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今日の話題 4月11日琉球新報より引用
知的障害の中村さん再び不合格 
高校受験 家族『学力選抜での不合格は差別』



画像1 18年最初の高校受験失敗後、県庁にて陳情をする仲村さんの父親(画像 琉球新報より)

【記事詳細】 

 重度の知的障がいがある仲村伊織さん(16)=北中城中卒=が今年3月、2度目の沖縄県立高校受験に挑んだが、不合格となった。受験した1次募集の全日制、2次募集の定時制の2校はいずれも定員割れだったが、県教育委員会は『一定の点数が足りず、入学しても高校の教育課程をこなすことは難しい』としている。仲村さんの家族は3月28日に県教育庁を訪れ『テストで点数が取れないことが知的障がいの特性であり、今の選抜制度では本人の努力が反映されない。2次募集でも学力選抜で定員内不合格とされることは差別だ』と批判した。仲村さんは北中城村の普通小中学校で学んだ。2018年度に重度知的障がい者として県内で初めて公立高校を受験したが不合格となった。

 仲村さんの両親は受験を成立させるために必要な『合理的配慮』が十分でなかったとして、『県障害のある人もない人も共に暮らしやすい社会づくり条例(共生社会条例)』に基づき、県に助言(あっせん)を求める申請をした。申請を受け、調整委員会は県教委の配慮が不十分だったと指摘した。今春の入試では調整委員会の提言を受けて、支援員の増員や代読・代筆が認められた。今回の不合格について仲村さんの両親は『合理的配慮に改善は見られたが、テストで得点すること自体が難しい息子の障がい特性が考慮されていないことは変わらず、努力を評価してもらえない』と話している。

【考察その1】
差別の拡大解釈も甚(はなは)だしい


画像1 いわれのない差別を受ける女性 画像 かわいいフリー素材集いらすとやより)

 障害というのは持って初めて気づいたがその内容や重さにより、出来ることと出来ないこととがはっきりと分かれる。障害者差別解消法では障害理由により出来ないことに対しても合理的配慮が多大な経済的な負担がかからない範囲で義務付けられている。その事自体は目出度い限りだ。障害者の一人として常日頃から思うことだが、あれもこれもと障害者であっても全て叶うと信じないことだ。以前よりは障害者に優しい社会にはなっているが、権利や差別云々を論ずる以前に
障害がある以上は、時代関係なく出来ないことは絶対にあると思う。悲しいがこれが現実だ。多くを望み過ぎるのも考えものだ。『建前はこうだが、所詮世の中はこんなものだ』と明確に割り切った方が本人も幸せだと思う。合理的配慮に関しても、最低限なものに関しては必要だと感じるがこれとて周囲の理解と協力の上で成立している。やみくもに権利意識を振りかざし、健常者の人たちに義務を強気に求めるのも少し違う。理屈では正しいが道義的には間違っている。卑屈になる必要はないが感謝の気持ちは忘れてはいけない。障害は大きく分けて、三種類ある。『身体』『精神』『知能』である。話が飛躍するが、障害者就労だと身体障害者の場合、若年者に限れば健常者との賃金格差はそこまで大きくはない(障害者枠で正規社員就労の場合)。精神・知能障害者の場合、まだ残る偏見やコミュニケーション能力、知力欠如の理由から採用に及び腰の企業が多いのが実情だ。身体障害者の労働生産性が高いとは露ほどにも思わないが、低いなりに戦力としてまだ計算が出来るので法定雇用率を満たす必要もあり、雇用が進んでいると推察する。管理職経験者と言わせてもらえば、戦力として計算できないとか、コミュニケーション能力と理解力が障害の有無関係なく劣る人間は、正直なところ御免被りたい。その存在が周囲に悪影響を及ぼし、集団全体の生産性すら落とす。労働対価として賃金をもらう以上は、『みんな仲良く頑張りましょう』では済まされない。決められた時間でそれなりの結果を出すのが義務だからだ。仕事はボランティアではないのだから。


画像3 仲村伊織さん(16)と母親と思しき女性(画像 琉球新報より)

 
『テストで点数が取れないことが知的障がいの特性であり、今の選抜制度では本人の努力が反映されない。2次募集でも学力選抜で定員内不合格とされることは差別だ』との仲村さんのご家族の発言に少し違和感を持った。そもそも、入学試験とは学力を競う場であり、それを障害の内容(知的障害)理由で差別と断じてしまったら、入学試験の存在を否定することになる。障害の有無関係なく、合格する可能性が高い学校を受験するのが一般的で、可能性が極めて低い場合がランクを落とすか諦めるのが当然だ。能力的に無理な受験をさせる側の責任は絶対にある。この受験自体がそもそも無理な話と感じた。支援員の増員や代読・代筆は合理的配慮だと思うので、それについてどうこう言うつもりはない。学校側もそれを行い、試験の結果、定員割れでも必要な点数に届かず不合格としたことは差別でも何でもない。『点数の最低ラインの届かずとも努力を評価して、合格にして入学を認めろ』はさすがに引いてしまう。認めると健常者に対しての逆差別になること理解しているのだろうか?子ども可愛さの情と、一般社会の常識を分けて考えないとダメだろう。努力は結果を出してこそ評価されるべきもので、結果の出ない努力など意味がない。競争社会とはそういったものである。障害児の場合、受け入れ態勢が整っていれば普通学校の通学も良いと思うが、諸般の事情でそれが難しい場合は消去法で特別支援学校(ウィキペディア)でも致し方がない。それが本人も周囲も幸せだろう。招かざる客として入学しても仲村さんに良い学習環境が提供されるとは思えない。仲村さんの学習能力に見合った学びの場を提供するのが、周囲の大人の責任ではないだろうか? 県に助言(斡旋)を求める考えのようだが、不合格認定されたものをいかなる理由があろうとも覆すのは、不条理で悪しき慣例を残してしまう。世間が納得する理由で却下するのが妥当だ。差別とは本人由来ではないもの-人種、国籍、性別、家庭環境、出身地、障害の有無-で不当な扱いを受けることで、本人に由来するのもの-結果、学歴、資格の有無など-で異なる扱いをされるのは区別という。今回の場合に当てはめると、試験を受ける際の合理的な配慮(代読、代筆)はされており、区別による高校不合格である。挑戦の機会を与えられているので差別には該当しない。障害者であれば、どんなことでも許され、同情されると思うのは、甘えでしかないし100%間違っている。真の共生社会の実現の手かせ足かせになる。

