1: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)15:04:39 ID:n3Uo5mUGx
世界中には歴史に埋もれた未解決の怪奇事件や消失事件が数多く存在している。
その中でも実際にはなかったと目される事件を挙げていきたいと思う。

open2ch
2: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)15:04:54 ID:n3Uo5mUGx
栢野藩消滅事件

江戸初期のこと、東北の陸奥の国の山奥に栢野(かやの)藩という12000石ほどの小藩があった。
この藩は通り抜けることの出来ない行き止まりの街道の最奥に存在しており、その性質上、雪に閉ざされている1年の内の半年は、もともとその存在の確認が困難な藩であった。
そんな栢野藩であったが、ある春の雪解け、その様子がおかしいことにまず隣藩の南部藩の商人たちが気がついた。
いつもなら雪解けとともに売買にやってくるはずの栢野藩の民衆がやってこないのだ。
他にも、栢野藩へ嫁いだ娘から連絡が無いだの、栢野藩との行き来が春とともに恢復しないことに周囲は少しずつ騒ぎ始めた。
この小さな違和感が決定的な異常事態として認識されたのは、栢野藩へ物を商いに行く行商人たちが青ざめた顔で盛岡の城下へ戻ってきた時である。
彼らは口々に栢野藩が消滅してしまったと報告した。
彼らがいつもの通り栢野街道を栢野の城下へ向かっていると、まず和賀の峠にあるはずの関所が無くなっていた。
そこにはあたかも最初から人工物など存在していなかったかのようであり、道も獣道に戻ってしまったかのようだったという。
そして城下に至るまで一件の民家も存在しなくなっており、糸生川と推鍋川の合流地点に存在してた城下も、城ごと全て消え失せていたそうである。
この報告に驚いたのは隣藩の南部藩であった。
南部藩と栢野藩は通婚関係にあり、関係も良好であった。
南部藩はすぐさま栢野藩の捜索隊を組織し、事実確認にあたらせるとともに、使者を出して栢野藩の江戸屋敷にその急を知らせた。
10日ほど経って捜索隊が詳しい事実を藩へ報告した。
やはり行商人が言うとおり栢野藩はその全てが消失しており、城下が存在した痕跡も見つからないとの事だった。
事を重視した南部藩は情報を集取するとともに、ひとまず栢野藩の江戸屋敷からの返事を待ったが、江戸へ出した使者が更なる驚くべき報告をもたらした。
なんと江戸にあったはずの栢野藩の屋敷が、綺麗さっぱり消滅してしまったという事である。
困り果てた南部藩はこの事実を幕府に報告し、裁断を仰いだ。
このにわかには信じがたい報告に、当初幕府側は懐疑的であったが、自ら調査に乗り出すとそれが事実であることを認めざるを得なかった。
幕府は仕方なく栢野藩を取り潰しとし、その生き残りが居ないかどうか広く天下に探し始めた。
しかし名乗り出るものはなく、以降栢野藩が復活することはなかった。
この話は江戸でたいそうな話題になり、怪談として語り継がれることとなった。

3: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)15:06:14 ID:n3Uo5mUGx
シャーラカンドガラス化事件

