前回記事 アストラムラインの明日 その1
【回想その3】 77~85年
HATSⅡ(最終地下鉄建設案)の代案として浮上した新交通システム(アストラムライン) その1
当時の選択肢はこれしかなかった・・・
画像1 77年開業のドイツの都市エッセンのシュタットバーン(地下式LRT)。フランクフルトで68年開業後、人口50万人規模の大都市に随時導入された。画像は、エッセンのそれで複々線区間で軌道線高床・低床車両に対応した構造になっている(画像 ユーチューブ動画撮影より)
画像2 78年、北米初の路面走行式LRTと開業したカナダの都市エドモントンのLRT(画像 ユーチューブ動画撮影より)
画像3 85年に復活開業したフランスの都市ナントのLRT。あちらではLRTとは呼ばず、シンプルにトラム(路面電車)と呼ぶ(画像 ユーチューブ動画撮影より)
21世紀以降に広島市の都市交通に関心を持った人たちは、広島市には広電が運営する利用者数と規模では日本最大の路面電車があるのに、これを活用した公共交通ネットワークを形成しないのかと不思議に思うかも知れない。大量輸送機関としてフル規格地下鉄、中量輸送機関としてリニア式ミニ地下鉄、モノレール、AGT、LRT、BRT、ガイドウェイバスなど多種多様なメニューが勢揃いし、その国庫補助率は50~55%程度(インフラ部分)と欧米先進国ともそこまで劣っていない制度にまで充実している。しかし、広島市が市北西部に新しい鉄・軌道系交通機関を導入を検討していた70年代は、選択肢として精々フル規格地下鉄、ミニ地下鉄、モノレール、AGTぐらいしかなかった。モノレールとAGTは、当時は新交通システムと呼ばれた。路面電車やバスよりも新しい交通システムの意味である。令和の現在で旧交通システムになった。各車両メーカーが、新時代の交通システムの開発にしのぎを削り、この2システムが採用された。74年に地下鉄のような大量輸送機関を導入するほどの需要がない都市のために、中量輸送機関導入制度として『都市モノレール整備の促進に関する法律』に対するインフラ補助制度(新交通システム)が創設された。そして翌75年にAGTが適用される。広島市は、これに着目し、AGT方式(新交通システム)採用による市北西部の交通渋滞の道を探り始めた。話が逸れるが、日本では路面電車は旧態然とした交通機関として切り捨てられる存在となり、国内車両メーカーは、60年代より新型車両の開発をしなかった。しかし、西欧先進国や北米ではその限りではなく旧西ドイツでは、必要最小限度の都心区間だけを路下(地下)化し、他の区間は軌道の嵩上げ、センター・サイドリザベーション化、優先信号設置などで路面電車の欠点を潰し車両を高規格化させ、システムを昇華させたシュタットバーン(地下式LRT・上記画像1参照)を、フランスではAGTと同様のVALをミニ地下鉄として採用しつつも、コスト負担が難しい都市用に路面走行式LRTの研究が進み、中量輸送機関の選択肢に並べた。78年には北米カナダのエドモントン(上記画像2参照)では、路面走行式のLRTが産声を上げていた。日本では古くその役割を終えたとして路面電車は、都市交通の日陰者扱いにされたが、世界では中心を担う存在ではなかったが、新たな交通機関としてリノベーションされつつあった。しかし、日本ではそうではなかった。日本でLRT整備制度が創設されたのは97年の『路面電車走行空間改築事業』で、その登場まで待たなければならない。よって70年代時点で、広島市が多くない選択肢の中から新交通システムのAGTを選択したのは、現実的な判断と言えた。着目から2年後の77年に、国道54号線(現183号線)のBPとして都市計画決定された祇園新道に『新交通システムの導入促進を図ること』との付帯意見がつけられ、計画の実質スタートとなった。翌78年から、広島市は新交通システムの路線・運行計画、採算性などの調査と祇園新道の用地買収を始めた。しかし問題もあった。導入を検討している祇園新道、そして市道中筋沼田線は既存の道路ではなく都市計画決定されたばかりの新設道路。その新設道路の進捗状況がイコールで新交通システム進捗状況が大きく左右されることになる。この遅滞が、後々の予定を大きく狂わせる事になるなどこの時は予想もされていなかった。