横丁のガンコ爺や

世の中の出来事を 横丁のガンコ爺や が語るブログじゃよ。  世の移り変わり・世の中のできごとを 斜に見ると、とっても楽しく・面白いのじゃ。
ムズイと思われる事を簡単に。冷や汗、額に流しながら・・・・・。 とりあえず、老い先短い年寄りの話に目(耳)を傾けてくんろ。
頑固一徹 根は純真 ちーとへそ曲がり。

2012年04月

世渡り下手で筋通しの藤原頼長

保元の乱は保元元年(1156年)7月11日夜明け前、戦闘に突入、
当日、勝敗が決着したことになっておる。
敗者の代表は藤原頼長と後の讃岐院・崇徳院となったお二人。
先ず、矢に当たって落命したと言われる藤原頼長さんからじゃ。
彼は1120年生まれで絶命が1156年7月14日とされておるから
享年は数えで37歳になる。
その時点での官職は 「左大臣」、位階は 「従一位」 で
押しも押されもしない壮年トップリーダーなんじゃ。
今日日の時代だと差詰め 「総理大臣」 っぽい地位なんじゃが
頼長の時代は佐にあらず確固とした権力は持ち得なかったんじゃ。
そこの所は後にして、彼は 「お勉強」 がお好きだったようで
和漢の書を読みあさったと言う話じゃ。
但し、その時代に存在した書物じゃから絶対量は今日日に比べたら
しれておると思うが、だいたい書物に読み耽る事が可能な時空間に
存在しておれた事自体が彼に取ってはラッキーだったと思う。
書物を書庫に一杯詰まっている
豪華なオブジェ用(お飾り)にしなかった所が偉いんじゃよ。
彼も又、後に 「台記」 と命名されておる日記をつけておったんじゃ。
保延二年(1136)から久寿二年(1155)分があるそうじゃ。
これは以前紹介した藤原(中御門)宗忠の 「中右記」 の続きとなり
この時代の貴重な資料となっておるんじゃ。
「中右記」 は1087〜1138年で 「台記」 は1136〜1155年じゃ。
すばらしい繋ぎになっておるじゃろ。
又、彼はこの日記の中でご自分のバイセクシャル性向を事細かく
披瀝しておるんじゃとさ。
爺やはとても立派なもんじゃと思う。
何故かと言えば彼らの日記は後世の方々が読む事を前提として
毎日書いていたんじゃからのー。
尚、このバイセクシャル性向は特異な事では全くないんじゃ。
経済的背景を持ち、(否、持たなくても、嫌、やはり持っておる方が
より良いとは思う。)
「粋で力強い男性」 なら数多の素敵な女性も男性をも慈しむことは
ごく自然な事じゃったんじゃよ。
公では江戸時代迄、否、西洋かぶれした明治の代でも内緒で
素敵な時空を過ごされた方が大勢いらっしゃったんだよ。
昨今の 「草食系男子」 軍団にとっては羨ましい限りじゃろー。
女性さえも何ともならないんじゃから同性同士なんてとてもとても?
それはさておき、
この時代は特にバイセクシャル性向がお盛んだったんじゃよ。
以前 「中右記の白河法皇に対するコメント」 で紹介した
藤原(中御門)宗忠の白河院評、
「男女の殊寵(しゅちょう)多く、すでに天下の品秩破るなり。」
と残されておるんじゃ。
故に、白河院も当然バイセクシャルであったんじゃよ。
因みに白河院のお相手で 「夜の関白」 と言われたという
藤原顕隆(あきたか)(1072〜1129)、
彼への世の嫉妬は今鏡に記されておるんじゃ。
以前紹介した「今鏡読本」 での 「釣りせぬうら<」 の条で

