封入体筋炎患者闘病記

 封入体筋炎患者のヒロです。病歴は2019年で満11年、12年目に入りました。在宅勤務の仕事とリハビリの日々を送り、細やかながらも家族3人で暮らしています。ブログ記事は闘病記と広島地元ネタ、社会保障などの時事ネタ中心です。希少疾患の封入体筋炎の周知が目的です。関心があれば、ツイッターなどでご紹介していただければ幸いです。疾患関係で直コメントが苦手の方は、ツイッターのダイレクトメールを利用してください。封入体筋炎の闘病史は各進行段階の症状や生活障害、必要な社会保障制度等をまとめています。良ければ参考にしてください。最新の封入体筋炎の状況は『近況について色々と』、取り組んでいるリハビリについては『2019年春~夏 筋疾患(封入体筋炎)リハビリ』にて素人の体感目線で書いています。モバイル版で読みにくい場合は、PC版に転換してからお読みください。

2016年10月

関連記事 1 広島カープ日本シリーズ進出決定
関連記事 2 広島東洋カープ25年ぶりの優勝!!!!!!
 
 広島東洋カープが25年ぶりの優勝を果たし、34年ぶりの日本一の期待がかかった日本シリーズ、思いの他あっけない幕切れとなった。セ・リーグを圧倒的な力で制覇して、86、91年優勝時よりも力では勝っていたので落胆も大きかった。敗因を探しても仕方がないと思うかも知れない。しかし、失敗を教訓にするためにも敗因を抉(えぐ)り出して、よく考える必要がある。サッカーの日本代表戦を見て地団駄を踏み悔しくなることはあるが、野球を見てそうなったの久しぶりだった。まずは、中国新聞記事紹介か始める。
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日本シリーズ 2016 コイ日本一逃す
日ハムに2勝4敗 ~10月30日中国新聞1面より~


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10月30日中国新聞1面より

 プロ野球のSMBC日本シリーズ2016は29日、広島市南区のマツダスタジアムで第6戦があり、日本ハムが広島東洋カープを2-4で下し、対戦成績を4勝2敗として、前身の東映時代を含め、10年ぶり3度目の日本一に輝いた。3連敗で迎えた広島は、4-4の8回の裏2死満塁でジャクソン投手が押し出しの死球を与え、勝ち越しを許した。さらにレアード選手に満塁本塁打を浴びるなど、この回一挙6点を奪われた。「逆転日本一
」を信じるスタンドに3万693人が詰めかけた。大声援に後押しされたものの、打線は終盤、無得点に終わり1984年以来の日本一を逃した。敢闘選手にこのシリーズで3本の本塁打を放ったエルドレッド選手が選ばれた。
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コイ敵わず終章 打撃陣勝負強さどこへ
10月30日中国新聞面18~19より~


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10月30日中国新聞18~19面より 

 菊池が二飛に倒れた瞬間、カープナインの日本一への挑戦が終わった。リードを奪うものの、好機で追加点を挙げられず、回を追うごとに日ハムペースに。セ最多の得点力を誇った自慢の打線は悔しさにまみれ、胴上げを見届けた。繋がりが乏しかった。2点を追う4回一死一、二塁から代打攻勢。安倍が一ゴロに倒れ続く新井もバットが空を切った。続く⇒
コイ敵わず終章 打撃陣勝負強さどこへ 

ジャクソン悪夢八回炎上 
10月30日中国新聞面より


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10月30日中国新聞18~19面より 

 
目を疑うような光景が広がり、逆転日本一の夢は絶たれた。同店の八回にジャクソンが6失点して勝負は決した。いつもの笑みは完全に消え、現実を受け止められない表情でベンチに下がった。2死後に崩れた。3連打を浴びて満塁。打つ気満々の中田翔にストライクが入らず、押し出し死球で勝ち越しを許した。首脳陣はセットアッパーを続投させたが、投手のバースに中前安打。続く⇒
ジャクソン悪夢八回炎上 

屈辱 黄金時代の序章へ 
10月30日中国新聞面より


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10月30日中国新聞18~19面より 拡大図(要拡大)

 抜群の安定感で今季最多勝を獲得した野村が、最後に散った。4回を7安打4失点。「いろんな球を使って投げたがうまく打たれ、リズムを作れなかった」
言葉には悔しさが滲(にじ)んだ。続く⇒屈辱 黄金時代の序章へ
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1 予想外の2勝4敗の敗戦 何が原因か?
結局のところ監督の差か? 


画像4 第3戦の松山の痛恨の失策。3番の大谷を敬遠、4番の中田翔との勝負に出たが最悪の結果となった。大谷本人は自信がなく、敬遠されて助かったと思い捕手の石原に「有難うございます」といったそうだ。

 日本シリーズのような短期決戦だと、流れに乗った方が制するとよく言われる。第1、2戦のカープに傾いていた流れを寸断して、日ハムに渡してしまったのは第3戦の松山の失策だ。あそこでダイビングキャッチではなく、単打で止めていれば同点止まり。裏の攻撃で得点を挙げていることから、高い確率で勝利していたかも知れない。痛恨の極みと言える失策で、シリーズの分岐点となった。その悪しき流れを食い止め、良い流れを引き寄せるの監督采配だ。短期決戦仕様の采配を振るい、流れを引き寄せた日ハム栗山監督。その一方でシーズン中と同じ戦いで臨み、失敗に終わったカープの緒方監督。この差が結果にそのまま反映した。その好例が、セットアッパーのジャクソンンン起用法だ。2016年シーズン、先発投手陣の弱体化を懸念される中カープが他球団を圧倒した理由に、先発+中継ぎ+抑えの万全の体制を築き上げた事がある。ジャクソンはその一翼を担った。彼の貢献度は数字以上のものだった。
 
 しかし、今シリーズは調子が今一つで、シーズン中の活躍は影を潜めていた。しかし、緒方監督はジャクソンを使い続け、第6戦ではこのシリーズを象徴するかの如く、大炎上した。試合をぶち壊したジャクソンに非があるの明らかだが、それ以上に非があるのは、「シーズン中もこの戦いでやって来たから」等と言い放ち、マウンドに送った緒方監督である。第6戦はジャクソンではなく、あの場面は大瀬良で行くべきだった。「たら、れば」は禁物だが、栗山監督の采配が見事だっただけに恨み節も募る。チームの柱となる絶対的な選手以外は、調子が良い選手を使うのはどのスポーツでも常道だ。不調だったジャクソンを使い続けた半面、福井、一岡の出番はなく、先発、中継ぎの使い勝手が良いヘーゲンズの出番は2試合のみ。勢いと圧倒的な試合運びで陰に隠れていた緒方采配の迷走ぶりが、大舞台で復活した形となった。後日談だが、第6戦の8回二死満塁で4番中田の場面、次の打者は5番投手のバース。栗山監督はネクストバッターサークルに大谷を控えさせた。ジャクソンは、地獄の審判を待つ表情で投げ続け、押し出し。バースがそのまま打席に入りタイムリー。ここが最後の替え時だったが、続投。火に油を注ぐ結果となった。栗山監督は完全ダミーで大谷を使っただけだ。監督の差を示す端的な例である。マスコミが作った実際以上の大谷の姿に怯え過ぎだ(笑)

