封入体筋炎患者闘病記

 封入体筋炎患者のヒロです。病歴は2023年で満15年、16年目に入りました。在宅勤務の仕事とリハビリの日々を送り、細やかながらも家族3人で暮らしています。ブログ記事は闘病記と広島地元ネタ、社会保障などの時事ネタ中心です。希少疾患の封入体筋炎の周知が目的です。関心があれば、ツイッターなどでご紹介していただければ幸いです。疾患関係で直コメントが苦手の方は、ツイッターのダイレクトメールを利用してください。封入体筋炎の闘病史は各進行段階の症状や生活障害、必要な社会保障制度等をまとめています。良ければ参考にしてください。最新の封入体筋炎の状況は『近況について色々と』、取り組んでいるリハビリについては『20年春~夏 筋疾患(封入体筋炎)リハビリ』にて素人の体感目線で書いています。モバイル版で読みにくい場合は、PC版に転換してからお読みください。

 封入体筋炎の周知と脳の筋委縮予防、そして適度な闘病生活のガス抜き目的でこのブログを書いています。疾患関係の記事は、同病、他の筋疾患患者の方、ご家族、友人が苦しんでいる方の参考にでもなれば幸いです。些細な生活の様子や疾患の情報などのコメントをお待ちしております。他の傷病で障害をお持ちの方なども歓迎です。悪意目的のリンク貼りはお断りします。その時々の気分で、記事内容に偏りが出ます。大目に見てください(笑)最近、自分語り記事が増えています。哀れな障害者の泣き言だと思い、寛容な心でお読みください(笑) 広島都市開発系記事のコメント欄は、過去に酷い粘着行為、誹謗と中傷、〇〇予告などがあり閉じています。ご了承ください。

前回記事 広島市にはなぜ地下鉄がないのか? その1

【回想その3】
地下鉄を含む地下式鉄・軌道線議論の歴史 その2
広電の路下電車・トラムトレイン構想について



画像1 81年、当時の広電石松社長が打ち出した広電独自の路下電車構想と可部線乗り入れ構想を伝える報道(画像 『広電・路面電車110年の歩み【年表】』より)


画像2 1897年世界初の路面電車(トラム)として軌道が地下に移設されたボストンのグリーンライン(画像 『ウィキペディア・マサチューセッツ湾交通局』より)


画像3 世界的メッセ都市であるハノーバー(人口53.2万人)のシュタットバーン(地下式LRT)の様子。1975年開業で、1日平均21.9万人を運ぶ。高床式(床面高さ100㌢前後)規格で統一されている(画像 ユーチューブ画面撮影より)

 伝説の『うえき市長』こと荒木武市長が、HATSⅡのフル規格地下鉄計画の実質廃棄後に舵を切り直した新交通システム(アストラムライン)計画は遅々として進まなかった。77年都市計画地方審議会にて、祗園新道の都市計画決定にあたって『新交通システムの入促進を図ること』との付帯意見を付ける、78年新交通システムの路線・運行計画、採算性などの調査と祇園新道の用地買開始後は、亀の歩みの事業進捗度となる。理由は導入路である祇園新道と市道中筋沼田線の整備を用地買収から始めないといけなかったので、その進捗度が亀の歩みを招いた。その間、81年1月に広電が面白い構想を発表した。広電独自の路下電車構想と可部線乗り入れ構想(上記画像1参照)だ。その詳細は以下の通り。

指標2 81年1月広電石松社長が発表した将来構想
①都心地区の部分路下(地下)化 2.8㌖
 対象区間-本線銀山町~十日市間(2.3㌖)、宇品線紙屋町~袋町間(0.5㌖) 
②国鉄(現JR西日本)可部線と相互乗り入れ

 横川駅~可部間を複線化・路面電車専用線に改造し、市内電車と可部線をつなぐ。そして横川
 
線(横川駅~十日市 1.3㌖)と横川まで延伸する白島線のWアクセスで市中心部(紙屋町
 
、八丁堀)に乗り入れることで当時深刻だった市北西部の交通渋滞の解消を図る。予算は軽快
 
電車購入費用も含め約160億円。広電と国鉄線とのレール幅&電圧方式の相違については、
 
運用車両の研究を勉強会レベルで始めている
③平和大通りに新線(平和大通り線)の新設

 今でいうところの地下式LRTとトラムトレイン(軌道線と鉄道線の相互乗り入れ)の合わせ技のような構想だ。その前に、当時の時代感覚を振り返る。高度成長期のような路面電車の大逆風は鳴りを潜めたが、それでも『遅く、古く、ダサい乗り物』『いつまでも広電が幅を利かせているようでは、広島市の将来は危うい』『いずれ広島市でも実現するあろう地下鉄が開通するまでの繋ぎ交通機関』の意見が大勢を占めていた。昭和オールウェイズの原風景が広がっていた広島駅前地区と共に、広島市の恥部とまでいう人もいた。日本の60年代から70年代にかけての路面電車廃止の大波は、日本だけではなく欧米先進国共通の現象で、イギリス、フランス、アメリカの先進国では一足早く50年代にはほぼ終わっていた。しかし、いたずらに廃止する事無く路面電車(トラム)を真の中量輸送機関に昇華させることで都市交通問題に対処しようとした国も少数だが存在した。それが旧西ドイツだ。シュタットバーン(上記画像3参照)と命名し、渋滞が酷い都心地区の軌道を路下に移設させ、その他の区間は路面軌道の準専用軌道化-センター・サイドリザベショーン化、軌道の敷石撤去と嵩上げ-、新設軌道化(専用軌道化)、優先信号設置、軌道線高規格車両導入、信用乗車方式採用 を進めた。ドイツ人の賢い点は、今ある膨大なネットワークを廃止せずに、必要な部分だけに改良を加えネットワークの維持を図り、取り込んだところだ。抜群の費用対効果だ。それも一気には行わず、長い年月をかけ段階的に整備する。ドイツの軌道法では最大車体長75㍍、最高速度は路面軌道区間は自動車と同様、地下・新設軌道区間は制限なし。路面電車(トラム)の短所である低い表定速度、輸送量の問題を、長所をそこまで損ねる事無く実現させた。シュタットバーンは、66年のシュトゥットガルトの開業を皮切りに、92年のデュースブルクまで13都市で開業した。世界の地下鉄データ一覧表~(種別L参照 日本地下鉄協会HP) 当時は路下電車と日本では呼ばれていた。起源は厳密に言うと西ドイツではなくアメリカの都市ボストンのグリーンライン(上記画像2参照)だ。1897年に世界初の路下電車として地下に軌道を移設された。残念ながら、世界的なモーターリゼーションの爆発は第2次世界大戦後だったので続く都市は現れなかった。旧西ドイツの他にはベルギーのブリュッセル(下記画4像参照)やアントワープなども名称こそプレメトロだが、同様のシステムを採用している。両者の相違点はシュタットバーンは最終形だがプレメトロはそうではなく、フル規格地下鉄に移行するまでの前段階の扱いで、輸送量が増えると転換することを前提にしている。


