封入体筋炎患者闘病記

 封入体筋炎患者のヒロです。病歴は2023年で満15年、16年目に入りました。在宅勤務の仕事とリハビリの日々を送り、細やかながらも家族3人で暮らしています。ブログ記事は闘病記と広島地元ネタ、社会保障などの時事ネタ中心です。希少疾患の封入体筋炎の周知が目的です。関心があれば、ツイッターなどでご紹介していただければ幸いです。疾患関係で直コメントが苦手の方は、ツイッターのダイレクトメールを利用してください。封入体筋炎の闘病史は各進行段階の症状や生活障害、必要な社会保障制度等をまとめています。良ければ参考にしてください。最新の封入体筋炎の状況は『近況について色々と』、取り組んでいるリハビリについては『20年春~夏 筋疾患(封入体筋炎)リハビリ』にて素人の体感目線で書いています。モバイル版で読みにくい場合は、PC版に転換してからお読みください。

2018年04月

シリーズ記事 海外先進事例 ブレーメン 
カテゴリー記事 広島の都市交通 海外先進事例


【考察その6

ブレーメンのトランジットモール、モールと交通セル計画 その1


画像1 
イツ ミュンヘンの代表的なモール区間(歩行者専用道路)であるノイハウザー通り(画像 ユーチューブ動画撮影より)

 本題に入る前に、話が脇に逸れるが日本の都市にはなくて、欧州の都市の殆どにあるものといえば都心部地区のモール(歩行者専用道路)とトランジットモール-公共車両(LRT、BRTなど)の通行が許されたモール区間-がある。広義の解釈では、日本のどの都市にもあるア-ケード商店街や最近増えつつある駅前広場を拡張した疑似モール区間、70年代に盛んに導入された歩行者天国などもその範中と言えなくもない。フルモールに近い形では、旭川市の買物公園、横浜市の伊勢佐木モールがこの時代に実現したが、両市ともこれだけの単発で終わり、面的な拡大はなかった。他都市では追従する都市は諸般の事情で皆無に等しく、週末限定の歩行者天国の創設でお茶を濁した。これは日本の独創的なものではなく、欧州のまちづくりのテイストを輸入したものだ。モール-歩行者専用道路の歴史が古いドイツに目を向けると、
既に1950年代より整備が始まり1960年には31都市、1969年には100都市を超えた。1970年代には歩行者専用道建設ブームが起きた。歩行者専用道沿線は、自動車利用制限などの生活する上で不便にも関わらず人気のスポットとなった。ドイツの代表する世界都市のミュウヘンのモール区間の延長㌔数は、約15㌔を超えた。面積は旧市街地の約10%を締める。この施策は、第二次世界大戦後の経済復興、高度成長期におけるモーターリゼーションに呼応した自動車優先の都市計画施策(1950~60年代)への反動だ。ドイツのみならず欧州の各都市に瞬く間に伝播した。欧州都市で流行り、日本の都市であまり普及しなかった理由を考える。

-日本の都市でモール・トランジットモールが普及しない理由
 ▼理由その1 安全管理上の問題
 欧州-安全社会を志向。最終的な責任は自己にあると意識している
 日本-安全社会を要求。
最終的な責任は国及び自治体など管理者と意識
 ▼理由その2 気候風土の違い
 欧州-日本ほど気候の変化がなく、季節・気候の変化、陽に当たることを楽しむ傾向が強い。
 結果、自然環境を志向。屋外の生活を好む
 日本-四季があり、気候の変化が激しい。屋外を愛でる感覚に乏しく、定常的な快適環境を望
 む。人工環境(雨が降らず空調された空間)を志向する屋内を好み、屋外を避ける
 ▼理由その3 コミュニティ方法の違い
 欧州-他人とのコミュニケーションを好み、地域社会(よこ社会)のお付き合いが生活の軸で自
 治意識が強い

 日本-基本的には無関心。最低限の親しい仲間内との付き合いのみ。仕事中心で、時間の余裕も
 ない。自治意識は低く、敬遠する傾向が強い

長年に渡り、生活を営んできた土地での気候風土と国民性の違いがこうした差となり、まちづくりにも大きく反映していると言える。日本で普及している屋根付き商店街やドーム型球場、地下街などはその好例である(屋根信奉)。広島市で計画されている旧市民球場跡地のイベント広場に、屋根をかける発想はなど、かの地に人たちからすれば理解し難いだろう。よって日本の都市には、自然発生的な多くの市民が集う広場もなければ、大通りのオープンスペースを利用したカフェなどが少ない。あっても上(行政)から与えられたものに過ぎない。良し悪しの問題ではなく、気候風土に起因した差としか言いようがない。個人的な見解だが、理由その2がそもそもの発端で、他の1、3と連なっている、と考える。

上のMarienplatz、写真:muenchen.de
画像2 上記画像1のノイハウザー通りの沿線上にあるミュンヘン最大の広場-マリエン広場と新市庁舎の様子(画像 ミュンヘン公式HPより)
 
【考察その7
ブレーメンのトランジットモール、モールと交通セル計画 その2



画像3 ブレーメンの旧市街地の歩行環境の状況。オレンジ色-モール区間(歩行者専用道路)、灰色の赤線部分-トランジットモール(モール区間公共車両の通行可区間) 肌色-モール区間を囲む外周(環状)道路(画像 ドイツ海外視察報告書より)


画像4 
トランジットモール区間(長さ約800㍍)のオーバーン通りの様子 (画像 ブレーメン公式HPより)

 日本の70年代の歩行者天国の導入は、欧州都市の都市交通施策の包括メニューの表面的なものの部分模写に過ぎなかった。本来のそれは、従来の自動車移動を前提とした都市計画から、自動車が果たす役割を認めながらも過度に依存したまちづくりの弊害-生活環境の破壊、安全面の問題、都心部地区の求心力低下-を排除した都市交通施策も網羅した都市計画の一大転換の側面があった。モール・トランジットモールを実現する上で、不可欠な施策がある。それは、
トラフィックゾーン・交通セルシステム(下記画像6参照)である。今でこそ、コンパクトシティ実現の包括メニューの1つに必ず盛り込まれ、多くの都市で導入されている。トラフィックゾーン・交通セルとは、都市中心部において、 歩行環境と自動車利用の両立を図るもので、自動車を排除するのではなく、車でのアクセスを阻害しないで通過車両をコントロールする手法である。具体的には、都市中心部を歩行者専用道路やトランジット・モール(歩行者と公共交通のみが通行可能な道路)によって、いくつかの小地区(セル)に区切り、車両はそれぞれの地区へ外周の環状道路からしか進入できなくするとともに、地区間を直接行き来できないようにしたものである。1960年ドイツのブレーメンで、世界で初めて導入された。このシステムを導入する大前提として、導入予定の都心部地区の外周を走行可能な環状道路整備が挙げられる。 ~ランス ストラスブールミュウヘン~ 導入前に通過していた自動車を排除するにしても、迂回路を整備しないと市域内全体の自動車交通が真空地帯を設けることで、悪くなる。この時代(60年代)の都市交通施策は、TDM(交通需要マネジメント)の思想はまだなく、あくまでも道路整備が追い付かないほど増え続ける自動車交通量をどうさばくのかに力点が置かれ、都心部に流入する自動車交通を減らし都心部地区の都市空間を道路と自動車中心から、歩行者中心に再配分するものだった。施策の起点が、自動車中心であることには変わりはなく、その手段の1つとして選択された。言い換えれば、逆転の発想で問題解決を図ろうとしただけの事だった。現在の都市施策の潮流であるコンパクトシティと似通っているが、都市計画の出発の起点を人間(歩行者)と定めていない点が決定的に異なる。時代背景が現在と全く違うので、良し悪しを論じても仕方がない。

