2025年12月05日
「『無』ではなく、共にある世界 ―ある高校生のおみやげ (ショート法話623)」という動画をアップしました。
「『無』ではなく、共にある世界。―ある高校生のおみやげ (ショート法話623)」という動画をアップしました。
どうぞ、ご覧ください。
https://youtu.be/yMeJbAIp7Tw
以下は、概略です。
先日、或るお婆さんのお宅に、月参りに伺いました。
いつものように、お仏壇の前に座って、お経をあげていますと、ふと、いつもとは違った、変わったお供え物が目に留まりました。
そのお孫さんは、高校の修学旅行で、大阪ユニバーサルジャパンに行ってこられ、そこで、おばあさんはもちろんですが、亡くなったおじいさんにも、お土産を買ってこられたのです。
その高校生のお孫さんは、ユニバーサルスタジオジャパンですから、友達とみんなで、アトラクションでワイワイワイワイ遊んでいる、その最中に、パッと頭の中に、「そうだ。亡くなったおじいちゃんに、お土産を買って行こう」、そう思っておられたんですね。
そういう世界を、この高校生のお孫さんは生きてらっしゃるんです。
その高校生は、この世界をそのように、眺めてらっしゃるんです。
その高校生のお孫さんにとっては、おじいさんは、亡くなって「無」になったのではないんです。
今も、一緒に生きているんです。
お土産を買って行ったら、おじいちゃんが食べてくれるんです。
おじいちゃん、喜ぶだろうと思って買って行ったら、きっと喜んでくれるのです。
そういう世界をその子は生きているんです。
それは、亡き人を、「今も生きている」という世界を、この子は見て生きているからです。
そのように、亡き人が仏となって、仏さまと共に居いらっしゃる世界が、「浄土」なのです。
亡き人は、今も、私のことを見守ってくれているにちがいない。
お供え物をし、手を合わせる時、亡き人と私の心がつながっている。
それは、亡き人が、「無」になったではなく、「仏さま」になって、私たちを見守ってくれているからこそ、その亡き人の私たちを思う心が、私たちに届いているのですね。
『観無量寿経』に、「仏身を観るをもってのゆえに、また仏心を見る。仏心とは大慈悲これなり」とあります。苦から仏を拝む人生に成る仏心とは大慈悲これなり」とあります。
浄土があるからこそ、亡き人は「仏の身」と成っている。
その亡き人を「仏」として拝む時、私たちのことを思ってくれている慈悲の心が、他を思うという「やさしさ」となって私たちに届いているのですね。
※当「善光寺」は、他の多くの寺院同様に、「離檀料(りだんりょう)」は必要ありません。
※随時、水子供養や終活相談も行っております。
※YouTubeで法話を配信しています↓
https://www.youtube.com/channel/UCCQj5-HN4z0FUJhCCnWZQ-A
※これからの予定
※これらの行事は、檀家さん以外も、どなたでも、お気軽に、気が向いた時にふらっとおこしください。
※当寺へは、札幌から普通列車で30 分ほどで幌向駅に到着いたします。幌向駅からは、国道12号を岩見沢方向へ徒歩5 分で善光寺へ到着いたします。
※岩見沢善光寺へのお参りは、こちらをどうぞ↓
水子供養の参考動画
『プレス空知』さん連載のエッセイの最新号(R2,6)です↓

安心のお寺ポータルサイト「まいてら」の善光寺のページはこちら↓
http://mytera.jp/tera/zenkouji39/monk/

善光寺 ご詠歌 「岩舟和讃」「大和流々祖追悼和讃」
どうぞ、ご覧ください。
https://youtu.be/yMeJbAIp7Tw
以下は、概略です。
先日、或るお婆さんのお宅に、月参りに伺いました。
いつものように、お仏壇の前に座って、お経をあげていますと、ふと、いつもとは違った、変わったお供え物が目に留まりました。
そのお孫さんは、高校の修学旅行で、大阪ユニバーサルジャパンに行ってこられ、そこで、おばあさんはもちろんですが、亡くなったおじいさんにも、お土産を買ってこられたのです。
その高校生のお孫さんは、ユニバーサルスタジオジャパンですから、友達とみんなで、アトラクションでワイワイワイワイ遊んでいる、その最中に、パッと頭の中に、「そうだ。亡くなったおじいちゃんに、お土産を買って行こう」、そう思っておられたんですね。
そういう世界を、この高校生のお孫さんは生きてらっしゃるんです。
その高校生は、この世界をそのように、眺めてらっしゃるんです。
その高校生のお孫さんにとっては、おじいさんは、亡くなって「無」になったのではないんです。
今も、一緒に生きているんです。
