March 18, 2007

覚書

■ダヴィンチ・コード(ロン・ハワード監督 2006年7月28日 立川 CINEMA TWO)
■ゆれる(西川美和監督 2006年8月4日 立川 CINEMA CITY)
■ゴジラ(本田猪四郎監督 2006年9月23日 ラピュタ阿佐ヶ谷)
■ヘンダーソン夫人の贈り物(スティーヴン・フリアーズ監督 2007年1月4日 渋谷Bunkamura)
■世界最速のインディアン(ロジャー・ドナルドソン監督 2007年2月4日 ワーナー・マイカル・シネマズ大宮)

September 18, 2006

ロシアン・ドールズ

セドリック・クラピッシュ監督の新作が出来上がると、必ず観る。
でもその作品の一つ一つを詳細、明確に覚えているものはない。
なのに毎回大満足、裏切られたことはない。
フランス映画の特徴にもいろいろあるけれど、私はエリック・ロメールにも通じるこの監督のエスプリがとても心地よい。
気の利いた料理屋で気の合う人と少しだけかしこまって(程よい微かな緊張感で)、なんでもない素朴なものを食べる感じ。
それがほんとに美味しいのだ。
映画って不思議なものだと思う。

「スパニッシュ・アパートメント」で大人の階段を昇り始めた25歳のグザヴィエも30歳。
様々な現実、それは自分自身の現実でもあるけれど、否応なく直視せざる終えなくなっている。
仕事も、パートナーも、現実が判ってくるからこそ、迷走する。
映画のタイトル、ロシアン・ドールとは次々小さな人形が出てくるマトリョーシカのことだ。
これが最後、と思って開けると、また出てくる。
今度こそ、と思ったら、また出てきた。
最後のひとつにたどり着くのはいったいいつのことなんだ。
こんな思いで日々生きている人は少なくないだろう。
私だってそのひとり。
グザヴィエの何倍も?小さな人形を机に並べてきた。
それを眺めてため息つくこともあれば、ひとつひとつの思い出に人生の機微を感じ妙な充実感を持ったりもする。
最後の人形にたどり着く前に、これで最後と自分で決める方法だってあるだろう。
残りを捨てちゃう潔さも必要だ。
グザヴィエはまだまだ旅を続けるのか、やっと目的地にたどり着いたのか、それはまたこの続編を観るまで判らない。
でも見つけていたとしても、彼はきっとまた新しいマトリョーシカを手に入れてるに違いない。
はああ〜〜〜。
困ったもんだと眉をしかめつつ、それが生きる喜びなんて、かろやかに思えてしまう作品だから、やっぱりセドリック・クラビッシュ監督が好き。
(監督:セドリック・クラビッシュ 2006年6月18日 シャンテ シネ)
July 17, 2006

あれこれ観たよ

うううーん、4ヶ月ぶりの更新。
映画を観ていなかったわけではなく、むしろ近頃では多く観てる方なのにイケマセン。
正直言って、「さぼっていた→その結果、書かなきゃいけないのが増えちゃって→どうしようか途方に暮れ→まとめて、短評」という姑息な手段を選ぶ。
かなり記憶のないとこもありますが……、一番最近観た「ロシアン・ドールズ」は次回においといて、一挙に6本。

■PROMISE(無極)
ひとことで言って、「とほほ」映画だった。
巨額な制作費をかけた超大作「シベリア超特急」だと思えばいいかもしれない。
この脚本を貰った時、チャン・ドンゴンも真田広之も正直困ったんじゃないかしら。
巨匠だって時々突っ走ってしまうものなのね、誰にも止められないし、ここまで凄いと可愛らしくもある。
一番印象に残っているシーンは猪だか牛の大群と一緒に(文字通り一緒、四つんばいになって)走るチャン・ドンゴンのCGシーン。一人だったら腹抱えて笑ったな、きっと。
いや、しかし、ここまで「とほほ」はある意味、偉大です。
(チェン・カイコー監督 2006年3月16日 サロンパス ルーブル丸の内)