 このシステムは、10年後の70年に、
スウェーデンの第2の都市のヨーテボリで『ゾーン・システム』と名称を変えて実施されている。多くの欧州の都市が、モール、トランジットモールを実現する施策として採用に至った。日本の都市では、全くと言っていいほど導入されず、2~3周の周回遅れの90年代後半、2000年代に入り『海外先進事例』として紹介され、いくつかの都市ではモールやトランジットモールの社会実験も行われたが、欧州都市並みの本格導入にまでは至っていない。理由は、【考察その6】で述べた通りだが、その3つに加え地元商店街の反対などもある。話をブレーメンに戻す。都心部地区から不要な自動車を締め出すには、モール、トランジットモール、外周道路の整備だけでは足りない。そう、公共交通の整備がセットとして行われないと、移動手段の選択肢を減らすだけの間抜けな結果となる。はっきりと記述している文献がなかったのでブログ主の憶測となるが、ブレーメンにおいては、ソフト面では使いやすい公共交通システムを実現する-運輸連合(VBN:ブレーメン・ニーダーザクセン運輸連盟)。ハード面では、50年代にはシュトラセバーン(路面電車)を昇華させたシュタットバーン(地下式LRT)、60年代には4本のフル規格地下鉄、70年代には都心部地区の地下区間も整備するSバーン(都市近距離鉄道)を整備する腹積もりだったと推察する。前回の記事でも触れたが、69年の『大財政改革』、80年代初頭の基幹産業だった造船・鉄鋼業の不振を理由とする極度の財政難となり、他の同規模都市が着実に整備する中、地下式鉄・軌道線導入はついに実現しなかった。

 運輸連合
の発足(ブレーメンは連盟)は65年のハンブルグ、70年代の旧西ドイツ5大都市圏-ハノーバー、ミュンヘン、フラ ンクフルト、シュトゥットガルト、ケルン・ボン・デッセルドルフなどを中心としたライン・ルール-よりも遅れた。70~80年代のブレーメンは、本音部分で望む地下式鉄・軌道線導入は財政の大きな制約で果たせず、かといってシリーズ記事で紹介したデン・ハーグやヨーテボリのようにシュトラセバーン(路面電車)の活用も今ほどは積極的ではなく、都市交通問題の取り組みとしては極めて中途半端な立ち位置にいたと言える。ブログ主個人の所感だが、70~80年代に限れば、旧西ドイツはシュトラセバーン(路面電車)のシュタットバーン(地下式LRT)化に非常に積極的で、都合13都市(現在14都市目のカールスルーエで建設中)で実現した。しかし、路面走行式での昇華についてはフランスや北米(アメリカ、カナダ LRT発祥の地)より遅れを取っていた。シュタットバーン(地下式LRT)に次ぐ下位カテゴリーの公共交通機関として、Oバーン(ガイドウェイバス)を想定していた節があった(80年代初頭~半ば)。事実、エッセンとマンハイムでは実現したが、これに続く都市はなかった。

 ドイツは新しい交通機関の開発に非常に熱心な土地柄で、トランスラピッド(超電導リニア 2011年開発終了)やガイドウェイバス。トラムトレイン(LRTと鉄道線相互乗り入れ)なども1984年頃から研究開始。今やLRTの代名詞となった100%超低床車両も、ドイツだけではないが、『ドイツ公共輸送事業者協会』が1982年より研究組織を立ち上げた。同国の車両メーカーのAEG社(現ボンバルディア社)とデュワグ社(現シーメンス社)でも、80年代より研究、開発が進められた。北米で誕生(1978年 カナダのエドモントン)したといわれるLRTも諸説あるが、その雛形は旧西ドイツのシュタットバーン(地下式LRT)だ。都市交通に関してはドイツの常に先駆的な役割を果たし、そして成功を収めている。ブレーメンが路面公共交通を基幹交通と定め、その立ち位置をぶれずに鮮明にしたのは1989年からである。次回はその辺りから話を進める。


画像5 
トラフィックゾーン・交通セルシステムの概念図(画像引用元 不明)


続く

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前回記事 海外先進事例 ブレーメン 1
カテゴリー記事 広島の都市交通 海外先進事例


【考察その3】
ブレーメンに地下式鉄・軌道系交通がない理由 その1
人口50万人以上の旧西ドイツ系都市ではブレーメンだけ。


画像1 世界的メッセ都市ハノーバー(人口53.2万人)のシュタットバーン(地下式LRT)の様子。1975年開業で、1日平均21.9万人を運ぶ。高床式(床面高さ100㌢前後)規格で統一されている(画像 ユーチューブ画面撮影より)

 ドイツもそうだが、欧州では大都市の基準が日本と異なり人口10万人以上となる。日本では以前は人口100万人。最近では敷居が下がり、人口70万人以上の地方政令指定都市クラスが該当するようになった。西洋と東洋の違いと言えばそれまでだが、アジアの都市が一般的に過密都市が多いのが、その定義の差だろうと推察する。旧西ドイツの人口50万人以上の都市と、日本の100万人都市はイコールだと、ブログ主個人は勝手に定義する。新規建設の国庫補助率が50%台で、運営については運賃収入でほぼ100%賄うことが大前提の日本。建設に連邦・州政府の90%近い補助で、運営費用の約50%以上を行政の公的資金で賄うドイツ。両国の制度の差を照らし合わせると、地下式鉄・軌道系公共交通導入都市は、日本では人口100万人以上、ドイツでは50万人以上が簡単な目安となっていた。ブログ記事では大都市定義を日本は100万人。ドイツは50万人と勝手に定義したい。その辺をまとめてみる。

1 日本とドイツの大都市の地下鉄開業年度一覧
-① 日本の人口100万人以上の都市のフル規格地下鉄開業年度
 ※地下鉄の定義-公営またはそれに準ずる組織が運営し、大半を地下鉄補助で建設され、都心部
  に路線網を有する
 東京23区-1927年 大阪市-1933年 名古屋市-1957年 札幌市-1971年 
 横浜市-1972年 神戸市-1977年 京都市-1981年 
福岡市-1981年 仙台
 市-1987年 広島市・・・

-② ドイツの人口50万人以上の都市(旧西ドイツ系都市限定)の地下式鉄・軌道系
   公共交通開業年度

 ※M-フル規格地下鉄 L-シュタットバーン(地下式LRT) ドイツのシュタットバーンは
  Uバーン表記にされることが多いので、地下鉄扱いと定義する

 ベルリン(M)-1902年 ハンブルグ
(M)-1912年 シュトゥットガルト(Ⅼ)-1
 966年 
ケルン(Ⅼ)-1968年 フランクフルト・アム・マイン(M/Ⅼ)-1968年 
 ミュウヘン(M)-1971年 ニュルンべルク(M)-1972年 エッセン(Ⅼ)-197
 7年 
デュッセルドルフ(Ⅼ)-1981年 ドルトムント(Ⅼ)-1983年 デュースブル
 グ(L)-1992年 
ブレーメン・・・  

 広島市とブレーメン、この2市は、大都市で唯一地下鉄がない都市となる。広島市の場合、アストラムラインの定義が難しいが、誰がどう見てもAGT路線。当時の便宜上、本通-県庁前間に限り、運輸省(当時)の地下鉄補助制度で建設されたので、本来のそれとは異なる。ある程度の採算ラインに乗る人口規模が日本では人口100万人。ドイツでは50万人以上であることは、既に書いた。建設資金供出可能な財政規模であることも不可欠な要因となる。この2市はこの点でも問題がないようにも見える。が、導入が実現した他都市との決定的な相違点がある。それは財政難である。広島市のそれは後の記事で書くとして、ブレーメンの財政難について【考察その4】で論じたい。


画像2 エッセン(人口58.3万人)のシュタットバーン(地下式LRT)の様子。1977年開業で、高床(床面高さ100㌢前後)、低床(床面高さ30㌢台)の両規格の路線を持つ。都心部地下区間の重複区間は複々線構造として一体運用がされている。1日平均利用者数は、33.7万人(画像 ユーチューブ画面撮影より)

【考察その4】
ブレーメンに地下式鉄・軌道系交通がない理由 その2 
ブレーメンが財政難に陥った理由 パートⅠ


画像3 ブレーメンの代表的な広場-マルクト広場の様子(画像 ブレーメン公式HPより)