福岡市の地下鉄が、71年に第68回都市交通審議会答申第12号(『福岡市及び北九州市を中心とする北部九州都市圏における旅客輸送力の整備 増強に関する基本的計画の検討について』)として運輸大臣に答申され、僅か4年後の75年に一部区間の工事着工に動き始めたのに対し、広島市のそれは77年導入決定から12年後の、89年になったのは導入路の整備進捗度の影響を受けたことが大きいとしても、12年にも及ぶ年月は当時の財政状況を鑑みるともう1つ別の路線を整備するくらいの時間的な余裕があった。建設準備に2~3年、十数㌖の計画路線の建設期間として5~6年かかるとしても合計7~9年程度で、十分お釣りがくる。広島市の最優先する路線選択にも問題があった。広電路面電車が営業している事実があったにせよ、いの一番に整備しないといけないのは東西方向の『広島駅~八丁堀~紙屋町~西広島駅』か、広電との共存を目指し、相生通りではなく平和大通りに導入するにしても『都市最大駅~都心中心地』の路線にしなければならなかった。最大コストが掛かる区間でもあるが、波及効果は市内一円どころか都市圏全体にも及ぶ。広島市の発展を期すのであれば、最優先すべき路線は南北方向ではなく、東西方向だったと考える。
画像4 85(昭和60)年の中国新聞記事 その1(アルベースさんツイッター画像より)
画像5 85(昭和60)年の中国新聞記事 その2(アルベースさんツイッター画像より)
我らのうえき市長はそんなこともせず、悠長に構え、85年広島市議会建設委員会にて、新交通システム(アストラムライン)など広島市の将来の鉄軌道構想を表明した(上記画像2と3)。別に悪い事ではないが、広島市全体の鉄・軌道線計画の構想ではなく、導入路まで含めた具体的な計画案づくりであれば理解の範疇だが、構想にとどまっている。支持会派の保守系市議から、計画があまり進んでいない現状を指摘され、広島市の危機感ではなく次回選挙戦への危機感から、構想を発表することで批判逸らしの意図を感じる。その構想とやらを見てみる。
指標2 荒木広島市長(当時)が市議会建設委員会で表明した構想
(1)新交通システム導入予定区間
紙屋町~高取間 11.8㌖ 建設費-1,100億円 94年開通
(2)東西方向の路線
【ルート】国鉄(現JR)広島駅~八丁堀~紙屋町~十日市~国鉄西広島駅 約5㌖
上記ルート以外にも平和大通り、国道2号線の計3案
【選定機種】フル規格サイズの地下鉄、ミニ地下鉄、路面電車の地下化、新交通システムの
地下線などを検討
【建設費】900億円程度 【着工時期】94年以降
(3)南北方向の路線
【ルート】紙屋町~広島港 6.7㌖ 全線地下式 約660億円
【選定機種】新交通システム方式
(4)他の路線
【ルート】高取~沼田・石内間 2.9㌖ 建設費160億円
沼田・石内~西部流通団地(商工センター)8.0㌖ 建設費 約900億円
【選定機種】新交通システムの高架式
(5)基本構想の完成時期
概ね30年後の2015年頃 全体建設費は約3,720億円を見込む
注目したいのは、東西方向の選定機種だ。4つの選択肢を示している。導入が決定している新交通システムはあくまでも当面の窮余の策で、開通までにじっくりとその後の事を考える姿勢がうかがえる内容だ。アジア大会94年開催が84年に実質決定し、最初の第1期線を94年までに開業させ、15年までの約21年間で、構想路線全て整備する腹づもりだった。85年に構想路線を打ち出したこともかなり遅い。というのは、導入決定は77年頃で、既に8年が経過している。新交通システム導入経緯が、HATSⅡ(最終地下鉄建設案)の代案だった事情を同情的に差し引いても、祇園新道や中筋沼田線整備の進捗待ちの時間の使い方には、疑問しか残らない。第1期線以降の具体的な肉付けした計画策定は、91年の『公共交通施設長期計画策定委員会』(通称八十島委員会)の設立まで待たねばならなかった。広島市の無策ぶりは他都市と比較するとよく分かる。福岡市と北九州市は、最初の路線着工前に将来あるべき鉄・軌道系公共交通の姿を描き(下記画像6)着工しており、千葉市(下記画像7参照)もまた同様だ。広島市の都市政策はその時代時代の戦術らしきものはあるが、戦略がないと言われる。今に始まったことではなく、昭和の時代から悪弊で全てこれが理由ではないが、現在の広島市の衰退都市に転落した一要因にもなっている。もう1つ苦言を呈したい。広島市だけが悪いわけではないが、交通計画に限らず、その他のものに関しても動き出しというか初動が遅い印象が強い。反対意見に悪い意味で寛容というか、聞く耳を過剰に持つ。結果的に、事業にかかる年数が異常に長くなることが多々ある。『機会の損失』の概念が決定的にない。いち早く動き始めていれば得られたであろう利益をみすみす失っていることも多い。たられば世界の話になるが、仮に南北方向の路線ではなく東西方向の路線を最優先させ、70年代末ぐらいに動き始めていれば都市発展の機会を得られたかも知れない。
