封入体筋炎患者闘病記

 封入体筋炎患者のヒロです。病歴は2019年で満11年、12年目に入りました。在宅勤務の仕事とリハビリの日々を送り、細やかながらも家族3人で暮らしています。ブログ記事は闘病記と広島地元ネタ、社会保障などの時事ネタ中心です。希少疾患の封入体筋炎の周知が目的です。関心があれば、ツイッターなどでご紹介していただければ幸いです。疾患関係で直コメントが苦手の方は、ツイッターのダイレクトメールを利用してください。封入体筋炎の闘病史は各進行段階の症状や生活障害、必要な社会保障制度等をまとめています。良ければ参考にしてください。最新の封入体筋炎の状況は『近況について色々と』、取り組んでいるリハビリについては『2019年春~夏 筋疾患(封入体筋炎)リハビリ』にて素人の体感目線で書いています。モバイル版で読みにくい場合は、PC版に転換してからお読みください。

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シリーズ記事 2011年病名が変わった日 
関連記事 2008年の出来事

 この記事は2011年、病名がミトコンドリア脳筋症から現在の封入体筋炎に変わった当時の様子を書いている。当時の会社のことは、文中ではわざと役職名、業界用語、表示するなども言葉も曖昧な表現にしている。前回記事では、退院後の家庭の様子を書いた。今日は、後日談と言う形で、現在に至るまでの事を書きたい。

1 その後のヒロさん その1
退行~能力開発校入校 2011・12~2012・3

 私は検査退院後、12月に整形外科に診察して障害者申請に必要な医師の意見書を書いてもらった。時期的に師走で、区役所への申請が12月の後半にずれ込んだ。申請後1か月強で障害者手帳を交付された。最初は、抵抗感があった。何の健康の不安もなく40年以上過ごしてきて、難病となりその症状が進行してこうなってしまった。抵抗感がゼロの人間などいないと思う。それでも、その抵抗感が差別の裏返しだと言われたら、あえて言い返さない。心の中で「ご自身で経験されて、仰って下さい」と思うだけだ。2012年2月に「身体機能障害5級」となった。経済的な恩恵はなかったが、手帳を武器に再就職を考えていたので、私にとっては第1段階突破だった。会社は2012年2月15日付で退職した。派閥の上司や、同職場の部下達は退職を惜しんでくれた。しかし、4月から障害者雇用目的の特定子会社行きを言い渡されており、そこで重度のメンタルの病気を発症するのであれば、メンタルは健康のままの方がマシである。そもそもこの人事自体、社内パワーバランスの大変化で、所属派閥メンバーへの報復的な意味合いがあった。本社から支店の閑職に飛ばされたり、本店内に残っても格下げされたりした。私の場合、時期的にプロジェクトの責任者だったので、人事異動の季節には何事もなかった。そのプロジェクトが終わったら、報奨代わりに特定子会社行きを強要された。本店行員身分そのままの出向ではなく、一度退行して再雇用という形でだ。

 画像1 障害者手帳と広島大学病院診察券

 因みに健常者社員で、傷病で障害者となりこの子会社の送られた殆どの人間は、半年~1年程度で鬱やパニック障害などを発症して、退行している。障害者として雇用してくれる会社を探したほうが良いと思ったのはそのためだ。そのほうが私自身も、家族も幸せになれると考えた。で、年末年始の休みと年明けの1月に上八丁堀のハローワークに時間が許す限り通った。障害者雇用といっても健常者同様に正社員雇用は少ない。障害者雇用という特殊性から、派遣社員は少ない。その代わり、契約社員やアルバイト・パートが多いのだ。給与も目玉が飛び出るほど低い。資格がないと生きていけない、と言うのが正直な感想だった。そして1月末にあるものを紹介された。「障害者能力開発校
」への入学だ。この学校は障害者の経済的な自立を即す施設で、障害種類によりクラス分けされ幾つかのコースがあった。年齢もまちまちで、20歳前後~中高年まで幅広く受け入れていた。全国に13ある施設の1つだ。私は、資格取得と再就職目的でその学校に進んだ。3月に筆記試験と面接があり何とか合格した。不合格の場合は、民間の資格取得講座を受講する予定で、目ぼしい専門学校も見つけていた。

 雇用保険については、派閥上司の計らいで自己都合退職ではなく、会社都合退職扱いになった。待機期間が短く、収入の空白期がほぼなかった。私の場合だと、雇用保険の受給期間は240日(8か月)だったが、障害者能力開発校の通校期間は延長給付が受けられた。これは非常に助かった。入校が決まり、新生活が始まった。家内は、退職後パートに出るようになった。雇用保険があるとは言え、現金収入が月平均20万円以上減るのだ。安穏とお気楽専業主婦をしている場合ではないと思ったのだろう。その家内を働かせることに罪悪感と申し訳なさを感じた。難病は生活習慣病とは異なり、自己責任部分がない。仕方がないとは言え、
私の責任だと思う。

