封入体筋炎患者闘病記

 封入体筋炎患者のヒロです。病歴は2023年で満15年、16年目に入りました。在宅勤務の仕事とリハビリの日々を送り、細やかながらも家族3人で暮らしています。ブログ記事は闘病記と広島地元ネタ、社会保障などの時事ネタ中心です。希少疾患の封入体筋炎の周知が目的です。関心があれば、ツイッターなどでご紹介していただければ幸いです。疾患関係で直コメントが苦手の方は、ツイッターのダイレクトメールを利用してください。封入体筋炎の闘病史は各進行段階の症状や生活障害、必要な社会保障制度等をまとめています。良ければ参考にしてください。最新の封入体筋炎の状況は『近況について色々と』、取り組んでいるリハビリについては『20年春~夏 筋疾患(封入体筋炎)リハビリ』にて素人の体感目線で書いています。モバイル版で読みにくい場合は、PC版に転換してからお読みください。

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広島の都市交通 シリーズ記事 LRT誕生秘話
その1 その2
 その3 その4
 その5 その6

【誕生経緯その11】
惰眠を貪っていた日本
100%超低床車両開発に乗り遅れた・・・
 
  
画像1 車両開発空白期を埋めるべく8社共同で開発された軽快電車こと広電3500形車両(画像 『ウィキペディア・軽快電車』より)

 80年代から90年代初めにかけ、欧州や北米の国-ドイツ、フランス、イギリス、カナダ、アメリカ-でLRTがそろそろ都市交通の主流になりかけていた頃、日本はまだ惰眠を貪っていた。LRTはおろか路面電車に対する国の何かしらの補助制度はなく、同じ中量輸送機関として72年に『都市モノレール整備の促進に関する法律』が国会で成立し、74年にインフラ補助制度(日本交通計画協会)が創設され、75年には新たな交通システムとしてモノレールの他にAGTも加えられた。フル規格地下鉄を必要としない需要の路線には、モノレールやAGTを整備するのが国の都市交通の指針となる。北米や欧州の国で注目を集めようとしていた新しい路面電車システムは、歯牙にもかけられなかった。日本の路面電車は、他の欧米先進国同様に、モーターリゼーションの大波で道路渋滞の元凶扱いをされ、多くの都市で60年代から70年代にかけ廃止されたが、全国22都市22事業者の路線が残り、旧共産圏の国、旧西ドイツ以外では、最多の残存数だった。理由としては、欧州各国よりも10年程度遅れモーターリゼーションが押し寄せ、廃止される時期も遅れた事、存続を議論している最中に第1次石油ショック(73~77年)が起きて、過度なモーターリゼーション、その弊害について立ち止まり考えるようになり、公共交通の再評価が行われ廃止予定の路面電車の存続が決まった事も大きかった。存続が決まったとは言え、人口のドーナツ化現象が進み、都市構造が大きく変わる中、一部の郊外路線を持つ事業者以外は、明るい将来はないと言えた。軌道や停留所などのインフラ部、車両や車庫などのインフラ外部に対する国庫補助制度は皆無で、当時は公共交通は社会全体で支える生活インフラの概念の欠片などなく22事業者の内15事業者が民間事業者だったので、補助制度を創設した日には、『税金を営利企業のためにつぎ込むなど言語道断』と批判されるのは目に見えていた。それ以上に、少なくとも日本では、路面電車は既に使命を終えた交通機関扱いだった。正に生かさず、殺さずの生殺し状態だったと言える。しかし、
18都市22事業者が国内で路面電車を運行している現実も無視するわけにはいかなかった。60年代初頭から将来性がない路面電車車両の開発は途絶え、新造車両の置き換えはおろか、故障した老朽車両の部品の調達すらもままならない状況が生まれていた。それを解消すべく、日本鉄道技術協会が音頭を取り、日本船舶振興会の支援を受けて技術空白期を埋め、省エネや路面電車復権のために川崎重工業東急車輌製造アルナ工機三菱電機東洋電機富士電機住友金属工業・日本エヤーブレーキ(現ナブテスコ)が参加し、それぞれが構体や機器類を分担して製造し、組立を川崎重工業兵庫工場で実施した。78年に開発委員会が発足し、参加企業が分担しあい80年夏に試作車両として完成したのは広島電鉄3500形(上記画像1参照)と長崎電機軌道2000形(下記画像2参照)だった。これまでの路面電車車両にはない新機軸が盛り込まれた。チョッパ制御、直角カルダン駆動、回生ブレーキ、弾性車輪など最新の鉄道車両ではスタンダードとなりつつあった機能が加わった。一枚窓のデザインは、これまでの車両イメージを刷新し、路面電車のイメージ向上に一役を買った。名前も『軽快電車』と名付けられた。ただ、広島電鉄3500形は、元々2車体連接車両だったものを広島電鉄の強い要望で、3車体連接車両に変更された。変更された段階では、既に完成した機器類の構成変更が困難な状況でそのまま押し切ったので、就行後、幾度となく不具合が生じ、営業車両としては欠陥品だった。


画像2 広島電鉄3500形と共に8社共同で開発された80年に就行した軽快電車こと長崎電気軌道2000形。こちらは、大きなトラブルが起きず14年まで運行された(画像 『ウィキペディア・長崎電気軌道2000形電車』より)

