最近はドゥームメタルばかり聞いている。随分長い間ドゥームはご無沙汰だったんだけど昔のデスメタルの本当の良さを今に体現しているバンドはないのか?と色々探しているうちにFunebrarumと言う素晴らしいバンドに行き着き、そのバンドのメンバーの内二人がEvokenと言うドゥームメタルバンドを他にやっていることを知る。Funebrarumがあまりに良かったのでそうかじゃあEvokenも聞いてみようと手を出してみたわけで。すると何、これがまた90年代初頭あたりの初期My Dying Bride、Anathemaやオーストラリアの伝説的ドゥームデスバンドDisembowelment(ドゥームなのにブラストを使うという世界初のバンドじゃないかと思う)あたりの影響が濃い硬派なドゥームデスで巷のトレンディーなストーナー系ドゥームとは別次元の真のドゥームメタルであることを知る。

ドゥームメタルが急激により単純なロックンロールなノリを重要視するストーナーロックとかと関連付けられて語られるようになった2002年あたりから詰まらなくなってドゥームはもう良いバンドが出てくる基板が終わったんだなと思って遠ざかっていた。そしたらここ2年ぐらいでちらほら「フューネラルドゥーム」とか言う新しいドゥームメタルを表現するカテゴリーの名前を耳にするようになった。ぼちぼちその代表格たるWorshipやPantheist、Esotericあたりは聞いてみてはいたもののたしかにストーナーの軽いノリとは対照的なCathedralのファーストアルバムに忠実なしっかりとクラシック・フォーク譲りのメタルの様式美そのものを受け継いだだけでなくCathedral以上にロック色が皆無なとにかく遅くて異常に重いドゥームメタルをやっているのは分かったが、そこまで「ピーン」と来るものではなかった。と言うよりもFuneral Doomが全体的にまるでスイサイダルな(Suicidal)、自殺志願的な雰囲気、ゴシックメタルにも見られる生ぬるい自己愛の表象に過ぎないself-pityを元にした「死」への憧れみたいなものを持っているように感じたのが気に食わなくてあまり深い興味を見せなかった。自分はself-pityってのは全ての表現活動の敵だと考えている、その理由は人間の精神を後退させるill-conscienceと深い関わりを持っているからだ。「自分は辛い思いをしている」、「誰も僕を好きになってくれない」「だから自分は可愛そうなんだ」、そのために「死」を美化し憧れの的に祭り上げしかし、実際に死ぬ覚悟は無くその「死」へ憧れ辛い状況にある自分自身に陶酔するかわいそうな自分が好きでしょうがない人間をself-pityの極みだと思ってもらいたい。Gothicシーンに良くいるタイプの連中だ。存在の闇や死と言ったものを美化して大げさに表現するこういった傾向は最近のGothic Metalには良く見られるものではっきり言ってクサイし、より強大な実存的地平そしてその精神の成長と一つであるより広大な創造的地平へと飛躍していこうとする意志に欠けている(それも当たり前か、何背かわいそうな自分達の現状を維持したい事が彼らの大前提なのだから − その点self-pityが存在にとって後退的または停滞的精神の動きであることは明白だ) 。まあ、自分はドゥームメタルもそんな方向に落ちちゃったのかなーと思っていたわけ。

しかしそこにきてこのEvokenだ。なんだこれは全然ヤラセっぽい暗さや大げさな闇の美化とかも無い、しかし信じられないほど遅く暗く奥深さを感じさせるドゥームデスメタルだなと感じた。ゴシック的な本質よりも遥かにこれはデスメタルの本質を持ってドゥームやってるバンドだと感じた。まあメンバーの大半がFunebrarumみたいなデスメタルもやってるんだから当然かもしれないが、そこでもう少し最近のドゥームを本腰入れて聞いてみようじゃないかと言う気になった。Evokenみたいなバンドもいるわけだしもしかしたらこのアングラシーンは今良い流れにあるのではないか、それならLets give doom metal another chanceと思ったわけだ。