■寝ずの番
艶話、大人のエンターティメント、放送禁止用語、下ネタの連続。
正直こんな私だって?頬を赤らめて下を向いてしまうシーンも数々あれど、でも、ちっともお下品だと不愉快になることはなく、笑って、しんみりできる小品に仕上がっている。
その最大の功労賞は役者陣だ。この選定を間違えたら、一巻の終わりになってしまっただろう。
堺正章はもちろんだけど、特に中井貴一と木村佳乃の演技が秀逸だった。こういったものを演じる時、その人の本当の品性のようなものが表れるんだなーと感じさせる。この出演を受けた男気、女気にも拍手を送る。
でも、日本でこの映画をおおっぴらに誉めるのは難しいだろうねー。私はまだまだ背伸びしつつ楽しむというレベルだけど、人生の機微など知り尽くしたこんな大人が日本にいることがちょっといい。
上映後のロビー。まだ20歳前の男の子が立っていた。しばらくするとトイレにでも行っていたのか、うら若き女の子が現れた。二人ともバツの悪そうなビミョーな空気で階段を昇って行った。どうやら付き合いだして間もないデートって感じでしょうか。単なる喜劇と思い選んだのかしら。今でも仲良くしてるといいな。
(マキノ雅彦監督 2006年4月29日 横浜シネマリン)

■憂国
三島由紀夫原作・監督・主演の短編映画。
1966年公開された全編28分、台詞無し、白黒、ワーグナーの音楽だけが流れる中、能舞台の様式で映画は進む。三島文学を語るほど知識があるわけではないが、でも彼が鬼才、奇才のナルちゃんであったことはこの短い作品からも十分伝わる。っていうか、その時代にこれは、やっぱりただモンじゃないってことでしょう。ただ40年たった現代では、彼の思い入れに失笑を洩らしてしまうのも現実なのは仕方ない話か。映像と文章では「時代」という壁はまた違うのかもしれないと思いつつ、彼がずっと生きていたら……と想いを馳せ映画館を去る。
昔の変な人って、面白い。
(三島由紀夫監督 2006年5月5日 キネカ大森)

■BROKEN FLOWERS(ブロークン フラワーズ)
ジム・ジャームッシュの映画にいつも漂うクールで滑稽、ちょっとせつない、でもさりげなく優しい感情。この時刻(とき)の空間に包まれると、とても「映画」を感じる。
人生の秋から冬に向かうビル・マーレイ扮するドン・ファンを初め、彼を取り囲む女達。みんなそれぞれにオイタもし、道草、回り道をしたり、そのうち分別も身につけたりして、今を生きている。先の事なんて想像もつかない日々は昔になり、過去をさかのぼる事で先の事を想像する歳になっている。それは哀しくもあり、でも滑稽な姿でもある。人はみな、老いるのだ。
けれど若くても老いていても、成長しててもしてなくても、人は生きている以上「今」が大事だと、いくつもの旅の終わりに見つけられればハッピーエンド。人生って面白いと思えるんだろう。
(ジム・ジャームッシュ監督 2006年5月26日 立川 CINEMA CITY)

■花よりもなほ
映画の冒頭、貧乏長屋のセットに黒澤明監督の「どん底」を思い出す。影響されてるのかな?是枝監督。黒澤和子さんが衣装デザインやってるし。作品の趣は全然違うけど。
どちらかと言うと「寅さん」的な人情話。肩の力抜いて生きてく強さみたいなものを描く。
好きな役者さんが多いと観ていて楽しい。香川照之、田畑智子、夏川結衣、寺島進、原田芳雄、石橋蓮司、浅野忠信。宮沢りえの可憐な感じも好きだけど、黙ってた方がいいかなー。そしてV6の岡田准一の瞳はこれから様々な顔を見せてくれそうで楽しみだ。
(是枝裕和監督 2006年6月4日 TOHOシネマズ府中)

■嫌われ松子の一生
極論かもしれないけれど、この映画は「ゲルマニウムの夜」と似ている。
平凡な日常とは隔絶されたところで、これでもかこれでもかと人生を送る。松子のそれはワイドショーの風味で味付けされ、エンターテイメントに徹してるからお洒落で色鮮やかで妙に明るかったりするけれど、私にはそう見えた。
たぶん監督は「ゲルマ」みたいなことまで考えたわけじゃないだろう。ただ何かに執りつかれた人に魅力を感じているという部分では同じのような気がする。
狂人を普通の人々に明るく楽しく、でも観終わったあと、どこかに重たい荷物を背負わせる。そんなふうに作られたこの映画は画期的なものかも。極彩色の日本っていうのもいいなーと思った一編でもある。
ただこの監督、次回作どうするんだろうなー、なんて心配とともに興味深く思う。
(中島哲也監督 2006年6月7日立川 CINEMA CITY)
March 05, 2006

