封入体筋炎患者闘病記

 封入体筋炎患者のヒロです。病歴は2019年で満11年、12年目に入りました。在宅勤務の仕事とリハビリの日々を送り、細やかながらも家族3人で暮らしています。ブログ記事は闘病記と広島地元ネタ、社会保障などの時事ネタ中心です。希少疾患の封入体筋炎の周知が目的です。関心があれば、ツイッターなどでご紹介していただければ幸いです。疾患関係で直コメントが苦手の方は、ツイッターのダイレクトメールを利用してください。封入体筋炎の闘病史は各進行段階の症状や生活障害、必要な社会保障制度等をまとめています。良ければ参考にしてください。最新の封入体筋炎の状況は『近況について色々と』、取り組んでいるリハビリについては『2019年春~夏 筋疾患(封入体筋炎)リハビリ』にて素人の体感目線で書いています。モバイル版で読みにくい場合は、PC版に転換してからお読みください。

2016年09月

シリーズ記事 2012年 筋ジストロフィーの少年との出会い 
関連記事  2011年病名が変わった日 1~17

 このシリーズ記事は、2012年4月に障害者能力開発校で、筋ジストロフィーの少年と出会い彼とのやり取りの中で「命とは何か?」をテーマにして書いています。内容も時に重く、死を意識した文面になることが多々あります。この記事の主人公のO君や私の場合、疾患名は違えど同じ筋萎縮の難病で、生命予後不良の中限られた環境下で必死に足掻いています。こうしたものが苦手の方や、不快に思う方も一定数いると承知しています。そうした方は読む前に引き返すことを、お勧めします。それでは始めます。

10 障害者能力開発校の風景 その4
資格取得試験前のひと悶着 3


画像1 能力開発校指定資格の1つ日本ワープロ検定イメージ図(ユーチューブ動画撮影画像)

 
そして次の日の昼休み、いつもより手短に昼食を済ませた。2012年時点は現在よりも家計は大変で、障害年金の受給がまだ(2013年2月~)で、雇用保険とこの年から働き始めた家内のパート収入だけだった。前年よりも30%以上、収入ダウンとなっていた。節約のために昼食は弁当で給食ではなかった。ただ、その50代の小児麻痺の生徒も食べるのが早い方で、ほ
ぼ同時に食堂を後にした。その生徒は、杖歩行だったが小児麻痺特有の千鳥足歩行。当時の私は、杖歩行でもなく今の3倍くらいの速度で歩行が可能で、早足で本館のエレベーターに向かった。食堂から出る際に同じクラスの生徒諸君が、アイコンタクトで「〇〇さん頑張って!」と声ににならない声でエールを送っていた(たぶん)。

 私が教室に先に着いて数分後に彼がやって来た。開口一番、私がこう切り出した。()内は心の声
ヒロさん

「〇〇さん、少しお話があるんですけど。例の受験する級のクラス分け授業の件です。あなた一人が反対しているせいで、担任はじめ皆困っています。私もいい迷惑だと思っています。そろそろ我を張るのはやめて、クラス全体の意思に従いませんか?最初の資格試験なので、みんな多少ナーバスにもなっています。言いたいことは少しは分かりますが、大人になって下さい。
宜しくお願いします」 その後頭を下げる
50代小児麻痺生徒
「〇〇君、こういうのは差別的でよくないよ。ここの生徒は平等に扱わないと。」

ヒロさん

「これは差別ではありません
。差別は性別や障害の有無、出身地、人種など本人とは無関係のところで不当な扱いを受けることです。今回の件はそれぞれ習得度合いで、受験する級に応じた内容の授業をするのが目的です。差別云々ではありません。過剰反応ですよ」 営業スマイル
50代小児麻痺生徒
「それは間違っているよ。人は生まれたからには平等であるべきなんだ。僕は生れて来た時からこんな身体で、小さい頃は『〇〇児』と言われてよく虐められた。石も投げられたことがある。兄貴がいたけど、兄貴も一緒になって石を僕に投げつけた~」と数分自分語りが続く

ヒロさん 
無言、相槌だけ打つ。(それって障害のせいではなく、性格が原因だろ。石の話は盛り過ぎ)
50代小児麻痺生徒
「〇〇君は、モテそうだし、東京の大学まで出て卒業してからも日の当たる場所で生きてきたんでしょう?でも僕は~」とまだまだ続く自分語り。

ヒロさん 
無言、
相槌も打たなくなる。(まあ事実だけど)
50代小児麻痺生徒

「この暴挙を敢行したら、僕は出るところに出て世間にこの学校の理不尽さを訴えるつもりだ」これ以降、興奮して聞き取り不可能になる。

ヒロさん

「あのね、この件の何処が暴挙なんですか?平等の意味を履き違えているよ。あなたが、健常者や世間で通用しない手前勝手な理屈を愚痴っても、表面上の同情はされても理解されない。この際なのではっきり言うが、障害者代表ぶってそんなことは言う
べきでない。あなた以外の障害者の風評被害を考えてください。この場であなたが納得しない場合、放課後クラス全員で担任に直訴しますから。そのおつもりで」
50代小児麻痺生徒
(目を真っ赤にして)「・・・・・・。御免なさい。」子供のように泣き始める。

ヒロさん
(やべ、少し言い過ぎた。まあ、これくらい言わないとダメな相手だし。一応フォローはするか) 「納得してくれたら、こちらとしてはこれ以上言うことはありませ
ん。〇〇さんは、大変なのに色々と頑張ってるしその姿勢にいつも感心しています。ここで会ったのも何かの縁ですし、これからも一緒に頑張りましょうね?あなたから担任にこのことを伝えてください」と再び営業スマイル
50代小児麻痺生徒
・・・・・・。〇〇君、有難う。僕から担任に言うよ。

となった。時間にして15分くらいだったが、私的には1時間ぐらいに感じた。途中から気が付いていたが、クラスの仲間が教室に入らず廊下でたむろしている。後ろのドアを少し開けてこちらの話を聞いてい。それを意識しながらわざと聞こえる大きさの声で話を進めた。覗いていた弱視障害の女の子にウインクして「もう入ってきていいよ」と合図したが、この距離では彼女はよく見えないことに気付いた。もう一人、のぞいていて人間がいたので今度はそちらに合
図を送った。1分のしないうちに入って来た。1人入ると皆それに続いた。そしてこの問題は解決して翌日から、受験級毎に分けた特別授業が始まった。

11 最初の難関突破、そして次は?