聞いた聞いた、とりあえず聞きまくった、論文書いてる時も料理してる時も徹底的に最近のドゥームメタルバンドを聞いた。昔さらっと聞いたけどちゃんと評価できるまで聞き込むことがなかったWorship、Pantheist、Esotericはもちろん、オーストラリアのMournful Congregation、ドイツのOphisやFuneral Doomの祖とされるフィンランドのThergothon、Skepticism、もうFuneral Doomと言うジャンルが音楽要素的に固定化され始めていることを明白にするより最近のCollosseum, TyrannyやCatacombsなど。この中でもThergothonとSkepticismは別次元に位置するバンドだってのは分かった。またバンドによって大分精神的傾向と言うか表現世界に差があるのも聞き取ったが、感じた所で特に良いドゥームバンド(これは特にfuneral doomやdoom death系のより極限的なドゥームメタルのスタイルに限ってで、この文ではよりロックンロール的な方向性を持つストーナー繋がりなドゥームに関しては触れない)に共通する「本質」は以下のようなものだ:

1)目的や意味と言った付随的価値観を越えて殺意や暴力、憎しみそのものになりきり、体現するデスメタルに対して極限的ドゥームメタルは絶望、悲しみ、悲壮、喪失感などと言った人間の実存的リアリティーに埋没仕切りそれとの統一を体現する。

2)この埋没は近代の消費物に過ぎない大衆的ゴシックメタルに見る形でのill-conscienceの再来である自己憐憫の形を取るバンドとそれとは全く別の次元で形作るバンドとの2者に分かれる。後者のバンドは人間の実存的闇の中に哀れみと憐憫、一種の安心できる停滞を求めるのでなく、この実際には知りえないディオニソス的領域、カオス的闇を音を通して空間的に作り上げそれとの統一を通してある種の「広がり続け、中心点の無い、自己が実際には存在しない」領域を体現する。自分は後者のドゥームこそがドゥームメタルと言う音楽的媒体のポテンシャリティーを広げ続けていく事の出来る飛躍と創造性を持ち合わせているバンド達と考えている、よってこれ以降自分がドゥームメタルと言う場合後者のバンド群を指す。

3)この手のバンドは歌詞の内容からもより広大な意味での暗い「詩的」また「美学的」探求を感じるが死を賛美したり、自殺や自己憐憫を謳うことは無い。彼らは絶望や悲しみと言った感情・現実を哀れむべきものと考えるよりも自然な現状として受け入れむしろそれと完璧に統一し、極限的状況へと持っていくことによりその内在的ポテンシャリティーを「旅」することを楽しんでいるように感じる。これは彼らがこういった実存的「闇」をたんに一方的に「感情的」にとらえるのではなく「感情」と「物質」即ち「心」と「体」を一つのものとして象徴的な形で空間的に(即ち「存在そのもの」と言う形而上学的感覚として)とらえていることを示唆しているように感じる。聞いている時に感情よりも精神を旅する空間性の構築(spatial atmosphere)を感じさせるSkepticismとThergothonがこの点を最も良く体現している。

4)また彼らの実存的闇への埋没はその闇そのものを停滞としてとらえるのではなく、絶望や悲しみそのものも飛散的、無限に接続的(rhizomatic)で流動的な現実であると言う基礎を元にしているため、現状への停滞を生むのでは無くNietzscheが悲劇的芸術に見たようにそれは本当の意味で人間を「現実」と向き合わせ直面させ、それどころかその中を無限に「旅」させ終には統一させ「楽しませる」ことへ向けられる。よってその本質は人間の表象的意識や理性では理解されえない現実と直面させることにあるので一般的人間(ほとんどの人間)にとっては本当の意味で「恐ろしく」また人間を「不安」にさせる音楽であるべきであると言うことである。この点は度合いの違いはあれデスメタルやブラックメタルにも通ずる共通した要素である(ただそれを行うための手段と表現方法、またどう言った人間の実存的要素に要点を置くのかと言う点で差異する)。その点ドゥームメタルが一般的に受け入れやすい音楽の要素とは正反対に極限的に遅い演奏、単調なリフの繰り返し、極限的なまでの暗さ、聞きやすいはっきりとしたメロディーの不在などといった表現方法に魅力を感じそれを通して構築することの意義ははっきりとしている。