画像6 『福岡市および北九州市を中心とする北部九州都市圏における旅客輸送力の整備増強に関する基本的計画について』の都市高速鉄道の関連提言。福岡市関連では、(ⅰ)福岡市営地下鉄七隈線、(ⅱ)福岡市営地下鉄箱崎線、(ⅲ)福岡市営地下鉄空港線、北九州市関連では、(ⅳ)北九州高速鉄道小倉線、(ⅴ)北九州高速鉄道黒崎線(未開通)、(ⅵ)東西線(未開通)になる
画像7 76年策定された千葉市の新交通システム(モノレール)のマスタープラン
【回想その4】 85~94年
HATSⅡ(最終地下鉄建設案)の代案として浮上した新交通システム(アストラムライン) その2
画像8 94年開業した既存区間(画像 『支線整備に関する法制度への適用性の研究』より)
画像9 91年2月、新人7人の選挙戦を制し初当選した平岡敬氏(画像 『生きて 前広島市長 平岡敬さん』より)
新交通システム(アストラムライン)の代案としての浮上から、開業までの流れをまとめる。
指標3 新交通システム(アストラムライン)の歴史(開業まで)
1975年 『広島都市交通研究会』提言によるHATSⅡ(最終地下鉄建設案)が市民、市民
団体の反対、推進した山田市長の死去により実質とん挫。その代案として、『都市
モノレール整備の促進に関する法律』に対するインフラ補助制度(新交通システム
)にAGTが適用されため、これが浮上する
77年 都市計画地方審議会にて、祗園新道の都市計画決定にあたって『新交通システムの
導入促進を図ること』との付帯意見を付ける
78年 広島市は新交通システムの路線・運行計画、採算性などの調査と祇園新道の用地買
収開始
84年 94年アジア大会開催実質決定する
85年 中国地方交通審議会に対して『広島県における公共交通機関の維持・整備に関する
計画について』を諮問
荒木市長、市議会建設委員会にて、基本構想を公表する
87年 新交通システムを運行する第3セクター会社『広島高速交通』設立
88年 3月に『県庁前~長楽寺間』の敷設特許と『本通~県庁前間』の敷設免許を申請し、
11月に特許と免許が交付される
89年 『本通~長楽寺間』(12.7㌖)工事着工
90年 『長楽寺~広域公園』(5.7㌖)敷設特許を申請、翌年3月、特許交付される
91年 『長楽寺~広域公園』(5.7㌖)工事着工
94年 『本通~広域公園間』(18.4㌖)開業
話が多少前後するが、アジア大会開催3年前の91年2月、広島市長が代変わりした。市政史上、最大の無能市長だった『うえき市長』こと荒木武市長が、90年8月に高齢と体調理由に5選出馬を見送り、ようやくその座を去った。広島市にとって慶事だったが、4期16年市長を務めた彼の被害は甚大で広島市は、かつてのライバル都市だった福岡市の背中を見えなくなりつつあり、弟分だった仙台市にも水を開けられ始めていた。うえき市長は、自民党推薦候補の医師で県医師会会長の杉本正氏を後継者としたが、広島経済界が『医者のような世間に疎い人間に市長の座は任せられない』と危機感を抱き、中国放送社長で当時、広島商工会議所副会頭で、まちづくりにも造詣が深かった平岡敬氏(上記画像9参照)を擁立し、保守分裂、そして新人7候補が乱立する選挙戦を27万6千票を獲得し、初当選を果たした。そして、平岡新市長の最初の大仕事が広島市の将来あるべき鉄・軌道系公共交通の姿を描く事だった。うえき市長の宿題のやり残しになるが、『公共交通施設長期計画策定委員会』(通称八十島委員会)を立ち上げ、議論を始めた。翌92年に以下の提言案がまとまり、平岡市長に手渡された。その提言は以下の通りになる。
指標4 『公共交通施設長期計画策定委員会』(通称 八十島委員会)提
案の計画
(1)東西線(フル規格地下鉄)
西広島駅~(平和大通り)~白神社~三川町~田中町~(駅前通り)~稲荷町~広島
駅~旧貨物ヤ-ド跡地(現マツダスタジアム)
相互乗り入れ JR山陽本線、広電宮島線相互乗り入れ
利用予測 1日平均20万人以上
(2)南北線延伸(新交通システム)
▼広電宇品線ルート
本通~市役所~皆実町6丁目~広島港~出島メッセコンベンション地区
▼吉島ルート
