封入体筋炎患者闘病記

 封入体筋炎患者のヒロです。病歴は2019年で満11年、12年目に入りました。在宅勤務の仕事とリハビリの日々を送り、細やかながらも家族3人で暮らしています。ブログ記事は闘病記と広島地元ネタ、社会保障などの時事ネタ中心です。希少疾患の封入体筋炎の周知が目的です。関心があれば、ツイッターなどでご紹介していただければ幸いです。疾患関係で直コメントが苦手の方は、ツイッターのダイレクトメールを利用してください。封入体筋炎の闘病史は各進行段階の症状や生活障害、必要な社会保障制度等をまとめています。良ければ参考にしてください。最新の封入体筋炎の状況は『近況について色々と』、取り組んでいるリハビリについては『2019年春~夏 筋疾患(封入体筋炎)リハビリ』にて素人の体感目線で書いています。モバイル版で読みにくい場合は、PC版に転換してからお読みください。

2019年01月

シリーズ記事 広島の都市問題 都心部地区活性化失敗事例

【考察その4】
そもそも新交通システムとは?
かっては未来を嘱望された新しい交通システムの筈だった


動画1 ピーチライナー BGMあり(動画 ユーチューブより)

 最近こそ使わなくなったが、都市交通の分野で日本では70~90年代にかけて『新交通システム』なる言葉が流行った。言葉の定義は、広義では旧交通システムである路面電車・バス(LRT、BRTではない)、地下鉄などの短所を改善した都市交通システム全体を指す。これに該当するものとして自動案内軌条式旅客輸送システム(AGT)、ゴムタイヤ式地下鉄、モノレール、リニア(HSST、トランスラピット)、ガイドウェイバスなどがある。狭義においては、その中で日本では最も普及しているAGTを指す。最近では、LRTやBRTもこの中に入っている。海外、特に欧州では新交通システムはLRT(ゴムタイヤトラムも)とBRTのみを指す、導入例は皆無ではないが、独立規格で他の交通機関との相互交換性が全くなく、構造も複雑で高コストなのが普及しない理由だろう。日本人の新規かつ奇をてらったものを好む傾向もあり、都市モノレール整備の国庫補助制度が74年に創設された。翌75年にはAGTもこの制度の中に組み入れられた。80年の神戸ポートライナーの開業を皮切りに、08年の日暮里・舎人ライナーまで12路線が建設された。類似するシステムとしてフランスのVAL(ウィキペディア)がある。フランスでは、ミニ地下鉄といった地下式中量輸送機関としての導入を人口10万人以上の大都市て想定していたが、一方の中量輸送機関であるLRTに人気が集まり、VAL導入事例は国内4ヵ所に対し、LRTはゴムタイヤトラムを含めると15年度末で28ヵ所と7倍の差にもなっている。今日の世界の都市交通ではAGTもVALも傍流扱いである。日本で中量輸送機関とし主役の座を射止めた理由は、先に触れた日本人気質と70年代から、路面電車を高速運行システムに昇華させる開発が旧西ドイツやフランス、北米のカナダやアメリカでなされていたにも係わらず、旧システムの改善と捉え、歯牙にもかけなかったことがある。補助制度が創設されたのは、モノレールに遅れること23年、97年になってからだ。


画像1 1980年開業の神戸ポートライナー(画像 神戸市HPより)

 都市モノレール整備の国庫補助制度が74年に創設され、全国の路面公共交通(バス、路面電車)で行き詰まりを感じていた多くの都市では建設構想が持ち上がった。三大都市圏の大都市部では、基幹鉄道主要駅までのフィーダー路線、鉄道駅とウォターフロント開発地区を結ぶ路線、鉄道空白地区を解消する路線。地方中都市レベルでは、大量輸送機関のフル規格地下鉄では供給過剰になるので、都市の基幹公共交通として期待されたのだ。構想から計画に移行する検討段階で、独立採算制の壁に阻まれ断念する都市が多かった。災害大国の日本では安全基準が厳しく、資材も輸入物に頼り地価も高い水準なので建設コストが他の先進国よりも高い傾向がある。しかも今でもそうだが、運賃収入をベースとした独立採算性がと都市交通事業の憲法となっており、導入ハードルが高くなる。結果、モノレールまで含めると、基幹公共交通として北九州、千葉、広島で実現し3大都市圏の都市では先に説明したカラーの路線で誕生した。その中の一つに桃花台新交通システム『ピーチライナー』がある。新造成したニュータウンから近隣鉄道(名鉄小牧線、JR中央線)の主要駅(小牧駅、高蔵寺駅)までのフィーダー路線として計画された。地方都市では、都市力が比較的高い地方中枢都市及びそれに類似する都市に限られ、政令指定都市以下で大都市圏以外だと、那覇市の沖縄都市モノレール『ゆいレール』だけで、都市交通先進国のドイツやフランスのように鉄軌道系の中量輸送機関は普及しなかった。要は日本では『高嶺の花』であった。かってAGTシステムの長所とされたものは、鉄車輪式車両の技術革新でクリアしておりアドバンテージは殆どなくなった。短所である他の交通機関との相互交換性がないこと、ゴムタイヤ式ゆえの割高な動力・電力費コスト短命な車両寿命などの維持コスト、そして高価な導入コストが問題視され傍流の域を超えていない。

【考察その5】
僅か15年で廃線となった桃花台新交通システム『ピーチライナー』
その歴史と哀れな最後 元々必要性がなかった路線


画像2(左) 在りし日の桃花台新交通システム『ピーチライナー』の雄姿
画像3(右) 拡大図 桃花台新交通システム全体計画図(画像 愛知県HPより)


 実はこれまで廃線となった中量輸送鉄・軌道線は2つある。姫路モノレール(79年)と桃花台新交通システム(06年)だけである。PC入力が面倒なので(笑)、以後は桃花台線とする。その苦難の歴史とその理由について触れてみたい。

1 物悲しい桃花台線の歴史

68年 桃花台ニュータウン計画を愛知県が発表する 
71年 愛知県は『中京圏陸上交通整備調査会議』を設置。中京圏鉄道網計画を審
    議、その中で『小牧 ~ 高蔵寺間(上記画像3参照)を結ぶ中量ガイドウェ
    イシステムによる
共輸送路線』を検討を盛り込む
    愛知県、桃花台ニュータウンの都市計画を策定。計画人口5万4,000人、
    開発区域322㌶、事業区間72~79年
    
74年 愛知県地方計画推進プロジェクト会議で、新交通システム (AGT) の導
    
を検討
76年 桃花台線(仮称)建設計画会議で、桃花台線の基本計画が決定。75年度に
    事業着手、82年度に完成予定。第1期区間『小牧駅~桃花台間』、次に第
    2期区間『桃花台 ~高蔵寺駅間』とい2段階での建設計画(上記画像3参照
    )。総建設費245億円。1日辺りの利用者予想は
4万3,000人で、ピー
    ク時には1時間に7,000人、開業初年度は、1日1万人を想定
78年 ニュータウンの計画人口が、4万7,000人に下方修正。桃花台線の1日の
    利用者予想、最大2万3,000人に下方修正
81年 東田中~小牧間の第一次分割工事と第二次分割工事の、施工認可申請期限伸
    張許可を申請し、許可される。高架軌道着工

82年 桃花台ニュータウンの都市計画変更。計画人口が、約4万人に下方修正。桃
    花台線の1日の利用者予想、約2万人に下方修正。車両基地の区域変更

86年 竣工(完成)時期を86年から91年に延長する
91年 桃花台線(小牧~桃花台東間 7.4㌔)開業。総事業費313億円。運賃
    は初乗り
180円、小牧駅~桃花台東間が300円。ダイヤは1時間当たり
    、ラッシュ時5本
、昼間4本、早朝・深夜3本。開業初年度の1日当たりの
    利用者数は予測の約1/3(爆)の3,281人

画像4 桃花台線の利用者数と運賃収入の推移(画像 愛知県HP)

92年 第2期路線(桃花台~高蔵寺駅間)の代替路線として、名鉄バスが桃花
台セ
    ンター~高蔵寺駅間の蔵寺駅間の路線バスの運行開始
    代替え路線バス路線開設で利用者がさらに減り、1日当たりの利用者は2,5
    79人
 
97年 4月運賃値上げ(小牧 ~桃花台東間:300⇒350円)
    愛知県は『桃花台新交通株式会社経営改善委員会』を設置。桃花台線の再建
    策を検討 ~桃花台新交通(株)の経営状況

    桃花台ニュータウン、予定より18年遅れで開発事業完了(04年人口2
    ,885人)
00年 桃花台新交通が『経営改善計画』を策定。愛知県と小牧市が、約10億5,0
    00万円の追加融資を決定

