2005年10月09日

ナザレノ

第 二十七信
8月15日(終戦の日)のこと

1945年(昭和20年)  21歳
この日、私は大分の海軍航空基地におり、『総員、飛行場に集まれ』の命令が
  出たのは昼食の直後でした。駆け足で15分、皆ぞくぞくと集まってきました。
  その直前の正午には天皇陛下のお言葉で、戦争に負けたことを知ったばかりで、
  6月末に沖縄がアメリカ軍に占領され、爆撃機の発進が鹿屋基地からでは難しく
なり、大分へ移動をした(7月末)ばかりでした。当時は『転進』と言っていま
したが、実は『後退』でした。
   私の担当の一式陸上攻撃機は直掩機(爆撃機を応援する小型で敏捷な飛行機)
が少ないため爆撃への参加回数は減っており、「何事か」と囁き合っている内に
特攻の出撃と判り、飛行場に彗星艦上爆撃機が並んでいて、数えると当初は5機
と聞いていたのが11機も待機していました。発進まで暑い炎天下で2時間以上
は待ったと思います。
  
 終戦の詔勅が出た時、戦争が終れば海軍兵学校出身の職業軍人は沖縄で使役に、
学業半ばで軍隊に身を投じた予備学生出身の我々士官は即日帰郷との噂が出て、
兵学校出身者は真っ青。普段からアッと言う間に昇進するのを快く思わず、数々と
苛められていた我々は「ザマー見ろ」と胸の中での鬱憤を晴らしたものです。

   やがて搭乗員を乗せた車が砂埃をあげて来ました。首に巻いた白いマフラー
を良く見ると、慰問袋のお守りか、マスコット人形が幾つもブラ下がっていて、
  特攻隊員の引き締まった顔と反対に人形は笑っていました。ここで、予想外の
  ことが起こり眼を見張りました。第五航空艦隊(五航艦)の司令長官の宇垣纏
中将閣下が来られたのです。始めは特攻隊員を見送るのか、と思ったのですが
違いました。部下が引き止めていましたが、どうしても一緒に行くのだと言う
ことが判りました。自ら襟章を剥ぎ取っての搭乗で部下の九州航空隊の参謀長
が最後まで思い留まる様に懇願していましたが、それも振り切って特攻隊員と
仮設の机で清酒の杯を干して、一番機に乗り込まれました。私はスグ前で見て
おり、淡々とした覚悟の出発でした。

   小柄で太っていて、重そうな身体を通信員の座席に坐るのですから大変。
通信員は飽くまでも自席を固執して譲らず、結局2人乗りに3人が乗って
滑走路に向かいました。800キロの爆弾を抱え、その上に3人ですから離陸は
大変です。我々は「帽振れ」(海軍では帽子を振って見送る)で見送りました。
  ヨタヨタしながらもスピードをあげ、滑走路の先端までいって、ヤット離陸。
 ホットした見送りの全員が拍手をしました。離陸が出来なかったら、全員が
 自爆でしたからです。合計11機で23人が飛び立ちました。普通は3機ごとに
 上空で編隊を組んで飛んで行くのですが、この時は11機ッ全部が揃って飛行場
 の上を大旋回して南の空に向かいました。名残が惜しかったのかも知れません。

  見送る我々は『南無八幡大菩薩』とか『非理法権天』(楠正成の信条で、人間は
 天道に従って生きるものの意)などと書いた幟を力一杯振って成果を応援しました。
終戦の詔勅後と言うことで特攻扱いにされず、二階級特進とはなりませんでした。
逆にアメリカから「終戦後に爆撃をしたのはルール違反だ」と、クレームがきたと
聞きました。3機が途中(帰途も入れて)不時着でした。

1978年8月  50歳
 仕事の関係で大分へ行き、「30年ぶりに飛行場を見に行きたい」と言ったら、
戦争中の飛行場は既になく、市内から遠い国東半島に新しい飛行場が出来た、
とのこと。「当時の飛行場は『長島植物園』になっていて,影も形もない」と。
遠くから見ると大分川と堤防が見え、モット近くに行ってみたい気持ちに
なりましたが止めました。
ここでの思い出は良くありません。飛行中の電波兵器(電探)のテストのため、
私に代わって乗った飛行機が、離陸直後にこの土手に脚を引っ掛けて墜落し、
機長席に坐っていた戦友が大腿骨を骨折、片足が短くなる大怪我をしたこと
を思い出し「今はどうしているのかな?」と。

1974年 51歳
  昭和38年(1963年)から、日本武道館で政府主催の『全国戦没者追悼式』
 が行なわれています。「先の大戦で命を落とした約300万人の冥福を祈り、平和
 への誓いを新たにする」のが目的です。
  遺族である母が(長男の兄が学徒出陣で出征し戦死)、この年に参列しました。
 地元の遺族会から案内がきて、思い切って腰を上げたのですが、帰ってくるなり
 「疲れた。もう二度と行かない」と。
  その理由を聞いたら、遺族会には順番があるらしくヤットその番になったのは
75歳の時でした。式は正午前の両陛下のご臨席から始まったが、地元(大田区)
からのバスの出発は8時半。集合時間に遅れることを見込んで早めの時間にしたが
それでも遅れる人がいて待つ。バスは混んだ道をユックリと走るので、さらに時間
 がかかる。その上WCなどの要求が出て(老人だから無理もないが)出発して
から2時間後にヤット着く。

 昼のお弁当(支給)は、式が終ってからと言われ、お腹が空いてきて困った。
結局食べたのは2時半だったとか。また、バスから降りて石コロの多い長い坂道を
暑い夏の日照りの中を歩かされ、会場に入ってもWCは遠く、混んでいて順番待ち。
式の始まる前にスッカリ草臥れてしまった。式が終ってからの帰りは、また長い
坂道を歩かされたが、朝方は、まだ人も少ないのでバスが正面前を通った時に
降ろしてほしかった。

大臣などの政府高官は開会の30分ほど前に入場されたが、私達は待つばかり。
帰りもまた長い道を歩かされた。『もう、二度と行きたくない』と言い。結局、
死ぬまで行きませんでした。これを聞いて「無理もないな」と痛感した次第です。

 今年も行なわれますが、関係者はこんなことを知っているのでしょうか? 
高齢になり、外出も不自由になられるご遺族の身になって、もう一度、何とか
考えてほしいものです。

 現在住んでいる松戸市役所で聞いたところ、遺族は全国で約100万人とか。
千葉県では約1万人。松戸市では600人が遺族会に登録しており、毎年6人の
割り当てで、追悼式に参列をしているとか。(松戸市はJRと地下鉄の利用)
これでは簡単に計算しても100年待たないとダメみたいなので遺族会に入るのを
止め、年に1回は靖国神社へお参りをしています。



Posted by yyy211kkk2111 at 10:03│Comments(0)