封入体筋炎患者闘病記

 封入体筋炎患者のヒロです。病歴は満9年、10年目に入りました。在宅勤務の仕事とリハビリの日々を送り、細やかながらも家族3人で暮らしています。ブログ記事は闘病記と広島地元ネタ、社会保障などの時事ネタ中心です。希少疾患の封入体筋炎の周知が目的です。関心があれば、ツイッターなどでご紹介していただければ幸いです。疾患関係で直コメントが苦手の方は、ツイッターのダイレクトメールを利用してください。封入体筋炎の闘病史は各進行段階の症状や生活障害、必要な社会保障制度等をまとめています。良ければ参考にしてください。最新の封入体筋炎の状況は「近況について色々と」、リハビリ等については「2016~17年度冬版 筋疾患(封入体筋炎)リハビリ・防寒対策決定版」で書いています。2017年より、30年ぶりにカープファンに復帰しました。カープの話題も取り上げます

 封入体筋炎の周知と脳の筋委縮予防、そして適度な闘病生活のガス抜き目的でこのブログを書いています。疾患関係の記事は、同病、他の筋疾患患者の方、ご家族、友人が苦しんでいる方の参考にでもなれば幸いです。些細な生活の様子や疾患の情報などのコメントをお待ちしております。広島都市ネタは、完全な暇潰しです。基本的にはどうでもいいです。そのどうでもいい事に、熱くなる方が居て荒らされるのでコメント不可にしています。ご了承下さい。リンクページに、広島市政へのご意見フォームを貼り付けています。そちらで意見するほうが、話は早いと思います。その時々の気分で、記事内容に偏りが出ます。大目に見てください(笑)にほんブログ村特定疾患・広島市情報ランキングに参加しています。読んだついでにワンクリックして頂ければ励みになります。

シリーズ記事 広島市に地下鉄が実現していたら‥‥ 
並行・if世界関連記事 封入体筋炎

 本文を書き始める前に繰り返し言うが、この記事は「もしも広島市に地下鉄が実現していたら‥‥」というif世界の話である。分岐した以降の話は妄想の類だ。真に受けないで心にゆとりを持ち大きく深呼吸して読んで頂きたい。登場人物は史実で実在の人物を少し内容を変えて出演させている。パロディ要素も入れているので楽しんでほしい。

〇登場人物
◎みどり市長(モデル〇木武元広島市長)
 1975年前任たやま市長の急死に伴い、3度目の挑戦で当選。懸案の広島市の都市高速鉄道計画-HATSⅡ計画を全面的な見直しに着手。その大風呂敷な計画を修正して、神戸高速鉄道を範とした現実的な案を提案。国鉄可部線の部分高架複線化は、広島市選出の「目白の皇帝」と呼ばれ恐れられた中田榮角元首相に頼み込んだ。。広島高速鉄道計画と連動して広島駅周辺再開発、国立広島大学の文系学部の一般教養課程の東千田町存続など、
「昼行燈」の前評判を覆す真の能力を発揮し始めた。誰も大きな期待は持っていなかったが、この真の能力発揮に市民は驚き、絶大な信頼を受け、1979年再選された。現在のニックネームは「昼行燈」改め、「大石内蔵助」である。1980年念願の政令指定都市昇格、広島市5大事業と1構想を発表。地方都市初のアジア大会開催を目論む。

◎タイガー知事(モデル〇下虎〇助元広島県知事)
 元自治省官僚。広島県副知事を経て1977年(史実では1981年)から広島県知事に就任する。手堅い行政手腕と人柄で広島県民に愛された。任期終盤には、Jリーグ不参加を表明していたマツダの説得に成功している。

◎中田榮角氏(モデル〇中角〇元首相)
 広島市選出の元首相で「目白の皇帝」と恐れられた。日本憲政史上最高ランクの政治家。通称「天の声」でこの世の殆どの事が決まる。
◎曽根中宏保首相(モデル〇曽根〇弘首相)
 
通称「不沈空母首相」「風見鶏首相」とも呼ばれた。行政改革の一環で、国鉄(現JR各社)、専売公社(現日本たばこ)・電電公社(現NTT各社)の民営化に尽力した。外交ではアメリカ大統領のレーガン氏と「ロン・ヒロ」関係を基軸に日本の存在感を示した。中田榮角氏が倒れた後、翼が生えた虎のように能動的になる。

〇 
HATSⅢ計画最終案


画像1 着工直前に修正されたHATSⅢ計画の概要 その1

着工直前に修正されたHATSⅢ計画の概要 その2
着工直前に修正されたHATSⅢ計画の概要 その3
着工直前に修正されたHATSⅢ計画の概要 その4

〇 if世界の広島の地下鉄をめぐる歴史(あらすじ)
◎1973年(昭和48年) 
・広島市、HATS計画に修正を加えた「廿型」
地下鉄2路線中心のしい交通計画「HATS
 Ⅱ」をまとめる。
◎1975年(昭和50年)⇒ここからif世界に突入
・前任のたやま市長急死により、3度目の挑戦のみどり市長が当選。広島市長に就任する。
・反対が多いHATSⅡ見直しのため、市議会内に「広島高速鉄道建設検討協議会」を発足させ
 る。
「広島高速鉄道建設検討協議会」論議の前提として、広島市営方式ではない第3セクター方式
 、広電市内軌道線・同宮島線、国鉄可部線との乗り入れ前提など既存交通事業者を参画できる
 方式、広島市の建設負担コストを抑えるなどを掲げた。