画像2 特別スキル(内緒)のイメージ画面(ユーチューブ動画撮影画像)

 能力開発校指定の資格受験は学科と実技(PC)だったが、受験級は3~4級だった。私は自宅の予習でこの時点で2級レベルを独学でやっていた。受験級は共に3級で余裕で合格した。筋ジストロフィーのO君も3級を受験して無事合格した。人がいないのを確認して「こんなの高校レベルなんだから、超余裕だよな~」と言い合った(笑)不合格者は6~7人程度いた。中には4級を不合格した強者もいたが、4級受験は今回のみで、合否関係なく次回の指定資格受験は、1~3級となる。私は2級を飛び級して、1級を受けるつもりだった。O君もそのつもりだったようだ。この時期になると、ハローワークを経由なしで能力開発校宛に来た求人募集で、合格して繰り上げ卒業する生徒がチラホラと出てきた。私同様に、就職を能力開発校を踏み台にステップアップとして本気で考えている生徒が、一抜けし始めた。私は、前回記事で書いたように企業人事担当者の授業参観で、誘われ採用試験に臨んだが、バリアフリーにほど遠い事務所の現状を見て泣く泣く諦めた。まだ入校して3カ月程度で繰り上げ卒業しても、との思いもあったが、進行性ー時間との闘いあった。少し複雑な思いを繰り上げ卒業性を見て感じた。「焦るな。進行があると言っても、1~2年後どうこうなる話ではない。今は、自分を障害者仕様にフルモデルチェンジする時期」と言い聞かせた。

 次の開発校指定の資格受験が4カ月後なので、この
時期は年間を通してみれば小休止の期間となった。クラスメイトとは月一の飲み会で幹事を務め、進行を図りながらも学校では居残りで授業の復習、自宅では学科の予習と特別スキルの勉強に明け暮れた。帰宅時間は、定時であれば17時前、居残りした場合は18時。日が明るいうち帰宅する生活など、大学卒業後初めてで新鮮だった。ご近所さんの目が最初は気になった。明るいので住人の視界に入りやすい。何を言われるものかと多少警戒したが、悪いことをしているのではないので恥じることはないと思った。

 梅雨時の6月が過ぎて、7月に入った。授業も4~6月は、理解の低い生徒中心に進めていたがそれを改め、通常ペースに戻した。理解の低い生徒については居残りや補習で対応に落ち着いた。9月の試験まで余裕があると思われがちだが、8月は約3週間の夏休みがあった。実質1カ月少ない事を逆算して授業は進んだ。8月の後半夏休み明けに、最大のイベントが控えていた。それは、「障害者就職合同面接会」(名称うろ覚え)だ。これは、障害者雇用に関心がある広島県内の企業が、広島グリーンアリーナ小アリーナ(画像2参照)でブースを構え、勤労意欲がある障害者達相手に面接会を開くのだ。能力開発校の生徒は、予(あらかじ)めブース出展企業リストをもらい、その中から3社選びエントリーシートを提出。当日は面接にふさわしい身なりで履歴書と職務経歴書持参で臨む。夏休みの関係もあり、午前中の学科授業の半分は、ビジネスマナー、履歴書の書き方、疑似面接の時間に割り振られた。社会経験がない10~20代の生徒にはうってつけの内容だが、私には「う~ん」だった。サラリーマン歴22年の私に今更かよ、と思ったが、基本に立ち返るには良い機会だった。

 履歴書の書き方や疑似面接は担任が受け持ったが、ビジネスマナーは専門の講師を招いて行われた。ビジネスマナーはほんの少し苦戦した。それは日本人が言葉や、文章などを時代の変化とともに崩して使うことに慣れ、教科書通りの言葉遣いや文章を書けないことに近かった。意外とアジアの優秀な留学生の子たちの方が教科書通りの日本語を使いこなす。そう、現場崩れのまま条件反射として体が覚えていた。この点だけは多少難儀した。でも、学生気分に戻り楽しかった。もう1つ楽しい授業があった。社会保険の授業だ。これは週一度、ビジネスマナー同様に外部から
社会保険労務士(以下 社労士)を招いて行われた。この年の講師は、マツダや中国電力など広島の大手企業で社労士経験がある方だった。実務経験がある人間の授業は本当に面白い。経験に裏付けられる言葉の重みもあり、良い感じだった。授業内容は障害者に関する各種法律や、労働法が中心だった。この授業で障害年金を詳しく知った。この時期ではないが、障
害年金の授業があり受給者が殆どで驚いた経験があった。受給していない生徒は私と、申請はしているが認可されなかった生徒だけだった。これを機に申請に動き、2013年2月より受給者となった。

県立総合体育館(広島グリーンアリーナ)1
画像3 広島市中区にある広島グリーンアリーナ 右の建物が小アリーナとなる(広島ナビゲーターより)



続く。



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関連記事 1 広島市の待機児童問題
関連記事 2
 広島県の「出会いサポート」について

 今日は広島市の子育て支援ー社会保障について取り上げたい。障害者福祉とかは全く興味がないが国、広島市の子育て支援策には只ならぬ関心がある。家族がいて子育て年代真っ最中である事が大きい。こうした社会保障施策は、攻(公共事業)と比べ守のイメージが強い。イメージとしては間違いではないが、社会保障施策ー特に子育て支援を含む少子化対策は、決して守ではない。むしろ、攻の部分が大きい。その辺は、中国新聞記事紹介の後に考えたい。

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16学区制来春増 9月23日中国新聞21面より~
広島市教委方針 民間事業者募集も 



画像1 9月23日中国新聞21面より 拡大図(要拡大)

 共働きやひとり親家庭の小学生を預かる放課後児童クラブで、広島市教委は2017年4月、クラスを増設する方針を固めた。16年度と比べて申込者が増える見込みのため。定員オーバーにより待機児童が出ないようにする。内訳は、6学区は校内の教室を使い、別の6学区はプレハブを建てて対応。校内でのスペース確保は難しいもう4学区は、市の運営基準に沿う民間事業者を募り、経費を補助する。定員は、いずれも1クラス40人程度計600人増やす。別に1学区では、使用している部屋を増築して定員を10名程度増やす。市は開会中の市議会定例会に提出した本年度一般会計補正予算案に、増設と増員の関連費計8,300万円を盛り込んだ。

 市教委によると、本年度の申込者は1~6年生の8,669人(5月2日時点)。民間クラブも含めて行き場のない待機児童は44人に上り、うち1~3年の29人は特例で定員を増やして対応した。これらとは別に、学区内に民間クラブがあるが、公営を望んで待機児童になっているケースは68ケースあった。市教委は、17年4月の申込者を9,284人と推計する。現在のクラブ数は240で、年内に4増1減する。さらに16クラス増やして17年度は250クラス体制でスタートさせたい考えだ。市教委は15年4月、国の新制度の導入を受けて、小学校3年生までだった利用対象を全学年に拡大。質の向上を目指して1クラスの定員も減らしたため待機児童が増え、クラスの増設に力を入れている。市の放課後対策課は「特例で対応することなく、待機児童ゼロを目指す」としている。


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類似記事 子ども医療費補助見直し 申請受け付け来月から
(要拡大)
~9月24日29面より~


画像2 9月24日中国新聞29面より


動画2 平成28年第3回広島市議会定例会(ユーチューブより) 8分30秒~山本議員による「子ども医療費補助制度」の質問。36分28秒~市健康福祉局長の答弁。
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1  広島市の対応について

平成28年度広島市放課後児童クラブの利用について
(広島市HP)