【考察その2】
知能障害者重度障害者について
就労も含めた社会参画の制限があっても仕方がない

画像4 重度の身体障害者のイメージ画像 かわいいフリー素材集いらすとやより)

 ブログ主は他記事で時折触れるが、封入体筋炎発症の5年目の12年に当時勤務していた金融機関を退行し、今後のことも考えあえて障害者能力開発校(以下 開発校)に進み、それ仕様の勤労者になるべく給与として現金化可能な資格取得を目指した。そこは障害内容にクラス分けがされ障害者の専門学校然としていた。そこで初めて知能障害者といわれる子どもたちと遭遇した。身体障害者のクラスが年齢構成が19~60歳以下だったのに対し、特別支援学校を卒業したばかりの20歳以下の生徒が多いのが特徴だった。開発校に通校している知能障害者の生徒は、軽度の知能障害者だと聞いた。それでも、素っ頓狂でズレたタイミングで挨拶をされたり、言語が非常に不明瞭で思わず吹き出しそうになったり、『こいつ大丈夫か?』と思うことが多々あった。身体障害者、精神障害者のクラスの担任は一個の独立した個人として生徒に接していたが、知能障害者のクラス担任のそれは、幼稚園や保育園の担任そのものだった。そうしないと集団として統制が取れず、無法地帯になるからだ。それが彼らの障害でもある。偏見や差別と指摘されたら甘んじて受けるが、身体障害者として多少の恐怖を感じたのは、彼らは知能に障害があり、思考力や判断力で常人よりも劣る。感情のコントロールもままならない場合もあると聞いた。しかし、身体機能は健常者のそれとは変わらない。多少精神障害者とも共通するが、負の感情のスイッチがオンになった時に、咄嗟(とっさ)の行動が難しい身体障害者は対応手段がない。特にブログ主の障害は筋萎縮により、身体を動かす自由を奪われる。彼らが何かの拍子で暴れたら抗しようがない。彼らを理解するまでは、接触を避け警戒していた。開発校に約1年間通い、分かったのは彼らは自らの意思で何かをしたいと思うことは希で、周囲の人間に『こうしないといけない』『こうあるべきだ』と教えられ、本人なりに努力をしている、である。語弊はあるがロボットそのものだ。彼らの努力は尊いかも知れないが、俯瞰するとそんな感じだ。軽度の知能障害者でさえこんな状況で、重度知能障害者である仲村さんの場合、普通高校の進学が本人の意思とは思えない。周囲の誘導や保護者の強い意思がそこにあり、そうなったのでは?と考える。


画像4 拡大図 身体障害者障害程度等級表(身体障害者福祉法施行規則別表第5号)1~3級

 ブログ主も事あるごとに『軽めの重度障害者』と称している。行政の正式な定義は次の通りとなる。身体障害者-手帳
等級が1級、2級 等級が3級でも重複の障害がある 知的障害者-療育手帳で程度が『A』とされている 児童相談所又は知的障害者福祉法に規定する知的障害者更生相談所、療育手帳の『A』に相当する程度とする判定書をもらっている になるらしい(笑)。ブログ主の手帳の等級は3級で、障害は体幹機能障害だけになるので正式な定義に照らすと、重度に該当しないが手帳に『要介護』の記載されているので『軽めの~』を加えた重度障害者と称して使っている。担当医曰く、筋疾患患者の場合、足を数㌢しか動かせないのが2級でそれもできない場合が1級になるとのことだ。当分先の話になる。身体障害1~3級の定義は上記画像4の通りだ。就学、就労不能な状態にあるのが重度障害者と言っても差し支えないだろう。何かのイベントや同病患者の集まりなどは臆することなく参加の意思があれば、どんどん外に出向くのはいいことだ。ただ、自身の手回りのことが殆どできない状況で、就学と就労する必要性がそもそもあるのか?の素朴な疑問に行き当たる。就学と就労する最低限の条件として自身の手回りのことは辛うじて可能、これが絶対にあると思う。これは権利の問題ではなく、資格の問題だ。先の考察でも述べたが、障害内容とその重さで出来ることと出来ないことが出てくる。重くなればなるほど出来ないことが当然増える。そうした中で周囲に迷惑をかけてまで欲求を満たしたいと思うのは、重度障害者のエゴに映る。権利の議論以前の人としての在り方だ。線引きが非常に難しい問題だが、ブログ主はそう思っている。