Augenblicke

主にニコニコ動画のアイドルマスターMADについてのよしなしごと。

2012年05月

まあ細かいことはおいといて

 今この動画が見れて嬉しかったということでお願いします。


(非アイマス)某Pが「なげーよばかwww」と言ってたので

 少し雑談を。蓋然性と論理的整合性について。

 何かを論じるにあたって、この2つは重要というか、受け手としては自分はかなり気になります。書き手としてはあまり気にならない。書き手の側に立つと、むしろ勢いでババババッと書けてしまう人がうらやましいと思うことが多いですね。なんでかっていうと、そういう勢いの中の嘘や間違いに塗れて初めて浮き上がってくる本質というものもあるからです。それは、プロになったら自由にやりたいことができなくなるので、金がなくても技術が下手でもアマチュアの表現の方が見るべきものがある、ということと似ています。

 が、しかしここではあくまでも受け手として。

 蓋然性ってのはもっともらしさ・確からしさのこと。英語で言うとprobabilityで数学で言えば確率ですが、日本語として使われるときは、もっとアバウトだと思います。というか、確率の話をすると可能性とごっちゃになるので、もっと違うニュアンスで使われると思う。

 つまり、筋が通っていてもっともらしい、というのは、ゆえに正解であるとは限らないわけです。

 春香さんは可愛いからアイドルになれるよ、と言えばもっともらしい。しかし確率というか可能性で言えば、高くはないですね。だったら蓋然性も低いはずですが、わざわざ蓋然性という言葉を使うときには、数学的な要素を度外視して様々な要素を並べて語ることが多いので、いろんな言い方が出来るわけです。アイドルになれる可能性は低いという一方で、蓋然性はある、とは言えるということ。可能性はある、という時には、小さくても可能性はあるからゼロじゃないと、という意味で、ニュアンスが違ってきます。蓋然性の場合、可愛い子がアイドルになるのは筋が通っている、というニュアンスになります。

 で、小さな子供などを相手にする時などにですが、可愛いだけではどうしてアイドルになれないの? と言われると、なかなか納得行く説明が難しくなります。

 そういう時に、いろいろな理由を並べていくのが蓋然性というもので、10000人の内、1人しかなれないんだよ、というと可能性というものでしょう。となると、説得力があるのは後者の方であって蓋然性を語るのは割と大変な。

 ゆえに、蓋然性ということを語っていく時には、確からしさの話であるにも関わらず、どこまで語れば100%確実になるのかというと、そういうことは実はない、というのが重要で。あくまでもそういうアプローチがあるに過ぎない。

 では無意味かというと、そうでもない。なぜなら、「アイドルになるのにいちばん大事なのはコネだよ」と誰かが言った時に、「え?」と思ったりするからです。コネは重要ですから、実際に調査したらそういう現実も露わになるかもしれないですけれど、何か大切なものが抜け落ちてはいないだろうか。

 蓋然性を語るというのはそういう意味があります。誰かがこう断言したからそれが正しいというのではなくて、それはいろんな側面から見て総合的に正しいだろうか? という視点を持ち込むこと。「蓋然性」はそういう時に使う言葉です。


 次に論理的整合性について。総合的に正しいか、という意味では同じかもしれないけれど、違うアプローチです。

 論理を説明する例として「猫が犬なら豚は鳥である」とかいうのがあります。これは、ありえない前提を認めるなら、ありえない結論も正しいということ。正しい結論は、正しい前提からしか生まれないのですね。

 ゆえに蓋然性ということを考える時に、どの程度間違った前提を許容するのかという視点があります。

 論理的整合性とは、つまりそういうことです。

 最初から、これはマジメな話じゃなりませんよ、という前置きで始まる話であれば、途中から話がどこへ行こうとかまわないということ。

 しかし、これはマジメな話ですよ、という前提ならば、少しでもおかしいところがあれば、全体が崩壊するので、価値がなくなるということです。

 論理的整合性というのは、論の全体の中で、あちこち破綻しているから全体として意味のない話であると判断したり、あちこちは筋が通っているので、ここの破綻がなければ意味のある話になるのに残念だな、という見方をするものです。

 数学における証明ならともかく、破綻のない論理的に完全な主張というのは、現実問題としてはほとんどありません。なぜならこの現実世界は検証しようのない要素で溢れかえっているからです。

 しかしながら、こっちのデータが正しいと仮定して、そっちの仮説が正しいとするならば、この人の主張は正しいだろう、と判断することはできるわけです。

 論理的整合性がない主張の場合、扱われるデータや仮説が正しくたって、結局何を言ってるのかわからないよ、で終わってしまいます。それが書き手の暇潰しであれば、それでもかまわないのですけれど。

 そういう意味では論理的整合性という概念も蓋然性の1部ではありますが、わざわざ蓋然性という言葉を使うときには、論理的にはある程度整っている場合であって、多くの場合、論理的整合性の検証は、それ自体で機能します。

 蓋然性という言葉が必要になるのは、余程の場合であって、ニコマス界隈で言えばcha73氏の目も眩むような長文に対してVinegar56%氏がそれを上回るような長文で突っ込みをいれるようなことでもない限り、ないでしょう。いや、最近見かけたんですけどね。