「この御時ぞ、むかしのあとをおこさせ給ふ事はおほく侍りし。
人のつかさなどなさせ給ふ事も、よしありて、たはやすくもなさせたまはざりけり。
六条の修理太夫顯季といひし人、よおぼえありておはせしに、
敦光といひしはかせの、など殿は宰相にはならせ給はぬぞ。
宰相になるみちはなゝつ侍るなり。
中に三位におはするめり。
又いつくに、をさめたる人も、なるとこそはみえ侍れといひければ、
あきすゑも、さおもひて、御氣色とりたりしかば、
それも物かくうへの事也と、おほせられしかば、
申すにもおよばでやみにきとぞいはれ侍りける。
又顯隆の中納言といひし人、
よにはよるの關白などきこえしも、弁になさんと思ふに、
詩つくらではいかゞならん。」

ちゃんと書いてあるじゃろ。又、ここで記載されておる
藤原顕季(あきすえ)(1055〜1123)、も白河院のお相手じゃぞ。
白河法皇(しらかわ)(1053〜1129)、も書き添えると
白河院にとって藤原顕季は同年配になり、藤原顕隆はヤングになる。
又、バイセクシャルの伝統は脈々と受け継がれ、
鳥羽院・崇徳院・後白河院ともに男女分け隔て無く慈しまれたんじゃ。
故に、藤原頼長は別段異常性格ではなく、彼らに言わせれば
女性しか愛せない男性って 「ヘン」 っておっしゃる筈じゃ。
爺やは不甲斐なくこの癖(へき)を持ち合わせないが
全く自然な事に思えるぞい。
この事はこれ位にして藤原頼長に戻ると
彼は好きな女性・男性にはチョメチョメできたにも関わらずどうも
あくまでもだが、結果的には 「世渡り下手」 だったのやも知れない。
「妥協の道」 を敢えて選ばず、「正論」 を以てして突き進む姿。
(爺やはとっても好きなんじゃがのー)
そう言えば、
この手の現代版は昨今、無罪放免された 「小沢一郎」 さんじゃよ。
彼は、愚直?なまでにも 「正論」 を通し続けておられる。
目先の人参など目もくれず天下国家を思い
「沈み行く日本」 を何とか 「まともな国」 にしようとされておる。
「清濁合わせ飲んだ田中角栄」 さんはシベリア開発企画が米政府の
癇に障り、彼らにより追い落とされてしもうたが、
小沢一郎さんは自国のマスメディアによる 「悪の権化」 キャンペーン
と彼が総理になると
既得権益が侵される組織の策謀で失脚させられるんじゃから、
たちが悪る過ぎじゃよ。
司法当局がまともな判断をしてくれた事に感謝じゃが
彼にとっては無駄な時間を費やしてしまった事がしごく残念じゃ。
一方、藤原頼長も 「悪左府(左大臣)」 と世から揶揄されたんじゃよ。
只、彼の場合は天下国家ではなく
「失われた摂関家の権威・権力の再興」 じゃった。
小沢一郎さんより 「目標」 は小粒じゃが短兵急に事を運ぶには
「妥協せず、筋を通し続ける」 事が肝要なんじゃよ。
彼の目標達成が叶わなかった最大の因は藤原道長が成し遂げた
帝のお爺さんに成れなかったことなんじゃ。
お嬢さん作りに精を出す事を怠った事なんじゃよ。
お子さんの性別は
「天の恵み」 って事にしてしまったらそれ迄なんじゃが
素敵な男性には目もくれず、(お嬢さんが2〜3人できる迄)
女性オンリーで励む手も有ったんじゃよ。
今更詮無きことじゃが・・・。
保元の乱のきっかけは
その時点での最高権力者、鳥羽法皇が崩御された事。
帝は前年に急遽成り立て、
後の後白河院 (父は鳥羽法皇、母は亡き待賢門院)。
そして各セクトの権力獲得闘争へ突入。
藤原頼長は瀕死の状態で南都奈良に住まう父、忠実に合おうとするが
最後の綱、忠実に断られその地で絶命したそうな。
藤原忠実は溺愛した言われる次男、頼長の状況を知り、
涙して 「お家大事」 へと転向を計る挙に。
忠実も最終的には筋と通した事になるのー。
まあ、今日はここまで、爺やもお休みと取るぞい。

