シリーズ記事 広島の都市問題
札・仙・広・福について その1 その2 その3
【考察その7】
『札・仙・広・福』の空港戦略 その1
移転から30年経ってもまだ批判される現広島空港

画像1 広島市県三原市にある広島空港(画像 『空港アクセスには渋滞知らずの白市ルートで!』より)
まちづくりマニアから、広島市の過去の施策で未だに批判されるものに『国立広島大学の本部、東広島市移転』『フル規格地下鉄を建設しなかった』と共に広島空港の三原市本郷地区移転が鉄板ネタとして移転から30年経ても批判される。この3つがもしなければ、今のような広島市にはなってはいなかったと必ず語られる。反論したい部分が少なくはないが、尺の関係で簡潔に言うと国立広島大学の移転と広島市の直接の関係性はなく、元々同大学は日本で一番多くの8つ前身校を持つ大学だったので分散立地していた。それを解消すべく、72年7月に可部、五日市石内、西条の三カ所に移転候補地を絞り込み、73年2月西条地区に移転地を決定した。当時は70年代安保闘争最盛期で、『馬鹿なうるさい学生が居なくなり清々する』との受け止めが一般的で、国立大学が持つ学術・研究機能の認識がなかった。フル規格地下鉄というか地下式鉄・軌道線が実現しなかった理由は、計画づくりの初動は遅くはなかったが計画のHATSⅡが早々に実質とん挫した事、国内都市有数のコスト高でそれを賄う需要がない事、デルタ内地区や都心地区の路線整備の議論をしていた90年代後半に国から物言いがついた事、アジア大会開催後の極度の財政難、財政難が小康状態に入った頃には高齢化時代となり建設資金の調達がほぼ不可能になっていたなど、要はぐずぐずして建設期を逸した事が最大の理由になる。広島空港の移転に関しては、広島市の一定の過失責任もあった。広島空港移転の移転経緯をまとめてみる。

画像2 広島空港基本調査の4候補絞り込み段階での比較検証。『用倉』は現広島空港のこと(画像 『戦略的環境アセスメント総合研究会報告書』より)

