前回記事 広島市にはなぜ地下鉄がないのか? その1
【回想その3】
地下鉄を含む地下式鉄・軌道線議論の歴史 その2
広電の路下電車・トラムトレイン構想について

画像1 81年、当時の広電石松社長が打ち出した広電独自の路下電車構想と可部線乗り入れ構想を伝える報道(画像 『広電・路面電車110年の歩み【年表】』より)

画像2 1897年世界初の路面電車(トラム)として軌道が地下に移設されたボストンのグリーンライン(画像 『ウィキペディア・マサチューセッツ湾交通局』より)

画像3 世界的メッセ都市であるハノーバー(人口53.2万人)のシュタットバーン(地下式LRT)の様子。1975年開業で、1日平均21.9万人を運ぶ。高床式(床面高さ100㌢前後)規格で統一されている(画像 ユーチューブ画面撮影より)
伝説の『うえき市長』こと荒木武市長が、HATSⅡのフル規格地下鉄計画の実質廃棄後に舵を切り直した新交通システム(アストラムライン)計画は遅々として進まなかった。77年都市計画地方審議会にて、祗園新道の都市計画決定にあたって『新交通システムの導入促進を図ること』との付帯意見を付ける、78年新交通システムの路線・運行計画、採算性などの調査と祇園新道の用地買収開始後は、亀の歩みの事業進捗度となる。理由は導入路である祇園新道と市道中筋沼田線の整備を用地買収から始めないといけなかったので、その進捗度が亀の歩みを招いた。その間、81年1月に広電が面白い構想を発表した。広電独自の路下電車構想と可部線乗り入れ構想(上記画像1参照)だ。その詳細は以下の通り。
指標2 81年1月広電石松社長が発表した将来構想
①都心地区の部分路下(地下)化 2.8㌖
対象区間-本線銀山町~十日市間(2.3㌖)、宇品線紙屋町~袋町間(0.5㌖)
②国鉄(現JR西日本)可部線と相互乗り入れ
横川駅~可部間を複線化・路面電車専用線に改造し、市内電車と可部線をつなぐ。そして横川
線(横川駅~十日市 1.3㌖)と横川まで延伸する白島線のWアクセスで市中心部(紙屋町
、八丁堀)に乗り入れることで当時深刻だった市北西部の交通渋滞の解消を図る。予算は軽快
電車購入費用も含め約160億円。広電と国鉄線とのレール幅&電圧方式の相違については、
共同運用車両の研究を勉強会レベルで始めている
③平和大通りに新線(平和大通り線)の新設
今でいうところの地下式LRTとトラムトレイン(軌道線と鉄道線の相互乗り入れ)の合わせ技のような構想だ。その前に、当時の時代感覚を振り返る。高度成長期のような路面電車の大逆風は鳴りを潜めたが、それでも『遅く、古く、ダサい乗り物』『いつまでも広電が幅を利かせているようでは、広島市の将来は危うい』『いずれ広島市でも実現するあろう地下鉄が開通するまでの繋ぎ交通機関』の意見が大勢を占めていた。昭和オールウェイズの原風景が広がっていた広島駅前地区と共に、広島市の恥部とまでいう人もいた。日本の60年代から70年代にかけての路面電車廃止の大波は、日本だけではなく欧米先進国共通の現象で、イギリス、フランス、アメリカの先進国では一足早く50年代にはほぼ終わっていた。しかし、いたずらに廃止する事無く路面電車(トラム)を真の中量輸送機関に昇華させることで都市交通問題に対処しようとした国も少数だが存在した。それが旧西ドイツだ。シュタットバーン(上記画像3参照)と命名し、渋滞が酷い都心地区の軌道を路下に移設させ、その他の区間は路面軌道の準専用軌道化-センター・サイドリザベショーン化、軌道の敷石撤去と嵩上げ-、新設軌道化(専用軌道化)、優先信号設置、軌道線高規格車両導入、信用乗車方式採用 を進めた。ドイツ人の賢い点は、今ある膨大なネットワークを廃止せずに、必要な部分だけに改良を加えネットワークの維持を図り、取り込んだところだ。抜群の費用対効果だ。それも一気には行わず、長い年月をかけ段階的に整備する。ドイツの軌道法では最大車体長75㍍、最高速度は路面軌道区間は自動車と同様、地下・新設軌道区間は制限なし。路面電車(トラム)の短所である低い表定速度、輸送量の問題を、長所をそこまで損ねる事無く実現させた。シュタットバーンは、66年のシュトゥットガルトの開業を皮切りに、92年のデュースブルクまで13都市で開業した。~世界の地下鉄データ一覧表~(種別L参照 日本地下鉄協会HP) 当時は路下電車と日本では呼ばれていた。起源は厳密に言うと西ドイツではなくアメリカの都市ボストンのグリーンライン(上記画像2参照)だ。1897年に世界初の路下電車として地下に軌道を移設された。残念ながら、世界的なモーターリゼーションの爆発は第2次世界大戦後だったので続く都市は現れなかった。旧西ドイツの他にはベルギーのブリュッセル(下記画4像参照)やアントワープなども名称こそプレメトロだが、同様のシステムを採用している。両者の相違点はシュタットバーンは最終形だがプレメトロはそうではなく、フル規格地下鉄に移行するまでの前段階の扱いで、輸送量が増えると転換することを前提にしている。

