老いらくの恋

 

老いらくの恋というが、確かに高齢になっても恋を体験することがある。

高齢である故、いろんな社会的制約やそれなりに分別があるのだが、恋

であるからにはそれらを越えて発展してゆくものだ。またよく言われる

ように、その先の人生が長くはない今、自然なこの心の思いを隠してな

んの意味があるのかということでもある。

 さて恋が自然だとして、その自然な感情思いをどう生きるかというと

ころを深く探るべきであろう。自然な感情思いだからと肯定して、それ

に従ってよいのか、それともそれを押し殺して社会倫理に従うことをよ

しとすべきなのか。

 この問いの立て方自体を自分は肯わない。そこではいかなる感情思い

であっても、人間の本質である霊性からどう生きるかが考えられていな

いからだ。霊性においてはじめて倫理と個人の感情思いとの軋轢を超克

してゆく道がある。よって霊性精進に努めて、自らの問題に対処すべき

である。

 男女の交わりに性交、情交、心交、霊交の4段階があるとみる。実際

はこの4っつが複雑に交わり合って流動しているのだが、しかしベクト

ルのあり方を見て、ひとえに霊性へと目指し、そのベクトルにより他を

包摂して、さらにより強い太い霊性のベクトルを培ってゆくべきである。

これが人間として生きるということであり、いまの課題は恋の思いであ

る。

 かの一休和尚や良寛和尚も間違いなく老いらくの恋を生きたのだ。そ

れがなぜ万人の非難の対象とはならず、却って羨望の対象ともなるのは、

二人にあっては明確に、個人的には全く異なったあり方生き様をしたが、

何はともあれ霊性の生活を、つまり僧としての本分を貫いたからである。

良寛和尚には貞心尼の『蓮の花』があって明確だが、一休和尚には『狂

雲集』があって、その文字での字義通りの生活であったかどうかいつも

議論されている。一休和尚の貫徹されている霊性の生活から見れば、あ

の集は大いなる文学上の空想であるが、しかし裏打ちされた実際の感情

を盛り込んだものであろう。これは僧として学人を鍛えかつ盲目の美人

を侍者として傍に置くということができる境涯になければ、『狂雲集』

の真意には永遠に届かないであろう。

 

 よって自分は自分なりの「蓮の花」と「狂雲集」の現代版を編み出し

たい。老いらくの恋で何が悪い、何を嫌悪する。生きるべきは第一にそ

していつも霊性の道に精進して、そこに一切が纏められて、慈悲と智慧

の道に一層精進すべきである。

 老いらくの恋も何の恋も、四無量心と菩提薩多四摂法の貫徹以外に、

その恋の成就はない。性交しようとしまいと、結婚出来ようと出来まい

と、家庭を持とうと持たないとなどということは、時節因縁の曼陀羅世

界の一隅の在り方に過ぎない。曼荼羅は宇宙であり、宇宙に生かされ、

宇宙であるのが我々である。宇宙は時節因縁の大展開である。

 恋を尽くして仏道を尽くす。これが自分のこれまでの人生であったし、

また今とこれからの人生もこの通りである。

 *大聖の一休良寛晩年に女人恵まれ至福を得たり

 *大聖はするに及ばず朝夕にあふるる情け霊に交らふ

 *一休や良寛思へ女人(よきひと)とよき交らひはみ霊の通ひ

                                 

                      2023年春の日


IMG_4031