 しかし同車両で得たデータはその後の広島電鉄700形、800形、3700形の車両開発に反映され、日本の路面電車車両開発の再開、その後の発展に寄与した実績は小さくはなかった。しかし、この軽快電車の共同開発も虫の息の事業者に、死なない程度に水と餌を与えたに過ぎなかった。せっかく、20年間の車両開発空白期を埋めた取り組みもその後の発展にはつながらなかった。というのは、80年代からドイツでは、ドイツ公共輸送事業者協会を中心に100%超低床車両開発が始まっていた。それに触発されたドイツ、イタリア、フランス、スイスの車両メーカーも動き始めていた。その甲斐もあり、80年代半ばには部分低床車両、80年代後半には半(70%)低床車両の実用化、90年前後には100%超低床車両の試作車両、90年代半ばからは100%超低床車両の実用化に成功した。日本のメーカーに寄り添う意見を言うと、80年代の世界の市場は欧州ではなく北米市場を指していた。日本の軽快電車開発に参画していた東急車輌製造は、ボーイング社の下請けとは言え『アメリカ標準型路面電車』の開発に加わり、ボストンやサンフランシスコなどに納車していた事、日本の元市場が小さく、補助制度がないので発展性がない事、欧州の新たな動きを軽視していた事もなり、100%超低床車両開発の流れに完全に乗り遅れた。
半(70%)低床車両の開発は既存技術の応用でも可能だが、100%超低床車両開発は、独立車輪式台車などの新たな技術開発なくして不可能なので難しい。日本の国産100%超低床車両開発は、その乗り遅れを挽回すべく、01年に国土交通省の支援の元、近畿車輛三菱重工業東洋電機製造など8社が組合を設立し、開発した05年の広島電鉄5100形就行まで待たなければならない。この10年以上の遅れが、世界の100%超低床車両の市場に未だに十分入り込めない最大理由になっている。日本の鉄道車両メーカーは自動車メーカーと共にグローバル市場で戦える数少ないメーカーだが、LRT分野に限ればかなり遅れを取っている。日本同様にフランスも約20年にも及ぶ路面電車車両開発空白期があり、78年にフランス標準型路面電車を開発する際には、空白期が仇となり自国の技術だけでは開発出来なかったが、その後はアルストム社は半(70%)低床車両、100%超低床車両を開発し、現在では世界2位の巨大企業に成長した。日本は都市交通事業は、独立採算性が基本で、運行は運賃収入などで殆どカバーするのが大原則。設備投資の新型車両の投入も、国の補助など当時はなかった。大手民鉄や旧国鉄のように経営規模が大きいとか赤字でいる事がある程度許容される公営地下鉄であれば、車両置き換え期に一気に数十編成単位の投入もあるが、日本の路面電車を運営する事業者は、経営規模が小さく辛うじて黒字を出す状態で、そんなことは期待出来ない。当然、市場は小さく、開発に投じた原資を回収ししかもそこから大きな利益を得るなど不可能な話。欧州各国ではそうではなく、既に営利事業ではなくなり、利用者負担の行政サービスに変化していたので、行政の潤沢な補助で都市交通を手掛ける運営事業者の公営企業、運営を委託した民間事業者はに設備投資の負担を強いる事無く、小都市であっても数年の短期間で数十編成の車両置き換えが一気に進み、80年代や90年代当時、今ほどLRTが普及していなくとも導入検討都市が多かったので、現時点の市場、市場拡大の未来などから開発投資分を回収し、その後の大きな利益を得る土壌があった点が分かれ道になったと言える。

【誕生経緯その12】
広島電鉄の独自構想について
路下(地下)路面電車構想


画像3(左) 埋め立てられた広島城外堀跡(現相生通)に軌道を施設した
画像4(右) まだ電車専用橋だった相生橋の様子(画像 『広電の歴史』より)



画像5 自動車保有台数の推移(画像 『ヤフーニュース』より)


画像6(左) 自動車の軌道敷内乗り入れ禁止の検討の報道(71年)
画像7(右) 広島駅停留所の屋根設置の陳情の報道(75年) 画像共に『広電・路面電車110年の歩み【年表】』より 

 この考察では今なお、日本国内では最大のネットワークと利用者数を誇る広島電鉄こと広電について触れる。広電の前身となる広島電気軌道株式会社は、1910年に設立された。当初は、全区間専用軌道で建設するつもりだったが、広島市議会より建設する道路に軌道を施設してはどうかの提案があったが、これでは用地買収費が嵩み採算が確保出来ないので、工事費負担だけにして欲しいと陳情を出した。それが聞き入れられ、1912年現在の本線・広島駅~相生橋間、白島線・八丁堀~白島間がそれぞれ開業した。上記画像3と同4はその当時の様子だ。広島城の外堀を埋立てその跡地に道路を建設し、そこに軌道を施設した。17年に現在の広島ガスの前身広島瓦斯と合併し、広島瓦斯軌道となった。順次、路線が延長され現在の路線形態は、54年の江波線舟入南町~江波間の開業で完成した。呉三津田~本通間、宮島線宮島口~岩国方面間、横川~安芸高田市甲立間の構想があったが実現しなかった。郊外延伸ではないが、戦後復興計画の一環として吉島方面、観音方面の路線新設、稲荷町~広島駅間の駅前通り移設、西広島駅~土橋間の平和大通り(西広島駅~小網町)への移設、江波線の三菱重工江波工場までの延伸なども盛り込まれたが、戦後すぐは原爆投下後の回復に手間取り、移設予定の道路が開通した頃には、モーターリゼーションが押し寄せ、廃止が取り沙汰されていたので、それどころではなくなり、自然消滅した。駅前通りの移設は広電駅前大橋線、平和大通りの移設は広電平和大通り線として後年、復活し広島市の計画路線に現在は盛り込まれている。日本も戦後復興期に入り、高度経済成長期に入ると、御多分に漏れずモーターリゼーションが押し寄せた(上記画像5参照)。時期的には60年代前半からで、自動車の普及に道路整備が追い付かず、朝夕のラッシュ時は交通マヒの様子を呈した。道路上の専用線を走行する路面電車は、目の敵にされ感情的思考によって道路渋滞の元凶扱いにされた。63年には軌道敷内の自動車走行が認められ、広電路面電車の表定速度は12km/hだったが5km/hにまで急落し、ただでさえ低かった速達性と定時性はさらに下がった。一時は、路面電車の止む無しとの社内世論も傾いていたが、廃止方針から一転存続させる事にした。そして、71年自動車の軌道敷内乗り入れ禁止を県警に掛け合い、再び勝ち取った(上記画像6参照)。広島市でも、路面電車に代わるものとして、フル規格地下鉄の導入議論が60年代後半から始まり、いくつかの提言案を経て73年に、旧国鉄線の可部線、芸備線、呉線を高架化、複線化、広電宮島線を改軌、高架化させ郊外区間として機能強化させ相互乗り入れを前提としたフル規格地下鉄2本-鯉城線、東西線-の計画-HATSⅡ(下記画像8参照)が73年に提言されていた。この計画は、旗振り役の山田市長の死去(75年1月)、後任のうえき市長こと荒木市長の低い行政手腕、市民、市民団体の反対、旧国鉄の慢性的な赤字などの理由から、実質とん挫した。そして荒木市長は、代替え案として新交通システムのAGT導入に舵を切り直した。


画像8 
73年、『広島都市交通研究会』提言によるHATSⅡ(最終地下鉄建設案) 画像 『ウィキペディア広島市営地下鉄』より


画像9 81年、当時の広電石松社長が打ち出した広電独自の路下(地下)電車構想と可部線乗り入れ構想を伝える報道(画像 『広電・路面電車110年の歩み【年表】』より)