◎1976年(昭和51年)
・広電、国鉄の規格の違い-レール幅、電圧方式、車両の
床面高さを国鉄可部線を広電に合わせる
 、今でいうトラムトレイン (ウキペディア)
で解消させる。
・この年の予算から
都市高速鉄道建設基金を創設。毎年、法人市民税の一部を積み立て。
・建設㌔数を削減した
HATSⅢ(広島高速鉄道整備計画)2路線計6.5㌔をまとめ上げ発表。
◎1977年(昭和52年)
・市と県職員、各議員、交通事業者、市民から編成した欧州視察団を西ドイツに派遣する。
・運輸
省、建設省(現国土交通省)の各事務次官、知事、市長、国鉄総裁、交通事業者7者による
 会議。
HATSⅢ(広島高速鉄道整備計画)の詳細を話し合う。
◎1978年(昭和53年)
「中国地方陸上交通審議会」において、HATSⅢの東西線、横川線計6.5㌔承認される

・広島高速鉄道(第2種交通事業者)設立(市50%、県20%、国鉄・日本開発銀行10%、広
 電
その他5%出資)
・広島高速交通 運輸省(現国土交通省)に東西・横川2線-計6.5㌔の免許申請(約半年後認
 可される)

◎1979年(昭和54年)
みどり市長、市民の圧倒的支持で広島市長に再選される。
広報誌の市民と市政で先に述べた広島高速鉄道工事期間中の沿線道路規制などを発表。
◎1980年(昭和55年)
計画の一部を手直し、修正、追加してその最終計画案を発表(上記各リンク参照)
・タイガー知事とみどり市長の鍬入れによる起工式が取り行われる。
・広島市政令指定都市に昇格 7区スタート 
・広島市5大事業と1構想を発表する。
◎1982年(昭和57年)
・広島市 正式に1990年アジア大会開催都市として名乗りを上げる。

13 1984年(昭和59年)アジア大会開催決定
まさかの1994年スライド開催に

 1980年の広島高速鉄道本格着工後、翌年からの東西・横川2線の工事の本格化、国鉄可部線複線化、存続する広電各線の大改良工事も順を追って着工された(詳しくは上記リンク参照)。そのデルタ地質ゆえに難工事による追加コストの懸念も一部にはあったが、暗に相違して工事は順調そのもので、みどり市長は安堵した。事業期間約8年に広島市が負担する総額は、本来の広島市負担分、第3セクター会社「広島高速鉄道」への支援と広電大改良費、市北西部にバス路線を走らせる広電’(バス部門)、広島交通への20年分の営業補償費など555億円。決してい小さな額ではない。1976年度から法人市民税から毎年80億円を積み立て、400億円に達していたのでこれを全てぶち込んだ。実質155億円。単年度負担額は年額20億円弱。毎年の一般会計予算を圧迫するほどのものではなかった。1990年アジア大会開催に挙手した広島市だが、当初は他都市が名乗りを上げなかったのでほぼ決まりと思われていた。その空気が支配してたさなか、中国の首都北京市が1990年アジア大会開催に急遽名乗りを上げた。

 中国は、1966年よりプロレタリア文化大革命(ウキペディア)の大波が中国全土を席巻していた。1976年の毛沢東の死により急速に収束に向かい、1977年完全に収束した。1978年復権した鄧小平政権の誕生、1980年計画経済の社会主義経済から改革開放路線に舵を切った。その国家発展の象徴・国威発揚スポーツ
イベントとして2000年のオリンピック開催を視野に入れていた。その前段階として、アジア大会開催が計画された。広島市にとって眠れぬ竜の突然の立候補は、寝耳に水だった。後出しじゃんけんの北京市は国を挙げての誘致で、広島県・市主導で国がその活動を支援する形では対抗しきれなかった。独自の政治力(接待や買収)を駆使して、アジア・オリンピック評議会(OCA)の各委員を陣営に引き込んだ。瞬く間に形勢が逆転。困り果てたタイガー知事とみどり市長は、中田角栄元首相と曽根中首相を訪ね、巻き返しに懸命だったがこの当時でも政治大国だった中国には、及ばなかった。曽根中首相と李先念国家主席のトップ会談でもこの問題が取り上げられたが、容易に決着しなかった。

 アジア・オリンピック評議会(OCA)の各委員も、1990年北京市開催賛成派が多数となっていたが、招致活動を通じて、既に一定の人間関係を築いていた広島市に同情的な意見もまた多かった。何よりも当時、唯一無二の経済大国日本のスポンサー企業が名を連ねており、無視できなかった。微妙な政治パワーバランスが交差して、広島市にとって玉虫色の決着-妥協案が示されることになる。同年9月ソウルで開かれたアジア・オリンピック評議会総会で、1990年は北京で開催して、異例のこととして1994年の広島開催を事実上決定した。一度の評議会総会で次の次の開催都市を決めることなど、前代未聞だ。日本と中国以外の委員は、この2か国を恐れた。落としどころを間違えると中国からは砲弾やミサイルが飛んでくるかもしれないし、日本からは絶対的な経済力を背景とした経済攻撃、ODA(政府開発援助)凍結の可能性もある。日本企業のスポンサー総撤収ともなれば、1日たりとも立ち行かなくなる。一部の委員からは、この決定に批判意見が出たが今回だけの特例扱いとして、最後まで押し通した。広島サイドから見れば、仁義を無視した横槍ともいえる北京市(中国)の行動は、暴挙に等しいものだったが、スライド開催が実質決まり、最悪落選まで覚悟していたので安堵した。むしろ4年間の開催準備猶予期間を与えられ、喜ぶ空気さえあった。1990年のバブル期開催から1994年バブル崩壊後の開催となり、後から臍(ほぞ)を噛む事になるとはこの時は夢にも思わなかったのである。そして1994年アジア大会開催がほぼ決まり、経済界が待ちに待ったある計画が急浮上する。