平家盛も生年不詳

大河4/15オンエアー 第15回 「嵐の中の一門」
平清盛の弟、平家盛が亡くなった時期まで進みよった。
彼は鳥羽法皇の熊野詣でに右馬頭(うまのかみ)として同行、
参詣後の帰途、目前の京の都に辿り着く事が叶わなく
病で亡くなったしもうたんじゃよ。
大河では落馬事故として展開されていたが・・・・・。
彼の没日は記録に残っているんじゃ。
久安五年(1149年)3月15日と。
しかしなんじゃが、この平忠盛の次男坊、平家盛の誕生日が
不明なんじゃよ。
軍記ものの 「平治物語」 では享年(1149年時点)23歳(数え)と
されておるので誕生年は1127年となるが、不確かなんじゃ。
父親の平忠盛、1127年時点で位階は従四位下で
高級官僚(公卿)=従三位以上(参議を除く)にはほど遠く
更に嫡男ではなく次男坊の存在じゃから記録されなかったんじゃろ。
大河では清盛、家盛の幼い頃の 「家盛、不覚の木から落下事件」
シーンにおいて少なくても9歳違いの設定をしていなかったから
この平家物語説を取っていない事になるんじゃ。
一方、同じ設定シーンを醸し出した清盛の息子達の木登り。
こちらは1149年時点で
平重盛(1138〜1179)12歳(数え)
平基盛(1139〜1162)11歳(数え)
この兄弟の木登りシーンは今の小学4・5年生位で問題ない事になる。
(第十三回 祇園闘乱事件 写真集 縁側に座る後の重盛・基盛)
そして、
この平家盛が亡くなったお陰?で平維衡(これひら)(?〜?)から
スタートしたと言われる 「伊勢平氏」 のお家騒動は解消され、
更に、彼らの父、平忠盛が仁平二年(1153年)に他界、これにより
名実共に平清盛は伊勢平氏のトップ(棟梁・頭目)になるんじゃよ。
余談じゃが、歴史嫌いになる一つの因が
夥しいこの同じ 「平」 の出没じゃ。
更に追い打ちをかけるように同じ 「盛」 のオンパレード。
何せ、一字違いで 「平◎盛」 を見分けないといけないからじゃ。
源姓もそうじゃが、全くお手上げなのが 「藤原姓」 じゃ。
藤原鎌足をスタートするこの藤原一族は半端じゃない。
ただし、藤原摂関家は忠通の息子から 「近衛・(松殿)・九条」 に
又、「待賢門院のお陰で閑院流桜咲く」で紹介した藤原公実の息子
から 「三条・西園寺・徳大寺」 と別称になってくれる。
これで大助かりと思うのじゃが歴史嫌いはこれでも・・・・・。
因みに、清盛の後妻、時子さん。彼女も 「平姓」 じゃのー。
又、彼女の弟、
「平家にあらずんば人にあらず」 と宣ったと言われる
「平時忠」(1130〜1189) これらのお二人は伊勢平氏じゃないのじゃ。
しかしながら両系統ともに
ご先祖を辿れば、伊勢平氏も平時子・時忠らも桓武帝(737〜806)に。
まあ、人間は全て 「アフリカの母」 に辿り着く感じじゃが?
今日はここまで、そんじゃ又。

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生没年不詳、平清盛を取り巻く女性達から

今回は平清盛を支えた女性達にスポットを当ててみる事にするぞい。

清盛の実母は特定されていないのでここではパスじゃい。
然るに当然、彼女の生没年は(?〜?)

