禅次郎のblog

全てのものは疑いうる、 たとえ自分の存在であっても・・・

2012年06月

維新の会 VS テリー伊藤

まず、記事を・・・

維新の会のアイデアに対して、番組コメンテイターで評論家の宮崎哲弥は「クーポンが現金化されたり、クーポンを発行する団体ができると、それが天下り先になる」可能性を指摘しつつ、「やることを検討してもいいかなあと思いますけど」とお座なりのコメント。

一方、テリー伊藤は「ボクは大反対」と声を上げ熱弁をふるった。このようなクーポン制度は、不正受給を前提にしてるが、生活保護を受けている大半は真面目にやっているけど生活が苦しい人たちだという。また、食生活やライフスタイイルは人によって違う。たとえば年配の人だと食費はそんなにかからない。生活保護の残ったお金があったら、それをプールして絵の具を買って絵を描いたり、ネコを飼ったりし、それが喜びになるならいいことじゃないかと、テリーは主張する。

一部マスコミでよく槍玉にあがるパチンコなどのギャンブルについても同様の考えだ。「(生活保護費で)パチンコやってなにが悪い。アダルトビデオを楽しんだらいけないのか。いいじゃないですか。人間、生きてるんですから。そんなことまで全部クーポン券で規制するなんて、北朝鮮と一緒ですよ」

                                      (J Castより転載)



前にTwitterに書いた事があるけど、クーポン券とか商品券とか、まして現物支給なんて事には反対です。

「北朝鮮と同じ」というのは本質的な精神構造を言い当てていると思っています。


不正受給を減らす事に効果があるのはその通りだけど、そのために人権を無視していいってもんじゃない。

いや、もはや人権云々とか言う前の話でしょうか・・・


おいらは受給者がそういう生活を強いられる以上に、そういう生活を強いてもいい人間がいると考える世の中に怖さを感じる。


真面目に働いていても余裕がないって人もいますから、若くて働ける人なら、一定期間そういう生活をしてもらってもいいと思うけど、生活保護者をひとくくりに考えると、病気や高齢で、これから働く事が出来ない人に、何の希望も持てずに、ただ食うだけっていう生活を死ぬまで過ごしてもらうって事になってしまいます。

こんな政策が人間を扱うものとして相応しいとは思えません。

餌を与えて死ななきゃいいというのでは、ペットと同じで”人を人として扱わない”北朝鮮と同じです。


何も湯水のごとく支給しろって言ってる訳ではありません。

決まった支給額の中で、やりくりしているなら、絵の具を買おうと、ペットを飼おうと、パチンコに行こうとAVを見ようと、それはその人の価値観の違いです。

生活保護受給者だからと言って、人から価値観まで奪って、生活を保護しているとは言えません。
人間扱いしているとは言えません。


「生活保護は、生きるか死ぬかの問題」と言った方がいましたが、これは間違っている。

最低限「健康で文化的な生活」を保証するのが生活保護です。


こんな事を損得感情で書かなければいけないのは本当は辛いんですが、この政策が何を意味しているのかを考えれば、生活保護受給者でなくても無関係な話ではありません。

国が(実は自分たちでもあるんですが)国民をどのように扱うかの問題です。

人権を剥奪してもいい人間がいると考える事は、その標的がいつ自分に向けられるか分からないってことです。
つまり、生活保護受給者の人権を軽視するのは、国民全体の人権も軽視しているからなんです。

もっと言えば、国民全体を犬や猫と同じ様に思っているって事です。

今、人権を尊重してもらってると思っている方もいると思いますが、実はそっちのほうが例外であって、言ってみれば「イルカショーのイルカ」が、演技が成功してイワシを貰っているのと変わらないんだと思いますね。




ついでに、これはずっと昔からテリー伊藤さんが言っていて、おいらは最初違和感があったけど、今は分かるような気がしている言葉があります。

「税金を上げたほうがいいっていう国民はおかしい」

と、そのままではありませんが、そんな趣旨の発言をよくしています。


そんなの、時と場合によるだろうって思ってたんですが、最近は「税金をあげた方がいい」と言ってる人は、国に頼りすぎなんじゃないかと思うようになりました。

「えっ、逆だろ・・・」と思うかもしれませんが、これで合ってます。


税金は、出来るなら払いたくないのは誰でも同じです。
しかし、それでは国は立ち行かなくなって、結局自分の生活も立ち行かなくなるので、一定の税金を収めます。

でも、できる限り税金は低く抑えてもらいたいのも、誰でも思う事です。

つまり、税金は喜んで沢山収めるものじゃないので、ここは相手が国や自治体であっても、戦うべきなんです。

国が「これだけかかります」と言っても、それを鵜呑みにして「それなら」と払ってしまうのは、国は正しいと思い過ぎです。

だって、民主党が「仕分け」なんてやっても、たいして金は出てこなかったじゃないか・・・と言うかもしれないけど、この仕分けは現行制度を基準にしていて、仕組み自体を吟味しているとは思えません。


例えば、生活保護に密接に関係している「年金」・・・

サラリーマンには「労使折半」というのがありますね。

民間企業で労使折半するのは、会社が儲けの中でやっている事ですからとやかく言う問題ではありませんが、公務員の労使折半ってなんでしょう?

労使の”使”って役所の事ですよね。

だから役所が公務員の年金保険料を一部負担してるんですが、役所の収入って基本的に税金ですよ。

ということは、公務員の年金保険料納入の為に、我々は税金を払っている部分があるって事になります。

年金を払っているという事ではなく、その保険料ですよ・・・

他人の保険料をせっせと払わされているんですよ。


それで「税金上げろ」って言うのは、簡単に納得していいのかと思っちゃいますね。





最後にもう一回元の話に戻りますが、クーポン券を発行して、食えればいいだろうっていうのは、人を人として扱わない、北朝鮮の様な国を「いい国だ」と言っているのと変わりません。

この問題に限れば、おいらはテリー伊藤に一票いれます。


子供について(2011.5.13記)


これは2011.5.13に別のblogで書いたものの転載(ほぼ)です。

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催眠術にかかった経験のある人に話を聞いた事があります。

例えば「あなたは椅子に座ったまま、立ち上がれなくなる」と言われたとします。

傍で見ているおいらたちは「立てなくなった」と思って見ていますが、催眠術にかかった人はちょっと違う印象らしいです。

「立とうと思えば立てるんだけど、立ってはいけないような気がする」

と言ってました。


おいらは大学の教職課程で教育心理は履修していましたが、それ程真面目に聞いてなかったし、まして子供もいないので、確定した事は言えませんが、子供の性格というのはそういうものなのかと思っています。