深淵の向こう側〜ゲルマニウムの夜

深淵に覗き込まれた者は、深淵を覗き込む権利がある。
この映画のスーパーバイザーとして名を連ねる羽仁未央の言葉は意味深い。
それは神の領域に臨むこと。
「朧(ろう)が一番近い。」神父はそう語る。
朧の行動は神への冒涜に終始しているけれどその根底には絶望はなく、むしろ生への希求に満ちている。
枯渇、と言ってもよいだろう。
朧の犯す数々の罪は何人かの登場人物達の醜悪そのものの罪とは全く違う。
その違い。
それは実はとても危険なことであり、受け止める側(観客)に委ねるのは大きな冒険だ。
実際その表現方法は決して心地よいものではなく、私自身言葉を失う場面も多々あった。
しかし深淵の底の底とはこういったものなのかもしれない。
そこでは異常と正常がより鮮明に浮かび上がる。
平凡な日常では誰もが知らないふりをしているだけだ。
気が付かない人もたくさんいる。
だからこそ、その罪の裏側にある深淵、真実は危険なものなのだ。
どっちに転ぶか判らない。
私が一番印象に残ったシーン。
生きた豚を屠殺しその内臓を朧がひとつひとつ丁寧に並べていく。
生々しい命、血がそこにある。
この残虐な場面を冷静に目を背けず、むしろ神聖な気持ちで私は受け止めていた。
何故だろう?
こんな感触は初めてだった。
けれどこれがこの映画に対する私の感想の全てと言ってよい。
人間は罪を犯しているのだ、日々。
その深淵は罪ではあるけれど、生に向けられている。
異常なことではない。
しかし両手でその罪の温もりを受け止めている朧の隣で自慰にふける少年がいる。
朧はそんな深淵とも闘うという「一番近い」使命を持って生まれてしまったのだ。
それが不幸なことなのか幸せなことなのか、私には判らない。
しかし平凡な日常を生き等身大の深淵でじたばたするだけでは許されない、危険な深淵と背中合わせにもがく人々を思うと私は涙がとまらなかった。
その境界線を朧には外さず生きて欲しい。
彼は希望の光でもあるのだから……。
そしてこの映画はその光を力強く肯定しているんだと思う。
観終わった後気分が滅入るという映画評などもあったけれど、私は救われ明るい気持ちになった。
曇り空のような映像が続くけれど、そのどのシーンも朧がそうであるように、深淵の底でも忘れてはいない品格があったことが大きいのだろう。
東京国立博物館の敷地内の特設会場での上映の許可が降りたことは、この映画にふさわしい。
ゲルマニウムラジオから流れる音を聞いてみたいと思う人が、そこにたどり着き、自分の耳で確かめる。
それが深淵への正しい入口なんじゃないだろうか。
(監督:大森立嗣 2006年2月16日 一角座)

February 12, 2006

ブコウスキー:オールドパンク

チャールズ・ブコウスキー。
アメリカ文学界の異端児、詩人、作家。
酒・女・ギャンブルにあけくれ、「タフ」に生き、1994年78歳で白血病でこの世を去る。

名前も知らないこの詩人のドキュメンタリーフィルムを観る気になったのは何故だろう。
詩人につけられた“OLD PUNK”という称号に惹き付けられたからかもしれない。
私にとってPUNKとは、無垢なるものの叫びを意味する。
しかしそれは暴力と紙一重であり、とても危険なものでもある。
ブコウスキーもまた、とてつもなく危険な人だ。
もしこの詩人の言動だけをどこかで文字として読んでいたら、私は彼を“OLD PUNK”とは思えなかったに違いない。
余りにも正直すぎる彼の心の奥にある深遠な聖地に気がつくことはなかっただろう。
映像に映し出されるブコウスキーの表情を眺めるうちに、どこか嫌悪感漂う一人のろくでなしがつぶやく言葉が、彼をとりまく人間達の様々な言葉が、胸に響いてくる。
ブコウスキーが語る言葉はほんの短いフレーズも命の宿った詩であった。
孤独と疎外感を知るものにしか紡げない言葉も、聞くに堪えないあからさまな言葉も、どちらも彼の生きた言葉だったから人々が感動したことが、淡々と記録されていく「フィルム」が語っている。