画像4 ベルギーの首都ブリュッセルのプレメトロ。フル規格地下鉄移行まで過渡的な処置として、トンネル断面はフル規格地下鉄サイズで設計された。最初の路下区間は、76年に誕生した(画像 『ウィキペディア・ブリュッセルプレメトロ』より)

画像5 現在のLRT整備制度の概要(画像 『国土交通省HPLRT等利用ガイダンス』より)
当時の広電石松社長がこんな構想を打ち出した理由は、路面電車廃止の圧力がほぼ収まり、ようやく将来について考える余裕が生まれたことや『古さを誇ってノスタルジアに訴えるだけでは、電車は生き残れない』『中古電車ばかりでは、利用者にそっぽを向かれる』と危機感を感じていたからだそうだ。構想内容を精査すると、明らかに当時、世界の主流だった路下(地下)電車の影響を強く受けている。昭和の時代からの路面公共交通のボトルネック間である紙屋町交差点を路下(地下)区間に移設することで、表定速度向上を図りノロノロ運転や団子運転の解消を目指した。可部線の横川~可部間の複線化させ、軌道線規格に改造し4扉車両2編成を連結運行させ、横川駅で分離、横川線と同駅まで延伸した白島線のダブルアクセスで都心地区に向かう案で、当時深刻の度を増していた市北西部の交通渋滞解消を図るというもので、まだ世界で実現していなかったトラムトレインを考えている点など先進的かつ画期的な構想だった。しかしこれも構想倒れに終わった。理由は以下の通り。
指標3 広電の構想が実現しなかった理由
①81年当時、国のLRT整備制度(上記画像5参照)がなかった
81年当時は路面電車整備に係る国の補助制度はなかった。初の制度発足は、16年後の97年の『路面電車走行空間改築事業』からでその後手厚くなり、現在に至っている(上記画像5参照)。令和の現在では、公設民営上下分離方式-公(行政)が、軌道や停留所などのインフラを整備し保有、運営は民間事業者か第3セクターに任せる-が一般化しているが、当時はそんな概念すらなかった。そんなことをしようものなら『一民間企業のために、税金をつぎ込むなど言語道断』とマスコミが騒ぎ始めていただろう。初期コストを抑えた案ではあるが、路下(地下)化や、可部線複線化と低床ホーム改造、など、それなりのコストは必要で広電と旧国鉄だけでは難しく現実的ではない。
②旧国鉄の大赤字
複線化前提の計画だが、可部線の安芸長束~緑井間は線路の敷地付近まで民家が迫り、複線化の用地買収も容易ではない。新規の都市計画道路に移設させるのが回り道だが結果的に早道と思うのだが、81年当時の旧国鉄には、そんな余力はなかった。73年のHATSⅡの地下鉄計画案浮上時も経営状況は酷かったがその後、さらに酷くなり首が回るなくなる寸前。80年鈴木善幸内閣は、日本国有鉄道経営再建促進特別措置法を成立させ、再建を取り組む。その7年後に旧国鉄は分割民営化されるのだが、一地方都市の広島市などに投資など夢のまた夢でしかなかったのである
③新交通システム(アストラムライン)計画が動き始めていた
この構想は、民間レベルに留まるもので整備主体など明らかにされていない。81年当時の状況は、77年、都市計画地方審議会にて、祗園新道の都市計画決定にあたって『新交通システムの導入促進を図ること』との付帯意見が付き、翌78年から調査を始めていた。導入路である祇園新道や市道中筋沼田線の整備の進捗待ちではあったが、既に新交通システム導入が決まっていて、今さら他の選定機種を検討するつもりなど広島市には、全くなかった。今でこそLRTは世界の都市交通の潮流的な位置づけだが、当時はそうではなくいずれ広島市でも誕生するであろう地下鉄やそれに類似する交通機関開通までの、繋ぎ的な役割が広電路面電車であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。
旧西ドイツなどである程度導入されたシュタットバーンだが、90年代以降には完全に下火となった。①部分的な路下(地下)化とはいえそれなりのコストが掛かり、導入都市が限られること ②路下(地下)停留所は、信用乗車方式を採用しているので、改札員がおらず治安上の問題が発生すること ③都心地区の賑わい性創出に貢献しないこと(都市のシンボリック性がない) ④すべて専用線ではないのでそこまで高い速達性を確保出来なかった 以上の理由で地下区間がある新設LRTは、鉄道線を跨ぐ場合や諸般の事情で地上空間に導入路が確保できない場合のみに限られるようになった。
【回想その4】
地下鉄を含む地下式鉄・軌道線議論の歴史 その3
85年発表の広島市の構想