14 動き始めた西部丘陵都市(西風新都)計画 10万人規模の「住み」「働き」「学び」「憩う」といった複合機能ニュータウンづくり

西風新都の位置図
画像2 ひろしま西風新都地区の市・県内の位置図(広島市HPより)

西風新都の都市づくりの変遷の様子
画像3 西風新都の1988年と2008年の開発状況の比較(広島市HPより) 

 広島市と県は
、アジア大会開催が正式に決まった場合、メイン会場を都心地区ではなく、県が1975年開発凍結地区に指定した沼田大塚西地区に建設する青写真を描いていた。アジア大会開催を機に安佐南区沼田町、佐伯郡五日市町石内地区(当時)一帯(4,570㌶)に集中インフラ投資、開発凍結解除、一気に塩漬けの土地の開発 の流れを、この地区の土地を保有する民間デベロッパー16社は期待した。事実開発凍結より約9年、山陽自動車道、中国横断自動車道広島-浜田線、市道高陽沼田線、草津沼田線、石内バイパスなどの道路網が都市計画決定や建設が促進されるなど、インフラ整備が進みつつあった。 ~都市計画道路の現状と整備の経緯~(広島市HP) 開発凍結地区に10万人規模の「住み」「働き」「学び」「憩う」といった複合機能をもつニュータウンづくりをその構想に入れ始めた。かっての民先導の計画では、都市インフラ投資が後手に回る。そこで戦略性を持たせて、一定の開発面積(1,400㌶ 30.6%)に抑え、バランスの取れた新都市を建設する。大規模国際スポーツイベントと郊外大規模ニュータウン建設のセットの手法は、神戸市の神戸市のユニバーシアード開催(1985年)と西神ニュータウン開発(1972~2010年)の模写である。とかく住機能一辺倒だったニュータウン計画を学術研究(学ぶ)、業務・工業・流通(働く)、商業(憩う)の付加価値を加え、一定の高次都市機能を持たせることで、この年に注1メッセ・コンベンションシティー構想の一環で、調査が開始された宇品・出島地区共々、副都心的地区として位置づけられた。凍結解除の許認可権を持つ広島県と一気に理想的な新都市建設をしたい市は、その構想案づくりに着手した。

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画像3(左) かってのメッセ・コンベンションシティー構想イメージ図(広島県HPより)
画像4(右) 西部丘陵都市(現西風新都)内大塚地区に計画された広域公園の整備イメージ図(ひろしまナビゲーターより)


注1
メッセ・コンベンションシティー構想(史実) 
 1989年策定の第3次広島市基本計画において、21世紀に向けての主導的プロジェクトとして 「メッセ・コンベンションシティづくりの推進」を掲げられた。宇品内港地区、出島地区の新規造成地、計約188haに、ポートルネッサンス21計画があり、その中にこの構想が盛り込まれた。約50.6㌶の交流厚生地区には、国際展示場を中心に大小の会議場、業務系テナントビル、高層住宅、ホテル、商業施設建設するというものだった。ところが、新規造成地竣工する前にバブル経済崩壊、アジア大会開催後の財政難が起きて、2度の財政健全化計画(1998~2003年、2004~07年)を経て、実地設計まで終わり着工寸前だったメセコン施設建設は凍結(2004年)された。 ~広島メッセコンベンション~ その広大な建設予定地も2010年、港湾関連用地に転換された。 ~広島県 港湾計画 一部変更~(国土交通省HP) サッカー専用スタジアム建設議論で、みなと公園案で複合施設の1つとして復活する予定だったが、サンフレッチェ広島と地元物流業者の強い反対で、ほぼとん挫した。 

15 都市高速鉄道を巡る新たな動き
第2回目のパーソントリップ調査と「公共交通施設長期計画策定委員会」の立ち上げ


画像5 西風新都大塚業務地区の様子(広島市HPより)私事だが家内の両親がこの近隣に住んでいる

 広島都市圏の都市問題の歴史に、大きな関りを持つアジア大会と関連する西部丘陵都市(西風新都)構想の話を最優先したので、前後するが1981年(昭和56年)、広島高速鉄道本工事着工を受けて1967年以来のパーソントリップ調査(国土交通省HP)を実施(史実は1987年)した。前回実施よりも14年が経過して、モータリゼーションの進行で交通を取り巻く環境は激変していた。夢のマイカーは、一家に一台の時代から一家に複数台所有の時代へ移りつつあった。そして、広島高速鉄道建設が軌道に乗ったことから、次期整備路線を求める声が次第に大きくなった。そして、みどり市長が1979年の市長選で広島都市高速道路建設を公約に掲げ、再選後県との共同で公社設立を持ち掛けていた。建設中の安芸府中道路(現広島高速道路1号線)と広島湾海田地区埋立地と仁保新町地区を結ぶ海田大橋がその候補路線となっていたが、それに続く路線は選定はほぼ白紙だった。かってHATSⅡで計画された路線は、一部一般国道バイパスなどとして実現した(西広島バイパス都心高架区間や草津沼田道路)。他の路線は、検討の遡上にも上らずボツとなった。 
広島(ウキペディア) よって今回のパーソントリップ調査は、2000年代初頭の完成を目標とした都市高速鉄道網と高規格道路網の計画案づくりの基本調査の狙いがあった。特に都市高速道路計画は、広島市がライバル視する福岡・北九州高速道路の最初の路線が1980年開通していた。これ以上の遅れは許されなかった。