本通~市役所~吉島地区~出島メッセコンベンション地区~広島港
利用予測(2ルート共に) 1日平均3.5万人
(3)西部丘陵都市線(新交通システム)
広域公園~西広島駅 利用予測 1日平均2.0万人
(4)整備スケジュール
第1期整備区間 東西線全線と南北線(本通~白神社)
第2期整備区間 西部丘陵都市線と南北線(白神社~メッセコンベンション地区)
画像10 広島市内の各交通機関の1日平均利用者数の推移(画像 『第11回広島市地域公共交通活性化協議会』より)
これはバブル期特有の需要を過大に見積った典型案で、中々香ばしい(笑)。提言当時の92年は既にバブル経済は弾けていたのだが、まだまだバブル経済の余韻が社会全体に充満し、論拠が不明だが2010年人口140万人(笑)になることを前提に弾かれているらしい。東西方向のフル規格地下鉄など1日平均利用者数20万人など、どこをどう捻ればこんな数字になるのか、理解に苦しむ。提言時の92年度の広島市内の1日平均公共交通利用者数は、64.5万人、コロナ禍前の19年度は59.4万人だ。その全公共交通機関の約1/3に相当する20万人が東西線を利用する試算だ。デタラメもいいところだ。JR山陽本線、広電宮島線利用者の大半を取り込むことが論拠らしいが、やはり理解に苦しむ(笑)。速達性と定時性に優れた交通機関を整備さえすれば、何もしなくても需要が勝手に天か降って来ると考えるのは危険だ。そもそもの導入路の公共交通移動需要をベースに、沿線再開発による+αの需要増、他の公共交通機関からの転移などを勘案し慎重に需要予測をするもので、速達性が上がれば自動車利用者や自転車利用者が転移する筈もない。他の公共交通機関からの転換はあり得るが、乗り継ぎ、再び初乗り運賃を支払ってまで転換はしない。都心地区に直行するバス路線であれば最終目的地までの乗り切る。利用予測と開業後の実績値との乖離が、概ね2~3倍となる駅勢圏法(下記画像11参照)で弾いた予測だと思われる。駅勢圏法と特徴として、駅勢圏内の住民が移動する際に検討している選定機種、他の公共交通機関、徒歩、自動車、自転車等の移動手段の選択を予測しづらく正確に予測として反映させにくい事が最近では挙げられている。平たく言えば、机上の計算上の最大需要でしかない。可能性はゼロではないが、限りなく低い。もう1つの4段階推計法の特徴は、予測手順が分かりやすく、確実性と安定性の点から、最も実用性の高い手法と評価されて、予測値と開業後の乖離が小幅と言われる。15年に開業した仙台市の市営地下鉄東西線の事例で、確かめてみる。駅勢圏法の予測では、1日平均約11.9万人、その後事業見直しで4段階推計法で需要を量り直すと、約8.0万人に、開業初年度の実績値は約5.4万人だったがコロナ禍前の19年は約8.0万人で、4段階推計法の予測値の水準に達した。話を戻す。新交通システムが計画浮上当初は、『紙屋町~高取間』だった。その後長楽寺までになったのは、高取では車両基地の確保が難しかった事、都心地区の起点が紙屋町から約300㍍南の本通への変更も、将来導入されるであろう東西方向の路線との結節点を相生通りの紙屋町交差点ではなく、平和大通りの白神社交差点ですると想定したからだ。さらに長楽寺までとした終点を広域公園まで延伸したのは、アジア大会のメイン会場への輸送と開催決定で沼田、石内地区の開発凍結を解除(西部丘陵都市構想)し、そのアクセスにする意図があった。JR山陽本線との結節は、JR可部線の利用者減少を懸念したJR西日本の反対で開業時には実現しなかった。その代わり、古市橋駅と緑井駅の中間地点に大町駅を設け結節した。導入された市北西部は、バス各社のドル箱路線で広島交通と広電バスが運行していたが、何らかの処置をしないと共倒れになる可能性があったので、『郊外団地~都心地区(広島B・C』の直行バス路線は基本廃止となり、『団地~新交通システム最寄り駅』までのフィーダーバスに転換された。そして、広島交通と広電バスには営業補償金として、得るべき利益だった7年分約128億円が支払われた。
画像11 4段階推計法と駅勢圏法の概要(画像2と3共に『利用者予測の方法及び予測結果の確実性について』より)
画像12 新交通システム開業時にバス路線廃止に当たり、支払われた営業補償金について(画像 『支線整備に関する法制度への適用性の研究』より)
『アストラムラインの明日 その3』へ続く
お手数ですが、ワンリックよろしくお願いします