 新交通システムはまだ都市計画決定されたばかりの祇園新道や市道中筋沼田線が導入路だった事もあり、開業するまで時間がかかり広電は延命することになった。広電が広島市の地下鉄計画を潰しただの、広島市が広電に忖度し過ぎているだのと的外れな批判をする人が多い。馬鹿の極みと言っていい。そうではないと完全否定する論拠の1つとして、上記画像7がある。これは75年に広島駅停留所に上屋を設置するために広島市の補助を求めたものだが、広島市は『前例がない』として門前払いにしている。とても忖度する側の態度ではない。地下鉄計画潰しとは、具体的には広電が市議会議員に計画反対をするようにロビー活動する事だと思うが、当時の情勢でそんな事をして有権者にバレた日には次回選挙の当選が覚束なくなる。70年代から90年代前半までの広島市民の大都市への憧れは尋常ではなかった。その大都市の証明となるのがフル規格地下鉄、100万都市(政令指定都市)、都市高速道路の『大都市3種の神器』だった。広島市民の大多数は、札幌市以外で全廃された路面電車が、未だに都心区間を他都市譲渡のオンボロ車両がトロトロと走り続ける姿を『広島市の恥部』とさえ感じ、苦々しく思っていた。しかも、地下鉄建設は都市発展の起爆剤として神格化されていた時代でもあったので、『地下鉄建設反対=広島市の発展反対』に可変されレッテル貼りをされる。広電の80年代から90年代半ばまでの扱いは、いずれ地下鉄実現するまでの繋ぎ交通機関でしかなかった。路面電車廃止の環状的世論も沈静化し、存続環境こそ整ったがこのままでは先細りしてジリ貧となるのは目に見えていた。80年に広電版軽快電車の3500形が就行し、広電はこれまでの守り一辺倒の経営姿勢から、『攻撃こそ最大の防御なり』と言わんばかりの経営姿勢に転換した。それが、広電石松社長(当時)が発表した81年1月に発表した路下(地下)路面電車構想だ。その詳細を下記にまとめる。

指標9 81年1月広電石松社長が発表した将来構想
①都心地区の部分路下(地下)化 2.8㌖
 対象区間-本線銀山町~十日市間(2.3㌖)、宇品線紙屋町~袋町間(0.5㌖) 
②国鉄(現JR西日本)可部線と相互乗り入れ

 横川駅~可部間を複線化・路面電車専用線に改造し、市内電車と可部線をつなぐ。そして横川
 
線(横川駅~十日市 1.3㌖)と横川まで延伸する白島線のWアクセスで市中心部(紙屋町
 
、八丁堀)に乗り入れることで当時深刻だった市北西部の交通渋滞の解消を図る。予算は軽快
 
電車購入費用も含め約160億円。広電と国鉄線とのレール幅&電圧方式の相違については、
 
運用車両の研究を勉強会レベルで始めている
③平和大通りに新線(平和大通り線)の新設

 構想発表当時の状況は、HATSⅡのフル規格地下鉄計画がとん挫し、75年に代案としてAGT導入を検討開始。77年の祇園新道都市計画時には『新交通システムの導入を促進を図る』との付帯意見が盛り込まれた。80年時点では、広島市は新交通システムの調査を進めている最中で、まだ事業化はされておらず極めて計画に近い構想の域を超えていなかった。当時の広島市の都市交通問題の最優先課題は、国道54号線を中心とした市北西部の交通渋滞だったため、このような構想を発表したものと思われる。都心路下(地下)区間計2.8㌖で軟弱地盤の広島市で、約160億円で済む筈はないと思ったりもするが、構想自体面白いものだ。当時、旧西ドイツのシュタットバーンの影響を強く受け、トラムトレイン(鉄道線と軌道線の相互乗り入れ)を80年頃から勉強会で研究する点など斬新だった。実際のトラムトレインは92年ドイツのカールスルーエで実現するのだが、研究自体は84年頃からだったのでもし実現していれば、世界初のトラムトレインとなった可能性もあった。レール幅の相違は3線軌条化で解決するし、複電圧の問題は、可部線は都市間の鉄道路線ではないので、06年に開業した富山ライトレール(現富山地方鉄道富山港線)のように、旧富山港線を鉄道線規格の1500vから軌道線規格の600Vに降圧、鉄道線ホーム高さを軌道線ホーム高さに変えれば出来ない相談ではなかった。


画像10 
現在のLRT整備制度の概要(画像 『国土交通省HPLRT等利用ガイダンス』より)

 
当時の広電石松社長がこんな構想を打ち出した理由は、路面電車廃止の圧力がほぼ収まり、ようやく将来について考える余裕が生まれたことや『古さを誇ってノスタルジアに訴えるだけでは、電車は生き残れない』『中古電車ばかりでは、利用者にそっぽを向かれる』と危機感を感じていたからだそうだ。昭和の時代からの路面公共交通のボトルネック間である紙屋町交差点を路下(地下)区間に移設することで、表定速度向上を図りノロノロ運転や団子運転の解消を目指した。可部線の横川~可部間の複線化させ、軌道線規格に改造し4扉車両2編成を連結運行させ、横川駅で分離、横川線と同駅まで延伸した白島線のダブルアクセスで都心地区に向かう案だった。少ない投資額で、最大限の効果を得る思考のもので非常に理に適っていた。しかし実現はしなかった。実現しなかった理由は以下の通りだ。

指標10 広電の構想が実現しなかった理由
①81年当時、国のLRT整備制度(上記画像10参照)がなかった
 81年当時は路面電車整備に係る国の補助制度はなかった。初の制度発足は、16年後の97年の『路面電車走行空間改築事業』からでその後手厚くなり、現在に至っている(上記画像10参照)。令和の現在では、公設民営上下分離方式-公(行政)が、軌道や停留所などのインフラを整備し保有、運営は民間事業者か第3セクターに任せる-が一般化しているが、当時はそんな概念すらなかった。公設公営、民設民営の時代だ。初期コストを抑えた構想ではあるが、路下(地下)化や、可部線複線化と低床ホーム改造など、それなりのコストは必要で広電と旧国鉄だけでは難しく現実的ではない

②旧国鉄の大赤字
 複線化前提の計画だが、可部線の安芸長束~緑井間は線路の敷地付近まで民家が迫り、複線化の用地買収も容易ではない。新規の都市計画道路に移設させるのが回り道だが結果的に早道と思うのだが、81年当時の旧国鉄には、そんな余力はなかった。73年のHATSⅡの地下鉄計画案浮上時も経営状況は酷かったがその後、さらに酷くなり首が回るなくなる寸前。80年鈴木善幸内閣は、日本国有鉄道経営再建促進特別措置法を成立させ、再建を取り組む。その7年後に旧国鉄は分割民営化されるのだが、一地方都市の広島市などに投資など夢のまた夢でしかなかったのである

③新交通システム(アストラムライン)計画が動き始めていた
 この構想は、民間レベルに留まるもので整備主体など明らかにされていない。81年当時の状況は、77年、都市計画地方審議会にて、祗園新道の都市計画決定にあたって『新交通システムの導入促進を図ること』との付帯意見が付き、翌78年から調査を始めていた。導入路である祇園新道や市道中筋沼田線の整備の進捗待ちではあったが、既に新交通システム導入が決まっていて、今さら他の選定機種を検討するつもりなど広島市には、全くなかった。今でこそLRTは世界の都市交通の主流的な位置づけだが、当時はそうではなくいずれ広島市でも誕生するであろう地下鉄やそれに類似する交通機関開通までの、繋ぎ的な役割が広電路面電車であり、それ以上でもそれ以下でもなかった

 構想としては合理的ではあったが上記の理由で、民間企業の構想で終わった。実現した
別の世界線を見たい気がするが、実現するにはいくつかの前提条件をクリアしないといけないので間違っても実現しなかっただろう。

『LRT誕生秘話 その8』へ続く

お手数ですが、ワンリックよろしくお願いします

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カテゴリー記事 時事考察 その他

【考察その1】
岸田政権の異次元の少子化対策に物申す その1
やらないよりはマシだが、少子化脱却は絶対に無理!