画像3 2候補地まで絞った段階での比較検証(画像 『戦略的環境アセスメント総合研究会報告書』より)
指標6 広島空港移転議論について
72年07月-広島県及び広島市が、広島空港の航空需要・施設能力等を明らかにするために
~81年 広島空港基本調査を実施。現広島空港のこれ以上の拡張と機能強化は難しいと
判断。21世紀には滑走路2,500~3,000㍍クラスの空港が必要との観点
から、空港から概ね40㌖の範囲内で29カ所の候補地を挙げ進められた。1
0候補に絞り込み、さらに、環境条件、空域条件、建設条件、アクセス条件に
現地調査結果を加味して比較し、4候補地点に絞り込みが行われた(上記画像
2参照)。さらに『用倉案(現広島空港)』『洞山案(東広島市と竹原市の境
界線付近)』に絞り検証した(上記画像3参照)
82年03月- 広島空港基本調査結果を公表。『既存空港(後の広島西飛行場)の沖出し案』
『洞山案(東広島市と竹原市の境界線付近)』『用倉案(現広島空港)』の3案
が併記
10月-広島県と広島市、反対派実行委員会と3者協定を締結
83年01月-広島県と広島市の共同で広島空港アクセス検討協議会を設置
07月-広島空港問題連絡会議において、新空港候補地として用倉地区を選定。広島県知事
と広島市長(笑)が新空港建設促進要望を国に提出。現広島空港案が却下された理
由は、次の通り。①既存空港は後背地に市街地が拡がるため、騒音の影響が大きく
、建造物の大幅な移転が必要 ②空域条件が不良 ③瀬戸内海海域における広範囲
の埋立が必要、かつ港湾機能と競合する ④広島市の経済・社会・文化活動等の発
展への寄与はあるが、全県的な寄与度合いが低い とされ真っ先に選考から落とさ
れた
86年04月-広島県は、新広島空港基本計画を策定
88年11月-新広島空港本体着工
93年10月-供用開始
広島空港移転については様々な都市伝説的な理由も語られることが多い。①旧広島空港の空域問題(米軍岩国基地との関連や地形の問題)説 ②広島県東部と北部の大物代議士の陰謀説(笑) ③旧広島空港のジェット空港化に大反対していた観音新町地区住民が追いやった説 ④中国地方の基幹空港を目指した発展的移転説 があった。個人的には、②は論外として、①、③、④が重なった事が大きいと考える。理由としては③が最大かもしれない。旧広島空港はジェット機就航のため72年に滑走路を1200㍍から1800㍍に延伸した。しかし、その前年の71年に空港周辺住民は騒音問題を盾に取り、『広島空港ジェット機乗入れ反対実行委員会』を発足させ徹底抗戦をした。ほとほと手を焼いた広島市は旧広島空港を移転させることを匂わせ、渋々了承させた。滑走路延伸から約8年を経た79年から、東京~広島便の一部路線だけジェット機乗り入れが実現し、空港ターミナルビルの増改築工事が84年に完全ジェット空港化された。当時の広島市長は、広島市政史の中で無能市長として他の追随を許さなかったうえき市長こと荒木武市長で、この人の失政は当時、首都クラスの都市で国家予算の後押しで開催されるアジア大会を国体に毛が生えた大会と勘違いし国の全面支援を取り付けることなく招致したり、大した反対でもないのにHATSⅡのフル規格地下鉄計画をあっさり棚上げしたりするなど、令和の広島市が苦しむ状況を生み出した張本人だ。広島空港移転の際してもその素晴らしい(笑)政治手腕を如何なく発揮し、反対もせず県知事共々空港移転に舵を切った。この方の負の遺産は、取り返しがつかないレベルで歴代後任市長はその尻拭いに明け暮れた。平岡敬市長はバブル経済崩壊後のアジア大会開催に尽力をし、秋葉氏忠利市長は12年の任期中9年間財政再建に紛争、松井一實市長は財政難の時代にあってやり残した宿題-遅れている都市インフラ整備、市街地再開発など-に取り組んでいる。他の札幌市や仙台市、福岡市はそんなものは殆どやり終わり、次のまちづくりのステージに進んでいるのに前のステージで広島市は未だに四苦八苦しているのである。ただ、そんな荒木武市長を選び続けた広島市の有権者もある意味同罪だ。『荒木さんは仕事が出来んけど一生懸命頑張っとるけぇ~、応援する』と語る有権者も少なくはなかったのだから。空港市外転出に危機感を経済人の観点から、危機感を覚えた平岡敬市長は広島空港のコミュター空港としての存続を図り、実現(広島西飛行場)し、その後の秋葉忠利市長は広島西飛行場の市営空港化を図ろう(反対され否決)とした。もし、当時の荒木武市長が広島市百年の大計の観点から、空港移転に政治生命をかけていれば別の広島市の姿ももしかしたらあったかもしれない。広島市と真逆の空港戦略を取っているのが福岡市だ。
【考察その8】
『札・仙・広・福』の空港戦略 その2
福岡市発展の歴史は空港にあり?

画像4 第2滑走路の工事が進む福岡空港(18年頃) 画像 『西日本新聞WEB版』より

画像5 福岡空港の位置図(画像 『資料1 福岡空港の現状』より)
福岡市成長の歴史は福岡空港の歩みでもある。福岡市は少なくとも高度成長期の前半辺りまでは、現在のような九州におけるプライメイトシティ-規模において2位以下の都市を大きく引き離している地域第1位の都市ーではなかった。その時期までは同じ福岡県内に4大工業地帯の一翼を担っていた北九州市、そして戦前からの国の出先機関が多く立地していた熊本市があった。福岡市が支店経済都市になったのは空港戦略に成功したからだ。東京特別区に本社・本店がある上場企業は、交通の利便性が高い都市に支店や営業所を置く傾向が強い。福岡空港は、太平洋戦争後は72年まで米軍との官民共用空港だったが、それ以降は第二種空港となり国内線だけではなく国際線ターミナルの建設など年を追うごとに施設が充実の一途を辿った。一方の北九州市の北九州空港は滑走路が1500㍍と貧弱で、まちなか空港と言うこともあり、大型ジェット機の離着陸可能な滑走路の延伸が難しく、最大1日6往復12便と運航の制限、欠航率が約25%と異常な高さで75年の山陽新幹線の博多駅延伸で、旧北九州空港利用は大打撃を受け83年には、東京便などの定期便が廃止された。東京からのアクセス性のアドバンテージが福岡市に移り、しかも北九州市の基幹産業だった鉄鋼業が施設の老朽化とエネルギー政策の大転換で高度成長期の半ばから斜陽化したこともあり、支店などが一斉に福岡市に移動した。北九州市も危機感を持ち、71年から代替え空港整備を国に陳情し続けたが、新北九州空港の開港は06年と35年後で取り返しがつかないほど市勢は落ちてしまった。福岡市は九州の支店経済都市の座を空港戦略で北九州市から奪い取った。支店経済と聞くと、中央資本に搾取され続ける植民地みたいなアホなイメージを持つ馬鹿者が一定数居るが、さにあらずで全事業所に占める支店の比率の政令指定都市別ランキングでは、福岡市は第3位で32.1%、北九州市は第15位で13.4%と大きな差がついている。一定の就業者を抱えているので、活発な都市経済に寄与している。福岡空港が高度成長期に果たした役割は果てしなく大きいと言わざるを得ない。そして福岡市は、九州の中枢都市としての確固たる地位を築いた。