 元来、ブレーメン及び都市州のブレーメン州はハンブルグと並び豊かな地域であった。考えてもみてほしい。地域中心都市とその都市圏だけで、過去の歴史的な背景(自由ハンザ都市)があるとはいえ、州として成立するのだ。その経済力は都市州も含めた10州(旧西ドイツ時代)のなかでも、2番目であった。それがとあることで大きく崩れた。その辺を事情をまずは説明する。 ~ドイツ各州の一覧(小規模なものが都市州)

2 ブレーメンが極度の財政難となった原因
-① 外的要因
 ●1969年の『大財政改革』により、営業税(事業税のこと)、法人税、売上税の3税が、
他の
  州や連邦政府に流れるようになり、大打撃を受けた。州間財政調整交付金の拠出州から、19
  69年以降は最貧困州に転落(10州中最下位に)
 ●基幹産業である造船・鉄鋼業の不振による税収減(1980年代初頭~)
-② 内的要因
 ●市政長期政権を担った社民党の下で、公営住宅建設等の内向きな公共投資を行い、民間の分譲
  住宅建設を政策的に抑制した。結果、中産階級層が市外に流出。逆に周辺市町村より、貧困階
  級の人間が流入。市民税の税収減を誘引した
 ●他都市がこの時期、半導体産業、第3次産業(都市観光・メッセ)への産業構造への転換を図
  る中、行政・企業・組合の三位一体で改革の先送り。歳出削減だけで乗り切ろうとした

 21世紀の今日でも、ブレーメン都市州はドイツ16州の中で1人当りのGDPは、ハンブルグ州に次いで第2位(下記画像4参照)で、経済力が豊かな地域であることには変わりはない。都市経済力はドイツでも指折りなのに、自治体は極度の財政難という摩訶不思議な現象が起きたのは、1969年の『大財政改革』によるところが大で、この改革により州間格差の是正は解消されたが、その代り中央の連邦政府に搾取され続けることとなった。そして、産業構造転換の公共投資は行わず、リターンの少ない内向きの投資に終始した。80年代初頭の基幹産業である造船と鉄鋼の不況も、追い打ちをかけた。ブレーメンと同規模の都市が60年代後半~90年代初頭にかけて、シュトラセバーン(路面電車)のシュタットバーン(地下式LRT)への昇華を図る中、ブレーメンだけ結果的に取り残された。1992年、ブレーメン州は財政難の原因は1969年の『大財政改革』にあるとして、連邦政府を提訴した。1992年の連邦憲法裁判所の判決ではブレーメンの財政危機を認め、危機に陥ったブレーメン州に対して連邦と他州は安定化させる義務があるとした。『責任は、ブレーメン州にはなくその脱出はブレーメンの能力を超えている』との見解も示した。同時に『能力は超えているが、自助努力も併せて行うべき』とも述べている。第1、2次の財政再建計画の成り行きと、その後を次の考察でまとめてみる。


画像4 ドイツ各州の1人当りのGDP一覧表

【考察その5】
ブレーメンに地下式鉄・軌道系交通がない理由 その3 
ブレーメンが財政難に陥った理由 パートⅡ


画像5 04年に登録された世界遺産の
マルクト広場の市庁舎とローラント像(画像 ブレーメン公式HPより)

3 ブレーメンの財政再建計画
-① 第1次
財政再建計画 1994~98年 
 財政再建特別連邦補充交付金 6,435億円(92~98年)交付
 ●利払い・税収比率 1992年28.1%⇒98年25.2%(目標17.2%)
 ●収支不足比率 1992年20.4%⇒1998年19.5%
 目標達成には程遠い結果。理由は、1993年以降の景気減速と旧東ドイツ編入による財政改
 革、基幹産業であったヴルカン社(造船)の倒産である

-② 第2次財政再建計画 1999~2004年
 連邦財政調整法改正により、支援継続。計画最終年度に、プライマリーバランスの黒字化目
 標。
2000年「大税制改革」により税収減。第1次計画策定時(1992年)よりも低い(
 2004年)水準になる。

-③ 結果
 ●利払い・税収比率 1992年 28.1%→2004年 21.6%(6.5%改善)
 ●利払い・支出比率 1992年 15.8%→2004年 11.5%(4.3%改善)
 ●財政収支不足比率 1992年 20.4%→2004年 30.9%(10.5%悪化)
 ●借金残高 (1ユーロ 2004年平均130円で計算)
 1992年 
1兆1,664億円⇒2004年 1兆3,512億円(1,848億円増)
-④ その後
 ●2006年、連邦政府を再提訴、3度目(2005~09年)の財政再建期間突入。ブレーメン
 都市州の存続論議(周辺州との合併)が起こった。

04年時点のブレメーンの負債総額が、1兆3,512億円である。広島市の一般会計市債残高-1兆1,194億円以上だ。広島市のそれは、一般会計債だけの金額で企業(上下水道など)債や第3セクター債などが含まれていないので、単純比較は難しいがそれにしても相当な負債高だ。これでは、日本よりも恵まれている制度-中央連邦・州政府の建設補助(約90%)があっても、導入自治体にも一定負担が求められるシュタットバーン(地下式LRT)建設は厳しかろうと思う。さらにもう1つの要因を求めれば、市政の長期政権の座にいた
ドイツ社民党(中道左派)の影響力も否定できない事実だ。それをまとめてみる。

 過去の地下鉄計画とドイツ社民党(中道左派)の影響
 ドイツの政党の中心は、キリスト教民主同盟(CDU・中道右派)とドイツ社会民主党(SPD
 ・中道左派)の2大政党を中心に同盟90/緑の党、左翼党(旧東独政権党)など5党(国政レ
 ベル)ある。
ドイツ社会民主党(以下社民党)勢力がブレメーン州では強い勢力を誇る。単独政
 権時代も含め、第2次世界大戦後、ほぼ政権与党の座にあった。中道左派勢力政党は、経済活性
 化優先の公共投資よりも住民福祉向上の公共投資に重点を置く傾向が強い。為政者(市長)が革
 新系政党出身者でも、議会の過半数を保守系政党が過半数を占めている場合、一部保守系政党を
 与党内に取り込む関係上、そこまでは偏らないし、経済界の意向も絶対に無視できない。ただ為
 政者と議会が、革新政党で議会を席巻した場合、この傾向がより強く出る。ブレーメンでもシリ
 ーズ記事で紹介したヨーテボリやチューリッヒ同様に過去に、地下鉄・軌道計画が何度か持ち上
 がった。
1950年代には既存のシュトラセバーン(路面電車)区間に3か所の地下線を建設す
 る計画。そして1967年には4本のフル規格地下鉄案、そして1970年代にはSバーン(
 都市近距離線)の都心地区の地下線化計画である。土地柄、革新勢力が強く住民の反対運動によ
 り、見事に潰えた。結果的にその3案とも、何れも実現しなかった。そして現在に至っている

『たら、れば』の世界となるが、保守系為政者と議会が保守政党-
キリスト教民主同盟(CDU・中道右派)が占めていれば、どうなっていただろうか? 反対住民の意見を汲んだ修正案を何度か提出。住民投票などを経て、財政が健全な他都市よりは地下区間が少ないシュタットバーン(地下式LRT)網が形成されていたのではなかろうか? と思った。財政難となった理由が広島市とは大きく異なるが、理由はどうであれ、膨大な初期コストを調達出来ない点では同様で、当時の公共交通整備のベストな案を選択できず消去法のベター案-路面公共交通(路面電車・バス)のリメイク-にならざる負えない。では、この案で都市経済の停滞を招き市民所得の低下やその都市の吸引力低下に直結するのか?ブログ主の個人的な意見だと、必ずしもそうはならないと考える。その辺はおいおい語りたい。次回こそ、ブレーメンの公共交通の概要を語りたいと思う。

参考文献:ブレーメン州による財政調整違憲訴訟とドイツの第2期連邦制度改革  片木淳

続く

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前回記事 ブログ主のよもやま話 22
シリーズ記事 闘病記 近況について色々

52 また憂鬱な大型連休がやって来る(笑)
今回は4/28~5/6までの9連休・・・拷問だ(爆)


画像1 休日に家族全員で車でお出かけするイメージ図(画像 かわいいフリー素材集いやすとやより) 