勿論、最近では生まれながらにして持っている性格もあると言われているらしいので、全てって事ではありません。




子供が育つ過程で、子供に影響を与える事柄は幾つもありますが、やはり一番影響を与えるのは親です。

そして、その中でも一番子供を縛るのは、親の思い込みだと思っています。


よく、親は、こんな事を言います。

「お姉ちゃんはおとなしくて聞き分けがあるけど、弟はやんちゃなんですよ」とか…

「お兄ちゃんは何考えてるかわからないけど、弟は社交的なのよ」とかです。


これって、親は子供の性格を把握してるんだから、普通の会話に聞こえますが、これって本当なんでしょうか?



実は、親が子供の性格を把握してるんじゃなくて、親がそう思ってるから子供がそう育つんじゃないでしょうか?


子供は大人の常識では計れません。

例えば虐待する親にも子供は愛情を見つけます。

今は仕組みを詳しく書きませんそれが、子供時代に虐待に愛情を見つける事が、虐待の連鎖に繋がるんだと思います。



虐待されている子供を、他人が親と引き離そうとしたり親を怒ったりしたら、子供は自分に暴力を振るう親を庇ったりします。


子供は、基本的に親が無いと生きていけない事を本能的に分かってるんだと思われます。

だから、悪い言い方をすれば親に媚を売るんです。
親が考える自分の性格に子供の方から寄っていくんです。


そして、困った事に本人も自分が親に合わせていると気付いてないようなんです。


親が「この子は、親の言うことをよく聞く」と思ってると、子供はその枠からはみ出したら、親に嫌われるかもしれないと、自分でも意識をしない深層の部分で判断してそう振舞っている。

親はそれを見て「この子は、親の言うことをよく聞く」とまた思う。


それが、思わぬ悲劇を生むこともあると思っています。


似たような事は、大人にだってあります。

周囲の評価をむやみに破れない雰囲気を感じた事はありませんか。

普段はチャランポランだけど、町内会の集まりでは「しっかりしてると思われてるから疲れるんだよ」なんて事はありませんか?

よく言う「キャラを崩せない」ってやつです。


ただし、大人は自分で分かっているので、それ程問題にならないんだと思います。



子供は、特に就園前の子は、ほぼ家庭内が全てですから、気付かないとは言え、ずっとそこにいて無理してる事になりますから、考えてみれば大変な事です。


ただ、それが全くいけない事って訳ではないのも当たり前に言える事です。

大なり小なり、子供の置かれた環境は昔からそうなんですから。


普通は反抗期なんかがあって、ガス抜きをします。


問題だと思うのは、反抗期さえ許されない程の親の思い込みや厳格さです。



よく犯罪者の性格を「小さいときは、親の言うことをよく聞くいい子だったのに」とか「いい高校に行ってて挨拶もきちんとするいい子だったのに」などと近所の人や子供時代の同級生が言っているのを聞きますよね。


おいらは「聞き分けのいい子」「言わなくても勉強をする」等々、つまり子供らしくない子は、どこかにガス抜き出来る環境を作ってやるべきだと思っています。


親は、ついつい今がいい子なら、そのまま立派な大人になると思ってしまいます。

でも、そんな保障はどこにもありません。


親は「いい子にするため」に子供を育ててる訳ではないんですが、今”いい子”なら安心してしまうんですね。

子育ての目標は”いい大人”に、将来なってもらう事だと思うんです。


だから、その為に必要な反抗期なら、受け入れるべきなんだと思います。


ただし、受け入れるからって怒っちゃいけないわけではありませんよ。

小さい時にも「言うことを聞きなさい」と言っちゃいけない訳ではありません。


「この子はこんな子だ」と、決め付けて「自分は親だからこの子の事は分かっている」なんて、あまり自信を持たない事が大切なのではないかと思います。




注)2011.5.13に書いたものです。

万引きは立派な泥棒(2011.3.4記)

これは2011.3.4に別のblogで書いたものの転載(ほぼ)です。




「万引きは立派な泥棒です」なんて聞いた事がありますよね。
 
これ…ふつう「万引きは紛れもなく泥棒」と言ってる…と、大抵の人は考えますよね。
 
そういう風に使ってるし。
 

でも、何度も読むと「あれ?」っと思います。
 
「立派な賞です」とは「讃えるべき賞」って事だから「立派な泥棒」とは「讃えるべき泥棒」とも受けとめられる。
 
これは「万引きは立派な泥棒です」という、この「立派な」の使い方が間違っている気がします。
 


それはどうでもいいんですが、何故「万引き」なんて言葉があるのでしょうか?
 

「泥棒」でいいですよね。
「窃盗」でいいですよね。

「万引き」なんて言葉があるから、軽く考えて盗んじゃったりする…と、言えなくもありません。
 
 

例えば、子供が駄菓子屋でよっちゃんイカなんか盗んだりします。…そりゃ泥棒ですね。
 
許してはいけません。
 
駄菓子屋のお婆ちゃんは親に連絡します。

親は駄菓子屋に飛んで行きます。

そして、駄菓子屋のお婆ちゃんに何度も頭を下げて、二十回くらい我が子のお尻を叩きます、きっと…
 
子供は泣きじゃくり「もうしません」と叫びます。
 
駄菓子屋のお婆ちゃんは「もうしちゃだめだよ」と子供に言ってから
「わかったら泣くのをやめて、これをお食べ。」と、ホームランバー(当たりつきのアイスクリーム)なんかをくれるかもしれません。
 

こんなコントみたいな…
 
でも、昔はありました。
 
 
これを「泥棒」と言って、ひとくくりにしていいのか?って事なのではないか思う事があります。
 
まぁ、「泥棒は泥棒」っていうのは、どんなシチュエーションであろうと否定しきれないんですが・・・
 

誤解を恐れずに言えば、万引きは社会の厳しい(子供にとって)ルールを学ぶ猶予期間に起こる経験なのかもしれません。


ですから、おいらはいい大人に「万引き」という言葉を使うのには違和感があります。

「万引きGメン」なんてよく聞きますが、大人には泥棒でいいように思うんです。




さて、話は変わって偽計業務妨害でカンニングした受験生が捕まりました。
 
携帯で、とあるネット上の質問箱に問題を載せて、答えを聞き出したんですね。

カンニングじゃ警察も動かないし携帯会社も個人情報を教えないからなんだと思うけど、新聞の一面トップで『偽計業務妨害』と書き立てるのは、やり過ぎじゃないかと、ふと思ったりします?
 