 2016年を振り返るとセ・パ12球団で戦力が頭1つ抜けているのはソフトバンク、それに次ぐのがカープ、日ハム。この2チームよりも少し落ちて、巨人、ロッテだと思っていた。セ・リーグだけで見れば、カープの力は突出しており、競り勝っての優勝ではなく、堂々たる横綱相撲で25年ぶりの栄冠を勝ち取った。先発が崩れても早い回で追いつき、中盤に同点、逆転して12球団一の中継ぎ、抑えで勝利をもぎ取った。逆転する試合は数多くあったが、実力が拮抗した相手はなく今シーズンに限れば実力差が大きかった。一方の日ハムは、最大11.5ゲーム差をひっくり返して4年ぶりのリーグ制覇をした、特に後半戦は実力が少し上回るソフトバンクと熾烈な首位争いを演じ、競った試合での勝ち方を知っていた。監督采配の差、実力が拮抗した相手との勝ち方を知っている、この2点がこのシリーズの明暗を分けたと思う。平たく言えば、監督を含めた経験値の差だろう。カープが第7戦まで届かなかったのは、初優勝の1975年の阪急との日本シリーズ以来である。戦力が随分劣っていた1991年時でさえ、黄金期の絶対王者の西武に第7戦まで戦っている。


画像5 10月30日中国新聞面より 拡大図(要拡大)

2 さて、2017年のカープは?

 戦力を見ると不動の1,2,3番に成長し、安定期に入った「タナキクマル」は大きな故障がなければ、今シーズン同様にそれなりの活躍が期待出来る。問題は4番だ。今シーズンも固定せずに新井、松山、エルドレッド、ルナなどの選手を兼用した。ルナの退団が決まり、新井は来年40歳、エルドレッドは37歳となる。今年以上の活躍は厳しい。今年覚醒した鈴木誠也を、そろそろ本当の4番として起用する場面があるかも知れない。今シーズン、大ブレイクした鈴木誠也だが、重圧が少ない5~6番での起用が多かった。栗原健太以来の和製4番誕生を期待したい。打撃陣に関しては、今年4番を打った選手の高齢化以外は特に心配していない。

 心配なのは投手陣である。黒田が今シーズン限りで引退した。先発投手陣の3本柱の1つが抜けてしまう。1年通して先発ローテーションを守り切り、尚且つ二桁勝てる投手を育てる必要がある。先発3番手候補としては、今季の成績を見る限りヘーゲンス、福井、岡田となる。この3人は、今シーズンもそこそこ勝っている(4~7勝)。故障さえなければ、二桁勝利が可能な実力を兼ね備えている。今シーズン野村祐輔のような覚醒を期待したい。その野村だが、流石に今シーズン並みの期待は難しいが毎年ローテーションを守り、常に二桁勝てる投手になって欲しいところだ。3番手候補に挙げた3人に加え、このままだと沢崎2世になりそうな予感がする大瀬良の4人のうち、2人覚醒すれば今年以上の万全の体制となる。2016年シーズン唯一下がったのはチーム防御率だ。2015年ー2.92に対して、2016年ー3.20と0.3も悪くなっている。今年は中継ぎ、抑えの踏ん張りと打ち勝ちで、25年ぶりの優勝を勝ち取った。先発投手陣が安定すれば、先発以降の投手の負担も軽減する。今村や一岡は故障(右肩)した経験があり、再発のリスクを抱えながら投げ続けている。中田簾の二の舞は避けたい。個人的には先発投手陣の底上げが、来季の課題だろう。これがクリア出来れば、第2次黄金期も夢でなくなる。

 日本シリーズは残念な結果となったが、25年ぶりの優勝を果たし広島県・市民に大きな感動と勇気を与えてくれた。私も優勝マジック点灯後、地上波放送があれば時間の許す限り、全試合TVで観戦した。単純な競技としては野球よりもサッカーの方が嗜好に沿うのだが、やはりカープだけは特別である。家内と息子がカープファンとなった今、高校生以来のカープファンに戻ろうか、検討中である。今から来シーズン開幕が楽しみである。





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 愚かな判断ミスで84人(教職員10人、児童74人)の尊い命が失われた。「愚かな~」と書くと反発する方もいると思うが、犠牲となった84人は、東日本大震災ー天災理由ではなく、あり得ない判断を下した教職員の判断ミスー人災理由で亡くなったからだ。その証拠に、大川小は、学校単位では最大の津波被害を出した。そして、憤りを感じた遺族23人が、石巻市と宮城県相手に損害賠償を求めた。そして仙台地裁は異例の判断を下した。まずは中国新聞記事から紹介する。
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津波被害大川小に過失 遺族に14億円支払い
仙台地裁判決「危険予知できた」 ~10月27日中国新聞1面より~

 東日本大震災時に学校で最大の津波被害を出した宮城県石巻市立大川小学校を巡り、死亡・行方不明になった児童74名のうち23人の遺族が市と県に計23億円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、仙台地裁は26日、計約14億2,600万円の支払いを市と県に命じた。


画像1 10月27日中国新聞1面より

 学校側は津波襲来を予見できた上、助かった可能性が高い浦山を避難先に選ばなかった過失があると民定。全国の学校防災の在り方に大きな影響を与えそうだ、大川小は、海岸から約4キロ離れ、津波の浸水想定区域の外だったが、高宮健二裁判長は判決理由で「
津波到来7分前までに教員らは、標高1.5㍍前後の校庭にとどまっていれば、児童の生命身体に危険が生じると予見できた」と判断した。学校の前を通過した市の広報車が津波接近を事前に伝え、高台避難を呼びかけたのを教員が聞いたことをその理由とした。遺族が主張した通り、裏山を避難場所とすることに支障がなかったとも指摘。「被災を回避できる可能性が高かった裏山に避難しなかった結果、津波に巻き込まれた」と、学校側の過失と死亡の因果関係を認めた。

