kyousanntoutosihonnronn   【新刊】
  

日本共産党と『資本論』
マルクス主義の曲解とえせ解釈
そして教条主義と修正主義


定価 1800円+税 送料180円   2016年10月刊
     ISBN 978-4-9904618-4-3 C0033  ¥1800

     著者・林紘義

「序文より」

 だから拡大再生産の均衡式の発見は我々のものではありませんが、その正当性と重大な意義の確認は我々のものであり、そのことによって、共産党の資本主義的生産関係に対する浅薄な理解、とりわけ彼らの過少消費説や恐慌論などに致命的な打撃を加え、それらを決定的かつ最終的に粉砕し、一掃することが可能になったと言えます。

   以下は、自著紹介です。
 



核心は「拡大再生産」を巡る議論
「日本共産党と『資本論』」の紹介と若干の解説

 新著の基本的性格

 共産党は「資本主義の止揚克服と共産主義を目ざす」党だそうである。
 しかし同時に、現実的には資本主義や「市場経済」を擁護し、美化さえして(「市場経済」や、「市場経済的社会主義」つまり現在の中国などに対する不破等の賛歌を想起せよ)、その中で民主主義革命あるいは民主的改良をひたすら追求する党だそうである。
 1945年の敗戦後、民主主義社会に移った日本で「民族独立、民主主義革命」を目ざすというが、一体どんな「革命」だというのであろうか。
 ただこのことだけでも、共産党の余りの日和見主義――あるいはそれ以前の、単なる愚劣さ――は一見して明らかである。
 共産党はマルクス主義をその思想的、理論的な根底とする党だそうである。『資本論』をまるで宗教の聖典であるかに持ち上げて、権威的に扱い、「教条主義」に走るが、しかしそれは不破等が『資本論』の根底的な概念や基本的な理論を勝手気ままに解釈し、ねじ曲げることと、つまりいわゆる「修正主義」――『資本論』のブルジョア的解釈や曲解――と決して矛盾しないのである。
 今回刊行された「日本共産党と『資本論』」は、不破等を先頭とする、共産党の『資本論』を中心とした、『資本論』に対する理解と理論――もちろんそれは、彼等の階級的、政治的立場と不可分なのだが――の暴露と告発を課題とするものであるが、それはまた同時に、マルクス主義の基本的で、基礎的な諸概念の擁護もあり、あるいはまたその深化、発展でさえある。
 私の著書を簡単に紹介すると共に、あるいはそれ以上に、ここでは著書のいくつかの困難な、それゆえに難解な概念について、解説もしくは補完的に説明することにした。その方が一般的な紹介よりも有益であると思うからである。

 均衡式の内容と意味

 まず著書で問題にされているのは、資本主義の拡大再生産についての議論である。拙著の第3章で論じられている、『資本論』では2巻21章に関係する問題である。
 ここでまず問題にされているのは、資本主義的生産の拡大再生産は“均衡的に”行われ得るのか(したがって、「均衡式」はあり得るのか)、それともそれは不可能であって、ただ第Ⅰ部門(生産財を生産する部門)優先でのみ行われ得るかという、半世紀、あるいはすでに1世紀にもなんなんとする大きな理論問題、共産党(〝スターリン主義党〟)の実践や政治とも深くかかわる係争問題である。
 もちろん均衡論は存在するというのが我々の立場であり、それを否定するのはスターリン主義理論の一般的特徴であって、日本共産党も例外ではない。
 一つの過剰生産の表式を、私はこの問題についての仲間内での議論の中で持ちだしてきて、スターリン主義的概念を擁護する人たちと対立したのだが、これは私が「発見」したものではなく、敗戦直後の饑餓時代に越村信三郎が『図解資本論』の中で提示していたものであった。
 私は激しい議論の中で、ふと以前に越村の著書の中に、そんな議論があったのを思い出し、彼の本を引っ張り出してきて対抗し、彼の“均衡式”の意義を強調したのだが、それは拙著でも紹介してある。
 Ⅰ 4400c+1100v+1100m=6600
 Ⅱ 1600c+ 400v+ 400m=2400 (表式Ⅰ)
 マルクスは拡大再生産について語る前に、単純再生産についても論じ(『資本論』2巻20章、岩波文庫5分冊80頁もしくは262頁、原書396頁及び505頁)、その「均衡」の条件として、第Ⅰ部門のV(可変資本=労働者の賃金)+M(剰余価値=ブルジョアの消費)が第Ⅱ部門(消費財生産部門)のc(不変資本)に等しくなることを明らかにした。参考までに単純再生産の表式は以下のようである。
 Ⅰ 4000c+1000v+1000m=6000
 Ⅱ 2000c+ 500v+ 500m=3000  (表式2)
 つまり単純再生産の式では、Ⅰの1000vと1000mの和は、Ⅱの2000cと等しいのである。しかるに拡大再生産の式では、ⅠvとⅠmの和が2200であるのに対し、Ⅱcは1600であり、等しくはなっておらず、Ⅰ部門のvとmの和の方が600多く、Ⅱcの方が600少なくなるのであって、「どこに均衡」があるのかいった“スターリン主義的”迷妄が、つまり拡大再生産には均衡は――したがってまた均衡式は――存在しない、事実上Ⅰ部門には600もの「過剰生産」(過剰蓄積)が、あるいは富塚によれば600もの「余剰生産手段」(彼の表式では1000になっている)が存在する――すなわち、ここにこそ恐慌の原因が“究極の”根拠がある等々――といった、たわごとが流行することになり、またそんなたわごとが“マルクス主義経済学”の名ではびこってきたのであり、そんな“マルクス主義経済学”から学んだ愚昧な不破哲三が知ったかぶりをして出しゃばってきたというわけである。
 しかし拡大再生産においては、その出発点において、すでに次の拡大再生産(資本蓄積)のための諸条件の配置換えが行われているのであって――つまり資本蓄積に対応する、生産手段と消費手段の生産がすでに行われている――、表式1は次のように再編されるのである。(拙著「アベノミクスを撃つ」136頁参照)
 Ⅰ (4400c+440c)+(1100v+110v)+550m=6600
 Ⅱ (1600c+160c)+( 400v+ 40v)+200m=2400     (表式3)
 ゴチックの箇所に注目されたい。1式において、蓄積率が50%と想定されたため、資本として剰余価値から550が資本に転化するが、そのうちの440は不変資本に、110は可変資本(賃金つまり労働者の収入)に配分される。そして表式3においては、Ⅰ部門のvとmの和1760は、Ⅱ部門のcの1760と一致している、つまり“均衡的に”置換され得ることが示されている。これは単純再生産の表式の“法則”と同じであり、拡大再生産でもまた均衡的であって、「Ⅰ部門優勢」とかいった、不破等が持って回るスターリン主義の“伝統的な”観念は完璧に否定されて、拡大再生産でも均衡概念的な理解こそが正当であることが明らかにされているのである。