2 その後のヒロさん その2
能力開発校時代 2 2012・4~2013・3
 
 入校後、約1年で10以上の資格を取得した。学校については、経済的な自立を目指して頑張る生徒もいたが、来ることだけが目的の生徒もいた。雇用保険受給がない場合は、訓練手当(通称 県手当)が11~13万円支給された。県手当て目的の人間もいたという意味である。。私は、雇用保険と延長給付で通校期間は生活していた。人それぞれだが、個人的にはどうかと思う。この学校を志願した目的は、資格取得もあったが、企業の人事担当者の授業参観が多かったからだ。1年間のうち10回以上そうした機会があった。海田町にある製紙会社など2社から面接のお誘いを受けた。採用前提で、面接は儀式的なものだった。1社は私のほうから断った。もう1つは、賃金やその仕事内容は不服はなかった。最大の難関は、階段の昇降だった。勤務する場所は1階の事務室だった。更衣室が2階にあり、当然階段昇降が必要となる。当時の進行度合いだと小高い山を登山する覚悟があれば、不可能ではなかった。進行がなければ、頑張れたかも知れない。数年後それが出来なくなる日が、100%訪れる。エレベーター設置予定が1~2年後だったので、泣く泣く諦めた。

 私は封入体筋炎が進行性であることを踏まえ、就職が決まれば途中卒業するつもりだった。働ける期間が限られている。時間が惜しかった。8月にグリーンアリーナの小アリーナで障害者専用の合同企業説明会が行われた。事前に、パンフレットをもらい面接希望の企業に3社エントリーするのだ。その出展企業に、現在の勤務先企業があった。種を明かすと、この会社は前職で私が融資担当していた時期もあり、よく知っていた。
サブプライムローン問題、リーマンショックの時には、無理な融資をして上司に睨まれたこともあった。その融資のおかげで、この会社は業績を回復させた。面接官も顔見知りで、殆ど同窓会気分で面接した。雇用形態は契約社員、もしくはアルバイトだったのだが、他の2社のすべり止めで受けた。翌日の夜、その面接官から電話が自宅に入り、「正社員雇用でどうですか?」と言われた。次に出た言葉が思いもよらないものだった。「在宅勤務と言う形でも構いませんよ」。これは予想もしないサプライズだった。「通常業務の傍ら請負い仕事も任せたい」とまで言われた。瓢箪から駒とは正にこのことだった。当然、快諾した。電話の後、家内に報告。8か月ぶりの赤飯が、翌日我が家の食卓に並んだ。


画像2 障害者能力開発校の様子。右手の建物は体育館、左手が校舎、右奥は寮と食堂である。

3 その後のヒロさん その3
再就職後 2013・4~現

 能力開発校卒業後、その会社に再就職した。在宅勤務ばかりでは悪いと思い、週一度出社の形でスタートした。この当時は車の運転も問題なく、無理をすれば週3度ぐらいは
出社可能だった。先方の好意を無碍に断るのも悪いと思い、事前に相談して珍しい形にした。収入面も、2013年1月より障害年金(厚生障害年金2級)受給をしており、勤労収入と家内のパート代、など諸々で何とかやりくりをしている。封入体筋炎は進行性の難病で、近い将来寝たきりか死が約束されている。あくまでも期間限定の仮初の姿だ。本番は動けなくなってからだ。事実、2013年12月辺りから車の運転が出来なくなり、運転免許更新を諦め運転経歴証明書に切り替えた。現在は、当初の契約通り、2014年12月から週一度の出社は取りやめて完全在宅勤務となった。

 障害年金について触れたい。能力開発校時代、クラスの殆どが障害年金受給者だった。制度自体は知っていたが、意識として寝たきりの人がもらうもの、と思っていた。授業で社会保障があり、その辺の意識が変わった。申請時に必要な書類を集めるのが大変だった。障害の原因となる初診時の証明書の発行など、準備に2か月近くかかった。申請時の老齢年金の金額と扶養家族加算が受給金額となる。申請時に基礎年金部分となる国民年金は25年以上支払っており、過去の未納もなく受給資格はあった。現在も2階建ての2階部分に、相当する厚生年金は支払っている。これは老齢年金受給開始年齢になった時に、障害年金から老齢年金に切り替えるためにそうしている。その年齢まで私が生きている保証はないが、家内の老後を考えてのことだ。

 現在は、毎週月曜日から金曜日まで在宅勤務、通常業務は昼過ぎ前後に終わらせ残りの時間は請負仕事をこなしている。大学病院は2か月に1度のペースで、家内の送迎で通院している。2014年4月から担当医が広島県立病院に異動となり、私も転院した。その1年後、担当医が国立呉医療センターに異動。金曜日の午後だけ大学病院に出前診察に来るので、私も大学病院へ再転院した。肝心の封入体筋炎だが、今も進行している。他の患者比較で進行は遅い部類らしい(担当医談)。発症後5年ぐらいで車椅子となるこの疾患、私は9年目に入った。杖は使っているが二足歩行はまだ可能だ。昨年あたりから、リハビリらしきものを始めた。筋疾患のリハビリには賛否があるようだ。しても大きな効果はなく、多少の進行を遅らせる効果が限界である。やり過ぎても筋肉組織の破壊となり、疾患の進行を増長させるだけで匙加減が難しい。治療薬の開発はBYM338が、治験にて継続され進められている。初の専用治療薬としては画期的だが、その効能となると大きな期待は出来ない。

 封入体筋炎を取り巻く状況は,相変わらず厳しい。家族はこんな私を全力でサポートしてくれている。今、何をするべきかを考え動くようにしている。家族の将来のために。あと何年、働けるかは誰も分からない。出来る範囲で全力を尽くしたいと思っている。私は、障害者になるまで、自身の栄達や自己顕示欲のためだけに働いてきた。目標達成のためには周囲に多少の犠牲が出ても、心が全く痛まなかった。究極のエゴイストだった。しかし、今は違う。支えてくれる家族のために、封入体筋炎と向き合いながら、その時その時を大事にして頑張りたい。