 大川小より高い標高7㍍の堤防付近に向け移動したことについて「6~10㍍もの津波が予見される中、避難場所としては適していなかった」とした。周囲の津波の高さは約8.7㍍だった。判決後、原告団長の今野浩行さん(54)は「主張が概ね認められてほっとした」と話した。石巻市の亀山鉱市長は「市の主張が認められなかった結果を重く受け止めている。市には道義的責任がある」。控訴するかの判断は早い段階で決めるという。判決によると、2011年3月11日午後2時46分に震災の地震が発生。揺れが収まった後、教員は児童を校庭に避難させた。遅くとも午後3時半頃、市の広報車の高台への避難呼び掛けを教員が把握。同35分頃までに児童は約150㍍離れた堤防付近への移動を始めたが、同37分頃、辺り一帯を襲った津波で被災した。津波は約200㍍離れた北上川をさかのぼるなどして堤防を越え、教職員10人も犠牲となった。

命守る責任 厳しく指摘

【解説】 宮城県石巻市立大川小の児童の犠牲を巡り、市と県に賠償を命じた26日の仙台地裁判決は、自然災害時に自ら判断するのが難しい児童を安全な避難先に導かなかった学校側の責任を厳しく指摘した。続く⇒ 
津波被害大川小に過失 遺族に14億円支払い

関連記事1 わが子の声届いた(要拡大) ~10月27日中国新聞29面より~


画像2 10月27日中国新聞29面より

関連記事2 51分間あの時何が(要拡大) ~10月27日中国新聞28面より~


画像3 10月27日中国新聞28面より
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1 過失どころではない判断ミス 
未曽有の天災とは無関係の人災


画像4 震災10日後の石巻市立大川小学校の無残な姿(ユーチューブ動画撮影)

 新聞記事の茶文字部分は、この事件の肝なのであえて色付きで少し大きくした。この事件、同じ子を持つ親として憤りを感じたので、今日は感情論で書かせてもらう。こんな教師たちに、わが子を奪われた遺族の無念を思うと怒りがわく。
28面記事から、当時の様子を再現してみる。

2011年3月11日

・午後2時46分
 東日本大震災発生。各学年、クラス共に「帰りの会」(ホームルーム)が終わる頃、大きな揺れが起こり低学年クラスで泣き叫ぶ声が響いた。石巻市の震度は6強。揺れは3分間続いた。各教師は「落ち着いて避難しよう」と児童に呼び掛ける。二階の児童は階段で、一階の児童は窓から校庭に出て並んだ。
・午後2時52分
 校庭の防災無線が大津波警報の発令を伝えた。
・午後3時前
 校舎内の見回りを終えた教務主任(教職員唯一の生き残り)が校庭に出る。「山に行くか?」と裏山への避難を提案する。しかし「難しい」との判断になった。
・震災直後~午後3時過ぎ(?)
 保護者が続々と集まり始める。保護者・児童から「山の方が安全だから山に逃げよう」の声が多数に。児童の様子は「大丈夫」「大丈夫」を連呼して互いに励ましあっていた。

・午後3時20分(?)~午後3時30分(遅くとも)

 石巻市の広報車が大川小の前を通り、「松林から津波が抜けてきた。避難を」と高台避難を拡声器で呼び掛ける。先ほど裏山避難を提案した教務主任が再度裏山への避難を提案。教頭らは明確な指示は出さなかった・
・午後3時30分~午後3時35分頃

 教員がやっと川沿いの通称「三角地帯」(標高約7㍍)を避難先に定める。そして避難開始。学校より150㍍先にあり、標高1.0~1.5㍍の校庭よりも5~6㍍高い。
・午後3時37分
 津波襲来。津波の高さは約8.7㍍。児童を次々と飲み込み、児童74人と教職員10人の命を奪った。助かったのは、裏山避難を提案した教務主任と児童4人の計5人。校長は、この日は娘の卒業式で不在だった。学校単位では最大の被害となる。

 防災無線で津波襲来の危険を知ったのが2時52分。避難先を定め移動開始が3時35分頃、43分間何をしていたのだろう、と呆れ果てる。一般的防災意識として津波襲来に備える場合、周囲を見渡し一番高い場所に移動するのが常識だ。周辺図を見ると周囲に高いビルやマンションなどはなく、学校の裏手に裏山がある。どう見てもギリギリになって避難先に定めた「三角地帯」よりも遥かに高く、安全なのは一目瞭然だ。この当たり前の誰にでも分かることが何故出来なかったのか?不思議でならない。避難先の決定の遅さと何故、裏山避難ではなく北上川付近の三角地帯避難としたのか?疑問だらけである。

 私は、ここで大胆な仮説を立ててみた。それは、一個人で責任を負うことを、忌み嫌い恐れる公務員気質が仇になったと結論づけた。下手な避難先を提案して、後々問題になった場合のリスクを恐れたのだと思う。避難先を決める時、互いに様子を伺っていたのだろう。他者の命の安全という究極の責任を委託され思考停止したとしか思えない。一分一秒を争う非常時に、「お前ら何してんだ」である。愚にもつかない「小田原評定」で時間をいたずらに費やし、避難先に向かう途中に津波に飲み込まれた。浮かばれないのは、自己判断能力を持ち合わせていない児童達だ。教職員達は、その報いを死という形で受けている。しかし、児童たちは、言いつけを守りその通りに行動した。それなのに命を奪われた。大人達の間違った愚かな判断によってだ。避難先への移動開始が午後3時35分。避難先が三角地帯ではなく、裏山であってもその2分後の午後3時37分に津波が来ているので、かなりの被害は出ていたと思われる。正しく決断の遅れが、命取りとなっている。しかし、裏山であれば、多くの命が助かっていたに違いない。

 この件は避難先の選定ミスもあるが、決定の遅れも問題視されるべきだ。僅か2分では低学年の児童の事も考えると余りにも遅い。この2点の補いきれない判断ミスは誰がどう見ても、天災ではなく人災そのもので、言い訳の余地は一片たりともない。記事を読んでいて同情したのは、教職員唯一に生き残りである教務主任と校長だ。教務主任は早くから裏山避難を提案していた。その彼が運良く生き残ったのは、何やら運命の悪戯を感じる。ただ、唯一の生き残りゆえに事情を詳しく知らない遺族から、「児童の殆どが死んだのに、お前だけ抜け抜けと助かりやがって!」と、糾弾され続けていたかも知れない。校長もまた同様である。

