新海誠監督の「君の名は」を見てきました。タイトルからして1952年のラジオドラマに引っ掛けてあるだけあって、ボーイ・ミーツ・ガールの恋愛ドラマですが。

 私が見に行ったのは、主にもの凄く現実逃避したい気分だったのと、予告編を見たときに、彗星がどこに、いつ落ちるのか気になったからです。と言っても予告編では彗星は落ちていませんが、予告の断片的な内容を考えても、そして新海誠であることを考えても、現在過去未来のどこかで落ちるとしか思えない。では、「いつ」落ちるのか、そしてどこに。

 まだネタバレ全開していいような時期でもないので実際に彗星がどうなったかは映画を見てもらうとして、私個人の印象としては、そちらではないもう1つの理由、現実逃避したい気分にズバリ突き刺さった、ということになります。

 物語と直接関係ない序盤のシーンとして、主人公が泣きながら目を覚ましたのに、どんな夢を見たのか覚えていない、というのがあります。

 それを見た私は、これは「人生の後悔」を起点とした物語世界なんだなと思いました。実際には既に述べたようにSF要素のある恋愛ドラマです。そもそも高校生の主人公達にどんな後悔があるのか。

 「人生の後悔」に対してタイムスリップしてやり直す、というテーマのSFは多数あります。それ自体ドラマチックで面白いものが多い。ただ、子供の頃には、自分自身にはそういう後悔はないわけで、ドラマとしては面白いけれど、実感として、わかるわけではない。

 同様に、凄く大切な記憶だったはずなのに、気が付くと覚えていない、というシチュエーションの登場するフィクションも多数あります。自分が子供の時であれば、それは単に、残酷な設定だなあと、でも、物語を面白くするためには必要な仕掛けなんだろうなあ、という納得をしていました。

 今の自分は子供ではありません、それで、「君の名は」を見て序盤でいきなり納得したわけです。

 ああ、泣きながら目を覚ましたのに、何も覚えていないって、あるよね、と。

 子供の頃にはSFとして、物語上の演出として理解したけれども、大人になってみれば、それはただの現実だった。

 メタファーなんだな、と。

 かけがえのないものを失って、失ったことの悲しみさえ忘れて、何を忘れたのかさえ思い出せない、つまらない大人になる。

 それはSFであって、SFじゃないんだなと。

 繰り返しますが、「君の名は」は、そんなことを少しも考えずに最後までSF設定の恋愛物語として楽しめる作りになっています。

 ただ、大人になってみて初めてわかる、そういう表現、逆に言えば、(この場合、失った悲しみ、後悔)そういうものを知らない人にはわからない表現というものがあって、わからないままスルーしてることも、多々あるんだろうなあと。

 シン・ゴジラの時に他人の感想でもそう思ったし、劇マスの感想でも思った。分からない人には、分からない、そういう構造として作られている物語もまた、存在する。

 こういうことを考える度に思い出すのが、ハリー・ポッターの「アズカバンの囚人」に登場するディメンターという魔物のことなんです。

 訳名が吸魂鬼というくらいで、恐ろしい存在なんですが、あれは、相手の過去の恐怖の思い出を呼び覚ますことで精神攻撃をするので、赤子のときにヴォルデモートに襲われたという遠い記憶を持つハリーは強烈なショックを受けるのだけども、そんな恐ろしい記憶を持っていない他の子供には、ハリーの恐怖がわからない。

 悲しい記憶を持つ者にだけ通じる攻撃。作者のJ・K・ローリングは、何を考えてそういう設定を作ったのだろう。

 多分、彼女も「失った悲しみ」を知る大人であり、それが"わからない"子供であっても楽しめる冒険活劇としてハリポタを書いたんだなあと。

 「君の名は」を見た映画館はアベックでいっぱいでありまして。彼らは私がここに述べたような気分は恐らく理解する日は来ないのでしょう。

 それともいずれ歳を取った未来のいつか、泣きながら目を覚ましたのに、何故泣いているのか覚えていない、という朝を迎える日が来るでしょうか?