 遂にゴールデンウイークに入った。ブログ主が在宅勤務している企業では、大型連休の平日は有休消化で埋めて消化するのが習わしで、8~9連休にするのが一般的だ。新卒後、就行した某金融機関やお誘いを受けUターンして就行した広島の金融機関では、職種柄大型連休を取れず季節外れの大型連休を取っていたので、ようやく人並みの身分となった。ただ残念なことに持病疾患の封入体筋炎の進行で生活障害も酷くなり、移動困難者に成り下がった。こんな身になり、大型連休を取っても行くところがない。これが本音だ。でも会社の習わしなので、自分だけそうしないわけにはいかない。息子は成長して、手がかからなくなり(その代わり金がかかるが・・・)、一個の独立した個人になりつつあり、就学前の時のように金魚のフンみたいについて来なくなった。べったりでくっつき過ぎも考えものだが、素っ気ないのも少し寂しい。自分の高校時代を思い出せば、父と子の関係はかなりマシなので『近からず、遠からず』で良しとしている。親子でべったり過ぎるのも、主義に合わないし気持ち悪い。これは息子に限らず、実母や妹に対しても同様の感覚で接している。今の就労体制になったのは13年4月からだが、この当時は移動困難度はここまで酷くなかった。昨年まで請負仕事もかなり社から依頼されていたので、大型連休中はそれをごそごそとやっていた。それを見越し、その月は少し多めに仕事を受けていた。終活-就労不能となった時の施活の糧の一部となる、預貯金計画も達成して、目の色を変えてまでがむしゃらに仕事をする必要がなくなった。達成自体は目出度いが、困ったことにやることがなくなった。

 では、いつも記事投稿しているブログ記事を書き溜めるはというと現在、13~14本の記事が溜まり、便秘状態(失礼!)。さすがに『これ以上増やして、どうするのだ?』と思っている。書き過ぎてもネタ枯渇に結び付き、痛し痒しだ。それよりも困るのは、家内が1日中家にいることだ。誤解してほしくないのは、別に家内のことは嫌いではないし、必要不可欠な生活パートナーであることは十分認識しているが、結婚して約18年も経つと時々だが、たまにはいない時のほうが気楽に感じることも多くなる。もっと困ったことに家内にはその感覚が皆無で、私と共にいる時間が人生の至福の時らしい。はっきりと言わせてもらうが、馬鹿である(笑)。私個人は、あっさりとしたあと腐れがないというか浅く広くの人間関係を好む傾向が強い。これは他人に対しての依存心の強さの問題だが、(自己中心ではなく)個人を中心に考え、そこから他人との関係を構築するブログ主とほぼ同時、いやまず先に他人との関係を考え構築して個人の在り方を模索する家内との違いだ。若かりし日の頃、そんな家内の思考法が物珍しく感じたが、『こいつはこんな考えなのだ』と割り切れば別に気にもならなくなった。価値観の違い云々を問うほどもないし、『人は人、自分は自分だ』。というわけで、家内も私の休みに合わせ、5月1~2日にパート先の有休を取ったらしい。『余計なことはするな』などと口が裂けても言えない(笑)。今後、持病疾患の封入体筋炎の進行がより深刻になると、彼女の補助なしでは生活が出来ない。そんな打算も当然脳裏をよぎる。ここ数年、優しくなったとよく言われるが、最大の理由はこれだ(笑)。優しい自分を演じることにもすっかり慣れ、嘘か真かがよく分からなくなってきた。本人が喜び、それなりに幸せを感じているであれば、細かいことなので別に問題はないだろう。



画像2 画像1同様に休日に家族全員で仲良くお出かけするイメージ図(画像 かわいいフリー素材集いやすとやより) 

53 気分と体調が上昇基調に乗りつつあるブログ主 
今年初めの最悪期を完全に脱した(と思う)

頭を抱えて悩んでいる人のイラスト(男性)
画像3 置かれた状況を深刻に受け止め、思い悩むブログ主のイメージ図(画像 かわいいフリー素材集いやすとやより) 

 当ブログを欠かさず毎日アクセスされる方は、今年に入りブログ記事から封入体筋炎のネタが減り、広島系都市開発系の記事の比率が大幅に増えたことにお気づきだと思う。理由は色々とあるのだが、ネタがあまりない事、そして疾患に触れた記事をあまり書きたくない気持ちが強くあった。要は深刻な状況に追い込まれ、記事ネタにしたくなかったのだ。その意味合いでは、正面から向き合わず逃げていたとも言える。この疾患の場合、症状が日常動作全般に係ることなので意識しないことは基本的にはあり得ない。第3者が傍から見て、それまでとどう変わったのか?と問われたら答えに窮するが、『永遠に二足方向が出来なくなり車いす歩行固定』『寝たきり待ったなし』『死へのカウントダウン』以上の3つのキーワードをより現実味を帯び、私も過剰に反応して必要以上にナーバスになり過ぎた。これに尽きる。最悪期というどん底の期間は数週間だったが、その後も多少の回復はあったが、基本的にはマイナス思考というかネガティブに染まっていた。闘病生活は⤴と⤵の繰り返しなのだが、今回は下がり幅が発症当初の2008年並みで、ここ数年では最大の下がり幅を記録した。その後、3月下旬辺りから例の筋硬直現象である腰抜け現象から徐々にだが、開放され始めた。立ち姿勢の時間拡大、室内歩行が楽になり、腰~背中~首筋のラインの脱力感もなくなり、以前よりは力強さを取り戻しつつあった。体調の好転は当然メンタルにも好影響を与え、⤴⤴に向かった。4月に入るとさらに暖かい日が断続的に続き、生活障害も数か月前に揺り戻った。
万歳をして喜ぶ人のイラスト(男性)
画像4 全身で喜びを表現する男性(画像 かわいいフリー素材集いやすとやより)   

 自宅マンション通路限定だが野外歩行訓練も再開。歩行距離も日々増した。反転攻勢の表現は大袈裟だが気分はそれに近い。マイナス思考はほぼ過ぎ去り(完全ではない)、従来のプラス思考が蘇った。今振り返ると『一体あれは何だったんだ?』と思うことしきりである。家内曰く『パパの顔が明るくなった』だそうだ。良い方向に動き始め、良い循環局面なのは確かのようだ。逆に言えば、⤵だけを永遠に繰り返されてはこちらのメンタルがさすがに持たない。活動量が2月の大学病院通院時よりも大幅増になったにも係らず、CK値は適正範囲の264。CK値の過度の信用は禁物と考えるが、時期が時期だっただけにさらに向かい風が強まった(と感じた)。後は風の流れを読み間違えずに、上手く乗るだけだ。と偉そうに言ったが、どう乗ればよいのか迷う(笑)。これまで信じてやってきことを愚直に繰り返すしかない。冷静に捉えると、昨年11月初旬のアスファルト上での尻もち転倒がケチのつき始めだったが、転倒前に完全には戻っていないのも事実。廃用性症候群による筋委縮なのか、それとも単純な封入体筋炎の進行によるものなのかは、よく分からない。前者であれば、まだ揺り戻しの余地が残っている。後者だと諦めるしかない。気分の高騰と冷静な判断は自分なりに使い分けているが、素人の思考では自ずと限界がある。考え抜いても結論は出ない。

 『封入体筋炎関連記事を今後は積極的に書く』と高らかに宣言して、更新ペースを上げたいところだが、そうは容易くは進まない(笑)。やはり、日々の変化が少ない同疾患の場合そうそうネタが転がっていない。たまに闘病記系ブログを覗くが、毎回それだけのブログは意外と少ない。ある程度書き上げると、書くネタに困るようで、日々の出来事や趣味のことなどを中心に書いている。どちらかというを私の苦手の分野だ。所詮ブログなど、本人が興味があることをネットマナー、サイトルールに反しない範囲で、書くものだと思っている。当ブログタイトルの心の涙を感じるが(笑)、まあこれはブログサイトを立ち上げたきっかけに由来するところなので、私的には問題なしだ。今さら『封入体筋炎患者闘病記』を『広島のまちづくりを考えるブログ』『広島の将来を憂慮するブログ』(爆)にしたら、現実世界の私とのかい離があり過ぎる。特に
『広島の将来を憂慮するブログ』を看板したら、爆笑を超え見た人から脳の機能障害とメンタルの健康状態を疑われてしまう。これは人として理屈抜きで嫌だ(笑)。まあ、まったりとできる範囲のことを最大限の努力をするだけだ。しかし、何回目の仕切り直しだろうか?発症から丸10年で、11年目に入ったので50回以上は確実だ。ラストを迎えるまで、あと100回は仕切り直すに違いない(笑)。