 
国は少子化対策の子育て支援として、共働き夫婦の子育て環境の整備をその柱に据えている。 
「一億総活躍プラン(P10~11参照 首相官邸HP) 希望出生率1.8人(2015年、1.46人)をその目標に掲げているが、ここまで力を入れる理由は、2010年国立社会保障・人口問題研究所の統計によると2060年人口8、674万人、2110年人口4,286万人、となる恐るべきデータを公表している。 人口・経済・地域社会の将来像(内閣府HP) これは一種の警鐘を鳴らしているところがあるので、この通りとなる可能性は低いが、100年後には人口が半分以下になる可能性は否定できない。何も手を打たない場合はだが・・・・。人口減は単純に、国力の衰退と崩壊を意味する。私が記事文頭で、少子化対策は「守」ではなく「攻」と書いたのはそれがあるからだ。

図表2-1-1 日本の将来推計人口
画像3 日本の将来人口推移 拡大図(要拡大)(内閣府HPより)

 当然、政府も少子化対策を打たざる負えないのだ。
共働き夫婦の子育て環境の整備として保育園(0~6歳児)の待機児童問題や学童保育(7~12歳)に取り組んでいる最中である。少子化問題は、子育て環境の改善だけでは解決しない。他には、生涯未婚率上昇の原因である経済格差(非正規問題)や、先進国では群を抜いて高い教育コストの問題を解決しないと、克服は難しい。安倍政権はこの2つは実質手つかずなので微妙なところだが、子育て環境の改善の取り組みは評価出来る。その中の1つ、学童保育についての取り組みが以下のリンクページの通りだ。 放課後子ども総合プラン~(厚生労働省HP)  よく言われていた小1、小4の壁ー保育園保育⇒学童保育への移行期、学童保育⇒自宅で1人でお留守番移行期 が既婚者の第2、第3子誕生の阻害要因として指摘されていた。これを改善することで、多産化に導こうとしているのである。

 そこで厚労省の施策に従い、我が広島市も学童保育充実に積極的に動いている。国の学童保育に関する新制度発足が2015年度からで、それ呼応して広島市も学童保育に関する基準を改正した。 
広島市放課後児童健全育成事業の設備及び運営に関する基準~(広島市HP) 2016年度も学童保育待機ゼロを目指していたが、予想を超える申込者があったために計83人の学童保育待機児童が生まれている。2017年度は、今年度よりも615人多い9,284人の申込者を見込んでいる。これは定員の問題なので。案に相違して、定員割れを起こしても大きな問題はないと思う。数年続けば是正すれば事足りる。それよりも待機児童が出ることの方が問題が多い。広島市の合計特殊出生率は2015年時点で1.51人。全国平均の1.46人よりも若干高い。2006年辺りまで全国平均前後の数値だったが、2006年以降毎年上回るようになった。良い傾向であることは確かで、今後も続くことを願う。

2 受益者負担について


 次は受益者負担について考える。受益者負担の基本概念は、以下の通りだ。「サービスによ り利益を受ける特定の方に、受益の範囲内で,使用料や手数料などを負担していただくこ と」。これは官民問わず、「こうあるべきこと」となっている。公的サービスの場合、公益性の程度や受益者の所得により負担額が異なるのは当然だ。なぜこの話を持ち出しかというと、昨年の広島市長選で学童保育の有償化が選挙争点の1つになった。現職候補者は立場上有償化推進で、他の候補は対立軸を鮮明にするために反対の立場だった。現在、広島市は国の方針を受け、学童保育待機児童ゼロを目指して投資し続けている。内容も質的な向上を目指しているので、コストがかかるの当然のことだ。そのコストをどこまで官が負担して、受益者の負担額をどうするのか?という話だ。公共サービスの一環なのだから無償が当然だ、と言われればそれまでだが、逼迫する財政状況や天井知らずの社会保障費を思うと、その考えは古く間違っている。財源抜きの社会保障論議などあり得ず、何もかも無償を望むのであれば、収入の半分を所得税として徴収され、消費税の最高税率が20%を超えている国に移住すればいいと思う。日本は中福祉、中負担の国である。「ゆりかごから墓場まで」は日本の実情には合わない。

 2つ目の中国新聞記事紹介の
子ども医療費補助見直し(要拡大)もその1つで、医療費控除、減額の枠を未就学児までだったものを小3(通院)、中3(入院)まで広げる代わりに、これまでの616万円の境界線を、379.2万円に下げ一部世帯には負担を求める改革案を打ち出している。市独自の制度であり、予算の総額は維持した上で子育て支援策を打ち出そうとしている。この場合の予算とは、義務的経費の事を指す。簡単にまとめる。

Ⅰ 義務的経費比率  広島市報号外題5号「財政事情」より
 1990年 一般会計予算4,377億円、義務的経費1,540億円(35.2%)
 2000年 一般会計予算5,625億円、義務的経費2,206億円(39.2%)
 2016年 一般会計予算5,989億円、義務的経費3,042億円(50.8%)
 
Ⅱ 
年度毎の義務的経費の内訳  広島市報号外題5号「財政事情」より
 1990年人件費695億円、扶助費499億円、公債費346億円、市債残高3,762億円
 2000年人件費903億円、扶助費718億円、公債費585億円
、市債残高8,506億円
 2016年人件費868億円、扶助費1,413億円、公債費760億円
、市債残高6,949億円

26年前に比べ、義務的経費比率が上がっている。中でも市の社会保障費ともいわれる扶助費が900億円以上も増えている。少子高齢化の進行ゆえの高騰だ。今後も上がることはあっても下がることはまずない。これまで負担がなかった世帯や少額で済んだ世帯に新たな負担を求めることになりそうだが、医療費の場合は、保育園・学童保育とは異なり、診療した場合の負担額の問題だ。かからなければ、負担そのものは発生しない。低所得者層への配慮はなされており、私個人は特に問題がないと思う。こちらのリンクページで、子ども医療費無料化是正の動きがよくまとめられている。 くらし☆解説「どうする?子ども医療費無料化」(NHK解説委員室) 少子化対策と社会保障費抑制の二面背反する課題を追いかけざる負えない現状を示している。厚労省の立場としてはこれは少子化対策としてではなく、社会保障費抑制の観点から取り組んでいる。どちらを優先させるかの話だが、舵取りは本当に難しい。


円グラフ

画像4 平成28年度一般会計予算概要 拡大図
(財務省HPより)

 社会保障費を見てみたい。2016年(平成28年)度の社会保障費予算は約32兆円で予算全体の33.0%を占める。社会保障給付費が毎年増加し、天井知らずとなりつつある。2016年度は118.3兆円である。9年後の2025年度には、148..9兆円が予測されている。 ~社会保障に係る費用の将来推計について~(厚生労働省HP) ここで言葉と内訳をまとめてみる。

社会保障給付費社会保障制度全般に支出される金額の総称

2016年度社会保障給付費118.3兆円の内訳
【給付】 118.3兆円
年金56.7兆円(47.9%)、医療37.9兆円(32.0%)、福祉・介護23.7兆円(20.0%)
【負担】
保険料66.3兆円、税金45.4兆円(国32.2兆円+地方自治体13.1兆円)、積み立て運用金収入など6.6兆円
 