 都市高速鉄道網に話を移すと、広島高速鉄道の建設で懸案の市北西部の交通渋滞と広島都心地区を東西に貫くメイン路線整備は事足りた。問題は都心部地区から南部を貫く南北方向をどうするのか?広島高速鉄道に乗り入れる広電宇品線のLRT化だけで良いのか?この点に疑問を呈されたのだ。国鉄(当時)山陽本線の新駅を白島地区に建設して、この新駅を基点に、広島港までの新路線の検討に主眼が置かれた。1982年(昭和57年)の暮れ、2回目のパーソントリップ調査の結果を待ち、
「公共交通施設長期計画策定委員会」を立ち上げた(史実は1991年)当時の都市交通計画の権威-八十島(やそじま)義之助氏を座長に迎え入れ、国・学識経験者・国・県・市から構成された(通称八十島委員会)。この八十島委員会では当初、国鉄白島駅(現JR新白島駅)から鯉城通りを南下、紙屋町交差点(東西線と結節)-市役所-鷹野橋-建設中の市道鷹野橋宇品線を南下、宇品地区に至る路線路線を広島高速鉄道南北線として東西・横川線と同規格の地下LRT規格で建設。第3種鉄道事業者である広電が乗り入れる案が検討された。ところが、同委員会が答申案をまとめない内に広島市の1994年アジア大会開催がほぼ決定。メイン会場が西部丘陵都市構想(現西風新都)の大塚西地区。市と県がこの地に土地保有するデベロッパー16社が開発に大乗り気-こんな情勢が新要素として加わった。アジア大会開催決定で、大会観客輸送の計画案の方向性を盛り込む必要に迫られた。
 
 広島市は大会開催決定前は、その輸送計画として西部丘陵都市と市内デルタ地域を直結する有料道路(現広島高速4号線)を建設して、大会期間中は片側1車線をアジア大会専用レーン化。専用レーンに広島駅と広島バスセンターからシャトルバスを走らせる予定だった。しかし市議会保守系議員の一部から、「それで大丈夫なんか?」「みっともないけぇ、鉄道をつくれぇ~や」(by広島弁)の意見が出ていた。西部丘陵都市構想のデベロッパー16社からも、軌道系交通機関の整備を要望されていた。市もこの意見を無視できず、同委員会にて西部丘陵都市線の検討を指示した。同委員会では、大会観客輸送の側面から西広島駅からの接続ルートも、南北方向の路線と共に検討対象に入れた。当時建設中のし新井口駅(1985年開業)やそのお隣の五日市駅の接続も検討すべきだとの声も一部にあったが、最短コースで都心部地区と結ぶ路線が最も需要が高く、理に適っているのでこの2案は、却下された。委員会の議論は、当初1年半で最終答申案(史実は1992年)を出す予定だったが、途中で西部丘陵(西風新都)都市線の検討が割り込んだため、4か月延長された。そして、最終答申案の日が刻一刻と近づいた。 
 

画像6 if世界で追加検討路線となった西部丘陵(西風新都)線(広島市HPより)


続く




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前回関連記事 2017年カープ劇場開幕

1 開幕から2カ月弱 カープの現状 その1
チーム成績・マツダスタジアム編

画像1 広島市南区にあるマツダスタジアム スタジアムビジネスの拠点(アンドビルド広島より)

 観客動員数、チーム・個人成績の数字は5月19日終了時点のものを使っている。

-① セ・リーグ順位表(5月19日終了時点)
順位 チーム   試合 勝ち 負け 分け  勝率   ゲーム差
1位  阪神   38 24 14  0  632   ―
2位  広島   42 24 17  1  585  1.5 
3位  巨人   39 20 19  0  513  3.0
4位  
ヤクルト 40 18 22  0  450  2.5
5位  
横浜   40 17 21  2  447  0.0
6位  中日   41 14 24  3  368  3.0

-② ホームゲーム観客動員数
(5月19日終了時点)
順位  チーム     1試合平均  試合数     合計
1位  阪神     41,172人 19試合  782,270人
2位  巨人     41,098人 19試合  780,866人
3位 ソフトバンク  32,404人 19試合  615,670人
4位  日本ハム   30,731人 19試合  583,892人
5位  広島     29,751人 20試合  595,026人

ー③ 各年ごとのホームゲーム1試合平均観客動員数()は順位と2015年対比
2015年 29,722人(4位 100%) 2016年 29,963人(4位 101%)
2017年 29,751人(5位 100%) 

 うんちくを語る前に3つの数字を並べた。開幕直後、10連勝を果たし今年も昨年さながらの勢いがあったが、それ以降は停滞感が多少ある。連勝もするが、それなりに連敗もする。昨年のエースのジョンソンと守護神の中崎抜きで、首位阪神と1.5ゲーム差はある意味上出来である。ジャクソン、薮田以外の中継ぎ陣はお世辞にも好調とは言えないし、先発陣も野村祐輔と岡田君以外は、正直なところ投げてみてのお楽しみで、4~5回を2~3失点で押さえても、翌回にいきなり炎上することもある。ジョンソンが本格復帰する交流戦まで今ぐらいの位置にいれば、1979~80年のセ・リーグ連覇と35年ぶりの日本一も決して夢ではない、と考える。
広島・ジョンソンが実戦復帰 2軍戦で142キロ 「復帰に近づいた」(ヤフーニュース) 30年ぶりにカープファンに復帰したビギナーオヤジの戯言は、ひとまず置いておいて、2017年シーズンの観客動員に触れたい。-②・③の数字を見ての通り、観客動員は今年も好調だ。私の場合、持病と障害の関係でスタジアムに足を運ぶことは現状不可能だが、テレビ観戦する限りでは、平日のビジターパフォーマンス席辺りに空席が多少目立つが、それ以外は常に超満員である。相も変わらずの盛況ぶりで安堵している。