そこで先ずは継母、育ての母親からじゃ。
藤原宗子、後の池禅尼(いけのぜんに)(?1104〜?1164)
彼女は一条帝の妻、定子の父、藤原道隆の四男、隆家の末裔じゃ。

次に彼の妻、及び、関係を持たれた方々
高階基章の娘(大河では「明子」)(?〜?)
 平重盛(1138〜1179)
 平基盛(1139〜1162) の二人の息子を生み早世。
後妻の平時子(?1126〜1185)
 平宗盛(1147〜1185)
 平知盛(1152〜1185)
 平徳子(1155〜1213) 後の建礼門院 安徳帝の母
 平盛子(1156〜1179) 藤原忠通の息子、近衛基実の妻
 平重衡(1157〜1185)
 藤原家成の息子、隆房の妻(?〜?)
 近衛基実の息子、基通の妻(?〜?)

平時子の異母妹
 平滋子(1142〜1176) 後白河院の妻、高倉帝の母 後の建春門院

厳島内侍(?〜?)
 娘さん(?〜?)

上記以外に平清盛がちょっかいを出したり愛を注いだ女性は
いらしたと思われるがそれらの皆さんは全て、(?〜?) なんじゃ。

今日話したかったのはこの (?〜?) 生没年不詳の事じゃ。
今日日でこそ、皆さんご自分の生年月日を知っている思うが
(没年は嬉しいことに本人には分からないんじゃよ。)
明治以前の方々はそんなにご自分の誕生日に頓着しなかったんじゃ。
生まれた歳くらいは親御さんに聞いて知っていたとは思うが?
乃至はお寺の檀家になっていたらご自分が覚えていなくても
お寺さんが 「過去帳」 に記載してくれていたと思う。
この平清盛がこの世で格闘していた時はそれよりももっと時代を
遡る訳じゃから書物に記載されていない限り大概の皆さんは
(?〜?)のパターンなんじゃよ。
然らば、明確に生・没年月日が分かる方はと言うと
帝は当然として、政府の高級官僚(公卿)の方々、
及び、彼らの配偶者(高級官僚のお嬢さん)と
そのお二人のお子さん達。
又、誕生年・没年だけなら書物からの 「類推」 から割り出せる事も。
日本を支え続けた一般庶民の方々はそれはもうおおらかで

「遊びをせんとや
生まれけむ
戯れせんとや
生まれけむ
遊ぶ子どもの声聞けば
我が身さへこそ
ゆるがるれ」 (NHK2012大河ドラマ 平清盛より)

当にこの感じでその時代を謳歌されたんじゃろ?
故に細かい誕生日まで知らなくても大した問題じゃなかったんじゃ?
もう一つ、大事な点があるんじゃ。
吝か、はっきりくっくり生・没年月日が判明されている方も
その生没年等は
その書物が正しければと言う条件付きなんじゃよ。
因みに日本の暦日は
推古12年(604年)の甲子年正月(丙寅)朔日(一日)を
スタートとしていると 「政事要略」 に記されているそうじゃ。
その書物は一条帝の御代に書き上げたもので
著者は
惟宗(令宗)允亮(これむね(よしむね) の ただすけ)(?〜?1009)
その時代の法律(律令)専門テクノラート、明法博士をされたお方じゃ。
そんな彼でさえ生没年が不詳なんじゃよ。
この職は高級官僚に値しないみたいじゃ。
又、 「日本書紀(日本紀)」 が正しければ
歴法は持統4年(690)年11月に採用した事になっておるんじゃ。
その歴法は儀鳳暦(ぎほうれき)と元嘉暦(げんかれき)。
「始めて元嘉暦と儀鳳暦を行う。」 と記載されているそうな。
因みに、このブログで紹介している方々の生没年は
あくまでも 「和暦年(太陽太陰暦)」、
決してユリウス、或いは、グレゴリオ歴換算年にはしていないぞえ。
又、暦に興味がお有りの方は、孫のブログの
「暦・十干十二支・陰陽五行説」でも見てくんろ。
そんじゃ、又じゃ。