お土産を買って行ったら、おじいちゃんが食べてくれるんです。
おじいちゃん、喜ぶだろうと思って買って行ったら、きっと喜んでくれるのです。
そういう世界をその子は生きているんです。
それは、亡き人を、「今も生きている」という世界を、この子は見て生きているからです。
そのように、亡き人が仏となって、仏さまと共に居いらっしゃる世界が、「浄土」なのです。
亡き人は、今も、私のことを見守ってくれているにちがいない。
お供え物をし、手を合わせる時、亡き人と私の心がつながっている。
それは、亡き人が、「無」になったではなく、「仏さま」になって、私たちを見守ってくれているからこそ、その亡き人の私たちを思う心が、私たちに届いているのですね。
『観無量寿経』に、「仏身を観るをもってのゆえに、また仏心を見る。仏心とは大慈悲これなり」とあります。苦から仏を拝む人生に成る仏心とは大慈悲これなり」とあります。
浄土があるからこそ、亡き人は「仏の身」と成っている。
その亡き人を「仏」として拝む時、私たちのことを思ってくれている慈悲の心が、他を思うという「やさしさ」となって私たちに届いているのですね。
※当「善光寺」は、他の多くの寺院同様に、「離檀料(りだんりょう)」は必要ありません。
※随時、水子供養や終活相談も行っております。
※YouTubeで法話を配信しています↓
https://www.youtube.com/channel/UCCQj5-HN4z0FUJhCCnWZQ-A
※これからの予定
- 2025年12月1日(月) お茶の間ふれあいサロン 午前11時から午後3時 みんなでお昼をいただき、色々とおしゃべりしたりする会です。午後1時からは、若手僧侶によるお説教があります 予約不要 ※参加費100円※参加者には岩見沢健康ポイントが1ポイント貯まります。
※これらの行事は、檀家さん以外も、どなたでも、お気軽に、気が向いた時にふらっとおこしください。
※当寺へは、札幌から普通列車で30 分ほどで幌向駅に到着いたします。幌向駅からは、国道12号を岩見沢方向へ徒歩5 分で善光寺へ到着いたします。
※岩見沢善光寺へのお参りは、こちらをどうぞ↓
水子供養の参考動画
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善光寺 ご詠歌 「岩舟和讃」「大和流々祖追悼和讃」
zenkojinamu at 20:30|Permalink
2025年12月02日
「思いは消えない―五十回忌が教えてくれること― (ショート法話622)」という動画をアップしました。
「思いは消えない―五十回忌が教えてくれること― (ショート法話622)」という動画をアップしました。
どうぞ、ご覧ください。
https://youtu.be/jgQrnXnjUwU
以下は、概略です。
先日、あるおばあさんの「五十回忌」のご法要をお勤めいたしました。
最近、度々、「五十回忌」をお勤めするご縁を頂いています。
その先日の五十回忌法要の施主となられた方は、そのおばあさんのお孫さんで70歳になられる方です。
その法要をお勤めしていて、ご本尊様の前に飾られた、そのおばあさんのご遺影を、私、拝見していると、「こちらのおばあさんが亡くなって50年のこの日に、このような法要が営まれどんなにか、故人も喜んでおられるだろう」と、読経中でしたが、思わず、ジーンときてしまいました。
世間では、「私の葬儀は大げさにせず簡単に済ませてほしい。遺骨にも執着しないのでその辺に散骨をして欲しい。私のことは、時折、思い出してくれればそれで良い」という意見を見かけることがあります。
しかし、私たち人間は、そんなに都合よく、「時折」、ちょうど良いタイミングで誰かを思い出すことは難しいものなのですね。
私たちの住んでいるこの現世は、「自分の思い通りにはならない」という「苦」の世界です。
そういう苦の世界に翻弄され、忙しさに流され、気づけば時間がどんどん過ぎてしまいますよね。
だからこそ、何かの「節目」や「法要」という「かたち」が必要なのですね。
季節ごとの行事で、平坦な時間の流れを区切り、その都度、気持ちを新たにして、次の季節を迎える。
同様に、何年か毎の「法事」という節目のおかげで、家族が改めて亡き人を思い、その人を中心にご親族が集い、「亡き人との日々」を語りあう。
その時間そのものが、亡き人が今も、「私たちと一緒に居る」という証なのです。
かけがえのない「再会の時間」なのです。
五十年という歳月は、「半世紀」ですから、決して短いものではありません。
しかし、五十年が経っても、ご親族が亡き人のことを思って「集まろう」と思われたその「他を思う」というやさしい心こそ、亡き人がみなさんに遺してくださったものなのです。