画像6 福岡空港の95~18年度までの年間利用者推移(画像 『福岡空港 滑走路増設事業』より)

画像7 福岡空港第2滑走路新設事業の概要(画像 『福岡空港 滑走路増設事業』より)
福岡空港は日本一の混雑空港とも言われ、18年度は過去最多の年間利用者2,485万人-国内路線1,793万人、国際路線692万人-(上記画像7参照)を記録している。遅延がなく運用できる目安である滑走路処理容量を超え、混雑時は2分17秒程度毎に離着陸が行われており、滑走路1本あたりの年間離着陸回数は、日本一だ。過去には、新福岡空港の建設も検討されたが、建設費が9,200~9,700億円とべらぼうな高コストで、当面は現空港の第2滑走路の新設案(上記画像8参照)に落ち着いた。運用開始は24年度の予定。事業費は、当初約2,000億円程度としたが、最終的には1,643億円となった。この高い利便性を手放すのは勿体ない。福岡空港は、都心中心地の天神地区からは、市営地下鉄空港線で11分、都市最大駅のJR博多駅からは僅か5分。11年に全線開業した九州新幹線の存在も九州各県の同空港へのアクセスを大幅に向上させた。『都心中心地・MICE地区~都市最大駅~空港』を団子の串のように見事に貫いている地下鉄路線も珍しい。アクセス性では日本一と言える。この4者が隣接する最大メリットは、都市観光やMICE誘致など都市戦略が描きやすい事だ。逆にデメリットは、まちなか空港なので航空法の規制を受けJR博多駅周辺やキャナルシティ博多辺りでは60㍍、天神で110㍍程度、西部副都心のシーサイドももちで150㍍程度 の高さビルしか建設出来なくなっている。都心地区やその周辺地区の業務ビルやホテルの容量不足が深刻になりつつあった。しかし、14年に天神交差点から半径500㍍エリア約80㌶を天神ビックバンエリアと位置付け、航空法に基づく制限表面規制の特例承認や市独自の容積率緩和制度の両輪で高さ制限を緩和している。デメリットがほぼ消え、メリットしかないのが福岡空港と言える。しかし、将来的な課題は実は解決していない。24年度に第2滑走路が完成しても、現在の処理能力16.4万回/年が18.8万回/年~21.1万回/年に拡大し、混雑緩和されるだけで運営会社が目標とする48年年間利用者数3,500万人、国内線と国際線合わせて100路線を仮に達成すると、現空港が手狭になるのは目に見えている。

画像8 現福岡空港とかつて構想された新福岡空港案の位置図(画像 『福岡空港の総合的な調査』より)現福岡空港とかつて構想された新福岡空港案の位置図(画像 『福岡空港の総合的な調査』より)