詩人は言葉で表現する。
そして映画は、詩人の言葉を映像で表現する。
詩人の言葉の持つ力の強さと同時に、映像でしか表せないことの強さを感じた。

ジョン・ダラガン監督はブコウスキーファンのためだけでなく、彼の名しか耳にしたことのないような人々に観てもらいたかったと言っている。
どんな人間か、どんなアーティストであったのか知ってもらいたい、と。
世間に受け入れられない、理解されない枯渇、悲しみ、抵抗は全てのアウトサイダーに共通する表現の源泉だ。
負の方向に向かうしかなかった無垢なる心は痛々しくもあり、愛しくもある。
若き日醜男と言われた晩年のブコウスキーの瞳は、間違いなく“OLD PUNK”であった。
(監督:ジョン・ダラガン 2006年2月3日 吉祥寺バウスシアター)
January 14, 2006

愛より強い旅

最初の「モンド」、次の「ガッジョ・ディーロ」、そしてこの「愛より強い旅」。
トニー・ガトリフ監督の作品を観たのはこれで3本目だった。
でも全然気がつかなかった。
どれも特に観たかったわけではなく、観てもいい、という作品だったからかもしれない。
その観てもいい、という選択の中に何が隠れているのか。
ひとつには主演のロマン・デュリスの存在。
大好きなセドリック・クラビッシュ監督の映画の常連で、その監督の「青春シンドローム」でのデビュー以来、私にとって数少ない“観たい”俳優の一人だ。
甘く繊細なマスクの中にだらしなくも愛くるしい色気とともに、強い意志が感じられる。
単なる人気俳優には納まらない、画面に自分がいることでその映画が成り立つ雰囲気を持った人だ。
冒頭全裸でただ立っている全身のカットは、失うものは何もない=原題“EXILES”(はみ出し物、流浪、放浪者)を端的に表現していたけれど、それを違和感なく正視させられたのは彼の力なのではないかと思う。
しかし俳優だけでは「観てもいい」とはならない。
私にとって映画は監督のもの。
トニー・ガトリフ監督その人の感受性に何かしらの興味、共感する気持ちがなければ自主的に観ようとはしない。
監督自身に根ざすこの原題通りの移民者であったりジプシーであったりする物に共通する「異邦人」という感覚。
その空虚な拠り所のない感覚への拘り、そこで右往左往している人々への眼差しが私を惹き付ける。
どこにも居場所がない感覚は世界共通であって、特別なものではない。

どこにも属さないということは自由だろうか?
人は一人では生きていけないものである以上、誰もが居場所を求めずにはいられないはずだ。
それぞれの居場所を認め合う。
それが本当の自由なのだ。
その自由を得るために、自分のルーツを受け入れる旅に出た二人。
自分自身を受け入れる。
それが出来た時、主人公が「宗教は?」との問いかけに「音楽さ。」と答える自由な放浪者になれるんだろう。
ただこの映画で描かれるその受け入れ方法は私の肌感とは少し違う。
共感はするけれど、出口は違う。
それが「観たい」にはならない理由。
でもどんな理由であれ、こうやって何度も観ているという事実はけっこう大切なことのような気もする。
(監督:トニー・ガトリフ 2006年1月9日 渋谷シネ・アミューズ)

男達の大和 YAMATO

何の因果か、新年最初の映画鑑賞がこの映画になってしまった。
日本の大手映画会社が作る大作戦争映画ってどんなもんか、その興味だけで観たわけだけれど、やっぱり想像通りの作品であった。
死を覚悟している人間のドラマに胸をつまらせない人間はいないだろう。
そこに感動し、涙する観客を否定する気持ちは全くない。
私だってあるシーンには涙した。
館内はすすり泣く人々の嗚咽が響いていた。
しかしその涙の中にある感情の責任をこの映画はどう取るつもりなのか、私は考えずにはいられない。