画像6 85(昭和60)年の中国新聞記事 その1(アルベースさんツイッター画像より)

画像7 85(昭和60)年の中国新聞記事 その2(アルベースさんツイッター画像より)
広島市はアストラムラインの建設に向け、亀の歩みではあったが着々と準備を進めていたが、傍から見ると進展しない印象を持った。市議会内でも荒木武市長与党の会派の市議から進捗状況の報告を求める質問が相次いだ。荒木武市長も80年、83年に説明をした。しかし、事業の停滞を感じた市議からの質問は続き、次の市長選に危機感を抱いたため、85年広島市議会建設委員会にて、新交通システム(アストラムライン)など広島市の将来の鉄軌道構想を表明した(上記画像6と同7)。その構想は以下の通り。
指標4 荒木広島市長(当時)が85年市議会建設委員会で表明した構想
(1)新交通システム導入予定区間
紙屋町~高取間 11.8㌖ 建設費-1,100億円 94年開通
(2)東西方向の路線
【ルート】国鉄(現JR)広島駅~八丁堀~紙屋町~十日市~国鉄西広島駅 約5㌖
上記ルート以外にも平和大通り、国道2号線の計3案
【選定機種】フル規格サイズの地下鉄、ミニ地下鉄、路面電車の路下化、新交通システムの
地下線などを検討
【建設費】900億円程度 【着工時期】94年以降
(3)南北方向の路線
【ルート】紙屋町~広島港 6.7㌖ 全線地下式 約660億円
【選定機種】新交通システム方式 【着工時期】
(4)他の路線
【ルート】高取~沼田・石内間 2.9㌖ 建設費160億円
沼田・石内~西部流通団地(商工センター)8.0㌖ 建設費 約900億円
【選定機種】新交通システムの高架式
(5)基本構想の完成時期
概ね30年後の2015年頃 全体建設費は約3,720億円を見込む
構想路線というか、方向性を示し建設計画策定のための議論のたたき台の位置づけだ。注目したいのは、東西方向の路線だ。ルートは、広電路面電車本線区間の相生通、約300㍍ほど隔てた平和大通り、さらに南側の国道2号線の3ルート、選定機種は、フル規格サイズの地下鉄、ミニ地下鉄、路面電車の路下化、新交通システムの地下線の5種類を想定していた。この時点で、HATSⅡのフル規格地下鉄計画は実質廃棄から完全廃棄になった。この都市の1月に運輸省広島陸運局は中国地方交通審議会を開催し、『広島県における公共交通機関の維持・整備に関する計画について』を諮問。広島市の新交通システム計画を盛り込み、晴れて国のお墨付きを得た。その流れからのたたき台となる構想の発表と思われる。ここまで書いてとある疑問が湧いてくる。広島市の新交通システムは、77年の祇園新道都市計画決定時に『新交通システムの導入促進を図ること』との付帯意見がつけられ実質スタート。工事着工が89年なので、約12年の空白期間が発生した。その間、広島市の立場に寄り添えば、その間は導入路の祇園新道と市道中筋沼田線の整備待ちで、他の準備を抜かりなくしていたと言えなくもないが本当にそうだろうか? これは広島時間-小田原評定的な議論だけに熱心で、初動が遅く時間の使い方が恐ろしく下手で、総論賛成で各論反対をする人間が多く、事業が進まない-が当たり前の世界で過ごしているからの見方で、他都市と比較すれば違和感しかない。

