日刊ゲンダイが全20回にわたって掲載している
ノンフィクション連載「木之本興三・Jリーグへの遺言」の全文を纏めた。

日本サッカーにまさに命を賭して臨み、
プロ化への礎を造った第一人者の壮絶な姿が生々しく綴られている。

普段、私たちが目にする情報を光の部分とするのなら
こちらは間違いなく闇の部分であり、読んだ後は心に響くものがある。

編集作業の合間に「スーパーサッカー+」を見ていた。
加藤浩次が楽しそうにサッカーの魅力を伝えている。
そのギャップを受け入れられず、途中テレビを消してしまった。

物語の設定を、最近話題の硫黄島決戦に例えるなら
木之本興三=栗林中将
川淵三郎=東条英機
サッカーファン=大本営発表に躍らされる国民
ドイツW杯=A級戦犯を処罰しない太平洋戦争 といったところか。

当ブログ始まって以来の長文となっております。
日本サッカーの闇の部分を、梳くとご覧あれ。
(文字数の関係で一部割愛しています)
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木之本興三、57歳。ドン底にあえぐ日本サッカーをプロ化することで蘇らせ、
Jリーグを成功に導いた男である。 これまでに2度、「死刑宣告」を受けている。
26歳で難病にとりつかれ、将来を悲観して担当医に「殺してくれ」と叫んだ。
2度目は03年7月、53歳の時に愛してやまないサッカー界から「抹殺」されることになった。

古河電工に入社して3年目、75年3月に運命の日を迎えた。
26歳で「99%助からない。よくて余命5年」と宣告された。
「突然だった。朝起きたら強烈なめまいで起きられない。
千葉大付属病院で“グッドパスチャー症候群”と診断された」 
〜《グッドパスチャー症候群》 肺と腎臓の基底膜に反応する抗体が
血中につくられ、肺出血と腎炎が同時に起こる。 国内症例は13例目。
過去12例はすべて死亡している。〜 「肺か腎臓のどちらかを摘出することになり、
発症して3ヵ月後、6月25日に6時間に及ぶ腎臓摘出手術を受けた。

その日から週に3回の透析を一生、続けることに。
透析の前後の体の激変に耐えられず、数歩で極度の貧血。
これで生きていると言えるのか。いつもそう思った。
あの頃、好きだった作家・安部公房の本の一節に
“夢のない明日よりも絶望の今日”とあった。
当時の心境をピタリと言い当てていた」 腎臓摘出から5年が経った。
透析機器の精度が飛躍的にアップし、効果的な増血剤のおかげもあって、
何とか日常生活が送れるようになった。

発病して8年。83年12月、JSL(日本サッカーリーグ)事務局長に就任。
プロ化を協力に推し進め、Jリーグの常務理事としても辣腕を振るった。
02年4月にはNHKの人気番組「プロジェクトX」に
「わが友へ 病床からのキックオフ」というタイトルで半生が取り上げられた。
02年の日韓W杯決勝トーナメント1回戦(6月18日)。
トルシエ日本がトルコに0-1で敗れた日だった。

「右足の血管が“爆発”した。足先などの血行が悪くなり、
壊死する難病『バージャー病』に襲われた。 後日、担当医から
“最悪、脚を切ればいいから。車椅子もある”と言われたが、
さすがに難病に慣れていてもショックだった。

入退院を繰り返し、03年7月24日に退院した翌日、
Jリーグ理事長に鈴木チェアマン(当時=元鹿島球団社長)を訪ねた。
突然、“今月いっぱいで辞めろ”と言われた。病気のことは何も聞かれず、
ねぎらいの言葉もない。辞めろと恫喝された。 元気だったら戦っていただろう。
しかし、闘病生活に疲れ果て、体もガタガタで抵抗する気力もなかった」

「鈴木さんの背後に“大きな力”を感じた。 すぐ日本サッカー協会のトップ、
川淵さんに会いに行き、泣きながら“サッカー界で頑張りたい”と懇請した。
しかし、冷たい返事しか返ってこなかった。“許さない”。ただこれだけだった」

80年代にプロ化の先鞭をつけ、Jリーグを成功させた、という自負もあった。
これが功労者に対する仕打ちなのか――。
Jリーグ映像、Jリーグフォト、Jリーグエンタープライズの社長を務め、
6年の任期中に3社から総額1020万円、 年間170万円を給与として受け取った。
「鈴木さんから“勝手に自分で自分に給料を払った。 株主からの了承を得ておらず、
不明朗だ”と言われた。これが“辞めろ”の理由だった。 役員の給与に関しては、
それぞれの会社の取締役会および総会で承認をされていた。それなのに……。
法的にやましいところはないし、株主に報告する義務もない。
03年8月末、1020万円はそれぞれの会社に返した。
その当時は、抵抗するだけのパワーも精神力もうせていた。
元気になった今、本当に納得できない」
「川淵さんとはプロが出来る前から助け合い、支え合ってきた。
一生懸命にもり立ててきたつもりだし、 何回かは窮地から救ったこともある。
木之本を辞めさせるということを 川淵さんは鈴木さんから報告を受け、
承諾していたはず。そのことが残念でたまらない」