画像1 日本の出生数と合計特殊出生率の推移(画像 『出生数、合計特殊出生率の推移』より)


画像2 世界各国の実質賃金97年を100とした場合の16年の水準(画像 『実質賃金指数の推移の国際比較』より)


画像3 等価可処分所得の年次推移(画像 『家計所得の分析に関する報告書』より)

 日本の少子化が止まらない。第2次ベビーブーム(71~74年)には出生数200万人を超え、合計特殊出生率が2.0を余裕で超えていたが、年々下がり始め(上記画像1参照)、21年の合計特殊出生率はコロナ禍も災いし、1.30人、22年の出生数は80万人割れの79.9万人と想定よりも10年早い少子化に岸田首相も『ミスター検討マン』の汚名を返上し、今後3年間は集中対策期間と位置づけ、ご本人の言葉を借りると『異次元の少子化対策』を打ち出すと珍しくヤル気満々だ。先日明らかになった対策をまとめてみる。

指標1 岸田首相が打ち出した異次元の子育て支援策骨子
【子育て支援策】
①児童手当の拡充では、所得制限を撤廃。支給期間を現在の中学生から高校卒業までに延長し、多子世帯への増額も検討する。支給額などは骨太の方針までに結論を得る

②保育士の配置基準を見直し、1歳児は『子ども5人に保育士1人』、4~5歳児は『25人に1人』とすることで、より手厚い保育をめざす。保育サービスの拡充では、専業主婦家庭など就労要件を問わず時間単位の保育所利用などを可能とする『こども誰でも通園制度(仮称)』の創設を盛り込んだ

③子ども医療費助成に関しては、小学生以上の医療費を助成する自治体に対する国庫負担金の減額措置は廃止し、地方の取り組みを後押しする。学校給食の無償化への『課題の整理』も明記

④高等教育無償化では、返済不要の給付型奨学金の対象を拡大。出産費用については、将来的な公的医療保険の導入を検討する。男性の育児参加を促すため『産後パパ育休』を念頭に、手取りが実質的に10割保障されるよう育休中の給付金を増額

【財源】(まだ本決まりではないらしい)

①一律、社会保険料を毎月500円(年間6,000円)の上乗せし、給与から天引
②16~18歳の子どもがいる家庭の控除廃止
③新たな財源は一般会計に入れず、特別会計『こども金庫』を創設し管理する

 子育て支援策が拡充されるのは悪い事ではなく、基本ウエルカムだが、この支援策程度で異次元とドヤ顔されても冷めた笑いしか起こらない。掛け声倒れの子育て支援策の内容も批判されているが、それ以上に財源対策も批判されている。16歳から19歳未満の子どもを扶養している家庭は、1子につき38万円所得から控除されている。仮にこれが廃止されると、実質増税となり可処分所得-税金や社会保険料を差し引いた手取り額-が減少し、四半世紀ぶりに訪れた賃上げマインドに冷水を浴びせ、却って少子化が加速する懸念があるとして、野党、連合は当然として経済界からも疑問の声が挙がっている。経済界が子育て支援策に物申すのは異例だが、このまま少子化が続くと、人口減少による経済市場の大幅縮小、人材確保が難しくなるなど企業存続の危機が訪れるとして他人事ではいられないからだ。今回の叩き代案のスキームだと、一家の総収入300万円から900万円の世帯では、所得減となる指摘もあり、1,000万円以上の世帯優遇の批判もある。日本人の収入は97年をピークに16年は10.3%減少で欧米先進国では、数少ない減少国だ(上記画像2参照)。等価可処分所得-世帯可処分所得世帯の人数の平方根で割ったもの-ベースだと97年と14年を比較すると、15.6%減少(上記画像3参照)。こんな指標もある。バブル経済が弾け数年後の95年の等価可処分所得の中央値-母集団の分布の中央にくる値-は、OECD加盟21カ国(当時)の中で、1位だった。しかし、23年後の18年はOECD加盟国37カ国の中では21位に転落している。そして消費税は、97年に3%から5%、14年に5%から8%、19年には8%から10%になり生活は苦しくなる事はあっても楽にはなっていはいない。


画像4 欧米先進国と日本の合計特殊出生率の推移
(画像 『少子化への対処施策の概況』より)


画像5 アジア各国、地域と日本の合計特殊出生率の推移(画像 『少子化への対処施策の概況』より) 

 日本の少子化は有名だが他の国はどうなのだろうか? それが上記画像4と同5になる。合計特殊出生率と女性が生涯に産む子どもの数で、少子化指標で使われる。日本は、OECD加盟国の中でもスペイン、イタリア、韓国の低位グループに所属している。人口維持に必要な合計特殊出生率の目安は人口置き換え基準の2.07人程度で、成人した男女ペア(結婚)が残す子どもの数ともとれるので納得だ。2.0人ではない理由は、結婚する前に傷病で死去するケースがある事、一定数のLGBTQのような少数性的指向者が居る事、結婚が望めない重度障害者が居る事などがあるそうだ。2.07人をクリアしている欧米先進国はまずない。少子化は先進国病とも言われ、国の経済発展するにつれ女性の高学歴化、高い就労意識を持つ女性が増え、結婚観の多様化などがあり晩婚化が進み、生涯未婚率が上がるからだ。発展途上国では結婚が女性が生活をする手段の側面があるが、先進国になるとその側面は薄れ生活パートナーのために変化する。欧米先進国との比較ではかなり低い合計特殊出生率だがアジア各国との比較では、日本でもまだマシな部類となる。酷いのは東アジアで、合計特殊出生率1.0人以下など常軌を逸している。韓国の最新の合計特殊出生率0.78人まで下がりOECD加盟国再開を記録した。個人的な印象だと、アジア、特に東アジアの国々は欧米先進国との比較で、常軌を逸した教育熱があり、それがオーバーヒートした大学などの高等教育機関の受験戦争に発展。高等教育機関受験前の法外な教育コスト-学習塾代や家庭教師代-となり、子育てコストが上がり過ぎて既婚者が理想とする子どもの数を持てないからだと思うのだ。岸田政権を筆頭に少子化対策にこれまで取り組んだ歴代政権に決定的に欠けている事は以下の通りになる。