画像8 71年答申された北九州市のモノレール3路線(画像 『都市と交通NO.6』より)
指標5 各都市の鉄・軌道線の答申から、工事着工・開業までの期間の比較
①福岡市営地下鉄空港線
71年-都市交通審議会が『福岡市および北九州市を中心とする北部九州都市圏における旅客
輸送力の整備増強に関する基本的計画について』(答申第12号)を運輸大臣に答申
73年-福岡市議会で、都市高速鉄道(地下鉄)を建設し、経営する決議を得る
74年-運輸大臣に、地方鉄道事業免許を申請
75年-起工式を執り行う
81年-1号線(室見~天神間 5.8㌖)開業
『答申から工事着工まで4年、答申から開業まで10年』
②仙台市営地下鉄南北線
75年-運輸省仙台陸運局の仙台地方陸上交通審議会において、泉市(現在の仙台市泉区)七
北田周辺から仙台駅付近を経て長町周辺に至る『地下方式の高速鉄道』の整備を急ぐ
べきであるという答申がされた
78年-仙台市議会は地下鉄の建設を満場一致で可決。地方鉄道事業の免許申請を行う
81年-起工式を執り行う
87年-南北線第1期開業(富沢駅~八乙女駅 13.6㌖)
『答申から工事着工まで6年、答申から開業まで12年』
③北九州高速鉄道小倉線
71年-都市交通審議会が『福岡市および北九州市を中心とする北部九州都市圏における旅客
輸送力の整備増強に関する基本的計画について』(答申第12号)を運輸大臣に答申
都市交通審議会の答申をさらに具体的に検討するために、北九州都市圏交通対策協議
会を発足させる
72年-『都市モノレールの整備の促進に関する法律』が制定
74年-『都市モノレールの整備の促進に関する法律』の適用第1号となる
76年-モノレールを運営する『北九州高速鉄道』を設立。軌道特許を取得
78年-起工式を執り行う
85年-小倉線(小倉駅~企救丘 8.8㌖)開業
『答申から工事着工まで7年、答申から開業まで14年』
④広島高速交通1号線
『導入決定から工事着工まで12年、導入決定から開業まで19年』
広島市のそれは、工事着工まで5年間から8年間も時間を他都市よりも要し、開業では5年間から9年間、他都市よりも要している。厳しい指摘するとその間は無駄な時間を過ごしたという事だ。広島市が工事着工までの12年間掛かっているが、この12年間の月日はもう1つの別の路線建設も十分可能な時間で、個人的にはコスト高の東西方向の路線建設を80年代初頭から中盤にかけ行う時間は十分あった。地下鉄建設は、遅れれば遅れるほど人件費と輸入資材の高騰、安全基準が厳しくなり追加コストが加わり高騰する傾向がある。要は早くつくった者勝ちなのだ。『そんなに時間の余裕が本当にあるのか?』との懐疑的な意見も尤もかと思う。こんなスケジュール感で進めていれば可能だった。75年に前計画のHATSⅡの実質廃棄、76年から77年にかけ新計画の策定と専用基金の創設、78年から79年にかけ陸運局の審議会開催、地方鉄道免許もしくは特許の申請と交付、基本・実地設計などの準備、80年から81年にかけ工事着工、85~86年にかけ東西方向路線の開業、その後は祇園新道や中筋沼田線の整備もある程度進んでいるので、進捗待ちという無駄な時間を過ごすこともなかったと思うのだ。別の観点からも東西方向の路線を最優先すべき理由を語る。広島市以外の地下鉄などの地下式鉄・軌道線やモノレールを整備した都市で、記念すべき第1期線で都市最大駅を結ばない路線を選択したのは広島市だけだ。大体、『都市最大駅~都心中心地区』の路線を選択する。それは公共交通需要最大路線でもあるからだ。しかし、広島市は市北西部の交通渋滞の解消を理由にそれは放棄した。例えば、東西方向の『広島駅~都心中心地区』の路線整備の効果は沿線だけに留まらず、広島市全体、都市圏全体にまで及び、都市成長の原動力になり得るが、市北西部の交通渋滞解消目的だとその効果は沿線のみに限定される。費用対効果がまるで異なる。広島市の都市計画センスに疑問を持つのはこの点だ。広島市の地下開発は他都市よりも高コストなのは有名な話だが、それでも費用対効果や健全財政の意識が低く、財政に余裕があり低コストの時代に建設していればと思うと、広島市の都市計画センスの欠如は残念としか言いようがない。
『広島市にはなぜ地下鉄がないのか? その3』へ続く
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【回想その3】
地下鉄を含む地下式鉄・軌道線議論の歴史 その2
広電の路下電車・トラムトレイン構想について