5)近代のCathedral以降のドゥームメタルの殆んどはデスメタルを発端とする音楽だけにデスメタルの本質の一部でもあった「神話的文化」の無意識的復興、即ち人間の価値観と予想的論理に束縛されているアクチュアリティーの表象的「形」の世界を体現するのではなくそれと表裏一体でありまたその源である無限に広がり続ける「想像性」「ポテンシャリティー」「差異」(これらは上記の項目で用いた「現実」と言う単語と同意である)の世界を想像力豊なある種の物語的、神話的narrativeを持った音楽構造の創造を通して体現していることも興味深い。初期のMy Dying Bride, Paradise LostやAnathemaと言ったドゥームデスメタルまた彼らの影響の濃いFuneralやSaturnusあたりにこの傾向は非常に強く現れている。彼らの詩的方向性からも英国ロマン派文学からの影響を通して「神話」的傾向を感じることが出来る。これはいわばキリスト教を代表とする各宗教の救済の夢が終焉を迎えた冷戦後の世界でただもがき苦しみ宛もない空虚感に苛まれていたグランジロックの若者達とは正反対の精神的動きであり、それは人類が自らを閉じ込め、跪く対象としてきた価値観の構造としての「宗教」を再建するのではなくNietzscheの言う所の真の意味での「神話」、いわば自分たち自身の「肯定」と「世界構築」の力を源とするカオスとしての創造性の世界を意味する「神話文化」を音楽を通して体現することにある。

ではここで参考として特に素晴らしかったドゥームメタルのアルバムを2点レビューしようと思う:

leadSkepticism - Lead and Ether
同じくフィンランドのバンドだけにFuneral Doomの創始者として認識されるフィンランドのThergothonの音楽性をそのまま推し進めていったバンドだと感じる。Thergothonと同じように曲は極限までに単純な構成要素からなっておりその演奏はファーストアルバムのころのCathedral以上に遅く、またリフにはロック的ノリの良さは皆無である。Thergothonのようにキーボードが非常に重要な役割を担っており、このバンドではギターが異常に遅いリフを繰り返す後ろでオルガンが遅いメロディーとコード進行を鳴らすことにより音空間の奥行きを与えている。またこのバンドの最大の特徴は曲の構成がインドアーリヤ系民族に共通するトラディッショナルミュージック的であり、ある種儀式的、祭式的であると言うこと。曲は単純なメロディーの繰り返しであり、時にギターリストの行うミュート無しの連続的コード鳴らし、タムを全く使わない遠くの方で鳴り響く地響きの如くスローなドラミングは共にフォーク・祭式音楽的であると言える。そういう意味では電子楽器でフォークをやるようになってからのBurzumやより祭式音楽的な雰囲気の時のGravelandや80年代のDead Can Danceに近い曲構築を感じなくも無い。Skepticismの音楽から得られる雰囲気はさながら太古の忘れ去られた神々の孤独、意味や連続性を持たない「記憶」の断片として表れる闇の祭典を見ているようだ。

歌詞の内容は非常に抽象的でありながら美しくまるで前後の無い絶望的で暗い物語を聞いているような気分になる。しかし不思議とそれは聞いている自分に「絶望」を芽生えさせたり強制すると言った感覚は無く、彼らの闇の世界を旅する上での心地よい空間性を生み出していると言った方が正確だ。1曲例として歌詞を見てみよう:

Aether

Deep in layers unwarm drifting
Lower in depths still descending
On wide billows slowly floating
In colder streams smoothly drifting

Beauty unleashed
Light wind flowing
Heard Silence

A dance to abyss would soon follow
Once another would soon swallow
Darkness as the light most silent
Silence as the darkest of voices