動画1 NHKスペシャル 東日本大震災「大川小学校・遺族たちの3年8カ月」

2 宮城県と石巻市は控訴棄却、遺族に謝罪を!
道義的責任だけでは済まされない

関連記事3 大川小訴訟 市が控訴へ ~10月29日中国新聞33面より~

画像5 10月29日中国新聞33面より

 イラっとしたのが石巻市の亀山鉱市長のコメントだ。「市としては広報車で高台避難を呼び掛け、責任を果たしている。直接責任は、現場に居た教職員である。ただ、校長(私用で当日は不在)、教頭などの任命責任ー一定の間接的・道義的な責任は感じている」にも聞こえた。死んでいなくなった人間(教職員)だけに直接責任を押し付ける気満々である。首長のコメントとしては不適切だ。仙台地裁の判決の2日後の28日、石巻市は控訴を即断した。宮城県も同調する考えだ。この決断の速さも異例中の異例で、関連記事の市長コメントを読むと、反省どころかこの案件を想定外の災害が襲って来た時の行政の責任の在り方を推し量る実験と捉えているようだ。これについては疑問どころか、反省の色一つ見せない市長の態度は言語道断である。

 石巻市は、僅か2日で控訴を決めた。その早さも異例中の異例で、「反省の色なし」を裏付ける。「我々とて、未曽有の災害の被害者なのだ。ぞの時点で出来ることは最大限行った。これ以上の責任を取らされるのは敵わない。」が彼らの主張である。2011年東日本大震災関連では、学校・企業の管理責任を問う訴訟が15件起こされた。原告勝訴は4件目、うち2件は和解。そして1件は係争中だ。今回の控訴で2件目の係争となる。意外と少ないと思う方が多いだろう。浸水想定区域外で被災した場合、「津波の被害を予見するのは困難だった」と結論づけるケースが多いからだ。遺族側敗訴の例もある。大川小訴訟では状況的に見て予見可能で、避難する時間もふんだんにあったことが、大きな犠牲に繋がったと判断したのである。行政勝訴の裁判とはこの点が決定的に違う。一連の流れを見ると、被告側に非があるのは明らかだ。

 新聞報道では石巻市は係争する強い意志を持っているようだ。表に出ている資料を見る分には、「予見可能性」「避難先決定の遅れ」といった結果回避義務(コトバンク)を、完全に怠ったことは素人目から見ても分かる。高裁へ控訴しても賠償金額の増減はあっても、判決は覆らないだろう。それならば素直に非を認め、市長自ら遺族に直接謝罪するべきだ。そして亡くなった児童達の墓前で再発防止を誓う。これで良いと思う。死んだ教職員に対してはその必要はない。東日本大震災の被害者ではあるが、この件に関しては間接的な加害者でもある。彼らが人災を引き起こしたことを、決して忘れてはいけない。



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シリーズ記事 2012年 筋ジストロフィーの少年との出会い 
関連記事 
2011年病名が変わった日 1~17

 このシリーズ記事は、2012年4月に障害者能力開発校で筋ジストロフィーの少年と出会い、彼とのやり取りの中で「命とは何か?」をテーマにして書いています。内容も時に重く、死を意識した文面になることが多々あります。この記事の主人公のO君や私の場合、疾患名は違えど同じ筋萎縮の難病で、生命予後不良の中限られた環境下で必死に足掻いています。こうしたものが苦手の方や、不快に思う方も一定数いると承知しています。そうした方は読む前に引き返すことを、お勧めします。それでは始めます。


16 いざ決戦!その2
戦場に乗り込む前の最後の準備


画像1 広島グリーンアリーナ小アリーナ(右側の建物) ネット拾い画像より 

 広島グリーンアリーナ小アリーナで開催される「障害者就職合同面接会」(名称うろ覚え)を数日後に控えていた。入校して既に4か月半が経過していた。訓練校に直接来た求人で4人採用され、繰り上げ卒業していた。生徒は皆、口にこそ出さなかったが「これで絶対に決めてやる」とも思いが強かった。一部の生徒を除いては。私もそうだが、中途障害者の強い傾向として「このままでは終わりたくない」がある。人生の大半を健常者として何不自由なく、生活してきて望んでもいなかった傷病で、現在の境遇に意図せず落とされた。「落とされた」の表現は語弊があるが、本音で言えば全くその通りなのだ。間違っても「上げられた」とは思わない。我々は、言葉遊びの綺麗ごとの上っ面の世界では生きていない。障害や障害の原因となった傷病は受け入れているが、その気持ちとは別にそうした強い思いがある。特に私はその傾向が強かった。前向きに、就労を考えている人間は程度の差はあれ、同じだった。

 当日は一度訓練校に通校して、タクシーで中区基町にある会場に向かう手筈となった。通校時間はいつも通り8時20分頃、訓練校出発は8時50分過ぎ、会場到着は9時半頃、10時から合同面接会が始まる。こんな感じのスケジュールだった。持参物は、面接を受ける会社に提出する履歴書と職務経歴書(任意)。筆記用具と、簡単なメモ。恰好は当然スーツ姿だ。私も含め、車通校の生徒もいたが、駐車場代が馬鹿らしいのもあるが、訓練校〇〇科御一行様的なノリで皆で乗り込もうという話になった。前日は決戦前夜なので、どこかソワソワとした雰囲気が教室に漲(みなぎ)っていた。そういう私もその一人で、内情を話すと就職面接を受けるのは大学4年生以来だった。新卒で就職した金融機関が最後で、Uターンして再就職した広島の金融機関は、ヘッドハンティングだ。求人を見て応募して、面接の場で自己PRした訳ではない。買う側の立場だった。今度は攻守が変わり、買い手から売り手になった。柄にもなく緊張していた。

 O君も同様だった。私に「何を聞かれますかね~」等としきりに聞いてきた。健常者と障害者の面接内容の大きな相違点は、障害に係ること、就労する上で配慮すべき点、そして疾患理由の障害だと、進行の有無や数年後の状態などを差し障りのない範囲で必ず聞かれる。私は当然進行性の難病なので、その辺も回答を用意していた。就労の強い意志をアピールしても、この部分で詰まり疑念を持たれると心証は良くない、と考えた。この点を彼にアドバイスした。そして彼の場合は、車椅子障害者で自ら車の運転が出来ないので、通勤方法についても聞いてくるだろうと言った。進行についての質問は、他の同病患者よりも進行が著しく遅いこと。そしてそれを証明するために、実例を何点か挙げて説明することにしていた。実際の話、そんなもの誰にも正確な未来は予測不可能だし、担当医でさえそうだ。ましてや難病の深い知識のない人間であれば、尚更だ。出たとこ勝負のハッタリで乗り切る、これが私の作戦だった。「そんな先の事まで、予言者でもないのに分かるかよ」が本音だった。そして当日の朝となった。