昔からカンニングはあります。
 
袖の中から英単語なんかが書いてある紙を引っ張りだしたりしてました。
 

で、肩をポ~ンと 叩かれて「君、受験票を置いて、荷物を持って退出しなさい」なんて言われちゃいます。
 
 
親には怒鳴られ、友達にはバカだと言われ…

彼女は最初「来年頑張りな、私も応援する」なんて優しかったけど、大学に合格して4月からキャンパスライフを送っていた彼女には新しい彼氏が出来ちゃったりします。

そして「浪人生とは生活があわない」なんて言って去っていきます…
 

そのくらいのペナルティは確かにあります。


でも偽計業務妨害で捕まった人はいないと思います。

なんだか動機を追及するみたいな事を言ってるけど、動機は受かりたかったからでしょ。


確かに携帯で外部と連絡をとるとか、質問箱に載せて答えを待つとか、悪質に見えるかもしれません。

でも、小学生が携帯を持ってる時代ですよ。

単に身近にある道具が変わっただけだと思うんですよね。

むしろカンニングペーパーを準備していた方が悪質って場合もありますよね。



カンニングはいけないのは、誰が考えても分かります。

けど「カンニング」が「偽計業務妨害」になった、その差は大学側の都合でしかなく、大学が悪いって言ってるんじゃないんですが、カンニングは偽計業務妨害であるという飛躍に、どうも馴染めません。



まんまとカンニングされたのに個人が特定出来ないという仕組みの問題よりも、まんまとカンニングされた怒りを偽計業務妨害という形でぶつけているようにも見えるんです。



許せと言ってるんじゃないですよ。


おいらだって付属高校ではありましたけど、真面目に大学受験もしましたから、カンニングして大学に入ったなんて許したくはありません。


でも「偽計業務妨害」は・・・



見つけたのなら、退出させればいいし、もし後になってバレてしまったなら「これこれこういう理由で合格は取り消します」と連絡をすればいいように思います。

出来たら「来年は正々堂々と受験される事を期待しています。」くらい付け加えて、次の年の受験番号1番の予約票なんか同封してあったら「あぁ、かっちょいい大学だなぁ」なんて、個人的には思うんですけどね。


そして、もし誰だか分からなければ、それはいたしかたない・・・では済まないんですかね?

おいらは「偽計業務妨害」で訴えるよりいいような気がするんですけどね。



注)2011.3.4に書いたものです。

追記

転載にあたって、窃盗やカンニングを容認する物ではない事は付け加えておきます。
どんな小さな犯罪も、犯罪を犯した側がそれを正当化する事は出来ません。

ただ、被害者側には「訴える」「訴えない」の裁量の余地があって、上の例が当てはまるかどうかは別にして「訴えない」事が悪い方にばかり働くとは限らないと思っています。

どんな小さな犯罪も逃さないのも、それはそれでひとつの見識ですから、多くは語りませんが、上に書いたのはあくまでも個人的印象だと理解して下さい。



ところで、カンニングをした人に怒りを感じたり(一応感じてはいるんです)、偽計業務妨害はやりすぎだと思ったり、色々と負の感情を感じるニュースだったんですが、下の写真を見たときだけは、なんだか正の感情が湧いてきた様な気がしました。

何でも深刻にしてると、人生疲れちゃいますからね。

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これは、次の受験の時だったかな・・・
京大のキャンパスに張ってあったものです。
さすが京大だと思ったんですが、これも「不謹慎」と批判的な方もいて
つくづく「人ってさまざまだなぁ」と思いました。


生活保護 - Ⅱ

生活保護には問題があるのは前回(か、もっと前)書きました。


そもそも、病気や高齢で働けない人と、働けるけど不景気や何かで働けない人や、故意に働かない人を同じ制度で救おうっていうのが間違っているんです。

詳しくは知りませんが、恐らく制度が出来たときには想定していなかったのかもしれません。

生活保護を、働ける人間が貰おうなんて思わないだろうと思っていたのかもしれません。


でも、働けるのに生活保護を掠め取る人間はいたんですね。

それどころか、働いていてそれなりに稼いでいるのに生活保護を受給している人間もいます。


まぁ、当たり前と言えば当たり前です。

人間なんて、いい人ばかりではない。


生活保護の不正受給は、許せないと思っている人は多いでしょう。

でも、生活保護以外にも、こんな事はいっぱいありますよ。


例えば、失業手当なんかどうですか?

探す気もないのにハローワークに通って仕事を探すふりをしている人はごまんといます。

母子家庭手当を偽装離婚で貰っている人もいます。


言っておきますが、だから生活保護の不正受給だって放っておけって言ってる訳ではありませんよ。



さて、働けるのに働く場所がないとか、働かない人には働いてもらったらどうでしょう。

例えば健康な男子には林業に従事してもらったらどうですか。

日本には不要になった、いえ邪魔になった杉の木が文字通り山のようにあります。

これを伐採して、広葉樹を植林したらと思います。


山が生き返れば災害も減るし、花粉症だって減るかもしれません。

そうすれば医療費の削減にも繋がるかもしれません。


働くんですから、給料を払って、勿論税金も収めてもらいます。

そのまま働きたい人は、普通に働いてもいいんですが、他に職業を探すまでの繋ぎにしたい人は週休3日くらいにして、就活も出来るようにすればいい。

一例なので女性はどうするかと聞かれても今は分かりませんが、同じようなシステムで、国が一時雇って給料を払えば、ただ生活保護を給付するよりずっといいし、他に仕事のある人は働けないんだから貰えません。