画像4 ベルギーの首都ブリュッセルのプレメトロ。フル規格地下鉄移行まで過渡的な処置として、トンネル断面はフル規格地下鉄サイズで設計された。最初の路下区間は、76年に誕生した(画像 『ウィキペディア・ブリュッセルプレメトロ』より)



画像5 
現在のLRT整備制度の概要(画像 『国土交通省HPLRT等利用ガイダンス』より)

 当時の広電石松社長がこんな構想を打ち出した理由は、路面電車廃止の圧力がほぼ収まり、ようやく将来について考える余裕が生まれたことや『古さを誇ってノスタルジアに訴えるだけでは、電車は生き残れない』『中古電車ばかりでは、利用者にそっぽを向かれる』と危機感を感じていたからだそうだ。構想内容を精査すると、明らかに当時、世界の主流だった路下(地下)電車の影響を強く受けている。昭和の時代からの路面公共交通のボトルネック間である紙屋町交差点を路下(地下)区間に移設することで、表定速度向上を図りノロノロ運転や団子運転の解消を目指した。可部線の横川~可部間の複線化させ、軌道線規格に改造し4扉車両2編成を連結運行させ、横川駅で分離、横川線と同駅まで延伸した白島線のダブルアクセスで都心地区に向かう案で、当時深刻の度を増していた市北西部の交通渋滞解消を図るというもので、まだ世界で実現していなかったトラムトレインを考えている点など先進的かつ画期的な構想だった。しかしこれも構想倒れに終わった。理由は以下の通り。

指標3 広電の構想が実現しなかった理由
①81年当時、国のLRT整備制度(上記画像5参照)がなかった
 81年当時は路面電車整備に係る国の補助制度はなかった。初の制度発足は、16年後の97年の『路面電車走行空間改築事業』からでその後手厚くなり、現在に至っている(上記画像5参照)。令和の現在では、公設民営上下分離方式-公(行政)が、軌道や停留所などのインフラを整備し保有、運営は民間事業者か第3セクターに任せる-が一般化しているが、当時はそんな概念すらなかった。そんなことをしようものなら『一民間企業のために、税金をつぎ込むなど言語道断』とマスコミが騒ぎ始めていただろう。初期コストを抑えた案ではあるが、路下(地下)化や、可部線複線化と低床ホーム改造、など、それなりのコストは必要で広電と旧国鉄だけでは難しく現実的ではない。

②旧国鉄の大赤字
 複線化前提の計画だが、可部線の安芸長束~緑井間は線路の敷地付近まで民家が迫り、複線化の用地買収も容易ではない。新規の都市計画道路に移設させるのが回り道だが結果的に早道と思うのだが、81年当時の旧国鉄には、そんな余力はなかった。73年のHATSⅡの地下鉄計画案浮上時も経営状況は酷かったがその後、さらに酷くなり首が回るなくなる寸前。80年鈴木善幸内閣は、日本国有鉄道経営再建促進特別措置法を成立させ、再建を取り組む。その7年後に旧国鉄は分割民営化されるのだが、一地方都市の広島市などに投資など夢のまた夢でしかなかったのである

③新交通システム(アストラムライン)計画が動き始めていた
 この構想は、民間レベルに留まるもので整備主体など明らかにされていない。81年当時の状況は、77年、都市計画地方審議会にて、祗園新道の都市計画決定にあたって『新交通システムの導入促進を図ること』との付帯意見が付き、翌78年から調査を始めていた。導入路である祇園新道や市道中筋沼田線の整備の進捗待ちではあったが、既に新交通システム導入が決まっていて、今さら他の選定機種を検討するつもりなど広島市には、全くなかった。今でこそLRTは世界の都市交通の潮流的な位置づけだが、当時はそうではなくいずれ広島市でも誕生するであろう地下鉄やそれに類似する交通機関開通までの、繋ぎ的な役割が広電路面電車であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。

 旧西ドイツなどである程度導入されたシュタットバーンだが、90年代以降には完全に下火となった。①部分的な路下(地下)化とはいえそれなりのコストが掛かり、導入都市が限られること ②路下(地下)停留所は、信用乗車方式を採用しているので、改札員がおらず治安上の問題が発生すること ③都心地区の賑わい性創出に貢献しないこと(都市のシンボリック性がない) ④すべて専用線ではないのでそこまで高い速達性を確保出来なかった 以上の理由で地下区間がある新設LRTは、鉄道線を跨ぐ場合や諸般の事情で地上空間に導入路が確保できない場合のみに限られるようになった。

【回想その4】
地下鉄を含む地下式鉄・軌道線議論の歴史 その3
85年発表の広島市の構想


画像6 85(昭和60)年の中国新聞記事 その1(アルベースさんツイッター画像より)


画像7 
85(昭和60)年の中国新聞記事 その2(アルベースさんツイッター画像より)

 広島市はアストラムラインの建設に向け、亀の歩みではあったが着々と準備を進めていたが、傍から見ると進展しない印象を持った。市議会内でも荒木武市長与党の会派の市議から進捗状況の報告を求める質問が相次いだ。荒木武市長も80年、83年に説明をした。しかし、事業の停滞を感じた市議からの質問は続き、次の市長選に危機感を抱いたため、85年広島市議会建設委員会にて、新交通システム(アストラムライン)など広島市の将来の鉄軌道構想を表明した(上記画像6と同7)。その構想は以下の通り。

指標4 荒木広島市長(当時)が85年市議会建設委員会で表明した構想

 (1)新交通システム導入予定区間 
   紙屋町~高取間 11.8㌖ 建設費-1,100億円 94年開通
 (2)東西方向の路線
  【ルート】国鉄(現JR)広島駅~八丁堀~紙屋町~十日市~国鉄西広島駅 約5㌖