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関連記事 両備ホールディンス(HD)バス31路線廃止
 
 今日は、お隣の岡山県の都市交通に関する話題をお届けしたい。話題はJR吉備線のLRT化だ。他記事でも散々書いているが、LRTが都市交通の潮流に躍り出て四半世紀が経過した。持続的な都市の成長を実現するツールとして、コスト安もあり導入都市が後を絶たない。日本は残念ながら、先進国の中では最後塵を拝し、未だ新規開業都市がゼロという有様だ。欧米都市とは異なり、都市交通事業の独立採算制と軌道法運転規則が、導入を阻む高い壁として立ちはだかっていることが最大の要因だろう。長い議論期間を経て、ようやく着工に漕ぎつけた宇都宮LRTの成功が日本のLRTの将来を握っていると言っても良いだろう。宇都宮がこければ、日本では未来永劫に普及しないと考える。都市の基幹公共交通としてのLRT、(厳密な意味合いでの)BRT導入は、皆無に等しいが、不採算鉄道線のLRT、BRT化は遅まきながらも進みつつある。その都市の1つに岡山市がある。まずは中国新聞記事から紹介する。
…………………………………………………………………………………………………………………
▼今日の議題 4月5日中国新聞29面より引用
吉備線のLRT化合意
岡山市・総社市・JR西 初期費用240億円


画像1 4月5日中国新聞29面(ブログ画像記事からは全て読めません)

【記事詳細】
▼岡山市と総社市を結ぶJR吉備線について、両市とJR西日本は4日、岡山市の大森市長、総社
 市の片岡市長、JR西日本の来島社長の3者が岡山市役所で会談、LRT化することで合意した

▼導入時期は未定。運行はJR西日本で富山市の『富山ライトレール』に続き、2例目となる。
▼岡山-総社間の単線非電化路線20.4㌔の路線に100%超低床車両を導入。区間内の既存8駅に加え7駅を新設。運行本数も現在の1時間1~3本を同3~6本に増便する予定
▼初期費用額は約240億円。内訳は電化、行き違い施設、車両などの整備費が約171億円。新
 駅設置、道路拡幅などに約69億円。それぞれの分担は、岡山市が約70億円(29.2%)、
 総社市が約21億円(
8.8%)、JR西が約58億円(24.1%)、国が約91億円(37
 .9%)

▼吉備線のLRT化は、岡山市が市内での交通渋滞解消の要望を受け、JR西が03年頃提案し
 た。14年頃から3者が検討作業に入っていたが、費用負担を巡り調整が難航していた  


画像2 JR吉備線ルート図
…………………………………………………………………………………………………………………
【考察その1】
JR西日本吉備線LRT化構想の歴史と今回の概要


画像3 岡山電気軌道軌道線の岡山駅東口広場平面乗り入れのイメージ図(画像 岡山市HPより)

 新聞記事にも書かれているが、JR吉備線のLRT化構想は03年頃からあった。JR西はほぼ同時期に富山港線(現富山ライトレール)のLRT化もセットで提案していたが諸般の事情で、早期には実現しなかった。この時期(2000年代前半)、1997年に『路面電車走行空間改築事業』が創設され全国の自治体でLRT構想が官民合わせ、数多く打ち上げられた。都市人口20万人以上であれば、本格検討までいかなくとも勉強会レベルで導入について、検討経験があると言っても言い過ぎではない。しかし、AGT・モノレール整備制度創設の時同様に、殆どが構想倒れで終わった。いくらフル規格地下鉄(㌔当たり建設費300~400億円)やAGT・モノレール(同100億円)よりも安価とは言っても、20~30億円はかかり、事業費全体だと建設㌔数にもよるが数百億円は余裕でかかる。国の補助制度を活用-インフラ部55%。インフラ外部33%-しても財政難が蔓延している自治体の負担は、馬鹿にならない。しかも運営費は独立採算性が大前提で、採算ラインも低くない。事細かに検討していくうちに、現実的には難しいとなる。費用対
効果も日本の場合、問題視される。軌道法運転規則6条(一編成長30.0㍍以下)、同53条(最高速度40km/h以下)の縛りでLRT本来の中量輸送機関(一編成当たり200人以上、最高速度は60km/h以上)になり得ない。コストが掛かる割には、それに見合う効果が乏しいとなる。結局、日本ではバス輸送の改善のほうがマシとなってしまう。

 既存の路面電車を運行していた都市でも、多くの延伸構想や別事業者との相互乗り入れ構想が打ち上げられた。熊本市(計画路線の項目参照 ウィキペディア)、広島市-~路面電車の LRT化を中心とした公共交通体系の再構築の検討調査報告書~(P38
~ 中国運輸局)などがそうである。その中の都市に富山と岡山も入っていた。富山港線のLRT化は構想から僅か3年強で実現したのに対して、岡山市のそれは構想から15年経過してようやく実現の運びとなった。この差は、富山港線が電化路線で吉備線が非電化路線だったことや、都市の基幹公共交通としてLRTの位置づけを明確にしていたか否かによる(後述)。当時の岡山の構想では、市内に路面電車を運行する岡山電気軌道の軌道線の環状線化(複数)やJR大元駅方面の延伸、岡山駅前東口広場内乗り入れ、JR吉備線のLRT化、そして岡山電気軌道との相互乗り入れなどだった。市民団体のRACDA(ラクダ)、岡山商工会議所、岡山電気軌道を運営する両備グループなどから各種提案がなされていた。 ~エコ公共交通大国おかやま構想実現の提言~(両備グループHP) 当の岡山市の腰は重く、悠久とも思える検討期間が続いた。特に岡山電気軌道の軌道線の環状線化については、前向きに検討する姿勢は示しながらも、導入については慎重姿勢を崩していなかった。2010年辺りから、JR吉備線のLRT化の本格検討をJR西と共に入る。インフラ外部(車両など)の補助制度創設され、導入ハードルが下がったことも背景にあった。

 岡山市は直近の岡山市都市交通戦略(岡山市HP)策定に当たり、
岡山電気軌道軌道線の岡山駅東口広場乗り入れとJR吉備線のLRT化に焦点に絞り、具体的な議論した。前者は、岡山駅構内に接続する平面乗り入れ、岡山駅2階の中央改札口に接続する高架乗り入れ、現在の岡山駅前電停からエスカレーターなどで2階の中央改札を結ぶ高架乗り入れ、駅前電停付近から地下に入る地下乗り入れの4案が提示された。コスト、利便性などから協議の結果、2015年に平面乗り入れ案が採用された(上記画像1参照)。そして18年度より事業着手される。そして今回、JR吉備線のLRT化が正式決定された。当面の最大の課題は解決の目途が立ったとも言える。肝心の都心部地区の軌道線延伸については、岡山市都市交通戦略ではトラフィックゾーンとして位置づけ、歩行者、自転車中心の都市空間として再配分(自動車を削減、締め出すとは言っていない)する目標を掲げている(下記画像2参照)。都心内の面的公共交通サービスを提供(LRT・バス)する軸線も設定(あくまでもイメージ)されている。この計画を進める議論の中で、延伸論議も併せてなされるのではないだろうか?当面は、目の前の岡山駅東口広場内乗り入れと、JR吉備線のLRT化に注力すると思われる。


