2時間ドラマ。「映画三国志 映画に夢を賭ける男たち」
テレビドラマデータベースによると、このドラマは
1990年6月1日に放送されました。
撮影中のこのドラマのタイトルは「映画だけが人生だ」
フリーの助監督は、突然の電話で仕事が決まる、舛田利雄監督のセカンド助監督をやるか?の電話に、当然、やりますと答える。
撮影は京都の松竹映像だというが、まずは東京の製作会社に行き、台本を受け取る、そこで、もう一人サード助監督が決まっていないというので、前に一緒に仕事をしたS君に電話して、やってもらう事になる。
台本を読み、東京で準備したほうがイイ物を羅列し、京都にいる、まだ会った事も無いチーフ助監督と電話で打ち合わせをする。
必要なのは、物語の柱となる「日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみのこえ」の発売当時の書籍。当時、出版した東京大学に連絡を入れると、本を借りてカラーコピーをとらせていただく事が出来た。
その、コピーだけを持って京都へ、初めての経験だが、ちょっと気分は盛り上がる、あこがれの舛田監督と、京都の撮影所での映画撮影・・・。
2時間ドラマではあるけれども、撮影規模としては、準備も含めて1ヶ月半、ちょっとした映画なみである。
京都に行くと、セカンド助監督という話だったのに、すでに、チーフ、セカンドの(ベテランの)二人の助監督がいて、僕は必然的にサード助監督になり、東京の事務所に相談したが、セカンドのギャラがいただけるという事で、サード助監督として働く事になる、まあ、そんな事はどうでもいいのだ。
初めての京都での仕事は東京での仕事と、ちょっとやり方が違っていた、もし、チーフや、セカンドだったら混乱していたかもしれない。
まず、スケジュールは俳優担当の人が作っていた、4月、5月の俳優のスケジュール表がある、俳優担当、東京ではチーフ助監督が、これを基に撮影のスケジュールを作って行く。
撮影が始まってしまえば、東京も京都もなさそうだが、東京では必ず出るロケ弁当が、京都では弁当持参だったり(注文しておけば、有料で持ってきてくれる)、撮影に使う移動車という、レールが、東京ではアルミで出来ているモノが、木だったり、驚く事は少々あった。
舛田監督は、ベテランであるから、決断も早かった、キャスティングでも、「その子はダメ」「いいんだけど、今回はやめよう」と決めていく、ちゃんとした理由も言ったけど、ちょっとここには書けない。
台本や、スケジュール、予算なども、ひっくるめて、「ここで雨を降らせる予算があるなら、こっちのシーンで、エキストラを10人でも20人でも増やしてくれ」とか。
「この場面は、セリフも無いから、俳優はいらない、石田、お前がやれ」と、写真だけだが三原じゅん子さんの{東大出の}兄役が決まったり、した。
準備期間中、舛田監督には、何度かスナックに連れていっていただいた、そこのカラオケで監督はよく石原裕次郎を歌っっていた。それもいい思い出。
また、撮影所内を一緒に歩いていた時、『「トラ・トラ・トラ」の時、深作はこのステージで零戦ばっかり撮ってたなあ』とか、そんな話も聞かせてくれた。
現場での監督は、スケジュール的に時間がかけられる所には時間をかけ、流す所は流して、撮っていった。
また、丹波哲郎、長門裕之、山城新伍、などのベテランなどの扱いも、若手監督には出来ないものだった。
ある時、僕の連れていったフォース助監督のS君が、カチンコの打ち方を、ちょっとミスった、主演の中村雅俊は、S君と以前にも仕事をした事があったらしく、冗談でだが、「お前、成長してないなぁ」と言ったとたん、雅俊さんは、監督に「お前の芝居も成長しとらんなぁ」と言われていた。
この現場はそんななごやかな雰囲気だった。
撮影スケジュールの書き方も、まあよく言えば時間にとらわれない、良いスケジュールだったと思う。
撮影の待ち時間の時、カメラマンの北坂さんと撮影部の何人かと、「仁義なき戦い」の話を聞いた。
北坂さんは「仁義なき戦い」の時、撮影助手をしていたという。深作監督が深夜まで撮影する、という話は、何処かで読んだりした事はあったが、その意図は、深夜まで作業させ、寝不足にさせ、そのうえ、怒鳴りつけ、イライラさせ、ピリピリさせて、一触即発の緊張感をわざと作り、そんな中で、撮影をしていたという。
そんな話を聞いて、僕はそんな現場全体を演出するような監督にはなれないなと、思ってしまった。
「殺陣師段平」は本物の東横映画の台本で、これをまねて、「きけわだつみのこえ」の台本を作った。
ともかく、このドラマの現場は、落ち着いていた。
撮影中は撮影所近くの「ビジネスホテル太陽」に泊めていただいていた。
打ち上げの事はあまり記憶にない。
京都での撮影は、刺激的であった。
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