画像9 新福岡空港(構想)2案の詳細(画像 『福岡空港の総合的な調査』より)
上記画像8と9は、05~08年度に福岡空港調査連絡調整会議で新空港の検討した時の内容だ。広島空港の移転の議論とは大きく異なり、移転先は福岡市内ばかりでしかも玄界灘の海上空港案。移転案に広島市内が1カ所もなかった広島空港とはずいぶん異なる。現福岡空港の問題点-年間84億円もの借料発生、まちなか空港故の74億円もの騒音問題対策費-を極力排除する形になっている。処理能力は、現行の1.47~1.56倍まで上がるが、『志賀島・奈多ゾーン建設案』約9,700億円、『三苫・新宮ゾーン建設案』約9,200億円とデタラメな事業費だ。3,000㍍級滑走路2本備えた空港でも、処理能力は1.5倍程度なので、現空港の滑走路増設案が処理能力1.3倍で、事業費1,643億円で高い費用対効果である事が窺える。新空港建設案には含まれていないが、現福岡空港並みの利便性を確保するには、『志賀島・奈多ゾーン建設案』であればJR香椎線(単線・非電化線)、『三苫・新宮ゾーン建設案』であればJR鹿児島本線(複線・電化路線)から分岐するアクセス鉄道の整備、道路では福岡高速道路新線の整備が不可欠だ。交通インフラなどの関連事業費、試算が00年代後半のもので公共事業は毎年コストが増して行くので、その辺を勘案すると現在整備すると余裕で1兆円越えの国家プロジェクトクラスの規模になりそうだ。空港整備は、空港の種類や地域で国の補助率が若干増減するが、概ね50%。高度成長期や安定成長期ならいざ知らず、地方最強都市になったとは言え、人口減少が顕著となる30年代以降に超絶クラスの公共投資をするのは、リスクが高く危険だ。現空港の滑走路増設を以てしても将来発生する供給不足の問題はどう対処するのだろうか? 現空港のBP空港として『近隣空港(佐賀・北九州空港)との連携による分散案』が現実的な選択肢になりそうだ。北九州空港は、新型コロナウイルス蔓延前の18年度は、年間利用者179.3万人-国内路線144.3万人、国際路線35.0万人-と過去最高を記録した。北九州市と京都郡苅田町の境界線上に立地している。この程度の利用者なので、当然アクセス鉄道はない。アクセスは、JR小倉駅発のエアポートバスの『ノンストップ便』が約33分と一番早い。鉄道アクセスも検討され複数案が提示された。最も安価な在来線をJR小倉駅から新門司経由で新設する案でも年間300万人の利用者が必要とされ、空港利用者数が200万人を超えるまでアクセス鉄道の検討は一旦休止することとされた。そしてその再検討の目途の200万人利用が迫っているため、継続協議を続けている。同空港は滑走路3000㍍延伸計画が動き出している。
『札・仙・広・福について その5』へ続く
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札・仙・広・福について その1 その2 その3
【考察その7】
『札・仙・広・福』の空港戦略 その1
移転から30年経ってもまだ批判される現広島空港

画像1 広島市県三原市にある広島空港(画像 『空港アクセスには渋滞知らずの白市ルートで!』より)
まちづくりマニアから、広島市の過去の施策で未だに批判されるものに『国立広島大学の本部、東広島市移転』『フル規格地下鉄を建設しなかった』と共に広島空港の三原市本郷地区移転が鉄板ネタとして移転から30年経ても批判される。この3つがもしなければ、今のような広島市にはなってはいなかったと必ず語られる。反論したい部分が少なくはないが、尺の関係で簡潔に言うと国立広島大学の移転と広島市の直接の関係性はなく、元々同大学は日本で一番多くの8つ前身校を持つ大学だったので分散立地していた。それを解消すべく、72年7月に可部、五日市石内、西条の三カ所に移転候補地を絞り込み、73年2月西条地区に移転地を決定した。当時は70年代安保闘争最盛期で、『馬鹿なうるさい学生が居なくなり清々する』との受け止めが一般的で、国立大学が持つ学術・研究機能の認識がなかった。フル規格地下鉄というか地下式鉄・軌道線が実現しなかった理由は、計画づくりの初動は遅くはなかったが計画のHATSⅡが早々に実質とん挫した事、国内都市有数のコスト高でそれを賄う需要がない事、デルタ内地区や都心地区の路線整備の議論をしていた90年代後半に国から物言いがついた事、アジア大会開催後の極度の財政難、財政難が小康状態に入った頃には高齢化時代となり建設資金の調達がほぼ不可能になっていたなど、要はぐずぐずして建設期を逸した事が最大の理由になる。広島空港の移転に関しては、広島市の一定の過失責任もあった。広島空港移転の移転経緯をまとめてみる。

画像2 広島空港基本調査の4候補絞り込み段階での比較検証。『用倉』は現広島空港のこと(画像 『戦略的環境アセスメント総合研究会報告書』より)