02年  国土交通省中部運輸局を中心に、『尾張北部地域を中心とした公共交通サー
    ビス向上対策プログラム検討会』が発足。上飯田連絡線開業後の名鉄小牧線
    と桃花台線の利用促進などを図るとした
03年 名古屋市営地下鉄上飯田連絡線開業(0.8㌔ 2駅) 同地下鉄名城線平
    安通駅との結節を果たす。
運賃値下げ(小牧~桃花台東間:350円⇒25
    0円)。共通乗車カード『トランパス』
の導
   
『尾張北部地域を中心とした公共交通サービス向上対策プログラム検討会』
    
『尾張北部地域を中心とした公共交通サービス向上対策プログラム』を策定
04年 桃花台新交通は経営改善策の結果、総額8億5,600万円の経費削減を実現
    愛知県が桃花台線の存廃を含めた検討を行なうため、有識者による『桃花台
    
のあり方検討会』を立ち上げる
05年 第3回桃花台線のあり方検討会開催。『運行の仕組みをIMTSに変更し
    て、存続の可能性を探る』旨の提言がまとめ、愛知県に提出。

    愛知県は『IMTSを導入しても存続は困難』との検討結果を公表。大学教
    授が、新聞で建設段階での需要予測に問題があった事を発表
06年 桃花台新交通の株主総会で廃止を決議。国土交通省中部運輸局が廃止を許可

    9月30日を以て、営業終了する


2 桃花台線がなぜここまで利用されず苦しんだのか?
 理由その1
 ずさん過ぎた鉄・軌道導入計画 
 
 桃花台線の建設計画段階での需要予測が、国鉄などの競合路線を全く想定していな
 いもの
だったことが、05年に行われた名古屋大学大学院の森川教授の調査で明ら
 にされ
た。需要予測は、最初の1日辺りの利用者予想は4万3,000人(全区間
 開業時)、
2万3,000人、2万人、1万2,000人と下方修正された。何れ
 『沿線住民が名古屋方面への移動に用いる公共交通機関は桃花台線のみ』という
 前提に基づいたものであり、それ以外の手段が想定されていない。もう一つ加えれ
 ば、移動の殆どが自動車ではなく公共交通移動を前提としている点も見逃してはな
 らない。計画でAGT導入前提だが、需要見直しの段階で導入の是非の再検討、導
 入するのであれば選定機種の見直しもあって然るべきだった。
もう一つ加えれば、
 移動の殆どが自動車ではなく公共交
移動を前提としている点も見逃してはならな
 い。
05年頃の愛知県の調査では、桃花台ニュータウンの通勤通学者(15歳以
 上人口)は約15,000人。うち公共交通移動人数は5,05
0人。利用内訳は桃
 花台線3,
600人(71.3%)、名古屋・栄方面の高速バス450人(8.9
 )、JR中央本線高蔵寺・春日井駅方面バス1,000人(19.8%)だった。地
 区の
共交通移動需要が1/3強でしかなく、2/3弱が四輪自動車)・二輪(
 原付バイク、自転車)であることも痛手だった。同じ三大都市圏でも首都圏、関西
 圏とは
異なり中京圏は車社会だ。車社会での都市では、複数回の乗り継ぎを要する
 交通機関は敬遠される。
個人的には、一方向に大きな移動需要が発生しにくい立地
 (上記画像3参照)-名鉄小牧線とJR中央線高蔵寺・春日井駅の左右方面に分散
 -なので、専用バスレーンによる路線バス就行で対処可能なレベルと考える
 理由その2 
 他の交通機関と比べ低い競争力
 利用者が予測より伸びなかった理由は何点かある。最初は、終点で接続する名鉄小

 (ウィキペディア)の貧弱さがある。今でこそ『上飯田~小牧』間が複線化されて
 いる
が、当時は部分複線化にとどまり、しかも同線は他線のように名古屋駅や都心部
 中心地の
栄・伏見地区には直接乗り入れず、上飯田駅止まり。他の鉄・軌道線との結
 節はなく、都
心部地区に向かうには同駅から市営バスに乗り換えるか、徒歩にて市営
 地下鉄名城線平安
通駅まで10分かけて徒歩で向かうしかなかった。03年、念願の
 上飯田連絡線(公式HP)が開通し、乗り継ぎによる都心部地区到達を果たしたが、
 時すでに遅しだった。次は運賃設定だ。91年開業当時の初乗り運賃は、180円。
 全線だと僅か7.4㌔で300円と、28年前の名古屋大都市圏の運賃水準だと相当
 の高額だ。新規鉄・軌道線が開業に際し、減価償却目的で地域相場よりも高めの運賃
 設定をして、利用者低迷に苦しむのは定番と化しているがここでも同じ愚が繰り返さ
 れた。


動画1 
昭和48(1973)年制作/特集映画 桃花台ニュータウン-計画編-

 
理由その3
 桃花台ニュータウンの失敗

 計画当初は5万4,000人。この規模前提があればこそのAGT導入だったの
 が、度重
なる規模縮が行われ、結局当初計画の半分程度の2万8,000人弱
 と
まった。こも致命傷になった。桃花台線に限らず、沿線人口の見込み違い
 が利用
者減に直結すので死活問題となる。時期的に高度成長期から第一次石油
 危機を経て
安定成長期に移行するうタイミングの悪さもあったが、計画その
 ものが大風呂敷
を広げ過ぎた。計画人口5万4,000人の足の確保がそもそもの
 計画の立脚点である。その根底をなす桃花台ニュータ
ウンの失敗は、痛恨の極み
 でも生温い表現だろう。
 理由その4
 第1期区間開業後のJR高蔵寺駅~桃花台間(第2期区間)のバス路線開設
 ニュータウン住民の要望なのかは定かではないが、第1期区間開業後の翌年、第
 2期区
の桃花台~高蔵寺駅間の名鉄の路線バスを就行させている。単線で本数
 も少なく中途半端
なターミナルでしかない上飯田駅止まりの犬山線よりも、名古
 屋駅に乗り入れるJR中央
高蔵寺駅利用の方が利便性が高いのは言うまでもな
 い。位置関係はこちら⇒『桃花台線計
画概要図』 桃花台線の利用者が初年度
 日当たり3,281人から、翌年は2,579人と約21.4%も減少しているの
 は、この路線バス就行が原因だ。他にはバス利用ではなく自転車利用やキス&ラ
 イド(家族の車送迎)で高蔵寺駅に向かう移動需要も多かった

【考察その6】
廃線後の後始末



画像5 桃花台新交通(株)の経営状況(画像 愛知県HPより)

 05年、愛知県は桃花台廃線の決定を下した。06年初頭の住民説明会では、約200人もの住民が集まり廃線反対の意見が相次いだ。ただこの時の住民製説明会の参加者が、ほぼ全員桃花台線利用者で
、桃花台ニュータウン世論全体では冷ややかだった。その証左として、よくありがちな
沿線住民の手による存続運動や利用促進活動はまったく行なわれなかった。桃花台新交通常務取締役の談話として『(住民からの)廃止に関する問い合わせや励ましの電話も一本もなかった』と発言するなど、完全地域住民から見放されていた。こんな鉄・軌道線は珍しい。県とて廃止決定方針を下すまで、廃止前提の議論をしていたのではない。桃花台新交通(株)は経営改善策の結果、総額8億5,600万円の経費削減を実現したにも係わらず、開業後単年度黒字化を一度も達成したことがなく、今後も達成の見込みもなく、数年後に車両及び設備機器更新期を控え膨大なコストがかかることを鑑み、AGT方式での存続を諦めた。提言にあった選定機種をAGT方式から、IMTS方式(マイナビニュース)のシステム変更して存続を図れば、再開業後13年後に単年度黒字化、31年後に累積赤字解消が可能としたが、導入・経営コストを見直した結果それも叶わないことが判明し、苦渋の決断を下した。システム変更して再開業しても10年程度は1日当たりの利用者は3,500人程度の維持は可能だが、その後は減少することも廃線判断を後押しした。廃線決定後、行政にしては実行されるまで異様な早さだが、これは06年度中にも運用資金の枯渇が確実視されていたからだ(下記画像6参照)。ぐずぐずしていたら、廃線なのに無用の公的資金導入を余儀なくされ、この日本ではマスコミ挙げて批判されてしまう。因みに鉄軌道線の廃線の基準となるのが、国鉄再建法に基づく特定地方交通線廃止基準『輸送密度が4,000人/日未満』がある。この基準に照らすと、桃花台線は1度もクリアしておらず、開業初年と実質最終年の05年に記録した2,600人/日が最高だった。営業最終日に、1日の利用者最高となる2万人を記録したのは皮肉である。