       上記ルート以外にも平和大通り、国道2号線の計3案 
  【選定機種】フル規
格サイズの地下鉄、ミニ地下鉄、路面電車の路下化、新交通システムの
        地下線など
を検討
  【建設費】900億円程度 【着工時期】94
年以降
 (3)南北方向の路線
  【ルート】紙屋町~広島港 6.7㌖ 全線地下式 約660億円 
  
【選定機種】新交通システム方式 【着工時期】
 (4)他の路線

  【ルート】高取~沼田・石内間 2.9㌖ 建設費160億円
       沼田・石内~西部流通団地(商工センター)8.0㌖ 建設費 約900億円  
  
【選定機種】新交通システムの高架式
 (5)基本構想の完成時期
   概ね30年後の2015年頃 全体建設費は約3,720億円を見込む

 構想路線というか、方向性を示し建設計画策定のための議論のたたき台の位置づけだ。注目したいのは、東西方向の路線だ。ルートは、広電路面電車本線区間の相生通、約300㍍ほど隔てた平和大通り、さらに南側の国道2号線の3ルート、選定機種は、フル規格サイズの地下鉄、ミニ地下鉄、路面電車の路下化、新交通システムの地下線の5種類を想定していた。この時点で、HATSⅡのフル規格地下鉄計画は実質廃棄から完全廃棄になった。この都市の1月に運輸省広島陸運局は中国地方交通審議会を開催し、『広島県における公共交通機関の維持・整備に関す計画について』を諮問。広島市の新交通システム計画を盛り込み、晴れて国のお墨付きを得た。その流れからのたたき台となる構想の発表と思われる。ここまで書いてとある疑問が湧いてくる。広島市の新交通システムは、77年の祇園新道都市計画決定時に『新交通システムの導入促進を図ること』との付帯意見がつけられ実質スタート。工事着工が89年なので、約12年の空白期間が発生した。その間、広島市の立場に寄り添えば、その間は導入路の祇園新道と市道中筋沼田線の整備待ちで、他の準備を抜かりなくしていたと言えなくもないが本当にそうだろうか? これは広島時間-小田原評定的な議論だけに熱心で、初動が遅く時間の使い方が恐ろしく下手で、総論賛成で各論反対をする人間が多く、事業が進まない-が当たり前の世界で過ごしているからの見方で、他都市と比較すれば違和感しかない。


画像8 71年答申された北九州市のモノレール3路線(画像 『都市と交通NO.6』より)

指標5 各都市の鉄・軌道線の答申から、工事着工・開業までの期間の比較

①福岡市営地下鉄空港線
 
 71年-都市交通審議会が『福岡市および北九州市を中心とする北部九州都市圏における旅客
     輸送力の整備増強に関する基本的計画について』(答申第12号)を運輸大臣に答申
 73年-福岡市議会で、都市高速鉄道(地下鉄)を建設し、経営する決議を得る
 74年-運輸大臣に、地方鉄道事業免許を申請
 75年-起工式を執り行う
 81年-1号線(室見~天神間 5.8㌖)開業
 
 『答申から工事着工まで4年、答申から開業まで10年

②仙台市営地下鉄南北線
 75年-運輸省仙台陸運局の仙台地方陸上交通審議会において、泉市(現在の仙台市泉区)七
     北田周辺から仙台駅付近を経て長町周辺に至る『地下方式の高速鉄道』の整備を急ぐ
     べきであるという答申がされた
 78年-仙台市議会は地下鉄の建設を満場一致で可決。地方鉄道事業の免許申請を行う
 81年-起工式を執り行う
 87年-南北線第1期開業(富沢駅~八乙女駅 13.6㌖)

 答申から工事着工まで6年答申から開業まで12年』

③北九州高速鉄道小倉線
 71年-都市交通審議会が『福岡市および北九州市を中心とする北部九州都市圏における旅客
     輸送力の整備増強に関する基本的計画について』(答申第12号)を運輸大臣に答申
     都市交通審議会の答申をさらに具体的に検討するために、北九州都市圏交通対策協議
     会を発足させる
 72年-『都市モノレールの整備の促進に関する法律』が制定

 74年-『都市モノレールの整備の促進に関する法律』の適用第1号となる
 76年-モノレールを運営する『北九州高速鉄道』を設立。軌道特許を取得
 78年-起工式を執り行う
 85年-小倉線(小倉駅~企救丘 8.8㌖)開業

 答申から工事着工まで7年答申から開業まで14年』

④広島高速交通1号線
 『導入決定から工事着工まで12年、導入決定から開業まで19年』

 広島市のそれは、工事着工まで5年間から8年間も時間を他都市よりも要し、開業では5年間から9年間、他都市よりも要している。厳しい指摘するとその間は無駄な時間を過ごしたという事だ。広島市が工事着工までの12年間掛かっているが、この12年間の月日はもう1つの別の路線建設も十分可能な時間で、個人的にはコスト高の東西方向の路線建設を80年代初頭から中盤にかけ行う時間は十分あった。地下鉄建設は、遅れれば遅れるほど人件費と輸入資材の高騰、安全基準が厳しくなり追加コストが加わり高騰する傾向がある。要は早くつくった者勝ちなのだ。『そんなに時間の余裕が本当にあるのか?』との懐疑的な意見も尤もかと思う。こんなスケジュール感で進めていれば可能だった。75年に前計画のHATSⅡの実質廃棄、76年から77年にかけ新計画の策定と専用基金の創設、78年から79年にかけ陸運局の審議会開催、地方鉄道免許もしくは特許の申請と交付、基本・実地設計などの準備、80年から81年にかけ工事着工、85~86年にかけ東西方向路線の開業、その後は祇園新道や中筋沼田線の整備もある程度進んでいるので、進捗待ちという無駄な時間を過ごすこともなかったと思うのだ。別の観点からも東西方向の路線を最優先すべき理由を語る。広島市以外の地下鉄などの地下式鉄・軌道線やモノレールを整備した都市で、記念すべき第1期線で都市最大駅を結ばない路線を選択したのは広島市だけだ。大体、『都市最大駅~都心中心地区』の路線を選択する。それは公共交通需要最大路線でもあるからだ。しかし、広島市は市北西部の交通渋滞の解消を理由にそれは放棄した。例えば、東西方向の『広島駅~都心中心地区』の路線整備の効果は沿線だけに留まらず、広島市全体、都市圏全体にまで及び、都市成長の原動力になり得るが、市北西部の交通渋滞解消目的だとその効果は沿線のみに限定される。費用対効果がまるで異なる。広島市の都市計画センスに疑問を持つのはこの点だ。広島市の地下開発は他都市よりも高コストなのは有名な話だが、それでも費用対効果や健全財政の意識が低く、財政に余裕があり低コストの時代に建設していればと思うと、広島市の都市計画センスの欠如は残念としか言いようがない。

