やっぱ年に一度の 「桜」 は何回見ても堪らんのー。
只、平安の世では花と言えば 「梅」 じゃったんじゃい。
「梅も咲いたし、桜も咲いた。」 ホントめでたい限りじゃよ。
そこで、今年の大河の時代にめちゃくちゃ桜咲いた一族が
出現した話へ。
江戸時代末期〜明治・大正・昭和時代の歴史上で
三条実美(さねとみ) (1837〜1891) 太政大臣 兼内閣総理大臣
西園寺公望(きんもち) (1849〜1940) 内閣総理大臣
のお二人はご存じじゃろ?
この端緒をお作りされた方が
いとやんごとなき 「紫の上」 を彷彿させる藤原璋子、(1101〜1145)
後の待賢門院さんなんじゃよ。
彼女の父は藤原公実(きんざね)(1053〜1107)。
鳥羽帝即位時、白河法皇に 「摂政職」 を所望された方。
彼の望みは叶えられなかったが彼の息子さん達、

三条(藤原)実行(さねゆき) (1080〜1162)
西園寺(藤原)通季(みちすえ) (1090〜1128)
徳大寺(藤原)実能(さねよし) (1096〜1157)

これらのお三方は前々回、
「崇徳帝・待賢門院(藤原璋子)、今鏡では」 で紹介した
「今鏡、春の調べ」 の段で登場していたんじゃよ。
三条実行の母親は藤原基貞のお嬢さんじゃが
西園寺通季・徳大寺実能・藤原璋子(待賢門院)らの母親は
藤原光子(1060〜1121)、彼女は堀河・鳥羽帝の乳母(めのと)を
されたお方なんじゃ。
乳母に関しては、孫のWEB SITE、
「乳母(めのと)と云う女性(キャリア)」
「乳母 ・乳母子 ・乳母兄弟 ・乳母連れ合い」 でご覧じあれ。
この光子さん、公実さんとの最初のお子さん
西園寺通季(1090年誕生 光子さん数え31歳)から
最後の藤原璋子(1101年誕生 光子さん数え42歳)までの
11年間で8人のお子さんをこの世に輩出したスーパーレディーじゃ。
更にこの間、乳母(職業婦人)として1087年から従事され(堀河帝)
1103年には鳥羽帝の乳母も兼務すると言うパワフルレディーなんじゃ。
今時のお嬢さんでアラサー〜アラフォー過ぎまで光子さんみたいに
(ガン)バリ・バリがおできになる方はいらっしゃらないじゃろーなー。
爺やもこれには頭が下がる思いじゃよ。
それはさて置き、三条・西園寺・徳大寺の三兄弟を結果的に桜咲かせた
最大の功労者は何と言っても璋子女史の存在じゃよ。
白河法皇に育てられ、それはそれは大事にされ、
彼の娘として孫の鳥羽帝に嫁がされ、
お二人の帝(崇徳・後白河帝)の母親となった待賢門院。
彼女なくして、三条・西園寺・徳大寺家の繁栄・栄華はなかった
と言っても決して過言ではないと思う。
そして、鳥羽帝の母が藤原苡子(いし)(1076〜1103)、
彼女の兄が白河法皇に慣例通り 「摂政職」 をお願いした藤原公実、
又、白河法皇の母が藤原茂子(?〜1062)、
彼女は藤原公実のおばさんになるお方なんじゃよ。
三条・西園寺・徳大寺家は世で 「閑院流」 と言われておるんじゃ。
藤原公実(1053〜1107) から遡る事、
藤原実季(1035〜1107) ⇒ 藤原公成(きんなり)(999〜1043) ⇒
藤原実成(975〜1044) ⇒ 藤原公季(きんすえ)(956〜1029)
最後の藤原公季が閑院邸にお住まいになっていたので
藤原公季以後この一統を 「閑院流」 と言う事になっておるんじゃ。
現在の住所は京都市中京区押小路通小川西入古城町(西福寺内)
但し、当然、豪邸はなく立て看板のみじゃから注意じゃぞ。
ほんじゃ、又じゃ。

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