画像3 2候補地まで絞った段階での比較検証(画像 『戦略的環境アセスメント総合研究会報告書』より)
指標6 広島空港移転議論について
72年07月-広島県及び広島市が、広島空港の航空需要・施設能力等を明らかにするために
~81年 広島空港基本調査を実施。現広島空港のこれ以上の拡張と機能強化は難しいと
判断。21世紀には滑走路2,500~3,000㍍クラスの空港が必要との観点
から、空港から概ね40㌖の範囲内で29カ所の候補地を挙げ進められた。1
0候補に絞り込み、さらに、環境条件、空域条件、建設条件、アクセス条件に
現地調査結果を加味して比較し、4候補地点に絞り込みが行われた(上記画像
2参照)。さらに『用倉案(現広島空港)』『洞山案(東広島市と竹原市の境
界線付近)』に絞り検証した(上記画像3参照)
82年03月- 広島空港基本調査結果を公表。『既存空港(後の広島西飛行場)の沖出し案』
『洞山案(東広島市と竹原市の境界線付近)』『用倉案(現広島空港)』の3案
が併記
10月-広島県と広島市、反対派実行委員会と3者協定を締結
83年01月-広島県と広島市の共同で広島空港アクセス検討協議会を設置
07月-広島空港問題連絡会議において、新空港候補地として用倉地区を選定。広島県知事
と広島市長(笑)が新空港建設促進要望を国に提出。現広島空港案が却下された理
由は、次の通り。①既存空港は後背地に市街地が拡がるため、騒音の影響が大きく
、建造物の大幅な移転が必要 ②空域条件が不良 ③瀬戸内海海域における広範囲
の埋立が必要、かつ港湾機能と競合する ④広島市の経済・社会・文化活動等の発
展への寄与はあるが、全県的な寄与度合いが低い とされ真っ先に選考から落とさ
れた
86年04月-広島県は、新広島空港基本計画を策定
88年11月-新広島空港本体着工
93年10月-供用開始
広島空港移転については様々な都市伝説的な理由も語られることが多い。①旧広島空港の空域問題(米軍岩国基地との関連や地形の問題)説 ②広島県東部と北部の大物代議士の陰謀説(笑) ③旧広島空港のジェット空港化に大反対していた観音新町地区住民が追いやった説 ④中国地方の基幹空港を目指した発展的移転説 があった。個人的には、②は論外として、①、③、④が重なった事が大きいと考える。理由としては③が最大かもしれない。旧広島空港はジェット機就航のため72年に滑走路を1200㍍から1800㍍に延伸した。しかし、その前年の71年に空港周辺住民は騒音問題を盾に取り、『広島空港ジェット機乗入れ反対実行委員会』を発足させ徹底抗戦をした。ほとほと手を焼いた広島市は旧広島空港を移転させることを匂わせ、渋々了承させた。滑走路延伸から約8年を経た79年から、東京~広島便の一部路線だけジェット機乗り入れが実現し、空港ターミナルビルの増改築工事が84年に完全ジェット空港化された。当時の広島市長は、広島市政史の中で無能市長として他の追随を許さなかったうえき市長こと荒木武市長で、この人の失政は当時、首都クラスの都市で国家予算の後押しで開催されるアジア大会を国体に毛が生えた大会と勘違いし国の全面支援を取り付けることなく招致したり、大した反対でもないのにHATSⅡのフル規格地下鉄計画をあっさり棚上げしたりするなど、令和の広島市が苦しむ状況を生み出した張本人だ。広島空港移転の際してもその素晴らしい(笑)政治手腕を如何なく発揮し、反対もせず県知事共々空港移転に舵を切った。この方の負の遺産は、取り返しがつかないレベルで歴代後任市長はその尻拭いに明け暮れた。平岡敬市長はバブル経済崩壊後のアジア大会開催に尽力をし、秋葉氏忠利市長は12年の任期中9年間財政再建に紛争、松井一實市長は財政難の時代にあってやり残した宿題-遅れている都市インフラ整備、市街地再開発など-に取り組んでいる。他の札幌市や仙台市、福岡市はそんなものは殆どやり終わり、次のまちづくりのステージに進んでいるのに前のステージで広島市は未だに四苦八苦しているのである。ただ、そんな荒木武市長を選び続けた広島市の有権者もある意味同罪だ。『荒木さんは仕事が出来んけど一生懸命頑張っとるけぇ~、応援する』と語る有権者も少なくはなかったのだから。空港市外転出に危機感を経済人の観点から、危機感を覚えた平岡敬市長は広島空港のコミュター空港としての存続を図り、実現(広島西飛行場)し、その後の秋葉忠利市長は広島西飛行場の市営空港化を図ろう(反対され否決)とした。もし、当時の荒木武市長が広島市百年の大計の観点から、空港移転に政治生命をかけていれば別の広島市の姿ももしかしたらあったかもしれない。広島市と真逆の空港戦略を取っているのが福岡市だ。
【考察その8】
『札・仙・広・福』の空港戦略 その2
福岡市発展の歴史は空港にあり?