From Silence and anything
To Silence and nothing
Is the path of final solitude

エーテル *古代ギリシャの物理学で光や物質を生み出し構成していると考えられた根源的物質、霊体や精気、天空と言った意味もある

深く温かくない階層でたゆたう
より深く、まだ落ち続ける
大波の上でゆっくりと浮く

美は開示された
光の風が流れる
静寂を聴いた

それに続くのは深淵への舞
一人また一人飲み込まれる
闇こそが最も静寂な光
静寂は最も暗き声

静寂から全てへ
静寂から無へ
それが最後の孤独への道のり

彼らを聞いているとどこか「ムーミン」を連想する。それは日本のアニメのムーミンで見られる人間味のあるヒューマニスト的ムーミンではなくTove Jansenの原作小説版ムーミンであり、喜びと楽しさにありながらもしかしどこまでも孤独的でありこの世界に自分達しか居ないと言った感覚。しかしそれが哀れなのではなく肯定に値する美しさ愛しさを持っていると言う温かさ;闇と喜びが表裏一体である現実。社会や近代文明を好かず孤島で半ば世捨て人のように孤独の中でムーミンを書いたJansen自身の精神が投影されている所も大きいだろうがもしかしたらフィンランドと言う土地柄もSkepticismやThergothonと言ったフィンランドのドゥームメタルに見る感覚とムーミンとの共通性を生んでいるのかもしれない。先日Dutch Doom Daysと言うドゥームメタルのライブイベントで彼らをライブで見ることが出来たが、人間自身も不思議な雰囲気の人たちの集まりだった。Tシャツ買った時に少し直接会話をしたが決して敵対的ではないのだが何か人を寄せ付けない雰囲気をもっていて、それでいて何か温かい雰囲気と言うか。。。格好もメタルをやっていると言った感じではなくとにかく彼らの音楽そのものと同じく不思議な雰囲気だった。

ちゃっちぃファン制作のビデオだけどまあ曲が聞けるから:
Skepticism - Aether


同アルバム収録をもう一曲:
Skepticism - The March and the Stream


fromn these woundsFuneral - From These Wounds
ノルエーのfuneral doomバンド。こんなに精神の本質を掻き毟るような美しい音楽を聴いたのは久々だ。このバンドは音楽的にはとてつもなく危なっかしい橋の上にいるといっても過言ではない。セカンドアルバムまではいかにもfuneral doomだと言いたくなる様な異常なまでに遅くはっきりとしたメロディーの無いギター演奏にデスボーカルが乗るスタイルだったがこのアルバムでより聞きやすいドゥームデスへと転換した。その聞きやすさの一環はちょうどドゥームデスからゴシックメタルの形成へと移り変わり始めたIcons〜Draconian Times期のParadise LostやPentecost IIIからThe Silent Enigma期のAnathemaあたりのゴシックメタルの影響を消化していることにあるのだが、さもすれば直ぐにやりすぎ大げさでクサクサな音楽になりがちなその要素を彼ら自身の精神性の深さに由来する「中身」の密度と「本質」の違いで完璧に説得力のある音楽へと形作ることに成功している。正にドゥームデスメタルとしては最強のバランスだ(他にこれほど上手くやってのけているのはデンマークのSaturnusぐらいだと思う)。しかもはっきり言ってこの音楽転換のお陰でドゥームメタルの本質に背くどころか今まで以上に良いバンドになったと言える。彼らの音楽の暗さはTheater of TragedyやTrail of Tears系のいかにもなゴスメタルの作り上げる自己憐憫とヤラセ感抜群な「闇」ではないので音楽の「本質」が違うのは当たり前の話だがとにかく暗い、しかし本当の意味で美しい。このバンドのそう言った深みは彼ら自身があまりにも「死」に近かったことにも由来しているかもしれない。かつてのベーシストEinar Fredriksenは2003年に病死、またこのアルバムでギターを演奏していたギターリストのChristian Loosも残念ながら2006年に自殺している。このような形で友人達の死を目の当たりにしたことは間違いなく彼ら自身の世界観や精神的探求に実存的影響を与えている側面はあるだろう。何にしろこのアルバム1曲目のThis Barren Skinがこのバンドの全てを物当たっていると言っても過言ではないので、この曲を徹底的にレビューしようと思う:

出だしは美しい聖歌コーラスに始まり、まるで天から天使たちが舞降り立つ光景を見ているようだ。そして正にドゥーミーで重いギターが入ってくる、しかしボーカルはデス声でなく優しい声質で語りかけるようなスタイルだ、また多重ボーカルスタイルの利用方法も巧みでハーモニーの付け方から歌詞のどの部分でもう一人のより繊細な声のボーカルが歌うかと言う曲の物語性を強調する構成能力も申し分ない。この辺はAmazing BlondelとかPentangleあたりの昔のフォークバンドのボーカル技術の巧みさを連想させさえする。そしてコーラスパートで展開される重く暗く引きずるようなドゥームリフと対比するように表れる天に昇っていくようなギターメロディー。ここで自分は文字通り昇天した。言葉が出なくなるほど美しい。この曲を聞いて終始脳裏に広がるイメージはまるで人類が滅んだ後の闇に包まれた廃墟だらけのどこまでも広がり続ける土地の上を非情にもその元で広がる人間の苦しみなどには興味もない天使達が美しい舞を空中で繰り広げていると言った感じだ。絶望と希望、美と破壊が複雑に交差すると言った感じでこれほどまでにそういった要素を完璧に体現して説得力抜群に表現している曲は珍しい。