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雅仁親王と平清盛の出会いは時代考証以前の話

前回スーパーレディー、藤原光子さんの話をしたんじゃが
待賢門院さんのお子さん作りでは光子さんにはやや劣るものの
崇徳帝(1119年誕生 璋子さん数え19歳)から最後の
覚性法親王(1129年誕生 待賢門院さん数え29歳)迄の
10年間で7人のお子さんをこの世に送り出しておるんじゃ。
スマホ時代のお嬢さん違い、
かの時代の女性は半端じゃないじゃろー。
この7人のお子さんの中にラッキーにも後の帝・上皇・法皇に
なられる方がいらっしゃるんじゃ。
そのお方は大河で髪型が 「みずら」 で登場された雅仁親王で
後の後白河帝なんじゃよ。(1127〜1192)(在位 1155〜1158)
大河3/4オンエアー 第9回 「ふたりのはみだし者」 とのタイトルで
雅仁親王と平清盛がサイコロ遊びのシーンがあったんじゃ。
以前にも触れたとは思うが如何にフィクションを前提とするドラマでも
やや無理があると思ったんじゃ。
(尚、第9回写真集をサービスしてくれておるから是非確認を)
この時のお日柄は、
保延4年(1138) 後の平重盛(1138〜1179)誕生
保延5年(1139) 後の近衛帝(1139〜1155)誕生
この流れで二人のやり取りが設定されておった。
因みに、保延5年(1139)の某日とすると
平清盛(1118〜1181)が数え22歳
雅仁親王(1127〜1192)が数え13歳
と言うところのお年頃になるんじゃよ。
勉学好きなら、
大学3年生 (平清盛) と小学6年生 (雅仁親王) になる筈じゃ。
あのシーンではとってもその様な感じを醸し出しておらんじゃろー。
純真無垢な小学生がもし見ていたなら必ずイメージ先行するから
爺やはとても心配するんじゃよ。

又、後の近衛帝誕生祝いの宴でのシーンでは

鳥羽上皇(1103〜1156)が数え37歳
藤原得子(1117〜1160)が数え23歳
待賢門院(1101〜1145)が数え39歳

藤原忠実(1078〜1162)が数え62歳
藤原忠通(1097〜1164)が数え43歳
藤原頼長(1120〜1156)が数え20歳

平 清盛(1118〜1181)が数え22歳
佐藤義清(1118〜1190)が数え22歳  後の西行
高階通憲(1106〜1159)が数え34歳 後に信西

雅仁親王(1127〜1192)が数え13歳

上記以外にも、大人の
体仁(なりひと)親王(後の近衛帝)の乳母、藤原家子
待賢門院のお世話係、待賢門院堀河局
高階通憲の妻で雅仁親王の乳母、藤原朝子 
さんらの皆さんがおられる空間で、
雅仁親王(小学6年生)が父である鳥羽上皇を揶揄する場面の活写。

これらは、時代考証以前の話なんじゃよ。
しかしながら、なんぼ宣っても 「詮無き事」 なんじゃが・・・・・。
ホント情けない話じゃが、又にするぞい。

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待賢門院のお陰で閑院流桜咲く

やっぱ年に一度の 「桜」 は何回見ても堪らんのー。
只、平安の世では花と言えば 「梅」 じゃったんじゃい。
「梅も咲いたし、桜も咲いた。」 ホントめでたい限りじゃよ。
そこで、今年の大河の時代にめちゃくちゃ桜咲いた一族が
出現した話へ。
江戸時代末期〜明治・大正・昭和時代の歴史上で
三条実美(さねとみ) (1837〜1891) 太政大臣 兼内閣総理大臣
西園寺公望(きんもち) (1849〜1940) 内閣総理大臣
のお二人はご存じじゃろ?
この端緒をお作りされた方が
いとやんごとなき 「紫の上」 を彷彿させる藤原璋子、(1101〜1145)
後の待賢門院さんなんじゃよ。
彼女の父は藤原公実(きんざね)(1053〜1107)。
鳥羽帝即位時、白河法皇に 「摂政職」 を所望された方。
彼の望みは叶えられなかったが彼の息子さん達、