画像1 81年、当時の広電石松社長が打ち出した広電独自の路下電車構想と可部線乗り入れ構想を伝える報道(画像 『広電・路面電車110年の歩み【年表】』より)

画像2 1897年世界初の路面電車(トラム)として軌道が地下に移設されたボストンのグリーンライン(画像 『ウィキペディア・マサチューセッツ湾交通局』より)

画像3 世界的メッセ都市であるハノーバー(人口53.2万人)のシュタットバーン(地下式LRT)の様子。1975年開業で、1日平均21.9万人を運ぶ。高床式(床面高さ100㌢前後)規格で統一されている(画像 ユーチューブ画面撮影より)
伝説の『うえき市長』こと荒木武市長が、HATSⅡのフル規格地下鉄計画の実質廃棄後に舵を切り直した新交通システム(アストラムライン)計画は遅々として進まなかった。77年都市計画地方審議会にて、祗園新道の都市計画決定にあたって『新交通システムの導入促進を図ること』との付帯意見を付ける、78年新交通システムの路線・運行計画、採算性などの調査と祇園新道の用地買収開始後は、亀の歩みの事業進捗度となる。理由は導入路である祇園新道と市道中筋沼田線の整備を用地買収から始めないといけなかったので、その進捗度が亀の歩みを招いた。その間、81年1月に広電が面白い構想を発表した。広電独自の路下電車構想と可部線乗り入れ構想(上記画像1参照)だ。その詳細は以下の通り。
指標2 81年1月広電石松社長が発表した将来構想
①都心地区の部分路下(地下)化 2.8㌖
対象区間-本線銀山町~十日市間(2.3㌖)、宇品線紙屋町~袋町間(0.5㌖)
②国鉄(現JR西日本)可部線と相互乗り入れ
横川駅~可部間を複線化・路面電車専用線に改造し、市内電車と可部線をつなぐ。そして横川
線(横川駅~十日市 1.3㌖)と横川まで延伸する白島線のWアクセスで市中心部(紙屋町
、八丁堀)に乗り入れることで当時深刻だった市北西部の交通渋滞の解消を図る。予算は軽快
電車購入費用も含め約160億円。広電と国鉄線とのレール幅&電圧方式の相違については、
共同運用車両の研究を勉強会レベルで始めている
③平和大通りに新線(平和大通り線)の新設
今でいうところの地下式LRTとトラムトレイン(軌道線と鉄道線の相互乗り入れ)の合わせ技のような構想だ。その前に、当時の時代感覚を振り返る。高度成長期のような路面電車の大逆風は鳴りを潜めたが、それでも『遅く、古く、ダサい乗り物』『いつまでも広電が幅を利かせているようでは、広島市の将来は危うい』『いずれ広島市でも実現するあろう地下鉄が開通するまでの繋ぎ交通機関』の意見が大勢を占めていた。昭和オールウェイズの原風景が広がっていた広島駅前地区と共に、広島市の恥部とまでいう人もいた。日本の60年代から70年代にかけての路面電車廃止の大波は、日本だけではなく欧米先進国共通の現象で、イギリス、フランス、アメリカの先進国では一足早く50年代にはほぼ終わっていた。しかし、いたずらに廃止する事無く路面電車(トラム)を真の中量輸送機関に昇華させることで都市交通問題に対処しようとした国も少数だが存在した。それが旧西ドイツだ。シュタットバーン(上記画像3参照)と命名し、渋滞が酷い都心地区の軌道を路下に移設させ、その他の区間は路面軌道の準専用軌道化-センター・サイドリザベショーン化、軌道の敷石撤去と嵩上げ-、新設軌道化(専用軌道化)、優先信号設置、軌道線高規格車両導入、信用乗車方式採用 を進めた。ドイツ人の賢い点は、今ある膨大なネットワークを廃止せずに、必要な部分だけに改良を加えネットワークの維持を図り、取り込んだところだ。抜群の費用対効果だ。それも一気には行わず、長い年月をかけ段階的に整備する。ドイツの軌道法では最大車体長75㍍、最高速度は路面軌道区間は自動車と同様、地下・新設軌道区間は制限なし。路面電車(トラム)の短所である低い表定速度、輸送量の問題を、長所をそこまで損ねる事無く実現させた。シュタットバーンは、66年のシュトゥットガルトの開業を皮切りに、92年のデュースブルクまで13都市で開業した。~世界の地下鉄データ一覧表~(種別L参照 日本地下鉄協会HP) 当時は路下電車と日本では呼ばれていた。起源は厳密に言うと西ドイツではなくアメリカの都市ボストンのグリーンライン(上記画像2参照)だ。1897年に世界初の路下電車として地下に軌道を移設された。残念ながら、世界的なモーターリゼーションの爆発は第2次世界大戦後だったので続く都市は現れなかった。旧西ドイツの他にはベルギーのブリュッセル(下記画4像参照)やアントワープなども名称こそプレメトロだが、同様のシステムを採用している。両者の相違点はシュタットバーンは最終形だがプレメトロはそうではなく、フル規格地下鉄に移行するまでの前段階の扱いで、輸送量が増えると転換することを前提にしている。

