2004年06月

2004年06月27日

久々に映画のこと

 すげえな、テレ東。
 以前から、テレビ東京ってすげー放送局だよな、と思っていた。
 どんな大事件があっても、どんな大惨事があっても、他局が「特集」だの「特別番組」だの流してるのを横目に見ながら平気で「通常番組」を流しちゃうところが、だ。
 先日(04年6月24日)など、洋画劇場で『スリーピー・ホロウ』やってたよ。
 首無し騎士が犠牲者の首を切断してまわる、って物語だよ。
 イラクで、ゲリラに捕まった韓国人が首を切断して殺され大騒ぎ、ってこの時期に!
 いや、すげえ。
 いろんな意味で。


 その翌日、民放で、噂の『ハリー・ポッター』を観る。
 おう、そうよ。今頃になって、ようやく観たよ。
 いやまあ子供に人気のある理由は、よーく判った。とにかくシーンあたりの情報量がやたら多いし、展開も早いので退屈しないわ。
 でも、いいオトナが喜んじゃってるッてのは、どーかと思うがなあ。あんな「ちょっと窮地に陥るたびに新たな才能がポコポコ頭を出して難なくクリア」みたいな話、オモロイか?
 何度も言うが、コドモが観てオモロイのは当然として、オトナが観てオモロイ映画か、あれ。
 いや……オモロイんだろうなあ。


 そんで、さらにその翌日、初めて韓国映画を観る。
『4人の食卓』というホラーである。
 こいつも、なんだかなあ、であった。
 ただでさえ「現実(幽霊)か幻覚か、はたまた妄想か」みたいな物語なのに、やたら視点人物がぽんぽん跳んで次々と奇怪なエピソードを重ねるもんだから、ちっとも感情移入が出来ない。その結果、観ているこっちは単なる傍観者になるだけで、登場人物とともに追い詰められてゆく感覚を味わわせてもらえないのである。
 ゾクッとくるシーンが、なかったわけではないし、計算の痕跡も見える。特に、何度か食卓のシーンが出てくるのだが、登場人物の数を上手に調節して「絶対に4人にならない」ようにしているのは、お見事だ。
 それだけに、実に惜しいと思ったよ。


 ……むう、なんか文句ばかり書いちゃったぞ。
 これはきっと「大迫の感性が歪んでいる」からに違いない。
 仕方ないので、今夜は『シックス・ストリング・サムライ』でも観てから寝ることにしよう。
 うき。




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2004年06月18日

ぎゅっ! と鳴くのは物体X

 先日のこと。
 私が「小説の書き方」を教える某・専門学校で、キャラクター設計についての講義を終えた後、女子生徒が質問にきた。
「キャラクターを設計する時、血液型も決めておいた方がいいんでしょうか?」

 私は「決めといて悪いことはないが、別に必要なわけでもないよ」と即答した。言うまでもなく、キャラクター設計において重要なのは「人格」であり「性癖」であり「技能」だからだ。血液型も誕生日も、あるいは容姿も地位も生活環境も、ここから必要に応じて逆算的に付与されるものでしかない。
 ところがこの女生徒、どうにも私の回答には納得していない様子である。よくよく聞いてみると、「血液型が性格を決める」という説を信じているらしいことが判った。
 いわゆる「血液型占い」というやつだ。

 つまり彼女の質問は、キャラクターの性格に沿って該当する血液型を決定したり、逆に血液型に沿った性格を組み立てたりするべきであろうか、という意味だったのである。同校で7年(8年だっけか)教えているが、こういう質問は初めてだったので、いささか驚いた。
「いや、あのな。血液型と性格には何の関係もないぜ」
「えっ? でもテレビで科学的に説明してましたよ。血液型によって、脳の活動する部分が違うそうです」
「あ、あのなあ……」
 その番組の説を肯定するには、まず「性格の相違と脳の活動部位の相違がイコール可能であること」を立証する必要があるのだが、そんな手順は踏まれていなかったようだ。そもそも脳の活動部位なんて、同一人物でも別のことをしたり考えたりすれば、それぞれの時点で相違が生じるのがアタリマエなのだし。
 結局、彼女には、血液型占いを肯定する根拠があるのと同様、否定する根拠もあるということを教え、その実例を示した。
「俺も今まで、何人も血液型占いを信じる連中に会ったんだけどよ」
「はい」
「そういう連中に『俺の血液型は何型だと思う?』と質問すると、たいていB型かO型だって言うわけな」
 女生徒は頷く。なるほど、彼女も同感であるらしい。
「でもな、俺、A型なんだわ」
「えええっ!!」
 そ、そんな露骨に驚くなよう。