『広島市にはなぜ地下鉄がないのか? その3』へ続く
 
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カテゴリー記事 広島の都市問題 郊外・その他

【考察その1】
広島市民目線で消えてほしい左翼活動家


動画1 【ライブ】原爆の日 2023 広島平和記念式典 (2023年8月6日)|TBS NEWS DIG


動画2 広島原爆の日 中核派デモ 騒がしい人たち【令和5年8月6日】


画像1 中核派の左翼活動家の当日の台本らしきもの


画像2 21年9月制定された『広島市平和推進基本条例』の前文


画像3 
『広島市平和推進基本条例』の中の厳粛な式典を求める条文(画像 『広島市平和推進基本条例』より)

 8月6日は、広島市にとって特別な日だ。今から78年前の第二次世界大戦太平洋戦争)末期の1945年8月6日午前8時15分、連合国アメリカ合衆国が、敵国日本広島市に対して原子爆弾を投下した。原爆投下後の入市被爆者も含め56万人が被爆し、死者数は正確には分かっていないが45年12月までに約14万人もの人が亡くなったとされる。生き残った人たちも、後遺症に悩まされた。よって広島市民は、8月6日は原爆投下で亡くなった人たちに対して、哀悼の意を示す。広島平和記念式典も、厳粛かつ静粛な環境で行うと考えるのは真っ当だ。近年それを踏みにじるならず者の活動家が跋扈している。
彼らは、この日広島市が世界から注目されることをいいことに『アピールする絶好の機会』とばかりに大挙して押し寄せ、自身の主張を平和記念公園近隣で拡声器を使い、ここぞとばかりに言い放つデモ活動をしている。今年も、反戦・反核を叫ぶ団体がデモ集会を開き、拡声器を使ってシュプレヒコールを上げた。反戦、反核だけなら辛うじて理解の範疇だが、『原発再稼働反対』『中国侵略戦争反対』『沖縄の島を戦場にするな』『汚染水を放出するな』など広島市とは無関係のものを堂々と主張している。広島生まれの広島育ちの一広島市民の立場で言わせてもらうと、迷惑極まりなく彼らは岸田首相に『岸田は帰れ!』と主張しているが、『お前らこそ帰れ、そして二度と来るな!』と声を大にして言いたい。彼らは、言論と表現の自由の権利を掲げ自身の政治的な主張をするが、どんな権利の行使も他人に迷惑をかけず、最大限配慮した上でするのが大人の常識でそれが出来ない彼らの行為は反社会活動と言わざるを得ない。広島市民の99.9%の彼らを見つめる白い眼を考えた事があるのか、理解に苦しむ。右翼の街宣車も広島市を訪れていたが、市街地を循環しているぐらいで酷い迷惑行為まではしていない。まだ彼らの方が最低限の常識を弁えている印象だ。広島市も厳粛かつ静粛な環境で行う記念式典を目指し、21年9月に『広島市平和推進基本条例』を制定し、散々注意喚起をしているが、常識の欠片も持ち合わせていない彼らには通用しなかったようだ。


画像4 国民民主党党首玉木雄一郎氏の人格者ぶりを仄めかすツィート


画像5 中核派との関係性が透けて見える立憲民主党代議士の脊髄反射ツィート(笑)

  8月6日広島平和記念式典に参列した国民民主党党首玉木雄一郎氏のツィート(上記画像4参照)が話題になっている。彼のツィートは殆どの広島市民の声を代弁しており好ましく感じた。ツイッター界隈では迷惑極まりなく、厳粛な式典を妨害するシュプレヒコールがどのタイミングで発せられたのかが論争の的になっている。その場に居なければ真相は分からないのだが、参加者の証言もそれぞれの立場でまちまちのようだ。式典会場内に居た人たちの証言でも『黙とうの時以外は常に聞こえていた』、『いや、何か届くぐらいのレベル』と真相が定かではない。当日の彼らの様子を動画では、平和記念公園周辺のデモをしている最中の拡声器使用は確認出来る。式典最中に平和公園隣接でこのような不謹慎なデモを行い、しかも核兵器廃絶以外の政治的主張をするなど記念式典の妨害工策、反平和活動にしか映らないし、問題を都合よく矮小化するべきではない。式典最中に隣接地で不謹慎なデモを行っているのがそもそもの問題なのだから。まだ、常日頃広島で活動している革新系の平和団体であれば、我慢の我慢を重ね許容可能だが、他所の人間が、これ見よがしに大挙して訪れ記念式典の妨害工策しているのだから余計に腹立たしい。革新系の平和団体の人間でもこんなやり方はしない。一広島市民の感情だと、被爆者の魂を冒涜する行為にしか見えない。一見、排他的な言動と思うかもしれないが、亡くなった方の御霊を心底から慰霊するのであれば、広島市民である必要はないが少なくとも彼らはそうではない。本人たちは否定するだろうが行動を見る限り、そんな様子は微塵も感じられない。21年9月に制定された『広島市平和推進基本条例』も手ぬるい。言論・表現の自由にある程度配慮する理由も理解出来るが、左翼活動家は広島市の条例などお構いなしで8月6日にやって来て広島市民の感情を土足で踏みにじる行為を平気で行う無頼漢だ。速やかに条例改正を行い、いっその事、平和公園から半径2㌖以内を、8月6日の平和祈念式典の開催時間に限り、政治的な主張をする集団のみ立ち入り禁止にしてはどうだろうか? 平和祈念公園から半径2.0㌖東だと、大体広島駅周辺地区辺りになり、これぐらいの距離感だと拡声器を使おうが何しようが、その聞くに堪えない声は絶対に届かない。その接近禁止エリアを設定するのである。外見だけでデモ参加者か否かの見極めは難しいので、当日は県警の警察官を平和記念公園周辺に多数配置して、その集団を見つけるや否や即、エリア外に退去させるのである。退去を拒否した場合や何度もエリア内に侵入する場合は、身柄を拘束し、本人勤務の会社や学校に通報する。厳しいと思うかもしれないが、これぐらいの法的拘束力がないと効果はない。このような手法は、本来悪手以外何物でもないが、優しい顔をしては相手がつけ上がるだけだ。時には非常な手段も止む無しだ。物分かりが良いとつけ上がる輩と割り切りそうするしか術はなさそうだ。世の中にはまともな話し合いが出来ない相手もいる。