画像3 現在の広島大学病院の様子(広島大学HP)




終わり



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シリーズ記事 2011年病名が変わった日 
関連記事 2008年の出来事


 この記事は2011年、病名がミトコンドリア脳筋症から現在の封入体筋炎に変わった当時の様子を書いている。当時の会社のことは、文中ではわざと役職名、業界用語、表示するなども言葉も曖昧な表現にしている。前回記事では、病名が封入体筋炎となり、血液製剤の免疫グロブリン大量投与治療まで進み、退院準備までを書いた。今日はその続きから始める。

1 遂に退院日 その1

 入院中のベット代などの純粋な医療費以外の諸費用は、加入していた保険(県民共済)でほぼ賄え、医療費にかかわる部分は、限度額を超えた場合は、払い戻しが出来た。事務方に保険会社に入院給付金請求の書類を提出していたので、去り際にそれもらった。前回記事で書いた、免疫グロブリン大量投与は保険適用外治療だが、様々な制度の組み合わせで3割負担で済む方法があるとのことだった。そうでないと、1回あたり15万円、5日連続で計75万円。年4回程度が望ましいとされる治療だ。総合計で、年間300万円(笑)。もう少し頑張れば、レクサス車が買える金額である。この辺の事もあり、退院当日の請求は、ベット代などの諸経費のみとなった。免疫グロブリン治療に触れたい。5日連続で行ったが、効果はゼロだった。初日の点滴投与後、看護師や担当医から目を輝かせて「どうですか?良い感じでしょう?」と嫌となるくらい聞かれた。私自身も多少の期待をしていた。案に相違して、投与直後はおろか、その後も効果はなかった。最終日には、ほとんど聞かれなかった(笑)

 効果がある患者の場合、投与後すぐに出始めるパターンと10日~2週間後に出始めるパターンがあるそうだ。私の場合、いずれのケースにも該当せず、1週間後に副作用が出た。軽い発疹と体内の水分を取られ手足が滑りやすくなった。副作用が出るということは、投与したグロブリン成分が体内に行き渡った証拠でもある。封入体筋炎の症状が改善されることはなかった。2012年8月にも2度目の投与を行ったが、効果は全くなく副作用はとんでもなかった。真夏で気温が35度近い猛暑日なのに、手足のしわ部分が全て深いあかぎれとなり、動かすたびに激痛だった。それを最後に、この治療は行っていない。


画像1 現在の広島大学病院の様子(ユーチューブ動画撮影画像)

 
遂に退院日 その2

 話が前後するが、退院は午前中だった。当時、暇人有閑マダム様(爆)だった家内が迎えに来た。長期入院前提だったので、入退院については家内の送迎という形をとった。手回り品は全てバックに押し込め、「いつでもおいで、カモ~ン」状態にしていた。時間は腐るほどあったし、今よりも体を動かす自由度もあったので何の問題もなかった。と言うか、病院特有の異空間から脱出して、娑婆の空気が吸いたくて仕方がない、である。完全に気持ちは、退院後の自分に切り替わっている。「一家の長たる人間が、こんなところいつまでも安穏としてはダメだ。」の思いは入院中、感じ続けていた。ようやく解放される日が来た。この当時の私は、心身ともに健常者メンタルだったのだ。

 同室の患者の方に軽く挨拶して病室を去った。廊下で看護師や医師らしき人に会えば会釈をした。先に書いたように8階の事務方で、会計と書式自由の入院証明書をもらい、エスカレーターに乗った。退院当日は、平日で息子は学校なので当然いない。そして1階に着いた。入口の受付にも会釈して、入院棟を後にした。立駐に向かいながら家内と色々と話した。思えば、新婚当時は別として、ここ数年家内とここまで密にコミュニケーションを取った記憶はない。仲は良いほうだと思うが、朝7時に家を出て帰宅は21~22時以降、そんな生活を10年近く続けていた。週末は家族サービスに精を出したが、どうしても限界がある。これはこれで悪くないと思った。恐ろしく暇で退屈な日々で、私個人には色々な思いとの葛藤の連続だったが、家族的には貴重な時間だったとも言えた。家内の愛車のミニバンに乗り込んだ。家内は何やら嬉しそうだ。何が嬉しいのかはよく理解していたのでそこにはあえて触れなかった。大学病院から自宅までは車で30分弱、西区にある自宅マンションに到着した。時間は昼前だった。平日のこんな時間に家に居たことがないので、妙な居心地で、何とも言えない気持ちだった。


画像2 左画像 看護師、事務員が詰めるスタッフステーションの様子、右画像 各階に設置してあるデイルームの様子(広島大学病院HP)

3 自宅での忘れられない晩餐 その1


 特に用もなくテレビでも見て時間を過ごした。家内は簡単な昼食の準備をしている。元々家事は、一切係らない主義だ。手伝っても二度手間になるのは分かりきっていた。簡単な昼食を済まして、やることもなくまたテレビを見ていた。昼間のテレビは本当に詰まらない。衛星放送に切り替えたが、あいにくこの時間は地上波とそんなには変わらない。そして数時間が過ぎた。時間を見たら既に15時だった。この日は当時小学校5年生だった息子は、5時間授業の日でいつもよりも早く帰ってきた。私の顔を見るなり、嬉しそうに「お帰り!」と言った。当時はサッカー少年で、帰宅しておやつを食べると、家には5分といない子だったのだが、この日だけは特別にどこにも行かず、リビングのソファーの横に座り話しかけてきた。いつもいて当然の人間が4週間も家を空けたのだ。寂しくもあり、不安にもなったのだと思う。こんな年の子供に、心配をかけた不甲斐なさを恥じながら、息子と話した。話題はサッカー、一色(笑)入院中、2014年ブラジルワールドカップのアジア予選の北朝鮮戦があり、その話や息子が所属していたスポーツ少年団の試合のことなどだ。家内を見ると、何やらいつもより気合を入れて台所に立っている。こいつは、表情で心の声が読めるので本当に楽な人間だ。