シルクロードのタクラマカン砂漠にあるオアシス都市、シャーラカンド(中国名沙蘭汗)は、ホータンとサマルカンドの中間に位置するシルクロード交易の中継地点であった。
630年、中国で言う唐の時代にこの都市がガラス化して消失してしまうという大事件が起きた。
ちょうどシルクロードを通行している途中のキャラバン隊が、その時の様子を20キロ程離れた地点から目撃している。
キャラバン隊が砂漠の昼間の強烈な太陽を避けて夜に移動していた時である、その夜のうちにシャーラカンドにたどり着くかという距離で、突然シャーラカンドの方角から太陽が昇り始めたのを目撃した。
夜明けには明らかに早すぎるその不審な太陽は、しばらく輝いた後に消え、その後大音響と共に大嵐がやってきた。
これはシャーラカンドに何か起きたに違いないと思ったキャラバン隊は早足でシャーラカンドへ向かった。
そして、明け方にシャーラカンドについたキャラバン隊は恐るべき光景を目の当たりした。
なんと、シャーラカンドがあった辺りは一面緑のガラス片に覆われており、シャーラカンドは消失してしまっていたのだ。
驚いたキャラバン隊は、知り合いの安否を確認するために都市の中心へ向かった。
しかし中心部はものすごい熱気に覆われており、とても侵入できる状態ではなかった。
食料等の補給がシャーラカンドで出来なかったこともあり、キャラバン隊は長くそこに留まることも出来ず、仕方なしにホータンへと戻ることにした。
ホータンへ戻る間、このキャラバン隊の隊員の体に異常が現れ始めた。
髪の毛などの体毛が抜け始め、皮膚に赤い斑点が現れたのである。
中には血便が止まらなくなり死亡した者もあり、キャラバン隊はシャーラカンドの呪いが降りかかったと恐れおののいた。
何人かの犠牲者を出しホータンへ帰還したキャラバン隊はその恐怖の体験を周囲に触れ回った。
その後も他のキャラバン隊によって、次々とシャーラカンドの消失が報告されたが、決まってそれを目撃したものには呪いが降りかかり、数カ月までの間に苦しんで死ぬので、正式な調査隊も送られることはなく、シャーラカンドを経由するシルクロードルートは禁断のルートとされ廃止された。
今ではシャーラカンドの正確な位置もわからなくなってしまい、数々の探検家がその発見のためにタクラマカン砂漠へと足を踏み入れたが、21世紀になる今に至るまで発見されていない。

5: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)15:09:50 ID:lR58HHmqP
おもしろい

6: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)15:17:45 ID:xu7ZQRtOf
ふむ

他には無いのかね?

7: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)15:18:01 ID:n3Uo5mUGx
今買いてる。

8: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)15:18:28 ID:CEfBjPwtt
原文でよこせ

9: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)15:18:47 ID:n3Uo5mUGx
原文なんてないよ。俺の創作だもん。

10: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)15:19:06 ID:cHGYcIYq8
>>9
お前っ!?

11: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)15:19:15 ID:luSdidMjr
良スレの予感

12: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)15:19:44 ID:n3Uo5mUGx
ええっと、このようにそれっぽい事件をでっち上げてアップしていくスレです。
みなさんもどうぞ!

13: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)15:20:26 ID:617DnOfBZ
最近のは無いの?

14: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)15:20:56 ID:n3Uo5mUGx
ゆっくり考えてゆっくり書き込んでいくから待っててね。

15: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)15:22:04 ID:7CgUPO76B
>その中でも実際にはなかったと目される事件を挙げていきたいと思う。

よく読めよ、まぁ面白いけどなw

16: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)15:28:29 ID:lR58HHmqP
ファ!?

これはいっちの作品ってことか??

17: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)15:28:55 ID:MQghhKg3X
やっぱりか 前の時元ネタググってもかすりもしなかった
文章うめえな 聊斎志異読んでるみてえだ

18: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)15:29:09 ID:n3Uo5mUGx
礫陽人体溶解事件