「たとえばJリーグエンタープライズの社長を務めたが、
年間売り上げ7億円を02年には32億円にしたし、 内部留保も3億円を確保した。
それなりの業績を残してきたと思っているが、 03年7月にJリーグを追われた」
02年6月、足先などが壊死する難病「バーチャー病」にかかり、
何度も病院に担ぎ込まれた。03年7月、復職すると鈴木チェアマン(当時)から
「すぐに辞めろ」と言われた。 当時の状況を「まるで極悪人扱い。
あまりに冷たい仕打ちだった」と振り返る。

日本サッカー協会・川淵会長との付き合いは72年春にさかのぼる。
東京教育大(現筑波大)卒業後に古河電工に入社。サッカー部の監督だった。
「川淵さんは、木之本が辞めさせられることを聞いて承諾したはず。
ただただ残念としか言いようがない。 昔はあんな人ではなかった。
もっと他人を思いやれる人だった。 26歳で両腎臓を摘出してから、
我慢、我慢の人生だった。それでもサッカーに全霊をかけてきた。
なのにあっさり放り出された。Jリーグのチェアマン時代に
“権力が集中し過ぎた”ことが、川淵さんを変えてしまった」

Jリーグの定款に「通常総会は理事長(チェアマン)が招集する」
「議長は理事長とする」<第5章 総会>とある。
「総会をチェアマンが仕切るのではなく、専務理事とかにしておけばよかった。
チェアマンが独断でコトを進めるのではなく、いい意味で“互いに牽制し合う”
チェック機能が働いたと思う。 川淵さんは、誰よりも早く
“チェアマンには強大な権力が集中している”ことに気づいたはず。
いつの頃からか、川淵さんを“引きずり降ろそう”なんて考えている者は
ひとりもいないのに、 逆に自分で“考えの違うヤツは追い出した方がいい”となった。
プロ化に向けて奮闘し、 Jリーグを立ち上げた仲間たち、
“一緒に井戸を掘った人”を遠ざけるようになってしまった」

02年日韓W杯でトルシエ日本は決勝トーナメントに進んだ。
しかし、ジーコ日本はドイツW杯1次リーグで一勝も挙げられずに敗退した。
4年前のベスト16でテングになっていた日本サッカーの鼻がポキンと折れた。
「日本は強い。私もそう勘違いしていた。(1次リーグ3戦目の)ブラジル戦を見ながら、
4年前の日韓W杯ベスト16は《真夏の夜の夢》、そんなフレーズが浮かんだ。
世界はまだまだ遠い。日本は弱かった。ドイツでの惨敗を今後、どう生かしていくか。

日本サッカーの将来も変わってくる」 ドイツW杯後の帰国会見の席上、
日本サッカー協会・川淵会長の“失言事件”が起きた。
「あっ、オシムって言っちゃったね」。世論はオシムが
日本を強くしてくれるという雰囲気が高まり、
川淵会長は2期4年を務めた後、さらに「1期2年」とどまることになった。

「私は、ドイツW杯の総括がなされていないことが疑問だ。
総括した上で次の4年間、誰に代表監督を託すのか、 選考基準は何か、
日本サッカーにふさわしい監督は誰か、吟味して選考すべき。
失言問題にかんしては、川淵さんともあろう人が何をあんなに焦ったのか?」

川淵会長は「史上最大の失言」と釈明した。 「個人的には“茶番”だと思っている。
川淵さんがJリーグのチェアマン時代、そばで言動を見てきたが、
その場でズバッと発言しているようで、実はとても用意周到な人です。
メディアの前で何をどんなふうに言えばいいのか、すべて計算してやられている。
私の考えが間違っていたらゴメンナサイと謝るしかないが、
川淵さんの失言問題は確信犯だと思っている」

4年前のジーコ監督もそうだったが、今回も独断専行でオシムを選ぶことで
自身への非難をすり替えた。 これには大物OBも危機感を募らせた。
「会長として最終決定を下すのは当然。 でも少なくとも副会長、専務理事と
協議すべき」と話すのは前々会長の長沼氏(現名誉顧問)。
川淵会長に直接、「晩節を汚さない方がいい」との思いで電話を入れた。
前会長の岡野氏(現名誉顧問)は「日本サッカーの将来を見誤らないように」と
警鐘を鳴らす手紙を理事会メンバーに送った。
「私は川淵さんの3選について異存はない。問題は“会長の周辺”にある。
あまりにも川淵さんを神格化し過ぎてはいないか。
言いたいこと、思っていることを堂々と話せない、
是々非々を論じることが出来ない、そんな状況がサッカー協会にあるとするならば、
組織として脆弱なものになってしまうのでは? そんな危惧を抱いている」

「いつ死ぬのか、まるで分からなかった。だからこそサッカーに、
プロ化に命を懸けた。どす黒い顔をした男が、時間がない、
待っていられないと迫ってくる。プロ化の流れが生まれていった」
古河電工に入社して3年目、75年3月に難病グッドパスチャー症候群に倒れた。
「余命5年」と言われて両腎臓を摘出した。26歳の青年にとっては
到底受け入れがたい現実だった。週に3回、1日4時間半の人工透析を受けることになった。
「生き地獄だった。透析前後の体の激変に耐えられず、ひどい貧血もあった。
突然、目の前が暗くなって倒れてしまう。透析の翌日も動く気にもなれず、
布団の中でモソモソするだけ。これで生きていると言えるのか、自問自答の毎日だった」

83年12月、人生の岐路に立った。日本サッカーリーグ(JSL)の事務局に
事務局長として招かれた。思いもよらぬ病魔に襲われて8年、
34歳で新たなサッカー人生がスタートした。「これしかない、と思った。
サッカー選手としても、サラリーマンとしても、とっくに終わった人間だった。
それを“木之本は病人だけど使える”と評価してくれた。
うれしかった。この身をなげうって仕事をした」

88年7月。渋谷・岸記念体育館内の日本サッカー協会で村田専務理事(当時)と向き合い、
「プロリーグをつくりたいのです」と切り出した。
「当時、村田さんはW杯を日本に招致したいと口にされていた。チャンスだと思った。
W杯を開催するには、それにふさわしい実力が必要です。
そのためにもプロ化は不可欠です。こう納得した」

その翌月、JSL事務局に新しい総務主事がやってきた。
91年にJリーグ初代チェアマンに就任する川淵三郎・現日本サッカー協会会長である。
後年、川淵会長は毎日新聞のインタビューにこう答えた。
《総務主事を引き受ける際、プロ化の気持ちがないのなら来ないで、
と木之本が言っていると聞かされ、「クソ生意気な」と頭に来た》

「まったく違う。完全な誤解だった。その頃、私は“プロ化を進めていく段階で、
難題が起こったら徹底議論をせざるを得ない。
尊敬する大先輩と感情的に行き違ったりするのは本意ではない。
だから来て欲しくない”と話していただけです。

もっとも、川淵氏はそういう噂を聞いても、なかなか声を大にして反論はできなかった。
川淵氏の著書「虹を掴む」(講談社)にこうある。
《プロ化に積極推進派ではなかった。むしろ“ボールひとつ、まともに蹴れない
連中が何がプロだよ、笑わせるな”と、そんな気持ちが強かった》
82年、川淵氏は古河電工・名古屋支店金属営業部長に昇進した。
《84年に日本サッカー協会強化部長を務め、名古屋での仕事に専心してからは
サッカーなんてくそくらえ、と情熱はゴルフに振り向けられた。
ゴルフの腕はめきめき上がり、JSLの試合は名古屋に来ても見なかった》
<「虹を掴む」から>

JSL・木之本事務局長を中心に進められたプロ化の流れは、
確実に日本サッカー界で大きなうねりとなっていた。
88年6月、川淵氏は古河の子会社、古河産業取締役への出向を命じられる。
名古屋時代にJSLの森総務主事(健児、元日本サッカー協会専務理事)から
「総務主事をお願いしたい」と誘われていた川淵氏は
《輪郭が見え始めたサッカーのプロ化の仕事に人生を懸けようと思った》
<「虹を掴む」から>という。

「いや、川淵さんは古河電工の本社役員を目指しておられ、
子会社への出向がなければ、サッカー界に戻られなかったのでは。
川淵さんは91年11月まで古河産業に籍を置いていた。
同じ千葉在住でよく、仕事の帰りにご一緒したが、
プロ化が煮詰まってからも会社を辞めるかどうか、相当に悩まれていた。
仕方ない、と私は思っていた。プロ化が成功する保証はどこにもない。
私は26歳で両腎臓を摘出した病人。サッカーに命を懸けるしか選択肢がなかった。
川淵さんは古河産業役員として63歳まで勤められる。
何度も“そう言わずにプロ化に向けて頑張りましょう”と励ましたものです」

両腎臓の摘出手術から5年後。80年冬に古河電工・健康保険組合に
嘱託として勤務するようになった。勤務は人工透析のない火、木、金の週3日間だけ。
83年のとある日だった。組合の事務長から「会社が処遇に困っている。
将来を考えておいてくれ」と言われた。「辞めるしかない、と覚悟をした。
そんな時(83年12月)に日本サッカーリーグ(JSL)事務局の事務局長を
任せたい、という話がきた。専従なので今後、日本サッカーを
どうやって盛り上げていくか、だけを考えればいい。チャンスだと思った」

83年12月に日本サッカーリーグ(JSL)事務局長に就任し、呪文のように
「低迷一途の日本サッカーを救うにはプロリーグしかない」と唱え続けた。
当時、日本サッカー協会幹部は、プロ化に「反対はしない」の立場だった。

専務理事だった長沼健(現協会名誉顧問)は「木之本、焦るなよ。
(ペレ、ベッケンバウアーを擁して一時隆盛し、84年に消滅する)
北米リーグの二の舞いは困る」と忠告してくれた。
理事の岡野俊一郎(現名誉会長)は「プロリーグというのは
イングランドのように自然発生的に出来るもの」。
常務理事の平木隆三(のちにJ1名古屋初代監督)は
「メキシコ五輪で3位に入った。アマチュアでもW杯や五輪に出られるはず」――。

「何を寝ぼけたことを言っている。世まい言に過ぎないと、
散々なことを言われた。しかし、協会幹部は何度も時間を割いてくれて、
30代半ばの小僧のたわ言に熱心に耳を傾けてくれた。
でも、お三方とも日本体育協会の幹部でもあった。
体協といえば“アマチュアリズムの権化”。プロという言葉自体、ご法度だった。
もっとも、個人的にはプロ化を認めてくれていたと思っている。
一度も“プロ化なんてダメ”と言われなかった。それだけで十分、勇気づけられた。

