カテゴリー記事 広島の都市交通 海外先進事例
【考察その6】
ブレーメンのトランジットモール、モールと交通セル計画 その1
画像1 ドイツ ミュンヘンの代表的なモール区間(歩行者専用道路)であるノイハウザー通り(画像 ユーチューブ動画撮影より)
本題に入る前に、話が脇に逸れるが日本の都市にはなくて、欧州の都市の殆どにあるものといえば都心部地区のモール(歩行者専用道路)とトランジットモール-公共車両(LRT、BRTなど)の通行が許されたモール区間-がある。広義の解釈では、日本のどの都市にもあるア-ケード商店街や最近増えつつある駅前広場を拡張した疑似モール区間、70年代に盛んに導入された歩行者天国などもその範中と言えなくもない。フルモールに近い形では、旭川市の買物公園、横浜市の伊勢佐木モールがこの時代に実現したが、両市ともこれだけの単発で終わり、面的な拡大はなかった。他都市では追従する都市は諸般の事情で皆無に等しく、週末限定の歩行者天国の創設でお茶を濁した。これは日本の独創的なものではなく、欧州のまちづくりのテイストを輸入したものだ。モール-歩行者専用道路の歴史が古いドイツに目を向けると、既に1950年代より整備が始まり1960年には31都市、1969年には100都市を超えた。1970年代には歩行者専用道建設ブームが起きた。歩行者専用道沿線は、自動車利用制限などの生活する上で不便にも関わらず人気のスポットとなった。ドイツの代表する世界都市のミュウヘンのモール区間の延長㌔数は、約15㌔を超えた。面積は旧市街地の約10%を締める。この施策は、第二次世界大戦後の経済復興、高度成長期におけるモーターリゼーションに呼応した自動車優先の都市計画施策(1950~60年代)への反動だ。ドイツのみならず欧州の各都市に瞬く間に伝播した。欧州都市で流行り、日本の都市であまり普及しなかった理由を考える。
-日本の都市でモール・トランジットモールが普及しない理由
▼理由その1 安全管理上の問題
欧州-安全社会を志向。最終的な責任は自己にあると意識している
日本-安全社会を要求。最終的な責任は国及び自治体など管理者と意識
▼理由その2 気候風土の違い
欧州-日本ほど気候の変化がなく、季節・気候の変化、陽に当たることを楽しむ傾向が強い。
結果、自然環境を志向。屋外の生活を好む
日本-四季があり、気候の変化が激しい。屋外を愛でる感覚に乏しく、定常的な快適環境を望
む。人工環境(雨が降らず空調された空間)を志向する屋内を好み、屋外を避ける
▼理由その3 コミュニティ方法の違い
欧州-他人とのコミュニケーションを好み、地域社会(よこ社会)のお付き合いが生活の軸で自
治意識が強い
日本-基本的には無関心。最低限の親しい仲間内との付き合いのみ。仕事中心で、時間の余裕も
ない。自治意識は低く、敬遠する傾向が強い
長年に渡り、生活を営んできた土地での気候風土と国民性の違いがこうした差となり、まちづくりにも大きく反映していると言える。日本で普及している屋根付き商店街やドーム型球場、地下街などはその好例である(屋根信奉)。広島市で計画されている旧市民球場跡地のイベント広場に、屋根をかける発想はなど、かの地に人たちからすれば理解し難いだろう。よって日本の都市には、自然発生的な多くの市民が集う広場もなければ、大通りのオープンスペースを利用したカフェなどが少ない。あっても上(行政)から与えられたものに過ぎない。良し悪しの問題ではなく、気候風土に起因した差としか言いようがない。個人的な見解だが、理由その2がそもそもの発端で、他の1、3と連なっている、と考える。
画像2 上記画像1のノイハウザー通りの沿線上にあるミュンヘン最大の広場-マリエン広場と新市庁舎の様子(画像 ミュンヘン公式HPより)
【考察その7】
ブレーメンのトランジットモール、モールと交通セル計画 その2
画像3 ブレーメンの旧市街地の歩行環境の状況。オレンジ色-モール区間(歩行者専用道路)、灰色の赤線部分-トランジットモール(モール区間公共車両の通行可区間) 肌色-モール区間を囲む外周(環状)道路(画像 ドイツ海外視察報告書より)
画像4 トランジットモール区間(長さ約800㍍)のオーバーン通りの様子 (画像 ブレーメン公式HPより)
日本の70年代の歩行者天国の導入は、欧州都市の都市交通施策の包括メニューの表面的なものの部分模写に過ぎなかった。本来のそれは、従来の自動車移動を前提とした都市計画から、自動車が果たす役割を認めながらも過度に依存したまちづくりの弊害-生活環境の破壊、安全面の問題、都心部地区の求心力低下-を排除した都市交通施策も網羅した都市計画の一大転換の側面があった。モール・トランジットモールを実現する上で、不可欠な施策がある。それは、トラフィックゾーン・交通セルシステム(下記画像6参照)である。今でこそ、コンパクトシティ実現の包括メニューの1つに必ず盛り込まれ、多くの都市で導入されている。トラフィックゾーン・交通セルとは、都市中心部において、 歩行環境と自動車利用の両立を図るもので、自動車を排除するのではなく、車でのアクセスを阻害しないで通過車両をコントロールする手法である。具体的には、都市中心部を歩行者専用道路やトランジット・モール(歩行者と公共交通のみが通行可能な道路)によって、いくつかの小地区(セル)に区切り、車両はそれぞれの地区へ外周の環状道路からしか進入できなくするとともに、地区間を直接行き来できないようにしたものである。