画像6 桃花台新交通(株)の運営資金の推移(画像 愛知県HPより)

 
敗戦後に問題視されたのは、高架軌道の在り方だった。撤去に膨大なコストがかかるので当面は撤去しない方針を打ち出した。06年末、高架の活用策を検討するための有識者による検討会『桃花台線インフラ利活用懇談会』を設置した。一部委員からは高架軌道を活用した新たな公共交通の導入が手合いんされたが、転換コストの問題から却下された、ガイドウェイバス転換案も軌道幅の問題で難しいとされ、小型自動車のみ通行可能とする小型車用道路を高架上に整備し、高架下の国道155号にバスレーンを設ける案を、09年、提言としてまとめた。これに対して地元の小牧市は、『どこに出入り口を作ると言うのか』『あり得ない案だ』などと批判した。結局、採用されなかった。その後、この問題は放置され、15年にようやく愛知県は全線撤去に方針を転換。同年10月、中央自動車道上に架かる部分の高架を撤去する工事を開始した。全線撤去は15年程度で完了させる予定で、総工費は約100億円を見込んでいる。他にも問題があった。建設時の補助金返還である。愛知県は桃花台線の建設に当たって、国から約89億円の補助金を受けている。そのため国土交通省中部運輸局から、減価償却分を除いた約38億円の返還を求められている。それに対し愛知県は、『補助金は目的通りに使われた』として、返還の免除を求めている。他の清算事業は債権の処分だった。愛知県と小牧市および名鉄は、総額32億8千万円の債権放棄を清算会社となった桃花台新交通から求められている。内訳は愛知県が約31億4千万円、小牧市が約1億3千万円、名鉄が1千万円。また筆頭株主である愛知県と小牧市は、その他株主の企業17社に対して、約13億円の債権放棄を求めていた。これは、愛知県・小牧市・名鉄の最終的な債権放棄額は金属スクラップの売却益が予想を上回ったことから当初の額より少なくなり、合わせて31億761万円となった。そして、清算会社たる桃花台新交通は09年4月に特別清算終結の決定が確定し、完全消滅した。

 桃花台線敗戦後の代替え交通機関は、桃花台ニュータウンと小牧駅を結ぶ路線バスであるピーチバスが、廃止前の同年9月から運行が始まり、名鉄バスも廃線翌日から同ニュータウンとJR春日井駅を結ぶ路線バスを新設しているほかに、既存の名古屋市内行きの都市間高速バス桃花台線を増便させている。また同路線バスは途中、桃花台ニュータウン住民が多く利用する春日井市民病院の前で停車する。都市間高速バスは栄駅名古屋駅前に停車する。桃花台線経由とこのバス経由で同駅への移動を比較すると、高速バスは料金が安く時間も早く到着することに加え、乗り換えの必要もない。そのため桃花台ニュータウン住民には同駅へと向かう交通手段として、人気を博している。『ピーチライナーと比べ家の近くから乗れるようになり便利になった』『夜はピーチライナーよりも早く家に着くようになった」『桃花台線が廃止になってむしろ便利になり大変良かった』とまで言われる始末だ。同ニュータウン住民の声を裏付けるようにバス路線は非常に充実している。 ~小牧市桃花台地区バス路線図~(路線図ドットコム) 次回記事では、桃花台線の大失敗と広島市が事業化した西風新都線の重ね合わせ考察したい。

その2へ続く





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カテゴリー記事 広島の都市問題 都心部活性化

今日の話題 1月22日中国新聞28面より引用
原爆資料館からドームへの景観 
広島市方針 
視野角18度を法制限


画像1(左) 1月22日中国新聞28面より
画像2(右) 同日新聞拡大画像

【記事詳細】
 広島市は21日、平和記念公園(中区)の原爆ドームと原爆慰霊碑を結ぶ南北軸線上に景観を
 保全する方針をまとめた『眺望景観のあり方』を示した。法的な高さ制限など、昨年12月に
 市景観審議会から受けた答申を踏襲した内容。3月を目途に再び審議会に詰問し、具体的な法
 規制の枠組みを検討する

 原爆資料館の下から北を眺めた時の視野角度18度を範囲とし、ドームの背景に建物が何も見
 えない状態を目指すべきと設定。現在、市の要綱にドーム周囲の建物については高さ基準があ
 るものの強制力はないため、法的な制限を設けるとした

 市によると、この設定で高さ制限を計算すると、広島商工会議所南端で20㍍以下、中央公園
 自由・芝生広場南端で40㍍以下になる。市は審議会に詰問し、景観法や都市計画法に基づく
 計画や条例などで、新たに建物を建設する際の法的制限も手法を検討。今より数㍍高い木を植
 えるなど、植栽による遮蔽(しゃへい)効果も踏まえた上で、具体的な制限をかける高さや範
 囲を決めていく

察その1】
ブログ主の都市景観概念
賛否はあえて承知の上で語る


画像3 世界遺産の原爆ドーム(画像 ひろたびより)

 眺望景観とは、ある視点場(景観を見る地点、展望台など)から視対象(眺められる対象物、山や海など)を眺望したとき視覚で捉えられる景観をいう。通常はかなり広い範囲が眺望の対象で、遠景(遠くに見える景観)、中景(遠景と近景の中間に位置する景観)、近景(視点場の近くに見られる景観)から構成される。自然公園においては、しばしば高台に展望台が設置されるが、これは眺望景観を楽しむためのものである。環境影響評価において、景観への影響を予測・評価することとされているが、この場合の『景観』への影響は、該当行為が周辺の良好な視点場からの眺望景観に支障をきたすか否かの観点ばかりでなく、行為地周辺の景観(囲繞景観)構成要素を損ねるか否かの観点からも予測・評価することとされている。眺望景観に係らず、日本ほど都市景観にアバウトな国はない。高度成長期以降、まちづくりや都市計画には経済原理主義が『自由な経済活動』の錦の御旗の元、無制限に導入され、地域全体の調和・美観・伝統を軽視した住宅やビル、工場、護岸などの建築物・構造物が次々に建てられ、街並みや自然景観から調和や地域ごとの特色が失われていった。良好な景観や環境を求めるよりも、経済効率と利便性が優先され、建築基準法都市計画に違反しない限りどのような形態の建築物でも建てることが可能だった。建物高さ規制、広告物規制、デザインや色合いの統一感など存在せず、都市高速道路など高架建造物など都市景観の概念に乏しかった。その結果、先進国では珍しい『建築自由の国』と揶揄され、無秩序かつ無個性の都市景観を醸成するに至った。国内都市間競争の中でも類似都市同士なので、然程のハンディにはならないが、海外-特に欧州の各都市との競争を鑑みると、日本の都市の無個性ぶりは大きなハンディとなる。都市景観全体に日本よりも数十倍うるさい欧州都市の街並みを見ると、街の顔とも言うべき都心部地区(旧市街地)は、社会主義を彷彿させるかのような規制が敷かれ、
経済効率とは無縁の長い年月をかけて形成された伝統と風格と調和のある美しい街並み(下記画像4参照)が保全されている。利便性とは程遠いものだが、却ってその街の個性を強烈にアピールしている。ブログ主は20代後半~30代前半にドイツの経済首都のフランクフルトに仕事で訪れることが多かった。フランクフルトはドイツの都市の中で最もアメリカ的都市として、首都のベルリンと並びドイツ人が住みたくない都市の上位にランクされるが、日本の都市に慣れ親しんでいたブログ主には、重厚な都市景観を基調に、経済都市に相応しく新しいものが程よくチョイスされ新鮮だった。そして虜になった(笑)。

上のMarienplatz、写真:muenchen.de
画像4 ドイツ第3の都市ミュンヘンのモール区間のノイハウザー通りの沿線上にある市内最大の広場-マリエン広場と新市庁舎の様子(画像 ミュンヘン公式HPより)