JSL事務局長に就いた時、総務理事は元日本代表監督の高橋英辰(故人)だった。
「ロクさん」の愛称で親しまれた高橋は、日本サッカーの低迷を認識しながら、
あくまで「プロ化は容認できない」と強硬に主張した。
「アマチュア至上主義の風潮の中で選手、指導者として生きてきた人だった。
“オレの目が黒いうちはプロなんて絶対許さない”が口癖だった。
プロ化を説得する状況にもなかった。プロ化を進めるためには、
サッカー界で理論派として知られる人に総務主事に就いてもらうしかない、と考えた」

84年暮れ。木之本は丸の内にある三菱重工のオフィスに
JSL常任運営委員の森健児(元日本サッカー協会専務理事)を訪ねた。
「総務主事になって下さい」――。1937年生まれの森は慶応大から三菱重工に入社。
サッカー部を2シーズンで引退した後は仕事に専念しつつ、74年から常任運営委員として
JSLに関わっていた。そして早くから企業スポーツ、アマチュアリズムの
限界に気づいており、志を同じくする森・木之本がタッグを組むことになる。

日本サッカーリーグ(JSL)の事務局長に就任した83年から、
「いろいろな出来事が重なって、その結果として
プロ化の動きが本格化していった」。木之本がしみじみとこう述懐する。
82年に三菱がJSL優勝。勝利に大きく貢献した尾崎加寿夫(元日本代表)が翌83年5月、
電撃的にドイツ・ブンデスリーガ1部ビーレフェルトに移籍すると、
三菱が尾崎を退部処分にしたり、日本サッカー協会強化本部が
「移籍証明は出さない」と表明したりと騒動になった。

代表エースFWの突然のプロ入りによって、アマチュア主義を貫く
日本サッカー界は揺れに揺れた。JSLが協会から“親離れ”したのも83年だ。
「原宿・岸記念体育会館内の日本サッカー協会の隅っこに机が2つあった。
それがJSL事務局だった。総務主事の高橋さん(英辰、故人)の机もなかった。
JSL森健児・常任運営委員(元協会専務理事)が“いつまでも協会と一緒では
リーグは独立できない”と主張し、神田小川町のビルの2階に転居した」

続けて木之本が当時を振り返ってこう言う。
「森健さんと81年からJSL常任運営委員だった石井さん(義信、元日本代表監督)の
2人が、何でも好きにやらせてくれた。この頃の日本サッカーは、リーグの観客が
数百人というのも珍しくなかったし、代表もW杯予選や五輪予選で負け続けた。
どうやったら日本サッカーを盛り上げられるか。本当に何をやっても許された時代だった。
しかし、観客動員対策とかいろいろやったが、まったく効果はなかった」

84年4月。森孝慈(元浦和GM、森健児の実弟)率いる日本代表は、
ロス五輪予選を戦うためにシンガポールに向かった。
64年メキシコ大会以来となる五輪出場の期待が高まっていた。
悲願は初戦のタイ戦で無残にも打ち砕かれた。
エースFWピアポンにハットトリックを決められ、2-5で惨敗。
このピアポン・ショックは尾を引いて、続くマレーシア、イラク、カタール相手に
いずれも1-2のスコアで敗れ、屈辱的な4連敗となった。

「ロス五輪、88年ソウル五輪の予選を突破していたら、協会内にも多かった
アマチュア擁護派たちから“ほら見ろ、アマチュアでも
アジアで勝ち抜けるじゃないか”の大合唱が起きるのは目に見えていた。
どちらかの五輪に出場していたら、プロ化はなかったと思う」
皮肉にも日本代表の体たらくがプロ化の追い風になった。

世界から置いていかれたことで、「日本のサッカーはどん底にある。
失うものは何もない。あとはプロ化しかない」という木之本の主張が
説得力を持った。この当時、日本サッカーの“鬼っ子”的な存在だった読売クラブが、
メキメキと力をつけていった。このこともプロ化を大きく後押しした。

69年創部の読売クラブ(現東京V)は、日本サッカー界にあって
「鬼っ子」的存在だった。親会社は読売新聞と日本テレビだが、
欧米のクラブチームを手本に運営された。雇用形態はバラバラ。
プロ契約選手から学生、アルバイトまで入り交じっていた。ブラジル人選手も多く、
華麗なパスワークとドリブル主体の攻撃サッカーで地力をアップし、
78年に日本サッカーリーグ(JSL)1部に昇格する。そして83、84年にJSLを連覇。
その頃には「読売みたいに出場給や勝利給が欲しい」という声が
企業所属の選手から上がり始め、実際に日産(現横浜M)や
フジタ(現湘南)のように臨時ボーナスを出す企業も出てきた。

83年、古河を離れてJSL事務局長に就任した木之本は
「企業所属のアマチュア選手を読売クラブと同じ土俵に上げ、リーグ全体に
プロ的な選手をどんどん増やしていく。これがプロ化への早道」と考えた。
当時、古河の人事部長に「読売や日産に続かないと取り残されてしまいます」と進言した。
「しかし、返事は“余計なことは考えなくてもいい”だった。
各企業チームをプロにするのは難しいだろう。でも、方策はある。
まずはJSLでプレーする選手、監督、コーチをプロ化し、次にJSLという組織を
プロに変えていく。この手順でやれば、必ずプロリーグが出来る。そう考えた」

