藤原宗忠が几帳面に日々書き連ねてくれた日記、中右記。
このお蔭であくまでも彼の目、心を通した 「かの時代」 を
垣間見る事ができるんじゃ。
彼は当然物書きが出来た運と境遇を持ち得たお方じゃ。
貴族(官僚)のトップクラスではないが
逆にその事により完全上から目線の物書き・物思いでない事になる。
おさらいじゃが彼の生きた時節は1062〜1141年、
この世に79年間も生存された事になる。
今の世と違い、食糧事情が悪かったと思われるが
貴族故と彼の心身が「健康」じゃったから長生きされたんじゃろなー。
中右記のスタートは1087年。
歴史年表ではこの前年の1086年
白河帝(1053〜1129)が天皇位を息子の堀河帝(1079〜1107)に譲り、
そのままリタイヤー(隠居)されると思いきや、
結果的に後に 「治天の君」 として君臨する事になり、
「院政の開始」 とされている。
これ以前は 「摂関政治」 と言われ、帝の母方のお爺さんが
政治の実権を握っておったんじゃ。
従って、1186年にいきなり白河院が政治の実権を握った訳ではない。
数えで8歳の堀河帝には摂政として藤原師実(1042〜1101)が着任。
朝廷での政(まつりごと)は藤原師実を中心として遅滞なく?
執り行われていたんじゃ。
その実体が分かったのは 「中右記」 の記述からなんじゃよ。
筆者、藤原宗忠は1186年に位階、正五位上の殿上人じゃから
当然昇殿が許される立場じゃ。
(この殿は清涼殿で内裏にあり政務等を行うエリアなんじゃ。)
この空間に出入り可能なのが高級貴族 (官僚) なんじゃよ。
宗忠数え26歳、日記スタートの1187年の官職は左近衛少将じゃ。
なかなかそこら辺の者には成れないそれはそれは畏れ多い事じゃ?
この時代のそこら辺の者は文字を読み書きできなかった筈なんじゃ。
先ず、文字を読み書きできる素養が無い限り、
漢文で日記を綴る事はできないって事じゃのー。
と言う事は少なくても貴族と称された方々は
 「お勉強」 をした・させられた・いや、したんじゃよ。
因みに京の都では1086年に 「後拾遺和歌集」 が撰集されている。
収集撰者は藤原通俊(1047〜1099)。
この時の彼の位階は従三位で官職は参議をされておったんじゃ。
又、彼の曾祖父の兄弟に
「小右記」 を残して下さった藤原実資(さねすけ)(957〜1046)が。
道長の有名な歌である
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることの なしと思へば」
は実資が小右記に書き記(しる)してくれたんじゃよ。
(小右記は野宮大臣から)
1086年に時代を戻して、
京の都から目を離して、東北地方(出羽・陸奥)に目を移すと
「後三年の役」(1083〜1087)と言う戦の最中じゃった。
(未だこの時代、
 「蝦夷(えぞ)が島=北海道」は朝廷の範疇外じゃった。)
結果的には源(八幡太郎)義家(1039〜1106)と
清原⇒藤原清衡(1056〜1128)が勝者となって後の歴史が展開する。
藤原清衡は奥州藤原氏の祖となるお方じゃ。
そして、2012年大河ドラマ「平清盛」に登場する
源義家の孫が源為義(1096〜1156)になり
源義朝(1123〜1160)⇒源頼朝(1147〜1199)と連綿と続くんじゃよ。
今日はここ迄、ほんじゃ又。

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