 より多くの個性があることに重きを置き、アイデンティティ-を大事にする欧州都市と東京にあるものがより多くあることに重きを置き、横並び意識が無駄に強い日本の都市との価値観と国民性の差異が、街づくりにおいても明確に出ている。日本のそれでは、没個性と画一化を招き都市の競争力低下を誘引する(と思う)。怒涛の高度経済成長期が過ぎ去り、安定成長期に入り始めるとその日本人も立ち止まり、80年代、自治体個々の都市景観法を定め始める都市が増えた。街並みを再開発などで一新させるのは、経済効率の観点からは最適解となるが、都市のアイデンティティと個性の維持という点ではマイナスに働くことも多々ある。日本人も80~90年代の安定成長期になると、都市景観も都市の世代を超えた共有財産の一つとの認識が、多少なりとも浸透し始めた。『エコノミックアニマル』と欧米各国から白眼視され、『真の豊かさとは何か?』と日本人自身が自己問答し始めていた。ブログ主の独自解釈では真の豊かさは、精神と経済の余裕をどれだけ持てるのかに尽きる。話を都市景観に戻すと、80年代以降、都心部地区の電線の地中化が始まったのはその意識の表れでもある。現在でもそうだが、自治体個々の都市景観に係る条例のその多くは法令の委任に基づかない自主条例のため強制力がなく、建築確認の際に必ずしも従う必要はなく、強制力はない。努力目標にしか過ぎず、それに反した場合、計画や工事を差し止める法的な裏付けはなく取り締まるというよりか要望する主旨のものだった。日本の都市計画法のザル法ぶりが伺える事例だが、日本の場合万事こんな感じだ。知ったかぶって(笑)、言わせてもらうと欧州都市では、モーターリゼーション大波が押し寄せていた60~70年代においても政治的主張の左右関係なく、都市景観・文化は産業的な資源でもあり、景観・文化力を高めることは、また都市観光などの経済効果や人々の都市・地域に対するアイデンティティ(一体感)を高め、誇りを育て、土地の総合的な価値を形成することが期待できると考えられてきた。日本も欧州都市遅れること約半世紀、バブル経済が崩壊し低成長時代に入り、縮小社会時代の到来目前となり、都市景観がもたらす価値の重要性を再認識され始め、04景観(国土交通省HP)が制定された。国で法律が制定されれば、地方が動き始めるのは世の常で制定後独自の景観条例を設ける都市が増えた。審議会等の都市景観議論の過程で、日本では馴染みが薄かった眺望景観などの概念が欧州都市などから、受け売られ芽生え始めた。これはブログ主の個人的な趣味の範疇になるが、都市全体の景観やその都市の顔となるべきラウンドマークとなる建物などの眺望景観は、時代の時々で必要とされる都市インフラ設備よりも上位に位置する。無形(?)の都市インフラに分類されるが、一度破壊されたら少なくとも半世紀はそのままだ。一度壊すとなし崩し的になり景観破壊が加速する可能性も高い。


画像5 スイスを代表する都市チューナーリッヒ。世界11位の金融センターの評価を受けている。旧市街地はテーマパークを彷彿させる重厚さが漂う。欧州都市で最も公共交通の分担率が高い都市でもある。都市経済と街並みの保存を見事に共存させている(画像 ユーチューブ画面撮影より)

【考察その2】
広島市の都市景観を巡る歴史など・・・ 


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画像6 現在の平和記念資料館本館下からの視野角18度の眺望景観図(画像 広島市HPより)

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画像7 画像11から広島商工会議所ビルを除外したシュミレーション図(画像 広島市HPより)

広島市の都市美観に係る歴史
81年03月 『広島都市美化計画』を策定する
95年09月 原爆ドーム世界遺産推薦のため、『原爆ドーム及び平和記念公園周辺建築物等美
       観形成要綱』(以下 美観形成要綱)を制定。世界遺産登録後、
原爆ドームと平
       和記念公園の周辺50㍍は、世界遺産を保全するためにバッファーゾーン(緩衝
       地帯)に指定(高さ制限なし)

05年    
バッファーゾーン内の中区大手町4丁目で、原爆ドームの高さ(25㍍程度)を
       超える高さの
マンション建設計画が具体化
06年11月 
イコモス(国際記念物遺跡会議)が、『原爆ドームに関する勧告』を採択し、世
       界遺産を保護するために、高さ制限を含む拘束力のある規制が必要であるとの見
       解を示す
       広島市、景観誘導の充実を図るため美観形成要綱を改正。これまでの形態意匠に
       加えて建築物等の高さ制限を加える(下記画像8参照)
08年07月 景観誘導の実効性を高めるため、景観審議会での審議を経て、景観法に基づく『
       原爆ドーム及び平和記念公園周辺地区景観計画(素案)』を作成し、法的位置付
       けのある高さ制限を設けようとするが、指定地域住民の理解が得られず 
10年12月 高さ制限については景観計画から一旦除外し、 当面、美観形成要綱で対応し、景
       観形成上の高さのあり方について全市民的な議論を深める など、丁寧なプロセス
       を経ながら、地元理解の状況も踏まえ検討するとした
13年10月~18年12月については、以下のリンクの通り

        広島市景観審議会の審議状況~(広島市HP)

     これを書いた理由として、スタジアム問題の旧市民球場跡地案潰しで、原爆ドームと原爆慰霊碑を結ぶ南北軸線上の眺望景観の問題を持ち出したという指摘が一部にあるからだ。時系列順に整理すると、眺望景観自体は後付け感が少し漂うが、原爆ドーム周辺の都市景観問題は世界遺産登録前の90年代半ばからくすぶっている。さらに過去にさかのぼれば、南北軸線は1950年の故丹下健三氏の『平和都市建設法(案)』の中で平和大通りの東西軸と共に広島の都市計画の基幹をなしている。『では、旧市民球場は?』と問われそうだが、現在の都市公園法が公布されたのが56年4月からで、旧市民球場の開場は、57年7月。元々あの場所での建設ではなく、基町地区が予定されていたが反対でとん挫。その後候補地は二転三転し、跡地に落ち着いた。当時の市長選最大の争点にもなり、市民の『ナイター設備がある球場をカープに』との熱い気持ちが後押しした。原爆ドームが今ほどの文化財価値がなく、都市公園法の厳格運用(ブログ主予測)もされていなかった時代の産物だったと思われる。その証左として、市民球場建て替え問題が起きた時も市は現在地での建て替えには消極的で、旧貨物ヤード跡地(現マツダスタジアム)の金利軽減負担期間が過ぎ、金利支払いが財政の重荷になっていたこともありカープに結果的に押し付けた。当時の市民世論は現在地建て替えの一択だった。市の選択は旧貨物ヤード移転の一択で、現在地建て替え案は、原爆ドームの歴史的価値の高騰や丹下構想回帰などを理由に却下した。原爆ドーム周辺の都市景観が大きくクローズアップされたのは、05年のバッファーゾーン内でのマンション建設問題からだ。オバマ大統領の広島訪問後に、旧市民球場跡地へのスタジアム建設が難しい理由をしきりにアナウンスし始めたが、それ以前からくすぶっていた景観問題がもっと深い部分にあったといえる。ブログ主の主観だと、半永久的に年間200~300万人集客可能な施設であればその経済効果を鑑み眺望景観を無視してでも立地して仕方がないと思うが、作業部会での跡地スタジアム案は45.6万人の年間集客見込みなので『慰霊碑&資料館からの眺望景観>跡地スタジアム』になる。しかも狭隘な敷地と都市公園法が災いして、単機能単体スタジアムになるのは避けられない。17年度の旧市民球場跡地の暫定年間利用数は約87万人のとの事。真水の数字かは少し疑わしいが、最低限のインフラ整備のなされずアスファルト剥き出しの状態でこの集客数であれば、正式な跡地利用であるイベント広場整備がなされれば、強力なソフト整備状況にもよるが100万人集客の達成はさほど難しくないと思える。構想の文化施設抜きのイベント広場の整備コストは、15年の試算で27.9億円で約100万人以上の集客、かたや260億円で45.6万人。費用対効果の面でも勝負は明らかだ。

    http://livedoor.blogimg.jp/zono421128/imgs/6/e/6e1e5cc1.png
    画像8(左) 世界遺産の原爆ドーム周辺のバッファーゾーン(建物高さ制限)図
    画像9(右) 拡大図 平和記念資料館と原爆死没者慰霊碑を視点場とした視野角18度の眺望景観範囲(オレンジ色部分) 画像8~9と共に広島市HPより