85年春、木之本の肝いりでJSL事務局のトップ、総務主事に
森健児・常任運営委員が就いた。2人は「プロ化なくして
日本サッカーに未来はない」という共通認識で深く結ばれていた。
86年6月、協会はプロ選手制度を容認した。
登録する際に選手自身が「アマ」=アマチュア、「ノンプロ」=実質プロ、
「スペシャル・ライセンス・プレーヤー(SLP)」=プロとしてCM活動などもOK
――の3資格から選択出来ることになった。

初年度、SLPは西ドイツ(当時)のブレーメンから古巣の古河に復帰した
奥寺康彦(現横浜FC社長)と日産の木村和司(現解説者)の2人。
ノンプロには読売クラブ26人、日産15人、全日空(元横浜F)14人、フジタ5人が登録した。
日本サッカー界のリーダー的存在、三菱(現浦和)日立(現柏)、
古河(現千葉)の「丸の内ご三家」は全員がアマ登録だったが、
「プロリーグの波が来ている」ことを木之本は実感した。

いつも「失敗してもサッカーはなくならない」と言い続けた。
「プロリーグが失敗しても、元(の日本サッカーリーグ)に戻るだけ。
挑戦する価値はある。こう説得した。もっともプロ化の先鞭をつけた、
Jリーグをつくったと評価されるのはうれしいが、
サッカーに命を懸けるしか選択肢がなかった。
腎臓を2つとも摘出して透析を一生続ける身。いつ死んでもおかしくない。
日本サッカーも瀕死の状態。人気も実力もどん底にあえいでいる。
いつしか自分自身の体を日本サッカーに重ね合わせた。
失うものは何もない、ただ前に突き進むしかない、と」

83年暮れ、日本サッカーリーグ(JSL)事務局長に就任してプロ化に奔走。
85年初頭、「プロ化を推進するに当たって大きな影響を受けた」人物と出会った。
日本人のプロサッカー選手第1号は77年、西ドイツ(当時)に渡った
奥寺康彦(元古河、現横浜FC社長)だが、その3年前に「プロ監督第1号」が誕生している。
加茂周(元日本代表監督)である。ヤンマー(現C大阪)のコーチだった加茂は74年、
日産(現横浜M)から監督に誘われた。その際、「プロとしてやりたい。
勝てなかったらクビでもいい」と嘱託契約を結んだ。
給与のほかに成績に応じて特別ボーナスが支給され、さらに車1台と住居が提供された。

日産は79年にJSL1部に昇格。天皇杯を制した84年シーズン終了後に加茂は一時期、
日産監督を離れてJSLの常任運営委員となった。
「喫茶店、ホテルのロビー、時には銀座のバーでそれこそ何時間でも話し込んだ。
加茂さんは“選手、監督のステータスを上げたい。今の体制では世界と戦えない。
プロ化が必要不可欠”と話していた。加茂さんのアドバイスから
《タイトルをたくさんつくれば多くのチーム、監督、選手がヒーローになれる。
リーグも活性化する》というアイデアも生まれ、これがJリーグの前後期制、
日本一決定戦として結実した」

後年、加茂は「命懸けで取り組んでいた。アイツが健康で会社勤めをしていたら、
日本サッカーの形態は違っていただろう」と話した。木之本は「加茂さんには、
プロ化の旗振り役は丸の内ご三家(三菱、日立、古河)の出身者が適任。
日本協会との折衝もスムーズにいく。そんなアドバイスも受けた。
ゼネラルマネージャー(GM)的な発想の出来る人だった」と述懐する。

88年にJSL事務局のトップ、総務主事に古河所属の
川淵三郎(現日本サッカー協会会長)が就任した。
91年11月、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)が設立され、
初代チェアマンに就いた。一時、時の人となって「川淵チェアマン」は流行語にもなった。
しかし、Jリーグ発足前に「川淵おろし」事件が勃発。窮地に追い込まれた――。

86年6月、日本サッカー協会がプロ登録を認めた。初年度に62人がプロを申請し、
プロ化への機運は一気に高まった。88年8月にJSL事務局のトップ、
総務主事に川淵三郎(現日本サッカー協会会長)が就任した。
《納得のいかないこともあって(日本サッカー協会強化部長を
84年4月に退任してから)サッカー界に三行半を突きつけたつもりでいた。
サッカーの世界に戻ってくるとは夢にも思わなかった》 
自著「虹を掴む」(講談社)でこう明かした川淵。

《プロ化に必ずしも積極推進派ではなかった》とはいえ、
総務主事就任前にプロ化への道筋はすでに出来上がっていた。
91年11月、日本サッカーリーグ(Jリーグ)が設立された。
初代チェアマン・川淵は「プロリーグを作った男」として持てはやされ、
全国に名前が知れ渡った。もっとも、Jリーグが発足する前に
「川淵おろし」事件が起こり、サッカー界は揺れに揺れた。
「Jリーグの地域密着やテレビ放映権リーグ一括契約などについて
反対勢力が“川淵をトップの座から引きずりおろせ”と気勢を上げた。
中でも読売クラブ代表・為郷さん(恒淳、故人)が急先鋒だった。
為郷さんの考えは“若造に何が出来るのか。プロリーグは読売クラブが
イニシアチブを取るべき”だった。川淵さんも、これにはかなり参っていましたね」