【考察その2】
ノイジーマイノリティの考察
精神的に惰弱な人間が多い印象


画像6 コロナ渦で反ワクチン集団の活動の様子

 8月6日に大挙して訪れる左翼活動家は、典型的なノイジーマイノリティ(声高な少数派)とよく分類される。その語源は、『うるさい』『騒々しい』『声が大きい』といったもので社会全体の割合ではかなりの少数なので、異端視されることが圧倒的に多い。彼らも少数意見である事は十分承知しており、それ故にその主張や方法が精鋭化し、過激かつ反社会的に流されやすくなりがちだ。記憶が新しいところだと、反コロナ、反ワクチンを主張する人たちがそれに該当する。その主張を繰り返すほどサイレントマジョリティー物言わぬ多数派ーの支持を失うジレンマを抱える。そして、周知不足だと勘違いした
ノイジーマイノリティがさらに精鋭化し、辟易としたサイレントマジョリティー支持を失う負のループに陥りやすい。彼らの特徴として非現実的で、感情的思考だけで導いた陰謀論に傾倒しやすく、異なる意見や考えに対して非寛容で自身の正しさを主張するため、攻撃的なのも共通している。右・左派ポピュリズム政党の参政党やれいわ新選組の支持者ならぬ信者も反コロナ、反ワクチン主義者と同様の傾向がある。ネットが登場する20世紀までは、このような社会のノイズ的存在は可視化されていなかった。情報の入手手段がテレビ、新聞、雑誌ぐらいしかなく良い意味で平和だった。しかし、21世紀以降のパソコンやスマホの普及で情報の入手手段が多様化し、その情報量も桁違いに増えた。そこで求められるのが、情報の取捨選択能力でこれがない利用者は、デマや真偽が怪しい情報に流される事になる。ここで困るのが、ツイッターなどのSNSの普及だ。エコーチェンバー現象が起きやすいのがその特徴で、この現象は自分と似た意見や思想を持った人々が集まる場が多く、異なるものは排除しやすい。自分の意見や思想が肯定されることで、それらが正解であるかのごとく勘違いしてしまう。本来であれば、社会全体の数%の意見や考えだったとしても、限られた閉鎖的なコミュニティ空間ではあたかも自分がマジョリティだと思ってしまいがちだ。彼らの困った点は、極まれに論理的な思考に基づいた正しい意見に触れても『自分で調べもせず、テレビ、新聞の情報を鵜呑みにする情報惰弱』『政府の掌で泳がされている』と感情的な拒否反応を示す。これは確証バイアスー自分の思い込みや願望を強化する情報ばかりに目が行き、そうではない情報は信じない傾向-が強く働くからだ。そして知らないうちにネット内のコミュニティは、多様な意見や思想が消えてしまいどこまでも反復されることで、特定の情報・アイデア・信念などが増幅・強化されネット用語でいえば『無敵な人』になってしまう。本来は、正常性バイアス-自分は多数派で正常だと思う心理-が、社会全体との比較で機能する筈だが、彼らの場合、ネット内の限られたご同好の士のコミュニティ空間が社会全体なのでその意味合いでは間違った正常バイアスが機能しているのかもしれない。論理的な思考や俯瞰目線が決定的に欠けている印象が強い。
 

画像7 
反ワクチン主義者が、主張する世界的規模の新型コロナウイルスのワクチン接種による人口削減計画(笑)

 ここで、まだコロナ渦だった昨年の8月にブログ主のツイッターアカウントにDMで論戦を挑んできた
反ワクチン主義者を紹介する。この人は23年8月現在、理由は定かではないがツイッターアカウントが削除されているので暴露する。性別は男性、年齢は30代半ば、仕事は不明だが非正規社員、趣味はアニメ、独身でツィートでは地頭良さを必死にアピール、過去に精神疾患歴、れいわ新選組の信者。元々、相互フォローしていた関係性だ。たまたま、反ワクチン主義者の矛盾点をブログ主がツイッターで指摘したのがお気に召さなかったようだ。彼の主張は、次の通り。①『妻や息子にワクチン接種を勧めるのは夫・父親として失格』 ②『政府や大きな病院の誤った情報をブログなどで広めるのは殺人行為に加担し犯罪者』 ③『自分で調べもせず、テレビ、新聞の情報を鵜呑みにする情報惰弱』 ④『医師や医師の卵の意見を信用するのは頭が悪い』 ⑤『日本政府は闇の世界政府のパシリで人口削減計画に加担している』と頭を抱えるものばかりだった。真面目に反論するのも億劫だったが、即ブロックするのも無駄に自信をつけさせるだけだし、反論した。①については『ワクチン接種の有効性を確認したうえで自身は接種をしている』『家族の接種は本人の意思』、②は『日本の法律には一切抵触していないので、犯罪者呼ばわりは間違っています』 ③については『それだけではなくネットの情報も確認しています』、④は『少なくとも専門家ではないあなたよりは、信用出来ますし、あなたよりも賢い自負はあります』、⑤は、『世界人口を5億人に減少させると、世界の経済市場が溶けてなくなり闇の世界政府を構成するグローバル企業も存続不可能になると思いますが』である。彼が感情的になり食いついたのは、⑤の反論の『~あなたより賢い自負はあります』で、これを聞くな否や大卒者攻撃を始めた。学歴にはあえて触れず、『感染症の専門家である多くの医師より、信憑性が殆どない情報を都合良く拾い上げ、理解した気分に浸り専門家気取りのあなたが賢いとは思えませんけど』とド正論をぶつけると、直接言い返す事はせずワクチン接種後の死亡した事例を持ち出し論点ずらしに活路を見出そうとしていた。確かにワクチン接種後に死亡した事例は因果関係が不明なものも含めると約2,075事例にもなるが、この数字だけ抽出するだけではなく接種回数4億622万回にも着目すべきで単純計算だとワクチン接種後の致死率は0.00049%でしかない。理想はゼロであるべきだが、拙速な形で世に出しているので許容の範囲を主張すると、『2,000人も死んでいるのに、『仕方がない』と言い張るのは被害者の気持ちが分からない人でなし』と感情論に訴え始めた。『家族に被害が出ていないので、分かる事がむしろおかしい。あなたは分かっている気分に浸り自己陶酔している偽善者では?』と指摘すると、ダンマリした。餌を仕掛けようとして『ワクチンには感染防止効果は大してないが、重症化予防効果は高く、私は神経性難病患者で免疫抑制剤を服用しているので接種している』というと、『それはワクチンの効果ではなく、ウイルス自体が弱体化しているからだ』と返してきた。すかさず『あれ?コロナの存在を本当は認めているんですね(笑)』と突っ込むと、相手はしどろもどろになった。相手が返すまでの時間が長くなりきつそうでしかも飽きてきたので、最後に『あなた達って、ワクチンを打たない自由を主張する癖にワクチンを打つ自由は絶対に認めないんですね』と最終奥義を投下するとそれっきり返信はなくなった。ノイジーマイノリティの生態がよく分かり、有意義な議論だった(笑)。今回の記事主題の左翼活動家もノイジーマイノリティの生態がそのまま当てはまり、世間の一般常識からかなりかけ離れた価値観、主張、排他性、過激な手法、問題がありそうな人間性などから主張すればするほど、行動すればするほどサイレントマジョリティから呆れられ、支持が増えるどころか嫌われるに違いない。

