今日まで待った甲斐があり、やっと桜の蕾が膨らみ始めたぞい。
有難い事に
「必ず春がやって来ってくる。」 事は確かじゃから感謝・感激じゃよ。
もう少し待っていれば、墨堤 (隅田川沿い) の桜の木も、
やや放射性物質を浴びたにも関わらず元気に花開いてくれそうじゃ。

それはさて置き、先週紹介した 「今鏡読本」 の話の続きじゃ。
以前、今年の大河の文献資料として 「中右記」 を取り上げたのー。
この日記を書き残してくれた 「藤原宗忠」 が 「今鏡」 に登場して
いるんじゃよ。
今鏡 春のしらべ(調べ)の段で

「さのみうち<にはやとて、花の宴せさせ給ひけるに、
松にはるかなるよはひをちぎる。
といふ題にてかんだちめ束帯にて、殿よりはじめて、まゐり給ひけり。
まづ御あそびありて、
關白殿<藤原忠通>ことひき給ふ、
はなぞのゝおとゞ<源有仁>、そのとき右大臣とてびはひき給ふ。
中院の大納言<源師頼>さうのふえ、
右衛門佐<藤原>季兼にはかに殿上ゆるされて、
ひちりきつかうまつりけり、
拍子は中御門大納言<藤原>宗忠
ふえは成通さねひらなどの程にやおはしけん。
すゑなりの中將、わごんなどとぞきゝ侍りし。」

ココの描写は「花の宴」を催し、雅にも歌を奏でる状況なんじゃ。
歌を奏でると言っても 「五七五七七」 の方じゃから。
この歌会に先立ち場を盛り上げる為の前振り余興。

箏(そう)=琴が何と関白、藤原忠通
琵琶が右大臣、源有仁
笙(笙の笛)が大納言、源師頼
篳篥(ひちりき)が右衛門佐、藤原季兼
笏拍子が大納言、藤原宗忠
笛が参議、藤原成通と官職不明じゃが、藤原実衡
和琴が左近衛中将、藤原季成

この時代の官僚は
楽器を奏でるそれはそれは文化人じゃったんじゃよ。
その中で中右記作者の藤原宗忠はパーカッション担当じゃ。
宗忠さんは中々なもんじゃと思わんかいのー。
この箇所以外にも、花の山の段で

「このいへにいとなきことなれどなど侍りければまことにしか侍事とて、
申しいれたまへりければ思ひがけぬ御心ざしなどきこえ給ひける
ほどに、白川院 <藤原>宗忠のおとゞ
頭弁<右大弁兼蔵人頭 1098〜1099>におはしけるとき、
きとまゐれと侍りければおそくやおぼしめすらんと、
おそれおぼしけれど、いと心よき御けしきにて、
堀川のみかど<帝>、くらゐおはしましゝとき、
うちへまゐりて申せとて、
<近衛>大将あ<空>きて侍るに、
むねみち<藤原宗通>をなし侍らんと思ひ給ふなり。」

更に、唐人(からびと)の遊びの段では

「あぜち<按察><藤原宗俊>の御こ<子>にては、
備中守實綱<藤原実綱>といひし、
はかせ<文章博士>のむすめのはらに、
右大臣<藤原>宗忠のおとゞ
又堀川の左のおとゞ<源俊房>の御むすめのはらに、
太政のおとゞ<太政大臣>宗輔<藤原宗輔>など、
ちかくまでおはしき。
右のおとゞは中御門のおとゞとて、
催馬楽の上手におはして、
御あそびなどには、つねに拍子とり給ひけり。」

宗忠さんは催馬楽(さいばら)にも秀でていたんだとさ。
催馬楽はフォークソング・民謡感じの歌謡曲なんじゃと。

これが最後なんじゃが、上と同じく唐人(からびと)の遊びの段で

中御門の右大臣宗忠の御子は、
<藤原>宗能(むねよし)の内大臣ときこえ給ふ。
みのゝかみ<美濃守=美乃国守>ゆきふさ<藤原行房>の
むすめ<お嬢さん>のはらにやおはすらん。」
ってな感じで息子さん迄もご紹介くださっておるんじゃ。
この藤原宗能(1085〜1170)数え86歳と天命を全うされておる。
尚、藤原宗忠の末裔は明治の世を迎え 「伯爵」 を賜っておるぞい。
ほんじゃ、今日はここ迄。