 ここ数年言われ続けているが、マツダスタジアム移転後-特にカープ女子現象傾向が、首都圏から広島に逆輸入され始めた2014年からの再上昇現象が2015~16年にピークを迎え、今年もその状態を維持している。ビジターの試合でも、神宮、東京ドーム、横浜、甲子園、ナゴヤドームと歓客席を真っ赤に染め上げている。今や他球場もカープファン頼みの興行になりつつある。広島市とその周辺の広島都市圏のみのローカルスポーツコンテンツから、全国区とまでは行かないがそれにやや近いコンテンツに成長しつつあるのは事実だろう。巨人が、かっての全国コンテンツとしての神通力を失っているので、頼みもしないのに、勝手にやって来るビジターカープファンは他球団からすれば有難い存在に違いない。かってのセ・リーグは巨人戦放送頼みの「放映権ビジネス」だった。90年代前半からその陰りが見え始め、プロスポーツの多様化・スポーツ無関心層の増加、携帯電話やPC-情報端末の普及などが広がり「巨人戦観戦=国民の娯楽」の時代は過ぎ去った。視聴率は低迷し、年を追うごとに地上波から放送が消えた。収入的には、セ・リーグは巨人が親で他の5球団が子どもという扶養関係だった。その巨人も他球団を扶養する余裕がなくなってきたのだ。巨人の全国コンテンツからローカルコンテンツへの転落の時期が00年代とすれば、放映権ビジネスからスタジアムビジネスへの移行期もほぼ同時期だった。スタジアムビジネスへの転換は、巨人という打ち出の小槌を持たないパ・リーグが先行した。

 カープにとって幸いしたのが、その移行期ぎりぎりに新市民球場(現マツダスタジアム)が2009年に開場したこと。旧市民球場で縛られていた都市公園法や国有地から解放されたこと。カープ自らマツダスタジアムの指定管理業者となり、球団に球場内の売店、看板広告の自主運営が認められた上に、球場設備(観客席・アミューズメント施設等)をある程度自由に変更できるようになり、球団の収入増が図れたことも大きかった。スタジアムビジネスを展開するには、いかにしてスタジアムまで足を運んでもらい、リピート客として取り込むのか?これが最初の一歩となる。マツダスタジアムがこれまで疎遠だった女性、高齢者、障害者に優しい設計。臨場感に溢れ、新スタジアムがカープの付加価値を高めた。はっきりと言うが1990年代後半~00年代初頭にドーム構想があったが、ドーム球場であれば現在の隆盛は築けていなかっただろう。これは秋葉前市長の卓見である。ドームであれば、現在の札幌ドーム(ウキペディア)のように、第3セクター会社が指定管理業者となり、スタジアムビジネスも展開できず今よりも遥かに高い使用料を搾取され、球団経営も楽ではなかったはずだ。日本ハムが移転を検討している理由はこの点だ。確実に言えることは、広島県人の殆どがライト層予備軍で、球団の経営努力も相まって、相乗効果が出た。そして至福の時間を求め、多くの広島人がマツダスタジアムを訪れる。今年に入り、地元局による地上波放送機会が圧倒的に増えたが、観客動員には全く影響していない。これは本物である。

2 開幕から2カ月弱 カープの現状 その2
期待通り&それ以上の選手

        
動画1 
広島カープ【母の日】鈴木誠也九里亜蓮ヒーローインタビュー

 話題をカープ個々の選手に移す。今年のカープは「打高投低」である。12球団一の打撃陣が、弱体化しつつある投手陣をけん引している、その印象が強い。その打撃陣では、「四番目の打者」ではなく、「真の四番打者」の成長途上にある鈴木誠也だ。開幕直後は、早いカウントからの積極打法が鳴りを潜め、初球の甘い球を見逃したりしてらしくない姿だった。
WBC出場組は、コンディションのピークを1か月前に持ってきており、その影響もあったのかも知れない。他球団の筒香や中田翔などの他選手もそんな感じだ。しかし、5月に入り4番での起用が増えたにも関わらず、調子を上げ現在打率294、本塁打8本、打点33と4番として申し分のない成績を収めている。緒方監督は、鈴木誠也の4番起用をシーズン前から仄めかしていたが、その重圧に負けることなく職責を果たしている。当の本人も然程苦にせず、務めているのを見ると適任だなと思う。3番に丸、5~6番にエルドレッドや新井さんが控えているので、相手投手の神経が鈴木誠也だけに集中しないのも成功している。下位チームのようにレギュラーメンバーが固定せず、ピストル打線の中にポツンと一人いるのとは精神的な負担も違う。3割、30本、100打点を期待したい。山本浩二、江藤、新井、栗原と続くカープ四番の系譜は彼しか継承者はいない。

 さて2番目だが、2015年ドラフト1位の岡田君を挙げたい。オープン戦よりポスト黒田の期待が高かったが、その期待にたがわぬ活躍だチームの勝ち頭の4勝をマーク。防御率は5月6日の阪神戦の9点差逆転負けが響き、3点台半ばだが投球回数は53イニングを投げている。野村祐輔と共に数少ない計算が立つ投手になった。回転数が多い150㌔のストレートは威力十分で、彼の大きな武器だ。表情が顔に出にくく、メンタルも強そうだ。3番手以下の先発投手陣と異なり、試合中盤で不用意な先頭打者四球をあまり出さない。攻守のリズムを壊さないのも彼の長所だ。年間通してローテーションを守った経験がないので、この調子で年間通して活躍できるか多少の不安もなくはないが、彼は必ずやってくれると信じている。次は九里亜蓮だ。正直、ここまでやるとは思わなかった。ブログ主の期待値が低過ぎたのもあるが、4月は言うことなしだ。最近になり良かったり悪かったりだが、まだ26歳(2013年ドラフト2位)。伸びしろは十分ある。今年も打撃陣は好調そのもので、序盤の失点は中盤以降、取り返してくれる。根気よく投げ続ければ、勝星も積み重ね大きな自信となる筈。更なる成長を期待したい。