93年5月にJリーグが開幕してからも、川淵は読売クラブに頭を悩まされる。
読売新聞社の渡辺恒雄(当時社長)との丁々発止である。
Jリーグ初代王者になったV川崎(現東京V)は2年目の94年シーズンも
連続日本一となった。その年の12月に、東京プリンスホテルで祝賀会が開かれた。
Jリーグ役員には招待状が届いたが、川淵は所用で欠席した。

祝賀会に出席した木之本(当時常務理事)の眼前で渡辺の爆弾発言が炸裂した。
「独裁者が抽象的な理念を掲げるだけではスポーツは育たない」――。
その深夜、木之本は共同通信に電話を入れた。
「協会幹部、Jリーグ幹部は“渡辺発言”に反論したか? と聞いたら、
いや誰も言ってない、と。最終稿に間に合うように原稿を差し替えてくれ、と頼んだ」

木之本の「独裁者という表現は許さない。理事会にかける。
謝罪がなければ(V川崎は)リーグから出ていってもらって構わない」
というコメントは全国に配信された。川淵は当初、「独裁者という言葉を
そのまま渡辺氏にお返しする」と徹底抗戦のスタンスだった。
木之本が後日談を打ち明ける。「読売新聞社の滝鼻秘書(卓雄、当時)と
V川崎の森下副社長(原基、当時)と3人で会い、
“今回の騒動を組織同士の争いにはしない”と手打ちした。
川淵さん? いないよ。トラブルの後始末は私の役目だったから」

プロ化に命をかけ、幾多の修羅場をくぐり抜けながらも、Jリーグを軌道に乗せた。
少々のことでは動じない木之本だが、さすがに「二の句が継げなかった」という。
98年10月29日。 朝刊各紙が「全日空と佐藤工業が出資する横浜Fが経営難に陥り、
日産自動車が出資する 横浜Mに吸収合併される」と報じた。
当日午後、Jリーグは臨時理事会を開き、吸収合併が承認された。

川淵三郎チェアマン(現日本サッカー協会会長)は、
自身の著書「虹を掴む」(講談社)でこう振り返る。
《一つになった新生のクラブが力を合わせて強いチームに生まれ変われば
Jリーグの発展にとって はいい結果につながるかもしれない》<抜粋>
木之本が首をかしげながら、当時を述懐する。
「川淵さんの著書の中に“(98年)10月6日に横浜F、横浜Mの社長から話があった。
ショックだった”とあります。 しかし、8月には川淵さんから
“合併話がある。オレが全部仕切る。おまえは口をはさむな”と言われた記憶がある。

結局、川淵さんは企業の論理に無抵抗に従い、吸収合併を認めてしまった。
なぜ専務理事の私が 蚊帳の外だったのか、経営規模を縮小するなど
存続の手だてを講じなかったのか。まったく理解できなかった」
Jリーグの幹部職員にも衝撃が走った。「Jリーグ事務局の部長職5人のうち4人が
“川淵さんは言行不一致。 ついていけない”と辞表を出してきた。
“すでに理事会で決定された。 今の事態をソフトランディングさせ、
終焉させることが大事”と説得。思いとどまってくれた」
98年、横浜Fが消滅した際も木之本は尻ぬぐい役を務めることになる。

木之本は「川淵さんにとって、横浜Fの選手会とサポーターたちの
抗議活動は、大きな誤算だったと思う」と話す。
「Jリーグで横浜Fのサポーターが一番少なかった。彼らは抵抗なんかしない、
と思ったはずです。 それがJリーグに推し掛けてきたり、騒然とした。
川淵さんは体調不良などを理由に事務局に来なくなり、 選手会との折衝や
サポーター対応は私が担当した。しばらくすると川淵さんも元気になられ、
選手会のメンバーやサポーターたちと面会して、涙を流されていましたね」

99年元日を迎えた。天皇杯決勝戦で横浜Fが優勝した。
試合後のセレモニーで選手会の 会長・DF前田(浩二、現神戸コーチ)を先頭に
選手がひな壇に上がっていく。 天皇杯実施委員長の木之本は、
優勝メダルを渡すことになっていた。「おめでとう」と声を掛けながら、
前田の首にメダルを掛けた瞬間、「おまえ、チームを潰しやがって。覚えてろよ」。
ドスの利いた言葉に何も言い返せなかった。
「木之本がすべて仕組んだ、と誤解している人も多い。 言い訳はしませんが、
親会社が結論を出す前に、Jリーグが手を貸していれば
横浜Fは存続できたと思う。 何度思い出しても痛恨の極みです」

「いきなり呼び付けられたと思ったら、
“おまえ、オレに内証で何やってんだ!”ってどやしつけられた。
すぐに川淵チェアマンに反論した。チームがつぶれてもいいんですか?
Jリーグのイメージダウンになりますよ。それでもいいんですか、と」
97年2月、当時JFL所属の鳥栖フューチャーズ(現J2鳥栖)が経営難で解散。
受け皿として新運営会社・サガン鳥栖が設立されたが、
97年シーズンを前に収入のアテもなく、 チーム消滅の瀬戸際に追い込まれた。