 で、ちょいちょいと調べてみたら、A型は几帳面だとか神経質だとか、ルールを重んじる厳格な性格だとか計画的な財テク派だとか、異性関係には慎重だとか和を重んじるとか……いやまあ、たしかに、実際の「大迫純一」をご存知の諸君ならほぼ間違いなく「えええっ!!」と言いたくなるようなことになっていたよ。
 ええ、そうですよ。
 オーサコはズボラで無神経で俺様主義でルーズで無計画な散財派で異性関係にだらしなくて自分本意ですよ。ええ、ええ。
 なるほど。そりゃあ「ええっ!!」くらいは言うわなあ。
 ちぇっ。
 自分でも「こりゃ違うよなあ」と思っちゃったので、いささか悔しいわけだが。
 さらに私の友人・知人には、引っ込み思案で人見知りのB型とか、神経症かと思うほど几帳面で潔癖症のO型なんてのもいる。少なくとも私の周囲には、反証がごろごろしているわけだ。
 そして確率的に考えるなら、「大迫とその周辺人物だけが特異例」なんて解釈は、いささか無茶というものだろう。

 面白いのは、1900年にカール・ラントシュタイナーが「血液型」を発見してからこっち、いずれかの時点で「血液型が性格の違いに反映されているかも知れない」と思いついた誰かがいるということ、そして「やっぱり関連性があったのだ!」と結論づけるだけの「根拠」を発見したということ、そして最も興味深いのは、現時点においてさえ、ある意味「常識」として広く知られているというこの事実だ。
 病気になった時に「悪い血を抜けば治る」なんて迷信が医学界の常識だったような時代ならともかく、血液の組成も働きも解明された現代において、まだそれが性格という後天的な問題(言うまでもなく血液型は先天的に決定する)と不可分であると考える、その理由が私には理解不能なのである。
 それとも私が知らないだけで、血液とはまだ「謎だらけの不思議な体液」なのかね?
 まさかなあ。

 まあしかし、こういうのを信じちゃうメカニズムというのは、判らないでもない。
 例えば今回の血液型占いの場合、それぞれの血液型の「性格」についての解説をよくよく読み込んでみると、どんな性格の人物も「自分に当てはまる部分」をピックアップしたり拡大解釈したり、あるいは三段論法で一致させたりすることが出来るようになっている。
 そう。前述の「A型の性格」も、私の性格と一致させることが出来なくはないのだ。
 実際のハナシ、B型やO型、ついでにAB型の解説についても、やはり「大迫の性格を解説している」と解釈し得る記述が、ちゃんとある。つまり、どの血液型の解説も、総じて言えば「誰にでも当てはまるように書かれている」わけである。

 これは「重要な部分は憶えているが、そうでない部分は忘れてしまう」という、ごくアタリマエの人間心理を応用しているに過ぎない。
「予言的中のメカニズム」と同じだ。膨大な数の予言を、曖昧な言葉で行っておけば、人々はその中から勝手に「的中」を選び出してくれるし、同時に外れた予言は忘れてくれる。結果的に「的中の記憶」のみが残るというわけだ。
 もっとも私は、こういった「血液型占い」の全てが詐術を用いているとは思わない。むしろ、提唱している本人が信じちゃってて、それゆえ確証バイアスがかかって、そのメカニズムに気づかないだけなのだろうと思う。
 したがって、もう完全に信じちゃってる人に「そうじゃないよ」と言っても無駄なのだということも、ちゃんと理解している。
 だから一応、申し添えておこう。

「以上の記述が大迫純一の個人的な見解に過ぎないことを、ここに明言する」

 いや、以前、星座占いを否定したら、相手がいきなり激怒し始めたことがあってねえ……(汗)。

 ああ、そうそう。くだんの女子生徒は私の説明を聞いて、納得してくれた。
 モノカキが信ずべきものは、外から入ってきたものじゃなくて中から湧き出たものであるべきだから、つまり、これでいいのだ。


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2004年06月15日

キャンプ場でエッチしてはイケマセン

 ちょっと前に『エルム街の悪夢』について書いてみたのだが、今回は『13日の金曜日』のハナシ。

 実を言うと「13金シリーズ」には、あまり執着がない。
 被害者の殺害方法がストレートかつ瞬間的で、面白いと思えないのだ。無論「それがイイのだ」とおっしゃる向きもおられるので、これはあくまで個人的感想である。
 加えて主役たるジェイソン・ボーヒーズのキャラクターにも、面白みを感じない。無個性な仮面(ホッケー・マスク)で顔を隠していることも大きな理由なのだが、巨漢・怪力・不死身という属性そのものが、動きとしての面白さをあらかじめ排除しているように思えるのだ。無論これも個人的感想であって、評論ではないので念の為。
 いずれにせよ、私にとってジェイソンは……ひいては「13金シリーズ」は「拒絶はしないが能動的に観ようとも思わない作品群」なのであった。

