横丁のガンコ爺や

世の中の出来事を 横丁のガンコ爺や が語るブログじゃよ。  世の移り変わり・世の中のできごとを 斜に見ると、とっても楽しく・面白いのじゃ。
ムズイと思われる事を簡単に。冷や汗、額に流しながら・・・・・。 とりあえず、老い先短い年寄りの話に目(耳)を傾けてくんろ。
頑固一徹 根は純真 ちーとへそ曲がり。

2012年03月

今鏡に中右記を記した藤原宗忠5回登場

今日まで待った甲斐があり、やっと桜の蕾が膨らみ始めたぞい。
有難い事に
「必ず春がやって来ってくる。」 事は確かじゃから感謝・感激じゃよ。
もう少し待っていれば、墨堤 (隅田川沿い) の桜の木も、
やや放射性物質を浴びたにも関わらず元気に花開いてくれそうじゃ。

それはさて置き、先週紹介した 「今鏡読本」 の話の続きじゃ。
以前、今年の大河の文献資料として 「中右記」 を取り上げたのー。
この日記を書き残してくれた 「藤原宗忠」 が 「今鏡」 に登場して
いるんじゃよ。
今鏡 春のしらべ(調べ)の段で

「さのみうち<にはやとて、花の宴せさせ給ひけるに、
松にはるかなるよはひをちぎる。
といふ題にてかんだちめ束帯にて、殿よりはじめて、まゐり給ひけり。
まづ御あそびありて、
關白殿<藤原忠通>ことひき給ふ、
はなぞのゝおとゞ<源有仁>、そのとき右大臣とてびはひき給ふ。
中院の大納言<源師頼>さうのふえ、
右衛門佐<藤原>季兼にはかに殿上ゆるされて、
ひちりきつかうまつりけり、
拍子は中御門大納言<藤原>宗忠
ふえは成通さねひらなどの程にやおはしけん。
すゑなりの中將、わごんなどとぞきゝ侍りし。」

ココの描写は「花の宴」を催し、雅にも歌を奏でる状況なんじゃ。
歌を奏でると言っても 「五七五七七」 の方じゃから。
この歌会に先立ち場を盛り上げる為の前振り余興。

箏(そう)=琴が何と関白、藤原忠通
琵琶が右大臣、源有仁
笙(笙の笛)が大納言、源師頼
篳篥(ひちりき)が右衛門佐、藤原季兼
笏拍子が大納言、藤原宗忠
笛が参議、藤原成通と官職不明じゃが、藤原実衡
和琴が左近衛中将、藤原季成

この時代の官僚は
楽器を奏でるそれはそれは文化人じゃったんじゃよ。
その中で中右記作者の藤原宗忠はパーカッション担当じゃ。
宗忠さんは中々なもんじゃと思わんかいのー。
この箇所以外にも、花の山の段で

「このいへにいとなきことなれどなど侍りければまことにしか侍事とて、
申しいれたまへりければ思ひがけぬ御心ざしなどきこえ給ひける
ほどに、白川院 <藤原>宗忠のおとゞ
頭弁<右大弁兼蔵人頭 1098〜1099>におはしけるとき、
きとまゐれと侍りければおそくやおぼしめすらんと、
おそれおぼしけれど、いと心よき御けしきにて、
堀川のみかど<帝>、くらゐおはしましゝとき、
うちへまゐりて申せとて、
<近衛>大将あ<空>きて侍るに、
むねみち<藤原宗通>をなし侍らんと思ひ給ふなり。」

更に、唐人(からびと)の遊びの段では

「あぜち<按察><藤原宗俊>の御こ<子>にては、
備中守實綱<藤原実綱>といひし、
はかせ<文章博士>のむすめのはらに、
右大臣<藤原>宗忠のおとゞ
又堀川の左のおとゞ<源俊房>の御むすめのはらに、
太政のおとゞ<太政大臣>宗輔<藤原宗輔>など、
ちかくまでおはしき。
右のおとゞは中御門のおとゞとて、
催馬楽の上手におはして、
御あそびなどには、つねに拍子とり給ひけり。」