となる。国家予算の社会保障費は、社会保障給付費の国負担分の事を指す。これを見ると、国の予算だけで賄うのも限界がありそうだ。消費増税も、一時の清涼剤になっても永遠ではない。このデータを見る限り、受益者負担額の増加は致し方がない。 ただ、制度改正による負担増も限界があり、子育て世代に負担増を迫ると少子化が加速する可能性もある。予測の話だが将来(2050年頃)は、消費税の最高税率が20%を超えるのではないだろうか?そして市民税の勤労収入者一律課税(非課税制度廃止)、40代以上の未婚者の社会保障費負担大増額でもしないと、国家財政が破綻しそうだ。その辺を考えると、少子・高齢化、人口減は亡国の始まりのような気がする。





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シリーズ記事 イベント広場について考える 
関連記事 都心部活性化

 約4週間の間が空いたが、続編を書きたいと思う。前回同様に広島市のHPの内容を紹介して、項目ごとに私の感想や簡単な考察を挟む形にしたい。飛び飛びになっているので今回で最後とする。


計画平面図
画像1 
旧市民球場跡地屋根付きイベント広場計画平面図 拡大図(広島市HPより)

13 
旧市民球場跡地屋根付きイベント広場案について 
~整備概要 1~ 画像引用元 旧市民球場跡地の空間づくりイメージより

 都心部の新たな賑わい拠点として整備。積極的にイベント誘致を行い、多様な人々が交流可能な空間とする。立地特性を活かして広く集客を図り、MICE都市づくりに貢献する。

・開催団体、事業者の需要に対応するために、電気、水道設備などのイベント開催に必要なインフラ設備を備えたイベント広場を4か所整備。
・各イベント広場は、規模等を差別化して異なる舗装材(石張、芝生、インターロック等)を使用してそれぞれ特徴を持たせる。


屋根付きイベント広場イメージ
画像2(左) 旧市民球場跡地(3.9㌶) 4広場レイアウト図 拡大図
画像3(右) 屋根付きイベント広場整備イメージ図

① 屋根付きイベント広場
規模11,700㎡(屋根部分3,000㎡)、概算事業費16億円(屋根部分11.2億円)
・ 官民合わせて、最大規模(11,700㎡)の野外イベント広場として整備。計画4イベント広場の中核設備。デザイン性に優れた屋根(3,000㎡)の整備で天候に左右されることなく、イベント開催可能とする。
・ 広場全体を樹林で多い覆い隠すように整備して、潤いを与える。
・市民や観光客に広く、賑わいと寛ぎの場を提供して、修学旅行生の昼食場所としての活用も図る。


野外ステージ付き広場イメージメインエントランス広場イメージ
画像4(左) 野外ステージ付きイベント広場整備イメージ図
画像5(右) 
メインエントランス広場整備イージ図

② 野外ステージ付きイベント広場(画像4参照)
規模8,600㎡(野外ステージ400㎡)、概算事業費2.9億円(野外ステージ1.8億円)

・ライブや平和コンサート開催を想定した、屋根付き野外ステージを併設した芝生のイベント広場を整備とする。
・野外ステージは平和記念公園との動線を考慮した軸線に設置する

・新規の植樹はせず既存樹林を活用して緑豊かな空間を創出。日常的な市民の憩いの場とする。
樹林内の園路に沿って、既存の記念碑等を移設するとともに、四季折々の花々が楽しめる花壇を設置し、楽しく散策できるようにする。
ハノーバー庭園は、武道場上部イベント広場の南側に移設する。

     
    メインエントランス広場(画像5参照)規模4,800㎡、概算事業費0.6億円
     
    ・計画区域内の各広場のイベントを支援する機能を持たせ、イベント開催申請受付やイベント物品の貸し出し等を行う公園管理施設、トイレを設置する。
    ・オープンテラスを併設した飲食物販売施設を設置して、都心部の観光総合案内所機能も持たせる。

    ブログ主の感想
     気になる点が1つある。屋根付きイベント広場と野外ステージ付きイベント広場の屋根である。特に屋根付きイベント広場の屋根のデザインは何とかした方がいい。色彩は白を基調としたもので良いが、あの気球デザインは正直貧相だ。貧乏臭く、巨大構造物同様に損なう。同様のものに、広電原爆ドーム電停付近のポールがある。あれは車両侵入防止柵的な意味があるのだが、工事中のカラーコーンのようで、「???」である。場所を弁えてほしいものだ。世界遺産目前の施設で、市民、観光客の視界にも入りやすい。その点の配慮を今後の詰めの作業で、行ってほしいと切に願う。

     屋根設置自体は賛成だ。日本の場合、このシリーズ記事で指摘したように、高温多湿で雨も多く、梅雨もある。年間通しての稼働率向上を考えると、天候に左右されないメリットは大きい。野外より屋内イベント会場が人気があるのも興行者のリスクを考えると致し方がない。それ回避出来る屋根はあっても良い。


    14 旧市民球場跡地屋根付きイベント広場案について 
    ~整備概要 2~ 画像引用元 旧市民球場跡地の空間づくりイメージより



    メインプロムナードイメージ
    画像6(左) 
    旧市民球場跡地(3.9㌶) 拡大図 メインプロムナードレイアウト図
    画像7(右) 
    メインプロムナード整備イージ図

    ④ 
    メインプロムナード(画像6、7参照)
    原爆死没者慰霊碑から原爆ドームを見通したときの軸線に沿って並木を整備して、軸線を顕在化させるとともに、歩行者動線として活用する。
    ・西側民間施設(商議所ビル等)は、平和記念資料館本館~原爆死没者慰霊碑~原爆ドームの眺望景観改善のために、土地保有者との話し合いの場を持ち、移転前提の協議を行う(下記画像8、9参照)
    ・旧市民球場の歴史を継承するために、勝鯉の森の保存、ホームベースやマウンドをモニュメントとして再現。
    ・周辺地域との回遊性の向上を図る
    南方面ー相生通りの横断歩道拡幅、原爆ドーム前のリバーウオークの拡充。
    北方面ー園内、地下道の案内・誘導サインの充実と地下道の改修。
    東方面ー計画地とバスセンターを結ぶぺデストリアンデッキの整備。文化施設(構想中)整備時に、自転車駐輪場の同施設内移転。
    西方面―現民間施設群跡地の中央公園への編入。水上交通との連携。

    ブログ主の感想 
     メインプロムナードだが、非常に重要だ。平和記念公園諸施設と中央公園諸施設を繋ぎ一体化を演出する肝となる。私が以前より跡地スタジアムに反対する理由は、景観上、複合開発不可能の問題もあるが、この場所にスタジアムが出来ると動線が寸断され、隣接する平和記念公園、中央公園、近隣商業施設の連動性が乏しくなる。この欠点を補うほどの集客力があればそれはそれで良いのだが、年間二十数試合のJクラブではそこまで望めない。イベントなどの多機能活用も芝の養生期間もあり、現実には難しい、と思ったからだ。このメインプロムナードは跡地一体、中央公園内諸施設、バスセンター、紙屋町商業施設の有機的なネットワークの起点となると考える。