五十年たっても、亡き人の存在は消えてはいません。
その五十回忌をされた皆さんを拝見して、むしろ年月を経たからこそ、「ああ、50年経っても、こうしてみんなで思い出すことができて良かった」という気持ちが、より深くなられたのではないかと、私は、感じました。
様々なお参りの中で、亡き人を思い出し、「他を思う心」の実践をして参りましょうね。
※当「善光寺」は、他の多くの寺院同様に、「離檀料(りだんりょう)」は必要ありません。
※随時、水子供養や終活相談も行っております。
※YouTubeで法話を配信しています↓
https://www.youtube.com/channel/UCCQj5-HN4z0FUJhCCnWZQ-A
※これからの予定
※これらの行事は、檀家さん以外も、どなたでも、お気軽に、気が向いた時にふらっとおこしください。
※当寺へは、札幌から普通列車で30 分ほどで幌向駅に到着いたします。幌向駅からは、国道12号を岩見沢方向へ徒歩5 分で善光寺へ到着いたします。
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善光寺 ご詠歌 「岩舟和讃」「大和流々祖追悼和讃」
どうぞ、ご覧ください。
https://youtu.be/jgQrnXnjUwU
以下は、概略です。
先日、あるおばあさんの「五十回忌」のご法要をお勤めいたしました。
最近、度々、「五十回忌」をお勤めするご縁を頂いています。
その先日の五十回忌法要の施主となられた方は、そのおばあさんのお孫さんで70歳になられる方です。
その法要をお勤めしていて、ご本尊様の前に飾られた、そのおばあさんのご遺影を、私、拝見していると、「こちらのおばあさんが亡くなって50年のこの日に、このような法要が営まれどんなにか、故人も喜んでおられるだろう」と、読経中でしたが、思わず、ジーンときてしまいました。
世間では、「私の葬儀は大げさにせず簡単に済ませてほしい。遺骨にも執着しないのでその辺に散骨をして欲しい。私のことは、時折、思い出してくれればそれで良い」という意見を見かけることがあります。
しかし、私たち人間は、そんなに都合よく、「時折」、ちょうど良いタイミングで誰かを思い出すことは難しいものなのですね。
私たちの住んでいるこの現世は、「自分の思い通りにはならない」という「苦」の世界です。
そういう苦の世界に翻弄され、忙しさに流され、気づけば時間がどんどん過ぎてしまいますよね。
だからこそ、何かの「節目」や「法要」という「かたち」が必要なのですね。
季節ごとの行事で、平坦な時間の流れを区切り、その都度、気持ちを新たにして、次の季節を迎える。
同様に、何年か毎の「法事」という節目のおかげで、家族が改めて亡き人を思い、その人を中心にご親族が集い、「亡き人との日々」を語りあう。
その時間そのものが、亡き人が今も、「私たちと一緒に居る」という証なのです。
かけがえのない「再会の時間」なのです。
五十年という歳月は、「半世紀」ですから、決して短いものではありません。
しかし、五十年が経っても、ご親族が亡き人のことを思って「集まろう」と思われたその「他を思う」というやさしい心こそ、亡き人がみなさんに遺してくださったものなのです。
五十年たっても、亡き人の存在は消えてはいません。
その五十回忌をされた皆さんを拝見して、むしろ年月を経たからこそ、「ああ、50年経っても、こうしてみんなで思い出すことができて良かった」という気持ちが、より深くなられたのではないかと、私は、感じました。
様々なお参りの中で、亡き人を思い出し、「他を思う心」の実践をして参りましょうね。
※当「善光寺」は、他の多くの寺院同様に、「離檀料(りだんりょう)」は必要ありません。
※随時、水子供養や終活相談も行っております。
※YouTubeで法話を配信しています↓
https://www.youtube.com/channel/UCCQj5-HN4z0FUJhCCnWZQ-A
※これからの予定
- 2025年12月1日(月) お茶の間ふれあいサロン 午前11時から午後3時 みんなでお昼をいただき、色々とおしゃべりしたりする会です。午後1時からは、若手僧侶によるお説教があります 予約不要 ※参加費100円※参加者には岩見沢健康ポイントが1ポイント貯まります。
※これらの行事は、檀家さん以外も、どなたでも、お気軽に、気が向いた時にふらっとおこしください。
※当寺へは、札幌から普通列車で30 分ほどで幌向駅に到着いたします。幌向駅からは、国道12号を岩見沢方向へ徒歩5 分で善光寺へ到着いたします。