「なのであった」と書いたのは、「現時点ではそうでもない」という意味だ。
 実は『フレディVSジェイソン』(03)の公開に先立って、いささか「予習気味の復習」をしてみたのである。
 いや、驚いたなあ。
 オモロイわ、これ。
 実は「13金シリーズ」って、本当の意味での「シリーズ」ではなかったのね。
 ちなみに、以下はかなりネタバレを含みます。ご注意。

「そのスジ」の方々には念押しの必要もなかろうとは思うが、実は初作『13日の金曜日』(80)には、「現在のような意味での」ジェイソンは登場していない。連続殺人の犯人は、彼ではないのだ。それどころか「13金」そのものが、現在のような「ホッケー・マスクの巨漢が大暴れ」なシリーズになる予定ではなかったのだという。
 もともと「13金」シリーズは、一話完結のホラー・シリーズとして構想されていたそうだ。おそらく「13日の金曜日に」という部分だけが共通で、それ以外は全く異なる物語を連作する予定だったのだろう。ところが初作の公開と同時に、その興業成績の良さから「同じ設定で!」との依頼が来てしまったのである。

 しかし、どうする? もう犯人は死亡しちまってるぞ。
 そこでひねり出されたアイデアが、物凄い。つまり初作で「ジェイソンが犯人だと思っていたら実は彼は死んでいて別人が犯人だった」としたオチを、さらに「でも実はジェイソンも生きていた」と、ちゃぶ台返ししてしまったのである。
 しかも、この『〜PART2』(81)の時点では、例のホッケーマスクは着用していない。ノゾキ穴を開けたズタ袋を頭から被った、それはそれで不気味ではあるがキャラクター性の欠如したスタイリングだったのである。
 続く『〜PART3』(82)でようやくホッケーマスクを着用し、現在のルックスが完成するのだが、しかし次の『〜完結編』(84)で、彼は犠牲者の反撃に遇って早々と殺されてしまうのである。
 ところが翌年、平気で『新〜』(85)が製作されてしまった。
 でも前作で死んだはずでしょ?
 ええ、死んでますね。だからこの作品にも、ジェイソンは登場しません。その代わり模倣犯が、おなじみのジェイソン・ルックで連続殺人を繰り広げたりします。
 なんじゃ、それは。

 そしてようやく「現在のような意味」でのジェイソンが登場するのが、『〜PART6/ジェイソンは生きていた!』(86)である。完全に死亡していたはずの彼が、落雷の直撃で文字どおり「復活」するのだ。この時点でついに彼は、真の意味での不死身となるのである。別の言い方をすれば、2度のリセットを挟みつつ、ルックスの確定までに3本、設定の確定までに6本の作品を要したことになるのだ。

 さて、本当に面白いのは、ここからだ。
『〜PART7/新しい恐怖』(88)、『〜PART8/ジェイソンN.Y.へ』(89)を経て、権利がニューライン・シネマ(『エルム街の悪夢』の製作会社だ)に委譲されてからの第一作め『〜/ジェイソンの命日』(93)では、ついにジェイソンは不死身どころか「肉片になって人体に寄生」という、とんでもない特性を発揮する。そして最後には地獄の底に引きずり込まれる(文字どおり)というオカルトぶり。しかも地獄から彼を迎えに来るのが『エルム街の悪夢』のフレディ(本当)なのだから、ニューライン社やりたい放題である。
 この後、同社はジェイソンを近未来の宇宙に放り上げた『ジェイソンX/13日の金曜日』(01)を発表、そして『フレディVSジェイソン』へと続くわけである。

 考えてみれば、こういった「モンスター・ムービー」は、最終的にモンスターを倒すことで決着する以上、これをシリーズ化するにはモンスターの扱いを以下の3つのパターンのいずれかに括らざるを得ない。
 まず、同一のキャラクターが複数存在するという設定を採用するパターン、あるいはモンスターを共通項として置きながら全く別の設定で物語を展開する連作パターン、そして「死んでも終幕直前か、あるいは次作冒頭で復活」とするパターンである。
 ジェイソンやフレディは、この第3のパターンを踏襲している。
 その意味で、最初からシリーズ化を(おそらく)希望していたと思われる『エルム街の悪夢』に対して、もともと単発の連作を想定していた『13日の金曜日』が設定上の迷走を見せたのは当然とも言える。
 しかしこの迷走具合が、後になって俯瞰してみると非常に面白いわけだ。