【回想その3】 77~85年
HATSⅡ(最終地下鉄建設案)の代案として浮上した新交通システム(アストラムライン) その1
当時の選択肢はこれしかなかった・・・
画像1 77年開業のドイツの都市エッセンのシュタットバーン(地下式LRT)。フランクフルトで68年開業後、人口50万人規模の大都市に随時導入された。画像は、エッセンのそれで複々線区間で軌道線高床・低床車両に対応した構造になっている(画像 ユーチューブ動画撮影より)
画像2 78年、北米初の路面走行式LRTと開業したカナダの都市エドモントンのLRT(画像 ユーチューブ動画撮影より)
画像3 85年に復活開業したフランスの都市ナントのLRT。あちらではLRTとは呼ばず、シンプルにトラム(路面電車)と呼ぶ(画像 ユーチューブ動画撮影より)
21世紀以降に広島市の都市交通に関心を持った人たちは、広島市には広電が運営する利用者数と規模では日本最大の路面電車があるのに、これを活用した公共交通ネットワークを形成しないのかと不思議に思うかも知れない。大量輸送機関としてフル規格地下鉄、中量輸送機関としてリニア式ミニ地下鉄、モノレール、AGT、LRT、BRT、ガイドウェイバスなど多種多様なメニューが勢揃いし、その国庫補助率は50~55%程度(インフラ部分)と欧米先進国ともそこまで劣っていない制度にまで充実している。しかし、広島市が市北西部に新しい鉄・軌道系交通機関を導入を検討していた70年代は、選択肢として精々フル規格地下鉄、ミニ地下鉄、モノレール、AGTぐらいしかなかった。モノレールとAGTは、当時は新交通システムと呼ばれた。路面電車やバスよりも新しい交通システムの意味である。令和の現在で旧交通システムになった。各車両メーカーが、新時代の交通システムの開発にしのぎを削り、この2システムが採用された。74年に地下鉄のような大量輸送機関を導入するほどの需要がない都市のために、中量輸送機関導入制度として『都市モノレール整備の促進に関する法律』に対するインフラ補助制度(新交通システム)が創設された。そして翌75年にAGTが適用される。広島市は、これに着目し、AGT方式(新交通システム)採用による市北西部の交通渋滞の道を探り始めた。話が逸れるが、日本では路面電車は旧態然とした交通機関として切り捨てられる存在となり、国内車両メーカーは、60年代より新型車両の開発をしなかった。しかし、西欧先進国や北米ではその限りではなく旧西ドイツでは、必要最小限度の都心区間だけを路下(地下)化し、他の区間は軌道の嵩上げ、センター・サイドリザベーション化、優先信号設置などで路面電車の欠点を潰し車両を高規格化させ、システムを昇華させたシュタットバーン(地下式LRT・上記画像1参照)を、フランスではAGTと同様のVALをミニ地下鉄として採用しつつも、コスト負担が難しい都市用に路面走行式LRTの研究が進み、中量輸送機関の選択肢に並べた。78年には北米カナダのエドモントン(上記画像2参照)では、路面走行式のLRTが産声を上げていた。日本では古くその役割を終えたとして路面電車は、都市交通の日陰者扱いにされたが、世界では中心を担う存在ではなかったが、新たな交通機関としてリノベーションされつつあった。しかし、日本ではそうではなかった。日本でLRT整備制度が創設されたのは97年の『路面電車走行空間改築事業』で、その登場まで待たなければならない。よって70年代時点で、広島市が多くない選択肢の中から新交通システムのAGTを選択したのは、現実的な判断と言えた。着目から2年後の77年に、国道54号線(現183号線)のBPとして都市計画決定された祇園新道に『新交通システムの導入促進を図ること』との付帯意見がつけられ、計画の実質スタートとなった。翌78年から、広島市は新交通システムの路線・運行計画、採算性などの調査と祇園新道の用地買収を始めた。しかし問題もあった。導入を検討している祇園新道、そして市道中筋沼田線は既存の道路ではなく都市計画決定されたばかりの新設道路。その新設道路の進捗状況がイコールで新交通システム進捗状況が大きく左右されることになる。この遅滞が、後々の予定を大きく狂わせる事になるなどこの時は予想もされていなかった。