指標2 日本の少子化対策に足りない(足りなかった)視点

①高等教育受験前の教育コスト
-1子あたり概ね1,500万円以上-の削減
②子どもは親だけではなく、社会全体で育てる概念・意識の醸成(子育て自己責任論)
③子どもの数を増やすというよりは、今いる子どもの子育て支援だけに特化した支援策
④子育てをする親への手当以外の間接・直接経済支援(控除額の拡大、給与引き上げ)
⑤年々上昇する生涯未婚率対策
⑥脱却出来ない『産めよ増やせよ』的思考

 次の考察からはこの足りない視点を選び考察する。

【考察その2】 
高過ぎる日本の高等教育受験前の教育コスト
問題は日本人のメンタルと受験制度にあり



画像6 進学する学校ごとの教育コストを含めた子育てコストの平均値(画像 『子育て費用は総額でどれくらいかかるのか』より)

 手前味噌の話にはなるが、ブログ主は1967年生まれで、昭和の時代に高校を卒業をして現役ではまともな大学に合格出来なかったので、当時『駅前大学』と称された某大手予備校に1年間、通い通称MARCH(マーチ)のそこそこ賢く、そこそこおバカな底辺大学に辛うじて合格した。学習塾に通ったのは、予備校時代だけでそれまでは必要性も感じなかったので、通わなかった。浪人時代も死ぬ気で勉強したわけではなく、予備校に行く日は平均3時間、休みの日だと5時間ぐらいで根っからの体育会気質で脳筋バカだったので、それ以上勉強すると心身ともにエラー反応が起き、発狂寸前に追い込まれるので出来なかった。よく父からは、『救い難いバカ』『失敗作』とか言われた。『勉強が出来る=自頭が良い』とは1㍉も思った事はなく、それとこれは別だと当時も何となく思っていた。受験勉強は記憶力と場慣れ、そして要領が成功の可否を握る。高等教育受験前の高額の教育コストの殆どは、学習塾代と家庭教師代が占める事を結婚し、子どもを通わせるようになり身に染みて理解した。家庭差があるが、息子は中学生になると突如勉強に目覚め、自発的にそれまで続けていたサッカーをやめ学習塾に通うと言い始めた。ブログ主も妻も反対する理由はなく、複数の学習塾のパンフレットを取り寄せ、体験入塾をして最終的に地元資本で私立中学と高校を運営する某学習塾に決めた。授業料を見て思わずのけぞった。授業料や、施設使用料、模試などの諸経費込みで月6万円(科目数による)はかかる。『少子化にかこつけてぼったくり過ぎだろ』と思ったが本人は至ってヤル気満々なので、親の義務として望む教育環境を与えないといけない。因みに妻も公立の小・中・高校と進み大学は地元広島の公立女子大学(当時)の最安値コースを歩み、学習塾に通った経験がないので驚いていた。高校になると幸い学校は広島城目前にある某公立高校に入学してそこは安上がりに済んだが、本校の赤門会・医進SSコースに進み、国立大学志望だったので当然、受験科目が私立大学よりも多いので学習塾代も跳ね上がった。計算した事はないが、中学と高校の6年間でかかった学習塾代は700万円程度だ。まあ救いは、学校に女子生徒がいないというだけの理由で男女共学の公立高校に進学した事だった。幸い第1希望の大学に合格にしたので仕送りを送る必要もなくなり、夫婦共に胸を撫でおろした。親バカの極みかもしれないが、ブログ主が子どもの頃は、学習塾に通う生徒もそれなりにいたが、数はそこまでは多くはなく通う事で、プラスになったが、今の時代は通うのが当たり前なので、通わないのは逆にマイナスになるので、『教育産業に上手く踊らされているな』と思いつつも、その土俵に上がらざるを得ない。一応目安として、コースごとの子ども1人あたりの子育てコスト(上記画像6参照)を貼り付けておく。これこそ家庭差があるので一概には言えないが、恐らく東京や関西の大学に進学し仕送り込みの金額だと思われる。2,600万円ぐらいから4,000万円ぐらいはかかるらしい。子どもが1人で良かったとこれを見るとそう思う次第だ。受験戦争は小学生の頃から始まるので親も真剣勝負するしかない。非正規雇用者の人が『結婚・出産は高い買い物』と自虐的に語るのも無理はない。スポーツ、芸能、芸術、文学の才能に秀でてそれを職業にする有能者であれば学歴は不要だが、そんな才能がない99%の人間が、より良い人生を送ろうと思えば、良い大学に入り、良い条件の会社に入るしかないのも事実で、それが全てではないが方向性は間違っていないと考える。この高等教育受験前の異常な教育コストは日本の教育制度の欠陥の賜物だ。


画像7(再掲) アジア各国、地域と日本の合計特殊出生率の推移(画像 『少子化への対処施策の概況』より) 

 日本の大学は、入学するまでが難関(名の通った大学に進学する場合)で、一旦入学してしまえば語学、学部の専門課程の必須科目とゼミの単位を取得すれば、簡単に卒業が可能だ。特に文系学部においてその傾向は顕著だ。日本の大学生のおバカぶり(不勉強ぶり)は有名で、大学4年生の卒業試験でもう1度、在籍する大学入試を受けたとする。恐らく95%以上の学生が不合格になる筈だ。では欧米先進国の状況はというと、日本の大学の卒業率は概ね90%ぐらいに対しイタリア45%、アメリカ47%、イギリス64%、OECD加盟国平均69%と意外と狭き門だ。これは、入学に際しては広く学生を集うが、入学後はしっかりと勉強をさせて厳しい単位取得条件を突きつけている。入り口は広いが出口はかなり狭い。日本とは真逆になる。海外の大学の図書館の充実ぶりは、日本の大学の比ではなく利用率もまたそうだ。日本では、死ぬ気で勉強しているのは目的意識がはっきりしている医療系の6年生学部の学生ぐらいだろう。この日本の教育制度が高等教育受験前の過剰な教育熱を過熱させ、子育てコスト増大の最大要因になっているのは事実だ。日本も返済義務がない給付型の奨学金制度が17年度から先行実施され、20年度からは学費の減免制度も加味され実質無償化が始まった。OECD加盟国は後発組でそれまでは無金利の貸与型、有金利の貸与型の2種種類しかなかった。他の加盟国でも給付型奨学金制度がない国があるが、それは大学の完全無償化されている国だからだ。大学の完全無償化の国でも給付型奨学金制度がある国がある。それは、大学は基本勉強する場なので、勉強に集中させるために制度が創設されている。社会保障制度が社会主義的だと否定するアメリカも昔から給付型、無金利の貸与型、有金利の貸与型の3階建ての奨学金制度がある。自己責任の国のイメージが強いが、理由は、貧困の拡大防止だそうだ。犯罪防止対策も兼ねている。日本の給付型奨学金制度は家庭の経済条件を満たしていても学業優秀などの条件があり、対象者全員に給付される訳ではない。制度の性質上、所得制限を取り払う必要はないが、
家庭の経済条件を満たしていれば対象者全員に給付するのが筋だろう。アジア、特に東アジア諸国で少子化の日本よりも少子化が加速しているのは、経済発展に伴い教育コストも上がり、ただでさえ教育熱が高いお国柄なのに教育競争が激化し天井知らずに高騰し、1子当たりの子育てコストがべらぼうになり、複数の子どもが持てなくなっている事が要因だ。22年の合計特殊出生率が遂に0.78人にまで下がった韓国の受験戦争ぶりは狂喜の沙汰で、受験日当日、パトカーが遅刻しそうな受験生を送迎するなど、絶対に間違っていると思う。しかし、日本も笑えない。日本も欧米先進国目線だと十分おかしいのだから。日本の現行制度の給付型奨学金制度の対象者全員給付、学費減免制度の枠拡大、施設使用料適用も進めるべきだ。そう主張する理由はいくつかある。貧困の踏襲防止、非正規雇用者の『結婚は高い買い物』の意識を消す事、大学卒業後、新社会人となりスタートに立つのに奨学金という名の教育ローンを数百万円背負わされたのでは、マイナススタートになり、結婚を躊躇う原因にもなる事がある。向学の志を持つ若者には社会が優しく手を差し伸べる必要がある筈だ。大学の入試制度大改革が、不毛な受験戦争を終わらせ、しかも子育て支援策の1つに繋がる筈だ。

