2017年07月06日

七里ヶ浜沖遭難事故(明治43年)

七里ヶ浜
このアングルは、あまりにも有名

海の季節です。
でも、表題の遭難事故は真冬のできごとで、海に放り出されれば、いかな泳ぎ達者でも溺死はまぬかれません。
当時の平均的な服装が和服だったから泳ぎにくかったわけでなく、冬の水の冷たさによる体温喪失が先です。

「七里ガ浜の哀歌」

で知られる、明治43年1月23日の七里ガ浜遭難者たちは、当時の逗子開成中学校の生徒が11名、小学生が1名の合計12名。

今になって明治の話を開陳するのは、旧い時代の学制確認と、新学制下の小学生時代に、はじめて観た映画、「真白き富士の根」と、高校生になってから接した「七里ガ浜の哀歌」について、思うところがあるからです。

とくに月刊受験誌「高校時代」の付録にソノシートを付け、そこに「七里ヶ浜の哀歌」を収録して、でたらめな解説文を載せた旺文社編集部に怒りを感じているのですが、当時の編集員たちはバチがあたり、すでに全員が亡者になっている頃と思うので許すことにします。

まず、明治時代の学制は、6歳で始まる尋常小学校科6年が終わると、12歳そこらで丁稚奉公に出て働く階級と、さらに5年科程の中学校に進む階級に分かれていて、進学する者は、今で申すエリート階級だったのであります。
明治35年に起きた逗子開成中学生徒による、「七里ヶ浜遭難事件」の、遭難者個々の年齢を見渡すと、
5年生で、
    21歳1名
    20歳1名
    19歳2名
    18歳2名
4年生では、
    17歳2名
2年生では、
    15歳1名
    14歳2名
という構成になっていましたから、二年生の14歳というのは、進級面からみて、まずまず順当なところでしょう。

さて、わしが生まれは1942年だから、七里ヶ浜遭難事件の32年後になるが、実際にこの事件の輪郭に接するのは、さらに12年を経過した小学6年生まで待たねばならぬ。
6年生の当時は、1ドルが360円の時代で、まだ五円や十円に価値があり、一円玉は真鍮製だった。
100円はお札が中心で、1000円札になると現在の1万円札より大きかったし、1万円札はまだ発行されていなかった。当時の宝くじの1等が100万円の時代でしてな。
そんな時代の小銭をポケットに入れて足繁く通ったのが近所の貸し本屋。
あまり高価な本を貸し出すと返本されなくなるから、いいかげんな漫画本が中心で、その中に『真白き富士の嶺』があった。
なにやら継子イジメを題材にした、少女向け「悲しき小鳩」のたぐいの物語だろうと、左右を気にしながら、店の親爺に十円玉を差出したものだ。
それを家に持ち帰る途中で、一学級下の「トミゾー」という少年に出くわしたものだ。

この少年は既に読み終えているらしくて、「すごい可哀想なお話だよ」とだけ内容を教えてくれた。それ以上の情報を吹き込まれると、借り出した本がつまらなく思えてくるから、とっとと家に戻って読み始めた。

当時のわしは、栄養が悪かったせいか、同年の仲間と比べて、まだまだ成熟の度合いが遅れていたから、恋愛シーンを読んでも、いまいちピンとくるものがなかった。

それが、翌年になって夏の野外映画会で上映された大映作品「真白き富士の根」を観て、少しは興奮した。なんと言っても、海に乗り出した12人の少年たちが次々と溺死し、大法要の式典の席から、女学生が一人去り、二人去りしてゆく場面には心が動かされたものだ。
「トミゾー」が言っていた「すごい可哀想なお話」というのはこの部分だろうと思いあたるところがあったが、恋愛の情緒的な部分はてんで解っていなかった。
要するに、怖い部分、悲しい部分だけを拾って、勝手に感動していたに過ぎない。

さらに4年が経過し、旺文社の「高校時代」を愛読し始めると、付録にソノシートが付いてきて、「七里ヶ浜の哀歌」も収録されていた。
その再生内容はともかく、解説部分を読むと、この歌詞は名も知れない一女子高校生が投稿したもので、それが記念碑に彫られてあるのだとあった。
この部分は何げに記憶の引き出し入れておいたが、最近になって「七里ヶ浜の哀歌」をインターネット参照する機会があった。
すると、三角錫子と申す逗子開成中学の姉妹校、鎌倉女学校の教諭が、大法要の式典に間に合わせるべく、急作りしたものだとわかった。

この点に関して旺文社の編集部はロクな調査もせず、いいかげんな話をでっち上げていたことになる。その説明の何処にも、「逗子開成」の名はなかったし、聞いたこともない水産高校の名前が載っていた・・・ひどい帳尻あわせだ。

事件発生は真冬の1月23日。
遺体が全て発見されたのは、事故発生から4日後のことだったし、2月6日には、中学校校庭で追悼の式典が営まれた。この式典の際、三角錫子作詞の歌が鎮魂歌としてオルガン演奏され、鎌倉女学校の生徒たちが合唱したのが真相なのだ。

事件発生から式典までの二週間で全容を知り、歌詞を決め、曲に編むのは至難の業だ。それに加えて合唱の訓練も必要だから、急遽インガルスの賛美歌曲を選定し、自作の鎮魂歌をあてはめた能力は賞賛に値する。
いうなれば、蜀の丞相・孔明が心血注いで「出師の表」を書き上げたようなものです。
この鎮魂歌は六番まであり、事件の経過を余すところなく示し、今もなお魂を揺さぶって止まない迫力があります。
ただ、この事件は「若者の暴走」が原因で起きた事件であり、そこのところを忘れて感情に流されてはいけない。

三角錫子
金沢藩藩士の長女だった三角は、この事件後に東京・トキワ松学園を創立し、初代校長となったが、49歳の若さで亡くなった。
驚くなかれ、彼女は 東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)数学科を卒業しており、進路選択に当たって両親は「女だてらに・・・」と嘆いたのではなかろうか。
その三角錫子の肖像画を掲載するが、じつに数学者らしい風貌ではないか。

七里ガ浜の哀歌  曲:インガルス 詩:三角錫子

真白き富士の嶺 緑の江ノ島
仰ぎ見るも いまは涙
帰らぬ十二の 雄々しき御霊に
ささげまつる 胸と心

ボートは沈みぬ 千尋の海原
風も波も 小(ち)さき腕に
力も尽き果て 呼ぶ名はちちはは
恨みは深し 七里ガ浜

み雪はむせびぬ 風さえ騒ぎて
月も星も 影をひそめ
御霊よ何処に 迷いておわすか
帰れ早く 母の胸に

み空に輝く 朝日のみ光
闇に沈む 親のこころ
黄金も宝も 何しに集めん
神よ早く われも召せよ

雲間に昇りし きのうの月影
今は見えぬ 人の姿
哀しさあまりて 眠れぬ枕に
響く波の 音も高し

帰らぬ波路に 友呼ぶ千鳥に
われも恋し 失せし人よ
尽きせぬ恨みに 鳴く音はともども
今日も明日もかくて永久に

友呼ぶ千鳥

−−−次回に続きます−−−


zo_roku at 23:57|この記事のURLComments(0)
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