さて、それより今回書きたいのは、扶養義務の事です。

おいらは、子供に強い扶養義務を課すのは反対です。


日本には年金って制度があります。

本当に子供が親に対して扶養義務があるなら、年金は子供がいない人限定にすべきです。


そもそも、なぜ年金制度なんかがあるんでしょう。

国庫負担だって少なくありません。

高齢化がすすめば、益々税金を投入しなくてはいけません。

勿論保険料も払っていますが、税金だってかなり使われているのです。


これは、近年の家族の形態が、親が子供の世話になる事にそぐわなくなっているからだと思います。

親が、子供の世話にならなくていいようにある制度なんだと思います。


例えば親子が独立した存在とするのを年金型理念、扶養を基本に置くのを生活保護型理念とします。


生活保護は、こういう言い方は差別に繋がるかもしれませんが、どちらかと言えばイレギュラーな出来事です。

普段は年金型理念の中で暮らしているのに、イレギュラーが起こった時だけ生活保護型理念に変えろっていうのは無理があります。

生活保護を受ける人は、あるいはそういう切り替えが必要かもしれませんが、扶養義務を課せられる人は、年金型理念からすれば、親子といえども関係ありません。

それが道徳的にいいのか悪いのかは分かりませんが、年金制度を取り入れるなら、そういう事になります。

繰り返しになりますが、生活保護に強い扶養義務を求めるなら、年金は子供が親を扶養する収入がない人に限るべきです。


年金型理念で、日本はやっていくんだと言うなら、生活保護受給者の子供だけに生活保護型理念を押し付けるべきではないんだと思うんです。





南伊豆、中木の磯「大根」の台湾猿(2011.11.22記)

これは2011.11.22に別のblogで書いたものの転載(ほぼ)です。

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趣味の磯釣りに行く場所に、南伊豆の中木(バス停には仲木と書いてある)って場所があります。

石廊崎の隣の小さな港で、ここから沖の岩場に渡船で渡してもらうんですが、その中にひときわ大きな、岩と言うより島に近い”大根”という磯があります。

ここは昔、石廊崎から出た遊覧船が着岸して、お客さんは島にいる猿に餌をやったりして、またぐるっと回って石廊崎に帰っていったらしいんです。

この猿たちは、もともとここにいた訳ではなく、観光のために台湾猿を人間が放したんですが、遊覧船が来なくなった今も住み着いていて、もう何代も代替わりしているとの事です。

台湾猿は日本猿をふたまわり程小さくした感じなんですが、とにかくすばしっこく、ここの猿たちにとって、この大根が住む世界の全てなんです。


観光客が上陸しなくなって、餌をやる人もいないんですが、猿たちは釣り人の持ち込む弁当や釣り餌を盗んで食べたり、時には釣った魚まで盗んでいきます。

おいらは見たことがないけど、缶ジュースのプルトップを開けて飲んでいたって話も聞きます。


生きるために必死なんですね。


この島のてっぺんには草木や水たまりみたいな池もあって、釣り人から奪った食料や魚と合わせて、どうにかこうにか食料を確保しているみたいですが、勿論恵まれた環境ではありません。

それで、これも聞いた話ですが増えすぎると人口(猿口?)調節をするらしいのです。

具体的に言えば、生まれた子供を殺してしまうらしいんですね。

残酷だけど、子孫を残す知恵なんでしょうね。



子孫を残す知恵ってのは、ここの猿に限った事ではなく、どんな動物にも備わったものですよね。

正確に言えば、子孫を残す知恵ではなく、たまたまそういった行動をとる動物が生き残って、そういう行動をしない動物は、いずれ絶滅へ向かったのでしょう。


この大根の猿も、子孫繁栄の為に生まれた子供を殺している訳ではないと思うんです。


例えば単純に「自分たちの食料確保のために弱い猿を殺している」だけなのでしょう。






話が脱線するけど、こんなのを聞いてどう思いますか?


「ゲートボールをしているお年寄りの足腰は丈夫である」




これを聞いて「そうか、じゃあゲートボールを始めよう」

と考えますか?


でも「足腰が丈夫だからゲートボールをやってる」のかもしれないですよね。




つまり、おいらは子孫繁栄に繋がるような、本能的な特性があるから生き残っているのであって、子孫を残す為にそうしている訳ではないと思うんです。



では、人間はどうして繁栄してきたのかって考えてみます。

人間は、一応食物連鎖の頂点にいます。

天敵がいないんです。

しかし、限りなく増えれば絶滅します。


では、どうして人間は繁栄(今のところ)したのか?

おいらは、戦争をして人口調節したことが、皮肉にも人間を繁栄させたんだと思います。

別に「戦争は必要だ」と言っている訳ではないんですよ。
そこはお間違いなきよう・・・・・


人間のの特性は何かと言えば、他の動物に比べて格段に知恵がある事です。

そして人間は知恵があるから戦争をします。



例えば宗教が原因で戦争をしたりします。


その宗教って何かって言えば、宗教的にはどう考えようとも、所詮は人が作り出したものです。

人の知恵が宗教を作り、その宗教が原因で戦争をしてるんです。



要するに、人間の天敵は人間なんです。


知恵があるから、戦争を回避することは出来る・・・


これは一面正しいけど、見方を変えれば矛盾しています。


もし、知恵を絞れば戦争を回避できるとして、特に天敵のいない人間がどんどん増えたらどうなるかって言えば、やがて食糧不足で滅びると思うんです。


大根の猿が目先の命を犠牲にする事で何代も続いてきた様に、人間も戦争で犠牲になった人がいるから、ずっと地球に住み続けていると言えると思うんです。


それぞれに命を授かったからには、犠牲がでてもいいとは思いませんが、現実はそうして人口調節をしてきたと考えられます。


この事をどう受け止めていいかは難しい問題ですが、結果から見れば戦争をするのは子孫を残す仕組みだという事です。

他の動物流に言えば「戦争は子孫を残す知恵」という事になります。



しかし、知恵は良い方にも使われます。

なんとか戦争をせずに争いを解決するのも、又知恵です。

しかし、それでは人口が増え続ける。

そこで、人間のDNAが働き始めるのではないかと思います。


今、日本では少子化が進んでいます。

社会の構造を考えれば、非常に困った話なんですが、少子化対策が功を奏して人口が増えたら・・・

単純に日本が許容出来る人口を考えれば、少子化対策をして人口が増えた方が怖い様な気がするんです。


戦時中、日本は今より子沢山でした。


貧しくて、子供が大人になる前に死んでしまう様な未開の土地も子沢山です。

戦時中の日本も、未開の土地も、子供を育てるのは今よりもっと大変だったと思うんですが、子沢山なんです。

最近は共働きで、子育てにお金もかかるし施設もないし・・・
なんて言うのは、あんまり関係ないと思ってます。



だから、日本の人口は、今減ってるからって、放っておいても〇〇年後に一人になるなんて計算は意味がないと思います。

ずっと減り続けるとは思わない。

いつか又子沢山の時代が来るんじゃないですかね。


もし少子化対策がうまくいって、人口が増えたら、何かバッサリと人口を減らすような事が起こる様な気がして、ちょっと怖いと思っています。




注)2011.11.22に書いたものです。



袴田死刑囚(2011.1.27記)

