなく今に至っているのだろう。

 その臼作の放棄分譲地は、この大栄支所から車で数分もかからない場所に位置しているので、最後に、もう一度この分譲地を再訪してみることにした。前回はダウンジャケットを着用して訪問してしまったので、棘だらけの藪漕ぎに躊躇してあまり奥まで足を踏み込まなかったが、今回は藪漕ぎも可能な装備で訪問したので、さらに奥まで足を踏み込んでみることにした。

 分譲地の入口には、前回の訪問時はどうしてこんな目立つものを見落として撮影しなかったのか、自分でも不思議になる何らかの共有設備があり、おそらく集中浄化槽であると思うが、一応撮影を済ませてきた。
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詳細は不明だが、集中浄化槽ではないかと思われる施設。なんでこんなものを前回見落としたのかも不明。

 前回の訪問からそれほど月日が経過したわけでもなく季節も変わっていないので、特に分譲地の現況に変化は見られず以前同様極限まで荒れ果てた状態のままだが、吉田教授のレポートを見ると、この分譲地には給水塔があるはずなので、前回到達できなかったその給水塔を探しに、猛烈な藪を漕ぎ分けて分譲地の奥まで入り込んでみた。
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相変わらず荒れ果てた放棄分譲地。
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棘のある蔓や枝木が行く手を遮る。

 こうして踏み込んで改めてわかったのは、僕は前回は、この分譲地の半分も踏破していなかったということだ。分譲地は、藪漕ぎで移動に時間がかかるからそう感じるだけかもしれないがかなりの広さで、前回行く手を阻んだ藪からまだ相当先まで広がっていた。棘や蔓が執拗に体に絡みつき、何度も転びかけ、ほとんど発狂寸前になったまさにその時、コンクリートの建造物が目に入ってきた。周囲は既に野太い樹木に覆われていて近寄ることもできないが、壁に「LPガス貯蔵庫」と書かれた看板が掲げられ、集中プロパンガスの供給所であることが判明した。ここは集中ガスをも備えた分譲地であったのだ。
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分譲地はかなりの広さがある。
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集中プロパンガスの供給施設を発見。

 そしてそのガスの供給施設の先、分譲地のはずれ、既に隣接する農地との境界辺りに、求めていた給水塔を発見した。何のことはない、こんな苦労して藪漕ぎなどせずとも、隣接する畑に回り込んで見れば一目瞭然でその姿を確認できたのだが、とにもかくにも給水塔をこの目で拝むことができた。給水塔を見つけたからと言って、この分譲地が放棄に至った原因は、結局ほとんど追い求めることが出来なかったことに変わりはなく、そもそもその給水塔ですら藪漕ぎせずとも確認は可能であったわけで、言ってしまえば今回の調査は徒労に終わったわけであるが、だからこそこうして続報として給水塔の存在を紹介できて感無量である。
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分譲地の最奥に残されていた給水塔。遺跡を発見したような達成感であったが賛同者はいない。
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地元住民の方は、わざわざ藪漕ぎなどせずともこの畑からいつもその給水塔を視認している。徒労乙。

 まあ、こんな汚らしい給水塔の残骸に、心動かされる読者の方が果たしてどれだけいるのかというのはまた別の問題だが、とりあえず、この分譲地は、集中井戸、集中プロパンガス、そしておそらく集中浄化槽と思われる施設を備え持った、当時としては高規格な分譲住宅地であったことの証明はできたわけだ。

 だが、この放棄分譲地、一応街路は建築基準法の定める道路として認定されてはいるものの、結局のところは私道を所有する事業者の所在を突き止めない限りは、どうにもならなそうだ。個人の所有者の区画を突き止めようとも筆数は膨大であり、私道の共有も行われていないのだから大変な出費を要するだろう。管理する者もおらず、役所も現時点ではこの放棄分譲地にまるで関心を払うこともない。いったいどうすればいいのだろうか。


 ああ、もう、どうせ役所も興味ないみたいだし、勝手に使っちゃっていいんじゃないの(暴言)。