2024年11月30日
「『感謝』とともに『祈り』の有る人生 (ショート法話528)」という動画をアップしました。
「『感謝』とともに『祈り』の有る人生 (ショート法話528)」という動画をアップしました。
どうぞ、ご覧ください。
https://youtu.be/XofBvs64wNE
以下は、概略です。
お経が終わると、私は、少し時間が経ってから、後ろを振り向き、「ご苦労様でした」とお辞儀をします。
すると、手を合わせたまま、目をつぶって、「なんまんだぶ…」と称えてらっしゃる方がいらっしゃいます。
お参りが終わってすぐならまだしも、やや時間が経っていても、まだ、その姿勢を崩さず、維持してらっしゃるのですね。
中には、頭を床に付きそうなくらい、身を屈めて、何度も拝礼されている方も、そこそこ、いらっしゃいます。
皆さん、それほどまでに、「手を合わせる時間」、いわば、「祈りの時間」を大切にされてらっしゃるのでしょうね。
その「祈り」というのは、色々なものがあるでしょう。
例えば、今、自分は何事も無く暮らすことができている、これは、ご先祖様のお陰である、だから感謝をしよう、という場合があると思います。
しかし、私が、檀家さんのお参り直後の、その真摯な合掌の姿から感じるのは、そういうものではなく、本当に、「祈っている」というものなのです。
それは、例えば、「父母は、本当に苦労をして私を育ててくれた」とか、或いは、「生前、何もして上げられなかった。せめて、これくらい(供養)はさせてほしい」とか、或いはまた、現世のことで、「今苦労して生活しているあの子、あの人を助けてあげて欲しい」とか、そういった、強烈な「祈り」を感じるのです。
もちろん、祈ったからといって、全てが自分の思い通りになる、とは、ご本人も思ってはおられないでしょう。
でも、祈らずにはいられないのです。手を合わせずにはいられないのです。そうせずには、いられないのですね。
「いまあることに感謝をしよう」というよりも、「後悔」や「懺悔」や「切望」といった、強い感情なのです。
しかし、考えてみますと、何も後悔することがない、懺悔することがない、望むことがない人生というのは、ある意味で、幸せなことですよね。
しかしそれは、本来は、この娑婆の世というのは、「思い通りにならないこと」即ち「苦」を耐え忍ぶ所です。
「自分の思い通りにはならないこと」に遭遇することで、自分の至らなさ、無力さを知り、そのことが、懺悔や内省への祈りに変わって行く。
「苦」に遭遇することで、より謙虚に、驕らずに、拝礼し、手を合わせ続ける人生を歩んで行く。
それこそが、「慢(おごりたかぶること)」に陥らない、「仏の道」なのでしょうね。
南無阿弥陀 ほとけのみなと思ひしに唱ふる人のすがたなりけり
「なむあみだぶ…」と称える姿は、それは、その人が、阿弥陀仏と一体となった姿なのです。
その人が、「今、阿弥陀仏と一緒に居る」という姿、そこに阿弥陀仏の御力が、阿弥陀仏の功徳が、まさにその人を通して、顕れて、私たちに知らせているのです。
そのような「念」の道を、私は、日々、皆様と歩んでいます。
※当「善光寺」は、他の多くの寺院同様に、「離檀料(りだんりょう)」は必要ありません。
※随時、水子供養や終活相談も行っております。
※YouTubeで法話を配信しています↓
https://www.youtube.com/channel/UCCQj5-HN4z0FUJhCCnWZQ-A
※これからの予定
※これらの行事は、檀家さん以外も、どなたでも、お気軽に、気が向いた時にふらっとおこしください。
※当寺へは、札幌から普通列車で30 分ほどで幌向駅に到着いたします。幌向駅からは、国道12号を岩見沢方向へ徒歩5 分で善光寺へ到着いたします。
※岩見沢善光寺へのお参りは、こちらをどうぞ↓
水子供養の参考動画
『プレス空知』さん連載のエッセイの最新号(R2,6)です↓
安心のお寺ポータルサイト「まいてら」の善光寺のページはこちら↓
http://mytera.jp/tera/zenkouji39/monk/
善光寺 ご詠歌 「岩舟和讃」「大和流々祖追悼和讃」
どうぞ、ご覧ください。
https://youtu.be/XofBvs64wNE