画像4 ベルギーの首都ブリュッセルのプレメトロ。フル規格地下鉄移行まで過渡的な処置として、トンネル断面はフル規格地下鉄サイズで設計された。最初の路下区間は、76年に誕生した(画像 『ウィキペディア・ブリュッセルプレメトロ』より)

画像5 現在のLRT整備制度の概要(画像 『国土交通省HPLRT等利用ガイダンス』より)
当時の広電石松社長がこんな構想を打ち出した理由は、路面電車廃止の圧力がほぼ収まり、ようやく将来について考える余裕が生まれたことや『古さを誇ってノスタルジアに訴えるだけでは、電車は生き残れない』『中古電車ばかりでは、利用者にそっぽを向かれる』と危機感を感じていたからだそうだ。構想内容を精査すると、明らかに当時、世界の主流だった路下(地下)電車の影響を強く受けている。昭和の時代からの路面公共交通のボトルネック間である紙屋町交差点を路下(地下)区間に移設することで、表定速度向上を図りノロノロ運転や団子運転の解消を目指した。可部線の横川~可部間の複線化させ、軌道線規格に改造し4扉車両2編成を連結運行させ、横川駅で分離、横川線と同駅まで延伸した白島線のダブルアクセスで都心地区に向かう案で、当時深刻の度を増していた市北西部の交通渋滞解消を図るというもので、まだ世界で実現していなかったトラムトレインを考えている点など先進的かつ画期的な構想だった。しかしこれも構想倒れに終わった。理由は以下の通り。
指標3 広電の構想が実現しなかった理由
①81年当時、国のLRT整備制度(上記画像5参照)がなかった
81年当時は路面電車整備に係る国の補助制度はなかった。初の制度発足は、16年後の97年の『路面電車走行空間改築事業』からでその後手厚くなり、現在に至っている(上記画像5参照)。令和の現在では、公設民営上下分離方式-公(行政)が、軌道や停留所などのインフラを整備し保有、運営は民間事業者か第3セクターに任せる-が一般化しているが、当時はそんな概念すらなかった。そんなことをしようものなら『一民間企業のために、税金をつぎ込むなど言語道断』とマスコミが騒ぎ始めていただろう。初期コストを抑えた案ではあるが、路下(地下)化や、可部線複線化と低床ホーム改造、など、それなりのコストは必要で広電と旧国鉄だけでは難しく現実的ではない。
②旧国鉄の大赤字
複線化前提の計画だが、可部線の安芸長束~緑井間は線路の敷地付近まで民家が迫り、複線化の用地買収も容易ではない。新規の都市計画道路に移設させるのが回り道だが結果的に早道と思うのだが、81年当時の旧国鉄には、そんな余力はなかった。73年のHATSⅡの地下鉄計画案浮上時も経営状況は酷かったがその後、さらに酷くなり首が回るなくなる寸前。80年鈴木善幸内閣は、日本国有鉄道経営再建促進特別措置法を成立させ、再建を取り組む。その7年後に旧国鉄は分割民営化されるのだが、一地方都市の広島市などに投資など夢のまた夢でしかなかったのである
③新交通システム(アストラムライン)計画が動き始めていた
この構想は、民間レベルに留まるもので整備主体など明らかにされていない。81年当時の状況は、77年、都市計画地方審議会にて、祗園新道の都市計画決定にあたって『新交通システムの導入促進を図ること』との付帯意見が付き、翌78年から調査を始めていた。導入路である祇園新道や市道中筋沼田線の整備の進捗待ちではあったが、既に新交通システム導入が決まっていて、今さら他の選定機種を検討するつもりなど広島市には、全くなかった。今でこそLRTは世界の都市交通の潮流的な位置づけだが、当時はそうではなくいずれ広島市でも誕生するであろう地下鉄やそれに類似する交通機関開通までの、繋ぎ的な役割が広電路面電車であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。
旧西ドイツなどである程度導入されたシュタットバーンだが、90年代以降には完全に下火となった。①部分的な路下(地下)化とはいえそれなりのコストが掛かり、導入都市が限られること ②路下(地下)停留所は、信用乗車方式を採用しているので、改札員がおらず治安上の問題が発生すること ③都心地区の賑わい性創出に貢献しないこと(都市のシンボリック性がない) ④すべて専用線ではないのでそこまで高い速達性を確保出来なかった 以上の理由で地下区間がある新設LRTは、鉄道線を跨ぐ場合や諸般の事情で地上空間に導入路が確保できない場合のみに限られるようになった。
【回想その4】
地下鉄を含む地下式鉄・軌道線議論の歴史 その3
85年発表の広島市の構想