     西側民間施設については、早急な移転が望ましい。今年に入り、サミット外相会談、オバマ大統領の訪問が相次いだ。原爆死没者慰霊碑から望む眺望景観で、原爆ドームの背後にでかでかと映る商議所ビルの無粋ぶりが何とも言えない光景を醸しだていた。その光景を見て、素晴らしいと思った人間はいないだろう。相手所有の土地を購入する話なので、時間とコストがかかると思うが、粘り強く交渉してほしいところだ。

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    画像8(左) 商議所ビル等がある慰霊碑からの景観
    画像9(右) 移転後の
    慰霊碑からの景観
    15 
    旧市民球場跡地屋根付きイベント広場案について 
    ~整備概要 3~ 画像引用元 旧市民球場跡地の空間づくりイメージより


    整備概要図(文化芸術ゾーン)
    画像10 文化芸術施設建設(構想中)予定図

    ⑤ 文化・芸術施設について
    文化・芸術施設整備を図り、広島発の文化芸術を国内外に発信するとともに動線強化を図る。
    ・文化・芸術施設建設に当たり、以下の点を考慮する。
     a-中お公園内老朽公共施設の機能更新期(築34~51年)であること
     b-各施設をつなぐ動線強化が求められていることを考慮して、中央図書館敷地も計画範囲とする。
    ・今後、広く意見を募り導入機能の検討を進め、施設配置等の具体化を図る。

    ⑥ 整備スケジュール・概算事業費について

    ・緑地広場エリア
    基本・実地設計ー2015~17年、工事ー2017~18年、利用開始2019年~
    ・文化・芸術エリア
    機能導入に向けた検討ー2015~19年
    ・水際エリア
    西側民間諸施設(商議所、PL教団ビル等)の移転に向けた協議2015~2019年度

    概算事業費ー27.9億円(飲食物販施設整備費、民間施設移転費、文化・芸術施設建設費は含まず)

    ブログ主の感想

     最近になって、イレギュラーな出来事が起きた。この記事の元ネタは昨年1月の公表の「
    旧市民球場跡地の空間づくりイメージ」だが、この時点では、文化・芸術施設以外の新たな公共施設の追加は予定されていなかった。例のスタジアム問題の余波で、新規建設公共施設が3施設になる可能性がある。都市公園法で定められている余地は27,300㎡。 ~現行制約条件の確認~(1‐(3)参照) この余地で、3施設の建設は不可能で、施設の複合化は避けられない。サッカー専用スタジアムが割り込むことで、資金調達法を巡り、議論の長期化は避けられないだろう。スタジアム問題と分けるのか、それとも同じ中央公園内ということで一体的な検討作業をするのか、先が読めない。私はスタジアム最適地が中央公園自由・芝生広場に決定した場合、一体的な議論をするべきと考える。ただ、浅く広く使われる図書館や文化ホールとは異なり、サッカー専用スタジアムの場合は利用者が限定され、公益性の面からも自由な複合開発が可能な土地の方が良いとは思うが。スケジュールについては、緑地・広場エリアについては来年度半ばからの着工が予定されている。市長支持の保守系会派からも早期着工を望む声が強く、何かと反対しそうな会派(革新系)の議員も、この計画には反対しようがない。

    16 最後に


    画像11 現在の旧広島市民球場跡地の様子(アンドビルド広島より)

     市民球場移転が移転して、7年。前市長時代には議会で政争の具に使われ、現市長となリ議論は仕切り直しを迫られ、リ・スタート。その後Jクラブのクラブライセンス制度が導入され、スタジアム規定が変更された。今度はスタジアム要求闘争に使われた。そして前社長が市長選出馬する異例の事態までに発展した。よく「広島の闇」なるフレーズを耳にする。意味不明だが、頭を捻って考えると意思決定の遅さとベストな選択が出来ない地域体質を指しているのだろう。私は「広島の闇」等は存在せず、当事者のネガティブ、屈折目線で見た場合の個人の影、闇の投影だと思っている。

     「広島の闇」なるものが仮にあるとすれば、その役割を前市長時代政争の具やスタジアム要求闘争に関わった人間全てが、悪い意味で果たした言える。政争の具に使われなければ、今頃は折り鶴ホールありのイベント広場が、スタジアム要求闘争がなければ来年には屋根付きイベント広場が誕生していただろう。結果的に、跡地利用の足を引っ張っている。現行案がベスト案と思わないが、4つの壁「国有地」「都市公園法」「ドーム前のバッファゾーン」「手狭な敷地」や目前にある平和記念公園を思うと、そう悪くない案だと思う。現在紙屋町地区は、2000年施行の大店立地法(ウキペディア)により郊外型大型商業施設が乱立して、虫の息になりつつある。2009年の市民球場移転もこれに拍車をかけた。現在広島駅周辺では、再開発事業が進められている。全て完成すると、更に追い打ちをかけられる可能性が高い。これ以上の停滞は許されないところまで来ている。




    終わり



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    前回記事 近況について色々と 33

    1 私のブログ史 その1

    平和記念公園1MAZDA Zoom-Zoom スタジアム 広島
    画像1(左)平和記念公園の様子、画像2(右)マツダスタジアムの様子 共にひろしまナビゲーターより

     最近、闘病記も 
    カープと私の山あり谷あり人生筋ジストロフィーの少年との出会いばかりで、近況についてあまり書いていない。長文記事にするほどのネタがなく、代り映えしない単調な日々を送っているので書くことに困っている。障害者福祉を取り上げて記事にするのも悪くないが、3級では収入の関係で恩恵はなし。基本的には恩恵がないものに興味がわかない。前回記事もカープと現ブログ開設1周年をネタにした。今日は私のブログの歴史を振り返りたい。と言っても歴史を語るほど古くはない。僅か2年半でしかない。一応時系列順に追いかけてみる。前回、カープ記事とゴッチャにしたので改めて書き直す形としたい。

    Ⅰ ヒロさんの広島の都市問題を考える 2014年3月~6月

     ブログ開設の理由は、持病の封入体筋炎の周知と愛読ブログの1つだった鯉党@さんの「鯉党のひろしま街づくり日記」に触発されたからだ。その当時一番関心が高かった、広島市の都市交通問題などを独自の感覚で記事にした。開設当初は、当然過疎っていたが、鯉党のブログにリンク貼りして頂き、その後アクセス数が飛躍的に伸びた。これは私のブログの実力ではなく、鯉党さんのブログの為せる業だった。このブログ、慰安現在と決定的に違う点があった。画像を一切貼らずに記事投稿していた。現在はネット上親しくさせてもらっているブロガーの方の記事画像や行政系のHPの画像、そしてユーチューブの動画の画面付きリンク貼りを一記事当たり3~4枚貼り付けている。今思うと、味気ない記事を良く投稿していたな、である。それでも1日500件前後のアクセスがあった。しかし、自宅で尻もち転倒をしてぎっくり腰となり、数日寝込んだことや請負仕事の増加で2カ月ほど休止した。