 社会主義の本質をどう理解するか

 もう一つ重要な問題は、私的所有と資本家的搾取が廃絶され、労働が解放された将来の共同体社会――それはもちろん、かつてのスターリン主義体制とか毛沢東体制といった共産党独裁の国家資本主義的専制体制とは全く別の社会であるが――における分配問題について一言語っておかなくてはならない。
 この重要な問題については、我々は、1990年前後、ソ連邦つまりいわゆる「社会主義体制」の崩壊と共産党権力の解体、そしてソ連の経済体制が「市場経済社会主義」といった珍奇なものに“進化”し始める中で、そしてそれに対応して、社会主義の根底や原則を否定して、ありとあらゆるブルジョア的な迷妄が共産党勢力――まさに世界的な現象として――によって語られるようになった中で、彼等に反撃したのだったが、その反撃の闘いの中には、社会主義における分配問題もまた「市場経済」の法則によってしか行われるしかないという観念に対する闘いも含まれていた。
 つまり「悔い改めた」マルクス主義者として、彼等は、マルクス主義の概念として明白に述べられてきた「労働に応じた」分配という観念を捨てて、それもまた「市場経済」や「価値法則」の貫徹によって、その“法則”や運動によってなされるべきだと強調し始めたのであった。
 社会主義における分配には二つの重要な契機がある。
一つは全体の社会的課題として、全体の労働者に消費手段がいかに分配されるか、され得るかというものである。というのは、資本主義では労働の分割と分業が不可避だからであり、生産手段を生産する労働者と、消費手段を生産する労働者がいるからである。生産手段を生産する労働者も、消費手段を生産する労働者も等しく支出された労働に応じて、消費手段の分配を受けるということはどういうことであり、いかになされるかということである。
 この問題は再生産表式によって、簡単に理解され、解決され得るであろう。Ⅰ部門のvとmの和が、Ⅱ部門のcと交換され、置換されるという“均衡式”――拡大再生産も当然同じだことが――にすでに解答が含まれている。
 もう一つの契機は、個々の消費生産物の「価値規定」もまた必要であり、重要であるということである。ここで「価値規定」というのは、個々の消費手段を生産した社会的に必要な労働はどれくらいの大きさか、という問題である。こうした課題もまた解決されなくてはならないのだが、我々はすでに、社会主義における分配問題のこの契機について共産党が語っていることとの対決の中で、回答を与えたのだが、それは、労働者セミナーの報告や議論を特集した『プロメテウス』55・56号合併号にまとめられている。拙著の5章との関連で、しっかり検討されるようお願いしたい。
 共産党やその取り巻きインテリたちが、1991年頃のソ連邦とソ連共産党の解体時に、社会主義における分配問題について、かつてどんな議論をしていたかを当時私は暴露したが(『プロメテウス』同13~20頁参照)、最後にそれを紹介しておく。
 「田中 『労働に応じた分配』といえば、いずれにしても一方に労働量があり、他方に分配量があるわけです。両方を何かの尺度で評価しなければなりません。分配量の計り方はさておくとしても、労働量の方を一体誰がどのように評価するという問題が必ずあるわけです。???その評価をソ連などの旧体制では一言でいえば官僚組織がやっていた。関(恒義)さんは無茶なやり方をしていたといいますが、私は行政的な分業編成方式に固執する限りは、無茶なやり方しかなかったと理解する。
  関 それよりは市場社会の方がいいということです」        (林 紘義)

    (「海つばめ」1286号より)