     広島市が審議会の提言 ~
    原爆ドーム及び平和記念公園周辺の眺望景観のあり方~(広島市HP)を受け、視野角度18度の眺望景観の保全に向け法的強制力を持つ条例制定の動きが出てきたことは非常に喜ばしい。新聞報道だと商議所ビル南端で高さ20㍍以下、中央公園自由・芝生広場南端で40㍍以下となるらしいが、現在のこの市が定めようとする景観ルールに照らし合わせると、商議所ビルと護国神社駐車場ビル、PL教団ビルが抵触する。商議所ビルについては20年代前半に現在の市営基町駐車場一帯再開発ビルへの移転が取り沙汰されている。商議所ビル移転後の眺望景観は上記画像7の通りとなる。当面は、植栽で隠すとの事だが、残りの2ビルの移転も急務となるが民有地なので事は急には運ばない。彼らの場合、移転する義理はあるかも知れないが義務は基本的にはないのだから。移転交渉を中~長期的課題で行うと思うが、個別に場所柄数十億円以上かかると考える。正式な金額は定かではないが2案件で30億円以上ものコストをどう捉えるかは評価は分かれるところだが、ブログ主は安いコストと考える。先の考察でも触れたが、眺望景観を含めた都市景観は直接の経済波及効果で量れる類のものではないし、このような物差しで量る行為自体が経済効率のみの価値を尊しする心の貧困さの裏返しでもある。成熟期に入った民主主義国家の国民の価値観ではないだろう。実現まで時間はかかると思うが慌てず腰を落ち着かせ取り組むべきだ。新聞記事では触れられていないが、市営基町住宅の高層棟に当てはめると高さ何㍍になるのか知りたいところだ。恐らく余裕でオーバーしていると思うが、この地も使用耐用年数ギリギリ(70年前後)まで利用して、40年代半ば~後半に段階的に機能停止させ、50年初頭に機能全廃して中央公園に組み入れて分散している公共施設集約の受け皿に、と思う。一帯は国有地で売却などできず民主導の再開発は期待出来ない。ただ広島市にはその意思はなく、1~16号棟の中層棟は30年代半ばまで使い続け、30年代半ばに機能停止させ17号棟を高層化して集約化させる腹積もりのようだ。現実問題として、かなり難しいものがあるが眺望景観に拘るのであれば徹底してやってもらいたいものだ。幸か不幸かよく分からないが、この南北軸線は民有地が少ない。ハードルはそこまで高くない。


    画像10 広島市の都市計画の生命線となる南北・東西軸線(画像 広島市HPより)

     何度も言うが、都市計画の不在を伴う建築自由の市場経済原理のみを尊しとするまちづくりと一定の規制を施し、開発抑制地区と同自由地区を使い分け、都市の個性を尊重とするまちづくり。どちらが、今後加速する国内・外の都市間競争に打ち勝つのかは明白だ。上記画像10は、平和都市建設構想で示された丹下案の南北・東西の都市軸設定だ。『時代も違うのに今更、こんなものを持ち出すのも時代錯誤も甚だしい』とのお叱りを受けそうだが、この軸線設定は、まちづくりの憲法に匹敵するもので木で例えると幹に相当する。時代の要請で必要とされる他の施設は、所詮は幹ではなく、枝部分だ。枝部分はその都度、変えて良いと思う。残念なことに現状を見ると、この軸線設定が徹底されているとは思えないし、都心部地区全体を循環する回遊路として機能しているとは言い難い。中途半端に落とし込んでいるとしか思えない。都市間競争を戦う武器として中央資本に頼った商業機能の集積を期待するのも、理解できるし、ある程度は必要だと思うが、厚みでは上位都市には到底適わないし、二番、三番煎じに終わる。広島以外の地から訪れる人たちが何を求めているのかを考えると、それではないことは確かだと思う。原爆ドームの周囲の景観、今回の眺望景観も都市の個性の一つだし、これまでの時代背景をバックボーンとした経済効率最優先させたまちづくりとは対極の人間性重視のまちづくり-歩行者中心の都市空間の再配分-も日本の他都市が持ちえない大きな武器になると考える。それには、広島人の、メンタルを大胆に転換させる必要がある。他都市にあり、広島市にないもの(地下鉄、スタジアムなど)をあげつらって、卑下するのではなく、他都市にはないものをどれだけ持つのかを議論し獲得に向けた努力を続けることが肝要だろう。これまで、上位都市の後追いを続け自助努力で何を持ちえたかを考えると、自ずと答えは見える。今回の眺望景観やドーム周囲の高さ制限の法制化も紆余曲折が予想されるが、広島市の個性や他都市にはない武器の獲得の一助になる。こうしたものの積み重ねを続けることで、この街も亀の歩みかも知れないが確実に変わるのでは?と期待する次第だ。


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    シリーズ記事 闘病記 リメイク版 2008年の出来事
    関連記事 特別版『将来の封入体筋炎患者へ ブログ主の闘病史


    【注意!】

     このシリーズ記事は、ブログ主が08年春に封入体筋炎を発症した当時のことを振り返り、記事にしています。よって19年現在の心境とかではありません(笑)。その辺を十分に踏まえた上でお読み頂ければ幸いです。では、始めたいと思います。

    【述懐その23】 09年春
    やってきた『Xデー』その1
    疾患名特定される日 数日前~当日朝の様子

    画像1 疾患名特定日が近づくに連れて、焦りを隠せないブログ主のイメージ図 (画像 かわいいフリー素材集いらすとやより)

     疾患名特定の受診日が数日に迫り、考えないようにしてきたこと-想定外のものだったらどうしよう・・・-がしきりに脳裏をよぎる様になった。生命予後不良-確実な死-の意味合いでは、裁判での死刑判決にも等しい。少し異なるのが、死刑執行が数年後か20年後かの違いだけだ。クライマックスは変わらない。別に生命予後不良の筋疾患であることは理解していたし、それを正面から受け止め、抗うだけ抗ってやろうとモチベーションをこの頃になると持ち始めていた。たが、やはり公式に認定されるとなると又、別の面持ちがあった。相反する感情だが、まだこの時期は複雑に絡み合って共存していた。おバカな(笑)家内が何を考えてそうしたのか定かではないが、冷蔵庫左横に釣りかけているカレンダーに『パパの病名が決まる日』とその通院日に赤丸を丁寧に入れており、その事が輪をかけた(上記画像1参照)。『暇人が余計なことをしやがって』と少し思ったが、それぐらいで怒るほど狭量ではない。でも気になったのは事実である。その赤丸を入れた当人が、数日前になりしきりに気にするようになっていた。その姿を見て内心、『絶対にお前はバカだろう(笑)』と思い、その姿を冷ややかに楽しむ余裕はあった。この余裕こそ、立ち直った証拠でもあり今後、死まで続く闘病生活のエネルギーになると確信した。仕事でも部下などには、敢えてシークレットにはせず、『いよいよ来週だよ~』とおどけた感じで口にしていたし、部下も『正式に分かればいいですね』などと返した。受診日前日の夜、当時としては珍しく、20時頃に帰宅した。当時の平日の平均帰宅時間は22時以降だったので、2時間も早く帰宅できると、少し得した気分になった。筆記用具やメモ用紙などをリュックに詰め込み、『Xデー』に向けた準備をした。午前10時からMRI検査が入り、その診断画像によって担当医が最終判断を下す手筈だった。9時半頃までには大学病院に入るためには、自宅マンションを8時40分頃に出ようということになった。09年春当時、家内はまだ30代半ばだ。ふてぶてしいほどの肝っ玉などない。と偉そうに語っているブログ主も数日前とは比べものにならない緊張感があった。あったのだが、ブログ主以上に過緊張している家内を見てると、むしろ家内が心配になってきた。これだけを見ると立場がまるで逆だった。




    画像2 亭主の難病の疾患名特定の日が近づくごとに緊張の色が隠せない女性 (画像 かわいいフリー素材集いらすとやより)

     19年現在では、家内はブログ主が通院する時には、『送迎+万が一に備えた介護人』として大学病院へ同行するのが当たり前になっているが、この当時はそんな通院慣習など一切なく、亭主を介しての大学病院デビューはそれなりに緊張感を伴うものだったようだ。しかもデビュー戦が亭主の難病の疾患名特定の場という大舞台。緊張するなというのが無理な話だった。
    09年春当時、家内はまだ30代半ばだ。ふてぶてしいほどの肝っ玉などない。と偉そうに語っているブログ主も数日前とは比べものにならない緊張感があった。あったのだが、ブログ主以上に過緊張している家内を見てると、むしろ家内が心配になってきた。これだけを見ると立場がまるで逆だった。そのおかげで、ブログ主の緊張感の何割かはなくなった。笑いと軽い皮肉を込めて感謝したい(笑)。そして当日の朝になった。いつもは朝食は午前7時前後だったが、この日は少し遅めの8時前頃。格好もスーツ姿ではなく、薄手のパーカーに、Gパンという軽装だ。家内も既に準備万端だった。いつもは他愛もない会話を交わすのだが、この時に限ってはお互いに無口になった。『いよいよだな』と決戦に臨む古(いにしえ)の侍気分に浸っていた。気分は『矢でも鉄砲も持って来い』と腹を括った。と同時に『俎(まな)板の鯉』の気分でもあった。『ここまで来た以上は逃げも隠れもしないぞ』的な妙な高揚感に包まれた。家内も『もう行くしかないね』と何やら深そうな言葉を吐いた。ブログ主は『ここに来るまで、色々とあったけどようやくここまで辿り着いたね』と勝手に解釈した。朝食も取り終わり、身支度も済ませ8時半過ぎに自宅マンションを出た。運転はこの当時はブログ主だった。

