保元の乱の敗者代表、藤原頼長・崇徳院の話をしたんじゃが次は
お勤め具合の経緯(いきさつ)で彼らに荷担した、
或いは、せざるを得なく敗者となった方々じゃ。
先ずは老体にも関わらず担ぎ出されて戦闘部隊の総大将格にされた
源為義(1096〜1156)、奇しくも長男、源義朝(1123〜1160)と
父子対決となった後の源頼朝(1147〜1199)のお爺さん。
次に平忠盛(1096〜1153)の弟で平清盛(1118〜1181)の叔父さん
平忠正(?〜1156)、藤原頼長に近侍し頼長と宇治から共に上洛。
お次は新院(後の讃岐院)に近侍していた
平家弘(?〜1156)、乱では忠義を貫き新院(後の讃岐院)サイドに。
上のお三方が武士の代表じゃ。
そして彼らに科せられた刑罰は何と死を以て贖う斬首刑じゃった。
乱、或いは、変の後、関係者が死に追いやられた例は
遡る事346年、藤原薬子の変(810)で薬子(くすこ)の兄、
藤原仲成(764〜810)が射殺された以後、この保元の乱までなく
それはそれは平安な時代じゃったんじゃよ?
平忠正・家弘らの子息も含め皆さん斬首。
源為義一族は勝者側の後白河天皇に与した長子、源義朝以外の
息子さんらも斬首刑。
只、八男坊の源為朝(1139〜?)、
通称 「鎮西(ちんぜい)八郎」 だけは弓の名手で武勇を認められ
斬首にするのは惜しい?との理由で
伊豆大島へ配流の刑に酌量されておるんじゃ。
勝者側は後に赦免・召還・配下にしようと目論んだのかのー?
一方、彼は民(たみ)に人気があったようで、
チンギスハンとなった 「義経伝説」 に勝るとも劣らない
中山琉球王の祖と言う「為朝伝説」 を生むんじゃよ。
まあ、
伝説じゃからお話しは眉唾(まゆつば)で聞かんといかんがのー。
この話に輪をかけたのがお江戸時代、
粋で洒落た戯作者、山東京伝(1761〜1816)にお世話になり、後に
読本作家となり一世風靡した曲亭(滝沢)馬琴(1767〜1848)さん。
1807年発刊の 「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」 で
源為朝の保元の乱の活躍と最終的に琉球に渡って中山琉球王に父親
となったと言うフィクションを展開したんじゃ。
義経ではないが 「判官贔屓」 で悲劇の英雄を好む日本人気質の
心を揺すり (今日日は知らんが?) 椿説弓張月はその時代の
超人気読本 (画像(絵)添え物語感じ) だったんじゃよ。
そして、この絵を担当した方が名にし負う
葛飾北斎(1760〜1849)さんじゃったんじゃ。
すばらしいコラボじゃろ。
北斎さんに関しては孫が大好きで触れておるから興味が有れば、
「葛飾北斎 究極の着物コーディネートファッション」
を覗いてくれりょ。
フィクションはこれ位にして、そんなこんなで、
敗者が死を賭して罪を購う死罪(死刑)が保元の乱で復活したんじゃ。
ほんじゃ又、来週は保元の乱の続きじゃから。

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