※岩見沢善光寺へのお参りは、こちらをどうぞ↓
水子供養の参考動画
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善光寺 ご詠歌 「岩舟和讃」「大和流々祖追悼和讃」
zenkojinamu at 20:30|Permalink
2025年11月28日
「『そのまま』で、救われる。 (ショート法話621)」という動画をアップしました。
「『そのまま』で、救われる。 (ショート法話621)」という動画をアップしました。
どうぞ、ご覧ください。
https://youtu.be/UL6kz_WSTtM
以下は、概略です。
私たちの暮らす社会は、特定の場合を除いては、何かをするからその対価をいただく、ということになっています。
それだと、理解がしやすいのですが、自分からは何もしないのに救われていると言われると、有り難いのですけどれも、かえって理解がしづらい、ということがあるかもしれませんね。
しかし、「そのままで良い」といっても、何もしないで良い、ということではないのです。
ここで言われる「そのまま」とは、「あなたが仏になるための願いも修行も全て、 わたくし阿弥陀仏が代わって成し終えましたので、もうこれ以上あなたがすることはありませんから、あなたはそのまま、わたくし阿弥陀仏と共にある、その念仏の仏道を歩んでください」と、これが、「そのまま」ということです。
何もしないで、ただ、棚から牡丹餅が落ちて来るのを待っている、というようなことではないのです。
本来は、私が行うべき誓いも修行も、全て、阿弥陀仏の方で、私に代わって成し終えて下さったので、私は、今の状態で、その念仏の道を歩んで行く。
これが、「そのまま」ということなのです。
そして、そのことを知ることができたなら、そのまま、今のままで、益々、喜びと共に、仏道を歩ませていただこう。
西山上人は、こうおっしゃいます。
「何ともなき妄想顛倒の心なれども、南無阿弥陀仏と唱へ奉れば、仏の五劫思惟兆載永劫の願行が、残らず此の中に納まる故に、すべて我が心の善悪にかかはらずして、適かかる機を渡し給ふ大慈大悲の忝なさよと思へば、我等は常没常流転の悪ながら、やがてその心の底に、是をすてたまはぬ仏の慈悲の万徳が充ち満ちたりけるよ、と思う故に、あまりの嬉しさに南無阿弥陀仏と称ふるなり。」(『述成』)
私自身は煩悩を抱える人間であるけれども、そのような私を仏と成らせるために、本来、私が仏と成るためにしなければならない誓いも修行も、全て阿弥陀仏が私に代わってして下さっており、このような私をお捨てにならない阿弥陀仏の功徳の全てが、私の心の底にみちみちているのだなあと思うと、あまりの嬉しさに、南無阿弥陀仏と称えるのである、ということなのですね。
私の心には、依然として煩悩があるのだけれども、その煩悩の心の底に、そのまま、阿弥陀仏の方から入ってきて下さって、私をお捨てにならないで仏さまの方に向かわせている。そのあまりの嬉しさに、「南無阿弥陀仏」と称えるのだ、ということですね。
この煩悩を抱えた私のもとに、阿弥陀仏の方から、駆けつけてくれている。
それが、私の心に満ち満ちて、あまりのうれしさに、「南無阿弥陀仏」と称える。
一時は、苦に振り回されることがあっても、こうして、「南無阿弥陀仏」を称える道を歩むことができるのです。
それはやはり、阿弥陀仏の功徳が、私に届けられ、私の心の底に満ち満ちているから、「南無阿弥陀仏」と称えることができているのですね。
ともすれば、「南無阿弥陀仏」と称えることを、「それぐらいのことできて当然だ」と思われるかもしれません。
しかしそこには、よほどの、大きな力がはたらいているのです。それが、阿弥陀仏の功徳なのです。
どうぞ、その阿弥陀仏の功徳の中で、そのまま、お念仏の仏道を歩んで参りましょう。
※当「善光寺」は、他の多くの寺院同様に、「離檀料(りだんりょう)」は必要ありません。
※随時、水子供養や終活相談も行っております。
※YouTubeで法話を配信しています↓
https://www.youtube.com/channel/UCCQj5-HN4z0FUJhCCnWZQ-A
※これからの予定
※これらの行事は、檀家さん以外も、どなたでも、お気軽に、気が向いた時にふらっとおこしください。
※当寺へは、札幌から普通列車で30 分ほどで幌向駅に到着いたします。幌向駅からは、国道12号を岩見沢方向へ徒歩5 分で善光寺へ到着いたします。
※岩見沢善光寺へのお参りは、こちらをどうぞ↓
水子供養の参考動画
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善光寺 ご詠歌 「岩舟和讃」「大和流々祖追悼和讃」