以下は、概略です。
お経が終わると、私は、少し時間が経ってから、後ろを振り向き、「ご苦労様でした」とお辞儀をします。
すると、手を合わせたまま、目をつぶって、「なんまんだぶ…」と称えてらっしゃる方がいらっしゃいます。
お参りが終わってすぐならまだしも、やや時間が経っていても、まだ、その姿勢を崩さず、維持してらっしゃるのですね。
中には、頭を床に付きそうなくらい、身を屈めて、何度も拝礼されている方も、そこそこ、いらっしゃいます。
皆さん、それほどまでに、「手を合わせる時間」、いわば、「祈りの時間」を大切にされてらっしゃるのでしょうね。
その「祈り」というのは、色々なものがあるでしょう。
例えば、今、自分は何事も無く暮らすことができている、これは、ご先祖様のお陰である、だから感謝をしよう、という場合があると思います。
しかし、私が、檀家さんのお参り直後の、その真摯な合掌の姿から感じるのは、そういうものではなく、本当に、「祈っている」というものなのです。
それは、例えば、「父母は、本当に苦労をして私を育ててくれた」とか、或いは、「生前、何もして上げられなかった。せめて、これくらい(供養)はさせてほしい」とか、或いはまた、現世のことで、「今苦労して生活しているあの子、あの人を助けてあげて欲しい」とか、そういった、強烈な「祈り」を感じるのです。
もちろん、祈ったからといって、全てが自分の思い通りになる、とは、ご本人も思ってはおられないでしょう。
でも、祈らずにはいられないのです。手を合わせずにはいられないのです。そうせずには、いられないのですね。
「いまあることに感謝をしよう」というよりも、「後悔」や「懺悔」や「切望」といった、強い感情なのです。
しかし、考えてみますと、何も後悔することがない、懺悔することがない、望むことがない人生というのは、ある意味で、幸せなことですよね。
しかしそれは、本来は、この娑婆の世というのは、「思い通りにならないこと」即ち「苦」を耐え忍ぶ所です。
「自分の思い通りにはならないこと」に遭遇することで、自分の至らなさ、無力さを知り、そのことが、懺悔や内省への祈りに変わって行く。
「苦」に遭遇することで、より謙虚に、驕らずに、拝礼し、手を合わせ続ける人生を歩んで行く。
それこそが、「慢(おごりたかぶること)」に陥らない、「仏の道」なのでしょうね。
南無阿弥陀 ほとけのみなと思ひしに唱ふる人のすがたなりけり
「なむあみだぶ…」と称える姿は、それは、その人が、阿弥陀仏と一体となった姿なのです。
その人が、「今、阿弥陀仏と一緒に居る」という姿、そこに阿弥陀仏の御力が、阿弥陀仏の功徳が、まさにその人を通して、顕れて、私たちに知らせているのです。
そのような「念」の道を、私は、日々、皆様と歩んでいます。
※当「善光寺」は、他の多くの寺院同様に、「離檀料(りだんりょう)」は必要ありません。
※随時、水子供養や終活相談も行っております。
※YouTubeで法話を配信しています↓
https://www.youtube.com/channel/UCCQj5-HN4z0FUJhCCnWZQ-A
※これからの予定
- 2024年12月2日(月) お茶の間ふれあいサロン 午後1時から午後2時 みんなでお昼をいただき、色々とおしゃべりしたりする会です。午後1時からは、若手僧侶によるお説教があります 今回は、午後1時からのお説教のみとします 予約不要※参加費100円※参加者には岩見沢健康ポイントが1ポイント貯まります。
※これらの行事は、檀家さん以外も、どなたでも、お気軽に、気が向いた時にふらっとおこしください。
※当寺へは、札幌から普通列車で30 分ほどで幌向駅に到着いたします。幌向駅からは、国道12号を岩見沢方向へ徒歩5 分で善光寺へ到着いたします。
※岩見沢善光寺へのお参りは、こちらをどうぞ↓
水子供養の参考動画
『プレス空知』さん連載のエッセイの最新号(R2,6)です↓
安心のお寺ポータルサイト「まいてら」の善光寺のページはこちら↓
http://mytera.jp/tera/zenkouji39/monk/
善光寺 ご詠歌 「岩舟和讃」「大和流々祖追悼和讃」
zenkojinamu at 20:30