    【述懐その24】 09年春
    やってきた『Xデー』その2
    疾患名特定される日 大学病院入室まで



    画像2 私が通院開始した頃(2008年~)の広島大学病院診療棟、2013年9月に新診療棟が完成して臨床管理棟になった(画像 ブログ主撮影)

     この日のブログ主は、決戦に臨む修行侍の如く適度な緊張感、原因不明の高揚感、知りたいけど知りたくないような弱い自分など多くの複雑な感情が入り乱れていた。週末の金曜日だったが、朝の渋滞に巻き込まれる時間でもなく、晴天だったので道路は全く混んでいなかった。9時過ぎに大学病院に到着した。あれこれと考える時間などない方が、良いと思ったがこうなった以上はや無得ない。立体駐車場に当時の愛車『デミ蔵君』を置き診療棟(上画像3参照)に家内を伴い入った。家内は、初めて来た大学病院の古臭さに驚いていた。『中はこんな感じなんだ~』と。患者は親世代以上の高齢者ばかり、車いすなどの障害者も数多くいて、家内には表現は適切でないが良い現物教育になった。ブログ主も間髪入れず『これが俺がこれから生きるかも知れない世界だよ』と付け加えた。時折鼻から管を通しているベビーカーに乗った乳幼児もいて、家内はその姿に少しショックを受けたようだ。顔に出やすいタイプなので、心の動揺ぶりが手に取る様に分かる。『この現物教育は、かなり効果があるな』と内心悦に浸った。別に現物教育のために来たのではない。これはついでだ。時間も少し押して来てので、MRI検査室に2人して向かった。何度か通院しているブログ主は院内の勝手が分かっているが、家内は初めて訪れたのでよく分からないらしい。発症前は、ブログ主は東京生活が長かったせいか、歩行速度が速い。典型的な地方人の家内は遅いので、少しイラっとしたものだ。この日もそうだ。この時は、既に筋萎縮が進み歩行速度はかなり低下していた筈だが、まだブログ主のほうが少しだけ速かった。検査開始15分前に、手続きを済ませた。しばらくすると、別室に誘導されバスローブのような検査服に着替えるように指示を受けた。貴金属類はNGである。時計を外し、私服から検査服に着替えた。


    画像4 12年に
    広島大学病院に導入された3台目のMRI。09年当時は、こんな最新鋭な器具ではなく、それこそ棺桶に閉じこまれたかのような錯覚になる代物だった(画像 広島大学病院HPより)

     看護師が何人かいて外部の検査技師が指示をしてテキパキと動く。MRI検査は、この時で2回目だったが地元の病院でのそれと比較するとサイズが大きかった。『さすが大学病院、スケールが違うぜ!』などと子どものように心躍ったが、それはすぐ消え去った。寝台に乗り、ベルトで固定され中が空洞となっている卵型の検査器具に寝台ごと突っ込まれるのだが、検査部位の真上の天井部分が下りてくる。圧迫感というか棺桶に閉じこまれたような感覚にとらわれた。それが慣れないうちは恐怖に感じた。検査部位はこの日は身体中の筋肉全てだったが、一度の検査で5~10分ぐらいかかる。その間、ヘッドホンのようなものを装着していたが『ドン、ドン、ドン』とヘッドフォンから聞こえてくる。古いタイプなのでこうなのか、それとも本格的なものは全てこうなのかはよく分からなかったが、とにかく閉口した。時間が経つのが異常に遅く感じる。仕方ないので、『羊一匹、二匹、三匹・・・』と数え時間が過ぎ去るのを待った。部位ごとの検査時間の遅さは次第に慣れたが、天井が下りてくる特有の圧迫感は最後まで慣れなかった。大地震で家屋に閉じこまれた被害者の人たちの気持ちが少しだけ分かってしまった(笑)。地途中で、もうどれだけ時間が経ったのかが非常に気になった。感覚的には3時間ぐらい閉じ込められていた気がしないでもない。多くの検査で一番これが苦痛を伴うものになった。早く終わることだけを祈った。祈りの甲斐があり(笑)、検査は無事に終わった、室内の時計を見ると11時半だった。1時間半もしていた。検査部位が増えるとこうも時間がかかるのかと不思議に思った。ちょっとした地獄から解放され、私服に着替え直し中待合で待っていた家内と合流した。結構いい時間だったので、内科で受け付けだけを済まし昼食を取るために外に出た。


    その13へ続く


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    シリーズ記事 広島の都市問題 道州制について

    考察その9】
    州制よりも県と市町村の中間組織が組織が必要なのでは? その3
    連携中枢都市圏構想について


    画像1 14年度よりスタートした総務省肝煎りの連携中枢都市圏構想、11モデル都市圏に選定された広島広域都市圏。『200万人広島都市圏構想』として連携市町と各種の取り組みを展開している(画像 広島市HPより)


    画像2 広島広域都市圏を形成する11市、13町の概略(画像 広島市HPより)

     前回記事でフランスの『大都市共同体』『都市圏共同体』と類似する制度はないと書いたが、似て非なるものであればある。それは総務省の『連携中枢都市圏構想』(総務省HP)である。日本の道州制導入議論が国主導の権限と財源を然程移譲しない形で進み、地方が猛反発して事実上とん挫したことは既に触れた。現行都道府県制度の元、地方分権と広域連携を進める方が現実的との流れから誕生したのがこの構想だ。取りあえずざっくりと説明する。

    1 連携中枢都市圏結成の大まかな流れ

    ① 連携中枢都市の要件
     政令指定都市 人口20万人以上の中核都市 昼夜間人口比率が概ね100以上 3大都市圏以外に所在すること


    ② 連携中枢都市宣言  連携中枢都市宣言書~(広島市HP)
     地方圏において相当の規模と中核性を備える圏域の中心都市が、近隣の市町村との連携に基づいて、圏域全体の将来像を描き、圏域全体の経済をけん引し圏域の住民全体の暮らしを支えるという役割を担う意思を有すること等を記載した書面(『連携中枢都市宣言書』)を作成し、公表する

    ➂ 連携中枢都市圏形成に係る連携協約締結 
     ~広島市と廿日市市との連携中枢都市圏形成に係る連携協約書~(広島市HP)
     宣言した単一中枢都市と、その近隣の単一自治体が、圏域全体の方向性、連携分野、
     役割
    担に関する事項等について、それぞれの議会の議決に基づき締結・変更され
     る
    連携
    制度は、地方自治法の改正により創設された地方自治体は新たな
     広域連携の取組を
    推進るため、他の地方公共団体と連携して事務処理の基本的な
     方針・役割分担を定める
    連携協を締結できる

    連携中枢都市圏ビジョン ~広島広域都市圏発展ビジョン~(広島市HP)
     宣言をしたの単一の中枢都市と、その近隣の単一の自治体が協議の結果、策定され
     るもの。この時の協議の場を連携中枢都市圏ビジョン懇談会という。『ビジョン』
     を策定すると連携中枢都市圏を形成することができる。連携中枢都市圏の名称・将
     来像・具体的取組・期間・成果指標などが定められている。

    ⑤実施連携中枢都市圏数
     宣言連携中枢都市-32市(連携中枢都市宣言を行った市の数) 
     連携中枢都市圏-28圏域(連携中枢都市圏ビジョンを策定した圏域の数)
     圏域を構成する自治体数-253自治体(連携中枢都市圏に取組む自治体数)

    ⑥その他
     ~連携中枢都市圏構想の推進に向けた関係各省による支援策~(総務省HP)


    画像3 広島広域都市圏連携協約締結式での各自治体首長の集合写真(画像 広島市HPより)
     
     取り組み自体は決して悪くないと思う。1から10まで地域の中心都市がしゃしゃり出て何もかも自分一人でやる必要など全くない。都市圏域の自治体で得意とするところがあれば、協定を締結したその分野に関してはお任せすれば、その分のコストも削減出来るし無駄が省ける。個々の役割分担は絶対に必要だ。ブログ主が察するに、この制度のモデルは恐らくフランスの
    『大都市共同体』『都市圏共同体』やドイツの『市町村連合』だろう。十分テイストは感じるし、一定の効果はあると思われる。思われるが、この制度はフランスとドイツのそれとは似て非なる制度だ。どこを指してそういうのか?それは関係省庁の支援策(上記リンク参照)は、手厚い各交付金があるが肝心の財源の移譲が皆無だ。そう容易く渡すはずもないが、フランスでは固有財源-単一職業税、3税付加税と事業収入があるのとは対照的だ。これまでこのような取り組みが皆無だったことを思えば、端緒としては評価できるが、この制度を契機にさらに発展して、指摘した財源や権限の委譲まで進むかと問われると、その可能性はほぼゼロだろう。今後、新たな交付金の創設ぐらいはあるだろうが、本丸部分にまでは切り込めないだろう。連携中枢都市圏はそれ以上でもそれ以下でもなく完結する。昨年末に記事で取り上げた『中枢中核都市構想』も地方分権の意味合いでは、この構想と同列にあり地方分権を木の幹に例えると同様の枝の一つだと考える。日本の道州制論議の1丁目1番地は、東京一極集中の是正と地方分権なので目的さえ達成できれば、手段は基本的には何でも構わない。

