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【近況その1】
とらわれない生き方とは?その1


画像1 深い悩みを抱える男性(画像 かわいいフリー素材集いらすとやより)

 『〇〇にとらわれる』とは、心理学的に、『ひとつの考えなどに支配され、その考えから離れられなくなる』ことだと考える。典型的な『言うのは易しやるのは難し』で、皆憧れから口々に語るが、実践している人はあまりいない。傍から見てそう映る人たちも100%そうなっているかと少し違うと感じる。あくまでも一般論となるが、悲観主義者や被害者意識が強い人ほどとらわれやすい傾向が強い。真逆なひとたち-楽観主義者(決してノー天気ではない)や被害者意識がそこまで強くない人-は、メンタルに自然の余裕があり、頭が柔らかく柔軟で多角的にものごとを考える。とらわれない人たちかも知れない。これは実際にあった話だが、大きな支店の長をしていた時のことだ。何度注意しても同じミスを繰り返す若い行員がいた。客観視して、その行員の間違っている点を指摘して、なぜ間違っているのか、その場合の正解、その正解を導く方法などを事細かく説明した。先輩だからとか上司だからとかで、大した説明もせず頭ごなしで上の立場からどやしつけるのは、管理職としての無能ぶりを示す行為でしかないので、ブログ主は極力説明責任を果たすように努めていた。どこかのスポーツ世界のように愛のムチを未だに信じるなど、人間様のコミュニケーション方法ではない。その辺の動物園の動物と何ら変わらない。正直、その行員は人事評価もCランクで素養的な問題もあったが、その割には妙にプライドが高く聞くふりだけは一応していたが、時折垣間見せる表情が『いつも同じことばかり言うなよ』と雄弁に語っていた。こちらの方こそ『小学生でもしないミスを繰り返し、するんじゃない』とよく思ったものだが(笑)、ブログ主との相性かも知れないとふと思い、過去の職場で確認したが同様の事を繰り返していたらしい。『自分は決して悪くない。自分は正しい最善の努力をしている。こうなったのは回りが悪いからだ』と他者責任論で凝り固まり、自分の殻に閉じこもり鎖国して自身の間違った考えや方法にとらわれている。彼は結局、行内に居場所がなくなり数か月後退行した。上司だったブログ主のと関係性もかなり悪化したが、横関係である同僚との関係も万事そんな感じで、選択肢がなくなっていた。ごく一般的なとらわれ症候群的な極端な例を紹介した。

 そういうブログ主も程度の差はあれど何事にもとらわれていないかと言われると、必ずしもそうではない。よくあるのが経験則だ。経験は、仕事でもプライベートにおいても多ければ多いほどよいとされる。それは、イコール引き出しの多さにつながるからだ。そこの部分は否定しない。ただ、過去の成功例による成功モデルだけに囚われると、何れは行き詰る事も多々あったりするのも事実だ。新たなものを吸収する大きな障害になりかねないからだ。威張るつもりはないが、ブログ主は常日頃から『別角度の視点』『目前の木ばかりではなく森全体を見る』『逆転の発想』を心掛けている。言わんとしていることは3点共に似たものだが、これを以って事に当たると随分と違うものが引き出され、割と成功につながることが多い(と思う)。健常者時代、特に仕事に対してこんな考えで臨んでいた。今は、希少疾患である封入体筋炎(難病情報センター)の闘病生活の中で、『持病にとらわれない生き方』を模索している。これは、封入体筋炎患者であることへの現実逃避と勘違いされそうだが、違うと断言したい。ブログ主の考える闘病生活の現実逃避とは、真正面から向き合わず他人との比較で難病患者になってしまった自身の定めを受け入れず無駄にやさぐれたり、被害者意識満載で『不幸な自分に同情しろ』と積極的にアピール(笑)することではなかろうか?意識の有無は定かではないが実際にはそんな障害者は少なくない。個人的には、一歩引いてそうした人たちを反面教師にしている。とは言っても封入体筋炎は、四肢、体幹など全身の筋肉が恐ろしい速度で委縮する疾患。日常動作でどこかしらの身体の部位を動かすので、着席と就寝以外は意識せざる負えないのもまた事実。脳内から封入体筋炎から完全に開放するのは困難かも知れない、と思ったりする。これをとらわれていると定義した場合、『病気にとらわれない生き方』など絵空事というか、机上の空論、理想主義になる。これで『ハイ終了!』になるので、その定義を変えたい。