画像6 85(昭和60)年の中国新聞記事 その1(アルベースさんツイッター画像より)

画像7 85(昭和60)年の中国新聞記事 その2(アルベースさんツイッター画像より)
広島市はアストラムラインの建設に向け、亀の歩みではあったが着々と準備を進めていたが、傍から見ると進展しない印象を持った。市議会内でも荒木武市長与党の会派の市議から進捗状況の報告を求める質問が相次いだ。荒木武市長も80年、83年に説明をした。しかし、事業の停滞を感じた市議からの質問は続き、次の市長選に危機感を抱いたため、85年広島市議会建設委員会にて、新交通システム(アストラムライン)など広島市の将来の鉄軌道構想を表明した(上記画像6と同7)。その構想は以下の通り。
指標4 荒木広島市長(当時)が85年市議会建設委員会で表明した構想
(1)新交通システム導入予定区間
紙屋町~高取間 11.8㌖ 建設費-1,100億円 94年開通
(2)東西方向の路線
【ルート】国鉄(現JR)広島駅~八丁堀~紙屋町~十日市~国鉄西広島駅 約5㌖
上記ルート以外にも平和大通り、国道2号線の計3案
【選定機種】フル規格サイズの地下鉄、ミニ地下鉄、路面電車の路下化、新交通システムの
地下線などを検討
【建設費】900億円程度 【着工時期】94年以降
(3)南北方向の路線
【ルート】紙屋町~広島港 6.7㌖ 全線地下式 約660億円
【選定機種】新交通システム方式 【着工時期】
(4)他の路線
【ルート】高取~沼田・石内間 2.9㌖ 建設費160億円
沼田・石内~西部流通団地(商工センター)8.0㌖ 建設費 約900億円
【選定機種】新交通システムの高架式
(5)基本構想の完成時期
概ね30年後の2015年頃 全体建設費は約3,720億円を見込む
構想路線というか、方向性を示し建設計画策定のための議論のたたき台の位置づけだ。注目したいのは、東西方向の路線だ。ルートは、広電路面電車本線区間の相生通、約300㍍ほど隔てた平和大通り、さらに南側の国道2号線の3ルート、選定機種は、フル規格サイズの地下鉄、ミニ地下鉄、路面電車の路下化、新交通システムの地下線の5種類を想定していた。この時点で、HATSⅡのフル規格地下鉄計画は実質廃棄から完全廃棄になった。この都市の1月に運輸省広島陸運局は中国地方交通審議会を開催し、『広島県における公共交通機関の維持・整備に関する計画について』を諮問。広島市の新交通システム計画を盛り込み、晴れて国のお墨付きを得た。その流れからのたたき台となる構想の発表と思われる。ここまで書いてとある疑問が湧いてくる。広島市の新交通システムは、77年の祇園新道都市計画決定時に『新交通システムの導入促進を図ること』との付帯意見がつけられ実質スタート。工事着工が89年なので、約12年の空白期間が発生した。その間、広島市の立場に寄り添えば、その間は導入路の祇園新道と市道中筋沼田線の整備待ちで、他の準備を抜かりなくしていたと言えなくもないが本当にそうだろうか? これは広島時間-小田原評定的な議論だけに熱心で、初動が遅く時間の使い方が恐ろしく下手で、総論賛成で各論反対をする人間が多く、事業が進まない-が当たり前の世界で過ごしているからの見方で、他都市と比較すれば違和感しかない。