歌詞など読まずとも聞いた一発目でこのバンドが他のバンドと別次元にいることは明らかだったが後からこの曲の歌詞を読んでさらに惚れ込んでしまった。ドゥームデス系のバンドはMy Dying Brideしかりボーカルは結構な詩人が多いが、ここのバンドのボーカルの歌詞は詩的な美しさを重視する言葉選びの巧みさだけでなく正に「意味」のある深みがある点でずば抜けている。

ためしに歌詞を見てみよう:

This Barren Skin
May I wear you this night
As we marvel at our death
I would wane within your art
As you would become me

Like ashes circling the pyre
With virtues of the seraphim
While prancing indifferently
Amid the devil's fingers

The sun, the moon
Our garments of glee and distress
In their wake we are born dying
Voicing insignificance

Chorus:
Awake with me into glacial skies
As the earth below lies august
Should time be meek we may drink
Of oceans of ageless silence

The north is unfurling
It's presence welded on us
Latent - a monument
Amid ethereal bosoms

We kneel in tragedy on tundra
This barren skin
Ailing slaves to the word
Within the rigid commandment of woe

Shackles corrode lesions
In the morning regions
Where the pores expose
Beneath a cynical host
Designs of irony
Raped and bereft of all
In a sigh of ephemeral room
And eternal baptism of fire

成るべく詩的ニュアンスと意味が伝わるように和訳してみた:

この不毛なる皮膚
今宵「あなた」を着ても良いだろうか
我々が自分たち自身の死に驚嘆する中
「あなた」が私になり
私は「あなた」と言う芸術の中で衰える

炎を囲み舞う灰の如く
美徳溢れる天使達は無関心に
悪魔の指の間を舞う

太陽と月
それは我々の歓喜と絶望の羽衣
その目覚めと共に僕らは死者として生まれる
無意味な産声を上げながら

コーラス:
私と氷河の如き大空の中へ目覚めよう
八月が眠る足元の大地の上で
そして「時」が柔和ならば共に飲めるかもしれない
時間無き静寂の海から

「北」が広がり
その存在は僕らに刻み込まれる
潜在 - 記念碑のように
エーテルに抱かれ

我々は悲劇の中でこの大地にひざまずく
この不毛なる皮膚
容赦なき苦しみの戒律の中で
奴隷達を「言葉」に酔わせる

「朝日」の領域の中で
足かせは傷を腐食させ
そこで傷口より露わになる
その皮膚を宿す冷笑的な主人の下に見えるは…

…無常なる部屋のため息と永遠なる洗礼の炎の中で
犯され全てを失った
皮肉なる構造

文学や詩に精通している方なら理解できると思うがこの歌詞での比喩の利用は非常に深みがありまた美しい。しかしとても複雑なのも事実なので説明を加えたいと思う。まずこの曲の題名はThis Barren Skin、和訳すると不毛な皮膚と言った感じだ、皮膚は基本的に物事の表面的表れの比喩として使われることが多い、内在的「本質」に対してそれを覆い隠す外皮と言った意味だ。よって「不毛な皮膚」と言うとその本質を覆い隠す外皮、表面的、物理的形の世界の不毛さを意味している。最初の4節で使われる「あなた」とはこの皮膚を意味している、「我々が自分たち自身の死に驚嘆する」は本質を失い心が死んだ我々人類のことを指していると考える、よって内在的本質を失った人類はそれを覆い隠すため「あなた=表面的外皮、物理的形の世界」を着込むことを選ぶわけだ。しかしその恐ろしさを意識することなく、よって我々は「外皮」と言う芸術に圧倒され怯えることになる。この曲はよってこの「皮膚」を着込むことを選んだ(物理的形と表面的美への価値観に埋没することを選んだ)人類がその「皮膚」そのものに蝕まれ未来を失う現状を謳っている。その不毛な世界は人類の足かせとなり、「悲劇の中で」「大地に跪」かせる、そしてその皮膚の一端を担っている人類が自ら作り出した信仰の数々も「容赦なき苦しみの戒律の中で」「奴隷達を「言葉」に酔わせる」に過ぎず、何の救済ももたらすことは無い。この曲の中で表現されるのは人類が自ら選んだ道のために自らを絶望的状況に追いやったと言った状況だ。その「皮膚」による腐敗の進行は壮絶で、最後の数節で見られる通りそれは中身の人間を完全に腐食させる。「朝日」に象徴される真理の灯りの元に照らされた「皮膚」はその傷の隙間から「無常なる部屋のため息と永遠なる洗礼の炎の中で犯され全てを失った皮肉なる構造」に成り果てた人間を照らし出す。まさに表も裏も救いの無い絶望的状況だ。しかしその中で彼らが最も強い意志を込めていると感じるのはコーラス部分の歌詞であり、こんな極限的なまでに皮肉で絶望的な人類の状況の中でも彼らは自らの力での救済を示唆する:

「私と氷河の如き大空の中へ目覚めよう
八月が眠る足元の大地の上で
そして「時」が柔和ならば共に飲めるかもしれない
時間無き静寂の海から」

彼ら自身はより宗教に対してストレートに批評的な曲も書いていることからキリスト教に対しても批評的だと思うが(この曲の中でもcommandments of woeと言うのはキリスト教の戒律、即ち排他的宗教構造への比喩だろう)ここで見て取れるのはアブラハム系(キリスト、ユダヤ、イスラム教を意味する)の宗教文化の系譜に位置する一種の「超越」への憧れの影響を受けた比喩だと自分は感じる。この絶望的な物理的世界を乗り越えた天への憧れ、しかしここで重要なのはこの天へ目を向ける動きを決して彼らは他力本願にしていないところだ、大空へ目を向けるのも目覚めるのもその人次第だと言うこと。また彼らは決してこの天そのものへと向かおうと言う意図は謳わない、この歌詞の筆者は天に目を向けるのであって「八月の眠る大地」から離れようとは言わない(八月と言うのは夏の日差し、真理の光が土地そのものに眠っていると言うことの比喩だと理解する)、この物理的世界を捨ててありもしない救済を求めるのではなく悪まで有限で無常なる「時」が支配する世界でその人が大空の美しさを真に見つめる瞳を目覚めさせることが出来るならばその「時」の動きの狭間でさえ「永遠」を見ることが出来ると「時柔和ならば共に飲めるかもしれない時間無き静寂の海から」と歌う。

この曲に限ったことではないが彼らの音楽から得られるイメージは壮絶な悲しみで、「何か」や「誰か」またはそれらの喪失のために悲しいと言うよりもそれは世界の愚かさに対する怒りがもはや臨界点を超えてただ壮絶な悲しみになったと言った感じだ。精神をなおざりにする人間の愚かさそのものが悲しい、人類が愛しいからこそ悲しい、そう言えば分かってもらえるだろうか(この点最新アルバムのブックレットで読める通り彼らがHeideggerの哲学に魅力を感じるのはとても理解できる)。そのため彼らの歌詞はとても詩的なものからより直接的に人類と文明に対する批評的な歌詞も含む。元々「先が無い」とか「未来が無い」「世界の終わり」とか意味を持つ「ドゥーム」と言う言葉そのものって感じの雰囲気を持った感じだ。しかし彼らの美しさの本当の根源はそんな先の無い世界で彼ら自身の持つ純粋な心そのものが闇を照らす光であることに由来している。彼らは意識しきっていないことかもしれないが、彼らの音楽はどんなに悲しく暗くても全く絶望的でないのだ。そこには必ずどこかにある光を求めて他力本願に彷徨う怠け者ではなく自分達自身がその光となろう、光を自らの足で求めようと言う意志が現れているのが明らかだ。なんて素晴らしいんだ。君達のような人間がいるから音楽は死ぬ事がないんだ!こんな音楽に出会えることを僕は今日も幸せに思う。これだから音楽を探求し聴くことは辞められない。

音質悪いけどまあいちお:
Funeral - This Barren Skin


曲が短く編集されてるけどミュージックビデオもある、低予算気味で泣けるwこの素晴らしい曲をさらに際立たせるようなもっと違う作り様があっただろうにorz: