広島の都市交通 シリーズ記事 LRT誕生秘話
その1 その2 その3 その4 その5 その6
【誕生経緯その11】
惰眠を貪っていた日本
100%超低床車両開発に乗り遅れた・・・
画像1 車両開発空白期を埋めるべく8社共同で開発された軽快電車こと広電3500形車両(画像 『ウィキペディア・軽快電車』より)
80年代から90年代初めにかけ、欧州や北米の国-ドイツ、フランス、イギリス、カナダ、アメリカ-でLRTがそろそろ都市交通の主流になりかけていた頃、日本はまだ惰眠を貪っていた。LRTはおろか路面電車に対する国の何かしらの補助制度はなく、同じ中量輸送機関として72年に『都市モノレール整備の促進に関する法律』が国会で成立し、74年にインフラ補助制度(日本交通計画協会)が創設され、75年には新たな交通システムとしてモノレールの他にAGTも加えられた。フル規格地下鉄を必要としない需要の路線には、モノレールやAGTを整備するのが国の都市交通の指針となる。北米や欧州の国で注目を集めようとしていた新しい路面電車システムは、歯牙にもかけられなかった。日本の路面電車は、他の欧米先進国同様に、モーターリゼーションの大波で道路渋滞の元凶扱いをされ、多くの都市で60年代から70年代にかけ廃止されたが、全国22都市22事業者の路線が残り、旧共産圏の国、旧西ドイツ以外では、最多の残存数だった。理由としては、欧州各国よりも10年程度遅れモーターリゼーションが押し寄せ、廃止される時期も遅れた事、存続を議論している最中に第1次石油ショック(73~77年)が起きて、過度なモーターリゼーション、その弊害について立ち止まり考えるようになり、公共交通の再評価が行われ廃止予定の路面電車の存続が決まった事も大きかった。存続が決まったとは言え、人口のドーナツ化現象が進み、都市構造が大きく変わる中、一部の郊外路線を持つ事業者以外は、明るい将来はないと言えた。軌道や停留所などのインフラ部、車両や車庫などのインフラ外部に対する国庫補助制度は皆無で、当時は公共交通は社会全体で支える生活インフラの概念の欠片などなく22事業者の内15事業者が民間事業者だったので、補助制度を創設した日には、『税金を営利企業のためにつぎ込むなど言語道断』と批判されるのは目に見えていた。それ以上に、少なくとも日本では、路面電車は既に使命を終えた交通機関扱いだった。正に生かさず、殺さずの生殺し状態だったと言える。しかし、18都市22事業者が国内で路面電車を運行している現実も無視するわけにはいかなかった。60年代初頭から将来性がない路面電車車両の開発は途絶え、新造車両の置き換えはおろか、故障した老朽車両の部品の調達すらもままならない状況が生まれていた。それを解消すべく、日本鉄道技術協会が音頭を取り、日本船舶振興会の支援を受けて技術空白期を埋め、省エネや路面電車復権のために川崎重工業・東急車輌製造・アルナ工機・三菱電機・東洋電機・富士電機・住友金属工業・日本エヤーブレーキ(現ナブテスコ)が参加し、それぞれが構体や機器類を分担して製造し、組立を川崎重工業兵庫工場で実施した。78年に開発委員会が発足し、参加企業が分担しあい80年夏に試作車両として完成したのは広島電鉄3500形(上記画像1参照)と長崎電機軌道2000形(下記画像2参照)だった。これまでの路面電車車両にはない新機軸が盛り込まれた。チョッパ制御、直角カルダン駆動、回生ブレーキ、弾性車輪など最新の鉄道車両ではスタンダードとなりつつあった機能が加わった。一枚窓のデザインは、これまでの車両イメージを刷新し、路面電車のイメージ向上に一役を買った。名前も『軽快電車』と名付けられた。ただ、広島電鉄3500形は、元々2車体連接車両だったものを広島電鉄の強い要望で、3車体連接車両に変更された。変更された段階では、既に完成した機器類の構成変更が困難な状況でそのまま押し切ったので、就行後、幾度となく不具合が生じ、営業車両としては欠陥品だった。

画像2 広島電鉄3500形と共に8社共同で開発された80年に就行した軽快電車こと長崎電気軌道2000形。こちらは、大きなトラブルが起きず14年まで運行された(画像 『ウィキペディア・長崎電気軌道2000形電車』より)
しかし同車両で得たデータはその後の広島電鉄700形、800形、3700形の車両開発に反映され、日本の路面電車車両開発の再開、その後の発展に寄与した実績は小さくはなかった。しかし、この軽快電車の共同開発も虫の息の事業者に、死なない程度に水と餌を与えたに過ぎなかった。せっかく、20年間の車両開発空白期を埋めた取り組みもその後の発展にはつながらなかった。というのは、80年代からドイツでは、ドイツ公共輸送事業者協会を中心に100%超低床車両開発が始まっていた。それに触発されたドイツ、イタリア、フランス、スイスの車両メーカーも動き始めていた。その甲斐もあり、80年代半ばには部分低床車両、80年代後半には半(70%)低床車両の実用化、90年前後には100%超低床車両の試作車両、90年代半ばからは100%超低床車両の実用化に成功した。日本のメーカーに寄り添う意見を言うと、80年代の世界の市場は欧州ではなく北米市場を指していた。日本の軽快電車開発に参画していた東急車輌製造は、ボーイング社の下請けとは言え『アメリカ標準型路面電車』の開発に加わり、ボストンやサンフランシスコなどに納車していた事、日本の元市場が小さく、補助制度がないので発展性がない事、欧州の新たな動きを軽視していた事もなり、100%超低床車両開発の流れに完全に乗り遅れた。半(70%)低床車両の開発は既存技術の応用でも可能だが、100%超低床車両開発は、独立車輪式台車などの新たな技術開発なくして不可能なので難しい。日本の国産100%超低床車両開発は、その乗り遅れを挽回すべく、01年に国土交通省の支援の元、近畿車輛・三菱重工業・東洋電機製造など8社が組合を設立し、開発した05年の広島電鉄5100形就行まで待たなければならない。この10年以上の遅れが、世界の100%超低床車両の市場に未だに十分入り込めない最大理由になっている。日本の鉄道車両メーカーは自動車メーカーと共にグローバル市場で戦える数少ないメーカーだが、LRT分野に限ればかなり遅れを取っている。日本同様にフランスも約20年にも及ぶ路面電車車両開発空白期があり、78年にフランス標準型路面電車を開発する際には、空白期が仇となり自国の技術だけでは開発出来なかったが、その後はアルストム社は半(70%)低床車両、100%超低床車両を開発し、現在では世界2位の巨大企業に成長した。日本は都市交通事業は、独立採算性が基本で、運行は運賃収入などで殆どカバーするのが大原則。設備投資の新型車両の投入も、国の補助など当時はなかった。大手民鉄や旧国鉄のように経営規模が大きいとか赤字でいる事がある程度許容される公営地下鉄であれば、車両置き換え期に一気に数十編成単位の投入もあるが、日本の路面電車を運営する事業者は、経営規模が小さく辛うじて黒字を出す状態で、そんなことは期待出来ない。当然、市場は小さく、開発に投じた原資を回収ししかもそこから大きな利益を得るなど不可能な話。欧州各国ではそうではなく、既に営利事業ではなくなり、利用者負担の行政サービスに変化していたので、行政の潤沢な補助で都市交通を手掛ける運営事業者の公営企業、運営を委託した民間事業者はに設備投資の負担を強いる事無く、小都市であっても数年の短期間で数十編成の車両置き換えが一気に進み、80年代や90年代当時、今ほどLRTが普及していなくとも導入検討都市が多かったので、現時点の市場、市場拡大の未来などから開発投資分を回収し、その後の大きな利益を得る土壌があった点が分かれ道になったと言える。
【誕生経緯その12】
広島電鉄の独自構想について
路下(地下)路面電車構想


画像3(左) 埋め立てられた広島城外堀跡(現相生通)に軌道を施設した
画像4(右) まだ電車専用橋だった相生橋の様子(画像 『広電の歴史』より)

画像5 自動車保有台数の推移(画像 『ヤフーニュース』より)


画像6(左) 自動車の軌道敷内乗り入れ禁止の検討の報道(71年)
画像7(右) 広島駅停留所の屋根設置の陳情の報道(75年) 画像共に『広電・路面電車110年の歩み【年表】』より
この考察では今なお、日本国内では最大のネットワークと利用者数を誇る広島電鉄こと広電について触れる。広電の前身となる広島電気軌道株式会社は、1910年に設立された。当初は、全区間専用軌道で建設するつもりだったが、広島市議会より建設する道路に軌道を施設してはどうかの提案があったが、これでは用地買収費が嵩み採算が確保出来ないので、工事費負担だけにして欲しいと陳情を出した。それが聞き入れられ、1912年現在の本線・広島駅~相生橋間、白島線・八丁堀~白島間がそれぞれ開業した。上記画像3と同4はその当時の様子だ。広島城の外堀を埋立てその跡地に道路を建設し、そこに軌道を施設した。17年に現在の広島ガスの前身広島瓦斯と合併し、広島瓦斯軌道となった。順次、路線が延長され現在の路線形態は、54年の江波線舟入南町~江波間の開業で完成した。呉三津田~本通間、宮島線宮島口~岩国方面間、横川~安芸高田市甲立間の構想があったが実現しなかった。郊外延伸ではないが、戦後復興計画の一環として吉島方面、観音方面の路線新設、稲荷町~広島駅間の駅前通り移設、西広島駅~土橋間の平和大通り(西広島駅~小網町)への移設、江波線の三菱重工江波工場までの延伸なども盛り込まれたが、戦後すぐは原爆投下後の回復に手間取り、移設予定の道路が開通した頃には、モーターリゼーションが押し寄せ、廃止が取り沙汰されていたので、それどころではなくなり、自然消滅した。駅前通りの移設は広電駅前大橋線、平和大通りの移設は広電平和大通り線として後年、復活し広島市の計画路線に現在は盛り込まれている。日本も戦後復興期に入り、高度経済成長期に入ると、御多分に漏れずモーターリゼーションが押し寄せた(上記画像5参照)。時期的には60年代前半からで、自動車の普及に道路整備が追い付かず、朝夕のラッシュ時は交通マヒの様子を呈した。道路上の専用線を走行する路面電車は、目の敵にされ感情的思考によって道路渋滞の元凶扱いにされた。63年には軌道敷内の自動車走行が認められ、広電路面電車の表定速度は12km/hだったが5km/hにまで急落し、ただでさえ低かった速達性と定時性はさらに下がった。一時は、路面電車の止む無しとの社内世論も傾いていたが、廃止方針から一転存続させる事にした。そして、71年自動車の軌道敷内乗り入れ禁止を県警に掛け合い、再び勝ち取った(上記画像6参照)。広島市でも、路面電車に代わるものとして、フル規格地下鉄の導入議論が60年代後半から始まり、いくつかの提言案を経て73年に、旧国鉄線の可部線、芸備線、呉線を高架化、複線化、広電宮島線を改軌、高架化させ郊外区間として機能強化させ相互乗り入れを前提としたフル規格地下鉄2本-鯉城線、東西線-の計画-HATSⅡ(下記画像8参照)が73年に提言されていた。この計画は、旗振り役の山田市長の死去(75年1月)、後任のうえき市長こと荒木市長の低い行政手腕、市民、市民団体の反対、旧国鉄の慢性的な赤字などの理由から、実質とん挫した。そして荒木市長は、代替え案として新交通システムのAGT導入に舵を切り直した。

画像8 73年、『広島都市交通研究会』提言によるHATSⅡ(最終地下鉄建設案) 画像 『ウィキペディア広島市営地下鉄』より

画像9 81年、当時の広電石松社長が打ち出した広電独自の路下(地下)電車構想と可部線乗り入れ構想を伝える報道(画像 『広電・路面電車110年の歩み【年表】』より)
新交通システムはまだ都市計画決定されたばかりの祇園新道や市道中筋沼田線が導入路だった事もあり、開業するまで時間がかかり広電は延命することになった。広電が広島市の地下鉄計画を潰しただの、広島市が広電に忖度し過ぎているだのと的外れな批判をする人が多い。馬鹿の極みと言っていい。そうではないと完全否定する論拠の1つとして、上記画像7がある。これは75年に広島駅停留所に上屋を設置するために広島市の補助を求めたものだが、広島市は『前例がない』として門前払いにしている。とても忖度する側の態度ではない。地下鉄計画潰しとは、具体的には広電が市議会議員に計画反対をするようにロビー活動する事だと思うが、当時の情勢でそんな事をして有権者にバレた日には次回選挙の当選が覚束なくなる。70年代から90年代前半までの広島市民の大都市への憧れは尋常ではなかった。その大都市の証明となるのがフル規格地下鉄、100万都市(政令指定都市)、都市高速道路の『大都市3種の神器』だった。広島市民の大多数は、札幌市以外で全廃された路面電車が、未だに都心区間を他都市譲渡のオンボロ車両がトロトロと走り続ける姿を『広島市の恥部』とさえ感じ、苦々しく思っていた。しかも、地下鉄建設は都市発展の起爆剤として神格化されていた時代でもあったので、『地下鉄建設反対=広島市の発展反対』に可変されレッテル貼りをされる。広電の80年代から90年代半ばまでの扱いは、いずれ地下鉄実現するまでの繋ぎ交通機関でしかなかった。路面電車廃止の環状的世論も沈静化し、存続環境こそ整ったがこのままでは先細りしてジリ貧となるのは目に見えていた。80年に広電版軽快電車の3500形が就行し、広電はこれまでの守り一辺倒の経営姿勢から、『攻撃こそ最大の防御なり』と言わんばかりの経営姿勢に転換した。それが、広電石松社長(当時)が発表した81年1月に発表した路下(地下)路面電車構想だ。その詳細を下記にまとめる。
指標9 81年1月広電石松社長が発表した将来構想
①都心地区の部分路下(地下)化 2.8㌖
対象区間-本線銀山町~十日市間(2.3㌖)、宇品線紙屋町~袋町間(0.5㌖)
②国鉄(現JR西日本)可部線と相互乗り入れ
横川駅~可部間を複線化・路面電車専用線に改造し、市内電車と可部線をつなぐ。そして横川
線(横川駅~十日市 1.3㌖)と横川まで延伸する白島線のWアクセスで市中心部(紙屋町
、八丁堀)に乗り入れることで当時深刻だった市北西部の交通渋滞の解消を図る。予算は軽快
電車購入費用も含め約160億円。広電と国鉄線とのレール幅&電圧方式の相違については、
共同運用車両の研究を勉強会レベルで始めている
③平和大通りに新線(平和大通り線)の新設
構想発表当時の状況は、HATSⅡのフル規格地下鉄計画がとん挫し、75年に代案としてAGT導入を検討開始。77年の祇園新道都市計画時には『新交通システムの導入を促進を図る』との付帯意見が盛り込まれた。80年時点では、広島市は新交通システムの調査を進めている最中で、まだ事業化はされておらず極めて計画に近い構想の域を超えていなかった。当時の広島市の都市交通問題の最優先課題は、国道54号線を中心とした市北西部の交通渋滞だったため、このような構想を発表したものと思われる。都心路下(地下)区間計2.8㌖で軟弱地盤の広島市で、約160億円で済む筈はないと思ったりもするが、構想自体面白いものだ。当時、旧西ドイツのシュタットバーンの影響を強く受け、トラムトレイン(鉄道線と軌道線の相互乗り入れ)を80年頃から勉強会で研究する点など斬新だった。実際のトラムトレインは92年ドイツのカールスルーエで実現するのだが、研究自体は84年頃からだったのでもし実現していれば、世界初のトラムトレインとなった可能性もあった。レール幅の相違は3線軌条化で解決するし、複電圧の問題は、可部線は都市間の鉄道路線ではないので、06年に開業した富山ライトレール(現富山地方鉄道富山港線)のように、旧富山港線を鉄道線規格の1500vから軌道線規格の600Vに降圧、鉄道線ホーム高さを軌道線ホーム高さに変えれば出来ない相談ではなかった。

画像10 現在のLRT整備制度の概要(画像 『国土交通省HPLRT等利用ガイダンス』より)
当時の広電石松社長がこんな構想を打ち出した理由は、路面電車廃止の圧力がほぼ収まり、ようやく将来について考える余裕が生まれたことや『古さを誇ってノスタルジアに訴えるだけでは、電車は生き残れない』『中古電車ばかりでは、利用者にそっぽを向かれる』と危機感を感じていたからだそうだ。昭和の時代からの路面公共交通のボトルネック間である紙屋町交差点を路下(地下)区間に移設することで、表定速度向上を図りノロノロ運転や団子運転の解消を目指した。可部線の横川~可部間の複線化させ、軌道線規格に改造し4扉車両2編成を連結運行させ、横川駅で分離、横川線と同駅まで延伸した白島線のダブルアクセスで都心地区に向かう案だった。少ない投資額で、最大限の効果を得る思考のもので非常に理に適っていた。しかし実現はしなかった。実現しなかった理由は以下の通りだ。
指標10 広電の構想が実現しなかった理由
①81年当時、国のLRT整備制度(上記画像10参照)がなかった
81年当時は路面電車整備に係る国の補助制度はなかった。初の制度発足は、16年後の97年の『路面電車走行空間改築事業』からでその後手厚くなり、現在に至っている(上記画像10参照)。令和の現在では、公設民営上下分離方式-公(行政)が、軌道や停留所などのインフラを整備し保有、運営は民間事業者か第3セクターに任せる-が一般化しているが、当時はそんな概念すらなかった。公設公営、民設民営の時代だ。初期コストを抑えた構想ではあるが、路下(地下)化や、可部線複線化と低床ホーム改造など、それなりのコストは必要で広電と旧国鉄だけでは難しく現実的ではない
②旧国鉄の大赤字
複線化前提の計画だが、可部線の安芸長束~緑井間は線路の敷地付近まで民家が迫り、複線化の用地買収も容易ではない。新規の都市計画道路に移設させるのが回り道だが結果的に早道と思うのだが、81年当時の旧国鉄には、そんな余力はなかった。73年のHATSⅡの地下鉄計画案浮上時も経営状況は酷かったがその後、さらに酷くなり首が回るなくなる寸前。80年鈴木善幸内閣は、日本国有鉄道経営再建促進特別措置法を成立させ、再建を取り組む。その7年後に旧国鉄は分割民営化されるのだが、一地方都市の広島市などに投資など夢のまた夢でしかなかったのである
③新交通システム(アストラムライン)計画が動き始めていた
この構想は、民間レベルに留まるもので整備主体など明らかにされていない。81年当時の状況は、77年、都市計画地方審議会にて、祗園新道の都市計画決定にあたって『新交通システムの導入促進を図ること』との付帯意見が付き、翌78年から調査を始めていた。導入路である祇園新道や市道中筋沼田線の整備の進捗待ちではあったが、既に新交通システム導入が決まっていて、今さら他の選定機種を検討するつもりなど広島市には、全くなかった。今でこそLRTは世界の都市交通の主流的な位置づけだが、当時はそうではなくいずれ広島市でも誕生するであろう地下鉄やそれに類似する交通機関開通までの、繋ぎ的な役割が広電路面電車であり、それ以上でもそれ以下でもなかった
構想としては合理的ではあったが上記の理由で、民間企業の構想で終わった。実現した別の世界線を見たい気がするが、実現するにはいくつかの前提条件をクリアしないといけないので間違っても実現しなかっただろう。
『LRT誕生秘話 その8』へ続く
お手数ですが、ワンリックよろしくお願いします

