横丁のガンコ爺や

世の中の出来事を 横丁のガンコ爺や が語るブログじゃよ。  世の移り変わり・世の中のできごとを 斜に見ると、とっても楽しく・面白いのじゃ。
ムズイと思われる事を簡単に。冷や汗、額に流しながら・・・・・。 とりあえず、老い先短い年寄りの話に目(耳)を傾けてくんろ。
頑固一徹 根は純真 ちーとへそ曲がり。

2012年02月

中右記をフォローする源師時の長秋記

大河ドラマは 「平清盛」 は既にスタートから8回を経過、
平清盛の父とされる白河法皇は崩御(1129年)され、
育ての父、平忠盛(1096〜1153)が海賊追討使として瀬戸内の海で
賊を退治し、その賊を引き連れ京の都に凱旋(1135年)したシーン。
これらの事(1129年と1135年の件)は
中右記にちゃんと記載されておるんじゃよ。
又、源師時(1077〜1136)、源師房(1008〜1077)の孫じゃが、
彼の日記 「長秋記」 にも書いてあるとの事じゃから大丈夫なんじゃ。
彼のお爺さん、源師房(村上源氏の祖)と彼の末裔は
後の天皇家の危機を度々救ったそれはそれは大切な家系なんじゃよ。
その事はその内に紹介するつもりじゃから楽しみに。
この長秋記は寂しい事にかなり散逸したらしく、
現存する写本は1105年〜1136年の間しかないんだとさ。
ところで、平清盛は白河法皇の息子とされておるがこの出所は
「平家物語」 で中右記、及び、長秋記には記載されていないんじゃ。
(平家物語は鎌倉時代のものとされておる。)
又、平清盛の母は同物語では 「祇園女御」 とされている。
この祇園女御はどことなく耳障りが良いと思わんかいのー。
それはさて置き、この平家物語は一体誰が記してくれたのか
未だに不明なんじゃよ。従ってこの内容は虚構かも知れないし、
又、この時代では 「常識」 だったのやも知れないんじゃ。
平清盛、白河法皇ご落胤説は
平清盛(武家として)の類い希なる昇進の類推からなんじゃ。
平清盛、数え12歳(1129年)の1/6に 位階、従五位下を賜っており、
更に、同年の1/24には官職、左兵衛佐になっておるんじゃ。
(左兵衛佐は 「さひょうえのすけ」 じゃ。)
この出典は 「公卿補任」 なんじゃが
実際問題、この公卿補任も筆者・記録担当部署が不明なんじゃ。
さすがにこの当時の記録には間違えがないとは思うが・・・・・。
この1129年が曲者、この年の7/24に白河法皇が他界されておる。
老いて益々盛んだった言う白河法皇、元気であったこそ法皇は
ご自分の寿命を察知したのか、未だ目の黒い内に少なくても
血を分けた子息に官位を与えたとの推量は成立するのやも。
この時の天皇は 「崇徳帝(1119〜1164 在位1123〜1142)」 で
この時の摂政は実権を伴わない若干34歳、
藤原忠通(1097〜1164)で
完璧な白河法皇の院政真っ直中。
この異例人事に藤原宗忠は
「驚き桃の木山椒の木、まあ宣(のたま)っても詮無きか。
 (人耳目を驚かすか、言ふに足らず。)」
と中右記で筆誅を食らわせている有り様なんじゃよ。
親はどんな子供でも最後の最後まで尻を拭くのは必定じゃ。
今日のところはここまで。 又、来週じゃ。