17 いざ決戦!その3
そして戦場に乗り込んだ。ところが・・・・


画像2 障害者合同面接会ではないが合同面接会のイメージで(厚生労働省HPより) 障害者の合同面接会だともう少し雑然としている。

 いつも通りの時間に訓練校に通校した。当たり前だがいつもの顔が揃っている。ただ違うのは格好だ。いつもは私服のラフなものだが、この日は就労の勝負服のスーツだ。私も手持ちのスーツ12~13着の中で最も高いスーツを着てこの日に臨んだ。ここ数カ月履いていなかった革靴で、転倒しないように注意した。皆、普段とは違う姿に互いに見合ってそして笑った。和やかな朝の談笑が続いた。時間になり担任と副担任が入って来た。担任は普段はスーツの上に作業服の上だけを着ているスタイルだが、今日はその作業服を着用していなかった。副担任も同様だ。皆席に座り、朝のHRが始まった。タクシーの手配は担任が行い、9台のタクシーで乗り込むこととなった。車椅子組は、固まらず収納を考えバラバラに乗車、タクシー代は人数分で割り勘など最後の打ち合わせをした。そして、訓練校の正門近くまで移動、タクシーが来るのを待った。続々とタクシーが参上。適当に並び、乗り込んだ。さあ、待ちに待った決戦の舞台へ向かう。心地よい緊張感が心を支配した。決戦の場は、広島グリーンアリーナ小アリーナ(画像1参照)である。

 思いの他、早く到着。周囲を見渡すと、開始1時間前だが、人が結構集まっていた。杖持ちや車椅子、介護者付きの人間もいた。腰が抜けるほど驚いたのは、スーツ姿以外の人間が意外と多かったことだ。障害内容により仕方がない、との心優しい意見もあるかも知れない。これは流石にどうかと思う。それすれ不可能な障害者に就労する資格が本音部分であるのか、疑問だ。本人が望めば、権利は当然あると思う。権利より下位に位置する資格で考えると・・・・。そこまでの重度であれば、働く必要はない。これこそ仕方がないの世界だろう。就労と障害者関連団体のイベントとは別物なのだから。就労して、その対価として賃金を得る。この意味を考えないと。障害者能力開発校の生徒の評判が良いとよく言われた。最初は「???」だったが、この意味をようやく理解した。他の一般障害者との比較での評価だったのだ。不謹慎だが、多少緊張気味だった私は楽になった。「まあ負ける要素が一つもない」だった。

 小アリーナの入り口前のコンコースのクラス全員が一堂に会し、担任から最後の指示が飛ぶ。合同面接会終了後の集合時間と場所の確認である。終了しても直帰ではなく、また戻り今日の訓練は終わり、となるのだ。車も訓練校に置いているので、仕方がない。私は配布されていた会場案内図に受験企業のブースに赤丸を入れて順番を決めていた。どの企業が人気で、長蛇の列になるのかは流石に予測出来ない。こればかりは当日のお楽しみである。会場内には開始前でも入れた。少し様子を伺おうとして案内図片手に入った。10分前だったので準備は既に終わり、人事担当者同士が話している。受験企業ブースには近づかず、場所だけ確認して位置確認をした。まずは最初の企業(現在の在宅勤務先)のブースを遠目から確認した。その時だった。見覚えのある人間がいたのだ。そう、かって私が担当していた融資先の窓口の人間である。この企業を志望したのは深い訳があった。つい当時を思い出し、熱い視線を送ってしまった。当然気付かれた(笑)「〇〇さん、お久しぶりです。今日は宜しくお願いします」と声まで掛けられた。つい昔の癖で馴れ馴れしく「宜しく頼むわ」と言いかけた。流石にマズい、と思い笑顔で会釈で済ませるつもりが、大声で「こちらこそ!」と言ってしまった。まあ敬語というか丁寧語で返したので、良しとした(笑) 何やら楽しそうな1日の始まりを予感させた。


 

続く





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前回記事 男気黒田引退表明  1

 4 ドジャース時代 2008~11年
低い援護率に反比例の高評価を得る

  動画1 
黒田博樹 完璧にねじ伏せたメジャー初完封! [ドジャース時代]   

 2008年海を渡った黒田は、4月4日のサンディエゴ・パドレス戦でメジャーデビューし、初勝利。5月21日のシンシナティ・レッズ戦では8回を5安2失点に抑え、9回には斎藤隆が無安打無失点で抑え勝利し、日本人史上初の同試合での先発勝利とセーブ達成を記録した。6月に右肩腱炎で故障者リストに入るが2週間で復帰した。前半戦は17試合の先発で5勝6敗、防御率3.43、※注1WHIP1.20の成績で折り返した。結局、2008年は9勝10敗防御率3.73で終わった。勝星こそ二桁には届かなかったが、防御率とWHP、クオリティ・スタートでリーグ20傑に入り、FIPではリーグ9位の3.59を記録した。ポストシーズンではカブスとのディビジョンシリーズリーグチャンピオンシップシリーズ(共にウキペディア)の第3戦に先発した。名門ドジャースの先発陣の中で、3番目の評価だった。

 続く2009年は、野茂英雄松坂大輔に次いで日本人史上3人目の開幕投手として4月6日のパドレス戦に先発し、5回2/3を4安打1失点の投球で白星を挙げた。開幕投手を任すほどの信頼感があった。
しかし、その直後に左脇腹を痛めて故障者リスト入りした。その後復帰するが、8月のダイヤモンドバックス戦では打球を頭部に受け、再度の故障者リスト入り。9月のパドレス戦で復帰。規定投球回には達しなかったが、チームの2年連続の地区優勝に貢献した。セントルイス・カージナルスとのディビジョンシリーズは、首痛で登録を外れ登板はなかった。続くフィリーズとのリーグチャンピオンシップシリーズで第3戦に先発するが、1回1/3を6失点で降板。チームは前年に続き第5戦で敗退した。

