特殊部落〔穢多族〕の河内国

18 décembre 2012

POP TATARI

河内国丹北郡更地村

南方は上原氏の著書にも書かれてあるように「水はけの悪い湿地地帯」だったようで、史料には「更地村内河田」と記入してある、「河州丹北之内更地村家数人万改帳」(寛永21年 1644年)によると、

家数48軒あり、その内訳として、「拾壱軒 御役家、 壱軒 寺 、三拾六軒 穢多、」となっていて、明らかに集団で差別されていたという事が分かるらしい。

また、「河州丹北之内更地村河原宗旨改帳」という寺院の宗門改帳(万治3年 1660年)があるのだがこれは、本村とは別帳となっていたらしい。

更地






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11 décembre 2012

POP TATARI

八尾座


河内国の渋川郡植松村ノ内八尾座(東八尾座)

ここが穢多村であろう。。


大阪の部落にて、北里氏の論文をコピペしてみた。


明治期における特殊部落の町村分合について考察しようとすれば、どうしても近世における「えた村」がどのような形で存在したか知る必要がある。ところが、大阪周辺の「えた村」は多くが枝郷であった。そこで、枝郷としての「えた村」について早くから研究している畑中敏之氏の説をみてみよう。畑中氏は『部落史用語辞典』(柏書房、一九八五年)の「枝郷」の項で「中世末以来、新規に集落(耕地)を開発したり、村高を分けて新規に村を設けた場合に、新しい村(集落)を枝郷・枝村と呼び、もとの村を親郷・本郷・本村などと称した。」「近世における『かわた』(『穢多』)村(集落)は『一村立』、すなわち領主に『直支配』されている例もあるが、そのほとんどは、『本村』(『百姓』村)に従属している『枝村』の存在であった。例えば『枝村』からは庄屋はでないが、近世村落が行政単位・自治単位としてもつ意味から考えると、このことはきわめて重要であった。したがって、単なる地理的および集落の形成過程を理由とするところの『枝郷』『枝村』としてのみ『かわた』村の存在を捉えることはできないだろう。『百姓』村の『本村』に従属する政治的『枝村』としての存在に注目しなければならない」と述べ、氏のいわゆる「本村付」体制論を展開している。

 この畑中氏が早くに「本村付」体制論を主張した論文に「近世村落社会と『かわた村』−大坂周辺における『本村付』体制の分析を中心に−」(脇田修編著『近世大坂地域の史的分析』所収、御茶の水書房、一九八〇年)があるが、そこでは次のように述べている。「大坂周辺の『かわた』は、各々に『村』を形成していた。すなわち、一定の村民と村域をもつ『村』として存在していたのである。しかし、その多くの場合は、『百姓村』である『本村』に政治的に従属するところの『枝村』・『枝郷』としての『村』なのであった」(同書、一二〇頁)と。もっとも、この考えは後に若干修正されている。すなわち、畑中氏は『近世村落社会の身分構造』(部落問題研究所、一九九〇年)において、更池村の枝郷であった「えた村」(南方)を取り上げ、南方は生活共同体レベルの「村」として存在しても、「村領」がなく、本郷である更池村に南方は政治的に従属しているという。畑中氏は、一方で「村域」を持つといい、他方で「村領」を持たないといいながら、枝郷である「えた村」は本郷に政治的に従属するとする。

 かねてより習俗的差別論を主張する峯岸賢太郎氏は、畑中氏の「本村付」体制論を認めず、畑中氏の説をきびしく批判している。その中でも特に畑中氏の更池村を例とする「本村付」体制論の説明に対し、峯岸氏は「近世の村が村域・村領を持っているなどということは、昔からの常識である。『更池村領内穢多』という呼称は、本村である更池村の村域内に、枝村(枝村という呼称が使われていようがいまいが)としての『穢多』村が存在していることを示しているに過ぎないのであって、それ以上でもそれ以下でもない。なお、本村である更池村の村域と記したが、更池村は一行政村であるから(これについては今さら論証に及ぶまでもないこと)、枝村をも含んだ更池村の村域でもあるのである。畑中氏は行政村を無視している」(峯岸「虚妄の部落史−畑中敏之氏の議論への批判(一) 」〈『人文学報』第二八七号〉一七九頁)という。