 息子の話を続けると、小学校時代の息子はサッカー60%、遊び35%、おまけの勉強5%といった感じでだった。親バカが入るが、それでも学校のテストは半分以上は100点で、90点以下など見たことがない。中学に入り、本人が思うところがありサッカーは辞めた。理由は、脳神経内科医を目指し、筋疾患患者救うためだそうだ。個人的には医師や弁護士と言った頭でっかちで、社交性が少ない職業に就いてほしくなかった。東京のそこそこの私大でも出て、上場企業に入ればいいと思っていた。その程度なら大した努力をしないでも、何とかなる。それよりも遊びを通じて得る経験のほうが、机上の学問よりも百倍役に立つ。私は大学時代のサークルで、他大学との交渉やイベント・コンパなどの企画立案が経験値として、社会人となり大いに役に立った。所詮学歴など、生活の糧を得る道具の1つでしかない。大学時代、一緒に馬鹿をやっていた友人は、そこそこの企業で管理職に就いている人間が多い。私はそう考えるタイプだ。しかし、息子の純粋な気持ちを思うと、親として反対は出来ない。

4 自宅での忘れられない晩餐 その2

 話が横にそれたが、夕食の準備が終わったようだ。この日は、なんと赤飯!。退院祝いと、多少は長持ちして生きながらえる可能性を秘めた疾患に変わったことを祝ってのことだ。健康に何の問題もない人から見ると、理解に苦しむかもしれない。しかし、発症後25年前後で確実に死に至る疾患(ミトコンドリア脳筋症)から、例え死に至る場合でも少し長持ちして、上手くやれば天寿を全う出来る疾患(封入体筋炎)に変わった。この差は大きく、進行を体感するたびに死への恐怖もなくなる。大袈裟な表現だと「命を拾った」とも言える。家内が私と息子を呼び、テーブル席に着いた。何故か、ケーキすらある(笑)。私も含め、3人表情は入院前よりも明るく、希望に満ちた表情だ(に見えた)。筋疾患を発症して、こんな私を支え続けてくれたこの2人に、「入院中は心配をかけた。そして、この病気を発症してから色々と支えてくれて有難う。これからも面倒をかけると思うが、宜しく。」と、
感謝の言葉を照れながら言った。家内と息子は言葉で返さず、笑顔で頷いた。よく見ると家内は目に涙を浮かべている。息子も同様だ。その姿を見て、私も涙腺が緩んだ。この日の晩餐は、一生忘れない日となった。

 家族の存在に感謝せずにいられなかった。最近は、結婚しない人が増えている。結婚するしないは、本人の選択で基本的には自由でいいと思う。希望して結婚出来ない人は別として、積極的な選択で結婚しない人はその理由として、結婚生活の負の部分を強調する。間違いと思わないが、それに勝る正の部分があることを忘れてはいけないと思う。難病になったからこそ、特にそう感じる。楽をした人間には、それ相応のリータンしかないとさえ思う。特に子供の存在は大きい。生きる力を与えてくれる。前シリーズの ~
2008年の出来事~で、家族の存在がなければ、メンタルの健康を害していた、と書いた。それも回避させてくれたのは、家族、特に息子の存在だ。ぎりぎりのラインで踏ん張れた。長い人生、当然浮き沈みがある。下がり曲線に入り、苦境に陥った時こそ、その人間の真価が問われる、と思う。若い方に言いたいのは、結婚出来ない特殊な事情があれば別だが、特にそういうものもないのであれば、結婚しておいたほうが損はない。まあ、得もない場合もあるが(笑)当たり前過ぎて、得に感じないだけかも知れない。そろそろ終わりに近づいたこのシリーズだが、次回は後日談を色々と書いてこのシリーズの最後としたい。



続く。



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シリーズ記事 2011年病名が変わった日 
関連記事 2008年の出来事



 この記事は2011年、病名がミトコンドリア脳筋症から現在の封入体筋炎に変わった当時の様子を書いている。当時の会社のことは、文中ではわざと役職名、業界用語、表示するなども言葉も曖昧な表現にしている。前回記事では、病名が封入体筋炎であることを告知されたことまで書いた。今日はその続きから始める。ようやく決まった封入体筋炎について詳しく説明する。

1 封入体筋炎とは何ぞや

①概略
 封入体筋炎(以下IBM)は主に50歳以上で発症する慢性の経過を取る筋疾患の一つ。大腿部や手指の筋肉が萎縮し、筋力が低下するため、階段が登りにくい、指先で物がつまみにくいと言ったような症状で発症する。診断には筋生検が必要で、骨格筋には縁取り空胞と呼ばれる特徴的な封入体が見られ、名前の由来になっている。ステロイドの治療に反応しないことが多く、治療法が確立されていない

②国内患者数
 厚生労働省難治性疾患政策研究事業「希少難治性筋疾患」班の平成21年度の調査では、日本には1,000~1,500人のIBM(封入体筋炎)患者がいると推定されている。主に50歳以上の中高年の方に多い病気で、やや男性が多い。
③病原理・他