画像4 岡山市の都心部都市空間再配分イメージ図 拡大図(要拡大) 画像 岡山市HPより

【考察そ
の2】
現行計画では単なる鉄道線の軌道線化に過ぎない
既存軌道線(岡山電気軌道)との相互乗り入れを果たしてこそ意味がある。

 今回のJR吉備線のLRT化のニュースは長年の課題解決の意味合いでは、目出度い限りだ。しかし、底意地の悪い見方をすれば鉄道線を多少利用しやすい軌道線に転用するだけの話。都心部の軌道線を運行する岡山電気軌道との相互乗り入れを果たさないとその効果も半減する。鉄道線の軌道線(LRT化、都心部直通しない場合も含む)化-富山ライトレール(19年度直通運転予定)、パリのT4線 や鉄道線(JR線など)と軌道線(LRT、路面電車)との相互乗り入れ-カールスルーエ、デン・ハーグなど をトラムトレインと呼ぶ。本気で集約都市を目指し、都心部地区の求心力回復を目指すのであれば、都心部区間に乗り入れないとあまり意味はないと考える。ここで、いくつかの先進事例を紹介する。

ドイツのカールスルーエモデル】
 中央駅(鉄道線都市最大ターミナル駅)からの乗り入れない『カールスルーエ型』


画像5 1992年、世界初トラムトレインを実現したカールスルーエ。画像は、トランジットモール区間を走行する3連接車両の2連結運転中のS2(DBの都市近距離線)。乗り入れ系統を増やし過ぎて、軌道内渋滞が常態化。線増の土地空間が地上ではないので、地下化工事を進めている(画像 ユーチューブ動画撮影より)

 カールスルーエはドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州の、人口約31.8万人の都市である。以前から路面電車線のネットワーク拡大に熱心であり、それも既存の鉄道網を活用した方式に特徴がある。1958~71年にかけて市の南側へ延びる軌間1000㍉のアルブタール鉄道を路面電車線と同一の軌間1435㍉、直流750V電化に順次改築して乗り入れを開始、79年には市の北部ホホシュテッテンへの路線延長に際し、ドイツ連邦鉄道(DB-現在のドイツ鉄道)の貨物線であるハルト線を借用し軌道を共有した。後のカールスルーエモデルの原形となる。更なる路線網の拡張を目指して、84年に連邦鉄道の旅客線への乗入れの研究を開始。運行規則や路線規格の大幅な違いを乗り越えて、92年に実現した。これが世界初のトラムトレインとなる。市街東部に全長2.8㌔の連絡線を敷設、連邦鉄道クライヒガウ線のブレッテンまでの約21㌔を交流15KV・16.7HZ電化、駅の増設等を実施、車輛はデュワグ社のシュタットバーン用車輛を鉄道線対応・交直両用化したGT8-100C/2SG(全幅2.65㍍、長さ37㍍)を投入した。最高速度は100km/hである。開業後1年で乗客が5倍に増加した。その後、中央駅付近と市街北西に連絡線を増設し乗り入れ区間を大幅に拡大。更に、ドイツ鉄道線内のみを運転する列車をトラムトレイン用の車輛に置きかえるなどの結果、その走行区間の総延長は829㌔にも及んだ。 このうち南東方面のライン線ラシュタット、バーデン=バーデン方面はドイツとスイスを結ぶ幹線路線であり、超高速列車のICEが在来線とはいえ200km/hで走行する区間にトラムトレインが乗り入れる。

 ドイツのカールスルーエで始まった鉄道線と軌道線の相互乗り入れ方式は、新しい軌道線の在り方として『カールスルーエモデル』と称された。その後、同じドイツ国内のケムニッツノルトハウゼン、ツヴィッカウ、カッセル、オランダのデン・ハーグ、フランスのストラスブールなどに伝播した。広電の宮島線(鉄道線)の市内軌道線乗り入れ(2号線)も広義では、トラムトレインに近い形態と言える。現在
カールスルーエでは、乗り入れ系統を拡大させ過ぎてカイザー通りのトランジットモール区間などでは軌道内渋滞が常態化している。複線軌道の容量の限界を超え、線増(複々線化)の空間上の余裕がないので地下化工事が行われている。 ~Kombilösung Karlsruhe~(公式HP) 


画像6 
カールスルーエ市内の郊外線区間を走行するSバーン系統(トラムトレイン)。かさ上げされたセンターリザベーションを軽快に走る(画像 カールスルーエ公式HPより)

【オランダのデン・ハーグのトラムトレイン】
 
 鉄道線を跨ぎ、
中央駅(都市最大ターミナル駅)からの乗り入れる『デンハーグ型』


画像7 ハーグ中央駅の高架区間を走行中の3系統電車、しばらくすると地下区間に入る(画像 ユーチューブ動画撮影より)


画像8 ハーグ中央駅を貫通して軌道線区間に乗り入れる(画像 ユーチューブ動画撮影より)

 カールスルーエなどでは、ターミナルである中央駅に達するかなり手前から連絡軌道経由で、軌道線区間に乗り入れ、都心部地区に達するパターンが多い。中央駅経由だと、大回りになる上に鉄道線から軌道線に遷移する構造が複雑化するデメリットがある。これに対してデン・ハーグのトラムトレインは、中央駅経由で軌道線に乗り入れる。HTM(ハーグ市営交通会社)のトラムと相互乗り入れ先の
ランドスタット鉄道が、オランダ鉄道線により東西で分断されているからだ。このような構造だと、跨ぐ(高架化)か潜る(地下化)しか連絡する術がない。ハーグのトラムトレインは高架方式を採用している。運行開始は06年からで、カールスルーエとは異なりトラムもランドスタット鉄道もHTM(ハーグ市営交通会社)による運営なので、一体運用がされている。呼称も特別扱いされていない。上記画像7は中央駅舎内を縦貫する姿だが、駅舎内ではオランダ鉄道線と十字型で結節されている。駅及び周囲の鉄道線が高架化されていないので、このような構造となっている。ドイツのフライブルグでも駅舎内ではないが、ⅮB(ドイツ鉄道)線中央駅を跨ぐ時に同様の結節をしている。カールスルーエでは鉄・軌道線乗り入れ専用車両の開発がなされたが、デン・ハーグでは最高速度が60km/hなので、従来の100%超低床車両で運用されている。

【富山ライトレールと富山地方鉄道との相互乗り入れ計画】
宇都宮と共に日本のLRTを引っ張る存在


画像9 富山ライトレール(青色)と富山地方鉄道富山軌道線(オレンジ色、水色)の位置図。類型は『カールスルーエ型』ではなく、ターミナル(都市最大駅)経由で軌道線に乗り入れる『デン・ハーグ型』(画像 富山市HPより)

 他国の紹介ばかりもあれなので国内の事例を紹介する。福井鉄道とえちぜん鉄道の相互乗り入れを、と考えたが、乗り入れパターンが福井駅経由ではなく、カールスルーエ型なので富山市の事例を紹介する。06年にJR富山港線をLRT化して一定の成功を収めた。同時期に構想に挙がっていたがコスト面の問題もあり、ぐずぐずしていた(ブログ主印象)岡山を尻目にコンパクトシティ構想を国土交通省が集約都市への転換する前から、ぶち上げそれを実現する手段に路面電車のを基幹公共交通の柱と位置付けていた。『LRT・NETWORKS・TOYAMA』(富山市HP) 06年の富山ライトレール開業後、09年に富山都心線 丸の内 - 西町間開業、環状運転を開始(上記画像9参照) ~富山市の路面電車を活かしたまちづくり「富山環状線・セントラム」~、12年には富山大橋架け替えに伴い安野屋 - 新富山間複線化。15年、北陸新幹線延伸・富山駅立体交差化事業に合わせ、『路面電車南北接続事業』の第1期開業(下記画像10参照)を果たした。19年度に第2期が完成して、念願の富山ライトレールと富山地方鉄道富山軌道線の相互乗り入れが実現する。その後は、現在終点となっている大学前電停から同大工学部前までの延伸や、富山地方鉄道線の上滝線との相互乗り入れなどが検討される。既存路面電車都市のLRT化に最も熱心かつ、着実に実践している姿勢は岡山市だけでなく広島市も見習う点が非常に多い。富山市が恵まれていたのは、JR線だけではなく富山地方鉄道という鉄・軌道インフラがあった点だ。典型的な地方閑散路線だが、LRTにリメイクして再活用する題材としてはうってつけだ。純粋なLRTにはまだまだ及ばないが、路面区間が多い既存都市で一番それに近い。何よりも森富山市長のリーダーシップが素晴らしい。