画像8 71年答申された北九州市のモノレール3路線(画像 『都市と交通NO.6』より)
指標5 各都市の鉄・軌道線の答申から、工事着工・開業までの期間の比較
①福岡市営地下鉄空港線
71年-都市交通審議会が『福岡市および北九州市を中心とする北部九州都市圏における旅客
輸送力の整備増強に関する基本的計画について』(答申第12号)を運輸大臣に答申
73年-福岡市議会で、都市高速鉄道(地下鉄)を建設し、経営する決議を得る
74年-運輸大臣に、地方鉄道事業免許を申請
75年-起工式を執り行う
81年-1号線(室見~天神間 5.8㌖)開業
『答申から工事着工まで4年、答申から開業まで10年』
②仙台市営地下鉄南北線
75年-運輸省仙台陸運局の仙台地方陸上交通審議会において、泉市(現在の仙台市泉区)七
北田周辺から仙台駅付近を経て長町周辺に至る『地下方式の高速鉄道』の整備を急ぐ
べきであるという答申がされた
78年-仙台市議会は地下鉄の建設を満場一致で可決。地方鉄道事業の免許申請を行う
81年-起工式を執り行う
87年-南北線第1期開業(富沢駅~八乙女駅 13.6㌖)
『答申から工事着工まで6年、答申から開業まで12年』
③北九州高速鉄道小倉線
71年-都市交通審議会が『福岡市および北九州市を中心とする北部九州都市圏における旅客
輸送力の整備増強に関する基本的計画について』(答申第12号)を運輸大臣に答申
都市交通審議会の答申をさらに具体的に検討するために、北九州都市圏交通対策協議
会を発足させる
72年-『都市モノレールの整備の促進に関する法律』が制定
74年-『都市モノレールの整備の促進に関する法律』の適用第1号となる
76年-モノレールを運営する『北九州高速鉄道』を設立。軌道特許を取得
78年-起工式を執り行う
85年-小倉線(小倉駅~企救丘 8.8㌖)開業
『答申から工事着工まで7年、答申から開業まで14年』
④広島高速交通1号線
『導入決定から工事着工まで12年、導入決定から開業まで19年』
広島市のそれは、工事着工まで5年間から8年間も時間を他都市よりも要し、開業では5年間から9年間、他都市よりも要している。厳しい指摘するとその間は無駄な時間を過ごしたという事だ。広島市が工事着工までの12年間掛かっているが、この12年間の月日はもう1つの別の路線建設も十分可能な時間で、個人的にはコスト高の東西方向の路線建設を80年代初頭から中盤にかけ行う時間は十分あった。地下鉄建設は、遅れれば遅れるほど人件費と輸入資材の高騰、安全基準が厳しくなり追加コストが加わり高騰する傾向がある。要は早くつくった者勝ちなのだ。『そんなに時間の余裕が本当にあるのか?』との懐疑的な意見も尤もかと思う。こんなスケジュール感で進めていれば可能だった。75年に前計画のHATSⅡの実質廃棄、76年から77年にかけ新計画の策定と専用基金の創設、78年から79年にかけ陸運局の審議会開催、地方鉄道免許もしくは特許の申請と交付、基本・実地設計などの準備、80年から81年にかけ工事着工、85~86年にかけ東西方向路線の開業、その後は祇園新道や中筋沼田線の整備もある程度進んでいるので、進捗待ちという無駄な時間を過ごすこともなかったと思うのだ。別の観点からも東西方向の路線を最優先すべき理由を語る。広島市以外の地下鉄などの地下式鉄・軌道線やモノレールを整備した都市で、記念すべき第1期線で都市最大駅を結ばない路線を選択したのは広島市だけだ。大体、『都市最大駅~都心中心地区』の路線を選択する。それは公共交通需要最大路線でもあるからだ。しかし、広島市は市北西部の交通渋滞の解消を理由にそれは放棄した。例えば、東西方向の『広島駅~都心中心地区』の路線整備の効果は沿線だけに留まらず、広島市全体、都市圏全体にまで及び、都市成長の原動力になり得るが、市北西部の交通渋滞解消目的だとその効果は沿線のみに限定される。費用対効果がまるで異なる。広島市の都市計画センスに疑問を持つのはこの点だ。広島市の地下開発は他都市よりも高コストなのは有名な話だが、それでも費用対効果や健全財政の意識が低く、財政に余裕があり低コストの時代に建設していればと思うと、広島市の都市計画センスの欠如は残念としか言いようがない。
『広島市にはなぜ地下鉄がないのか? その3』へ続く



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