    画像3 広島市南区にある広島大学病院診療棟、タクシー、バス乗り場の様子

    Ⅱ ヒロさんの大放言ブログ 2014年7月~2015年9月

     
    ヒロさんの広島の都市問題を考える」のタイトルと背景のデザインを一新、過去記事も削除してリニューアルオープン感覚で再開した。ブログURLは変えなかった。より深く切り込み、考察する姿勢を鮮明にした。そして控えめにしていた批判的な文言も躊躇なく入れた。これは後々の大きな災いとなり、自身に跳ね返ってきた。1つのテーマにい絞った短期集中記事と、中国新聞の記事紹介から考察する記事、そして封入体筋炎の闘病記らしきものの3本立てだった。2014年度中は、アクセス数400~600PV/日、訪問者数170~200人/日だった。コメントもたまに荒れたものもあったが、そう目立たなかった。街づくり系のブログでは、地元に批判的な内容の記事を書くと、自分が馬鹿にされた気分となり熱くなる人間が一定数存在する。唯一心の拠り所が現実世界の仕事、家族、趣味ではなく、「広島」や「日本」という抽象的かつ朧気(おぼろげ)なものだと、美化されやがては至高のものとなり、昇華されるのかも知れない。そんな人たちが大挙して押し寄せたことがあった。

     広島市長選記事である。これは2015年1月~4月にかけて30回近くのロングセラー記事だった。丁度その頃、広島のスタジアム問題もこじれにこじれていた。私は街づくりの観点から興味を抱き、最初は跡地がベストと思っていた。その後、サンフレサポーターと思しき方々のネット内のご活躍を見るに至り、「なんじゃ、こいつら?」と思いやめた(笑)別にサンフレのスタジアム問題の取り組みを批判しただけで、サンフレの存在を否定したこともないし、サンフレを気に留める生活スタイルではないが、試合結果ぐらいの関心はある。まあ、無関心以上ファン未満だと思う。ただサンフレ前社長の出馬の経緯、露骨なワンイシューぶり、私企業への利益誘導の「法衣の下の鎧」が見え隠れして、「流石にこれはなぁ~」と思った。首尾一貫して現職候補支持だった。理由は「変える必要がない」である。当初から3~4倍程度の差がつくと予想した。サンフレファン、サポーターで広島市に選挙権を持つ人間が3~4万人。それに加え、保守系の批判票の受け皿として3~4万程度がその根拠だった。結果は4倍近い差となり、予想は大体当たった。 

     市長選記事では、新人保守系候補の主張の矛盾点を具体的な事例で批判した。これがどうやら一部過激支持者の癇に障ったらしい。それは当然だ。彼らは先に説明した「広島」「日本」の代わりに、「サンフレ」を置き換えている。それを汚すのだから、批判を通り越して侮辱、名誉棄損と受け取る。彼らの笑えるところは、他人の主張にはそれを当てはめる癖に自身の主張については、言葉汚く罵る行為を是としたことだ。コメントも荒れたものが多く、中には無関係の事を持ち出しブログ内メール機能を使われ罵倒されたこともあった。主張を転換したり記事削除しなかったのは、私の主張が実社会では一般的な常識的なものであること。ネット世界は一種の独自空間で、根拠なき世迷言があたかも表に出ない真実のように語られることが多々あること。要は正しい自信があったからだ。これが理由である。お陰でアクセス数は飛躍的に伸びた。1,000~1,500PV/日、訪問者数400~500人/日が当たり前となっていた。期間中、多くの掲示板にリンク貼りされ、アクセス1万PVを超えた日もあった。前回記事でも書いたが、余りにも酷いコメントが続いたので、総務省の「誹謗・中傷の~」をリンク貼りをした。これも批判対象とされた。

     市長選が終わり、アクセス数も落ち着きを取り戻した。しかし、一部の心ない人間の粘着は続いた。開示されないブログメール機能で悪態をつかれた。コメント欄、ブログメール機能停止も考えたが、持病関連の読者の事もあり踏み切れなかった。ここまで来ると、主張云々を通り越して、ある種の恐怖を感じた。この人たちは、何かしらの憎悪対象を求めていて、私がターゲットになっただけだ。同情はするが、二度と関わりたくないが本音だ。

    画像4 投票終了の数分後に当選が決まった松井市長の様子(2015年4月) 対立新人保守系候補は、広島の危機を訴えたが、有権者の心には響かず大差で敗れた。

    2 私のブログ史 その2


    画像5 ヒロさんの大放言ブログの最終記事

    Ⅲ 封入体筋炎患者闘病記 2015年9月~現在

     ブログURLを変えてモデルチェンジではなく、フルモデルチェンジを思いついた。そして持病中心のブログを立ち上げた。最初の数カ月は、持病中心の記事ばかり書いた。集中した理由は、ある程度数が増えれば検索エンジンに引っ掛かりやすくなり、こちらが求める読者層を呼び込めると思ったからだ。広島系記事は、脳のリハビリ感覚で書いているが、持病関連記事はガチである。同病、筋疾患患者の方、そしてご家族が悩んでいる方との情報交換や交流を深めたい意図がある。ツイッターも活用して、広がりを持たせようと考えた。もう1つは、にほんブログ村ランキングに参加した。前ブログも参加していたが、形だけでランキングバナーは張り付けていなかった。このサイトをブックマーク登録して、そこから検索する人が意外と多いのである。所属カテゴリーは広島市情報と、難病(特定疾患)として割り振り率は単純に各50%ずつとした。問題が多かったブログメール機能は使わず、コメント欄は残した。この時は、記事ごとのコメント禁止処置のやり方が分からず、考え抜いた末そうした。

     2016年に入り、広島駅周辺再開発のまとめ的な記事を書いた。それまでは、医療や社会保障などの時事問題を記事として書いていたが、広島の地元開発ネタを取り上げたのは、このブログでは初めてだった。意外にも多くの方にアクセスして頂き、少し調子に乗って色々と手を広げた。闘病記時よりもこうした記事の方がアクセスが増えるのは分かっていたが、持病ネタもある程度書けば書くことがなくなる。日々の更新を目標にしていたので特に拘りなく、記事投稿した。色々とバランスを考え、都市開発系の記事ばかりにならないように配慮した。社会保障や家族の事、そして闘病生活など1つのジャンルに特化しない方向を目指した。そして前ブログで切り込み過ぎて、関わりたくない人たちを結果的に召喚したのでその辺も考え、刺激しない文言を使うようにした。理解に苦しむが、こうした餌(こちらのその意図はないが)を涎(よだれ)を垂らして待ち侘びている人たちもネットの中で実在する。


     6月に記事ごとのコメント禁止処置方法が分かり、すぐに対応した。元々、ネットの議論など意味がないと思っていた。議論とは、互いの所属等をオープンにした上で一定の方向性の中で、節度ある話し合いだと考える。相手の主張もよく聞き理解するのが最低限のエチケットだ。そして無駄な時間としないために最低限の知識と判断能力を持った人間同士が参加する。そして議論後には建設的な結論、今後の方向性などを求め
    るために行うのが常だ。ネットでは匿名性のバリアの中で、言いたい放題でお粗末この上ない。愚にもつかない感情論に終始するのがオチだ。私はこうした考えなので、広島系記事についてはコメントは不要と思った。そもそも個人のブログに、公平性を求め議論を行う発想そのものがおかしい、とも考える。