『岸田首相の異次元の少子化対策に物申す その2』へ続く

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シリーズ記事 広島城の歴史 その1 その2 その3

【考察その7】
毛利輝元による広島城築城 その1
参考となった豊臣大坂城について


動画1 広島城築城の参考となった豊臣期大坂城。現在の大坂城は1615年大坂夏の陣後に徳川幕府によって徹底的に破壊され埋め立てられ、その上に築かれている


画像1(再掲) 豊臣秀吉が関白の政庁として築いた聚楽第。甥の豊臣秀次事件で1595年破壊された


画像2 豊臣大坂城の天守閣復元図

 1588年の上洛で毛利輝元は、豊臣家の武家としての居城の大坂城(上記動画1参照)、関白、公家としての居城の聚楽第(上記画像1参照)を目の当たりにして毛利家累代の居城の吉田郡山城(上記画像2参照)を捨て新たな時代に相応しい居城築城を決意する。広島城は、城の構造は大坂城、縄張りは聚楽第を模したと言われる。広島城築城の話の前に、豊臣大坂城について触れたい。現存する広さ71㌶にも及ぶ広大な大坂城だが、これは1615年の大坂夏の陣で豊臣家を亡ぼし、焼け跡を徹底的に破却しさらに埋立て新たに築いた徳川大坂城のものだ。豊臣大坂城は地下に眠っている。戦国末期から安土桃山時代初期にかけ石山本願寺がこの場所にあった。寺内町は大変なにぎわいで、3万人から6万人の規模だったと言われる。石山合戦(1570年から1580年)の講和後、石山本願寺は焼失したが跡地に織田信長が安土城以上の巨大な城を築城する構想を持っていたので、一時的に簡単な城郭を築き家臣の丹羽長秀に預けていた。本能寺の変で織田信長は、非業の死を遂げ、明智光秀討伐後に行われた清須会議では、この地は池田恒興の所有となったが、美濃国に国替えとなり秀吉の所有になる。豊臣秀吉は、1583年4月に織田家中の政敵である柴田勝家を
賤ケ岳の戦いで葬り、幼主三法師を立てつつも旧織田家版図の支配をほぼ確立した。同年5月から6月にかけ大坂の地に入り検分した。8月には築城の下準備が始まり、9月から黒田孝高(如水)を総奉行にして築城が始まった。築城には8万人から10万人の人夫が集められた。本丸は1585年に完成し、5重6階、地下2階の当時としては最高規模の天守閣(上記画像2参照)や天守閣の居住部分を含めた約1,700坪の大規模な御殿などが造営された。徳川期に入ると豊臣大坂城の天守閣や本丸御殿を上回る規模のものが生まれるが、豊臣大坂城が誕生するまで最大規模のものは織田信長の安土城だったので、織田家に代わる新たな権威を見せつけるため、超えるべき城は安土城だった。概ね上記動画1の姿なのだが、織豊城郭とその後の徳川城郭との縄張りの相違点がある。本丸でも複雑な曲輪構成で、現徳川大坂城とは異なり帯曲輪を含め四段造りになっている。本丸でも天守閣や奥御殿がある区画は、詰めの丸、複数の帯曲輪、山里曲輪、芦田曲輪などで構成される。これは当時の石垣の技術が徳川大坂城のような高石垣を造れるほど進歩していなかった事が大きい。この時代に築城された岡山城、金沢城、広島城でも同様の縄張りの傾向が見られる。複雑な曲輪構成のメリットは、籠城する際に相手方の兵が攻めにくい事だが、その反面1つの曲輪敷地面積が狭くなり、御殿などの敷地も狭くならざるを得ない。1586年に領土を島津家に蹂躙され滅亡の危機に瀕し、秀吉に助けを求めた豊後の大名大友義鎮(宗麟)は、この城を訪れ豪華絢爛ぶりに驚き『三国無双の城』と称賛している。本丸の建物の至るところに金の装飾が施されているが、よく秀吉の成金趣味的な指摘されることが多い。さにあらずで、秀吉だけではなく安土城や広島城でも施され、秀吉に限った話ではなく権威の象徴としてのそれだった事が言われている。引き続き二の丸(下記画像3参照)の造成が1586年から始まる。二の丸も総称的な呼び名でそう呼ばれるが、西の丸も含めたもので二の丸の西側がそれにあたる。西の丸の区画には、御殿が造営され、二の丸南側には桜馬場が配置された。二の丸の北側は、淀川などの水運が使えたので、大きな蔵が配置されている。二の丸の造成は1588年に終わった。


画像3 豊臣大坂城の縄張り図(画像 『大坂城について』より)


画像4 豊臣期大坂城下町図(画像 『豊臣時代の伏見城下町と大坂城下町』より)