【近況その2】
とらわれない生き方とは?その2


画像2 在宅就労に励む男性
(画像 かわいいフリー素材集いらすとやより)

 結構難解の定義だが、『病気を理由にしない生き方』をその定義にしたい。封入体筋炎を発症し、日常生活障害が進むと、何事も出来ない事が圧倒的に増えてしまい、逆に出来ることが限定される。障害の内容上、致し方がない側面こそあるが、つい習慣で諦めの境地に達しやすい。見切りをよくも悪くも早くつけてしまい、出来ない理由をそこに求める。後で状況分析を冷静にすれば、つい出来ることもやらなくなる。ブログ主はその点については、かなり神経過敏になっている。一例を挙げると、就労だ。ブログ主は、現在東京に親会社がある某大手企業の地域子会社に障害者採用枠で就労している。身分は在宅就労との絡みがあり、地域子会社社員ではなく親会社社員身分である。元々障害者雇用についてはこの会社では、正社員雇用はしておらずフルタイムのアルバイト、契約社員などの非正規雇用しかない。ブログ主も12年にその枠内で採用試験に臨んだが、前金融機関時代の担当企業で過去に何度も大きな貸しをつくっていたこともあり、望みもしない親会社社員身分での在宅就労が実現した。日本の上場企業でありながら、行政に言われるままの形だけの障害者就労ではなく、法定雇用率引き上げに備え子会社共々、障害者就労に積極的だった。当時の人事担当者とは過去に仕事上、深い関係性がありブログ主の人柄なり能力なりを知っていたことや、
人事担当者の叔父が筋ジストロフィー患者だったことが幸いした。こちらが望みもしなかった進行を踏まえた在宅就労の道を勧めてくれた。これがなければ、今頃というか3年ぐらい前に勤務が不可能となり退職していただろう。通常勤務とは別の請負仕事の仕事も回してくれたりして、予定就労給与の4倍近く稼がせてもらった。就労開始当時-13年4月手帳級は5級だったが、13年の夏には3級となり19年現在では、その当時と比較すると日常生活障害は拡大している。それを鑑みると大正解の選択だった(結果論とも・・・)が、これが仮に『進行性の疾患なので就労しても数年以内に就労不可能となる。頑張っても無駄だ』、と病気にとらわれる思考で判断したならば、今現在の姿はなかった。

 『出来ることは出来るまでは絶対にやり続ける』的な強い意思、『出来ないことは障害の内容上、多いが出来ることを見出し努力し続ける』が病気にとらわれない生き方だと考える。同時に病期を理由としない生き方にもつながる。冷静に考えると、生命予後不良、治療薬開発の可能性はほぼ皆無に等しいという状況を踏まえると自暴自棄となり、自然に身を任す生き方に陥りがちだ。それも考えの一つで、人それぞれだと思うが、ブログ主個人の考えに照らすと抗いたくなる。ラストは不変なので無駄な努力になる可能性はかなり高いが、『このままこの病気にしてやられて悔しくないのか?』との思いも沸々と湧き起こる。人生全体を捉え方を少し変えると、死を迎えることは皆等しく同じでそれが少しだけ早いか遅いかの相違だけだ。この考えを軸に据えると、身体を動かす自由の時間は限られるが、その範囲でも出来ることは必ずある。病気にとらわれない生き方とは、死を迎える今わの際にやることを全てやり切り悔いなく人生を終えるか否かの違いだ。ブログ主は封入体筋炎の存在関係なく、悔いのない人生を送り、燃え尽きてこの世を去りたいと思うので、必要と思ったことは全て出来得る範囲でやり遂げたい。就労とは、扶養家族を養う手段でもあるが、日常生活障害が年々重くなるブログ主にとって数少なくなりつつある社会との接点でもある。直接&間接的なリターンがない活動には興味がないブログ主には就労こそ、病気にとらわれない生き方を証明する場でもある。いつまで続けられるかは自信はないが、現状では後2年ぐらいはいけそうな気がする。発症から丸11年、12年目を迎えたが、今後も継続していきたいと思う。

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