画像4 第2滑走路の工事が進む福岡空港(18年頃) 画像 『西日本新聞WEB版』より

画像5 福岡空港の位置図(画像 『資料1 福岡空港の現状』より)
福岡市成長の歴史は福岡空港の歩みでもある。福岡市は少なくとも高度成長期の前半辺りまでは、現在のような九州におけるプライメイトシティ-規模において2位以下の都市を大きく引き離している地域第1位の都市ーではなかった。その時期までは同じ福岡県内に4大工業地帯の一翼を担っていた北九州市、そして戦前からの国の出先機関が多く立地していた熊本市があった。福岡市が支店経済都市になったのは空港戦略に成功したからだ。東京特別区に本社・本店がある上場企業は、交通の利便性が高い都市に支店や営業所を置く傾向が強い。福岡空港は、太平洋戦争後は72年まで米軍との官民共用空港だったが、それ以降は第二種空港となり国内線だけではなく国際線ターミナルの建設など年を追うごとに施設が充実の一途を辿った。一方の北九州市の北九州空港は滑走路が1500㍍と貧弱で、まちなか空港と言うこともあり、大型ジェット機の離着陸可能な滑走路の延伸が難しく、最大1日6往復12便と運航の制限、欠航率が約25%と異常な高さで75年の山陽新幹線の博多駅延伸で、旧北九州空港利用は大打撃を受け83年には、東京便などの定期便が廃止された。東京からのアクセス性のアドバンテージが福岡市に移り、しかも北九州市の基幹産業だった鉄鋼業が施設の老朽化とエネルギー政策の大転換で高度成長期の半ばから斜陽化したこともあり、支店などが一斉に福岡市に移動した。北九州市も危機感を持ち、71年から代替え空港整備を国に陳情し続けたが、新北九州空港の開港は06年と35年後で取り返しがつかないほど市勢は落ちてしまった。福岡市は九州の支店経済都市の座を空港戦略で北九州市から奪い取った。支店経済と聞くと、中央資本に搾取され続ける植民地みたいなアホなイメージを持つ馬鹿者が一定数居るが、さにあらずで全事業所に占める支店の比率の政令指定都市別ランキングでは、福岡市は第3位で32.1%、北九州市は第15位で13.4%と大きな差がついている。一定の就業者を抱えているので、活発な都市経済に寄与している。福岡空港が高度成長期に果たした役割は果てしなく大きいと言わざるを得ない。そして福岡市は、九州の中枢都市としての確固たる地位を築いた。

画像6 福岡空港の95~18年度までの年間利用者推移(画像 『福岡空港 滑走路増設事業』より)