 ところで大迫は『〜ジェイソンの命日』を劇場で観た。「ジェイソンとフレディが共演」という情報が耳に入ってしまったら、観に行かざるを得んではないかよ。
 でもフレディの登場、たったの3秒。
 しかも右腕だけ。

 騙されたあ。

〇補足/04年6月18日
『ジェイソンX/13日の金曜日』(01)は、冒頭が近未来、そこからさらに400年ほど経過して物語が始まる、という構成である。
 別に私の拙文を資料にしている人などいないとは思うが、念の為。
〇さらに補足/同日
『エルム街の悪夢』(84)は当初、続編を予定したものではなかっただけでなく、製作者はそれを期待もしていなかったそうだ。
 だとしから(2作めはともかく)、以降の脚本が良かったと言うべきだろう。


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2004年06月12日

無限の彼方へ、さあ行くぞ!

 えーっとね。
 あそこが「楽屋裏」の話題が露出するのを極端に嫌うとこであるのは有名だが、それに逆らう理由もないけど遠慮する義理もないわけで、まあ「ネズミーランド」とでも呼んでおこう。
 ご存知、「黒いネズミがメイン・マスコットの、アニメ王の作った遊園地」の話ね。

 先日、書店で「ネズミーランド」のアトラクション関係のムック本を見たのである。
 その表紙を飾っていたのは、最近アトラクションが出来た、例の「オモチャが主役のCGアニメ映画」のキャラクター、“To infinity and beyond!”でお馴染みの「宇宙ヒーロー(仮称)」だ。
 映画からのスチールではなく、「ネズミーランド」でグリーティングする衣装……いわゆるキグルミの写真である。
 で、この衣装に「ほおー!」と感心してしまったわけだ。

 まず、ノゾキ穴の取り方が、非常に巧い。
 通常の感覚では、キャラクターの目をノゾキ穴にしたくなるものだが、アニメのバランスを再現しようとすると、別の位置に設置せざるを得ない場合も少なくない。
 ゴジラの喉にノゾキ穴があるのと同じで、口の中や眉の部分などに設置することもある。
 この「宇宙ヒーロー」の場合も、口である。しかし、彼は「笑った口の中は上下の歯が閉じた状態」というのがデフォルトのイメージだ。「にかっ、というバタくさいハンサム・スマイル」である。問題の衣装も、この顔で造型してある。
 こういった場合、上下の歯のスキマ(絵で言うなら、横線)にノゾキを取る場合が多く、例えば『それゆけ! アンパンマン』に登場するバイキンマン(の衣装)などが、この処理をしている。
 しかし、それでは視界が狭いのだ。
 試しに指と指で幅1センチほどのスキマを作り、それを顔から5センチほど離して、スキマ越しに見える範囲がどの程度か確認してみていただきたい。
 ね? けっこうキテるでしょ?

 これも舞台の上なら……つまり「周囲にいるのは全て同じプロの役者」という環境でなら、何の問題もない。例えば前述のバイキンマンなどは、共演者の大雑把な位置しか把握出来ないのだが、それでも芝居をして走り回って、ダンスすることも出来る。相応の技量を持った人間が、互いに綿密な打ち合わせの上で舞台に上がるからだ。
 しかしグリーティングのキャラクターは、来園客に取り囲まれるのである。視界は、可能な限り広く確保しておかなければ危険なのだ。
 役者が、ではなく、来園客が、だ。

 さて、ではこの「宇宙ヒーロー」の衣装は、それにどのように対応しているか。
 写真に顔を近づけて観察してみて、驚いた。白い歯の一面に、小さな小さな黒点が、びっしりと並んでいるではないか。
 そう、メッシュ構造なのだ。細かい穴が無数に空けられた板(おそらく金属板)を白く塗装し、上下の歯のスキマ(黒い横線)を描いてあるのである。
 いやあ、こりゃあ視界、広いぞ。
 穴は小さく、しかも高密度であるから、装着者にとっては視点を遠く(つまり衣装の外)に据えることで、事実上、透過しているように見える。逆に外(つまり来園客)からは、塗装が白であることから光の反射による輪郭のボケも生じるだろうし、キャラクターが動いていれば残像に融けもするので、穴は目立たない仕組みである。
 考えてあるなあ。
(余談/東映・戦隊ヒーローの、アトラクション用のノゾキも同様の仕組みで、ゴーグル部分に穴が空けてあるのだが、それはもっと大きく、配置もそれほど密ではない。ゴーグルが基本的に黒であることと、そこから見えるマスク内側も暗いことから、穴が目立たないのである。やっていることは同じだが、狙いは異なるわけだ)