これは2011.1.27に別のblogで書いたものの転載(ほぼ)です。

袴田巌死刑囚が心神喪失、執行停止を日弁連が求めたという記事が読売新聞 (2011.1.27)に載りました。


最初に、袴田さんの無罪を信じて戦っている方々、そして何より袴田さんご本人にお詫び申し上げます。
これから書く事は、この方々を深く侮辱する内容かもしれません。
ただ、最後まで読んでいただければ、そのような趣旨ではないと分かっていただけると思います。

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袴田事件の詳細は、袴田事件で検索してもらいたいんですが、つまりは冤罪が濃厚な事件です。

おいらもそう思ってます。


捜査の経過や裁判記録を見れば、時代が違うとは言え、よく有罪にしたと思います。


けど、袴田さんは有罪になり、袴田死刑囚となったんです。


裁判で有罪になれば、それは犯人であると、国がお墨付きを与えたという事です。


だから、袴田死刑囚は殺人犯なんです。法的にですが…

死刑が確定すれば、半年以内に刑を執行する事になってるから、とっくに執行されてないといけない事件です。

おいらはmixiのニュース日記をよく読むんですが、袴田事件は冤罪だから、そもそも未だに死刑囚にしているのがおかしいという意見が多いですね。


時々、事件のあらましを知らないで「殺人犯に人権なんかいらない、被害者の人権を踏み躙ったんだから、具合が悪かろうと関係ない」と書いてる人もいるけど、コメントに「袴田事件を調べてみて下さい」と、たしなめる書き込みがあったりします。


しかし、裁判で死刑が確定しています。

殺人犯なのです。

事実がどうかではなく、この国では、裁判で有罪が確定すれば、それは犯人であるという事です。


日本の死刑支持率は、約九割です。

死刑には賛成してる人も「袴田事件は冤罪だから釈放しろ」とか、人権はないと言った人をたしなめたりしているんです。


人間のする事に100%はないんだから、冤罪が出る可能性は分かってたはずなのにです。


事実と裁判結果はイコールではなく、誤差がある事は分かってたはずなんです。


治安の為なら、間違って死刑になる人もいるかもしれない事は分かってたはずなんです。


袴田死刑囚は裁判で有罪が確定してる殺人犯です。


袴田事件が冤罪というのは、おいらも含めて、みんなの印象でしかない訳です。

何しろ、有罪無罪を決めるのはおいらや、mixi日記を書いてる人じゃないんですからね。


仮に袴田死刑囚が無実だったとしても、国民の九割が死刑に賛成なんだから、間違って死刑になってもしかたがないという事です。

それが法治国家です。

それが死刑制度です。

裁判で有罪が確定してるのに、個人的印象で「冤罪だから釈放しろ」と言っても無駄だし、矛盾しています。


死刑に限らず冤罪はある?

それはそうです。


だから、おいらは死刑と懲役刑の間に線を引きます。


どんな冤罪も認めないなら、刑事罰はなりたちません。

だから、国民は冤罪のリスクを負いながら生活しいる事になります。


つまり、どこまでリスクを負うかの問題なんです。

逆に言えば、国は国民にどこまでリスクを負わせるかということです。


日本は国民主権だから、結局、我々が我々自身にリスクを負わせている事になります。


何度も書きますが、事実と裁判結果に誤差がある事を知りながら、リスクを負わせているんです。

死刑制度とは、そういうものです。


袴田さんの場合は、分かりやすい稀な例ですが、無実なのに死刑が執行された人もいるかもしれないって事です。

時があれば、釈放されたかもしれない方でもです。


袴田さんの死刑に疑問を持つのはいい事だと思いますが、死刑制度は袴田さんが死刑になる様な犠牲を認めないとなりたたない制度です。


あえて、極端な書き方をしました。

本当は死刑に賛成だからって袴田さんの冤罪を訴えて釈放しろと言っちゃいけない事はないんです。


だけど、なぜ袴田さんが未だに死刑囚でいる事や、死刑が執行される可能性がある事を批判するのかを考えてほしいと思っています。


死刑制度に賛成するって事は、認識していないだけで、袴田さんと同じ苦しみを与えてる可能性があるって事だし、あなたの恋人や子供や友人に、そのリスクを負わせてるって事なんです。

死刑というと加害者と被害者の人権を比べる意見が多いけど、その他のリスクを負わされてる、普通の国民の人権も考えるべきだと思うんです。



注)2011.1.27に書いたものです。


村社会

村社会って書くのは「村」に失礼なんですが、いわゆる村社会なんですね、日本って・・・

最近「村」で思い出すのは「原子力村」ですね。


もう皆さん感じていると思うけど、これ程酷いスピーチは聞いたことがない。

そう、野田総理の大飯原発再稼働についてのスピーチです。


だって、おかしいだろって小学生でも突っ込みたくなる様な話でしょ。


「カレーが好きなのでカレーを食べます」・・・分かる!

「昨日のカレーが残っているのでカレーを食べます」・・・分かる!

「昼は食事を抜いたのでカレーを食べます」・・・微妙・・・

「昨日の夜は焼肉だったのでカレーを食べます」・・・さらに微妙・・・

「洗濯物がたまっているのでカレーを食べます」・・・分からない?

「カレーは食べ飽きたのでカレーを食べます」・・・まったく分からない?


「福島のような事故は決して起こしてはいけないので原発を再稼働します」・・・聞くに耐えない???



まぁ、ちょっと中抜きしたけど、大飯はまだ安全対策が出来てないのに、これは話が繋がらない。

要するに、前置きで何を言おうと結論は「カレーを食べます」と言えば、なんとなく説明してる格好だけ整えられるって事なんですかね?