1960年ドイツのブレーメンで、世界で初めて導入された。このシステムを導入する大前提として、導入予定の都心部地区の外周を走行可能な環状道路整備が挙げられる。 ~フランス ストラスブール・ミュウヘン~ 導入前に通過していた自動車を排除するにしても、迂回路を整備しないと市域内全体の自動車交通が真空地帯を設けることで、悪くなる。この時代(60年代)の都市交通施策は、TDM(交通需要マネジメント)の思想はまだなく、あくまでも道路整備が追い付かないほど増え続ける自動車交通量をどうさばくのかに力点が置かれ、都心部に流入する自動車交通を減らし都心部地区の都市空間を道路と自動車中心から、歩行者中心に再配分するものだった。施策の起点が、自動車中心であることには変わりはなく、その手段の1つとして選択された。言い換えれば、逆転の発想で問題解決を図ろうとしただけの事だった。現在の都市施策の潮流であるコンパクトシティと似通っているが、都市計画の出発の起点を人間(歩行者)と定めていない点が決定的に異なる。時代背景が現在と全く違うので、良し悪しを論じても仕方がない。
このシステムは、10年後の70年に、スウェーデンの第2の都市のヨーテボリで『ゾーン・システム』と名称を変えて実施されている。多くの欧州の都市が、モール、トランジットモールを実現する施策として採用に至った。日本の都市では、全くと言っていいほど導入されず、2~3周の周回遅れの90年代後半、2000年代に入り『海外先進事例』として紹介され、いくつかの都市ではモールやトランジットモールの社会実験も行われたが、欧州都市並みの本格導入にまでは至っていない。理由は、【考察その6】で述べた通りだが、その3つに加え地元商店街の反対などもある。話をブレーメンに戻す。都心部地区から不要な自動車を締め出すには、モール、トランジットモール、外周道路の整備だけでは足りない。そう、公共交通の整備がセットとして行われないと、移動手段の選択肢を減らすだけの間抜けな結果となる。はっきりと記述している文献がなかったのでブログ主の憶測となるが、ブレーメンにおいては、ソフト面では使いやすい公共交通システムを実現する-運輸連合(VBN:ブレーメン・ニーダーザクセン運輸連盟)。ハード面では、50年代にはシュトラセバーン(路面電車)を昇華させたシュタットバーン(地下式LRT)、60年代には4本のフル規格地下鉄、70年代には都心部地区の地下区間も整備するSバーン(都市近距離鉄道)を整備する腹積もりだったと推察する。前回の記事でも触れたが、69年の『大財政改革』、80年代初頭の基幹産業だった造船・鉄鋼業の不振を理由とする極度の財政難となり、他の同規模都市が着実に整備する中、地下式鉄・軌道線導入はついに実現しなかった。
運輸連合の発足(ブレーメンは連盟)は65年のハンブルグ、70年代の旧西ドイツ5大都市圏-ハノーバー、ミュンヘン、フラ ンクフルト、シュトゥットガルト、ケルン・ボン・デッセルドルフなどを中心としたライン・ルール-よりも遅れた。70~80年代のブレーメンは、本音部分で望む地下式鉄・軌道線導入は財政の大きな制約で果たせず、かといってシリーズ記事で紹介したデン・ハーグやヨーテボリのようにシュトラセバーン(路面電車)の活用も今ほどは積極的ではなく、都市交通問題の取り組みとしては極めて中途半端な立ち位置にいたと言える。ブログ主個人の所感だが、70~80年代に限れば、旧西ドイツはシュトラセバーン(路面電車)のシュタットバーン(地下式LRT)化に非常に積極的で、都合13都市(現在14都市目のカールスルーエで建設中)で実現した。しかし、路面走行式での昇華についてはフランスや北米(アメリカ、カナダ LRT発祥の地)より遅れを取っていた。シュタットバーン(地下式LRT)に次ぐ下位カテゴリーの公共交通機関として、Oバーン(ガイドウェイバス)を想定していた節があった(80年代初頭~半ば)。事実、エッセンとマンハイムでは実現したが、これに続く都市はなかった。
ドイツは新しい交通機関の開発に非常に熱心な土地柄で、トランスラピッド(超電導リニア 2011年開発終了)やガイドウェイバス。トラムトレイン(LRTと鉄道線相互乗り入れ)なども1984年頃から研究開始。今やLRTの代名詞となった100%超低床車両も、ドイツだけではないが、『ドイツ公共輸送事業者協会』が1982年より研究組織を立ち上げた。同国の車両メーカーのAEG社(現ボンバルディア社)とデュワグ社(現シーメンス社)でも、80年代より研究、開発が進められた。北米で誕生(1978年 カナダのエドモントン)したといわれるLRTも諸説あるが、その雛形は旧西ドイツのシュタットバーン(地下式LRT)だ。都市交通に関してはドイツの常に先駆的な役割を果たし、そして成功を収めている。ブレーメンが路面公共交通を基幹交通と定め、その立ち位置をぶれずに鮮明にしたのは1989年からである。次回はその辺りから話を進める。
画像5 トラフィックゾーン・交通セルシステムの概念図(画像引用元 不明)
続く
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