 この両人の論争によって明らかなことは、近世の村の「村域」・「村領」が改めて問われているのである。中でも、枝郷であった「えた村」の、枝郷はどのような「村」であったかが問題なのである。



 畑中氏の「本村付」体制論を支持し、畑中氏の説によりながら近代の部落問題を解明しようとする鈴木良氏は、『近代日本部落問題研究序説』(兵庫部落問題研究所、一九八五年)において、「近世以来の本村支配の根底には、本村が枝郷としての旧『えた』村の土地を所有しているということがあり、それが本村の土地所有権として確認されることになると、ただちに問題となったのは、『土地ナクシテ町村ノ名義ノミ存スル』『無地村』としての部落をどうするかという問題であった」(同書、一八頁)という。また、「人口の多寡をとわず、近世に枝郷であった部落は、僅少の土地のみを所有し、宅地すらも本村地主の所有であるというような事例が多かった」(同書、一九頁)ともいう。

 児玉幸多氏は『近世農民生活史』(新稿版、吉川弘文館、一九六九年)の中で「元来封建時代における農民の耕地に対する関係は、今日の所有権というようなものではなく、耕作する権利または義務を持っていたにすぎないのである。百姓株といい、百姓役というのはこの意味をよく現わしている」(同書、二八頁)と述べている。これまでの多くの研究者は児玉氏が述べているように理解し、検地帳に記載されている百姓はそれぞれの田畑あるいは屋敷地を保有するものとしていた。しかし、近世においては、近代のような所有権の確立をみないものの、その土地を耕作したりする権利や領主に対して貢租を負担する義務などのある土地を持つことを、所持とか所有というのであれば、それはそれでよいと私は思う。

 ところが、前述のように鈴木氏は、本村が枝郷としての「えた村」の土地を所有していたようにいう。もし、そうであるならば、枝郷であった「えた村」の土地は、本村の村持(村有地)の土地であったようにみられるが、どうであろうか。たとえ、枝郷であった「えた村」が本村の村域内に存在していても、それをもって、本村が「えた村」の土地を所有しているとはいえないのである。また、鈴木氏は「枝郷であった部落は、僅少の土地のみを所有し」たようにいうが、「僅少の土地のみを所有」したのは「部落」ではなくて、部落の人びと(部落民)ではないだろうか。いずれにしても、鈴木氏の「所有」ということばの概念規定に問題があるように思うが、どうだろうか。

 寺木伸明氏もまた、このような問題で読者を困らせている。いや、困っているのは私だけかも知れないが、寺木氏は『近世身分と被差別民の諸相』(解放出版社、二〇〇〇年)において、被差別部落の「集落としての起源」について論じている。その中で寺木氏は、更池村内の被差別部落を取りあげ、「近村での所持高を含めて一三五石余りの持高を有する集落が、豊臣政権の検地のさい、更池村の枝郷とされるとともに、『かわた屋敷』とされ、その集落の住民が『かわた』身分として位置づけられたものと考えられる」(同書、五七頁)と述べている。ここでは「一三五石余りの持高を有する集落」が「枝郷」とされるとともに、「かわた屋敷」とされたとしているが、「一三五石余りの持高を有する」のは集落(枝郷とされた「えた村」)ではなくて、集落の住民(部落民)が一三五石余りを所持していたのではなかろうか。ちなみに、文禄三(一五九四)年の更池村の検地帳によれば、「かわた屋敷」分は合計して一反五畝三歩で、その石高は一石六斗七升二合となっている(更池村文書研究会編『河内国更池村文書』第三巻、一七頁参照)。