他の原発の可動についての質問には「大飯同様日程ありきではない」とノタマッタ。

どう考えても大飯は日程ありきだろ。



言葉は勇ましい。

「福島を襲ったような地震・津波が起こっても、事故を防止できる対策と体制は整っっている」

「もしすべての電源が失われても、炉心損傷に至らないことが確認をされている」

まだ予備電源もベントフィルターも先々整うって話なのに体制が整っているってどういうこと?

炉心損傷に至らないってどう確認したの?
この状況で炉心損傷に至らない事を確認できる条件は、炉心そのものが無い場合しかありません。


この人、何言っちゃってるのかなって、誰でも思うけど、これを「よく言った」と褒める村の人たちもいるんですね。

結論ありきってのは、分かってはいたけど、この恥ずかしげもなく言い切る裏に何があるんでしょうか?



福島原発の事故調の発表も腑に落ちません。

勝俣さんは菅さんが「撤退はありませんよ」と言ったことは認めています。

事故調は官邸サイドの間違いだとしましたが、間違いだとしたら菅さんが「撤退はない」と言ったことは分かっているので、東電が「撤退をしたい」と言ったという部分が間違いだということになります。

仮に官邸サイドの捏造だとして、そもそも菅さんは「撤退はない」なんて言ってなかったと言うならわかりますが、東電が何のアクションもしていないのに「撤退はありませんよ」と言いに行く訳がない。

ですから、東電が連絡を入れたのは間違いないと思います。

問題は、そこで何を言ったかです。

清水さんは10人程度を残しての撤退は検討していたが、電話をしたかは記憶がないと言ってます。

「そんな事を言った記憶がない」のではなく、電話した記憶がないと言うのはどうもおかしい。


証言を組み立てれば「全面撤退」と言ったかどうかは分からないけど、それを示唆する事は最低限言ったんだと思います。

しかし、今後の原発政策を考えたら「逃げようとした」事は絶対に隠さないといけない事実だったので、電話自体の記憶がないと言ったんだと勘ぐってます。

そして、事故調もこれにのったんじゃないでしょうか。


結局、日本は、政治が動かしているんじゃなくて、そういう村社会が奥で動かしているんだと思うんですよね。

これに逆らうと1mmも動かない仕組みなんですね。



鳩山さんが基地は最低県外と言ったとき、それ自体が良いか悪いかは別にして、誰かが動いた形跡はありません。
まさか鳩山さんが自分で電話して「基地をうけいれてもらえませんか?」とは言わないんですから、誰も動かなければ、話は進まないに決まってます。



TPPとか消費税とかなんとなく野田さんが首相になってから進んでるし、原発の再稼働なんか、あんなにトンチンカンな説明でもあれよあれよと言う間に進んじゃうのは、村人たちの意向に沿ってるからなんだと感じますよね。



つまり、仕事が出来る(進むだけだが)総理大臣っていうのは、村人の方針に従って自らも村人になった人だってことです。


これが日本の発展の為に機能していたのも事実なので、全部否定はしません。
でも、その変なシステムに甘えて、民主主義の危うさを避けてきたつけが回ってきた感じがします。

幕末、幕府を倒すために命をかけた志士たちが、明治政府にとって邪魔になった様な話じゃないかって思うんですよね。



ですから脱原発派は、一生懸命この一点を総理に突きつけて責めたてても埒があかないんでしょうね。

村人は結束が強いし、逆らえば「能無し」のレッテルを貼られて、後世まで「役に立たない政治家だった」という称号をもらっちゃうという鉄の掟がありますから。


おいらは「沖縄の人は、果たせなかったけど『基地は県外』と初めて言った鳩山さんに罵声を浴びせるなんて酷いじゃないか、これでもう二度とそんな事を主張する首相は現れない」と書いたことがあるんだけど、酷いのは自分も同じだったみたいです。



これが日本独特なのかは分からないけど、日本にはこの村社会があちこち沢山あって、例えば芸能界のジャニーズ村、韓流村、秋元康村、吉本興業村、創価学会村、そして電通村なんかも、いかにも村社会って感じですよね。


社会主義は失敗したと言いますが、社会主義の欠点はその思想にあるんじゃなくて、独裁に陥りやすいからだと思います。
おいらは別に社会主義がいいとは想いませんけどね。

ただ、同様に民主主義は、この村社会に陥りやすい欠点を抱えているように思います。



いろいろ乱文で申し訳ないんですが、おいらも含めて、鳩山さんを”ただの”能無しと言ってしまったのは、実は間違いだったんじゃないかと、今は思っています。

仕事をする為には村社会と手を繋がないといけない訳ですから、鳩山さんを批難しているうちは、野田さんの今回の判断を止められない。

勿論これは鳩山さんの資質が高かったか低かったかとは別の問題ですが、村社会に喧嘩を売る総理を、仕事が進んだか進まなかったかだけで判断していては、いつまでも変わらないんじゃないかと思うんですよね。

「#civilactionjapan」について想うこと

「なんだこりゃ?」

このblogのタイトルを見ても、知らない人はそう思うでしょう。

が、知ってる人は知っている(当たり前)のです。


これは、ネットで広がっている、あるプロジェクトです。

「えっ・・・知らないなぁ」という人は、おいらのblogは読んでないって事ですね。

いえいえ、もうぜんぜん構わないんですよ。
有名人でもないおいらのblogなんて・・・

ホント・・・たいした事も書いてないし・・・


でも、このプロジェクトについてはこちらを見て下さいね。
http://blog.livedoor.jp/zenjiro1111/archives/6261177.html


上のblogを見た上で、生活保護についても書いてますので、よければ・・・よければでいいんですよ。
よければ、こちらも読んで下さいね。
http://blog.livedoor.jp/zenjiro1111/archives/6272426.html



さて、このプロジェクト(過去のblogを読んでいただいた事を前提にしちゃってますね)はtwitterから始まったんですが、twitter内はけっこう賑やかです。

当たり前だけど、賛同する人がいれば否定する人もいる。


否定する方の意見は大きく分けて次の五つがあります。

①あの議員さんは正しく、あの芸人さんは不正をしている。
②「個人攻撃するな」と、個人攻撃するのは筋が通らない。
③発起人が名前を明かさないのは、信用性に欠ける。
④意見広告という手段に効果が望めない。
⑤生活保護自体に反対。