画像7 福岡空港第2滑走路新設事業の概要(画像 『福岡空港 滑走路増設事業』より)
福岡空港は日本一の混雑空港とも言われ、18年度は過去最多の年間利用者2,485万人-国内路線1,793万人、国際路線692万人-(上記画像7参照)を記録している。遅延がなく運用できる目安である滑走路処理容量を超え、混雑時は2分17秒程度毎に離着陸が行われており、滑走路1本あたりの年間離着陸回数は、日本一だ。過去には、新福岡空港の建設も検討されたが、建設費が9,200~9,700億円とべらぼうな高コストで、当面は現空港の第2滑走路の新設案(上記画像8参照)に落ち着いた。運用開始は24年度の予定。事業費は、当初約2,000億円程度としたが、最終的には1,643億円となった。この高い利便性を手放すのは勿体ない。福岡空港は、都心中心地の天神地区からは、市営地下鉄空港線で11分、都市最大駅のJR博多駅からは僅か5分。11年に全線開業した九州新幹線の存在も九州各県の同空港へのアクセスを大幅に向上させた。『都心中心地・MICE地区~都市最大駅~空港』を団子の串のように見事に貫いている地下鉄路線も珍しい。アクセス性では日本一と言える。この4者が隣接する最大メリットは、都市観光やMICE誘致など都市戦略が描きやすい事だ。逆にデメリットは、まちなか空港なので航空法の規制を受けJR博多駅周辺やキャナルシティ博多辺りでは60㍍、天神で110㍍程度、西部副都心のシーサイドももちで150㍍程度 の高さビルしか建設出来なくなっている。都心地区やその周辺地区の業務ビルやホテルの容量不足が深刻になりつつあった。しかし、14年に天神交差点から半径500㍍エリア約80㌶を天神ビックバンエリアと位置付け、航空法に基づく制限表面規制の特例承認や市独自の容積率緩和制度の両輪で高さ制限を緩和している。デメリットがほぼ消え、メリットしかないのが福岡空港と言える。しかし、将来的な課題は実は解決していない。24年度に第2滑走路が完成しても、現在の処理能力16.4万回/年が18.8万回/年~21.1万回/年に拡大し、混雑緩和されるだけで運営会社が目標とする48年年間利用者数3,500万人、国内線と国際線合わせて100路線を仮に達成すると、現空港が手狭になるのは目に見えている。

画像8 現福岡空港とかつて構想された新福岡空港案の位置図(画像 『福岡空港の総合的な調査』より)現福岡空港とかつて構想された新福岡空港案の位置図(画像 『福岡空港の総合的な調査』より)

画像9 新福岡空港(構想)2案の詳細(画像 『福岡空港の総合的な調査』より)
上記画像8と9は、05~08年度に福岡空港調査連絡調整会議で新空港の検討した時の内容だ。広島空港の移転の議論とは大きく異なり、移転先は福岡市内ばかりでしかも玄界灘の海上空港案。移転案に広島市内が1カ所もなかった広島空港とはずいぶん異なる。現福岡空港の問題点-年間84億円もの借料発生、まちなか空港故の74億円もの騒音問題対策費-を極力排除する形になっている。処理能力は、現行の1.47~1.56倍まで上がるが、『志賀島・奈多ゾーン建設案』約9,700億円、『三苫・新宮ゾーン建設案』約9,200億円とデタラメな事業費だ。3,000㍍級滑走路2本備えた空港でも、処理能力は1.5倍程度なので、現空港の滑走路増設案が処理能力1.3倍で、事業費1,643億円で高い費用対効果である事が窺える。新空港建設案には含まれていないが、現福岡空港並みの利便性を確保するには、『志賀島・奈多ゾーン建設案』であればJR香椎線(単線・非電化線)、『三苫・新宮ゾーン建設案』であればJR鹿児島本線(複線・電化路線)から分岐するアクセス鉄道の整備、道路では福岡高速道路新線の整備が不可欠だ。交通インフラなどの関連事業費、試算が00年代後半のもので公共事業は毎年コストが増して行くので、その辺を勘案すると現在整備すると余裕で1兆円越えの国家プロジェクトクラスの規模になりそうだ。空港整備は、空港の種類や地域で国の補助率が若干増減するが、概ね50%。高度成長期や安定成長期ならいざ知らず、地方最強都市になったとは言え、人口減少が顕著となる30年代以降に超絶クラスの公共投資をするのは、リスクが高く危険だ。現空港の滑走路増設を以てしても将来発生する供給不足の問題はどう対処するのだろうか? 現空港のBP空港として『近隣空港(佐賀・北九州空港)との連携による分散案』が現実的な選択肢になりそうだ。北九州空港は、新型コロナウイルス蔓延前の18年度は、年間利用者179.3万人-国内路線144.3万人、国際路線35.0万人-と過去最高を記録した。北九州市と京都郡苅田町の境界線上に立地している。この程度の利用者なので、当然アクセス鉄道はない。アクセスは、JR小倉駅発のエアポートバスの『ノンストップ便』が約33分と一番早い。鉄道アクセスも検討され複数案が提示された。最も安価な在来線をJR小倉駅から新門司経由で新設する案でも年間300万人の利用者が必要とされ、空港利用者数が200万人を超えるまでアクセス鉄道の検討は一旦休止することとされた。そしてその再検討の目途の200万人利用が迫っているため、継続協議を続けている。同空港は滑走路3000㍍延伸計画が動き出している。
『札・仙・広・福について その5』へ続く
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