     それでも意見なり感想なりを言いたい人は、ツイッターを通してお願いします、とした。本アカウントで荒らしコメントをする人などいないと思い、そうしている。これでブログ管理人とコメント者の匿名性は形の上で対等になる。その意味もあった。「
    形の上で対等」に拘るのは、前ブログでコメント欄を我が物顔で荒らした面々は、普段はツイッターのアカウントでご活躍されている人たちが別ハンネでコメントしたと、勝手に予測した。根拠はないが、状況判断でそう思った。こちらにその手の人たちを関わる意思がなくても、頼みのしないのに勝手にやって来る。ツイッターの本アカウントだと、軽率なことは流石に言えない。お陰でストレスフリーになった。快適そのもである。広島系記事コメント不可処置は正しかったと思っている次第だ。現ブログの方向性のお陰で、ツイッターのフォロワーさんの中に、ご家族が私と同病の方が複数人いる。希少難病故、情報が少なく疾患関連記事更新が滞って大変心苦しく思っている。


    画像6 にほんブログ村広島市情報画面 カテゴリー3~10位が定位置だ。


    3 私にとってのブログとは?

     端的に言えば、広島系記事は脳と指先の筋低下を防ぐリハビリの1つで、そして暇潰し、大人の落書き帖。持病関連記事は、同病、その他筋疾患患者、そしてご家族にこうした難病患者がいる
    方との情報交換、交流の場と考えている。アクセス数は気にならないと言えば、嘘になるが絶対ではない。100PV/日、訪問者50人/日程度であれば特に問題視しない。現在はアクセス数300~400PV/日、訪問者数200~250人/日で推移している。特別なことがなければ、このレベルが限界かなと思う。広島系記事は如何にも広島の将来を憂いて、警鐘を鳴らしている文体で書いているが、実際にはそこまで深刻に考えているわけではない。それを左右する立場でもなく、ネットの世界で完結する程度のもの。

     現実世界の私の関心事は家族を経済的に守ること、息子の将来、自身の持病、親兄弟で次が日本、最後に広島となる。家庭持ちの方は大体、こんな感じだろう。家族で広島の将来など語り合ったことなどないし(笑)最近は時節柄、カープの話題はよく出る。家内と息子がカープファンになりつつあるし、地上波放送も増えた。ただ、前ブログ時代からアクセスして記事を読んでくれている方は、本当に有難い。長文で読みにくく、回りくどい表現だったり、独自の言い回しをよく使うので読むのに大変だろうと思う。こうした古い読者の方は大事にしたい。アクセスを重要視しないといっても、多ければやはり励みにはなる。今後の展開だが、特に深くは考えていない。情報コンテンツを目指すつもりはないし、こちらも暇潰しに書いているので読み手も暇潰し感覚で気軽に立ち寄れるブログであれば、良いかなと思う。更新ペースについては、週に4~5本を一応の目安としている。在宅勤務なので、健常者時代よりは時間が取れ、平均30分~1時間半程度で書き上げる。土曜日の記事更新が少ないのは、金曜日の夜、土曜日は丸一日請負仕事をこなしているからだ。請負仕事がいきなり増えて面倒になると、数カ月単位で休むかも知れない(過去に3度あり)。体調に細心の注意を払い、飽きが来ない程度に更新し続けたいと思う。今後も宜しくです。




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    シリーズ記事 カープと私の山あり谷あり人生
    関連シリーズ記事 持病の始まり
    関連記事1 
    広島東洋カープ25年ぶりの優勝

     このシリーズ記事、過去のカープとの関わりをベースに自分の人生を回顧録化しています。随分と前の話なので、多少過去を美化しています。考察系記事ではないので、中年オヤジの与太話として読んで頂ければ、幸いです。今日の筋疾患発症後の2008年以降の話です。内容が少し重くなります。

    11 遂に奴が舞い降りた
    人生最大の地獄を味わった2008~09年


    画像1 2008年秋、大学病院に転院する前にMRI検査を行った佐伯区の原田病院(公式HPより)

     2006年の東京での大学の同窓会から2年近く経過していた2008年春、遂に奴が私の身体に降臨した。当時の私は結婚8年目、支店の管理職も2店目を務め仕事も順調だった。転職で激減した給与も9割近くまで回復。東京と地方との生活格差を考えると、ほぼ回復いや上回ったといっても良かった。一人息子も7歳で小学校2年生となり、かなりヤンチャで運動神経も抜群に良かったので、地元のスポーツ少年団でサッカーをさせていた。家内との関係も良好で、唯一の不満は息子が寝付いた時間にしか帰宅出来ず、寝顔しか見れない事だった。その代りと言っては何だが、土日は極力、用事を入れず息子のサッカーの練習や試合などに付き合った。当時の私の携帯電話の待ち受け画面は息子の写メと、息子が幼稚園の時に書いてくれた私の似顔絵だった。その私も30代が終わり、人生の折開始地点の40代に入っていた。そう、これからがサラリーマンとして、本当の意味でスタートだった。20~30代など、ヒヨッコで人生の前座に過ぎないと。少なくともこの時点ではそう考えていた。

     奴との初遭遇は些細な日常の変化だった。シリーズ記事 ~持病の始まり(余命を知った日)~ で詳しく書いたが、階段の昇降で最上段近くになると太腿裏の筋肉(ハムレスリングス)に軽い張りを覚え、左ひざ崩れ(左足からの転倒)、手に持っているものを落とし始めた。歩いていても人に追い越されることが増えた。この時には、筋疾患を発症していたのだが、当然そんな意識は皆無。毎日起きる現象でもなかったので、加齢性の体力低下と軽く考えていた。多くの筋疾患患者同様深くは考えず、この後地獄の日々が待っているとはこの時は思いもしなかった。初期症状を感じたのが2008年4月、2カ月くらいは週に1度あるかどうかの頻度だった。初夏に入り、その現象が起きる間隔が短くなった。今思えば、この時点で既に発症前の筋力の半分近くは失われていた筈だが、この時点でも加齢性の衰えと疲れを理由に納得していた。愚かと言えば愚かだが、小学生の頃より風邪を引いて熱など出したことがない。体調が少し悪くても数分動けば元に戻り、会社の健康診断でも悪いところが1つもなく、健康には自信があり、病気の自分を想像出来なかった。驕りと言われれば身も蓋もないが、聞いたことがない疾患名の難病を発症したと予測できる人間など絶対にいやしない。

     夏場以降、稀な現象が日を置かず起きるようになり、ようやく自分の身に重大なことが起きている事を自覚した。夏の終わりを告げる9月に、初めて
    近所の整形外科を受診した。最初は、神経伝達系理由の筋力低下が疑われた。神経の滞りを良くする薬を服用していたが、一向に改善しなかった。詳しく見てみようということになり、佐伯区の入院施設がある整形外科にMRI撮影の予約を入れた。無理に時間を作り平日撮影に赴いた。その週の土曜日に通院していた整形外科を再度受診した。ここで思わぬことを告げられた。筋低下と神経障害との因果関係はなく、筋肉の問題による筋低下の疑いがあるというものだった。整形外科の範疇ではないので、4大病院(広大、県、市民、日赤・原爆)を紹介したいと。そして2008年10月広島大学病院に転院した。大学病院転院前後~最初の疾患名であるミトコンドリア脳筋症と診断される約半年が、人生最大の底の期間だった。地獄という表現が生ぬるく感じるほどだった。発症後20~25年で死に至ることを知り、死刑執行期間が長い余命宣告を突き付けられたようなものだった。メンタルも崩壊寸前まで壊れかけ、危うく別の世界の住人になりかけた。