 大坂城築城はここで一旦休止する。次は城下町整備の話をする。大坂築城当時の城下町の様子は公家の吉田兼見の記録に残されている。二の丸の中堀外には大名クラスの武家屋敷もあったが、四天王寺までの上町筋と谷町筋に沿って町人地が形成されていた(上記画像5参照)。秀吉の関白任官や二の丸の造成開始で、豊臣政権の安定を見越し他方から多くの人間が移住し形成されたと思われる。淀川向こうには大坂天満宮の城下町もあり、初期においてこの地区を中心に城下町が発展した。後世の印象だとこの豊臣大坂城こそ本拠地で居城の印象が強いが、実際は違う。秀吉は、1585年に関白に任官され、翌1586年には京に政庁の聚楽第を築城開始。87年9月に竣工したので、九州征伐後はこちらに移り住んだ。その後、関白職を甥の秀次に譲ると聚楽第に住まわせ、隠居城として京近郊に伏見城を築城し生涯住み続け、大陸出兵の前線基地として築いた名護屋城に居たので大坂城に在城したのは1585年から1587年までの2年ぐらいでしかない。ただ、諸大名の年賀の挨拶は大坂城内で受けており、武家としての豊臣家の居城意識はあったのかもしれない。そして、大坂城の大改築が再び始まる。1593年に遅過ぎる後継者の秀頼が誕生し、秀頼が元服するまで生きれないと悟った秀吉は、1594年から造成が始まる。1598年までの約5年間をかけ、本丸の大改築と三の丸、外堀、総構えを新たに設けた(上記画像3参照)。三の丸は大名屋敷を配置するために予定地にある町人地や寺社地は、1598年竣工する新たな町人地の船場地区に強制移転となった。三の丸は存在は明らかにされてはいるが、詳細までは明らかにされておらず、その姿を伝える文献も多くはないので縄張りなどは諸説ある。総構えの縄張りは、大坂冬の陣の布陣図が現存しているので詳細は明らかだ。
本丸の大改築では新たに四層の副天守閣が造営され、文禄の役講和の明使節団を出迎えるため、千畳敷御殿が表御殿がある本丸南側、詰めの丸の奥御殿と表御殿を結ぶ千畳敷大廊下も造営されている。1598年には、馬出曲輪と大名屋敷が造成された。今さら大名屋敷の造成など不可解と思うかもしれないが、秀吉は自身亡き後は五大老、三中老、五奉行による合議制にて秀頼が元服するまで政権運営を任せる事、秀頼は伏見城から大坂城に移す事をそれぞれ遺言していた。諸大名のうち、豊臣政権初期の頃から臣従していた大名は大坂屋敷があったが、ない大名は秀吉亡き後は政権の中心が伏見城から大坂城に移るので新たに造営する必要があった。豊臣時代の大坂城城下町の人口は、関ヶ原合戦があった1600年時点で推計28万人で、京の約30万人に次ぐ日本第2の都市だった。江戸開幕して約50年後の1650年の江戸の人口が約43万人だが、築城してから20年も経たない時点で約28万人なので天下の首府たる賑わいぶりといえよう。1600年時点では、その江戸も豊臣家中の大大名の城下町に過ぎず、約6万人、大坂と目と鼻の先の当時は国際交易港だった堺は約8万人、大陸の玄関口だった博多は約5万人である。豊臣大坂城は、大坂冬の陣の講和で徳川家の謀略で本丸と内堀以外を取り壊され、その後の夏の陣で焼失し、その跡地に新たな大坂城を盛土して築城されたので往時を偲ぶ痕跡など何ひとつ残っていない。可能性の話になるが、琵琶湖の竹生島の宝厳寺の唐門は、豊国廟を経由して大坂城の極楽橋の唐破風造部分を移したものと伝わっている。

【考察その8】 
毛利輝元による広島城築城 その2


画像5 毛利家累代の居城だった吉田郡山城


画像6(左) 1350年代南北朝期の頃の広島市の海岸線
画像7(右) 広島築城直前の広島市の様子。中洲の小さな山が比治山になる(画像共に『しろうや!広島城』より)


画像8 広島市の海岸線の変遷。紫色部分が広島築城当時の陸地になる

 ようやく広島築城の話に入る。広島市は太田川水系のデルタの街として知られる。太田川により運ばれた砂・小石・泥などが堆積して生じた平地-沖積平野中心に市街地が形成されている。三角州やデルタともよく言われるが、ギリシャ文字のデルタ(△)に似ているのでそう言われるらしい。沖積平野は軟弱地盤だとも言われ、そのため地下鉄や地下街などの地下開発は技術的に不可能ではないが、その分高コストとなり、導入ハードルが高くなる。広島市に地下鉄が実現しなかったのはこれだけが理由ではないが、その高コストを賄うには人口規模が中途半端だからとも指摘されている。広島市の陸地というか海岸線は1350年代の南北朝期の頃は、上記画像6辺りで、現在の旧市内と呼ばれる市街地はまだ海の底で、現在の中区の白島付近、西区の横川付近が海岸線だった。当然当時の安芸国の中心は現在の太田川放水路以北の安佐南区の古市辺りでこの場所は港町(イメージが1㍉も湧かない)、市場もあったという。鎌倉・室町期の守護所も安芸国の中心地だったこの辺りの武田山(広島経済大学や祇園北高校がある山)の麓や山頂部(佐東銀山城)に設けられていた。中世安芸国の中心は安佐南区の平野部だったのである。それから時代が一気に約240年下った1590年頃の広島市の海岸線は上記画像8の紫色部分で、現在地だと平和大通り以南は海だった。『〇〇新開』とは新しく開拓-埋立造成した意味-した意味で、新開だらけだ(笑)。現在は都心地区の丘陵地の比治山も周囲は半分以上は海だった。旧市内に中世期の城の遺跡がないのはこのためだ。少ない例外は仁保城で黄金山山頂に中世山城があったが、別名仁保島城と呼ばれた事を鑑みると、黄金山も1590年頃は瀬戸内海にぽっかりと浮かぶ島だったことが窺える。毛利輝元の広島築城以前にもこの辺りでの築城をしようとした武将がいた。輝元の祖父元就だ。1555年に陶晴賢を厳島の戦いで討ち取り、陶晴賢を失い弱体化した大内家で内紛が起き1557年、元就が攻め込み当主の大内義長を自刃に追い込み、大内家の旧領を支配下に置いた。翌1558年から、1569年の間に比治山に新たな城を築城する構想があったとされている。理由は定かではないがこの構想は実現しなかった。孫の輝元が広島城築城を決意したのか?それには以下の理由があった。

指標1 毛利輝元が広島築城を決意した理由

①『毛利家累代の居城の吉田郡山城が手狭になっていた』
 吉田郡山城は元々、安芸国の国人領主だった毛利家代々の居城だった。規模も毛利元就が家督を継ぐ1523年頃までは砦城に毛が生えた規模で、本格的な大拡張工事が始まったのは、諸説あるが1540年代末から1550年代半ばからにかけてだ。安芸国の一国人領主だった毛利家が領土を拡大させ、家臣団が増えその屋敷を構えるようになり、曲輪数は増えていった。天守閣は元就時代にはなかったが本丸には、見張り用の櫓が置かれたのもこの時代と思われる。代は嫡孫の輝元に代わっても拡張工事が続いた。1584年に輝元は、城の修築・城下の整備の命を下している。輝元時代の吉田郡山城には三層の小規模な天守閣があったとされる。かつては土塁一辺倒だったが、主要郭に石垣や瓦を使うようになり、近世城郭の要素も度重なる改修で加えられたが、112万石の大大名の主だった家臣の屋敷地となる土地も少なく、輝元の館も政庁として手狭だったので、毛利家に相応しい城が必要になった