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前回記事 広島市の地下鉄建設の挫折の歴史 その1

【挫折の歴史その3】
広電が広島市の地下鉄計画を潰したのか?
答えは『NO !』



画像1 本線区間を走行する最新車両5200形の様子(画像 『アンドビルド広島』より)


画像2 運行時間の内訳(左)と各系統ごとのオフピーク時とピーク時の表定速度(右)(画像 『広島市地域公共交通計画(素案) 』より)


画像3 73年、『広島都市交通研究会』提言によるHATSⅡ(最終地下鉄建設案) 画像 『ウキペディア・広島市営地下鉄』より 

 広電路面電車(上記画像1参照)は、ネット界隈ではいつの時代も悪役だ。悪く言われる最大の理由は、あまりにも低い表定速度(上記画像2参照)やまちなか道路を遅い癖に我が物顔で走行している姿が癇に障ったり、架線が蜘蛛の巣状なので都市景観を台無しにしていることがあるようだ。『既得権益の権化』『競合がなく、暴利を貪っている』『広島市の地下鉄計画を潰し、発展を阻害した』などと根拠が全くない誹謗・中傷にいつの時代も晒されている。今回は記事との関連で『広島市の地下鉄計画を潰し、発展を阻害した』にスポットを当てる。最初の地下鉄計画のHATSⅡと関わりについてだ。前回記事で説明したように、他都市の路面電車同様に急激なモーターリゼーションの影響で速達性と定時性が大幅に低下し、利用者離れが進んだ。63年に軌道敷内への自動車の乗り入れを認め、表定速度は12km/hから5km/hに下がるとさらに拍車がかかる。68年度利用者は前年から12.4%も大幅に減少した。当然、収益の悪化は避けられず、路面電車の存続を本格的に検討し始めた。広島市の地下鉄導入議論は、67年頃から始まる。2度の答申を経て、73年、『広島都市交通研究会』によるHATSⅡ(上位画像3参照)が最終地下鉄建設案として提案された。時期は多少前後するが、広電は県警に軌道敷内の自動車の乗り入れ禁止を要望し、県警担当者は路面電車が廃止になったイギリスやフランスを視察せず、路面電車の低生産性を改善し、都市交通として活かそうとしていたドイツなどを視察し71年に軌道敷内の自動車の乗り入れ禁止を復活させた(下記画像5参照)。そして広電は、廃止ではなく存続させることを決めた。地下鉄構想は、仮に実現しても当分先の話で、開業するまでは、広島市の公共交通の役割を果たそうと決意を新たにしたのである。地下鉄の話に戻すと、その2年後に最終地下鉄建設案が提案される。前回記事で触れたように、広島市での地下鉄建設は、行政のみならず地元財界においても広島市の大発展のきっかけになるとして賛成で、推進の意向を示していた。2つ目の地下鉄計画案には、国、県、市と共に広島商工会議所も参加している。当時の広島商工会議所の主要メンバーは、二葉会-マツダや広島銀行など11社で構成-が中心で、かつては旧広島市民球場、広島市公会堂(現広島国際会議場)を独力で建設し市に寄付している。実は広電もその二葉会のメンバーの1社で、彼らの意向を無視してまで広電単独で地下鉄計画潰しに動ける筈もない。動けば、狭く閉鎖的な広島社会の中で『村八分』の憂き目に遭い、つま弾きにされ、しかも『広島市発展を阻害した』と半永久的に後ろ指を指される。内心は反対だったのだろうが、広電1社だけで広島市の決定を覆すほどの政治力など持ち合わせてはいない。


画像4(左) 広島駅停留所の屋根設置の陳情の報道(75年)
画像5(右) 自動車の軌道敷内乗り入れ禁止の検討の報道(71年) 画像共に『広電・路面電車110年の歩み【年表】』より


画像6 HATSⅡの概要

 仮に広電が地下鉄計画廃案に追い込む場合、市議会内で発言力を持つ市議会議員を数多く味方につけないといけない。市議会内で多数を占める保守系市議会議員は地下鉄計画に当然賛成なので頼みにはならない。では革新系市議会議員は議会では少数派、肝心の市長は山田節夫市長で元々の出身母体は社会党(笑)だが推進する側の人間、ロビー活動で覆すのはほぼ不可能だったと思われる。広島市が広電の存在に忖度し、自らの計画を潰すなど100%あり得ず、当時の広電と広島市との関係性を示すものを発見したので、見て欲しい。上記画像4は、75年頃広電が広島駅停留所の屋根設置の補助を広島市に陳情した報道だ。広島市の態度は極めて冷たく、『前例がない』と一蹴している。よく『広電と広島市はずぶずぶの関係』と揶揄する人たちがいるが、当時の報道を見る限りでは『ずぶずぶ』ではなく『ぎすぎす』だ(笑)。HATSⅡの地下鉄計画案が実現しなかったのは、市民や市民団体の反対よりも計画自体が非現実的な机上の空論臭が強かったからだ。個々で、広電が仮に路面電車を70年代以降段階的に廃止していたら、どうなっていたのかをシュミレーションする。