その1 その2 その3 その4 その5 その6
【誕生経緯その11】
惰眠を貪っていた日本
100%超低床車両開発に乗り遅れた・・・

画像1 車両開発空白期を埋めるべく8社共同で開発された軽快電車こと広電3500形車両(画像 『ウィキペディア・軽快電車』より)
80年代から90年代初めにかけ、欧州や北米の国-ドイツ、フランス、イギリス、カナダ、アメリカ-でLRTがそろそろ都市交通の主流になりかけていた頃、日本はまだ惰眠を貪っていた。LRTはおろか路面電車に対する国の何かしらの補助制度はなく、同じ中量輸送機関として72年に『都市モノレール整備の促進に関する法律』が国会で成立し、74年にインフラ補助制度(日本交通計画協会)が創設され、75年には新たな交通システムとしてモノレールの他にAGTも加えられた。フル規格地下鉄を必要としない需要の路線には、モノレールやAGTを整備するのが国の都市交通の指針となる。北米や欧州の国で注目を集めようとしていた新しい路面電車システムは、歯牙にもかけられなかった。日本の路面電車は、他の欧米先進国同様に、モーターリゼーションの大波で道路渋滞の元凶扱いをされ、多くの都市で60年代から70年代にかけ廃止されたが、全国22都市22事業者の路線が残り、旧共産圏の国、旧西ドイツ以外では、最多の残存数だった。理由としては、欧州各国よりも10年程度遅れモーターリゼーションが押し寄せ、廃止される時期も遅れた事、存続を議論している最中に第1次石油ショック(73~77年)が起きて、過度なモーターリゼーション、その弊害について立ち止まり考えるようになり、公共交通の再評価が行われ廃止予定の路面電車の存続が決まった事も大きかった。存続が決まったとは言え、人口のドーナツ化現象が進み、都市構造が大きく変わる中、一部の郊外路線を持つ事業者以外は、明るい将来はないと言えた。軌道や停留所などのインフラ部、車両や車庫などのインフラ外部に対する国庫補助制度は皆無で、当時は公共交通は社会全体で支える生活インフラの概念の欠片などなく22事業者の内15事業者が民間事業者だったので、補助制度を創設した日には、『税金を営利企業のためにつぎ込むなど言語道断』と批判されるのは目に見えていた。それ以上に、少なくとも日本では、路面電車は既に使命を終えた交通機関扱いだった。正に生かさず、殺さずの生殺し状態だったと言える。しかし、18都市22事業者が国内で路面電車を運行している現実も無視するわけにはいかなかった。60年代初頭から将来性がない路面電車車両の開発は途絶え、新造車両の置き換えはおろか、故障した老朽車両の部品の調達すらもままならない状況が生まれていた。それを解消すべく、日本鉄道技術協会が音頭を取り、日本船舶振興会の支援を受けて技術空白期を埋め、省エネや路面電車復権のために川崎重工業・東急車輌製造・アルナ工機・三菱電機・東洋電機・富士電機・住友金属工業・日本エヤーブレーキ(現ナブテスコ)が参加し、それぞれが構体や機器類を分担して製造し、組立を川崎重工業兵庫工場で実施した。78年に開発委員会が発足し、参加企業が分担しあい80年夏に試作車両として完成したのは広島電鉄3500形(上記画像1参照)と長崎電機軌道2000形(下記画像2参照)だった。これまでの路面電車車両にはない新機軸が盛り込まれた。チョッパ制御、直角カルダン駆動、回生ブレーキ、弾性車輪など最新の鉄道車両ではスタンダードとなりつつあった機能が加わった。一枚窓のデザインは、これまでの車両イメージを刷新し、路面電車のイメージ向上に一役を買った。名前も『軽快電車』と名付けられた。ただ、広島電鉄3500形は、元々2車体連接車両だったものを広島電鉄の強い要望で、3車体連接車両に変更された。変更された段階では、既に完成した機器類の構成変更が困難な状況でそのまま押し切ったので、就行後、幾度となく不具合が生じ、営業車両としては欠陥品だった。