 打者と投手が入れ替わり紹介となるが、エルドレッドだ。彼は「丁か半か?」的な選手だが、当たり日の彼は凄いの一言。軽くピンポン玉のようにスタンドまで運ぶ。この長打力は、相手投手に与えるプレッシャーは他選手の比ではない。打率312、本塁打11本、打点31はさすがとしか言いようがない。ただ怪我が多く、来日6年目(2012~)だが、年間通して100試合以上出場したのは、ホームラン王を取った2014年(37本)だけで、後は100試合以下の出場にとどまっている。長期離脱のリスクもこの選手の場合ある。昨年はルナがいて、出場した試合は4番も務めた。今年はペーニャがいるが、テレビでは「う~ん」である。その代役は長打力のある松山辺りになるかも知れない。元気で動けるうちに、打つだけ打ってほしい。野手の田中広輔、、丸は期待通り、この調子でシーズンを乗り切ってほしい。菊池について一言。彼もWBC組で4月は今一つ調子が出なかった。それは昨年との比較で特にそう感じた。彼がレギュラー定着した2013年以降の成績を見ると、2年連続して打撃好調だったことはない。 菊池涼介(プロ野球データFreak) その論理だと今年は・・・になる。5月には入りスタメン落ちの日が出てきた。言うまでもなく彼の二遊間の守備は球界でもナンバーワン。大袈裟に言えば、彼の守備だけでもチーム防御率を0.3ぐらい押し下げている、とさえ思う。打率が1割台で極度の不振であれば仕方がないが、悪いと言っても打率274である。「???」である。持病のひざの悪化としか思い当たらない。真相は謎だ。


    
動画2 
岡田「前回の投球をしないように...」カープヒーローインタビュー2017.5.13 

 
開幕から2カ月弱 カープの現状 その3
期待外れ もう少し頑張りましょう

 
動画3 
広島対阪神 開幕戦 新加入糸井が活躍!?

 さあ、投手陣に集中する(笑) まずは野村祐輔と共に左右のエースとしても期待をかけていたジョンソンだ。まさか2カ月も戦線離脱するとは思いもよらなかった。開幕戦の3月31日に登板したきりだ。開幕戦後の扁桃炎(いしゃまち)で4月5日に登録抹消。微熱が続き、練習すら出来ない状態が続いた。復帰は6月以降の予定だ。開幕試合の3月31日の広島市は、気温が異様に低く深夜帯の気温が高い逆転現象が起きていた。うろ覚えだが開催時間帯は、気温が5~7℃だった記憶がある。しかも小雨が降り続き、コンディションとしては最悪だった。この時にウイルス感染したのかも知れない。こればかりは運がなかったとしか言いようがない。病気は完治したが、すっかり体力と肩の筋肉が低下。ミニキャンプでのリ・スタートとなった。二軍で調整中だが、仕上がりは良さそうだ。開き直り、6月からもう一度開幕を迎えるつもりで頑張ってほしい。現状の先発投手陣を見ると、ジョンソン抜きのリーグ連覇は難しい。次は中崎だ。ジョンソンに遅れること5日後、4月10日に登録を抹消された。理由は右側腹部の違和感だそうだ。 
中崎抹消!右側腹部の違和感 代役にジャクソン&今村(デイリースポーツ) オープン戦から調子が上がらず、寒い春先なので血行障害の後遺症(2013年手術)ぐらいに考えていた。右側腹部の違和感と聞いて意味を量りかねた。診断の結果「腰痛症」で筋肉の損傷無し。これって、単なる腰痛で大腰筋、腹筋、背筋の筋トレで筋肉の鎧を纏うと再発は防げる。ブログ主も30代前半腰痛に悩まされたが、克服した過去がある。ジョンソンより復帰は早そうだが、今村と中崎、どちらが抑えをするのだろう。気になるところだ。

 3番手は2016年ドラフト1位の加藤君だ。初登板の4月7日のヤクルト戦であわやノーヒット・ノーランの快投を演じた。初見の有利さも働いたが、(この時は)適度に荒れた球筋が功を奏して的を絞らせなかった。この加藤君、見た目の風貌から高校は地方の無名高校でスポーツ推薦枠で慶応進学と思いきや、東京出身(中野区)で付属校上がりである。何度見返してもそう見えない(大変失礼しました)。外れ外れ一位だったが、この時ばかりはカープのスカウト陣の眼力に敬服したが、その後、適度な荒れ球が適度の範疇を超え3連敗した。現在は二軍だが、投球回数28.1回、被安打数19、四死球30である。 加藤卓也(プロ野球データFreak) 1試合平均の四死球が9。ストライクが取れるボールを身に着けて一軍に上がってほしい。そしてもう1つ変化球を覚えれば、先発だけではなく抑えでも使えそうな気がする。今のままだと心中覚悟のギャンブルだ。 カープファンも支持!広島のドラ1右腕・加藤の衝撃デビュー(スポーツナビ) 福井も毎年のようにローテンション投手として期待されているが、期待を裏切り続けてきた。彼も29歳になった。今年は計算できる先発投手陣が揃っていないので、絶好のチャンスだと思うが、背水の陣で頑張ってほしい。

 5月30日からセ・パ交流戦が始まる。最初の相手は西武、その次が絶不調のロッテだ。 日本生命セ・パ交流戦2017(公式HP) 絶好調の楽天、12球団一の総合力を誇るソフトバンクとの対戦が後回しになったことに安堵した。パ優位の関係は今年も続くと思うが、交流戦を勝ち越しで乗り切りたい。30年ぶりにカープファンに復帰した私だが、1試合1試合その結果に一喜一憂する自分が面白い。暇つぶしと言えばそれまでだが、闘病生活に一服の清涼剤としてカープの存在は決して小さくはない。対戦相手に一定に敬意を表しながら、今年のカープを見守りたいと思う。