「立派な専用スタジアムを造り、その鳥栖が消滅したら
九州にJリーグのチームは根付かなくなる。
そこでスポーツメーカーのナイキの力を借りることにした。
当時、ナイキは2002年W杯日本代表のオフィシャルサプライヤーを狙っていた。
しかし、なかなか日本サッカー協会上層部に食い込めずにいた。
“まずは手始めに年間1億5000万円を2年間。
ユニホームのサプライヤーの形で鳥栖を支援して欲しい。
そうすれば協会幹部も考慮してくれるだろう”と提案した」
ナイキは木之本の申し出を受けた。 JFLの主管団体、日本サッカー協会の
重松専務理事(良典、元プロ野球・広島球団社長)の了解も取り付けた。
ところが、川淵チェアマンには、身勝手なスタンドプレーに映ったようだ。
木之本を呼びつけて「どうして鳥栖なんかに1億5000万円なんだ」と激怒した。

「川淵さんは当時、クラブがなくなるのは経営が悪い、
つぶれるところは甲斐性がない――というニュアンスの発言をされていた。
個人的には、どんな弱小でも、消滅したらサッカー界にとって
大きなマイナスになると考えた。 なんとしても鳥栖を救いたい。
それでナイキに話を持ち掛けた」 鳥栖救済はJリーグのため、
ひいては川淵さんのためにもなる。そう思って一生懸命やった。
事情を説明したら、最後は渋々ながら「そうか、分かった」と言ってくれた。

ナイキが参入してくる前、日本サッカー協会はプーマ、アシックス、
アディダスと契約を結んでいた。 1社当たり年4000万円(計1億2000万円)。
各社のユニホームを日本代表、五輪代表、 ユース代表と1年ごとに
“持ち回り”で着用した。02年W杯を前にオフィシャルサプライヤーのコンペが行われた。
ナイキの提示額に協会幹部は腰を抜かした。「アシックスはコンペから離脱し、
プーマが3億円、デサント(アディダス)が4億円だった。
ナイキはというと大台の10億円だった。すると、デサントが6億5000万円を再提示した。
最終的に日本サッカー協会は“これまでの付き合いを考慮する”という理由で
デサントに決めた。 あくまで結果論だが、ナイキのおかげで
デサントの“1社で6億5000万円”という数字が生まれて 、
他企業との交渉で有利なカードになった。
デサントの契約を機に協会の財政基盤はより一層強固なものになった」

98年仏W杯後、43歳のトルシエが日本代表監督に就任した。
「傍若無人」「傲岸不遜」「金の亡者」――。評判は散々だった。
持て余した日本サッカー協会は99年7月、トルシエ日本を支援する
「強化推進本部」を新設した。 Jリーグ専務理事の木之本に
「副本部長に就任して欲しい」という要請が届いた。
「親身になって付き合ってやれ、ということか」。木之本はそう判断した。

「幼稚な人間だった。差別主義的な言動も多かった。
号令一下、日本人が従うのに心地よさを感じていた。
イエローよりホワイトの方が偉い、といった感覚を肌で感じた」
たとえば、サッカー協会・川淵三郎副会長(現協会会長)は、
自著の「虹を掴む」(講談社)でこう振り返っている。
《曲がったことの大嫌いな私と自分の手法を変えないトルシエが相対したら
全面衝突。ケンカ別れは必至。 本能的に“この男には近づかないほうがいい”
と思っていたところがある》<抜粋> トルシエと付き合うのは、
サッカー協会・岡野俊一郎会長(現協会名誉会長)と木之本の2人くらいしかいなくなった。

「選んだ人間も連れてきた人間も、途中でトルシエから逃げ出してしまった。
サッカー協会で反トルシエの急先鋒は川淵さんだった。
こっちは苦労の連続なのにメディアを通して川淵さんの批判が聞こえてくる。
そりゃ頭にくるよ。 人間トルシエではなく、
監督トルシエに“これは仕事だから”と割り切って付き合った。

いずれにしても彼は1次リーグを突破して日本開催のW杯を盛り上げてくれた。
結果的にサッカー協会の財政に大きく寄与した。そのことを忘れてはならない」
日韓W杯後、岡野会長夫妻とトルシエ夫妻がお別れ食事会を催すことになり、
岡野会長が「会っておきたい人はいるのか?」と尋ねた。

「赤坂の囲炉裏のある店に家内と2人で出向いた。トルシエからチタン製の
サッカーボールがあしらってある置物を贈られた。
ボールに“Merci(ありがとう)”と書いてあった。
最初の頃、互いに敵対心みたいな感情があった。何度も怒鳴りあった。
でも、少しずつでもこっちの思いが通じたのかな。
分け隔てなく付き合ってくれた、と」 トルシエは02年8月に離日した。

木之本は、足先などが血行不良で壊死する「バージャー病」に侵され、
入退院を繰り返していた。 見送りのサッカー協会職員に
「キノモトさんに“LONG LIFE(長生きして)”と伝言して欲しい」。
こう言い残して機上の人となった。「人を人とも思わなかったトルシエが
私の体を気遣ってくれた。 それだけに鈴木チェアマン(昌、06年7月で退任)、
川淵さんから極悪人扱いを受けたことが無念でならない」
木之本は、読売新聞が次期チェアマンに木之本氏、
と報じた日から「川淵さんは変わってしまった」と振り返る。