画像2 広島電鉄3500形と共に8社共同で開発された80年に就行した軽快電車こと長崎電気軌道2000形。こちらは、大きなトラブルが起きず14年まで運行された(画像 『ウィキペディア・長崎電気軌道2000形電車』より)
しかし同車両で得たデータはその後の広島電鉄700形、800形、3700形の車両開発に反映され、日本の路面電車車両開発の再開、その後の発展に寄与した実績は小さくはなかった。しかし、この軽快電車の共同開発も虫の息の事業者に、死なない程度に水と餌を与えたに過ぎなかった。せっかく、20年間の車両開発空白期を埋めた取り組みもその後の発展にはつながらなかった。というのは、80年代からドイツでは、ドイツ公共輸送事業者協会を中心に100%超低床車両開発が始まっていた。それに触発されたドイツ、イタリア、フランス、スイスの車両メーカーも動き始めていた。その甲斐もあり、80年代半ばには部分低床車両、80年代後半には半(70%)低床車両の実用化、90年前後には100%超低床車両の試作車両、90年代半ばからは100%超低床車両の実用化に成功した。日本のメーカーに寄り添う意見を言うと、80年代の世界の市場は欧州ではなく北米市場を指していた。日本の軽快電車開発に参画していた東急車輌製造は、ボーイング社の下請けとは言え『アメリカ標準型路面電車』の開発に加わり、ボストンやサンフランシスコなどに納車していた事、日本の元市場が小さく、補助制度がないので発展性がない事、欧州の新たな動きを軽視していた事もなり、100%超低床車両開発の流れに完全に乗り遅れた。半(70%)低床車両の開発は既存技術の応用でも可能だが、100%超低床車両開発は、独立車輪式台車などの新たな技術開発なくして不可能なので難しい。日本の国産100%超低床車両開発は、その乗り遅れを挽回すべく、01年に国土交通省の支援の元、近畿車輛・三菱重工業・東洋電機製造など8社が組合を設立し、開発した05年の広島電鉄5100形就行まで待たなければならない。この10年以上の遅れが、世界の100%超低床車両の市場に未だに十分入り込めない最大理由になっている。日本の鉄道車両メーカーは自動車メーカーと共にグローバル市場で戦える数少ないメーカーだが、LRT分野に限ればかなり遅れを取っている。日本同様にフランスも約20年にも及ぶ路面電車車両開発空白期があり、78年にフランス標準型路面電車を開発する際には、空白期が仇となり自国の技術だけでは開発出来なかったが、その後はアルストム社は半(70%)低床車両、100%超低床車両を開発し、現在では世界2位の巨大企業に成長した。日本は都市交通事業は、独立採算性が基本で、運行は運賃収入などで殆どカバーするのが大原則。設備投資の新型車両の投入も、国の補助など当時はなかった。大手民鉄や旧国鉄のように経営規模が大きいとか赤字でいる事がある程度許容される公営地下鉄であれば、車両置き換え期に一気に数十編成単位の投入もあるが、日本の路面電車を運営する事業者は、経営規模が小さく辛うじて黒字を出す状態で、そんなことは期待出来ない。当然、市場は小さく、開発に投じた原資を回収ししかもそこから大きな利益を得るなど不可能な話。欧州各国ではそうではなく、既に営利事業ではなくなり、利用者負担の行政サービスに変化していたので、行政の潤沢な補助で都市交通を手掛ける運営事業者の公営企業、運営を委託した民間事業者はに設備投資の負担を強いる事無く、小都市であっても数年の短期間で数十編成の車両置き換えが一気に進み、80年代や90年代当時、今ほどLRTが普及していなくとも導入検討都市が多かったので、現時点の市場、市場拡大の未来などから開発投資分を回収し、その後の大きな利益を得る土壌があった点が分かれ道になったと言える。
【誕生経緯その12】
広島電鉄の独自構想について
路下(地下)路面電車構想


画像3(左) 埋め立てられた広島城外堀跡(現相生通)に軌道を施設した
画像4(右) まだ電車専用橋だった相生橋の様子(画像 『広電の歴史』より)

画像5 自動車保有台数の推移(画像 『ヤフーニュース』より)


画像6(左) 自動車の軌道敷内乗り入れ禁止の検討の報道(71年)
画像7(右) 広島駅停留所の屋根設置の陳情の報道(75年) 画像共に『広電・路面電車110年の歩み【年表】』より
この考察では今なお、日本国内では最大のネットワークと利用者数を誇る広島電鉄こと広電について触れる。広電の前身となる広島電気軌道株式会社は、1910年に設立された。当初は、全区間専用軌道で建設するつもりだったが、広島市議会より建設する道路に軌道を施設してはどうかの提案があったが、これでは用地買収費が嵩み採算が確保出来ないので、工事費負担だけにして欲しいと陳情を出した。それが聞き入れられ、1912年現在の本線・広島駅~相生橋間、白島線・八丁堀~白島間がそれぞれ開業した。上記画像3と同4はその当時の様子だ。広島城の外堀を埋立てその跡地に道路を建設し、そこに軌道を施設した。17年に現在の広島ガスの前身広島瓦斯と合併し、広島瓦斯軌道となった。順次、路線が延長され現在の路線形態は、54年の江波線舟入南町~江波間の開業で完成した。呉三津田~本通間、宮島線宮島口~岩国方面間、横川~安芸高田市甲立間の構想があったが実現しなかった。郊外延伸ではないが、戦後復興計画の一環として吉島方面、観音方面の路線新設、稲荷町~広島駅間の駅前通り移設、西広島駅~土橋間の平和大通り(西広島駅~小網町)への移設、江波線の三菱重工江波工場までの延伸なども盛り込まれたが、戦後すぐは原爆投下後の回復に手間取り、移設予定の道路が開通した頃には、モーターリゼーションが押し寄せ、廃止が取り沙汰されていたので、それどころではなくなり、自然消滅した。駅前通りの移設は広電駅前大橋線、平和大通りの移設は広電平和大通り線として後年、復活し広島市の計画路線に現在は盛り込まれている。日本も戦後復興期に入り、高度経済成長期に入ると、御多分に漏れずモーターリゼーションが押し寄せた(上記画像5参照)。時期的には60年代前半からで、自動車の普及に道路整備が追い付かず、朝夕のラッシュ時は交通マヒの様子を呈した。道路上の専用線を走行する路面電車は、目の敵にされ感情的思考によって道路渋滞の元凶扱いにされた。63年には軌道敷内の自動車走行が認められ、広電路面電車の表定速度は12km/hだったが5km/hにまで急落し、ただでさえ低かった速達性と定時性はさらに下がった。一時は、路面電車の止む無しとの社内世論も傾いていたが、廃止方針から一転存続させる事にした。そして、71年自動車の軌道敷内乗り入れ禁止を県警に掛け合い、再び勝ち取った(上記画像6参照)。広島市でも、路面電車に代わるものとして、フル規格地下鉄の導入議論が60年代後半から始まり、いくつかの提言案を経て73年に、旧国鉄線の可部線、芸備線、呉線を高架化、複線化、広電宮島線を改軌、高架化させ郊外区間として機能強化させ相互乗り入れを前提としたフル規格地下鉄2本-鯉城線、東西線-の計画-HATSⅡ(下記画像8参照)が73年に提言されていた。この計画は、旗振り役の山田市長の死去(75年1月)、後任のうえき市長こと荒木市長の低い行政手腕、市民、市民団体の反対、旧国鉄の慢性的な赤字などの理由から、実質とん挫した。そして荒木市長は、代替え案として新交通システムのAGT導入に舵を切り直した。