 
移籍3年目となる2010年は、4月9日のフロリダ・マーリンズ戦で初登板し、8回5安打1失点の好投で3年連続初登板勝利を記録した。8月30
日のフィリーズ戦では、8回1死までノーヒットノーランの快投を見せ、メジャー移籍後初の10勝目に到達して二桁勝利を達成した。2010~11年シーズンは、見ていて相手からも同情されるほど、援護に恵まれなかった。あるドジャースファンのコラムニストは、「黒田はシーズンが終わったら、裁判の準備をしなければならない。訴える相手は、ドジャースナイン全員だ」と言った。当の本人もその自覚があったようで、勝ち負けは(自分では)どうすることもできないって、今年はつくづく感じている」と語っている。11勝13敗防御率3.39、投球回数196回1/3、奪三振数159とメジャー自己最高の成績を記録した。内容的には15勝以上だった。3年契約の最終年となり、FAとなった。FA選手ランクリストでは、ベスト30入りした。その去就が注目されたが、ドジャースと11月に、1年1,200万ドル(12.5億円)でドジャースと再契約を果たした。

 2011年シーズンも無援護に泣かされた。
前半戦は18試合の登板で6勝10敗、防御率3.06だったが、防御率3.06は日本だと2点台前半である。それで4つの負け越し。如何に援護に恵まれていないのか、数字の上からもよく分かる。援護もなく勝ちに見放されながらも、黒田は腐ることなく黙々と投げ続けた。2年連続のキャリアハイとなり、13勝16敗防御率3.07(リーグ9位)WHIP1.20とメジャー最高の成績を収めたが、得点援護率がリーグワースト2位であった。内容的には18勝11敗でも可笑しくはなかった。
 
※注1 WHIP
 「投球回あたり与四球・被安打数合計」)とは、野球における投手の成績評価項目の1つで、1投球回たり何人の走者を出したかを表す数値。被安打数と与四球数を足した数値を投球回で割ることで求められる。NPBでは公式記録扱いされていない。1.20未満だとエース級で、1.40以上だと問題ありと評価される。

5 ヤンキース
時代 2012~14年
守り切った先発ローテーション、勝ち得た厚い信頼

 動画2 10/3/2012黒田ヤンキースを地区優勝に導く16勝!
 
 2012年
1月13日に
ニューヨーク・ヤンキースと契約合意し、26日に1年1,500万ドル(15~16億円)で契約を結んだ。活躍の場を、ロサンゼルスからニューヨークに移した。背番号はドジャース時代と同じ18。4月13日のエンゼルス戦で移籍後初勝利を挙げる。7ブルージェイズ戦では、野茂英雄大家友和に次いで日本人史上3人目となるメジャー通算50勝を達成した。月のタンパベイ・レイズ戦ではメジャー移籍後自己最多の14勝目を挙げ、2年連続の200投球回にも到達した。この年は16勝11敗防御率3.32とヤンキースの地区優勝の大きく貢献した。防御率3.32はヤンキース先発陣のトップ。投球回219回2/3はリーグ4位であった。続く2013年は、6月マリナーズ戦で日米通算2,000奪三振を達成。同月のドジャース戦では、6回2/3を8安打2失点の投球で7勝目を挙げ、ナショナル・リーグ全球団からの勝利を達成した。7月のレンジャーズ戦で7回6安打無失点の好投で10勝目を挙げ、日本人選手最多記録となる4年連続二桁勝利を達成。前半戦は好調だったが、後半戦は好不調の波がありそして、勝利投手の権利を得ての降板試合でもリリーフ失敗が数度あり、11勝13敗防御率3.31で終わる。チームもポストシーズン進出を逃した。この年の10月31日にFAとなったが、ヤンキースと年俸1,600万ドル(約17億円)+出来高の1年契約での再契約で合意した。

 メジャー最後の年となる2014年、シーズン序盤は自己ワーストの8失点を記録するなど調子は今一つだったが、CC・サバシア田中将大の故障者リスト入りするなど先発陣が総崩れの中、年間通して唯一ローテーションを守り切った。7月8日のデトロイト・タイガース戦で日本人選手では、野茂英雄以来の5年連続規定投球回に到達した。同月のタイガース戦では、黒星を喫したが※注2 QS(クオリティー・スタート)達成での敗戦数が、現役選手最多の30敗となった。これは援護に恵まれないことを意味する。後半戦は調子を持ち直し、11勝9敗防御率3.71で勝ち星は、田中将大の13勝に次いで2位、奪三振数はチームトップの146だった。しかし、ヤンキースはFA選手に対して1年契約を提示する※注3 クオリファイング・オファーを申請せず、黒田は新たな所属球団を探すこととなった。そうした中、ドジャースがオファーを提示、パドレスも1,800万ドル(20億円)のオファーを提示したことが報じられた。その去就が注目される中、黒田が選んだ道は古巣の広島カープだった。メジャーでの通算成績は、79勝79敗防御率3.45だった。内容的には、100勝に相当するものだったと言える。

※注2 QS(クオリティー・スタート)
 野球における投手の成績評価項目の1つ。先発投手が6イニング以上を投げ、かつ3自責点以内に抑えた時に記録される。
※注3 クオリファイング・オファー
 当シーズン中に所属チームを移籍しておらず、且つシーズン終了後にFAとなる自軍選手に対して球団が提示することができる。対象選手にQOを提示するかどうかは球団側に選択権があるが、前述の通り契約期間は1年のみで年俸も固定であり、球団や選手(代理人)側がこれらの契約条件を変更することはできない。

 動画3 広島東洋カープ黒田博樹選手 ヤンキース時代に浜田雅功&石井一   

6 メジャー時代の黒田を振り返って
 
 黒田を語るうえで、付きまとうのは得点援護率だ。これはメジャー時代もそうだが、第1次カープ時代も得点援護率は常にワーストクラスに沈んでいた。2000年代前半、半ばのカープは低迷期のピークともいえる時期でこれは理解できる。しかし、ドジャース、ヤンキースは名門中の名門である。共に打ち勝つタイプのチームではないが極貧打線でもない。よくコントロールが悪い投手が先発すると、守備のリズムが悪くなりその影響で得点が入らないことがある。しかし、黒田はコントロールは良く、自滅するタイプではない。むしろその反対で、小気味良いというかテンポの良さが彼の特徴だ。一説によると、逆にこれが仇になっているとの説がある。黒田のテンポの良さが相手投手のテンポの良さを引き出してしまい、好投してしまうのだと言う。巨人の菅野投手も同様でチームは2位で、そしてあの防御率(1.91)で10勝止まりなのは登板時にエース級をぶつけられることも大きな理由だが、黒田と似た理由もあると思う。メジャー通算77勝だが、100勝以上の内容だろう。せめて他の先発投手並の援護を受けていれば、年間3~4勝は上積みされていた筈だ。