自分の利益しか考えない者ばかりのこの日本に、国のため愛する人のため命をかけた人達がいた。
その犠牲の上に日本の繁栄、平和はある。
死んでいった人達に哀悼の意を捧げなければならない。
そう思い涙した人もいるだろう。
こんな悲しい思いをする戦争なんて絶対嫌だ。
そう思った人もいるだろう。
もし自分がその立場になったら潔く人々のために戦おう。
そう思った人もいたかもしれない。
他にも色んな思いで涙した人達。
その感動の数々に人としての優しい気持ちが溢れているのは認めるけれど、実はその涙の裏の加害者でもある一面はすっかり抜け落ちている。
悲惨な戦闘シーン、次々に米軍の攻撃によって死んでいく兵士達。
それは目を覆うものだ。
しかし日本の攻撃で米軍機はテレビゲームのように淡々と撃ち落されていく。
どんなに尊い感情であろうとも、戦争は殺し合い。
加害者たる意識を持ち映画館を後にした人がどれくらいいただろう。
確かにある一部の権力者によって始められた戦争かもしれない。
無力な弱い人々には何もできなかったろう。
でも黙認した責任はなかったのか。
しょうがなかった。
みんな必死だった。
暴走してしまった神風にっぽんを止めるための戦場に散った人々の死は無駄ではなかった。
この映画の製作に携わった人達の意図がどこにあるのかは判らないけれど、少なくとも戦争そのものだけを題材にする時、一方だけの痛みに焦点を置くこと、言い訳に終始することは表現者としてやってはならないのではないか。
そして戦争放棄という「いつでも抵抗せず死んでいく覚悟を持つ」理想のみ加害者となる痛みに抵抗できるという現実を、日本の繁栄とひきかえにしても毅然と受け入れられる気持ちになる戦争映画が必要だと思う。
(監督:佐藤純彌 2006年1月4日 チネチッタ川崎)
January 04, 2006

春夏秋冬そして春

韓国映画界の問題児、異端のカリスマ“キム・ギドク”が「余りに激情的に生きてきた反省」として撮ったこの1本の映画。
無邪気な子供が命への罪を作り、少年になり恋を知り執着に苦しみ、青年になり裏切られ怒り悶え、やがて無の境地に安らぎを求める。
ある男の一生を幼年期(春)、少年期(夏)、青年期(秋)、中年期(冬)と、人が誰しも背負う煩悩、業の様をそのタイトル通り描いていく。
巡る季節は輪廻転生を歌う。
繰り返される営みは残酷であり、救いでもある。

セットとは思えない位自然な佇まいを漂わす池の中に浮かんだ庵は、慶尚北道青松郡、周王山国立公園の山中にある注山池に半年間の交渉の末、建設することが許可され、伝統芸術の匠たちや美術家によって三ヶ月の期間をかけ完成したという。
このセットなしで映画は成立しなかった。
隔離された奥深い自然の中の彼岸への入口。
キム・ギドク監督の作品についてまわる暴力や残虐性を削ぎ落とした芯の部分に、こんなにも哀しくも美しい風景が宿っていた。
それは彼の真実でもあり、救い、渇望でもあるのだろう。
そして一歩間違えば安っぽい宗教話で終わってしまいそうなエピソードにしたことが、水に浮かぶ庵がただの幻想の産物ではないことを際立たせ、この監督の生真面目さを感じさせてくれる。

韓国映画と言えば韓流ブームと称される一群や大作ハリウッド調なもののイメージが大部分を占め、それに馴染めなかった人も多いのではないかと思う。
しかしこの作品には韓国の別の顔がある。
全米で大絶賛された東洋趣味とは違う、西洋の魂には判らないだろうもっと身近な感覚。
四季に彩られた深い静寂の中で育まれた、どこか懐かしい東洋の血なのかもしれない。
(キム・ギドク監督 2003年)

December 04, 2005

フェデリコ・フェリーニ〜道はどこまでも続く

観る映画を選ぶ時、好きな俳優、ストーリー、話題性など人によって基準は色々だろうけど、私の基準はまずは好きな監督だ。
その監督1号が確かフェデリコ・フェリーニだったと思う。
「そして船が行く」を初めて観て、好きとか、感動したと言うより、とにかくあの不思議な夢のような空間に強く魅かれて、名画座や特集上映、ビデオなどで色々観た。
しかし実は今でもフェリーニの宇宙は私には難解だし、その作品の一つ一つも断片的なイメージが残っている程度。
それでもこの監督のことを思うと何故かノスタルジックな気持ちになる。
それは彼の作品に欠かせないサーカスだったり大道芸人だったり、奇怪な人間や幻想の数々のせいだろう。
我家の玄関には懐かしい名画座「三鷹オスカー」閉館時に無料配布していたポスターのひとつであった「8 1/2」が今も飾られている。