どうぞ、ご覧ください。
https://youtu.be/UL6kz_WSTtM
以下は、概略です。
私たちの暮らす社会は、特定の場合を除いては、何かをするからその対価をいただく、ということになっています。
それだと、理解がしやすいのですが、自分からは何もしないのに救われていると言われると、有り難いのですけどれも、かえって理解がしづらい、ということがあるかもしれませんね。
しかし、「そのままで良い」といっても、何もしないで良い、ということではないのです。
ここで言われる「そのまま」とは、「あなたが仏になるための願いも修行も全て、 わたくし阿弥陀仏が代わって成し終えましたので、もうこれ以上あなたがすることはありませんから、あなたはそのまま、わたくし阿弥陀仏と共にある、その念仏の仏道を歩んでください」と、これが、「そのまま」ということです。
何もしないで、ただ、棚から牡丹餅が落ちて来るのを待っている、というようなことではないのです。
本来は、私が行うべき誓いも修行も、全て、阿弥陀仏の方で、私に代わって成し終えて下さったので、私は、今の状態で、その念仏の道を歩んで行く。
これが、「そのまま」ということなのです。
そして、そのことを知ることができたなら、そのまま、今のままで、益々、喜びと共に、仏道を歩ませていただこう。
西山上人は、こうおっしゃいます。
「何ともなき妄想顛倒の心なれども、南無阿弥陀仏と唱へ奉れば、仏の五劫思惟兆載永劫の願行が、残らず此の中に納まる故に、すべて我が心の善悪にかかはらずして、適かかる機を渡し給ふ大慈大悲の忝なさよと思へば、我等は常没常流転の悪ながら、やがてその心の底に、是をすてたまはぬ仏の慈悲の万徳が充ち満ちたりけるよ、と思う故に、あまりの嬉しさに南無阿弥陀仏と称ふるなり。」(『述成』)
私自身は煩悩を抱える人間であるけれども、そのような私を仏と成らせるために、本来、私が仏と成るためにしなければならない誓いも修行も、全て阿弥陀仏が私に代わってして下さっており、このような私をお捨てにならない阿弥陀仏の功徳の全てが、私の心の底にみちみちているのだなあと思うと、あまりの嬉しさに、南無阿弥陀仏と称えるのである、ということなのですね。
私の心には、依然として煩悩があるのだけれども、その煩悩の心の底に、そのまま、阿弥陀仏の方から入ってきて下さって、私をお捨てにならないで仏さまの方に向かわせている。そのあまりの嬉しさに、「南無阿弥陀仏」と称えるのだ、ということですね。
この煩悩を抱えた私のもとに、阿弥陀仏の方から、駆けつけてくれている。
それが、私の心に満ち満ちて、あまりのうれしさに、「南無阿弥陀仏」と称える。
一時は、苦に振り回されることがあっても、こうして、「南無阿弥陀仏」を称える道を歩むことができるのです。
それはやはり、阿弥陀仏の功徳が、私に届けられ、私の心の底に満ち満ちているから、「南無阿弥陀仏」と称えることができているのですね。
ともすれば、「南無阿弥陀仏」と称えることを、「それぐらいのことできて当然だ」と思われるかもしれません。
しかしそこには、よほどの、大きな力がはたらいているのです。それが、阿弥陀仏の功徳なのです。
どうぞ、その阿弥陀仏の功徳の中で、そのまま、お念仏の仏道を歩んで参りましょう。
※当「善光寺」は、他の多くの寺院同様に、「離檀料(りだんりょう)」は必要ありません。
※随時、水子供養や終活相談も行っております。
※YouTubeで法話を配信しています↓
https://www.youtube.com/channel/UCCQj5-HN4z0FUJhCCnWZQ-A
※これからの予定
- 2025年12月1日(月) お茶の間ふれあいサロン 午前11時から午後3時 みんなでお昼をいただき、色々とおしゃべりしたりする会です。午後1時からは、若手僧侶によるお説教があります 予約不要 ※参加費100円※参加者には岩見沢健康ポイントが1ポイント貯まります。
※これらの行事は、檀家さん以外も、どなたでも、お気軽に、気が向いた時にふらっとおこしください。
※当寺へは、札幌から普通列車で30 分ほどで幌向駅に到着いたします。幌向駅からは、国道12号を岩見沢方向へ徒歩5 分で善光寺へ到着いたします。
※岩見沢善光寺へのお参りは、こちらをどうぞ↓
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『プレス空知』さん連載のエッセイの最新号(R2,6)です↓

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