 原因は不明。稀に遺伝性の場合もあるが、原則的には遺伝性はない。大腿部や手指の筋肉が萎縮し、筋力が低下するため、階段が登りにくい、指先で物がつまみにくいと言ったような症状で発症する。

④治療法・病状経過
 残念ながら有効な薬物療法は確立されていない。多発筋炎・皮膚筋炎で有効なステロイドはsIBMにおいては筋力の回復は見られない。他の免疫抑制剤も効果が確立されているものはない。根本的な治療が無い現状では、運動療法・作業療法などのリハビリテーション、歩行時の膝折れ防止や杖などの装具の活用が推奨される。嚥下の問題に関しては食事内容の適宜変更や胃瘻造設などで対応。バルーンカテーテルによる輪状咽頭部拡張法(バルーン拡張法)もsIBM患者での嚥下障害改善に有効な可能性がある。進行は、個人差があるが、進行性で5~10年で車椅子生活となる。嚥下障害・誤嚥性肺炎や転倒・骨折にも注意が必要。
⑤補足
 他の筋委縮のミオパチー系筋疾患が、全ての筋委縮が進むものが多い中、脳・心筋・呼吸筋が侵されにくく多少長持ちする。病状が顕著に出る四肢、嚥下の筋低下により活動量が低下、侵されにくい筋肉部位も筋委縮を起こして死に至るケースや嚥下障害により、食事の残物が気管支を通り肺に入り肺炎で死に至るケースもある。

といった筋疾患である。いとも簡単に「死」というフレーズが出ることに驚くかもしれないが、筋委縮の病気と死はセットで語られることが普通だ。私自身筋疾患歴2016年時点で9年目(満8年)、この物語時点(2011年)では4年目(満3年)で感覚が麻痺している。死を意識しながら生きて行くとこうなる(笑)。と言っても24時間そればかり考えてはいない(当たり前)。筋委縮の病気は、日常動作でその進行が分かる有り難い病気である。進行を確信した時の絶望感は、慣れはしたが今でも感じることがある。これは生きているうちは感じ続けることで、向き合って行くしかない。身体全身の筋肉が侵される他の筋疾患と比べて、心筋・脳・呼吸筋は直接は侵されない。ここに活路を見出していた。「進行は止められなくとも、やり方次第では平均寿命近くまでは、長持ちさせる可能性が少しある」である。これは、4年後の2016年現在でも不変である。今の私の心のよりどころとなっている。家内とともに喜んだのはここの部分だ。100%死に至る疾患よりもマシである。時計の針を2011年の入院時に戻したい。


画像1 筋ジストロフィー各ステージごとの障害分類。他のミオパチー系の疾患もほぼ同様の流れである。2011年当時はステージⅡ、2016年現在ステージⅣを彷徨っている。

2 血液製剤免疫グロブリン大量投与開始


 担当医から封入体筋炎であることを告げられた翌日から、血液製剤の免疫グロブリン大量投与が始まった。その日担当の看護師が、点滴台と見たことのない大容量サイズのビニールに入ったグロブリンを持って病室に参上。手際良く準備を始める。野球のグローブよりも大きい。このサイズに驚いた。さすがに5時間作業というだけのことはある。症状を多少マシにすると思えば、我慢するしかないと思った。詳しくは知らなかったが、封入体筋炎の定番ともいえる薬物療法の1つである。症状が顕著に出やすい四肢の筋委縮の改善効果があるとされている。理論上はそうらしいのだが、実際には‥‥‥、ということはよくこの世界ではあったりする。嚥下障害改善に多少の効果があるのが一般的な見方だ。そんなことを知る由もなく、この当時症状が深刻になりつつあった下肢の筋委縮の改善に期待した。

そして点滴開始だ。点滴の針は右手の甲のところに刺した。手を引くような動作をすると結構な鈍痛がする。左右上下、色々な動きで痛みの確認をした。ベストの動きを探るためだ。開始10分ぐらいはそんなことばかりしていた。物珍しさもなくなりやることがなくなった。機種変したばかりのスマホの時刻表示ばかり見ていた。時間がいつもの数倍の長さに感じる。点滴中3度喫煙所に赴いた。点滴台には当然滑車式で移動の自由が確保されているのだが、段差や傾斜の動かし方が意外と難しい。車椅子ほどではないが、コツがいる。力任せに強引に動かすと、上部が激しく揺れて点滴台が崩壊しそうだ。段差、傾斜のある所では細心の注意を払い、安全運搬を心掛けた。

 10月末の入院当初より続けていたリハビリは、封入体筋炎に決まったことで取りやめとなった。直接の理由は聞かなかったので、よく分からない。素人の勝手な推測だと、リハビリにより筋肉組織の破壊を避けたかったのだろう。リハビリの有効性については、筋疾患の場合色々とあるようだ。基本的にはやらないよりは、少しででもやったほうが筋力維持の一助になることでは一致している。その方法や、頻度が本当に難しい。やり過ぎは筋肉組織の破壊行為となり、病状進行のアシストとなり厳禁。さりとてやらなかったら、これまた使わなくなることで筋低下を招く。「ではどうすればいいのか?」に行き着く。封入体筋炎もそうだが他の筋疾患も薬物治療法が確立されていない。対処療法として、筋肉組織破壊をいかに防げるか、これが近々の課題となる。ステロイド剤の投与や必要以上の負荷を身体に与えない、この2点ぐらいしか手がない。同病の方のコメントでも、リハビリ効果を認めながらも進行を止めるまでには至らない、というものが多い。