西暦720年頃、唐の時代の中国洛陽の街の近くに隕石が落下した。
この隕石の落下の衝撃で一つの邑が滅び、その跡地には水が湧き始めた。
誰が言い出したか、この泉の水は万病に効くと噂になり、洛陽の住民はこぞってこの泉を飲み始めた。
やがて噂は周囲に広まり、遠く長安の都からこれをわざわざ飲みに来る貴族まで出てくるほどであった。
しかし、その隕石の落下から数ヶ月がたった後、洛陽の街で不可思議な病が流行り始めた。
それはなんと人体が溶けてしまうという奇病であった。
その症状は、まず手足の末端の痺れから始まる。
そして感覚が完全になくなると、骨と肉は溶け、手足はまるで水を入れた革袋のようになってしまう。
その溶解は徐々に進行していき、最後には身体の重要器官まで溶解してしまい死に至るという恐ろしいものであった。
副首都である洛陽のでこのような奇病が流行していることを問題視した唐は、皇族の一人である李隆基(後の玄宗皇帝)を洛陽に派遣し、実態を調査させた。
李隆基はまず、洛陽以外でこの奇病に罹っている者を調査させ、その者達の共通項目を探った。
すると、この奇病に罹っている者が全て隕石の泉の水を飲みに行っていたことがわかった。
これに強い因果関係を感じた李隆基は直ぐに泉を埋め立て、その周囲に近寄ることを禁じた。
すると新しい患者は一切生まれなくなり、人々は李隆基の叡智に感嘆し彼を讃えた。
その後、この埋め立てられた泉の跡地に敢えて近寄るものは居なかったが、いつしか流民や棄民が流れ着いて住み着くようになった。
ならず者の街として発展したこの街は、隕石から名をとったのか、いつしか礫の街、礫陽と呼ばれるようになり、現在へとその歴史を紡いでいる。
今では中国のヤクザ、黒社会の出身地として有名なこの街だが、人水刑という特殊な溶液で人体を溶かす拷問が横行しているのは歴史を知る者が始めたものなのか、はたまた偶然なのかはわからない。

19: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)15:32:47 ID:yun63fk3C
>>18
これ確か隕石じゃなく原爆の実験だったらしいな

20: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)15:53:27 ID:pk5uB13mF
他の話はよ

21: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)15:54:42 ID:n3Uo5mUGx
のんびり書いてるから待っててね。

22: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)16:17:47 ID:99NQfC0Xo
ほんとの話かと思った。
やられた!

もっとやれ!

23: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)16:18:40 ID:n3Uo5mUGx
日本軍集団ワープ事件

大日本帝国陸軍第三師団は名古屋周辺の出身者で構成された師団であった。
主に大陸方面(日中戦線)で活躍し、上海事変などに投入されたのが特に有名である。
事件はこの師団に属している第181小隊(隊長の名前をとって通称山田小隊)で起きた。
山田勝己中尉は士官学校出のごく凡庸な指揮能力を有した士官であったが、食料に対する嗅覚が非常に優れており、食料現地徴発任務にあたった時は、決まって他の部隊の数倍もの食料を手に入れるので重宝されていた。
(山田中尉の名誉のために言っておくが、この時期の徴発は決して略奪ではない。きちんと軍票や他の物資と交換しているものである。しかしなにぶん食料不足なので、交換できる食料を有する百姓を探すのが難儀なのであった)
本人曰く、美味そうな匂いに釣られて行くだけということであったが、他の人間には理解不能な感覚であった。
最前線に出しても目立った活躍はないが、食料徴発に出すと大活躍するので、いつしか山田小隊は前線に出されることはなくなり、食料を探す専門部隊として運用されるようになった。
このため、山田小隊が所属している大隊は食料に困ることはなく非常にありがたがられたという。
しかし、ある日突然事件は起きた。
第三師団が鎮江を抜いて、そろそろ南京に迫ろうかとしていた時、いつもの様に食料徴発に出た山田小隊が帰還しなかったのである。
前線に出されたわけではなかったことから、大規模な交戦があったとは考えられず、直ぐに生存者の捜索隊が出されたが、小隊の中で誰一人として帰還する者が無かったことから、山田小隊は全滅とみなされ、戦友たちは自分のお腹が鳴る度に彼らの死を惜しんだ。
時は流れて、1945年8月28日の事である。
終戦直後の国民党軍南京基地に第三師団181小隊を名乗る部隊が投降した。
日本軍の投降を受け付けていた国民党軍は、すぐさまこの部隊の照会を日本側に行うと、日本側から驚くべき回答が帰ってきた。
その部隊は何年も前に全滅したはずだという事であった。
しかし当時は全滅したとみなされた部隊が、ゲリラ戦しながら生き残った例もあったので、生存であったという事でこの部隊の投降は無事受理された。
そして部隊を日本に帰還させるために国民党軍が作成した名簿を見た復員省は驚愕した。
なんと181小隊、山田小隊はその人員を一人も欠けることなく生き残っていたのである。
しかも更に驚くべきことに、隊員は皆丸々と太っていてまるで布袋さんの集団が投降してきたようだったということである。
復員省はその状況を訝しみ、彼らが日本に帰還するとともに本庁に召喚して事情を聞いた。
すると、山田中尉が語った内容は常軌を逸していた。
まず、彼らが全滅したとされたその日、彼らはいつもの様に食料を徴発するために江南の村々を回っていた。
すると突然まばゆい光に包まれ気を失い、気が付くと見知らぬ土地に全員飛ばされていたそうである。
突然の超常現象に隊員たちは恐慌に陥ったが、山田中尉の
「ここには美味そうな匂いがあふれててかんわ」
という一言に冷静さを取り戻し、本来の任務に立ち返り食料を探し始めた。
するとあろうことか、そこには米や小麦が自生し、野生の豚や牛が歩きまわり、海には魚介類があふれていたそうだ。
人影は全く見当たらなかったが、山田小隊は狂喜乱舞し、毎日きしめんやえびふりゃあを作っては宴会を続けていたそうである。
一応原隊への復帰も考えて元に戻る道も探したそうであるが、直ぐに今いる場所が離島であることがわかり、彼らは原隊復帰を諦めて料理の開発に勤しんだ。
それからは毎日が酒池肉林であったそうだが、菅木(すがき)太郎なる隊員が、ラーメンと先割れスプーンは発明してすぐさま副隊長に任命された。
そんな天国のような毎日を過ごしていた時、島に大きな嵐がやってきて、彼らは陣営ごと波にさらわれてしまった。
そして、目覚めた時には長江の河川敷に打ち上げられていたそうである。
武器を流されてしまい持っていなかったため、焦った彼らはとりあえず残っていた手持ちの食料を周囲の村人に配り情報を収集した。
すると驚くことに、自分たちが原隊からはぐれてすでに数年が経っていることが判明し、しかも日本が敗れて国民党軍が投降を受け付けているということであった。
彼らは戦闘を続行することの愚を悟り、どうせ没収されるならと村人と大宴会を開き、後日投降したそうである。
この話は復員省には現実味がないとされ正式には記録されなかったが、よしんば彼らが任務を放棄して敵前逃亡した事実を隠蔽してこのような与太話をしていたとしても、今となってはそれを裁く軍事法廷も存在しないので、特に罰することもなく全員除隊したそうである。
その後隊員の一人が、島での経験を元にラーメン屋を開いたというが、その真偽は定かではない。

24: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)16:49:08 ID:n3Uo5mUGx
哲人シュリーティ

西暦200年頃、インドのサータヴァーハナ朝での出来事である。
シュリーティという哲人が在野で名声を得ており、庶民から貴族にまで幅広く信仰を集めていた。
(残念ながら、彼が宗教家であったのか哲学者であったのか、どのような事を説いていたのかは現代には伝わっていない)
彼は定住せず、各地で自説を説いて回っていたらしいが、彼が一度足を止めれば、そこは街になり市ができ、それは大層な人気であった。
中には彼に為政の是非を問う大臣まで現れ、時の王はこれに嫉妬し彼を殺そうと企んだ。
王はまず彼を城に呼びつけ、そこで謁見中に殺そうとした。
シュリーティのシンパたちは彼に登城することをやめるよう忠告したが、彼は道理のないものが自分を殺せるものかと意に介せず登城してしまった。
これにほくそ笑んだ王は、シュリーティが登城するとすぐに謁見を許し、話もそこそこに伏せてあった槍兵に彼を突き殺させた。
しかし、シュリーティは体中の穴という穴で槍を受け止め、刺客の攻撃を全て躱したという。
刺客が焦って槍を引き抜こうとすると、槍はしっかりと穴に咥え込まれていて引きぬくことが出来なかった。
恐れをなした刺客はそのまま逃げ出してしまい、謁見の間には王とシュリーティだけが残された。
シュリーティはそのままの姿で王の下へと近づき、王は泣いて彼に命乞いをした。
しかしシュリーティはそのような王に博愛と許容を説いて、王に一度触れると、王を殺める事なく立ち去ったという。
その後、王は人が変わったかの様に英邁になったが、何故か二度と王座に座ることはなくなり、常に立ちながら為政を行うようになった。
人々はそれを謙虚と意欲の表れとして王を褒め称えたが、王は尻に痛みを背負ったのだと言う者もおり、真偽の程はよく分かっていない。

25: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)16:57:55 ID:ppAjLdQqF
これ全部作り話なの?

26: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)16:58:40 ID:n3Uo5mUGx
>>25
そうだよ。小説書こうと思っているんだけど、その練習で有りもしないことをそれっぽく書いてみてる。

27: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)17:44:20 ID:n3Uo5mUGx
アラッサナム朝、王連続怪死事件

マケドニアのアレクサンドロス大王の死によって、空前の大帝国が崩壊し分裂した時期の話。
わずか10年で滅びたアラッサナム朝という王朝があった。
この王朝は10年で8人も王が怪死して滅びるという世にも奇妙な末路を辿った王朝として有名である。
アレクサンドロスの死後、マケドニアの将軍であったマニソスは帝国の崩壊に乗じて独立し王を僭称した。
彼は同僚のアンティゴノスと書記官のエウメネスの支持を得てマケドニア内での立場固め、あっという間に自分の駐屯地域の長老会議の支持を得ることにも成功し(かなりの金をばらまいたそうだが)、わずか数ヶ月で己の政治基盤を確立し独立を宣言した。
その即位式の事である、城のテラスから広場の大衆に向かって即位の杖を振りかざすマニソスに向かって一本の矢が放たれた。
その矢はマニソスの左胸に突き刺さったが、そこにはちょうど新しく作ったばかりの己の横顔を彫った硬貨がしまわれており、矢はその硬貨に阻まれてマニソスの肉体を傷つけることは出来なかった。
これを天佑としたマニソスは、矢を引き抜くとテラスの手すりによじ登り、それを高らかと民衆に見せつけ、己の天命による支配の正当性を民衆に見せつけようとした。
その時である、感極まって絶叫するマニソスは、手すりから足を滑らせ滑落し、広場に集まっていた民衆数人を道連れにして落下死してしまった。

28: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)17:44:41 ID:n3Uo5mUGx
この突然の王の死に困り果てたのは残された遺臣たちである。
せっかく得た己の地位が、王朝とともに今にも崩壊しそうになっている現実に恐怖した遺臣たちは、マニソスの甥を担ぎあげて新たな王とすることにした。
このわずか15歳の新しい王はコロッポスといい、完全な傀儡として王宮内で遊ばされていた。
この少年王はイタズラが大変好きで、女官の服の中にカエルを入れたり、大臣の靴を釘で床に打ちつけ固定し大臣を転ばせて喜んでいたそうである。
ある日コロッポスは新たな遊びを求めて幾人かの商人を謁見し、その中から不思議な薬を売る商人を見出した。
この商人の薬は、飲むだけで楽しくなり、まるで飢えた蜘蛛のような気分になると大変ごきげんであった。
その後コロッポスの奇行は薬の摂取とともに加速していき、盗んだ馬で走りだしたり、夜の厩舎窓ガラスを壊して回ったりと散々に暴れまわった挙句、最後は夜に一人で城を抜け出した後行方不明になり、数日後に全裸で傷だらけの状態で、遺体として民家の庭先で発見された。
即位わずか1年後の事であった。

29: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)17:44:53 ID:n3Uo5mUGx
これを奇貨としたのが軍を統括していた将軍のフィルアヌスである。
彼はいち早く大臣議会と長老会議を武力で制圧すると、軍事クーデターを起こし政権を確立した。
彼はアラッサナム朝の継承を宣言し王を僭称すると、すぐさま王朝を軍事独裁国家化し、議会を閉鎖するとともに権力の一元化に努めた。
しかし、彼が為政と民を顧みない暴君であったということではない。
彼は集中した権力を行政改革に向けて行使した。
水路の掘削によって開拓は進み、道の整備によって交易が盛んになり商業も発達した。
彼の統治した3年間はアラッサナムの奇跡と呼ばれ、この王朝に最盛期をもたらすとともに、ペルシア文化の中興に多大な影響を与えた。
しかし、一見万能に見えた彼にも一つだけ欠点があった。
それは己の肛門に異物を挿入するという奇癖を持っていたことである。
彼は特に野菜に目がなく、遙か当用から人参なるものを挿入するために取り寄せたり、ズッキーニを直腸内で潰すことに快感を覚えていた。
そんなある日のことである、極東の島からゴーヤなるものが献上された事があった。
その供物を彼は非常に喜び、夜な夜な愛でたという。
そして、10日後に彼は死んだ。

34: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)18:05:15 ID:n3Uo5mUGx
その後を継いだのが、大臣筆頭であったマルデナスである。
議会を閉鎖されて失脚したかに見えた大臣たちは、実は反撃の機会を狙っていた。
彼らは私兵を密かに組織しており、それを率いて主の居なくなった王宮に殺到した。
フィルアヌスが強力過ぎる指導者であったことが災いして、軍には彼に成り代わる人材が育っていなかった。
大臣軍は大した抵抗も受けず、あっという間に王宮と軍を掌握してしまい、議会の再開と王政共和主義を宣言した。
これは大臣議会を為政の最高権力機関とし、持ち回りで議会の中から王を会議員の投票により選出するという開明的なものであった。
初代の王に選ばれたのは、大臣議会を実質統率していたマルデナスであった。
マルデナスは精力的に遊説に出かけた、それは独裁者が自分の理想を実現する為政から、民意を大臣会議が代弁する為政に変わったのだということを民衆に周知するためのものであった。
しかし、彼が即位して1年が過ぎが頃の話である。
彼がいつものように街の広場で遊説していると、突然巨大な雹が降ってきた。
天の怒りだと恐慌状態に陥る民衆をなだめるため、マルデナスは進んで露天の広場の真ん中に立ち、これは自然災害であるという事を説き、事態を収拾しようとした。
しかし、天の怒りであろうが天災であろうが、危険なことには変わりがなく、彼はたくさんの雹に体を打たれ死亡した。

35: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)18:06:47 ID:n3Uo5mUGx
まだ四人か・・・あと四人もいるな。
六人ぐらいにしておけばよかった。
とりあえず仕事終わったから帰るわ。

30: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)17:51:18 ID:MfhIDTExR
>>1がなかったら普通に信じてたわ

31: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)17:52:37 ID:n3Uo5mUGx
>>30
こういう逸話をふくらませて歴史小説でも書こうかなと思ってるんだけど、途中で飽きそう。

32: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)17:53:43 ID:ppAjLdQqF
>>31
行けるだろ。こんだけ書けるなら。

33: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)17:54:55 ID:n3Uo5mUGx
>>32
ありがとう!飽きるまではやってみるよ。

みんなもどんどん嘘話でっち上げて書き込んでね!

36: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)18:13:51 ID:V0VPXc7Nh
すげぇな

37: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)18:16:03 ID:Xm6gbi9IQ
前回も面白かった
この>>1は有能

39: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)19:06:14 ID:99NQfC0Xo
ちょいちょい挟んでくるネタがまたいい。
すがきや…尾崎……