宗忠さんは催馬楽(さいばら)にも秀でていたんだとさ。
催馬楽はフォークソング・民謡感じの歌謡曲なんじゃと。

これが最後なんじゃが、上と同じく唐人(からびと)の遊びの段で

中御門の右大臣宗忠の御子は、
<藤原>宗能(むねよし)の内大臣ときこえ給ふ。
みのゝかみ<美濃守=美乃国守>ゆきふさ<藤原行房>の
むすめ<お嬢さん>のはらにやおはすらん。」
ってな感じで息子さん迄もご紹介くださっておるんじゃ。
この藤原宗能(1085〜1170)数え86歳と天命を全うされておる。
尚、藤原宗忠の末裔は明治の世を迎え 「伯爵」 を賜っておるぞい。
ほんじゃ、今日はここ迄。

崇徳帝・待賢門院(藤原璋子)、今鏡では

前回紹介した様に、「古事談」 で崇徳帝は
父、白河法皇・母、藤原璋子(後の待賢門院)とされていた。
それでは 「歴史(世継ぎ)物語」 を言われる 「四鏡」 の一つで、
丁度この時期を記している 「今鏡」 では崇徳帝と待賢門院を
どの様に描いているか見てみるとするぞい。
但し、六国史と違い時の政府(朝廷)の正史ではなく
むかし、昔にはこんな事があったぞいってな感じの回想風の呈を
なしている物語じゃから真偽はまた別物じゃ。
しかしながら、帝らの生年月日等が子細にきされておるんじゃよ。
取り急ぎはWEBで確認可能な
明治二十九年(1896)十月八日発行
「今鏡読本」
上・中・下 関根正直校 編纂者 関根正直 六合館書店発行
からピックアップしてみるぞい。
尚<>と(西暦)は爺やが勝手に補ったものじゃから注意。

「(十七)春のしらべ S0209
仁和寺の女院<待賢門院>の御はらの一の御子は、
位<天皇位>おりさせ給ひて、新院<太上天皇>ときこえさせ給ひし。
のちにさぬき<讃岐>におはしましゝかば、
さぬきのみかど<讃岐帝=崇徳帝>とこそ聞えさせ給ふらめな。
<(1119〜1164)(在位 1123〜1141)>
御母女院は中宮璋子と申しき。
公實大納言<藤原公実>の第三の女なり。
鳥羽院の位<天皇位>におはしましゝとき、
法皇<白河法皇>の御むすめとて、まゐり給へりき。
此みかど<崇徳帝>元永二年己亥(1119)五月十八日に、
むまれさせ給へり。
保安四年(1123)正月廿八日に、位<天皇位>につかせ給ふ。
大治四年(1129)御元服せさせ給へり。
御とし十一、法性寺のおほきおとゞ<藤原忠通>の御むすめ、
女御<藤原聖子>にまゐり給ひて、中宮にたち給ひし、
皇嘉門院と申御事也。
時の攝政の御女、きさきの宮におはします。
白河院、鳥羽院、おやおほぢとておはします。
御母女院ならぶ人なくておはしましゝかば、
御せうとの侍従中納言さねたか<藤原実隆>、
左衛門督みちすゑ<藤原(西園寺)通季>、
右衛門督さねゆき<藤原(三条)実行>、
さ兵衛督さねよし<藤原(徳大寺)実能>など申して、
みかどの御をぢにて、
なほし<直衣>ゆるされて、つねにまゐり給ふ。」

と記されているんじゃ。
次に堀河帝の箇所を取り上げてみる。

「(十三)たまづさ S0205 
堀川のみかど<帝>は、白河の法皇の第二の御子におはしましき。
<(1079〜1107)(在位 1087〜1107)>
その御母、贈太皇太后宮賢子中宮(藤原賢子)なり。
關白左大臣師實(藤原師実)のおとゞの御むすめ、
まことには、右大臣源顯房(源顕房)のおとゞの御むすめなり。
このみかど、
承暦三年つちのとのひつじ(1079)二月十日むまれさせ給へり。
應徳三年(1086)十一月廿六日、位につかせ給ふ。
御とし八、このみかど御心ばへあてにやさしくおはしましけり。」