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画像2 広島大学病院入院棟レイアウト図

3 検査入院中の他の出来事、そろそろ‥‥‥

 話が前後するが検査入院中、会社関係の見舞客も多かった。直接の上司・部下達や同僚、同派閥の上司などだ。ああした世間の喧騒とは隔離された異空間で長期間過ごすと、感覚が麻痺してそちら側の住人になりやすい。私が引退世代の高齢者であれば、それも良しとするが退院後、世間の喧騒に戻らないといけない。家族、病院関係者以外の接触は社会復帰する意味で重要だ。心身ともに、老け込むにはまだまだ早い。事あるごとに言っているが、病名特定は新しい自分の始まりであって決してゴールではない。むしろこれからのほうが大きなウエートを占める。見舞客は当然、手土産持参だった。デザート、フルーツや和菓子などこちらが食べきれないほどだった。疾患の性格上、食事制限は全くなかったので極力、食べるようにした。そもそも入院生活自体、消費カロリーが少ない。空腹になりにくい。余ったものは家内に手渡し、同室の患者の方にも少し分けた。当時息子が小学生だったので、菓子類は息子用だった。私は甘いものがそれほど好きではない。

 血液製剤免疫グロブリン大量投与が、5日間連続で行うことはすでに書いた。この治療が終わると、検査入院の予定が全て完了となる。退院日が、治療完了翌日の午前と決まった。それを伝えられてすぐに会社のほうに連絡を入れ、退院後の出社日の相談をした。家族ではなく、まずは会社の連絡したのは典型的な仕事人間だったからだ。今とは違う自分がその時にはいたのである。退院日が決まり、少なくともメンタルの部分では、入院前モードにスイッチが入った。気持ちの切り替えは容易いが、体力のところで多少の不安があったが、これからが本番なのだ。泣き言を言っている場合ではない。退院の翌々日の出社となった。そして障害者手帳申請のために、大学病院の整形外科受診日の休みの申請もした。その後家族に連絡した。家内は電話越しの歓喜の声をあげ、息子も安堵の口調だった。最後の点滴治療を続けながら、退院に向けた準備を進めた。


続く。


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シリーズ記事 2011年病名が変わった日
関連記事 2008年の出来事


 この記事は2011年、病名がミトコンドリア脳筋症から現在の封入体筋炎に変わった当時の様子を書いている。当時の会社のことは、文中ではわざと役職名、業界用語、表示するなども言葉も曖昧な表現にしている。このシリーズ記事は、間隔が空くので書き終わるまで集中して掲載したいと思う。前回記事では、車椅子生活から解放されたことや病名特定前のことを書いた。今日はその続きから始める。

1 病名特定 その3


 病名告知の当日の朝、病室内で目覚めた私は神妙な面持ちだった。今日から「新しい自分が始まる」という高揚感とここまで来ているのに「現状のままでもよくはないか?」と相反する感情が沸き上がった。強弱の二面性が心の中で同居していた。しかし、そんな私の勝手な気持ちとは裏腹に、周りは動いている。筋疾患を発症して3年半、ミトコンドリア脳筋症の病名がついて2年半の月日が流れた。ふとした事がきっかけで病名に疑問を持ち、担当医に相談した。担当医も自身でつけた病名に固執しないで柔軟に対応してくれた。よく誤診にまつわるトラブルを聞く。誤診で間違った治療・手術で尊い命を落とすケースもある。こうした場合は、誤診した医師・医療機関をその憎悪の対象としても致し方がない。私の筋疾患の場合、そうではない。治療法がすべて確立されておらず、進行を止める有力な手立ても皆無だ。中には病原理さえ解明されていないものもある。大筋では病名が、間違っていても大差はない。基本的にはクライマックスは同じだからだ。担当医や大学病院を恨む気持ちなどさらさらなかった。

 筋疾患の場合、誤診及び病名特定が遅れるケースが多々あるらしい。これはこの病気の難しさを端的に現している。「恨」という負の感情を抱き、特定の人間や組織にぶつける。人間の陰の部分の一端だが、これでは何も生まれない。現状と向き合い、今の自分に何ができるのかを考え動いたほうが建設的だ。これは、こうした難病に限らず、健常者の人生全般でも同様のことが言える。看護師たちは、「〇〇さんの病状が良い方向に向かえばいいですね」などと当り障りのないことを言っていた。私も適当に「そうですね」と返していた。普通に考えても世間がイメージする良い方向に向かう可能性は皆無なのだが、今後の展開を考えると重要な儀式なのは確かだ。と、思っていたが、努めて平常でいようとその日は心がけた。筋生検後、検査という検査が全て終わり、ただでさえ暇だった入院生活に拍車がかかった。やることはリハビリ程度で、それが終わるとその日の予定は終了で時間をつぶすのに一苦労した。機種変したばかりのスマホいじりで退屈な日々を過ごしていた。この日も特にやることもなく、自堕落に過ごした。退院後、前の生活の戻れるか不安になったぐらいだ。


画像1 広島大学病院HPより  現在の広島大学病院の全体図。広島大学霞キャンパスの一部なのだが、堂々たる施設群だ。広島市のデルタ内にあり立地も申し分ない。広島の最高医療機関に相応しいと思う。