②『毛利宗家当主の権威の象徴の必要性』
 毛利輝元の歴史的人物評価は凡庸とされ、偉大な祖父元就、叔父で『毛利の両川』と言われた吉川元春、小早川隆景よりも劣るとされた。家臣の多くは祖父元就が若い時代には同じ国人領主で、版図を一代で拡大させ殆どが外様家臣ばかり。江戸時代のような忠誠心はこの時代には存在せず、元就の頃はその卓抜した器量で心服するが、凡庸な輝元ではその限りではない。国人領主上がりの家臣たちは毛利家当主に知行地として与えられたのではなく、父祖代々の土地を領有する事を認められただけ。このような背景があっては、強固な主従関係は構築しにくい。そこで、毛利宗家の君主権を確立し、家中を団結させ一枚岩にするため、吉田郡山城では限界があり、毛利家の発祥の地である安芸国で巨大な城を築城する必要があった


画像9 輝元が広島城築城した頃(1589年~)の広島市の地形

③『中世山陽道から遠く不便』
  吉田郡山城から、豊臣政権の拠点の京に上洛するには中世山陽道を通らなければならないが、中世山陽道まで遠く不便だった

④『吉田郡山城は時代遅れになった』
 中世山城は、土木技術、特に土地造成技術が未熟な時代に発展した。険しい山頂の天然の要害を活用した城郭は、攻めるに難く、守るに易かった。戦乱が日茶飯事の時代では、中世山城は、一家の最後の砦に相応しい場所だった。豊臣政権が安定すると、戦がほぼなくなり中世山城のデメリット、例えば悪い居住性、家臣屋敷地が十分に確保出来ない、領国の交通の要衝から外れている、城下町の拡張性がないなどの問題点が浮き彫りになった。他には、火縄銃の普及により攻撃を防ぐ深く幅広な堀、高い石垣の曲輪、分厚い土塀などが中世山城では難しい事なども時代遅れの理由になっている。平城や平山城でも土地
造成・石垣積み上げ技術が進み、中世山城のメリットである高い要害が建設可能になった事も大きい。

 補足説明を加える。毛利宗家当主の権威の象徴の必要性』についてだ。広島城築城開始から11年後に起きた関ヶ原の戦いで毛利家の家風が如実に出た。輝元幼少の頃からの補佐役『毛利の両川』の吉川元春、小早川隆景は既にこの世には居なかった。輝元は長らく子に恵まれず、26歳年齢が離れた従兄の毛利秀元を1585年に養子に迎えていた。しかし、1595年輝元に待望の男子が誕生し、世嗣を辞退した。秀元は中々の器量人で、優秀だった。1599年には、実父の遺領も含め毛利家の所領を17万石分知され分家ではなく、別家の大名として独立した。分家だと主君は輝元だが、別家となると豊臣秀頼が主君となる。関ヶ原の戦いでは五大老の1人だった輝元は、五奉行や安国寺恵瓊に擁立され西軍の総大将に担がれた。元春と隆景亡き後の毛利家の主導権は輝元自身が握っていたが、かと言って絶対君主然として振る舞ってはいなかった。毛利家及び豊臣家の外交僧の安国寺恵瓊、元春の子の吉川広家、重臣の福原広俊、元養子の秀元らによる合議制とまではいかないが、輝元を頂点に頂きながらも集団指導体制で運営されていた。恵瓊とは、元春、広俊は犬猿の仲だった。総大将になる事は珍しく、相談する事無く輝元の一存で決めている。輝元は関ヶ原の戦いでは6万の兵を率い、大坂城に入城し、戦い終了まで居座った。その代わり、秀元に毛利兵1万6,000人を預け戦いに参戦させ、残兵は大坂城の警護に当たっていた。西軍の勝利に危うさを感じた元春、広俊の両名は、主君の輝元には無断で黒田長政を通じ、徳川家康に内通し東軍勝利後の毛利家本領安堵を取りつけ、重臣の身内を人質にっ差出し、戦闘不参加を誓っている。関ケ原で南宮山に布陣したが、秀元はこの密約を聞かされておらず、戦いに参加しようとしたが先鋒が広家で動こうとしなかったのでどうしようもなかった。味方の西軍から再三再四、出兵要請があったが秀元は窮してしまい『兵卒に兵糧を食させている最中なり』と言い時間を稼いだ。後に『毛利宰相殿の空弁当』と揶揄された。『宰相』とは秀元の官名で、和名だと参議になる。広俊は重臣筆頭だったが、他の重臣も広家や広俊の東軍内通の方針には同意していた。知らぬは輝元、秀元、そして西軍推しの外交僧の恵瓊だけで、結果的には広家や重臣一同は毛利家存続の功労者だが、後に事情を知った秀元は激昂した。関ヶ原の戦いは徳川家康率いる東軍が勝利し、毛利軍は無傷で輝元がいる大坂に撤退する。輝元は6万近い毛利軍、数万を超える豊臣奉公衆(直属軍)、それに掌中の玉の主君の秀頼がいるにもかかわらず、本領安堵されると知り大坂城を退去した。しかしこの約束は反故にされた。輝元は大坂在城中西国の西軍大名に言い訳が出来ないほど指示を出しており、最初は改易とし、長門国と周防国の2カ国は広家に与えられる予定だった。しかし、広家が毛利家存続に向け力を尽くし、輝元に与えられる事になった。輝元は出家して、家督を幼い秀就に譲り隠居した。その後も毛利家は落ち着かない。輝元隠居後、幼主秀就の後見役となった秀元は、広家や重臣たちと反目した。1605年、長門国と周防国の2カ国減封後の萩城築城に関連する熊谷元直粛清事件が起きた。諸説あるが真相は、軍勢を送り込まれ誅殺された熊谷元直、天野元信共に家臣にあるまじき横暴な振る舞いや過去の軍律違反を咎められた綱紀粛正と言われている。因みに熊谷家も、天野家も輝元の祖父元就が毛利家の家督を継いだ頃は、同じ安芸国の国人領主だった。まだある。徳川家と豊臣家が手切れとなった1614年大坂冬の陣では、秀元は重臣たちに無断で隠居の輝元と謀り家臣の内藤元盛を密かに大坂城に入城させ、これを知った広家は居城の岩国城に引き籠り、家督を広正に譲り隠居した。輝元の跡を継いだ秀就も成人後は、既に藩政は秀元や重臣たちに握られお飾りの君主にされ、特に藩主然と振る舞う秀元とは関係性は最悪で、秀就は排除を画策しようとしたが秀元は徳川3代将軍家光の御伽衆で幕閣とも親しく、容易に手が出せなかった。このように毛利家は、大名家としての成立過程の負の遺産である力がある一門、家臣たちの専横的なふるまいなどで当主専制の体制を築くのに、途方もない時間を費やしたのである。

『広島城の歴史 その5』へ続く

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