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シリーズ記事 
況について色々と

1 最近の記事と無関係だが田村先生(故人)の思い出


画像1 高架区間から地下区間への掘削間を疾走するアストラムライン(
ユーチューブ画面撮影より) 

  ゴールデンウィークの空けて約2週間、広島
系都市問題ネタもそろそろ尽き始めている。ブログ本来のタイトルに沿った(爆)内容の記事にしたいと思ったが、あまり封入体筋炎の事ばかりでも人生の不幸自慢(笑)になり正直、鬱陶しいので後回しにする。最初のお題は、5月から書き始めた「並行・if世界 広島市に地下鉄が実現していたら‥‥」について。現実世界では絶対にあり得ない「もしも、〇〇だったら‥‥」世界の与太話だ。最初は今年に入り、持病の封入地筋炎が完治した世界の話を書いた。発症当初(2008年春頃)、よく夢で見て妄想していた。当然非現実的で空しくなるだけなので、これ以降は考えなくなった。この話は現実世界で実在する人物をそのまま、登場人物として出した。ストーリーも簡単で、構成が唯一の悩みの種で少し放置すると書くのが面倒になるので、尻切れトンボで終わらないように心がけた。「広島市に地下鉄が実現していたら‥‥」は、書くのが本当に大変である。1970年代の広島の都市交通行政を遡ったところから始めている。70年代はおろかそれ以降の1980~90~2000年代の史実の都市交通のみならず、市政全般を下調べしながら書いている。これが結構大変なんだわ(笑) 読むほうはほんの数秒で数行を通過するのだが、書くほうは‥‥、いやこれ以上は言うまい。

 設定は現在の広島市の都市交通に関する諸条件を前提にして、一番無難かつ理想的(浅く広くコンセンサスを得られる意味合いで)な姿をイメージしている。最初は数話で終わらせる予定だったが、10回以上のシリーズになるのは確実だ(笑)。最後は、現代の2010年代まで書く予定なので、結末はまだ考えていない。今考えても途中で気が変わるだろうし(笑)きっかけは、このブログでもリンク貼りしている鯉党@さんの大人気ブログ「
AND BUILD HIROSHIMA」だ。コメント者は、本当に都市交通系のネタが呆れるほど大好きだ。その熱い思いを個人のブログコメント欄-しかも記事内容違い にぶつけるのではなく、批判対象の広島市や広電に直接電話して抗議するなり、メールにてご意見フォームでその批判を語ればいいのに、と思う。全て読んだわけではないが、事実無根の感情論が大半で、言葉丁寧に語る人も「広電=悪」が前面に出過ぎていて、ブログ主の鯉党@さん並び、広島市、広電の3者に「ご愁傷さまです」と言うしかない。本音を暴露すれば、「この連中って、ネット内では意識の高い人間を演じているけど、実は直視する必要なものには目を背け、直視する必要がないものに現実逃避しているだけではないか?」と思う。屈折思考が強過ぎる。また話が逸れた(笑)なので戻す。続編はもう既に用意している。「もしも広電が廃止されていたら‥‥」「アストラムラインが全て実現していたら‥‥」「もしアジア大会が開催されなかったら‥‥」を書く予定だ。今年いっぱいは何とか食いつなげれるだろう。

 最初の広島市に地下鉄が実現していたら‥‥」をしっかり書けば、同じ都市交通系や広島市政ネタなので、今のように下調べする時間も省略され楽になる。私が都市開発系の話題に一言二言と意見があるのは、大学時代のゼミにその起源がある。田村明(ウキペディア)氏が主催する都市政策系のゼミに所属していた。この田村先生、その辺の空理空論ばかりを得意顔で語る教授とは次元を異にした。元々、横浜市の企画調整局長まで務め、飛鳥田市政(革新系)時に横浜市6大事業(シンポジウム 横浜過密化とたたかい)を推し進めた。市役所内では「田村天皇」とまで呼ばれ、市長よりも強い権限を持つとまで言われた。現在の横浜市大発展の基礎を築いた方だ。実務経験に裏付けされたその理論は説得力があり、ゼミ生は信者と化した(笑)私もその一人だった。4年生の時に先からにゼミ長を仰せつけられ、サークル部長、そして就職活動も佳境に入りつつあったので、内心迷惑だったが引き受けた。就職活動では、ゼミ生は先生のコネ頼りの「田村詣で」に躍起だったが、私は一切頼まなかった。それを怪訝に感じた田村先生が就職活動状況を聞いてきた。意中企業の最終面接の予定を話した。その2日後、その企業の人事から連絡があり、最終面接免除で内々定を取り付けた。地元自動車メーカーや大手証券会社など数社の内々定を取り付けていたが、当然すべて辞退した。広島都市開発系記事での考えは、基本的に田村先生の受け売りというか影響が大だ(笑) 上記リンクの対談を読むと革新市政とは名ばかりで、住民対話を基調としながらも、土木行政まっしぐらのその姿勢は現在の保守市政とそう変わらない。2010年に他界されたが、唾を飛ばしながら熱く語るあの顔が今でも甦る。