2 病名特定 その4

 あっという間に夕方近くになった。その日の18時に病名告知があるので家内がそれに合わせて参上した。いつもは午前中に定期便の如く、毎日飽きもせず来るのが日課となっていた。別に自分が告知されるわけでもないのに、神妙な表情で参上した。その姿を見て、内心笑いをこらえるのに必死だった。揶揄いたくなる気分をぐっとこらえた。あれはあれで私のことを考え心配している。他愛もない雑談を1時間近く続け、そろそろいい時間となった。時間が近づくに連れて緊張が高まる。平常を装っていても心の底から湧き出る感情には逆らえない。家内もそんな感じだった。その日の担当の看護師が、病室に様子をうかがいにやってきた。私と家内がいることを確認した上で、「〇〇さん、先生がお呼びです。処置室にいらしてください」と言った。内心「よし、来た!」と、思った。二人して処置室前まで進んだ。この時の私の様子は、家内が言うには嬉しそうに良いことがあったような感じだったらしい。割とこうした緊張感が大好きで、刺激的なことを好む傾向がある。まあ、性格だろう。意を決してノックをした。以下はその時のやり取りである。

担当医「〇〇さんですね?お入りください」
私(堂々と)と家内(こそこそと)が入室する(笑)
担当医 
〇〇さんの筋疾患名ですが、先に伝えた三候補のうち二つ目の封入体筋炎でした。うちの脳神経内科医でもかなり意見が割れました。
ヒロさん
「封入体筋炎ですか?意外でした。筋ジストロフィーだと思っていました。」
担当医
「そうした意見が多かったのも事実です。封入体筋炎発症年齢の平均が60代半ばが多く、〇〇さんの場合、40歳になってすぐの筋疾患発症です。これが賛否が分かれた理由です。40代での発症例はあるにはあります。しかし、ごく稀なのです。」
ヒロさん
「前の病名のミトコンドリア脳筋症や筋ジストロフィーよりは、多少マシなんですかね?」
担当医
「『マシ』の意味が量り兼ねますが、響きとしてはそうかも知れませんね。それで、家族性のものか孤発性のものかは摘出した筋組織をセンター病院に送りましたので結果待ちとなります。」
ヒロさん
「孤発性?家族性?その意味を教えてください。」
担当医
「孤発性とは、突発的に発症することを指します。遺伝性はありません。逆に家族性は遺伝する可能性が高いです。〇〇さんの場合、近親者に筋疾患患者の方がいないので恐らく孤発性だと思いますが、念のために調べています。」
ヒロさん 「なるほど。今後の予定をお聞きしたいのですが?」
担当医
「病名も決まりました。明日から早速、封入体筋炎専用の治療は始めたいと思います。血液製剤の免疫グロブリン大量投与です。点滴で行います。」
ヒロさん
「血液製剤って、15年ぐらい前に帝京大学でHIVウイルスが感染していたあの血液製剤ですか?」
担当医
「今はそうした事故が起きないように細心の注意を払い、5段階で殺菌・消毒しています。御安心ください。こちらの書類に署名をお願いしたいのですが。」


この動画、シンプルだが的確に封入体筋炎について述べている。


提示された複数の書類に目を通しサインをする。

担当医
「その点滴ですが、1日5時間前後、5日間連続で行います。その治療が終わり次第、退院となります。それからもう1つ伝えることがります。退院後の外来の診療ですが、私から筋生検を執刀した者に代わります。」
ヒロさん 「ご・5時間ですか!担当が変わるのですか?」
担当医
「ええ、生検を担当した彼です。封入体筋炎については、私よりも彼のほうがスペシャリストです。年は若いですが、週の殆どは国立精神・神経医療研究センター病院(公式HP)の勤務です。安心してください」
ヒロさん
「分かりました。それjからもう1つあります。以前より話をしていた障害者手帳申請の件ですが、病名も決まったのでお願いします。」
担当医
「退院後、12月の早い段階で一度、整形外科を受診して頂きます。担当の者がいますので、その者に意見書を書いてもらい、それから行政の手続きとなります。予約は入れておきますね」
ヒロさん
「有難うございます。封入体筋炎ですか。うーん‥‥
‥‥。

その言葉を最後に退室した。少し重い空気が漂ったが、最悪の空気でもない。これまで沈黙していた家内が口を開いた。

家内
「パパの第1希望だね。筋ジストロフィーよりは少し軽いのでしょう?ある意味良かったのかもね」
ヒロさん
「まあな。最悪の事態だけは回避出来たな。この種の病気だから、進行性で治療法がないと大本は同じだけどな。手帳申請の目途も立ちそうだし。」
家内
「うん。そうだね。元々それ目当てで資格感覚で取得して再就職の取っ掛かりにするのでしょう?」
ヒロさん
「現状では、4~5級ぐらいだろうし、収入の関係で経済的なメリットは皆無だし、再就職の踏み台でしかないよ。〇〇(息子の名前)にも折を見て伝えないとな。あいつなりに心配しているだろうし。」
家内 「私が言おうか?それともパパが直接言う?」
ヒロさん
「俺が直接言うよ。ショックを受けないように言葉を選ぶ。まあ何とかなるだろ。」

こんな感じのやり取りをした。いよいよ病名が特定され、新たな段階に入った。その日は中々寝付けなかった。明日から始まる血液製剤の治療のことを考え、退院後のことも考え始めていた。



続く。


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シリーズ記事 2011年病名が変わった日
関連記事 2008年の出来事


 この記事は2011年、病名がミトコンドリア脳筋症から現在の封入体筋炎に変わった当時の様子を書いている。当時の会社のことは、文中ではわざと役職名、業界用語、表示するなども言葉も曖昧な表現にしている。前回は、筋生検後の日常について書いた。今日は、病名特定前後について書きたい。