40: 名無しさん@おーぷん 2014/10/14(火)12:56:56 ID:qSCP5iK34
マルデナスの不慮の死に大臣議会は多少動揺はしたが、もともと議会共和制の政権であったため、行政はあまり滞らなかった。
しかし、権力の行使の法的根拠としての王の存在は不可欠であったため、新たな王を議会から選出する必要があった。
誰が次の王となるか、この問題で議会は紛糾した。
なんと、相次ぐ王の死に大臣たちは皆萎縮してしまい、王になるたがるものが居なかったのである。
非科学的とは思いつつも、このような不吉な自体に誰もが尻込みをしてしまったのだ。
ここで名乗りを上げたのが先代の王マルデナスの夫人フィストリケである。
彼女は萎縮する男どもを嘲笑い、颯爽と女王の地位に就いた。
先王の妻であることと、他に王のなり手がいなかったこと、そして彼女自身がマルデナスに度々献策していた賢女であることが一般に知られていたため、大した反対もなく彼女の王位は認められた。
フィストリケは美貌にも優れていた。
それだけでなく、服装にも並々ならぬ深い造詣を持っており、自分を飾ることに余念がなかった。
彼女は毎日男装をして議会に現れ、男装のまま民の上に君臨した。
アラッサナムの女たちはこの新たな美貌の女王に熱狂し、彼女を一目見ようと王宮に連日殺到した。
これに気を良くしたフィストリケは、集まった女たちを男装させた上、これを親衛隊として組織し、毎日着飾って王都を練り歩いた。

41: 名無しさん@おーぷん 2014/10/14(火)12:57:14 ID:qSCP5iK34
女王の周りのこの女たちで固められ、彼女は政治に対する関心を次第に失っていった。
フィストリケについて特記するべきは、彼女が両性愛者であったことだろう。
マルデナスの妻に収まっていた時は、彼女はその片鱗も表さなかったが、女王の地位についてからは、夜な夜な親衛隊の女の中から人を選んで伽をさせた。
しかもその伽の内容というものが過激であり、一節によると伽に出た女の拳を自らの女性器に挿入させてたそうである。
彼女らの贅沢による浪費と夜の乱痴気騒ぎは留まることを知らず、次第に国庫を傾け始めた。
これに脅威を覚えた軍の若き士官、フィリッポスは綱紀粛正を意図としたクーデターを企てた。
彼は異国の珍しい衣服と果物を献上すると偽り輜重隊を組織し王宮に侵入した。
しかし、その実輜重隊が積んでいたいのは武器であり、彼らは王宮の中で武装するとあっという間に親衛隊と王宮を制圧した。
輜重隊の荷物を検査しないまでに綱紀が緩んでいたのである。
フィリッポスの目的は、あくまで無血のクーデターであった。
女王の存在を許容しつつ、浪費と宴会を諌めるのが目的であった。
しかし、彼の率いた軍隊は、しおらしく投降する女親衛隊を見て理性を失った。
フィリッポスの軍隊は彼の意思に反して親衛隊に対して阿鼻叫喚の陵辱を行ったのである。
衣服を剥ぎ取られ、次々に犯される近衛兵たちは、もともと女王の趣味で集められた女たちであったため、皆人並み以上の美貌の持ち主であった。
彼女らの美貌は訓練された兵士を動物に戻すのに充分なものであった。
近衛兵500人に対してフィリッポス軍が5000人、簡単に見積もって美女たちは一人で10人もの男の相手を務めさせられたのだ。
中には100人ほどに犯されて息絶えた近衛兵もいた。
暴徒と化したフィリッポス軍が王宮の女王の間に侵入した時、女王はちょうど伽の女と同衾している最中であった。
兵士の闖入に驚いた女王の膣は痙攣を起こし、伽の女の体の一部と繋がってしまい身動きが取れなくなってしまったという。
そのまま兵士たちにフィリッポスの下まで運びだされようとした時、フィストリケは恥じて小刀で自害してしまった。
在位わずか2年後の事である。
因みに、彼女の特殊な性行為から、彼女の名前をとってフィストファックという単語が生まれたという説があるが、真偽の程は定かではない。

38: 名無しさん@おーぷん 2014/10/13(月)18:22:10 ID:imOk0kZSG
>>1アナルフェチすぎじゃね?

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