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藤原宗忠の中右記、1087年スタート

藤原宗忠が几帳面に日々書き連ねてくれた日記、中右記。
このお蔭であくまでも彼の目、心を通した 「かの時代」 を
垣間見る事ができるんじゃ。
彼は当然物書きが出来た運と境遇を持ち得たお方じゃ。
貴族(官僚)のトップクラスではないが
逆にその事により完全上から目線の物書き・物思いでない事になる。
おさらいじゃが彼の生きた時節は1062〜1141年、
この世に79年間も生存された事になる。
今の世と違い、食糧事情が悪かったと思われるが
貴族故と彼の心身が「健康」じゃったから長生きされたんじゃろなー。
中右記のスタートは1087年。
歴史年表ではこの前年の1086年
白河帝(1053〜1129)が天皇位を息子の堀河帝(1079〜1107)に譲り、
そのままリタイヤー(隠居)されると思いきや、
結果的に後に 「治天の君」 として君臨する事になり、
「院政の開始」 とされている。
これ以前は 「摂関政治」 と言われ、帝の母方のお爺さんが
政治の実権を握っておったんじゃ。
従って、1186年にいきなり白河院が政治の実権を握った訳ではない。
数えで8歳の堀河帝には摂政として藤原師実(1042〜1101)が着任。
朝廷での政(まつりごと)は藤原師実を中心として遅滞なく?
執り行われていたんじゃ。
その実体が分かったのは 「中右記」 の記述からなんじゃよ。
筆者、藤原宗忠は1186年に位階、正五位上の殿上人じゃから
当然昇殿が許される立場じゃ。
(この殿は清涼殿で内裏にあり政務等を行うエリアなんじゃ。)
この空間に出入り可能なのが高級貴族 (官僚) なんじゃよ。
宗忠数え26歳、日記スタートの1187年の官職は左近衛少将じゃ。
なかなかそこら辺の者には成れないそれはそれは畏れ多い事じゃ?
この時代のそこら辺の者は文字を読み書きできなかった筈なんじゃ。
先ず、文字を読み書きできる素養が無い限り、
漢文で日記を綴る事はできないって事じゃのー。
と言う事は少なくても貴族と称された方々は
 「お勉強」 をした・させられた・いや、したんじゃよ。
因みに京の都では1086年に 「後拾遺和歌集」 が撰集されている。
収集撰者は藤原通俊(1047〜1099)。
この時の彼の位階は従三位で官職は参議をされておったんじゃ。
又、彼の曾祖父の兄弟に
「小右記」 を残して下さった藤原実資(さねすけ)(957〜1046)が。
道長の有名な歌である
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることの なしと思へば」
は実資が小右記に書き記(しる)してくれたんじゃよ。
(小右記は野宮大臣から)
1086年に時代を戻して、
京の都から目を離して、東北地方(出羽・陸奥)に目を移すと
「後三年の役」(1083〜1087)と言う戦の最中じゃった。
(未だこの時代、
 「蝦夷(えぞ)が島=北海道」は朝廷の範疇外じゃった。)
結果的には源(八幡太郎)義家(1039〜1106)と
清原⇒藤原清衡(1056〜1128)が勝者となって後の歴史が展開する。
藤原清衡は奥州藤原氏の祖となるお方じゃ。
そして、2012年大河ドラマ「平清盛」に登場する
源義家の孫が源為義(1096〜1156)になり
源義朝(1123〜1160)⇒源頼朝(1147〜1199)と連綿と続くんじゃよ。
今日はここ迄、ほんじゃ又。

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平清盛時代考証は中右記が

今年の大河ドラマは「平清盛」。
毎日曜日、日本放送協会よりオンエアーされておる。
時代劇は何と言っても 「時代考証」 が重要。
映像だから実写されているもの、及び、言葉がダイレクトに
イメージされ易い。故にその時代をより正しく考証しなくてはならない。
大輪田泊・福原京(現在の神戸)の地元の県知事さんが
「映像が汚い」 とクレームをつけたとか。
「地元の利益しか考えない」 とこのような不埒な発想に
陥ってしまうんじゃよ。 情けない極みじゃ。
それはさて置き、
このドラマの時代考証を担当されている方のお一人、本郷和人氏。
(白河院政、及び、帝家を 「王家」 表現と決めた理由を表明した方。)
彼の 「本郷和人のweb研究室」での自己紹介では
生年月日が 「ないしょ」 とされておる。
性格は 「温厚。真面目。だらしがない。『でぶ』のキャラクター」 と。
内緒にされるとつい調べてみたくなるのは世の常、人情。
しかし、「大河ドラマは『平清盛』」⇒ 「平安は、驚きがいっぱい。」
で東京大学史料編纂所准教授と紹介されておった。
昨今は助教授と言わなくなったんじゃのー。
それはさておき、早速、ぐぐると
「東京大学大学院 情報学環・学際情報学府」
ご本人の略歴が記載されておった。
公表されておるから良いのだと思うが1960年生まれと。
主要業績欄での著書から 「中世史」 がお得意そうじゃ。
じゃから今回のドラマで抜擢されたんじゃろー。
時代考証と言う代物は歴史を遡る程大変な作業なんだと思う。
何せ、文献資料・考古物件に限りがあるからなんじゃ。
更に、厄介な事はその文献はあくまでもそれを記(しる)された
本人の立ち位置、及び、感情に左右されておるからなんじゃ。
しかしながら、
頼りはその現存する文献で、
それから推量しか方法がないのも事実なんじゃ。
当然、本郷和人氏は熟読されておられると思うが
平清盛(1118〜1181)の生きた初期時代を記(しる)した文献は丁度、
「中右記(ちゅうゆうき)」 になるんじゃよ。
これは、藤原宗忠(1062〜1141)の日記なんじゃ。
中右記は宗忠の26歳〜77歳(数え)の日記で
歴年にすると1087年〜1138年間の出来事が記載されておるんじゃ。
平清盛と面識が有ったかどうかは不明じゃが
平清盛の1歳〜21歳の時代背景の幾らかは想像可能になる筈じゃ。
藤原宗忠は1136年に右大臣職の任につき、家名が 「中御門家」 から
彼の日記は 「中右記 (中御門右大臣日記)」 となっておる。
藤原宗忠の高祖父(ひーひー爺さん)は
何と、平安の栄華を極めた 「藤原道長(966〜1028)」 なんじゃ。
彼の事は、みんなよーく知っちょるじゃろ。
因みに、
藤原宗忠の父が宗俊(1046〜1097)、
藤原宗俊の父が俊家(1019〜1082)で中御門家の祖、
藤原俊家の父が頼宗 (993〜1065)、
藤原頼宗の父が道長になるんじゃ。
政治形態が院政へ変化する因の一つが道長の息子らの帝に嫁いだ
娘さん達に男の子が生まれなかったことなんじゃ。
ここの状況は爺やの孫が詳しく紹介しているから
「摂関政治時代から院政政治時代になるきっかけを作った女性達」
で見てくれりょ。
中右記については来週に。 ほんじゃ又。