    【考察その10】
    州制よりも県と市町村の中間組織が組織が必要なのでは? その3
    『日本版自治体連合』の創設
     

    画像4 世界遺産の原爆ドームから平和記念公園を望んだ風景(画像 ひろたびより)

    2 『日本版自治体連合』の骨子

     
     結成自治体連合範囲-区域中枢都市の1.5%都市圏を最大範囲とする
     処理事務等-義務的権限(経済、社会、文化分野に関する開発及び整備、 地域整
           備、住宅政策、都市政策、共同サービス(上下水道、 葬儀、消防、
           救助)、環境政策 
     
     財源-税収 国の各交付金 事業収入 
     固有財源-消費税の付加税分(0.5~1.0%)、市・町民税の非課税制度撤廃分
          の一部

     イメージとしては疑似地域及び都市圏政府に近いものを想定する。道州制度のような大風呂敷を広げた大規模なものではないが、県内の各広域都市圏が大小の何通りかのグループ分けがされれば、圏域ごとの活力は現在よりは確実に増すだろう。権限と財源の移譲に過度にアレルギー反応を示す中央省庁もこの程度であれば、時代の流れと割り切れるのではなかろうか?ブログ主が道州制反対の理由として、首都直下型地震や南海トラフ巨大地震などの自然災害リスク回避のための分権などであれば問題はないが、過度に進めると、日本のスーパーエースである東京圏の活力を奪いかねないことが根底にある。アメリカやドイツのような連邦制を標榜してのそれではない。東京圏がこの改革で埋没すると、それに比例して日本の没落する可能性が高い。それとこれは別儀だろう。欧米の行政制度の模写に反発を覚える方も多いだろうが、制度自体は日本のそれより先を走っており非常に参考になるものが山のようになる。後は形骸化しない範囲でアレンジし直すというか、実情に適ったものに手直しすればいいだろう。首都直下型地震や南海トラフ巨大地震がそう遠くない将来、起きることが確実視されている。国土強靭化による減災の視点も重要だが、一時的に(複数の都市で)バックアップ可能な体制が急務だと考える。広島市目線だと、近代都市としての過去の経緯で都市インフラ整備が、他の地方中枢都市よりも遅れた。取り返そうにも、既に縮小社会(超高齢化+大幅人口減)に片足を突っ込み、財政の硬直化が進む中では限界がある。今更莫大な負担をして都市インフラ整備に邁進する時代でもない。現在あるものを建て替えるときに時代に促した形で複合化するのが主流となる。新規なものは特に必要性がなければ建設しない。近隣自治体に施設があれば、一部委託などして任せるなど特性に応じた分業制にすれば問題はないだろう。事業の選択と集中、取捨選択の加速がより重要になるだろう。この制度だと市域をまたいだ都市問題の解決が容易になる。行政コストの削減につながり、得意とする分野に傾注すれば縮小社会でも都市として持続的な成長が図れるはずだ。


    画像5 かっての旧西ドイツの首都ボンの都心部地区の賑わい(画像 歩行者空間による中心市街地の構成より)
     
    道州制論議は90年来、時代による濃淡はあれど続けられてきた。都道府県の統廃合という行政効率の改善先行の国の思惑が先行、真の分権に程遠い内容に地方が反発する図式で立ち止まっている。記事を書くに当たり、00年代に交わされた議論などの分権をいくつか確認したが道州制さえ導入すれば、地方分権と東京一極集中の解消が進むかの如く幻想が一部にある。問題は中身である。形態は極論すれば、何でも構わない。所詮は表紙に過ぎないからだ。日本の地方都市は、過度なモーターリゼーションの進行による拡散都市化と郊外大型商業施設などの乱立で都心部地区を中心に活力が失われている。分権化が首都の都市力を落とさない範囲で進むドイツやフランスの地方都市とは、コントラストの様相を呈している。かの国の人口10~50万人以下の日本でいうところの地方中小都市は、移動の自動車分担率は同規模の日本の都市よりも20%以上も低く、公共交通がよく整備され都心部地区の活況ぶりは比較にならない。『都心部地区の活力低下=都市の衰退』に必ずしも直結はしないが、都市の顔である都心部地区の閑散ぶりは都市イメージを著しく損なう。制度の相違があることは十分承知しているが、雲泥の差である。日本においても世界都市東京の競争力を極端に落とさない範囲での、地方分権は不可欠だ。ある程度の、求心力を持たないと縮小社会(超高齢化+大幅人口減)地方都市から若年者が逃げ、東京一極集中が加速する。現在は一定規模の都市内での集約化を政策的に進めようとしているが、国土レベルでの東京圏への集約化が逆らえない潮流になる。それを回避するには、各地域に東京圏への流出をある程度堰き止めるダム的な強い地方都市が必要だ。


    終わり

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    カテゴリー記事 闘病記 況について色々と

     1月25日は今年最初の大学病院通院日


    画像1 毎度おなじみの広島大学病院の外観(画像 ブログ主撮影)

     1月25日は19年最初の広島大学病院の通院日だった。いつものように会社は有給で休み、通院に備えた。この日は今シーズン最大の寒波が訪れる前日だったが、そこまでは寒くはなかった。冬シーズン特有の筋肉の萎縮と関節拘縮に悩まされるブログ主からすれば、その日の天候-特に気温は重要だ。毎日、夜の地元ニュースの天気予報はこの数年欠かさず確認しているぐらいだ。10℃超えなら万々歳である。サイクル的に8週に一度の通院なので、冬シーズンの通院が2~3回はある。これ理由でスルーする訳も出来ないので、特別寒い日に当たらないことを祈るばかりだ。予約は前の受診時に入れるので、まさに運である(笑)。この日も家内タクシー(の送迎)にて大学病院に向かった。11時半に自宅マンションを後にして、12時前後に到着。再診受付機にて手続きを済ませ、家内と共に採血に向かった。この日は採尿はなしである。昼過ぎだったので、2~3分の待ち時間で順番が来た。3本分血を抜き12時10分頃には、採血室から出た。次は診療棟2階の泌尿器科へ。受付を済ませ、中待合で待った。受診日は、3~4時間の立ち姿勢を強いられる。と言っても何の補助なしのそれではなく、待つ時は手すりにで腰を支え、右手で手すり左手は太目の杖の三方向支えで下肢の負担を軽減させるので、言うほどは負荷がかからない。などと書けば、カッコ良く聞こえるが、単に病院の椅子からの立ち上がりが出来ないのでそうしているだけである(笑)。泌尿器科の受診はオマケに過ぎない。ドクターFとの会話も前立腺炎の話など殆どせず、持病の封入体筋炎の話がもっぱらだ。良く聞かれるので答えるだけだが、意外と盛り上がる。診療科絡みの話は、『次回は検尿をしましょうか?』だけだった。処方薬で症状を完全に抑えられるので、ブログ主も深刻には考えていない。飲むたびに、『薬って、これぐらい効くのが本来の姿だよな』などと思ったりする。僅か15分で、終了し202受付で最初の会計を済ました。休む暇(いとま)もなく1階に戻る。


    画像2 診療棟1階にあるスターバックス(画像 ブログ主撮影)