三条(藤原)実行(さねゆき) (1080〜1162)
西園寺(藤原)通季(みちすえ) (1090〜1128)
徳大寺(藤原)実能(さねよし) (1096〜1157)

これらのお三方は前々回、
「崇徳帝・待賢門院(藤原璋子)、今鏡では」 で紹介した
「今鏡、春の調べ」 の段で登場していたんじゃよ。
三条実行の母親は藤原基貞のお嬢さんじゃが
西園寺通季・徳大寺実能・藤原璋子(待賢門院)らの母親は
藤原光子(1060〜1121)、彼女は堀河・鳥羽帝の乳母(めのと)を
されたお方なんじゃ。
乳母に関しては、孫のWEB SITE、
「乳母(めのと)と云う女性(キャリア)」
「乳母 ・乳母子 ・乳母兄弟 ・乳母連れ合い」 でご覧じあれ。
この光子さん、公実さんとの最初のお子さん
西園寺通季(1090年誕生 光子さん数え31歳)から
最後の藤原璋子(1101年誕生 光子さん数え42歳)までの
11年間で8人のお子さんをこの世に輩出したスーパーレディーじゃ。
更にこの間、乳母(職業婦人)として1087年から従事され(堀河帝)
1103年には鳥羽帝の乳母も兼務すると言うパワフルレディーなんじゃ。
今時のお嬢さんでアラサー〜アラフォー過ぎまで光子さんみたいに
(ガン)バリ・バリがおできになる方はいらっしゃらないじゃろーなー。
爺やもこれには頭が下がる思いじゃよ。
それはさて置き、三条・西園寺・徳大寺の三兄弟を結果的に桜咲かせた
最大の功労者は何と言っても璋子女史の存在じゃよ。
白河法皇に育てられ、それはそれは大事にされ、
彼の娘として孫の鳥羽帝に嫁がされ、
お二人の帝(崇徳・後白河帝)の母親となった待賢門院。
彼女なくして、三条・西園寺・徳大寺家の繁栄・栄華はなかった
と言っても決して過言ではないと思う。
そして、鳥羽帝の母が藤原苡子(いし)(1076〜1103)、
彼女の兄が白河法皇に慣例通り 「摂政職」 をお願いした藤原公実、
又、白河法皇の母が藤原茂子(?〜1062)、
彼女は藤原公実のおばさんになるお方なんじゃよ。
三条・西園寺・徳大寺家は世で 「閑院流」 と言われておるんじゃ。
藤原公実(1053〜1107) から遡る事、
藤原実季(1035〜1107) ⇒ 藤原公成(きんなり)(999〜1043) ⇒
藤原実成(975〜1044) ⇒ 藤原公季(きんすえ)(956〜1029)
最後の藤原公季が閑院邸にお住まいになっていたので
藤原公季以後この一統を 「閑院流」 と言う事になっておるんじゃ。
現在の住所は京都市中京区押小路通小川西入古城町(西福寺内)
但し、当然、豪邸はなく立て看板のみじゃから注意じゃぞ。
ほんじゃ、又じゃ。

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RECOMMEND H.P.
粋・いなせ と服  江戸時代

うちの孫の作なんじゃけど
江戸時代の庶民文化
粋といなせ」について
語っているので暇だったら
一度、目と通してくんろ。

何やら、今現在は「古事記」に
凝っているそうじゃ。
「本居宣長」じゃあるまいにのう。

日本の色 (伝統色)

日本の色について
大昔から近代までの流れを
色見本付きで紹介しちょるぞ。

男と女 待賢門院

これは「歴史秘話」ではなくて
少し歴史をかじった事がある
者にとっては周知の事実じゃ。

男と女 お美代の方

これも「歴史秘話」ではなくて
「歴史ヒストリア」?
家斉は大したもんじゃのー。

ファッション・よもやま話

孫の作じゃ。
お時間があればどうぞ。
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