指標4 広電が70年代までに路面電車を廃止していたら・・・
①HATSⅡの計画路線は実現していたのか?
 答えは実現していないになる。『たられば』の世界の話になるので個人の主観が入るが、上記画像6が概要になる。旧国鉄3線-可部・芸備・呉各線-と広電宮島線の新設に匹敵する投資前提の計画で、前回の記事でも触れたが、当時の大赤字で社会問題化していた旧国鉄の状況、急激なモーターリゼーションの進行で路面電車とバスの収支悪化の広電の状況を考えると、大規模投資をする環境ではないのは明らか。これらの郊外線部あってこその計画で、これが破綻すれば計画の体をなさなくなる。計画自体、意味がないものに。当時深刻化していた市北西部の交通渋滞解消を目指すのであれば、別の手段で模索するのが自然の流れになる。よって広電路面電車の存続は関係なしに、史実通りの計画棚上げ(実質廃案)、AGTシステム導入の検討になる

②広電路面電車の廃線で、AGTシステム(アストラムライン)の整備は加速したか?
 結論から言うと加速しない。理由を順を追って説明する。アストラムラインは、77年国道54号線BP祇園新道の都市計画決定時に、
『新交通システムの導入促進を図ること』との付帯意見が付き計画がスタートした。工事着工が89年と12年の月日を要している。12年もの空白期間を生んだ訳は、導入路である祇園新道と市道中筋沼田線は都市計画決定したばかりで、用地買収が進んでおらず畑と雑木林のまま。この導入道路の整備進捗に大きく左右され、そうなった。12年の期間は、別の路線を計画し、整備に取り掛かり開業させるに十分な時間だが、悪戯に時間だけを過ごした。この空白期間が後の計画を停滞させる要因にもなり整備機会の損失につながった。広電路面電車が存在しないことで、公共交通移動需要が最大の『広島駅~紙・八地区~西広島駅』の東西方向の路線整備を最優先させることも、可能性としてありそうだが広島市の都市計画の戦略にそんな発想は存在せず、目先の市北西部の交通渋滞解消を優先させる筈。94年の第1期線開業後は、財政難や高齢化による扶助費高騰で社会情勢が変わってしまい、延伸や新設に手が付けられず史実通りの流れになっていたと思われる。


画像7 路線バスの各通りごとの集中度(画像 『バス活性化基本計画』より)

③広電路面電車もなく、アストラムラインも都心地区にない世界線は?
 『路面電車の軌道敷が車道に転換され道路容量が拡大し、渋滞が解消した』には絶対にならない。72年時点での広電路面電車の1日平均利用者数は、市内軌道線15.8万人、宮島線4.6万人と計20.4万人。これが全てバス利用に転換された前提だと、乗車定員80人の路線バス車両が1日2,575台必要になる。乗車率100%のバス車両などあり得ないので、まあ3,000台以上バス車両が増えることは間違いない。現在の都心地区のまちなか道路の1日平均バスの便数は上記画像7の通り。『広島駅~紙・八地区』は1日平均3,800便が集中し、都心地区の交通渋滞の要因になっている。この数字に3,000台以上が加わると、空恐ろしいことになる。『道路容量拡大されるから大丈夫』はお気楽な意見で、広電路面電車を嫌い敬遠していた
目的外の自動車が、道路容量拡大を機に流入し、軌道敷を車道に転換したくらいでは捌き切れなくなる。

 結論としては、広電が70年代に路面電車を全廃していれば、現在のアストラムラインだけがあり、バス車両が2倍、自動車も1.2~1.3倍程度に増え現在よりも酷いまちなか道路の混雑になっていたと言える。
よって、広電は地下鉄計画を潰したのではなく、広島市の鉄・軌道線計画の不備を補ったが正しい見方だと考える。少なくともブログ主はそんな見方をする。


画像8 日中でも目的外の通過自動車やバス、路面電車が入り乱れ、カオスな状態の相生通りの様子(画像 『日本モビリティ・マネジメント会議』より)

【挫折の歴史その4】
広電独自の路下電車構想と可部線乗り入れ構想
81年当時にLRT整備制度があれば・・・


画像9 81年、当時の広電石松社長が打ち出した
広電独自の路下電車構想と可部線乗り入れ構想を伝える報道(画像 『広電・路面電車110年の歩み【年表】』より)

画像10 ドイツの都市エッセン(人口58.3万人)のシュタットバーン(地下式LRT)の様子。1977年開業で、高床(床面高さ100㌢前後)、低床(床面高さ30㌢台)の両規格の路線を持つ。都心部地下区間の重複区間は複々線構造として一体運用がされている。1日平均利用者数は、33.7万人(画像 ユーチューブ画面撮影より)

 欧州各国のモータリゼーションの波は日本よりも早く到来し、市内に縦横無尽の路線網を張り巡らせていたトラム(路面電車)は50年代より、存続の危機に瀕した。イギリスやフランスでは、道路交通の邪魔者として殆どの都市で撤去された。その中でも異彩を放った国があった。それは旧西ドイツだ。旧西ドイツでは西ベルリンやハンブルグのような大都市では全廃したが、それ以下の都市では闇雲に廃止はせず、トラムの低い生産性を信用乗車方式の採用、連結運転の実施で改善し生産性向上に努め、都市交通として利用しようとした。そして、利用に値する交通機関として再生するためシュタットバーン(上記画像10参照)に昇華させた。
シュタットバーンとは今風に言えば地下式LRTの事で、都心地区の軌道を路下に移設させ、その他の区間は路面軌道の準専用軌道化-センター・サイドリザベショーン化、軌道の敷石撤去と嵩上げ-、新設軌道化(専用軌道化)を進めた。今ある軌道のインフラ設備に必要な部分だけ手を加え、利便性の優れたものへと昇華させる手法を賢いドイツ人は選択する。それも一気には行わず、長い年月をかけ段階的に整備する。この手法だと既存の膨大なトラムネットワークをそのまま取り込めるメリットがあった。車両は、高規格化させ従来のトラム車両よりも大きくした。ドイツの軌道法の規定は最大車体長75㍍、最高速度は路面軌道区間は自動車と同様、地下&新設軌道区間は制限なしとなっている。そして中量輸送機関として機能させたのである。シュタットバーンは、66年のシュトゥットガルトの開業を皮切りに、92年のデュースブルクまで13都市で開業した。世界の地下鉄データ一覧表~(種別L参照 日本地下鉄協会HP) 他には、ベルギーのブリュッセル(下記画像11参照)やアントワープなども名称こそプレメトロだが、同様のシステムを採用している。両者の相違点はシュタットバーンは最終形だがプレメトロはそうではなく、フル規格地下鉄に移行するまでの前段階の扱いで、輸送量が増えると転換することを前提にしている。旧西ドイツでフル規格地下鉄よりもシュタットバーンが主流となったのは、人口100万人都市が西ベルリン、ハンブルグなど4都市しかなく、フル規格地下鉄ほどの輸送力を必要としない人口30~60万都市が多かったのもその理由だった。60~80年代当時は、路面走行式LRTほど流行らなかったが、注目を浴びていた。その流れに目を付けたのが広電だった。そして81年1月、広電石松社長がとある構想を発表した。それを下記にまとめてみる。