違いが歴然としておるじゃろ。
堀川帝は白河法皇の第二子。
讃岐帝は待賢門院の第一子。
堀川帝は父母共に紹介されておるが讃岐帝は母のみじゃ。
因みに鳥羽帝は

「(十五)白河の花の宴 S0207
鳥羽院は堀川の先帝の第一の皇子、
御母贈皇太后宮苡子(藤原苡子)と申しき。
<(1103〜1156)(在位 1107〜1123)>
實季大納言<藤原実季>の御むすめなり。
このみかど康和五年みづのとのひつじ(1103)、
正月十六日むまれさせ給へり。
八月十七日春宮にたち給ひて、
嘉承二年(1107)七月十九日位につかせ給ふ。
天永四年(1113)正月一日御元服せさせ給ひき。
十六年位におはしまして、
一の御子<崇徳帝>にゆづり申させ給ひき。
白河の法皇のおはしまししかぎりは、世の中の御まつり事なかりしに、
かの院うけさせ給ひてのちは、ひとへに世をしらせ給ひて、
廿八年ぞおはしましゝ。
白河院おはしましゝ程は、本院<白河院>新院<鳥羽院>とて、
ひとつ院に御かた<”にて、三条室町殿にぞおはしましゝ。
待賢門院又女院の御かたとて、三院の御かた、いとはなやかにて、
わか宮姫宮たち、みなひとつにおはしましき。」

と記されているんじゃ。
鳥羽帝は堀川帝の第一子。
当然、同時に鳥羽帝の母も藤原苡子と。
何故か記載の仕方が 「崇徳帝」 のみが別扱いされておる。
がしかしなんじゃ、今鏡の作者は

「(鳥羽帝)十六年位におはしまして、
一の御子<崇徳帝>にゆづり申させ給ひき。」 としておる。
ココを素直に読めば崇徳帝は鳥羽帝の第一子に。 更に、
「白河院、鳥羽院、おやおほぢとておはします。」 
との微妙な表現・・・。
より素直に読み解けば上記の 「崇徳帝コード」 により
今鏡の作者は崇徳帝の父は白河法皇と 「暗示」 しておるのかも?

尚、「今鏡読本」 はこちらのアドレスでご覧下されよ。
こちらをWEB上に起こされたお方には感謝申し上げる次第じゃ。
ほんじゃ、又。

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ファイト一発、白河法皇(古事談より)

今年の大河ドラマでも認めている風じゃから問題はないと思うが
崇徳帝(1119〜1164)の父親が
鳥羽帝(1103〜1156)ではなく、
白河帝(1053〜1119)で、母親は
藤原璋子⇒待賢門院 (1101〜1145年)されておる。

この事を記している書物は 「古事談」 なんじゃ。
著者は源顕兼(1160〜1215)で彼の亡くなる前に出来上がったと
されておるんじゃ。
先にその箇所を紹介してみるぞい。

待賢門院は白川院御猶子の儀にて、令入内給。
 其間法皇令密通給。人皆知之歟。
 崇徳院は白川院御胤子云々。
 鳥羽院も其由を知食して、叔父子とぞ令申給ひけり。
 依之大略不快にて、令止給畢云々。
 鳥羽院最後にも、惟方(于時廷尉佐)を召して、
 汝許ぞと思ひて被仰成。
 閉眼之後、あな賢、新院にみすなと仰事ありけり。
 如案新院奉見と被仰けれど、御遺言の旨候とて、掛廻不奉入云々。」
      