 それでも通算勝ち星は、野茂英雄の123勝に次ぐ日本人投手2位である。黒田の場合、33歳で海を渡りメジャー挑戦をした。他の球団のエース級ー野茂、ダルビッシュ、田中、井川、マエケン、松坂などが20代の全盛期だったのに対して、黒田はそろそろ下り坂に差し掛かる30代半ば近くだ。30代投手のメジャー移籍例(佐々木、上原など)は数多い。先発投手として通用したのは黒田と岩隈(30歳で移籍)だけで、残りはクローザー、セットアッパーでの起用だ。先発ローテーション投手として通用しても、キャリアハイが移籍後3年位以内、その後肘や肩を痛め、メスを入れる選手が多い中、長期離脱するような大きな故障がないのも評価された理由だ。元々の身体の強さもあるが、高校時代3番手投手だったことが大きい。十代で無駄に酷使されなかなかったのが幸いした。甲子園で活躍した投手がプロに入り、若いうちから肩、ひじを痛め長期離脱、復帰してもかっての輝きを取り戻せず再手術。再度復帰するも、やはりダメで人知れず現役引退する選手が多い中、黒田の頑丈ぶりは特筆に値する。正しく「無事、これ名馬なり」の典型例だ。

 投手としての能力値は、ダルビッシュや
田中将大、現在の大谷よりも少し落ちるかも知れないが黒田のこの肉体の強さは、アスリートとしての最大の武器だ。100球制限があるとは言え、試合数が多く、中4日登板、国内時差がある移動、投手も帯同が当たり前のメジャーで、長期離脱が一度もなかった。日本の投手が肘、肩の故障が多いのは、高校野球の在り方に問題があると考える。才能豊かな選手を十代で潰すなど、犯罪に等しき行為だ。日程をもう少し考慮すべきだろう。次回は、2015年カープ復帰以降を語りたい。



続く。




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関連記事 広島カープ日本シリーズ進出決定

 かねてより噂はあったが、目の前の現実になるとやはり寂しい。昨シーズンオフも現役続行か引退か揺れていてので、年齢的にもそろそろこの日が来るとは思っていた。今シーズン、カープが25年ぶりのリーグ優勝を果たし、これ以上ないタイミングだった。記事紹介の後、足跡を追いたい。
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黒田が引退表明
今季限り「日本一で恩返し」 ~10月19日中国新聞1面より~

 広島東洋カープの25年ぶりの優勝に貢献した黒田博樹投手(41)は18日、今季限りで引退すると表明した。広島市中区のホテルで会った記者会見では「みんなの力で優勝を経験させてもらい、日本シリーズに進出できた。ファンに日本一という形で恩返ししたい」と感謝。本拠地のマツダスタジアム(同市南区)で22日に開幕する日本ハムとの日本シリーズが日米プロ20年の花道となる。


画像1 10月19日中国新聞1面より 拡大図

プロ20年 日米203勝
 
 黒田投手は、大阪・上宮高、専大を経て1997年にドラフト2位で広島に入団。2005年に最多勝、06年は最優秀防御率を獲得した。08年にフリーエージェント(FA)権を行使して大リーグのドジャーズに移籍。14年P府に大リーグ球団からの年俸約20億円のオファーを断り広島へ復帰を決断した。今期は首や右肩の痛みを抱えながらもチームを引っ張った。7月23日の阪神17回戦(マツダ)で史上2人目の日米通算200勝を達成。リーグ優勝が懸かった9月22日の巨人22回戦(東京ドーム)で先発、勝利投手となった。10月1日ヤクルトとの今季最終戦(マツダ)でシーズン10勝目を挙げ、米国時代を含めて7年連続二桁勝利とした、20年間の日米通算成績は203勝184敗1セーブ。

最後までファンを背負う

 練習前の円陣でおもむろに黒田が前にに歩み出た時、ナインの表情には驚きの色は浮かばなかった。チームメイトはベンチ裏で苦しむ姿を見てきただけに、きっと覚悟していたのだろう。右肩、首、腰・・・。至る所に痛みを抱える41歳が、遂に引退を明かした。常に満身創痍だった。20年目の今季、6月3日のソフトバンク戦(マツダ)が特に忘れられないという。プロ入り初の3連続ホームランを浴びた。「」これでもか、これでもか、と投げて、次々と打たれる。自分を疑い始めた」 

 そんな苦境でも踏ん張るのは、また黒田の真骨頂でもある。身体を鍛え直し、配球を見直し、先発ローテーションを死守した。シーズン後半には150㌔の球速を復活させ、7年連続二桁勝利。へこたれない理由を問うと、こう答えた。「契約が最後まで残っているのだから」。万全でなくても、仕事はやり遂げた。引き際のこだわりも見せた。引退発表が日本シリーズ直前となったのは、最後の姿をファンに見てほしいからだという。日頃の声援のお礼の意味もあった。球団幹部は「これでプレッシャーが増すね」と漏らした。ただでさえ、注目を浴びる日本シリーズ。「最後のつもりでマウンドに上がる」と常に語り続けてきた黒田が野球人生の締めくくりで、自ら大きな重圧を背負った。

関連記事1 達成感 決断後押し ~10月19日中国新聞19面より~


画像2 10月19日中国新聞19面より 

関連記事2 悲願の頂点 花道に ~10月19日中国新聞18面より~


画像3 10月19日中国新聞18面より

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1 第1次カープ時代 1997~2007年
カープの低迷期を支えたエース その1


動画1 
黒田博樹 第1次広島東洋カープ時代 ピッチング集

 黒田博樹は、1975年大阪市住之江区にて元プロ野球選手の黒田一博の次男として生まれた。父親の黒田一博は南海ホークス、高橋ユニオンズの外野手でレギュラー選手として活躍した。そんな父が立ち上げたボーイズリーグ「オール住之江」を経て大阪の甲子園常連校の上宮高校に進学した。高校ではエースではなくエースは元日ハムの西浦克拓で、黒田は3番手投手に過ぎなかった。公式戦での登板は一度もなかった。高校3年間では甲子園出場経験はなく、東都大学リーグの専修大学に進学した。1~3年生時は東都2部で4年の春から1部に昇格、球速150㌔をマークして「東都最速男」としてプロのスカウトの目に止まるようになった。1996年のドラフト会議で2位指名(逆指名)でカープに入団した。この年のドラフト1位は新人王を獲得した澤崎俊和(現カープ2軍投手コーチ)だった。

