2005年10月10日

ナザレノ

第 二十五信
    あゆみの箱

 「ボランティア」も「チャリティ」も、その言葉さえ使われな
かった時代に、国の福祉政策を促進させるほどに影響を与えた
活動を始めたのは芸能人たちでした。
 『小児麻痺の少女を助けよう』との伴淳さんからの募金活動
の話に多くの芸能人が賛成し、その団体を「あゆみの箱」と
名づけて発足してから今年で40年になります。
例の四角い木の箱が料金支払のカウンターの上に置いて
あるのを皆さんも既にご存知と思います。その数は2万箱に
なるそうです。
今もこの募金箱の支援によって、障害者への援助の橋渡しを
しているこの団体の事務局長の野田君も同じ障害者であります
が著書を出版したりして常人と変らないほど活躍をしています。
この姿勢が身障者の励みになっているのは勿論で、私は何時も
感心しています。
現在の会長である森繁久弥さんが申されるのは「最初の頃、
私たちが恥も外聞もなく街頭に立ち、ただひたすら『小児マヒ
の子供たちにお力をお貸し下さい』と言った。その素朴な願いは
今も「あゆみの箱」の原点として生きています。
この運動は芸能人たちの運動ではありません。今や全国の
皆様の暖かい支えによって成り立っています。皆様方の愛の
善意を、身障者の未来に明るく力強く託すことが、私たちの
使命だと思っています。どうか今後とも、ご愛情を賜ります
ようお願い申し上げます」と。
 集まったお金は障害児(者)の為の施設(授産・作業所含)に
対して物品(備品・電気器具・カラーテレビ・ビデオ・ワ−プロ
等)を寄付して喜ばれております。
 最近は経済情勢の鈍化等により、お金の集まりは一時ほどでは
ありませんがそれでも善意の寄付を戴いており感謝しています。

 私の勤務先の会社も陰ながらお手伝いをしていた時期があり
ました。総務から広報課へと引き続いて約10年、私が窓口と
なってお世話しました。

1970年7月26日  46歳
 「あゆみの箱」が初の海外公演をした年です。『公演風景をビデオ
で録画して欲しい』と申してきたので、担当の私が同行しました
が、急な話だったので開発中の新機種が間に合わずヤキモキして
社内を駆けずりましたが、高度成長の時代だったので皆忙しく、
協力してくれるセクションがなくて困っていると「通関検査など
で相当日数がかかるから早く通関して送るにはメインランド
(アメリカ本土)から送った方が、早く確実で運賃も安くなる」
との良い助言を貰い、早速に実行しました。
確かにカメラ本体からケーブルに至るまで総ての機材の通関
検査を受けると、全部が終るまでには相当な日数がかかる所を、
同じ国内であれば移動にはそんな面倒なことは要らないから
総てが早くなると。聞けば成る程でした。
 7月末に、羽田から飛行機に乗りました。手荷物に機材はなく
付属のケーブルだけでしたが、大量のためか、そんな機材にも
通関検査がありました。
 
 ホノルル空港着。20数人の芸能人と同行のファンが約200人
の貸切りの飛行機です。早朝に到着し、私は早速に現地の関係
会社(ソニーハワイ)との打ち合わせをして会場(インターナ
ショナル・センター)の下見に行きましたら、まだ昨夜のまま
の散らかし放題の有様でした。
翌日は公演日です( 一日だけ)。午後6時から開始なので、
少し早めに行って見ると,未だ昨日と同じ状態で、「これでは開演
時間に間に合わなくなる」と思い一人で椅子などの整理に取り
掛かりましたら大柄のマネージャーらしき人が来て怒り始めた。
何を言っているのかサッパリ判らなかったが、現地の会社の人が
「賀田さん止めて下さい。ユニオンがあって、椅子・ステージと
担当の場所が決まっています。余計なことをすると裁判所に訴え
られる恐れがありますから、スグに止めて下さい」と。聞いては
いましたが現実になっては、とビックリ。その内に大勢の人が
きて、アッと言う間にキレイに会場の設営を済ませました。
「裁判で訴える」と言われた時は本当に驚きました。
当日の出演者は伴淳さんを始め、森繁さんご夫妻・由紀さおり・
千昌夫・朝丘雪時路・雷門六助・村田英雄・仲宗根美樹さんなど
のチャリティーショーでしたが、盛大に無事終わり、そして
関係者の打ち上げパーティー。初の海外公演は大成功でした。
この公演はホノルル到着翌日の7月26日でしたが録画の
再生もバッチリ。ただ予定外だったのは中央通路にカメラを
置いてのカメラマンの仕事が全部私になり約2時間、立ち
放しでとても疲れましたがお客さんには大変喜んで戴き
ました。当時は1インチ幅のテープでした。

同年7月29日
  『靴だけは履き慣れたのを持って行くと良い』と言われ
道具類は全部リースでのゴルフをしました。日本から同行
したお客さんたちは芸能人たちとオプションツアーに行き
留守番役だけホテルに残りました。ホテルでパンフレット
を見ていると「マカハゴルフ場という有名なところでプレー
することが出来る」とあり、留守番の者を誘って、そこに
行くことにしました。近くの山の溶岩痕が太陽光線で刻々
と色が変る雄大さと珍しさもあり、お客も少なく海外での
初プレーをゆっくりと楽しみました。
名残惜しく1ラウンドで終了。途中のパイナップル畑を通った
時は車内まで匂い、「ハワイへ来た」との感じを一層強く持ち
ました。当時の為替レートは1ドルが356円でした。

1975年6月16日
  5年後に2回目のハワイ行きで、今度は会社の仕事で約2週間
の滞在。この予定を小学校時代の友人と銀座で飲んだ折に言った
ところ、程なくして「俺も母親たちと行くことにした」と。それ
では「ゴルフマッチ」だと意気投合しました。プレーする所は
同じ「マカハゴルフ場」です。技量は伯仲。15番ホールでのこと。
私が左の林に打ち込んでしまい、ボールはいくら捜したが見付か
らず2ペナで負け。残念でなりませんでした。

1975年6月18日
 それから2日後に再び「マカハ」でプレーをしました。(ホテル
からゴルフ場への往復はバスが使えて、プレー代共で約45ドル)
もう2回目でしたので安くしてくれた。前回と同じ15番ホールへ
来た時、「もしも」と思ってロストボールを探したが見付からなか
ったが、OBではなくてセーフだというのが判った。
 帰国後、早速に友人に電話をして銀座で会い、この旨を伝え、
「賭金(クオーター)を返してくれ」といった。1/4ドルだから
約100円。これを聞いた友人は、仕方がないとばかり返してくれ
ました。この親しい友は亡くなっている。冥福を祈るのみです。

1979年7月
 本土での仕事が終っての帰途、ハワイに立ち寄りまた「マカハ」
でゴルフプレーをしました。この時、同行者にOBボールの話を
して、賭け金を返して貰った話をしたら、「蛇年ですか?執念深い
ですね」と言われました。

毎年5月(3月末決算のため)に日比谷公会堂などで「あゆみ
の箱」の「開箱式」があり身障者と協力した芸能人が集まります。
それに招待された身障者とファンと協賛会社が集まって、盛大な
大会が開かれます。その中には、もう10年以上も車椅子で付添い
の方と一緒に見えられる方もおられ、その風景は心を打つものが
あります。




Posted by yyy211kkk2111 at 13:00│Comments(0)