     面倒だが101内科受付で脳神経内科受診の手続きをする。そこで担当医ドクターKが少し遅れるとの情報を得た。『先生、何をやってんだか』と思ったが、今更どうしようもないので待つしかない。
    『30分ぐらいの遅れだろうな』、と思い、脳神経内科の中待合(下記画像3参照)で家内と話でもしながら待つことにした。どうせ次の日は休みなのでその辺は気が楽だ。と思いきや、13時過ぎに案内端末のバイブ音が鳴った。いきなりお入り下さいの指示だった。『いつも通りじゃん』と心の中で舌打ちしながら診察室に入った。前回は障害年金などの重要な話があったのだが、今回は特にない。真面目に患者らしい態度で臨み、良い情報でも聞き出すつもりだった。まずは封入体筋炎に係る治療薬の情報だが、予測通り、新情報はゼロだった。そう聞いて落胆はなかった。なくて当たり前の世界でこちらもその辺の耐性も既に備わっている。逆にあったりしたら、驚いて緊張するだろう(笑)。てな訳で知見情報も同様だ。自分の事ではないので、気にも留めなかったが筋ジストロフィーはどうやらあるらしい。タイプまでは良く聞かなかったが・・・。CK値の今回は395と前回(398)とほぼ同じだった。この時期は冬場と言うこともあり夏頃よりは若干、低い傾向がある。リハビリ記事でも触れたが、昨シーズンよりは室内での立ち上がり回数と立ち時間を大幅に増やしている。それも考慮すると、ブログ主的には可もなく不可もなく、といったところで、想定内だ。状況は逐一、ドクターKに報告しているので、彼も同じ所感だった。日常の過ごし方についての指示は特になかった。報告することは、野外歩行訓練(散歩)の様子、室内での歩行状態、四肢の稼働状況など色々だが、聞かれて答える場合もあるし自ら率先して報告する場合もある。これをしたからと言って、闘病生活の大きな流れの中では些事に過ぎないが、『ホウレンソウ』である(笑)。指示と言うか食事療法についての簡単なアドバイスはあった。今回の数値も含めこの数回の関連分の数値を書き足してみる。

    血液検査で気になる数値の比較
             適正値       18年   18年  18年  19年
                       08月   10月  11月  01月
    CK値     62~287     376   444  398  395
    アルブミン  4.0~5.0     3.3   3.5  3.7  3.6
    HbA1c  4.6~6.2     6.0   5.6  6.0  6.0
    クレアチニン 0.6~1.1    0.18  0.17 0.17 0.21
    総蛋白    6.7~8.3                     6.2

     血液検査の結果から食事療法で努力の跡は十分伺えるが、蛋白質が不足気味と指摘された。食事療法と簡単に言うが、日常活動量が少なく消費カロリーが少ないブログ主の食事療法は結構大変だ。身体が求めいていない量の食事を摂取するのだ。食後3~4時間は消えない胃もたれとの闘いでもある。肥満体質の人がこの点だけ羨ましくなる。他は絶対に嫌だが(笑)。差し加減を間違えると『彼方立てれば此方が立たぬ』になり、生活習慣病のリスクが高まる。食事療法も良し悪しだ。肉類は夕飯の必須メニューと化し、朝食はゆで卵を必ず食べ、間食はチーズ(笑)、魚介類は昼食で3日と空けず出してくる。家内なりに考え食事を提供してくれている。で、お茶代わりに牛乳を飲むことにした。食事の増量はもう限界だし、食欲も失せる。筋疾患患者で肥満体の人がいるが、どんな食生活をしてるのか聞いてみたいと思った。取りあえず、目標設定として次回の血液検査では、総蛋白の数値を適正値内にすることにした。成長期の中学生でもないのにまさかこの年齢で、水代わりに牛乳を飲む羽目になると思わなかった(笑)。まあ、転倒時の骨折予防で骨密度の向上を目指すと思えば、できないこともない(と思う)。また課題が増えてしまった。診察室を14時頃出て、スターバックスで30~40分ほど時間を潰し、自宅までの帰路で2か所のスーパー(万惣とLECT)で食材の買い出しに立ち寄り、17時頃に帰宅した。立ち寄ると言ってもブログ主は、車内でいい子にして待っているだけだが(笑)。袋の中に、牛乳が5本もあったのはさすがに顎が外れるくらい大笑いした。


    画像3 診療棟1階の神経内科前の中待合の様子(画像 ブログ主撮影)


    画像4 今回(19年1月)の血液検査の結果

    2 大学病院の通院を別の視点で捉えてみる
    長い連続立ち時間がもしかしたら、好調の原因かも・・・


    画像5 広島大学病院の手すり。この画像は入院等棟5階のリハビリセンターのものだが、院内全てにこのような手すりが設置されている(画像 ブログ主撮影)

     今回の通院だけではないが、毎回大学病院を通院して感じることがある。通院後の身体の軽さである。軽いの表現は適切ではないかも知れないが、帰宅後本当であれば疲労困憊の筈だが、疲労感を殆どなく四肢の稼働範囲が上がり、下肢の安定感はかなり増して他の動きも自宅にいるときよりも軽やかになる。これは季節は関係なく、同様の現象だ。通院時は先にも触れたが平均3~4時間は最低でも立ち姿勢で過ごしている。通院しない日は正確に測ったことはないが、恐らくそれ以下だろう、歩行時間も移動があるのでこれに含まれるが、30分近くは歩行していると思われる(体感)。要は通院時は、普段の日常活動量以上をこなしていることになる。であれば、全身倦怠感や四肢-特に筋力が低い左足-の筋肉の悲鳴があって然るべきだが、そこまではない。多少、左足のハムストリングス(太もも裏筋肉全体)の張りを感じるくらいだ。疲労理由による転倒リスクの高まりもない。一体どういうことなのだろうか?いつも不思議に感じている。努力しているつもりだが、リハビリ量が不足しているのか、はたまた滅多にない外出で気分が軽くハイになり、そう感じているだけなのか?不明だ。1つ言えることは、大学病通院後は数日間は身体が軽くなり通院前日よりも調子が良い。これは医学的な根拠はなく、体感のみの話だが、一番筋萎縮が進んでいると思われる左腕の調子が一番よくなる。同じ高さに左腕を上げてのも難易度が下がり、稼働範囲も広くなる。力の入り方が通院前よりも上げるのではなく、マシになる(笑)。願望を起因とした錯覚とかではなく本当にそうなのだ。素人には説明できない摩訶不思議な現象だ。賞味期限は2~3日が限界で元の鞘に収まってしまうのがいつものパターンだが、これをもう少し継続できないものかと真剣に考えている。ここで大学病院で行い、普段の生活で行わないものを探してみた。別にリハビリ通院でもないので、特に変わったことは何もしていない。強いて挙げれば、立ち時間が少し長いこと。しかも連続3~4時間である。自宅での立ち時間は連続ではなく、1回あたり精々20分ぐらいが関の山で、立ち時間の合計が大学病院の立ち時間に近いだけのことだ。歩行に関しては、普段もそれぐらいは消化しているので大きな差異はないと思う。自信はないが・・・。


    画像6 診療棟1階にある採血室付近の手すり設置状況(画像 ブログ主撮影)

     大学病院の立ち姿勢の基本は、臀部~腰は手すりで支え、右手も横の手すりを持ち左手は杖で支える三方向支えで、尻餅転倒のリスクを最大限下げている。実はこの姿勢で一度も尻餅転倒のリスクを感じたことがなく、転倒したこともない。脳神経内科の中待合での確保すべき場所は決めており、いつも案内板らしきものがあるが邪魔にならないように少しずらしてその場所をキープしている。そこが一番いい感じなのだ。院内だし、一応軽めの重度障害者でもあるので許されるだろう、と割り切ってもいる(笑)。帰宅後、このブログ記事を書いているが、その同じ状況を自宅で再現出来ないかとさして良くもないお頭(つむ)を捻ってみた。自宅は病院ほど長い手すりはないので、それに代わるものとして電動ベットにする。電動ベットの片側には手すりらしきものが設置されている。高さは必要に応じて変えられる。必要性がない状況下で、3時間も立ったままというのもさすがにあれなので、時間短縮する代わりに負荷を少し上げる。そう、右手で手すりを持ち支えはするが病院で使う左手の杖を持たないようにする。これならどうだろうと思い、通院の翌日から試してみた。土曜日は休みなので、時間は腐るほどある。電動ベットの手すりが腰辺りになるように高さ調整を施し、右手は電動ベットの手すりを持ち用意万端で開始した。最初の30分間は余裕だった。45分ぐらいになると杖なしではきつい。しかし、転倒するほどではない。いけるところまで行こうと決心する。そして1時間が経過した。ヤバイ、院内では感じたことがない弱めの痛みが大腿四頭筋(膝上太もも筋肉)を襲ってきた。ハムストリングスもこ同様だ。ここでギブアップした。この日は65分で終了した。手すりが病院よりも安上がりのものなので、身体への負荷が大きいのか、もしかして2日連続して行い、感じない疲労があるのか?よく分からない。まあ、1時間強すれば初日にしてはまずまずの成功だろう。無理は禁物だ。新しいリハビリの誕生だ。実行頻度は平日は自宅就労の仕事があるので、行わず土日限定で試すことにした。気になるのはその後だが、大学病院通院後の好調感は何とか維持している。こればかりは数日試しただけでは、判断がつきかねるので当面は週末を中心に試験的にすることに決めた。問題があれば、方法を少し変えればいい。それでもダメなら中止すればいいだけのことだ。ダメ元で足掻いてみる価値は少しだけありそうだ。次回の通院は3月下旬の予定だ。

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