指標5 81年1月広電石松社長が発表した将来構想
①都心地区の部分路下(地下)化 2.8㌖
 対象区間-本線銀山町~十日市間(2.3㌖)、宇品線紙屋町~袋町間(0.5㌖) 
②国鉄(現JR西日本)可部線と相互乗り入れ

 横川駅~可部間を複線化・路面電車専用線に改造し、市内電車と可部線をつなぐ。そして横川
 
線(横川駅~十日市 1.3㌖)と横川まで延伸する白島線のWアクセスで市中心部(紙屋町
 
、八丁堀)に乗り入れることで当時深刻だった市北西部の交通渋滞の解消を図る。予算は軽快
 
電車購入費用も含め約160億円。広電と国鉄線とのレール幅&電圧方式の相違については、
 
運用車両の研究を勉強会レベルで始めている
③平和大通りに新線(平和大通り線)の新設

 
画像11 ベルギーの首都ブリュッセルのプレメトロ。フル規格地下鉄移行まで過渡的な処置として、トンネル断面はフル規格地下鉄サイズで設計された。最初の路下区間は、76年に誕生した(画像 『ウィキペディア・ブリュッセルプレメトロ』より)


画像12 現在のLRT整備制度の概要
(画像 『国土交通省HPLRT等利用ガイダンス』より)

 当時の広電石松社長がこんな構想を打ち出した理由は、路面電車廃止の圧力がほぼ収まり、ようやく将来について考える余裕が生まれたことや『古さを誇ってノスタルジアに訴えるだけでは、電車は生き残れない』『中古電車ばかりでは、利用者にそっぽを向かれる』と危機感を感じていたからだそうだ。構想内容を精査すると、明らかに当時、世界の主流だった路下(地下)電車の影響を強く受けている。昭和の時代からの路面公共交通のボトルネック間である紙屋町交差点を路下(地下)区間に移設することで、表定速度向上を図りノロノロ運転や団子運転の解消を目指した。可部線の横川~可部間の複線化させ、軌道線規格に改造し4扉車両2編成を連結運行させ、横川駅で分離、横川線と同駅まで延伸した白島線のダブルアクセスで都心地区に向かう案で、当時深刻の度を増していた市北西部の交通渋滞解消を図るというもの。注目したいのは、鉄軌道線の相互乗り入れを想定していた点だ。現在のトラムトレイン(ウィキペディア)になるのだが、92年に世界初の事例となるドイツの都市カールスルーエの連邦鉄道の旅客線への乗入れの研究開始は84年頃なので、この時点では勝っていたことになる。案としては面白く、興味深いものがあるが当然ながら実現はしなかった。その理由を考える。

指標6 広電の将来構想が実現しなかった理由
①81年当時、国のLRT整備制度(上記画像12参照)がなかった
 81年当時は路面電車整備に係る国の補助制度はなかった。初の制度発足は、16年後の97年のの『路面電車走行空間改築事業』からでその後手厚くなり、現在に至っている(上記画像12参照)。令和の現在では、公設民営上下分離方式-公(行政)が、軌道や停留所などのインフラを整備し保有、運営は民間事業者か第3セクターに任せる-が一般化しているが、当時はそんな概念すらなかった。そんなことをしようものなら『一民間企業のために、税金をつぎ込むなど言語道断』とマスコミが騒ぎ始めていただろう。極力初期コストを抑えた案ではあるが、路下(地下)化や、可部線複線化、複電圧軌道線規格車両の開発など、それなりのコストは必要で広電と旧国鉄だけでは難しく現実的ではない。

②旧国鉄の大赤字
 複線化前提の計画だが、可部線の安芸長束~緑井間は線路の敷地付近まで民家が迫り、複線化の用地買収も容易ではない。新都市計画道路に移設させるのが回り道だが結果的に早道と思うのだが、81年当時の旧国鉄には、そんな余力はなかった。73年のHATSⅡの地下鉄計画案浮上時も経営状況は酷かったがその後、さらに酷くなり首が回るなくなる寸前。80年鈴木善幸内閣は、日本国有鉄道経営再建促進特別措置法を成立させ、再建を取り組む。その7年後に旧国鉄は分割民営化されるのだが、一地方都市の広島市などに投資など夢のまた夢でしかなかったのである

③新交通システム(アストラムライン)計画が動き始めていた
 この構想は、民間レベルに留まるもので整備主体など明らかにされていない。81年当時の状況は、77年、都市計画地方審議会にて、祗園新道の都市計画決定にあたって『新交通システムの導入促進を図ること』との付帯意見が付き、翌78年から調査を始めていた。導入路である祇園新道や市道中筋沼田線の整備の進捗待ちではあったが、既に新交通システム導入が決まっていて、今さら他の選定機種を検討するつもりなど広島市には、全くなかった。今でこそLRTは世界の都市交通の潮流的な位置づけだが、当時はそうではなくいずれ広島市でも誕生するであろう地下鉄やそれに類似する交通機関開通までの、繋ぎ的な役割が広電路面電車であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。

 以上が主な理由となる。現在の話をすると、地下式LRTはかなり下火になった。①部分的な路下(地下)化とは言えそれなりのコストが掛かり、導入都市が限られること ②路下(地下)停留所は、信用乗車方式を採用しているので、改札員がおらず治安上の問題が発生すること ③都心地区の賑わい性創出に貢献しないこと(都市のシンボリック性がない) ④すべて専用線ではないのでそこまで高い速達性を確保出来なかった 以上の理由で地下区間がある新設LRTは、鉄道線を跨ぐ場合や諸般の事情で地上空間に導入路が確保できない場合のみに限られるようになった。

『広島市の地下鉄建設の挫折の歴史 その3』へ続く

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