「はっきりと“亀裂が入った”と感じた。自信を持って選んだ後継者を
木之本ごときに反対されるとは―。そう思った瞬間、疎ましい存在に映ったのでしょう」
02年日韓W杯の準決勝、ブラジル-トルコ戦が行われた日の朝だった。
読売新聞がスクープとして「チェアマンに木之本氏 新会長は川淵氏昇格」と報じた。
すぐに川淵(三郎、減日本サッカー協会会長)から呼び出された。
「おまえにするつもりはないから」。開口一番、そう告げられた。
「ぶっきらぼうな物言いにビックリした。もともと2代目チェアマンになろうとか、
そんなことは思ってなかった。26歳で週に3回、1日4時間半の人工透析をしないと
生きられない体になり、どんなに頑張ってもフルに働けない。
これからも縁の下の力持ちとして、日本サッカーの手助けをしたい。そう思っていた。
それだけになぜ、(Jリーグ)専務理事の私に“後任は誰を考えている”
といった話をしてくれなかったのか。川淵さんを一生懸命にもり立てた。
でも、何の相談もなかった。今でも残念でならない」

川淵は当時サッカー協会副会長を兼務していた。
02年7月で岡野俊一郎(現サッカー協会名誉会長)がサッカー協会会長を勇退し、
川淵の昇格が内定していた。しかし、チェアマンの後任について
川淵は多くを語らなかった。「おまえにするつもりはないから、
と言われた後で“鈴木さん(昌、94年から00年まで鹿島社長)に後任を頼む。
会長職をかけて鈴木さんを守る”と言われた。その場で反対した。
まず、チェアマンが独断で決めていいものなのか、これが疑問だった。
あと、鈴木さんは鹿島時代に累積赤字を減らせず、財政面の手腕について不安があった。
しかし、自分が決めた後継者を反対されたことで川淵さんは気分を害してしまった。
ここから“仲間”と思っていた川淵さんとの間に亀裂が入った」

木之本は日韓W杯期間中、足先などが血行不良で壊死する「バージャー病」に侵され、
それから入退院を繰り返す。職場復帰のメドが立った03年7月24日、退院した。
翌日、Jリーグ事務局に出向いて鈴木(チェアマン)に会った。
入退院で仕事に支障をきたしたことを詫びるためである。
「いきなり“今月いっぱいで辞めろ”と言い放たれた。
病気のことについて一言もなく、一方的に恫喝された。
川淵さんに会って“なぜですか”と聞いても“許さない”としか言ってくれない。
まるで極悪人のような扱いをされた。あのトルシエでさえ
“長生きして”と気遣ってくれたのに……」

26歳で難病・グッドパスチャー症候群にかかって両腎臓を摘出した。
苦しい闘病生活に「殺してくれ」と叫んだこともある。
しかし、「ボロ雑巾のようにサッカー界から追い出されたことが一番つらかった」
と木之本は述懐する。

「岡野前会長(俊一郎、現名誉会長)、
長沼前々会長(健、現名誉顧問)時代には人事を巡るゴタゴタが起きたり、
“会長スキャンダル”が週刊誌上を賑わすことはなかった。
ところがドイツW杯後の人事では、野村さん(尊敬、前協会副会長)の
平理事降格の理由が明らかになっていない。
川淵さんとは早大サッカー部の先輩後輩の関係であり、
趣味のゴルフなどを通して蜜月時代もあったが……。

また、川淵さんが経産省から引き抜いた平田さん(竹男、前協会専務理事)の
退任理由も明確ではない。不可解な人事が協会の風通しを
悪くしているのではないかと、懸念している」
ドイツW杯開催中に一部週刊誌が「川淵会長が協会を私物化」
「講演料収入を94年に設立した個人会社・川淵企画に全額振り込み」と報じた。
「川淵さんは会長就任以来、講演料収入は年間平均743万円と反論した。
だが、いまだにチェアマン時代から年間数千万円の収入がある、
という話は関係者の間では根強い。そんな“疑惑”を払拭するためにも、
情報を開示されるべきと思う。日本サッカー協会は、絶対に川淵さんの
“個人商店”であってはいけない。“アソシーエーション=協会”として、
サッカーを愛する仲間でもり立てていかなければならない。
メディアの責任も大きい。何も聞かない、たださないではだめだ。
是々非々の報道姿勢を期待している」

川淵チェアマンと木之本専務理事――。Jリーグを隆盛に導いた2人だが、
今では会話を交わすこともなければ、視線が交わることもない。
「潔癖で正直な人。正義感もある。しかし、組織の長を務めていくうちに別人になった。
本来の自分と今の自分、そのギャップに川淵さんは思い悩んでいるのではないか。
本来のご自分にかえり、サッカー界をさらに活性化して欲しい」

「私はこの連載で“真実”を書いてきた。無論、私にとっての真実であり、
“木之本、勘違いもあるぞ。思い上がるな”とお叱りを受けるかもしれない。
もし川淵さんから指摘を受けたら? その時は2人でヒザを交え、
じっくり話し合いたいと思う。Jリーグ前夜の頃のように……」