そんなフェリーニ監督の初期の作品、今も名作と歌われるのが「道」だ。
ジェルソミーナの、その可憐さ、天使のような笑みは50年たった今も何ら変わらない。
道化の綱渡り芸人の「この世に役に立たないものなんてひとつもない。この石ころだって何かの役に立っている。」という言葉も色褪せず、心に響く。
私にとって、この二人の登場人物がこの映画の全てだった。
でも今回久しぶりに観た私の脳裏には、ラストシーンの海岸で嗚咽するザンパノの姿が強く刻み付けられ、離れないでいる。
暴力でしか自分を表現できず、残酷で、どうしようもない荒くれ男が初めて等身大、ありのままの自分に向き合った瞬間だ。
ザンパノによって壊れてしまったジェルソミーナだけれど、本当の意味で「壊された」のはザンパノだった。
愛を持って破壊されたザンパノ。
それは遅すぎたのかもしれないけれど、彼は一番救われるべき人間であったのだ。
ニーノ・ロータの哀切溢れる旋律が、また別の顔で私を覗き込む。
他にも結婚式の手伝いをする女、修道女など、気が付かなかったものが見えたきた。
次に観た時に私の主要人物になるのは誰だろう。

この初期の直線的作品には、フェリーニのその後の作品の断片がferi-ni
詰め込まれている。
彼はよくこう言っていたそうだ。
「映画は理論からは生まれない」
「私の映画は愛から生まれたものだ」
「私こそ映画だ」
彼は愛していた。
天使も、娼婦も、道化も、怪物も、神秘も、信仰も、退廃も……。
(「道」 監督:フェデリコ・フェリーニ 1954年公開)
September 22, 2005

埋もれ木

夏休み。
渋谷の雑踏の中の映画館。
そこだけぽつんと取り残されたかのように、そしてひっそり守られているかのように「埋もれ木」は上映されていた。
画面からあふれ出る夢のような映像に浸りながら、私は黒澤明監督の「夢」を思い出していた。
どちらにも共通する映像への深い想い、映画作家としての素直な欲求、そこに繰り広げられるカットのひとつひとつの日本の美と郷愁、おとぎ話に紛れ込んだようなずっと向こうにある不思議な感覚。
黒澤監督と小栗監督は似ていることに気が付いた。
こういった映画を作ることはこれまでの自分の評価を考えると、とても冒険のいることだと思う。
「夢」というものはそれを実現させようとした時、実はとても現実的な葛藤を生むものだ。
その夢が人々に向けられていればいるほど……。
黒澤監督は「夢は純粋で切実な人間の願望の結晶であり、人間は夢を見ている時、天才なのです。天才のように大胆で勇敢なのです。」と言っている。
それは何の才能を持たない人でも全く変わらない。
人は毎日眠りにつき、現実の時間では考えられない脈略もない自由な世界を夢で見る。
その誰でも持ちえる素敵な才能を大切にしよう。
幼児の頃は言葉も意味も持たず、映像から多くのものを感じていた。
そんなシンプルなメッセージが聴こえてくる。
人為的に意味づけて判りやすく作られたものではなく、何ものにも捉われない感覚に触れることは結果として、見えない真実や見ようとしている自分を甦らせる。
小栗監督はこの冒険について謙虚に「観客にうとまれることがあるかもしれないと思う。でもそれでもなお、一人でも多くの人にこうした作品に触れてほしいと、願うのです。」と語っている。
「自分の夢と仲良くしよう。」とも……。
この映画の内容について語ることは無意味だ。
触れて、感じて、言葉にならないその美しさに誘われてほしい。
そして、地中にいつも水が供給されていないと腐敗してしまい、いくつかの条件を満たすことでしか残らないタイトルの「埋もれ木」が示すように、「夢」はこの世にいつまでも残るのだ。
(監督:小栗康平 2005年8月5日 シネマライズ)