 岡山市のLRT化された吉備線と岡山電気軌道線との相互乗り入れを阻むのは高架化されていない岡山駅の存在だ。乗り入れる場合、高架、もしくは地下で接続するしかない。現状の岡山電気軌道線の東口広場乗り入れ案は、コスト面では最良だろうが岡山都市圏全体の公共交通網整備の観点から見ると、決して最良とは思えない。事情に詳しくない他県人の目から見てもそうだ。コストが跳ね上がるが、岡山電気軌道軌道線は高架で東口広場内乗り入れ。併せて広島駅同様に駅ビルを建て替え、ビル内にも乗り入れる。当然反対側の西口から、JR吉備線も高架で乗り入れさせて新駅ビル内で結節。相互乗り入れを実現させる。これがベスト案と考える。そう、『デン・ハーグ型』のトラムトレインとするのだ。岡山市が、広島市を押しのけ中四国地方の中心都市、いや中枢都市を本気で目指すのであれば、これぐらいの野心的なプランがあっても良いと思うのだが。


画像10 北陸新幹線延伸と並行して行われた
『路面電車南北接続事業』一環で、高架駅真下に乗り入れた富山地方鉄道富山軌道線。申し分ない結節だ(画像 ユーチューブ動画撮影より)


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カテゴリー記事 広島の都市交通 海外先進事例
 
 今日から新シリーズを始めたい。数年前に書いたことがあるブレーメンを取りあげる。前回はドレスデンを取りあげた。引き続きドイツの都市になるが、都市交通先進国であるドイツやフランスの諸都市は、参考とすべき点が非常に多い。特に大都市圏以外の地方都市圏の都市交通整備に関しては、日本の数歩先を常に歩んでいる印象が強い。国による制度の相違点も多いので、そのままを模写することは不可能だが、基本とテイストを導入して現状を改善してほしいと考える。

【考察その1】
旧西ドイツの都市の地下式鉄・軌道系交通の整備状況


画像1 ハノーバーのシュタットバーン(地下式LRT)の様子。高床、低床規格を使い分ける都市が多い中、シュトゥットガルト同様に高床路線で統一されている。(画像ハノーバー公式HPより)

▼旧西ドイツの人口30万人以上、100万人程度の都市の公共交通整備状況
※Sバーン(DB線 都市近距離鉄道) Uバーン(フル規格地下鉄) 
シュタットバーン(地下式LRT) シュトラセバーン(路面走行式LRT) Oバーン(ガイドウェイバス) 

-人口50万人前後~100万人程度の都市一覧
 都市名        人口     公共交通の主だったもの       
地下式鉄・軌道  
                  (緑字が地下式鉄・軌道系)       
系開通時期
 ケルン      106.1万人 Sバーン シュタットバーン バ    1968年~
                  ス   
               
フランクフルト   73.3万人  Sバーン Uバーン シュタット    1968年~

・アム・マイン(※)
        バーン シュトラセバーン バス
シュトゥットガルト 60.0万人  
Sバーン シュタットバーン バ    1966年~
                  ス  
ドルトムント    58.6万人  Sバーン シュタットバーン バ    1983年~
                  ス 

デュッセルドルフ  61.2万人  
Sバーン シュタットバーン シュ   1981年~
(※)               トラセバーン     
エッセン      58.3万人  Sバーン シュタットバーン シュ   1977年~
(※)               トラセバーン Oバス  
ブレーメン     55.7万人  Sバーン シュトラセバーン バス   ・・・・・
ハノーバー     53.2万人  
Sバーン シュタットバーン バ   1975年~
                  

ニュルンべルク   51.2万人  
Sバーン Uバーン シュトラセバ   1972年~
                  ーン バス 

デュースブルグ   49.1万人  Sバーン シュタットバーン シュト  1992年~
(※)               ラセバーン バ
※の都市は、地下・路面走行式LRTを別システムとして運用

人口30万人~50万人未満の都市一覧
 都市名       人口     公共交通の主だったもの       地下式鉄・軌道  
                 (緑字が地下式鉄・軌道系)       
系開通時期

ボーフム      36.5万人  Sバーン シュタットバーン シュト  1989年~
(※)               ラセバーン バ

ヴッパータール   35.0万人  Sバーン モノレール バス      ・・・・

ビーレフェルト   33.3万人  Sバーン シュタットバーン バ   1991年~
ボン        31.9万人  
Sバーン シュタットバーン バ   1975年~
マンハイム     31.0万人  Sバーン シュタットバーン シュト  
969年~
                  ラセバーン 
Oバーン バス
カールスルーエ   30.8万人  Sバーン シュタットバーン(※注1) 1992年~
                  バス
 ※注1-カールスルーエには地下走行区間はないが、トラムトレイン(近距離鉄道とLRTの
  相互乗り入れ)があり、地下区間を建設中なので、シュタットバーン扱いとした。


人口50万人以上の都市はドイツの自治制度の格付けでは、
日本だと人口100万人以上(地方中枢都市)に相当すると考えてもらいたい。ドイツの30万人台の都市でも日本の都市で言えば、人口50~80万人台の都市に匹敵し、中には立地上、ドイツ国内のみならずEU圏の経済力を取り込み拠点性を発揮し、人口だけでは量れない都市力がある場合もある。これは、世界の地下鉄データ一覧(日本地下鉄協会HP)からの転載だ。ドイツの項目の種別でM-フル規格・ミニ地下鉄、Ⅼ-地LRTとなっており、これを参考とした。1960~90年代初頭まで、道路混雑が酷い都心部やその近隣を地下化して、速達性を向上させるシュタットバーン(地下式LRT)方式が、中量輸送機関として主役の座にいた。近年ではすっかり下火となっている。

 LRTが都市交通の潮流となった90年代半ば以降、世界中で100都市を超える新規導入都市で、都心部地下区間があるのはポルトガルのポルトとフランスのルーアンなど数える程度だ。地下・高架採用例の多くは諸般の事情で路面に軌道を施設できない場合や、鉄道線との立体化の時などに限られる。理由としては、まずはコストの問題。路面走行式のLRTの1㌔当たりの建設費は、約20億円。地下区間のそれは約200億円程度。10倍近く跳ね上がる。この負担に耐え得る都市は限られる。費用対効果の問題も大きい。効果の1つに速達性がある。全てのケースに当てはまるとは言い難いが、都心部地区がほぼ地下区間の
シュトゥットガルトが表定速度が22.5km/hなのに対して、地下区間が全くないドレスデンの表定速度は19.4km/hと、僅か3km/hの差でしかない。駅・停留所へのアクセス性も考慮した出発点から目的地到着までのトータル移動時間の観点だと、3km/h程度の差だと乗車距離5㌔以内であれば、路面走行式のほうに分がある。近年の都市工学ではそう考えられているからだ。その観点の費用対効果も低く、現実的ではない。他には、都心部地区へのにぎわい性創出効果も疑問視されている。日本では感覚的に理解できないが、治安も問題もある。ドイツに限らず欧州の都市では公共交通の信用乗車方式採用は、当然視されている。よって地下駅・停留所が無人だ。早朝や夜間の犯罪発生リスクが、地上よりも異常に高いとのことだ。

 話を戻すと、東西統合後に加わった人口50万人台のドレスデンとライプツィッヒは別として、人口30万人以上の旧西ドイツ系の、人口30万人以上の都市で地下式鉄・軌道系交通がないのはブレーメンとヴッパータールのみ。
ヴッパータールにはモノレールがあるので、実質ブレーメンだけとなる。古いと言うか、少し時代認識がずれた都市発展論だと、ブレーメンは同規模都市やそれ以下の都市との競争おいて挽回不可能なハンディを抱えていることになる。果たしてそうだろうか?少なくともブログ主はそう考えない。そんなブレーメンを取り上げ考えたい。