画像8 73年、『広島都市交通研究会』提言によるHATSⅡ(最終地下鉄建設案) 画像 『ウィキペディア広島市営地下鉄』より

画像9 81年、当時の広電石松社長が打ち出した広電独自の路下(地下)電車構想と可部線乗り入れ構想を伝える報道(画像 『広電・路面電車110年の歩み【年表】』より)
新交通システムはまだ都市計画決定されたばかりの祇園新道や市道中筋沼田線が導入路だった事もあり、開業するまで時間がかかり広電は延命することになった。広電が広島市の地下鉄計画を潰しただの、広島市が広電に忖度し過ぎているだのと的外れな批判をする人が多い。馬鹿の極みと言っていい。そうではないと完全否定する論拠の1つとして、上記画像7がある。これは75年に広島駅停留所に上屋を設置するために広島市の補助を求めたものだが、広島市は『前例がない』として門前払いにしている。とても忖度する側の態度ではない。地下鉄計画潰しとは、具体的には広電が市議会議員に計画反対をするようにロビー活動する事だと思うが、当時の情勢でそんな事をして有権者にバレた日には次回選挙の当選が覚束なくなる。70年代から90年代前半までの広島市民の大都市への憧れは尋常ではなかった。その大都市の証明となるのがフル規格地下鉄、100万都市(政令指定都市)、都市高速道路の『大都市3種の神器』だった。広島市民の大多数は、札幌市以外で全廃された路面電車が、未だに都心区間を他都市譲渡のオンボロ車両がトロトロと走り続ける姿を『広島市の恥部』とさえ感じ、苦々しく思っていた。しかも、地下鉄建設は都市発展の起爆剤として神格化されていた時代でもあったので、『地下鉄建設反対=広島市の発展反対』に可変されレッテル貼りをされる。広電の80年代から90年代半ばまでの扱いは、いずれ地下鉄実現するまでの繋ぎ交通機関でしかなかった。路面電車廃止の環状的世論も沈静化し、存続環境こそ整ったがこのままでは先細りしてジリ貧となるのは目に見えていた。80年に広電版軽快電車の3500形が就行し、広電はこれまでの守り一辺倒の経営姿勢から、『攻撃こそ最大の防御なり』と言わんばかりの経営姿勢に転換した。それが、広電石松社長(当時)が発表した81年1月に発表した路下(地下)路面電車構想だ。その詳細を下記にまとめる。
指標9 81年1月広電石松社長が発表した将来構想
①都心地区の部分路下(地下)化 2.8㌖
対象区間-本線銀山町~十日市間(2.3㌖)、宇品線紙屋町~袋町間(0.5㌖)
②国鉄(現JR西日本)可部線と相互乗り入れ
横川駅~可部間を複線化・路面電車専用線に改造し、市内電車と可部線をつなぐ。そして横川
線(横川駅~十日市 1.3㌖)と横川まで延伸する白島線のWアクセスで市中心部(紙屋町
、八丁堀)に乗り入れることで当時深刻だった市北西部の交通渋滞の解消を図る。予算は軽快
電車購入費用も含め約160億円。広電と国鉄線とのレール幅&電圧方式の相違については、
共同運用車両の研究を勉強会レベルで始めている
③平和大通りに新線(平和大通り線)の新設
構想発表当時の状況は、HATSⅡのフル規格地下鉄計画がとん挫し、75年に代案としてAGT導入を検討開始。77年の祇園新道都市計画時には『新交通システムの導入を促進を図る』との付帯意見が盛り込まれた。80年時点では、広島市は新交通システムの調査を進めている最中で、まだ事業化はされておらず極めて計画に近い構想の域を超えていなかった。当時の広島市の都市交通問題の最優先課題は、国道54号線を中心とした市北西部の交通渋滞だったため、このような構想を発表したものと思われる。都心路下(地下)区間計2.8㌖で軟弱地盤の広島市で、約160億円で済む筈はないと思ったりもするが、構想自体面白いものだ。当時、旧西ドイツのシュタットバーンの影響を強く受け、トラムトレイン(鉄道線と軌道線の相互乗り入れ)を80年頃から勉強会で研究する点など斬新だった。実際のトラムトレインは92年ドイツのカールスルーエで実現するのだが、研究自体は84年頃からだったのでもし実現していれば、世界初のトラムトレインとなった可能性もあった。レール幅の相違は3線軌条化で解決するし、複電圧の問題は、可部線は都市間の鉄道路線ではないので、06年に開業した富山ライトレール(現富山地方鉄道富山港線)のように、旧富山港線を鉄道線規格の1500vから軌道線規格の600Vに降圧、鉄道線ホーム高さを軌道線ホーム高さに変えれば出来ない相談ではなかった。