 しかし、もっと驚いたのが、手である。
 手首から先だ。
 彼のデザインはご存知のように、全身を硬質な宇宙服に包んだものだ。したがって当然、衣装も全身が硬質な素材で作られているように見える。FRPか、もう少し軟質なものではソフトビニール、あるいは部分的には硬質ウレタンにレザー張りで仕上げている可能性もあるが、いずれにせよ「ある程度以上には硬い」と言える。
 しかし、両方の手袋は明らかに布製なのである。ヌイグルミのような造型なのだ。
 もうお判りだろう。
 そう! 来園客に触れる際に柔らかいように、だ。握手した時、写真撮影で肩に手を回した時、ごつごつと固いものを来園客に(特に子供に!)押しつけないようにだ。
「ネズミーランド」恐るべし!
 客商売ってこーいうことなんだよなあ、と今さらながら痛感した未熟な私であった。

 他にも、あの独特の球体関節は「黒い布で覆った役者の肘の外側に球体パーツを配置する」ことで表現している。
 いや、すげえなあ。考えてあるなあ。さすが「ネズミーランド」だなあ。
 ……って、歪んだ感心の仕方してますなあ、我ながら。
 いいんだ。
 俺、汚れたオトナだから。


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2004年06月09日

そう言えば「近田くん」という同級生がいたっけか

 奴らの季節が、またくる。

 例えば、蠅である。
 我が家はマンションなので、自宅で蠅に悩まされることは少ない。ここ数年は、ショジョウバエなどの小さいもの以外は、ほとんど目にする機会がなくなった。大型のハエは、あまり上層階までは飛んで来れないようだ。
 蚊は、いささか問題である。我が家のあるフロアまで、平気で飛んでくる。
 我が家は風通しがよく、よほどの熱帯夜でない限りクーラーを点ける必要がない。しかし窓を開けておくと、蚊が入る。猫が自由にテラスへ出入り出来るように、窓を開けている時はいつも、網戸も10センチばかり開けておくからだ。
 おかげで、動体視力と反射神経だけは、衰える気配がない。
 幸いなことに、ゴキブリとはほとんど無縁の生活である。
 全く出ないわけではないが、5年ほど前に越してきて以来、家の中で見かけたのは2回だけだ。ゴキブリが大嫌いな私としては、非常に助かっている。

 しかし、である。
 我が家の虫問題には、もっと大物が控えている。
 セミだ。

 マンションの玄関前に植えられた木に、毎年、大量のセミが発生する。よそから飛来するものもあるようだが、大量のヌケガラが幹にしがみついている以上、毎年その木の根元の土から出てきていることは間違いない。
 それはもう、本当に大量に発生するのである。
 お断りしておくが、決して誇張しているわけではない。一度、計測してみたことがあるのだ。なんと10センチ余りの、ほぼ等間隔で、土のすぐ上から幹のてっぺん枝の先端まで、ぎっちりとセミがたかるのである。
 いや、それだけならいいのだ。昼間、じゃーじゃーとうるさいのを我慢すれば済む。だが問題は、それだけではない。
 我が家の猫だ。

 おそらく風向きの問題なのだと思うが、我が家のテラスには、よくセミが飛んでくる。壁だか窓だかにぶつかって、そのままテラスに落ちるのである。
 落ちたセミは、飛ぼうとして暴れる。じじ、じじ、と鳴きもする。
 有機的な音を発して有機的に動くのである。
 猫が放っておくわけがない。

 仕事場の窓の外で、じじ、じじ、と鳴きながらもがくばかりだったセミが、突然、移動を開始する。私の位置から、その様子は見えない。ただ、じじ、じじ、という泣き声だけがテラスを移動し、リビング・ルームの方へと遠ざかってゆく。
 そして、じじ、じじ、と再び近づいてくるのである。
 今度は部屋の中を。
 廊下を。
 私は、覚悟を決める。するとたいてい次の瞬間、私の背後で猫が鳴く。
 にゃあ。
 そして彼女の牙を逃れたセミが、私の仕事部屋を飛び回るのだ。

 じじじじじじじじじじじじじじじじじじ!!

 ああ、夏がくる。


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