画像2 エッセンのシュタットバーン(地下式LRT)の様子。複々(4)線構造で、中央の2線が低床(床面高さ30㌢台)路線専用、外2線が高床(床面高さ100㌢程度)路線用となっている。(画像ユーチューブ画面撮影より)


画像3 デュッセルドルフのシュタットバーン(地下式LRT)の様子。利用者が多い路線では5連接車両の連結運転がされている
(画像ユーチューブ画面撮影より)

【考察その2】
ブレーメンの概要 その1-街の歴史

https://livedoor.blogimg.jp/zono421128/imgs/7/a/7a7d89c8.jpg
画像4 ブレーメンの位置図


画像5 ブレーメンを上空から望んだ姿。美しいにもほどがある(笑)(画像ブレーメン公式HPより)


画像6 マルクト広場前にある04年登録された世界遺産のブレーメン市庁舎(画像ブレーメン公式HPより)

 ブレーメンは、ドイツの大都市で、自由ハンザ都市ブレーメン(通常ブレーメン州と呼ばれる)の州都。ドイツに11あるヨーロッパ大都市圏の1つであるブレーメン/オルデンブルク大都市圏に属している。ブレーメンはヴェーザー川の両岸に市街地が広がり、ヴェーザー川が北海に注ぐ河口の位置するブレーマーハーフェン(ブレーメン州に属する)から上流に約60㌔遡った地点に立地する。市域は川沿いに長さ約38㌔, 幅約16㌔である。市境の全長は136.5㌔である。ブレーメンは広さでドイツ10位。市域人口は、約55.7万人(都市圏人口150万人)で11位の都市であるが、北ドイツではハンブルクに次いで2番目、北西ドイツでは最大の都市である。これはヨーロッパで74番目、EU加盟国中では44番目にあたる。司教座都市および商都としてのブレーメンの歴史は8世紀まで遡る。この地はライン川からエルベ川、または北海から南ドイツに向かう交易の十字路に位置しているため、交易の要衝として重要視されるようになっていた。ブレーメンは787年カール大帝によって司教座都市に指定されたが、当初は不安定な宣教地であった。845年に大司教区に昇格した後、アーダルベルト・フォン・ブレーメン大司教の下(1046~72年)、最初の隆盛を経験する。1260年に都市ハンザが形成され、1358年ハンザ同盟に加盟した。加盟当初は力のない同盟都市に過ぎなかったが、これ以後急速に経済力、政治力をつけ、ブレーメン大司教の世俗支配をはねのけるまでに成長した。その自由な気風の象徴としてローラント像(1404年)や市庁舎(1409年)がマルクト広場沿いに建設された。

https://livedoor.blogimg.jp/zono421128/imgs/a/d/ad3ee802.png
画像7 河川港のブレーメン港の様子

 1574~90年にから建設されたヴェーザー港を防衛するため、ヴェーザー川左岸に防衛施設を有する新市街が建設された。1619~23年に下流のフェーゲザックに、オランダ人建築家によってドイツ初の人工港が設けられた。ブレーメンは19世紀、ドイツの海洋交易発展の主役となった。ヨハン・ラーゲの造船所は1817年にドイツ初の蒸気船を建造した。1847年にハノーファー王国国営鉄道がブレーメンに乗り入れた。1848年のトーアシュペレ(遮断門)の廃止はこの地域の工業化の発展を加速させた。1857年、ブレーメンに北ドイツ・ロイド社が創設され、その後ほかの海運会社も設立された。旧ハンザ同盟都市は海港を理由に1870~71年まで関税上は独立した国家という扱いになっており、1888年になってやっとドイツ関税同盟に加盟した。ブレーメンとハンブルクの自由貿易港はその後もドイツの関税の埒外に置かれていた。1886~95年にから外洋船のブレーメンまでの航行を確保するために河川水路の大規模な改修が行われた1920年、空港に定期路線が就航した。1928年、ブレーマーハーフェンにコロンブス護岸堤防が完成した。こうした経済的な重要性が増すにつれ、人口も大きく増加していった。1939年、ブレーメン市はブレーマーハーフェンを失った。その代りに、ヘーメリンゲンアルベルゲンを得た。第二次世界大戦ではブレーメンやヴェーザーミュンデ(ブレーマーハーフェン)は深刻な被害を受けた。特に造船所や飛行機工場があった西部地区は何度も連合国軍の空爆目標とされた。合計173回の空爆で市内の建造物の62%が破壊された。1945年4月、ブレーメン周辺において、進撃してくる英軍第3師団と抵抗するドイツ軍との間で激しい戦闘が繰り広げられた。戦後、ブレーメンとブレーマーハーフェンはイギリス管理地域内にあるアメリカ管理区域の飛び地という扱いになった。


画像6 ヴェーザー川から望むブレーメンの街並み(画像ブレーメン公式HPより)

 1945~65年までヴィルヘルム・カイゼンが州政府代表(=市長)を務めた。1947年、自由ハンザ都市ブレーメン基本法が制定され、市民はこれを受け容れた。1949ネ年ブレーメンは、ドイツ連邦共和国の都市州となった。街の過去の姿は、近代的な都市建設の中、修復されたごくわずかな建物に遺されているだけであるマルクト広場周辺には印象的な古い建物が保存あるいは再建されている。中世の古い街並みはシュノーア街で体感することができる。ブレーメン市庁舎とこの街の象徴であるローラント像は2004年にユネスコ世界遺産に登録された。

【考察その3】
ブレーメンの概要 その2-都市経済など

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画像8 ブレーメンコンテナ貨物取扱高は30年で9倍。EU主要6港のうち第4位

 ブレーメン商業会議所がブレーメン経済界の利益を代弁している。本部はシュッティングと呼ばれる建物にある。ブレーメンにとって特別に重要なのは国際貿易である。ブレーメン/ブレーマーハーフェン港湾グループにおける荷の積み降ろしの重点がブレーマーハーフェンにある場合にも、ブレーメンはシュタットブレーミシェス・ユーバーゼーハーフェンゲビート・ブレーマーハーフェン市区がこれに携わっている。積み荷の多彩さは魚、肉、乳製品、ブレーメン綿市場で扱われる綿、茶、米、タバコといった農水産製品加工原料、あるいはワインや柑橘類に及ぶ。ブレーメンは自動車、造船、金属加工、電子技術、食料品加工業の重要拠点でもある。ダイムラー社はブレーメン市内にメルセデス・ベンツの工場を有しており、私企業としてはこの都市最大の雇用主である。この工場は1963年まではボルクヴァルトの工場であった。ここではCクラス、Tモデル、ロードスター SLクラスが生産されている。これに加え、周辺には多くの下請け企業がある。伝統的な基幹産業だった造船および金属工業では21世紀にはいる頃から産業構造の変化が起きている。二大造船所のヴェーザー造船所ブレーマー・ヴルカン造船所をはじめとする多くの企業が生き残ることができなかった。ブレーメン製鋼所はアルセロール(06年以降は アルセロール・ミッタル)に買収された。

 これに対して航空・宇宙産業では、ブレーメンは現在、その間接部門やハイテク研究部門の所在地となっている。約6,000人のきわめて優秀な人材が活発に研究を行うドイツ最大のテクノロジーパークが大学に設けられた。エアバス機の最終組み立て工程は、ブレーメンで行われている。EADSグループ、OHBテクノロジー・グループの企業によって宇宙空間で使い勝手の良い研究室、推進ロケット、あるいは人工衛星システムのモジュールやその一部が制作されている。ラインメタルやアトラス・エレクトローニクは軍事用、民間用の電子技術開発をブレーメンで行っている。この他にゼーバルツブリュック地区にはメルセデスの工場やドイツ鉄道の大きな車両工場がある。食料品分野では、ブレーメンは主導的な立場にある。有名なブルワリーの Beck&Coの他にケロッグクラフトフーヅの支局があり、ヴィタクラフトやノルトミルヒの本社がある。市域内の14ヵ所(22~1,300㌶)に大規模な産業・工業地域がありブレーメンの都市経済を支えている。次回は、ブレーメンの都市交通施策などについて語りたい。


参考文献:ブレーメン(日本語版ウィキペディア)


続く


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