画像2 昔はこんなビルなどなかった。学祭動画も見たが、相変わらず垢抜けないな(笑)ユーチューブ画面撮影より

2 「難病と向き合い、闘う自分」

「難病と向き合い、闘う自分」と改めて書くと、本気で笑ってしまう。決して間違いではないしその通りなのだが、改めてみるとである。闘病ブログなど履いて捨てるほどありふれているし、バカにするつもりはないが一種の自己陶酔かな、と思うことがある。これは自身のブログ記事を読んでもそう感じる。所詮、ブログなんぞネット上匿名日記に過ぎないし、自己満足の世界。ブログ記事だけのイメージで捉えると、1日24時間、1年365日、病と向き合い、生活を送っていると思われがちだが、まずそんな人はいない。私もそうだ。本当に大変だと思うのは、生命予後不良が100%確実視され、進行ステージが3以降、余命いくばくもない人たちは、このサブタイトル通りだろう。残された時間の多寡が闘病生活の深刻さの決め手になる。その論理でいえば、封入体筋炎などほぼ生命予後不良ではあるが、発症直後であれば25年以上の時間猶予があるともいえる。有効な治療法もなく、進行を止める術もないのは確かだ。一気に来ないでじわりじわりと身体動かす自由を奪う病だが、時間猶予を逆算して、出来るうちに出来ることをやる、これに徹すれば有意義に過ごせる。その有意義は人それぞれで置かれている家庭環境や、経済状況も異なる。最適解は人それぞれだ。私は、進行を無理してでも抗い、動ける時間をより長く確保。そして稼げるだけ稼いで残す。私はこれに尽きる。と言っても、目に炎を燃やして不退転の決意ではしてはいないが。

 ただ生命予後不良の病になると、残された時間多寡関係なく、ある共通の思いがよぎる。この世に存在した痕跡を何らかの形で残したい、である。その矛先は多くの場合家族に向けられる。そして子供がいればその姿を焼きつけようとする。子どもがその対象となる理由は自身の分身でもあるのも大きな理由だが、パートナ-よりも当然長生きするので、身体は滅しても記憶の中で長く生きられる、そんな潜在意識も働いていると考える。私は少なくともそう感じる。話は変わるがブログの開設の理由は、封入体筋炎の周知と同病、他の筋疾患患者、そしてそのご家族と友人などと知り合い疾患情報の共有や生活情報などの交換だった。ツイッターも同時に駆使してより多くの人と知り合えればいいな、と思っていた。同病や他の筋疾患患者本人、そのご家族の方と20人近く知り合えた。ネット時代の恩恵だ。30年前ではあり得なかった筈だ。だから何かいいことでもあるのか?と言われたら返す言葉を失うが、色々と励まされることもある。


動画1 ラモス瑠偉監督「ALSアイス・バケツ・チャレンジ」 

 発症して丸9年、今年の発で10年目を迎えた。中堅どころかベテラン選手の域に達した。実社会でもご近所さんや友人によく励まされる。私個人の事を褒めることも多いが、家族全体を指して褒められることも多々ある。親しい人間限定でよく聞かれるのが、「その病気どんな感じなんだ?」である。意外とこの説明が難しい。どこかが痛いとか熱が出るとかではないのだ。より実態に近い説明をすると「かなり強めの全身麻酔を打って、その状態で1日24時間、1年365日過ごす」これである。以前、各界の著名人中心に「ALSアイス・バケツ・チャレンジ」(ウキペディア)が流行った。あれは少し違うと思う。「さすがにこれは・・・・」と思ったのは、当時FC岐阜の監督だったラモス瑠偉氏。当時、FC岐阜の恩田社長は
ALS筋萎縮性側硬化症)に冒されていた。公表をしていなかったので、仕方がないが、氷水を頭から被っているその姿を見て、系統こそ違うが同じ筋肉の萎縮に悩む人間として複雑な気持ちになった。もう笑うしかない、である。後から自分のクラブ社長が、ALS患者と知りどう感じたのか?興味がわく。ただこの運動自体、ネット時代を反映して広くALSのみならず、他の筋疾患や難病などの周知には一定の役割を果たした、と思っている。「かなり強めの全身麻酔を打って~」と先に書いた。もう少し分かりやすくいうと、歯の治療でブリッジをかける時に歯茎に麻酔を打つ。治療が終わっても麻酔は効いたままで、口が思うように動かせず唾液がたらっ~と流れ落ちていく。その状態が全身に起きていると想像してほしい。しびれてもいないのに全身に力がまるで入らない、である。

 話を
「難病と向き合い、闘う自分」に戻す。私の持病の場合は、その病に侵されるのが筋肉なので、向き合うも何も日常動作で自然と向きあうのだ。それは着席と就寝時以外はそうなる。患者の意思関係なく、向き合わざる負えない疾患でもある。闘うの定義が結構幅広い。特に何もしないでも、疾患発症している以上は広義で闘っているともいえる。通院して薬物療法、リハビリ療法に取り組むのも当然そうだし、何か光明を他に求める場合もそうと言える。私のように、勧められもしないのに自己判断で勝手にリハビリに取り組み、半年、1年前の筋能力回復を目指すのもそうかも知れない。疾患の特性を理解して、動ける期間に動き将来に備えるのもそれにあたる。「この世に存在した痕跡を何らかの形で残したい」これもそうだ。一言でいえば、余程のことがない限り、みな大なり小なり闘っていると思うのだ。ただ疾患の事ばかり、真摯に向き合い考え込むのは良くない。適度に向き合い、適度に無視する。疾患が頭を支配しない時間をどれだけ持てるのか、これも大事だと思う。真摯に向き合い過ぎても100点満点の回答は、この疾患に限ればない(と思う)。無理に求めると、メンタルの健康を害する。余計な疾患を増やすこともあるまい。趣味なり、仕事なり何でもいい。最適解は人それぞれ。闘いも同じく人それぞれ、最近特にそう思う。


画像3 病院内での歩行リハビリイメージ画像
ユーチューブ画面撮影より) 




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