福岡市の地下鉄が、71年に第68回都市交通審議会答申第12号(『福岡市及び北九州市を中心とする北部九州都市圏における旅客輸送力の整備 増強に関する基本的計画の検討について』)として運輸大臣に答申され、僅か4年後の75年に一部区間の工事着工に動き始めたのに対し、広島市のそれは77年導入決定から12年後の、89年になったのは導入路の整備進捗度の影響を受けたことが大きいとしても、12年にも及ぶ年月は当時の財政状況を鑑みるともう1つ別の路線を整備するくらいの時間的な余裕があった。建設準備に2~3年、十数㌖の計画路線の建設期間として5~6年かかるとしても合計7~9年程度で、十分お釣りがくる。広島市の最優先する路線選択にも問題があった。広電路面電車が営業している事実があったにせよ、いの一番に整備しないといけないのは東西方向の『広島駅~八丁堀~紙屋町~西広島駅』か、広電との共存を目指し、相生通りではなく平和大通りに導入するにしても『都市最大駅~都心中心地』の路線にしなければならなかった。最大コストが掛かる区間でもあるが、波及効果は市内一円どころか都市圏全体にも及ぶ。広島市の発展を期すのであれば、最優先すべき路線は南北方向ではなく、東西方向だったと考える。
画像4 85(昭和60)年の中国新聞記事 その1(アルベースさんツイッター画像より)
画像5 85(昭和60)年の中国新聞記事 その2(アルベースさんツイッター画像より)
我らのうえき市長はそんなこともせず、悠長に構え、85年広島市議会建設委員会にて、新交通システム(アストラムライン)など広島市の将来の鉄軌道構想を表明した(上記画像2と3)。別に悪い事ではないが、広島市全体の鉄・軌道線計画の構想ではなく、導入路まで含めた具体的な計画案づくりであれば理解の範疇だが、構想にとどまっている。支持会派の保守系市議から、計画があまり進んでいない現状を指摘され、広島市の危機感ではなく次回選挙戦への危機感から、構想を発表することで批判逸らしの意図を感じる。その構想とやらを見てみる。
指標2 荒木広島市長(当時)が市議会建設委員会で表明した構想
(1)新交通システム導入予定区間
紙屋町~高取間 11.8㌖ 建設費-1,100億円 94年開通
(2)東西方向の路線
【ルート】国鉄(現JR)広島駅~八丁堀~紙屋町~十日市~国鉄西広島駅 約5㌖
上記ルート以外にも平和大通り、国道2号線の計3案
【選定機種】フル規格サイズの地下鉄、ミニ地下鉄、路面電車の地下化、新交通システムの
地下線などを検討
【建設費】900億円程度 【着工時期】94年以降
(3)南北方向の路線
【ルート】紙屋町~広島港 6.7㌖ 全線地下式 約660億円
【選定機種】新交通システム方式
(4)他の路線
【ルート】高取~沼田・石内間 2.9㌖ 建設費160億円
沼田・石内~西部流通団地(商工センター)8.0㌖ 建設費 約900億円
【選定機種】新交通システムの高架式
(5)基本構想の完成時期
概ね30年後の2015年頃 全体建設費は約3,720億円を見込む
注目したいのは、東西方向の選定機種だ。4つの選択肢を示している。導入が決定している新交通システムはあくまでも当面の窮余の策で、開通までにじっくりとその後の事を考える姿勢がうかがえる内容だ。アジア大会94年開催が84年に実質決定し、最初の第1期線を94年までに開業させ、15年までの約21年間で、構想路線全て整備する腹づもりだった。85年に構想路線を打ち出したこともかなり遅い。というのは、導入決定は77年頃で、既に8年が経過している。新交通システム導入経緯が、HATSⅡ(最終地下鉄建設案)の代案だった事情を同情的に差し引いても、祇園新道や中筋沼田線整備の進捗待ちの時間の使い方には、疑問しか残らない。第1期線以降の具体的な肉付けした計画策定は、91年の『公共交通施設長期計画策定委員会』(通称八十島委員会)の設立まで待たねばならなかった。広島市の無策ぶりは他都市と比較するとよく分かる。福岡市と北九州市は、最初の路線着工前に将来あるべき鉄・軌道系公共交通の姿を描き(下記画像6)着工しており、千葉市(下記画像7参照)もまた同様だ。広島市の都市政策はその時代時代の戦術らしきものはあるが、戦略がないと言われる。今に始まったことではなく、昭和の時代から悪弊で全てこれが理由ではないが、現在の広島市の衰退都市に転落した一要因にもなっている。もう1つ苦言を呈したい。広島市だけが悪いわけではないが、交通計画に限らず、その他のものに関しても動き出しというか初動が遅い印象が強い。反対意見に悪い意味で寛容というか、聞く耳を過剰に持つ。結果的に、事業にかかる年数が異常に長くなることが多々ある。『機会の損失』の概念が決定的にない。いち早く動き始めていれば得られたであろう利益をみすみす失っていることも多い。たられば世界の話になるが、仮に南北方向の路線ではなく東西方向の路線を最優先させ、70年代末ぐらいに動き始めていれば都市発展の機会を得られたかも知れない。