 以上によって明らかなように、枝郷としての「えた村」については、基本的な問題で混乱している。つまり、枝郷としての「えた村」の″枝郷″というのはどのようなものなのか、その村高・村領・村域はどうなっているのか、これらの点についての認識が研究者によって異なっているのである。そこで、まず枝郷にも、村高を分けて設けられた枝郷と、村高を分けられていない枝郷とがあることを確認しておきたい。この点については、小野武夫編『日本農民史語彙』(刀江書院、一九七〇年)の枝村の項に「一村の高を分て別に立たる村をいふ、帳簿には何村枝郷何村と記す、其の高を分たざる枝村は何村之内何村と記して之を分つなり」と記している。また、その引例として「惣別一村の高を分て新規に枝村を立らるゝ事はならせられぬ事の由、是は元禄申御書上之郷村帳に齟齬致し候故也、御書上帳に高分枝村は、何村枝郷何村と被レ記候、高不レ分枝村は何村之内何村と被レ記候(田法雑話)」と記しているのである。

 枝郷としての「えた村」の多くは、この後者ではなかろうか。すなわち、本郷(本村)から枝郷である「えた村」には高が分けられていないのである。たとえば、更池村の南方が「更池村領内皮田」とか、「更池村領内穢多」という呼称が用いられているのはそのためで、南方(南更池村)としての村高はない。天保一四(一八四三)年の更池村明細帳に「弐拾七石六斗六升九合 河田持高」(前掲『河内国更池村文書』第一巻、二四頁)とあるが、それは「更池村領内皮田」の村高ではなくて、南方の人びとの更池村での所持高である。同じように、東八尾座も「植松村之内八尾座穢多(東八尾座)」と呼ばれ、植松村の枝郷であったが、本郷の植松村から村高が分けられていなかったのである。森田康夫・辻村輝彦両氏によって著わされた『河内の被差別部落八尾座の歴史』(解放出版社、一九八九年)に枝郷であった東八尾座にも、村高があったように記されているが(同書、五五頁および五六頁)、それらは東八尾座の人びとの所持高であって村高ではない。つまり、枝郷としての「えた村」は、多くの場合、村としての村領がなく、本郷の村域内に存在していたのである。



 さて、近世の石高制は、維新後の土地制度の改革により廃止され、地租改正後は反別・地価をもってそれにかえられた。すると、村高が分けられていなかった枝郷としての村は、村領(土地)のない村となった。鈴木氏のいう「土地ナクシテ町村ノ名義ノミ存スル」「無地村」の部落は、このような事情によって生じた


らしい。














zannin666 at 18:55|Permalink

POP TATARI

今度も、下記の「晒村」同様に

河内国の丹南郡丹南村ノ内夙である。説明は後からとして、不思議なことに「かわた(」村)より身分が低いとされているが、穢多身分より差別は酷くないと言われている。



以前は、河内国渋川郡植松村ノ内晒村を紹介したのだが、今回は、同じく河内国丹南郡丹下村ノ内夙村である。
石高が記載されている史料もあり、百拾石余りと書かれてある。となると、人口は30戸数くらいなのだろうか?

また、夙も近世「かわた」の身分へと編入していくのであった。



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zannin666 at 08:06|Permalink

28 novembre 2012

POP TATARI

この地図は「河内国」の地図だそうだ。

日本書紀や古事記にも出てくる溜め池の狭山池も描かれているそうで、
天保国絵図という古地図、ここに「晒村」という村が存在している。晒村これは、大阪の渋川郡植松村内晒村で、現在の竜華にあたるようである。

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森田康夫氏の近世賎民身分の重層構造について


穢多(エタ)非人等の政治的賤民に対し、社会的賤民として葬送儀礼的職能に従事していた村落を「晒村」と呼び、その住民を「晒の者共」と呼んでいた事、彼等は近世に至り農耕民化したにもかかわらず、穢多の村と見られる等の中世来の卑賤視から脱却することが出来ずにいる事、またその歴史は古く往古には七十五村あったが桓武天皇の頃からすでに村や人が去り天明中には半分になっていた事、自分たちは土師氏の末流であると訴えている事等と書いてある。


江戸幕府の命令で製作された天保国絵図なのである。

徳川家の独裁的な国家であった「江戸」の時代にしかも幕府が公然と「晒し」の村として「晒村」と言い切っているのがこの時点で漢なる国家だったんだと思えてくる。

差別前提というのがナチスぽい。。。




zannin666 at 08:08|Permalink