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2011-12年の厳冬、彼岸迄は我慢?

2月3日(節分)
2月4日(立春)
既に立春が過ぎ寒さの峠が折り返した筈なんじゃが
ここんところの陽気はいたく寒いぞえ。
季節感ある旧暦ではアバウト立春がお正月に当たるんじゃ。
お隣、中国・韓国、今年の春節は1月23日じゃった。
来年の春節(お正月元旦)は2月10日になるとの事じゃ。
ところで、「身に凍みる寒さ(厳冬)」 なんじゃが
この冬は妙ーに肌を刺す北風が吹きよっておる。
この吹きすさぶは風爺やの年になると本当に辛いんじゃよ。
こんな日が続くと前も話した事があるが
「地球温暖化」 って一体どうなっておるのかと疑問を来すぞえ。
日本海側のドカ雪を甘受しておられる方々に比べたら
爺やの悩みなんて屁じゃないとは思うが・・・・・。
立春は二十四節気の一つなんじゃが立春の次が
雨水(うすい)  今年は2月19日 その次が、
啓蟄(けいちつ)  今年は3月05日 その次が、
春分(しゅんぶん)今年は3月20日 と続く。
立春は春の気配が立つ
雨水は雪が溶けて水に
啓蟄は虫が穴から出現
春分は昼夜の時間がほぼ同じ
このほぼと言うのは実際の所、春分の日は昼の方が長いんじゃよ。
これは
日の出を地面・水面にお日様がちょいと顔を覗かせた時で
日の入りを太陽が全て沈んだ時点とするからなんじゃ。
日の出・日の入りを太陽のセンター地点とすると昼夜の時間は同じ。
又、この春分の日(秋分の日も同)は
日出処(ひいづるところ)が 「真東」 になり
日没処(ひぼっするところ)が 「真西」 になり、「つつがなきや」 じゃ。
そしてこの春分が 「お彼岸の中日」 じゃ。
お彼岸の行事、お墓参り。
これは夕日が 「真西」 に沈む事に因があるんじゃよ。
西は浄土宗・浄土真宗が崇める阿弥陀如来さんが考え出した
極楽浄土になるんじゃ。 西方極楽浄土とも言うんじゃよ。
極楽浄土に居られると思われるご先祖さんに御挨拶、並びに、
ご自分があの世にお邪魔した際は是非とも極楽浄土へと
お願いできるんじゃよ?
まあ、爺やは長年へそ曲がりじゃったから無理やと思うが・・・・・。
又、「暑さ寒さも彼岸まで」 って聞いた事があるかいのー?
春分は地球から見て太陽が南半球から北半球を照らす境日じゃから
故にこの日を境にだんだん暖かくなるんじゃよ。
桜の開花予想では、東京は3月31日とか。
そんなこんなで、
今年の寒さは3月20日の春分まで我慢せにゃ駄目みたいじゃよ。
それまでは、静に冬ごもりに限るのかもよ。

尚、二十四節気については孫のブログで紹介しているから
時間があればそっちを見てくれりょ。

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RECOMMEND H.P.
粋・いなせ と服  江戸時代

うちの孫の作なんじゃけど
江戸時代の庶民文化
粋といなせ」について
語っているので暇だったら
一度、目と通してくんろ。

何やら、今現在は「古事記」に
凝っているそうじゃ。
「本居宣長」じゃあるまいにのう。

日本の色 (伝統色)

日本の色について
大昔から近代までの流れを
色見本付きで紹介しちょるぞ。

男と女 待賢門院

これは「歴史秘話」ではなくて
少し歴史をかじった事がある
者にとっては周知の事実じゃ。

男と女 お美代の方

これも「歴史秘話」ではなくて
「歴史ヒストリア」?
家斉は大したもんじゃのー。

ファッション・よもやま話

孫の作じゃ。
お時間があればどうぞ。
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