論点が3つあって、1つ1つはどでもいーよーなことなんだが、微妙に絡んでるのでまとめてざっと流す。

1.MADPVをノーマルPVの改悪である、という言説は見かけないというか鍋の蓋を取らないまま進行している観があるけれども、ならば逆にMADPVがいかにノーマルPVより優れているか、という観点ならあるかというと、そちらもあまり聞かないなと。"やよぴったん"から派生した流れの中にそんなMADPVすげえ、という文脈はなかったように思う。えこPについてもそのころは要するに意味がわからない、という存在だった。未来派氏は音MADの流れの上にいたわけで、MADPVとは別の流れに乗っていたと考えれば納得がいく。ならばエレクトロワールドか。恐らくはニコ動にとって、あれは曲が肉体を持つという現象だった。あの曲がアイマスを必要としていたと。そう考えると、演出系のMADというか回転寿司がどこから来たかというと、選曲で優位に立てない場所からの飛び道具であったのだという気がする。よって、その飛び道具を凄いと思った人たちに、それこそアイマスがニコマスになった瞬間であり文化の誕生だった、なぜなら…という続きを語ってもらいたい気がする。私の見解では、それが飛び道具である以上、回っているのはクリーチャーでも良かったし、本質はウマウマやゲッダンと変わらないと思う。ただ、アイマスでそれをやったということだ。その場合、MADPVの評価軸はアイドルが可愛いという事である必要はなく、半漁人がウサギと称して跳梁跋扈しててもいっこうに構わないはずだ。つまり、あの頃そこには辻褄を超えた奇跡的な爆発が起きていたのであり、それを語れる人は未だにいないのではないか。


2.シンクロと語るときには部分に分けて語った方がわかりやすいのだけど、それでは都合の悪い時もある。

 A.テンポのシンクロ(感覚と労力レベルのシンクロ)
 B.カットのシンクロ(違和感の排除と技術レベルのシンクロ)
 C.シーンのシンクロ(発想と構成レベルのシンクロ)

 こういう風に分けた時、動画コメントではBのレベルでシンクロ云々することはあまりない。気付いた人がいたとしても、語彙が伴わない気がする。それを明示できるのは直接作者とコミュニケート取れる状況か、ブロガーが記事に書くレベルの手間が必要になると思われる。
 Cのレベルになると、もはやシンクロと呼ぶ必要がなくて、演出と言った方が手っ取り早いし、でなければ単にすげー!かっこいー!という表現になる。りんごPの動画でシンクロ云々という話は聞いたことがない。
 では、凄い演出・技術は全部シンクロだと私が言いたいのかというとさにあらず。私が言いたいのは、この演出はシンクロだと言っても、逆にこの演出はシンクロを殺していると言っても、もはや話の通じる領域ではないという愚痴であるw。しかしながら、おっぺけPの「ちゅない!」やyotaPの「セキレイ」をC抜きで語れるだろうか。
 そして、話を戻すと、動画コメントでシンクロ云々といちいち言われるのは、つまるところAのレベルに過ぎない。速度が異なるためにカットの頭は合っててもだんだんズレが大きくなるという現象か、テンポは合っていても拍の頭出しがずれているかのどちらかである。
 あえていうなら、Aのレベルでシンクロが合ってなくとも、B、Cのレベルではシンクロしている動画というものも、割とたくさんある。それはバレエとミュージカルと映画の差と言ってもよいかも知れない。


3.この動画を見ていると、前半のダンスと後半の演出が、MADPVの蛹と蝶を示しているように見えた。点から線へ、線から波へ。シンクロのレベルアップする様を動画にしたようだ。

 リンP。

 おっぺけPのこの↓実験作は、エフェクトを一切使っていないこともあり、大きな緩急を作れない中で、極度に骨太の質感を提示している。前半の息が詰まりそうなほどの切迫感もまたトリックであり恐らくは後半の、徐々に目の焦点が合ってくるような印象を演出するためのものだ。

・律子 ラブリーベイベー

 リンPが真という、アイドルとしても少女としても宙吊り状態にあるキャラクターを振り子のように躍らせて為そうとしたことを、必要最小限の作法によって、この動画も演出しようとしたように見える。振り子としては振り切れるほどの自由度がないがゆえに、その重く尖っている様は対照的でさえあるが。

 これの逆で、カメラからアイドルが解放されたらどう見えるのだろうか、というのでパッと思いついたのが固定カメラを利用したこれ。

 ライトP。

 固定カメラと言えば たろうPもいいよなあと思いつつ、最終的にこれだと思ったのは、

 whoP。今、この動画を見て思ったのは、ここには確かに天才がいる。が、彼もまた、美希という物語に縛られていて、その制約の中でこの動画が作られたんだなあと。
LFUHSC