画像6 『福岡市および北九州市を中心とする北部九州都市圏における旅客輸送力の整備増強に関する基本的計画について』の都市高速鉄道の関連提言。福岡市関連では、(ⅰ)福岡市営地下鉄七隈線、(ⅱ)福岡市営地下鉄箱崎線、(ⅲ)福岡市営地下鉄空港線、北九州市関連では、(ⅳ)北九州高速鉄道小倉線、(ⅴ)北九州高速鉄道黒崎線(未開通)、(ⅵ)東西線(未開通)になる
画像7 76年策定された千葉市の新交通システム(モノレール)のマスタープラン
【回想その4】 85~94年
HATSⅡ(最終地下鉄建設案)の代案として浮上した新交通システム(アストラムライン) その2
画像8 94年開業した既存区間(画像 『支線整備に関する法制度への適用性の研究』より)
画像9 91年2月、新人7人の選挙戦を制し初当選した平岡敬氏(画像 『生きて 前広島市長 平岡敬さん』より)
新交通システム(アストラムライン)の代案としての浮上から、開業までの流れをまとめる。
指標3 新交通システム(アストラムライン)の歴史(開業まで)
1975年 『広島都市交通研究会』提言によるHATSⅡ(最終地下鉄建設案)が市民、市民
団体の反対、推進した山田市長の死去により実質とん挫。その代案として、『都市
モノレール整備の促進に関する法律』に対するインフラ補助制度(新交通システム
)にAGTが適用されため、これが浮上する
77年 都市計画地方審議会にて、祗園新道の都市計画決定にあたって『新交通システムの
導入促進を図ること』との付帯意見を付ける
78年 広島市は新交通システムの路線・運行計画、採算性などの調査と祇園新道の用地買
収開始
84年 94年アジア大会開催実質決定する
85年 中国地方交通審議会に対して『広島県における公共交通機関の維持・整備に関する
計画について』を諮問
荒木市長、市議会建設委員会にて、基本構想を公表する
87年 新交通システムを運行する第3セクター会社『広島高速交通』設立
88年 3月に『県庁前~長楽寺間』の敷設特許と『本通~県庁前間』の敷設免許を申請し、
11月に特許と免許が交付される
89年 『本通~長楽寺間』(12.7㌖)工事着工
90年 『長楽寺~広域公園』(5.7㌖)敷設特許を申請、翌年3月、特許交付される
91年 『長楽寺~広域公園』(5.7㌖)工事着工
94年 『本通~広域公園間』(18.4㌖)開業
話が多少前後するが、アジア大会開催3年前の91年2月、広島市長が代変わりした。市政史上、最大の無能市長だった『うえき市長』こと荒木武市長が、90年8月に高齢と体調理由に5選出馬を見送り、ようやくその座を去った。広島市にとって慶事だったが、4期16年市長を務めた彼の被害は甚大で広島市は、かつてのライバル都市だった福岡市の背中を見えなくなりつつあり、弟分だった仙台市にも水を開けられ始めていた。うえき市長は、自民党推薦候補の医師で県医師会会長の杉本正氏を後継者としたが、広島経済界が『医者のような世間に疎い人間に市長の座は任せられない』と危機感を抱き、中国放送社長で当時、広島商工会議所副会頭で、まちづくりにも造詣が深かった平岡敬氏(上記画像9参照)を擁立し、保守分裂、そして新人7候補が乱立する選挙戦を27万6千票を獲得し、初当選を果たした。そして、平岡新市長の最初の大仕事が広島市の将来あるべき鉄・軌道系公共交通の姿を描く事だった。うえき市長の宿題のやり残しになるが、『公共交通施設長期計画策定委員会』(通称八十島委員会)を立ち上げ、議論を始めた。翌92年に以下の提言案がまとまり、平岡市長に手渡された。その提言は以下の通りになる。
指標4 『公共交通施設長期計画策定委員会』(通称 八十島委員会)提
案の計画
(1)東西線(フル規格地下鉄)
西広島駅~(平和大通り)~白神社~三川町~田中町~(駅前通り)~稲荷町~広島
駅~旧貨物ヤ-ド跡地(現マツダスタジアム)
相互乗り入れ JR山陽本線、広電宮島線相互乗り入れ
利用予測 1日平均20万人以上
(2)南北線延伸(新交通システム)
▼広電宇品線ルート
本通~市役所~皆実町6丁目~広島港~出島メッセコンベンション地区
▼吉島ルート
本通~市役所~吉島地区~出島メッセコンベンション地区~広島港