総じてこの方たちの特徴は「厳しい」って事です。

上にリンクしたblogを見れば、おいらが緩すぎるって事もあるのかもしれませんが・・・


これは最近知ったんですが、社会心理学では規範意識が高い程差別意識も高いとされているらしいんです。

これは、おいらが常日頃感じていることなんです。


規範意識の元になるのは規律や規則だけど、これはやっかいなんですよね。

規則は守るのが正しいことですね。

こんなのは当たり前なんだけど、隅から隅までズズズイッと守るかと言えば、なかなかそれは難しい。

じゃぁ、守らなくていいのかと聞かれれば「守らないといけない」と答えるしかないんですね。

スピード違反なんかそうですよね。
制限速度以内で、常に走っている人を、教習車以外に見たことがありません。
でもスピード違反をしてもいいとは誰も思っていません。

つまり、難しくても規則を守れというのは「正論」なんです。

規範意識が高い事はいい事としか言えないんです。


ところが、規範意識が高いと差別意識が高くなる。

勿論、本人はそう思っていないはずです。

「俺は差別主義者ではない。悪いから悪いと言ってるんだ。」
と、思ってますよね、きっと。


でもね、それでいいんでしょうか?


この問題を生活保護受給者全般に対しての批判の道具として使ってる人も多いんです。

そして、それを自他共に認める明らかな差別だと思っていない人もけっこういるんです。


あの議員さんにしても「現物支給」とか「クーポン券」なんて言ってますが、これではペット扱いですよ。
飼い犬じゃないんですから、これで生活保護だなんて思えません。

おいらは、こういうのが差別だと思うし、そういう政策が進む後の社会は差別的になると思っています。

これは、運動会で手を繋いでゴールする様な事を訴えている訳ではないんです。

受給者に人並みの生活をさせないから差別なのではなく、現物支給で生活させてもいい人がいると考える事が差別なんです。

これを読んでいる方の中にも「えっ、何がおかしいの?どこが違うの?」という人はいると思います。

結果は同じなんですが、思想が違うんです。


さらに言えば、この問題を在日批判に変化させてる人や同和問題にしている人も多いです。

まぁ、元々人種差別主義者がのっかったって側面もありますから、100%がさっきの理論通りって訳ではないんですが、この流れが怖いんです。



正直言って、生活保護にも問題はあります。


よく生活保護の受給額で語られるのは一人暮らしの受給者が例に取り上げられます。
そりゃ、そういう人が多いんでしょうね。

こういう、生活保護特有のモデルケースの方の受給額では生活はきついと思いますが、他の調査でよくモデルケースに採用される、お父さんお母さん子供二人の場合はかなりの額になります。