(国史叢書 古事談 第二 臣節 P59 黒川真道編 国史研究会蔵版)
「Google books」
で提供してくれておるから時間があれば確認を。

源顕兼は 「その時代」 に生きた方じゃないから
誰かから聞いた話になるんじゃ。
それも彼の記述から 「その事実」 は世の常識だったとされている。
この常識をかの時代の事実とすると
この甘ーい?出来事は1118年になる。
白河法皇、御歳、66歳(数え)で
藤原璋子、御歳、18歳(数え)での睦事。
璋子(たまこ)さんは全く問題はないが法皇のパワーには
頭が下がるぞい。
直近では 「スプリッツァ!!」 って元気の良い
市村正親さん(1949〜)は60歳(数え)、
既にお亡くなりになっておられるが 「七人の侍」 の
三船敏郎さん(1920〜1997)は62歳(数え)、
歌舞伎役者の
中村富十郎(五代目)さん(1929〜2011)は70歳(数え)、
加山雄三さんのお父さん
上原謙さん(1909〜1991)は72歳(数え)で
お子さんに恵まれた事実はあるが
白河法皇は何せ約900年前じゃからのー。
経済的背景を持ちパワー溢れる男だったら大丈夫みたいじゃのー。
一方、お相手の藤原璋子=待賢門院については
孫のweb site 「女と男が織りなす心模様(待賢門院)」
詳しく説明しておるから興味のある方はご覧あれ。  ほんじゃ、又。

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中右記の白河法皇に対するコメント

1129年7月24日(当然、旧暦じゃ。)白河法皇の崩御の後
藤原宗忠は
中右記で法皇について総括コメントをしているんじゃよ。
白河法皇関連の略年譜を記してみると

1053年 01歳 誕生
1069年 17歳 立太子
1072年 20歳 天皇即位
1086年 34歳 天皇退位 息子の堀河帝即位(1079〜1107)
1096年 44歳 出家し法皇に この後に「北面武士」を設置
1107年 55歳 孫の鳥羽帝即位(1103〜1156)
1118年 66歳 息子とされる平清盛(1118〜1181)誕生
1119年 67歳 息子とされる崇徳帝(1119〜1164)誕生
1121年 69歳 藤原忠実(1078〜1162)の関白職罷免
1123年 71歳 崇徳帝即位(1119〜1164)
1129年 77歳 崩御

たかが11行くらいで76年間に渡る華麗な白河法皇の生き様は
全く表現不能じゃが、これらに対する宗忠のコメントは

「天下の政(まつりごと)を執る事57年
 <在位14年、位を去りて後44年>
 意に任せて法(・慣習)に拘(関)わらず
 除目(じもく)叙位(人事任命・位階授与)を行ないなさった。」

「威(権威)は四海(よものうみ=世の中)に満ち(溢れ)
 天下(世間)は(すべからく)帰伏した(ひれ伏した)。
 幼主(堀河・鳥羽・崇徳帝)三代の政を執り、
 斎王六人の親となる。」

幼主は
堀河帝 8歳で即位
鳥羽帝 5歳で即位
崇徳帝 5歳で即位

斎王は
媞子内親王(1076〜1096)伊勢斎宮(1078〜1084)母は藤原賢子
善子内親王(1076〜1096)伊勢斎宮(1087〜1107)母は藤原道子
恂子内親王(1093〜1132)伊勢斎宮(1108〜1123)母は藤原季実女

令子内親王(1076〜1131)賀茂斎院(1089〜1099)母は藤原賢子
濃卞眇堂Α1081〜1156)賀茂斎院(1099〜1107)母は藤原賢子
官子内親王(1090〜不明)賀茂斎院(1108〜1123)母は源頼子

確かに6人のお嬢さん方が斎王(斎宮・斎院)になられています。
それぞれ、3・12・16、14・19・19歳で斎王に。
特出は媞子内親王、彼女は白河帝にとって最初のお嬢さん。
白河帝は殊の外彼女をかわいがったそうなんじゃ。
驚きは、未だ分別がつかない数え3歳で神職に仕える 「巫女」 に。
母、藤原賢子(1057〜1084)の崩御に伴い伊勢から帰京、更に彼女は
12歳で同母弟、堀河帝の准母に(1087年)になるんじゃ。
ただ美人薄命だったのか、僅か21歳で他界、
白河院は嘆き悲しみこれを期に
出家し白河法皇になるんじゃよ。(1196年)