 チームの苦しい投手事情から1年目からローテーション入りを果たし、規定投球回数をクリアした。2年目は1勝に終わり、1999年までは好不調の波が大きく「投げてみてのお楽しみ
」的な投手だったが、4年目の2001年にプロ初の二けた勝利の12勝をマーク、先発ローテーションの柱となった。同期入団の沢崎が右ひじ痛で、1年目の12勝をピークに右肩下がりの成績しか残せないの尻目に順調に成長していった。カープの低迷期に入り始めの時期(90年代後半~)、山内、小林幹英、沢崎と投手陣の柱としての期待が大きかった投手が、実稼働数年でリタイヤ、かっての輝きを取り戻せず若くして引退を余儀なくされた。春先のキャンプでのオーバーワーク、苦しい台所事情からの酷使等が主な理由だと思っている。カープの昭和チックな軍隊練習はキャンプの風物詩で、この常軌を逸したしごきは、ケチ、ボロ球場と共にドラフトの有望選手から嫌われる理由となった。そんな中、黒田はこの過酷な環境でも壊れることなく、2002年以降低迷期にどっぷりと浸かったカープのエースとして歩み始める。2003年エースだった佐々岡に代わり、初の開幕投手を務めた。前半は好不調の波が大きかったが、後半戦は安定して13勝をマーク。そしてアテネ五輪のアジア予選でも日本代表に選出された。
 
2 第1次カープ時代 1997~2007年
カープの低迷期を支えたエース その2


動画2 黒田博樹 カープからドジャースへの旅立ち   

 04年は完全にカープの新エースとして2年連続の開幕投手を務める。8月アテネ五輪日本代表として戦線離脱。アテネ五輪では中継ぎとして2勝、銅メダル獲得に貢献した。自己最速の157㌔をマークしている。続く05年は第1次カープ時代のキャリアハイの年となった。15勝を挙げ最多勝のタイトルを取り、年俸も2億円に達した。06年も好調を維持、WBC(ワールド・ベースボール・クラッシック)の日本代表に選出されたが、強化試合で右手に打球を受けて代表を辞退した。シーズンでは最多防御率タイトルを獲得。1点台での受賞は、セ・リーグでは1989年の斎藤雅樹(巨人
)以来だった。この年の5月にFA権を取得。本人も行使に乗り気だった。この年のシーズンオフは、黒田が主役となった。FA権取得でその去就が注目された。4年12億円(基本年俸2億5,000万円+単年最大5,000万円の出来高込。当初の条件に出来高を上乗せしている)でFA権を行使せずに残留することを表明。国内なら「生涯広島」を宣言した。なおこの契約は、4年の契約期間内で自由にメジャー挑戦できるようになっていた。現在の黒田の男気伝説の第1幕は、この時だった。市民の感動を与えた事で、広島市民表彰を受賞した。メジャー挑戦を1年先延ばししたもう1つの理由は、実父一博氏が肺がんで広島で闘病生活を送っていて、その闘病生活を支えたい気持ちもあったとされる。

 07年のシーズン、カープでは長谷川良平(草創期のエース)に並ぶ5年連続の開幕投手を務める。7月の巨人戦では通算100勝を達成した。成績は前年から落としたが、首脳陣の信頼は揺るがなかった。10月FA権行使を明言。12月には球団にメジャー挑戦を伝えた。その後、ロサンゼルスドジャースと3年3,530万ドルで契約を結んだ。記者会見では「評価されるのもカープのおかげで、また日本に帰ってプレーするならこのチームしかない」と語った。そして活躍の場を日本からアメリカに移した。第1次カープ時代の通算成績は、271試合103勝89敗であった。

3 閑話休題 その1

 別シリーズ記事で、カープの低迷期について触れている。カープの90年代後半から2010年代前半までの長期低迷の最大の要因は、フリーエージェント(FA)制度と逆指名ドラフト制度
導入が1993年に導入されたことであると。親会社がなく、広告宣伝費として人件費補填が出来ないカープには逆風過ぎる逆風だった。「ケチ」といったネガティブイメージが定着して、即戦力として期待される大学、社会人選手獲得に不利に働いた。旧市民球場も貧乏くさいイメージを増長させた。それに加えて練習のきつさも敬遠される理由だった。見方によれば「しごき」でしかなかった。1990年代末の某鬼軍曹ヘッドコーチ時代は特に酷かったようだ。1軍半の若手だけではなく、中堅、ベテランの主力選手もその対象で故障者続出。紅白戦を組むのも悩む有様だった。その時には故障しなくても、キャンプで疲弊して年間通して戦うスタミナは残っていなかった。春先の4~5月まではそこそこの調子でも、夏場辺りから下降線を辿るパターンが多く、実力がないと言えばそれまでだがこうした要素もあった。 オーバートレーニング症候群~(eーヘルスネット)

 ただでさえ、制度改変により戦力補強で苦戦を強いられていたカープだが、数少ない有力選手を壊していた。別に厳しい練習がダメだと言うのではない。根拠に乏しい非合理的な練習法が時代遅れで、結果的に選手を壊す結果になり、更に弱体化、そしてまた厳しい練習を課す、この負のスパイラルに陥っていたように感じた。合理的・科学的な要素の根拠を持った練習を、数多くやり最後の部分で精神論(強い気持ちを持つ意味で)であれば問題はない。自己満足のみを得るためのヒステリックな練習は、「百害あって一利なし」だ。カープの首脳陣は、ほぼ生え抜きで固められる。悪く言えば、あまり外の世界を知らない。彼らは現役時代、過酷な環境下で勝ち抜き、レギュラーを勝ち取った。自身の成功体験を唯一のバイブルとして、選手全員に押し付けた。極論すれば「1人のレギュラー選手を育てるのに、5人の選手を潰す」的なところがあった。長期低迷期の影の理由にそんなところもある、と思った次第だ。それと同じことを在阪人気球団の新監督がやり、今シーズン低迷した。カープの場合だと山本浩二第2次監督時代までそれが続き、その後ブラウン監督が就任してそれが改められた。その後の監督も練習量は少し増えたが、かってのような狂気じみたものではなく、創意工夫の跡がある。他球団経験のコーチも増えた。
 
 野球の全体論になるが自国リーグで完結して外からの風が入りにくい。最高峰の選手を集め代表チームを結成して他国と対戦することが少ない。各種世界大会が開催される他のスポーツとそこが決定的に違うところだ。閉鎖的になりやすい。その極端な例として過去のカープがあった。黒田の若かりし時代を調べていてそう感じた。次回も黒田のメジャー時代から書き綴りたいと思う。



続く。
  

 

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