税金も医療費も払わない事を考えれば、サラリーマンの平均年収を超えるかもしれません。

それから、言ってしまえば、おいらは「生活が不安定だからとコツコツと貯金をする」芸人は好きになれません。


いろいろ考えたら批判派に入ってもでもおかしくないところもあるんです。



でも、このプロジェクトの趣旨は生活保護をどうするかではないんです。

先程、反対派を五つに分けましたが、賛同者もいろいろです。

あの芸人さんを「別にいいじゃないか」と思う人も「許せない」と思う人もいます。

ですが、「不正くさいから、叩かれて当然」とは思っていないはずです。

いえ、例え明らかに不正でも、おいらは「叩かれて当然」とは思いません。



あの議員さんが取り上げれば、世間の反応がどうなのかは配慮すべきだったんだと思います。
分かっていてやったんでしょうけどね・・・


ですから、おいらは賛同するんです。

叩かれても当然の人間がいるんだという考え方が嫌いなんです。



もう一言だけ書きます。

おいらは「彼らを批判すれば、あなた自身が困る事もあるんです」という損得で話したくありません。

「あなた自身はこまらなくても、想いを寄せてほしい」と言いたいと思います。

なかなか今の世の中では難しいんですけどね・・・

生活保護

母方の祖父のエピソードで、子供の頃聞いた好きな話があるんです。

 ある日の朝、小学生だった母が学校に行こうと玄関に向かうと、祖父が言ったそうです。

 「今日は裏の勝手口から出んしゃい」

 不思議に思った母が「何で?」と聞くと、祖父は窓から外を見て答えました。

 「柿泥棒も気まずいわい」と・・・

 窓の外には、庭の柿の木の下で、袋に柿を詰めている見知らぬ男がいたんです。


祖父は終戦を機に退職したけど、元々は警察官だったと聞いたことがあります。

その祖父がそう言ったというのが、子供ながらにすごく愉快だったんです。

ただ、これは祖父が特別って訳ではなく、この程度の事は社会の潤滑油みたいなところがあったんです。


よくドラえもんなんか見ていると、子供たちが空き地に集まってますね。

空き地と言っても誰かの土地なんですが、そこに子供たちが集まって遊んでいた時代がありました。

自分の家の近くには芝生を植えてある広い空き地がありました。

今、そこには家が50軒近く建っているので、どれくらい広かったか分かると思います。

そこは子供たちの遊び場だったんですが、正月になれば親子で凧揚げしに来てたりもしてたんです。

最近では考えられない事ですが、そんなのは当たり前だったんです。


友達が別の空き地に積んであった土管から落ちて頭を縫った事があります。

今なら管理責任を問われたりするんだろうけど、昔流に言えば「落ちた方が悪い」んです。

勝手に空き地に入ったからではありませんよ。

つまり、道路で転んで怪我をしたのと同じ様に考えていたんです。


確かに他人の土地に勝手に入ったんですけど、空いてる土地に子供が入るなんて当たり前だったし、持ち主も余程危険がなければ、特に「出て行け」とも言いませんでした。

だから、空き地も道路も、そんなに区別がなかったんです。

今なら、道路で転んでも役所に文句を言いに行く人もいますよね。


昔は良かった・・・と言う気はありません。

でも、今の様にギスギスしていなくて、住みやすい社会でした。




生活保護を利用して不正に金を受け取る。

確かにこれは許されないんだろうけど、正直言うと自分の正義感の中でそんなに順位は高くないんです。

悪質なら詐欺で訴えればいいけど、グレーゾーンがいたっていいように思ってます。


まして、生活保護は「生きるか死ぬか」って時に受給するなんて、そんな窮屈な社会はごめん被りたい。


 「あの人、生活保護を貰ってるのに、発泡酒じゃなくてビール買ってたわよ。」

 「だいたい発泡酒だって贅沢よ。」

 「そうよね、あら、見てみて、鳥モモなんか買って・・・むね肉の方が安いのに。」

 「そう言えば夕べ、遅くまでテレビを観てたみたいよ、あそこの電気代だって私たちが払ってる様なものなのに。」

 「そんなのいいほうよ、見て、あの化粧。」

 「この前100均で買ってたわよ。」

 「なによそれ、私たちの税金じゃない、化粧なんてしなくても死なないのにねぇ。」

 「子供が熱がでたって、先週病院で会ったのよ。」

 「保険払ってないんでしょ、私たちが治療費払ってるって事?」

 「そうよ、なのにビールに鳥モモよ、どう思う?」

 そこに当の本人が小さくなって通り抜けようとします。

 「あら、お買い物・・・まあ、今日は唐揚げにビールかしら?」

 「ええ・・・」と小さな声で答えます。

 「いいわねぇ、うちなんか主人が安月給だから、いつも発泡酒なのよ。」


極端に書いたつもりだけど、これでも当たり前だという人はいるはずです。

そして「生活保護は本当に困ってる人にあげるんだ」

と言います。

「その為に、厳しくチェックして無駄を省くのは当たり前」

と言います。


自分は、本当に困っても、こんなチェックを当たり前の様に言われるなら、ホームレスになるか野垂れ死にしたほうがましです。

「本当に困ってる人は、堂々と貰って下さい」といくら言っても、不正受給のチェックが厳しくなればなるほど、世間の私的チェックも厳しくなります。

それは当たり前に想像出来る事です。

生活保護が受けられなくて餓死した人を指して、だから無駄を無くして本当に困っている人に回さなきゃいけないと言っても、現実は無駄をなくそうと必死になれば、受給してもいい人まで遠慮する様になるんです。


もっと言えば、今回の騒動の様に子供が親の面倒を見るのは当たり前みたいな、あやふやな倫理観を振りかざせば、結果は悪くなると思いますね。

そりゃ、財政的にはプラスでしょう。

でも、実際に仕送りしなかったら、親が子供を訴えますか?

強制的に給料から差し引く制度にしたとしても「早く死なねぇかな」という子供を増やすだけです。

そう考えるのが当たり前とは思いませんが、現実はそうだと思いますよ。



それが甘いというならあえて否定はしません。


なにしろ柿泥棒に気を使う血を引いてますからね。



原発の再稼働

3.11の震災時、近所の外資系スーパーの駐車場にのぼるスロープが落ちて老夫婦が亡くなりました。
 
確か旦那さんが70過ぎ、奥さんが60代後半だったと思います。

70年の生涯で、このスーパーのスロープを通る時間なんてほんの僅かで、ほぼ考えなくてもいいくらいだと思いますが、この一瞬にあの地震が来てしまったという事になります。

しかもあの場所の震度は5弱でした。

多くは書きませんが、普通スロープが落ちる震度ではありません。


今、大飯原発が動こうとしています。

福島の原発の処理に、見通しもたっていないこの時にです。


原発の過酷事故なんて、そうそう起きる事ではありません。

震災前に福島原発近で寿命を全うされた方は「やっぱり原発は安全だった」と思って人生を閉じたはずです。

でも、起きるときは簡単に起きるんです。

そんな確率論では語れない様な事故が、簡単に起きるんです。


自分は「100%安全でなければいけない」と、ここで主張するものではありません。

内心は「原発は100%安全でないなら稼働すべきではない」と思っていますが、ここでの主張は違います。

仮に原発を動かすにしても、安全対策や、もし事故が起きたら住民はどう行動するのか、自治体はどう行動するのか、国は何をするのか、関電は何をするのか、又誰がどう責任をとるのか、そういったことがクリア出来てから動かすべきです。

野田さんが「私の責任で」と言ったって、個人で責任がとれる問題ではありません。

取れない責任を「私の責任で・・・」と言うのは余程の馬鹿かペテン師です。

このまま動かして、もし事故が起きたら日本自体がダメになるかもしれないのに、産業とか経済とか言えるのは、事故は起きないと思っているからです。

「そんなにチョイチョイ起きるわけがない」とタカをくくっているんですよ。


国がダメになるとしたら、被害の大きさは無限大で、確率が低くても、どんな利点があってもリスクは無限大です。

その原発を動かそうって時に、国のやりかたは全く理解に苦しみます。

前のblogで、前の前かな?
とにかく、自分は「瓦礫は受け入れよう」と書きましたが、正式に取り消します。


日本国民は、有権者として原発の推進を支持していたんですから、その結果にも責任を持つべきだと言うのが趣旨でしたが、国の横暴で動かす様な原発なら、国民が責任を感じる必要なんてありません。


こう言っては福島の方に申し訳ないけど、福島は東側が海だったから、まだ最大級の事故では無かったと思っています。

大飯で同じ様な事故があれば、もっと大変な事になります。


繰り返し書きますが「危険性はあっても、産業の空洞化が・・・」なんて言ってるのは、そんな事はないだろうと思っているんですよ。心のどこかで・・・


電力が足りないにしても、たかが夏の数時間ですよ。

その数時間がどれほど産業に影響があったとしても、日本が潰れるよりいいでしょう。

その数時間の為にこの時点で原発を動かして、もし事故が起きたら、もう外国は同情なんかしてくれないでしょ。

「日本人は馬鹿じゃないだろうか」と思いますよ。


データが正しいのか分かりませんが、夏のピーク時に電力消費が上昇するのは、オフィスの冷房の占める割合が高いそうです。

だったら、太陽光パネルでも使えばいいじゃないですか。

太陽光は時間や天候で不安定な電源だっていいますけど、暑いから冷房を使う訳で、ピーク時は天気が良い昼間にやってくるんだから、この時間を乗り切るなら、せめて安全性の確認をしっかり出来るまで、そういった対策で乗り切ればいいじゃないですか。

せいぜいこの夏でしょ、問題は。



つまり、原発を動かす理由は、原発のない夏を過ごしたくないからですよ。

乗り切ったら、いよいよ原発がいらない事が証明されちゃいますからね。











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