そしてこれらの事象は
「桓武帝より以来絶えて(前)例がない。
 (白河帝・法皇は)
 聖明の君、長久の主と言うべきである。
 (長期に渡り、政を治めた優れたリーダーと言うべきである。)
 但し、
 理非決断、賞罰分明、愛悪を掲焉(けちえん)とし、貧富顕然なり。
 (理非の決断・賞罰の分明(ふんみょう=はっきりした区別)は
  (その相手の)好き嫌いが多分に左右し所得格差が広がった。)
 男女の殊寵(しゅちょう)多く、すでに天下の品秩破るなり。
 (数多の男女を問わず溺愛し、既存の秩序・慣習が破られた。)

と藤原宗忠は記録に残しているんじゃ。
この記述で疑問なのは 「桓武より以来絶えて」 なんじゃ。
確かに桓武帝(737〜806 在位781〜806)のお子さん・お孫さん、

平城帝(774〜824 在位806〜809) お子さん
嵯峨帝(786〜842 在位809〜823) お子さん
淳和帝(786〜840 在位823〜833) お子さん
仁明帝(810〜850 在位833〜850) お孫さん

となって(幼主ではない)4名の帝を輩出しておるんじゃけれども
斎宮が
朝原内親王(779〜817)伊勢斎宮(782〜796)母は妃酒人内親王
布勢内親王( ???〜812)伊勢斎宮(797〜806)母は中臣丸豊子

賀茂斎院制度は嵯峨帝からの事じゃから2名のみになる。
この事から、宗忠は 「帝」 に重きを置き記述したことになるのー。
それはさて置き、
ここの 「桓武帝より以来〜〜〜天下の品秩破るなり。」 の件(くだり)
が後の 「やっかみや」 に
白河法皇が揶揄される因となっておるんじゃ。
要は単なる 「妬み・嫉み」 になるだけなんじゃが・・・・・。
白河法皇に対する嫉妬はいかんぞえ。
彼は、それまでの既得権者から 「利権」 を剥奪する快挙を
成し遂げたんじゃ。
彼は 「時の運」 も味方し特定貴族専制体制を粉砕したんじゃよ。
要は摂関政治体制を崩壊させたんじゃ。
それも徒党を組んで戦ってのではなく、
彼の立ち位置を最大限利用してお一人で変革を起こしたんじゃ。
又、彼は 「利権(荘園領主権)」 を横取りはしたが、
例えば、摂関職を既存の摂関家から奪いはしなかった。
政の最終決定権を自分のものにしただけなんじゃよ。
宗忠は 「天下の品秩破るなり。」 とコメントしているが
既存秩序を破壊しなければ
「新しい体制」 は決して生まれはしないんじゃよ。
故に、藤原宗忠もこの記述から 「利権」 を奪われた側になるんじゃ。
最後に 「男女の殊寵(しゅちょう)多く」 じゃが
昔から 「色」 を好まない不健康な輩は
「英雄・天下一」 になれた試しがないんじゃよー。
今日はここまで。 「また」 じゃぞえ。

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RECOMMEND H.P.
粋・いなせ と服  江戸時代

うちの孫の作なんじゃけど
江戸時代の庶民文化
粋といなせ」について
語っているので暇だったら
一度、目と通してくんろ。

何やら、今現在は「古事記」に
凝っているそうじゃ。
「本居宣長」じゃあるまいにのう。

日本の色 (伝統色)

日本の色について
大昔から近代までの流れを
色見本付きで紹介しちょるぞ。

男と女 待賢門院

これは「歴史秘話」ではなくて
少し歴史をかじった事がある
者にとっては周知の事実じゃ。

男と女 お美代の方

これも「歴史秘話」ではなくて
「歴史ヒストリア」?
家斉は大したもんじゃのー。

ファッション・よもやま話

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お時間があればどうぞ。
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