利用予測(2ルート共に) 1日平均3.5万人
(3)西部丘陵都市線(新交通システム)
広域公園~西広島駅 利用予測 1日平均2.0万人
(4)整備スケジュール
第1期整備区間 東西線全線と南北線(本通~白神社)
第2期整備区間 西部丘陵都市線と南北線(白神社~メッセコンベンション地区)
画像10 広島市内の各交通機関の1日平均利用者数の推移(画像 『第11回広島市地域公共交通活性化協議会』より)
これはバブル期特有の需要を過大に見積った典型案で、中々香ばしい(笑)。提言当時の92年は既にバブル経済は弾けていたのだが、まだまだバブル経済の余韻が社会全体に充満し、論拠が不明だが2010年人口140万人(笑)になることを前提に弾かれているらしい。東西方向のフル規格地下鉄など1日平均利用者数20万人など、どこをどう捻ればこんな数字になるのか、理解に苦しむ。提言時の92年度の広島市内の1日平均公共交通利用者数は、64.5万人、コロナ禍前の19年度は59.4万人だ。その全公共交通機関の約1/3に相当する20万人が東西線を利用する試算だ。デタラメもいいところだ。JR山陽本線、広電宮島線利用者の大半を取り込むことが論拠らしいが、やはり理解に苦しむ(笑)。速達性と定時性に優れた交通機関を整備さえすれば、何もしなくても需要が勝手に天か降って来ると考えるのは危険だ。そもそもの導入路の公共交通移動需要をベースに、沿線再開発による+αの需要増、他の公共交通機関からの転移などを勘案し慎重に需要予測をするもので、速達性が上がれば自動車利用者や自転車利用者が転移する筈もない。他の公共交通機関からの転換はあり得るが、乗り継ぎ、再び初乗り運賃を支払ってまで転換はしない。都心地区に直行するバス路線であれば最終目的地までの乗り切る。利用予測と開業後の実績値との乖離が、概ね2~3倍となる駅勢圏法(下記画像11参照)で弾いた予測だと思われる。駅勢圏法と特徴として、駅勢圏内の住民が移動する際に検討している選定機種、他の公共交通機関、徒歩、自動車、自転車等の移動手段の選択を予測しづらく正確に予測として反映させにくい事が最近では挙げられている。平たく言えば、机上の計算上の最大需要でしかない。可能性はゼロではないが、限りなく低い。もう1つの4段階推計法の特徴は、予測手順が分かりやすく、確実性と安定性の点から、最も実用性の高い手法と評価されて、予測値と開業後の乖離が小幅と言われる。15年に開業した仙台市の市営地下鉄東西線の事例で、確かめてみる。駅勢圏法の予測では、1日平均約11.9万人、その後事業見直しで4段階推計法で需要を量り直すと、約8.0万人に、開業初年度の実績値は約5.4万人だったがコロナ禍前の19年は約8.0万人で、4段階推計法の予測値の水準に達した。話を戻す。新交通システムが計画浮上当初は、『紙屋町~高取間』だった。その後長楽寺までになったのは、高取では車両基地の確保が難しかった事、都心地区の起点が紙屋町から約300㍍南の本通への変更も、将来導入されるであろう東西方向の路線との結節点を相生通りの紙屋町交差点ではなく、平和大通りの白神社交差点ですると想定したからだ。さらに長楽寺までとした終点を広域公園まで延伸したのは、アジア大会のメイン会場への輸送と開催決定で沼田、石内地区の開発凍結を解除(西部丘陵都市構想)し、そのアクセスにする意図があった。JR山陽本線との結節は、JR可部線の利用者減少を懸念したJR西日本の反対で開業時には実現しなかった。その代わり、古市橋駅と緑井駅の中間地点に大町駅を設け結節した。導入された市北西部は、バス各社のドル箱路線で広島交通と広電バスが運行していたが、何らかの処置をしないと共倒れになる可能性があったので、『郊外団地~都心地区(広島B・C』の直行バス路線は基本廃止となり、『団地~新交通システム最寄り駅』までのフィーダーバスに転換された。そして、広島交通と広電バスには営業補償金として、得るべき利益だった7年分約128億円が支払われた。
画像11 4段階推計法と駅勢圏法の概要(画像2と3共に『利用者予測の方法及び予測結果の確実性について』より)
画像12 新交通システム開業時にバス路線廃止に当たり、支払われた営業補償金について(画像 『支線整備に関する法制度への適用性の研究』より)
『アストラムラインの明日 その3』へ続く
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