画像10 現在のLRT整備制度の概要(画像 『国土交通省HPLRT等利用ガイダンス』より)
当時の広電石松社長がこんな構想を打ち出した理由は、路面電車廃止の圧力がほぼ収まり、ようやく将来について考える余裕が生まれたことや『古さを誇ってノスタルジアに訴えるだけでは、電車は生き残れない』『中古電車ばかりでは、利用者にそっぽを向かれる』と危機感を感じていたからだそうだ。昭和の時代からの路面公共交通のボトルネック間である紙屋町交差点を路下(地下)区間に移設することで、表定速度向上を図りノロノロ運転や団子運転の解消を目指した。可部線の横川~可部間の複線化させ、軌道線規格に改造し4扉車両2編成を連結運行させ、横川駅で分離、横川線と同駅まで延伸した白島線のダブルアクセスで都心地区に向かう案だった。少ない投資額で、最大限の効果を得る思考のもので非常に理に適っていた。しかし実現はしなかった。実現しなかった理由は以下の通りだ。
指標10 広電の構想が実現しなかった理由
①81年当時、国のLRT整備制度(上記画像10参照)がなかった
81年当時は路面電車整備に係る国の補助制度はなかった。初の制度発足は、16年後の97年の『路面電車走行空間改築事業』からでその後手厚くなり、現在に至っている(上記画像10参照)。令和の現在では、公設民営上下分離方式-公(行政)が、軌道や停留所などのインフラを整備し保有、運営は民間事業者か第3セクターに任せる-が一般化しているが、当時はそんな概念すらなかった。公設公営、民設民営の時代だ。初期コストを抑えた構想ではあるが、路下(地下)化や、可部線複線化と低床ホーム改造など、それなりのコストは必要で広電と旧国鉄だけでは難しく現実的ではない
②旧国鉄の大赤字
複線化前提の計画だが、可部線の安芸長束~緑井間は線路の敷地付近まで民家が迫り、複線化の用地買収も容易ではない。新規の都市計画道路に移設させるのが回り道だが結果的に早道と思うのだが、81年当時の旧国鉄には、そんな余力はなかった。73年のHATSⅡの地下鉄計画案浮上時も経営状況は酷かったがその後、さらに酷くなり首が回るなくなる寸前。80年鈴木善幸内閣は、日本国有鉄道経営再建促進特別措置法を成立させ、再建を取り組む。その7年後に旧国鉄は分割民営化されるのだが、一地方都市の広島市などに投資など夢のまた夢でしかなかったのである
③新交通システム(アストラムライン)計画が動き始めていた
この構想は、民間レベルに留まるもので整備主体など明らかにされていない。81年当時の状況は、77年、都市計画地方審議会にて、祗園新道の都市計画決定にあたって『新交通システムの導入促進を図ること』との付帯意見が付き、翌78年から調査を始めていた。導入路である祇園新道や市道中筋沼田線の整備の進捗待ちではあったが、既に新交通システム導入が決まっていて、今さら他の選定機種を検討するつもりなど広島市には、全くなかった。今でこそLRTは世界の都市交通の主流的な位置づけだが、当時はそうではなくいずれ広島市でも誕生するであろう地下鉄やそれに類似する交通機関開通までの、繋ぎ的な役割が広電路面電車であり、それ以上でもそれ以下でもなかった
構想としては合理的ではあったが上記の理由で、民間企業の構想で終わった。実現した別の世界線を見たい気がするが、実現するにはいくつかの前提条件をクリアしないといけないので間違っても実現しなかっただろう。
『LRT誕生秘話 その8』へ続く
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