     酷い時期には、脳の中を黒いモヤモヤが支配して、気が狂いそうになりそれが日に何度も登場した。嘔吐、頭痛は当たり前、突発性難聴にもなり、暗い部屋で寝れなくなった。大学病院転院後も、筋疾患ではないことを証明するために自宅のPCを夜中や休みの日に検索しまくった。別理由の筋低下であってほしい、と願っていた。しかし、検索すればするほど、この願いはを打ち砕かれた。絶望が私の心を支配した。年齢40歳を超えて、世間での一通りの経験は積んできたつもりだったが、こうした場合の処方箋はなかった。憂鬱(ゆううつ)な暗澹(あんたん)たる感情が、押し寄せてきた時に、「この俺が、この程度の事で負けるものか!」と自らの心に𠮟咤するのが精一杯だった。


    画像2 広島大学病院の2008年当時の診療棟(現在の臨床管理棟) 最初の印象はお化け屋敷(笑)

    12 
    2009年の大きな出来事 その1
    難病患者として。変わった死生観

     この崩壊寸前のメンタルは、家族の助けと私自身の努力で克服した。克服というよりは、「慣れた」がより正しいかも知れない。家内と息子、この存在が非常に大きかった。「大変だが、こんなことをしている場合ではない」と、開き直ったのだ。自身のメンタルの強さと鈍さが功を奏した。一時の窮地は脱したが、疾患の進行を体感する度に襲われる恐怖に数年悩まされることになる。2009年4月、約半年に渡る検査の結果、疾患名はミトコンドリア脳筋症に決まった。筋肉に何らかの原因があり、筋委縮を引き起こすミオパチー系の疾患である。現在の封入体筋炎もこのカテゴリーだ。どの疾患も希少疾患で、治療法が確立されておらず、進行を止める抜本的な療法は存在しない。対処療法と簡単なリハビリが、唯一無二の治療となる。

     障害者になったのは2012年2月からだ。難病、障害者のフレーズは最近こそ躊躇(ためら)いもなく受け入れている。2009年当時、難病などドラマや小説の世界の話で自分が関わりを持つなど想像出来なかった。確率論で言えば関わる人間の方が圧倒的少数だ。しかし、現実は現実として受け入れ、それを抱えて生きていくしかない。現ブログではないが、前ブログで同病(封入体筋炎)と思(おぼ)しきコメント者に「完治を諦め、現実から逃げている」。別の都市問題記事では、どこをどう読んでそんな理解に至るのか、「病気から逃げている」と意味不明のご批判を頂いたことがある。逃げるも何も、座っている時と寝ているとき以外は、筋疾患患者であることを感じ続けている。これは筋肉の疾患患者独自のものだと思う。
    どんな疾患であれ、最初から完治を諦める人間などいない。健康体の人間が経験しない紆余曲折を経て、現在の心境に行き着いた。「動けるうちにやるべきことをやる」「今の自分に何が出来るか?」だ。多くの筋疾患患者の方は程度の差はあれ、同じ心境だろう。この疾患は、日常動作に関わる筋肉の問題だ。逃げ道などありはしない。どこまでも追いかけて来る。

     難病と聞くと、何やら人生の影を感じ、暗く不幸のイメージが強い。間違いではないと思うが、これはあくまでも健康体の人間が描く一方的なものだ。難病の定義は時代により変化するが、1972年の厚生省(現厚労省)の定義だと、「原因不明、治療方針未確定であり、かつ、後遺症を残す恐れが少なくない疾病」「経過が慢性にわたり、単に経済的な問題のみならず介護等に著しく人手を要するために家族の負担が重く、また精神的にも負担の大きい疾病」となっている。別に難しい病気という意味ではない。現在4,000~5,000疾患あるそうだ。ネガティブイメージの理由は、「人間の死」を彷彿させるからだろう。死が怖くないというと絶対に噓になるが、以前より恐れなくなったのも事実だ。宗教的思想で別の世界に旅立つとは露にも思わない。1つ言えるのは、どんな人間にも等しく死は訪れる。時期と理由の違いだけだ。そう思うようになった。当たり前だが命は1つしかない。失えば、元には戻らない。だからこそれの勝るものはなく、尊く至高のものと思う。

     最近「生きる権利」の対義語して、「死ぬ権利」がクロースアップ(?)されている。自殺、安楽死のことだ。私はこうした経緯から、これについては完全否定する側である。本人なりの事情があるのは理解出来る。最後の最後まで最善を尽くしたのか?、本当にその手段しか残されていないのか?甚(はなはだ
    疑問だし、死に逃げるくらいなら、自殺を思い立った事象から逃げたほうが、まだマシだと思ったりする。自分一人で抱え込まないで、他人に相談するのも手段の1つだ。それで解決しなくても、気分が楽になり発想の転換が図られることもある。結局、自殺は究極の現実逃避で無責任な所業だと思う。関わりで言えば、生を望んで死を受け入れるしかない人間の事を思えば、やはり愚かな行為にしか映らない。残された人間の事も考えるべきだ。自分一人でこの世に降り立った訳ではない。残された人間は永遠に、その十字架を背負って生きてくのだ。ただ未成年の苛めを苦にした自殺は、同年代の子を持つ親として、同情する。消極的安楽死(下記動画参照)についても、耐え難い苦痛を伴う末期がん患者の場合は本人と家族の合意があれば致し方がないと思う。
     
     2009年当時(筋疾患発症2年目)、まだ生活障害も重量物を持てなくなり、全力疾走が出来なくなるくらいで殆どなかった。よくTV等の福祉番組で、ALSー筋萎縮性側索硬化症きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)、筋ジストロフィー患者の様子を伝えている。その姿とその当時の私の状態を比較して、現実感が乏しかった。「まだ、あんな風にはならないだろ?」と思っていた。しかし、100%の確率で25~30年後に訪れる死を意識せざる負えない日々を強要されるようになった。25~30年間の時間のゆとりがあるのだから、大した問題ではないだろ、と言われたら返す言葉を失うが、徐々に身体を動かす自由を奪われ続け、最後は虫のような状態になり死に至るのだ。人としての尊厳などあったものではない。難病患者、少し遠い将来の死を受け入れた2009年だった。その受け入れには、相当の精神的なダメージを受けたのは事実で、人生最大の谷だった。この谷は底が深く、そして広かった。次回は、カープの2009年に触れたい。

     
    動画1 
    知の回廊 第109回「安楽死・尊厳死をめぐる法対応 ー終末期医療の現場からー」


      

    続く。

     


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