1 車椅子生活の卒業

 筋生検後、車椅子生活は4日間続いた。生検当日、翌日は足を動かすたびに摘出部位(左足ハムレスリングス)に激痛が走り、不自由極まりない生活を余儀なくされたが、痛み自体は日を追うごとに薄れていった。4日目に抜糸(2か所)を行った。まだ痛みは残っていたが、車椅子から解放されることの喜びが大きく待ちかねていた。左足に巻き付けていた包帯が不必要となり、ミイラ男からもこれで解放された。傷口が完全に固まってはいないので大サイズの傷バンはつけたままである。抜糸が終わり車椅子生活を卒業した。5日ぶりに二本の足で大地に立った。多少の違和感があった。踏みしめる力が弱い気がする。そのうちに元に戻るだろう、と使わないことで筋低下が進んだかもしれない、という楽観と不安が交差した。病名が何であろうと、落ちた筋力を戻らないことは基本的に変わらない。当時(2011年冬)は、車椅子使用といっても将来の予行演習程度に考えていた。今日明日という近々の話ではなく、「そう遠くない将来」的なイメージだった。それか4年半後の現在は、「近々」になりつつある。それを少しでも遅らせる努力は日々しているが、当然限界はある。でもしないよりは絶対にマシである。

 シャワーの入浴施設使用も解禁となった。若い女性看護師が「シャワーの入るときはお手伝いしましょうか?」と言ってくれた。速攻、断ったのだがよく考えると本当に惜しいことをした(笑)合法的かつ、揺るぎない大義名分のもとの一緒にシャワーを浴びる絶好の機会をみすみす逃した。まさしく「後の祭り
」である。戯言は置いておいて4日もシャワーを浴びないとさすがに厳しいものがあった。髪の毛はドライシャンプーで何とかなったが、タオルをお湯で濡らして体を拭くのも精々2日だろう。冬場で良かった。夏だとあせもが出来ていたかも知れない。検査入院の最初のメインイベント行事が完全に終わった。まだ最大のメインイベントが残っていた。



入院棟
画像 2009年当時の広島大学病院の様子(ウキペディアより)。新診療棟(2013年9月完成)の工事すら始まっていない。この前後に発症して、大学病院の通院を始めた。テラス下のの小さな突起物に見えるのは灰皿である。懐かしい。


画像 現在(2016年)の広島大学病院の様子(広島大学病院HP)。広島大学霞キャンパス内にある。敷地面積は約」14.3haと都市部にあっては広大だ。タクシー・バスベイ(4B)、タクシー・バスエリア(待機場)完備で言うことがない。本当に西条に移転しなくて正解だった。

2 病名特定 その1

 
筋生検前、疾患の候補は筋ジストロフィー 約50%、封入体筋炎 約30%、遠位型ミオパチー 約20%となっていた。恥ずかしい話だが、この当時封入体筋炎と遠位型ミオパチーの存在は知らなかった。筋疾患発症してこの当時で3年半程度だったが、最初の疾患名(ミトコンドリア脳筋症)が決まってから、決まるまでのような感じで情報収集をしなかった。理由は、目の前の仕事が忙しく暇がなかったこと、そして情報収集しても大筋では変わらないこと、緩やかに進行がしていたが絶望視するほど早さではなかったこと、がその理由だ。ここ2年くらいで詳しくなったが、ブログを書き始めて色々と調べたからだ。自宅勤務で時間があるも大きい。ただそれだけだ。疾患名候補の告知をされた時に、担当医の表情で筋ジストロフィーだろうと予測していた。筋ジストロフィーはALS(筋萎縮性側索硬化症)とともに、筋疾患の中でも最もポピュラーである。筋疾患の中でも東西の正横綱クラスで、告げられた時点で「はい、人生終了」の響きがある。がんの余命宣告とまでいかないが、ややそれに近い。メンタルに与えるダメージは、計り知れない。この種の疾患発症して約3年半、耐性は出来ていたが、その耐性を持ってしても無傷で済みそうにない。

 現状はさておき、私の第1希望は、封入体筋炎だった。この3候補を聞いてから、筋ジストロフィー以外の2つの疾患を少し調べてみた。遠位型ミオパチーは国内患者数が1,000人前後、希少中の希少疾患である。種類が10程度もあり全て遺伝性。唯一の救いは、このうち2種類が治験中とIPS細胞の応用で解決される可能性が少しあり、寝たきりになるまで40年の症例もあり意外と長持ちする。しかし、遺伝性は子供がいる父親としたら有り難くない。私の父方、母方の親族で筋疾患患者は1人もいなかった。これは違うだろう、みたいな直観はあった。第1希望と言っても消去法での話だ。「全部違って、実は何の問題もない」が一番良いに決まっている。後から聞いた話だが、広島大学病院の脳神経内科の医師で、色々と意見聴衆をしたようだ。かなり割れたとも聞いた。この時の私はそんなことなど知る由もない。

 車椅子から解放された翌日、当時暇人専業主婦だった家内が見舞いに参上した。「お前、他にやることがないのか?」といつも言いたくなるので、この時はそのままを家内にぶつけてみた。少し怒り口調で「来たら迷惑?」と睨まれた。私は引いた感じで返した。「いつも来てもらって悪いからさ、お前だって用事があるだろ?そういう意味だよ」。安心したように家内はこう続けた。「パパって、いつも家に居ないしこんな時位しか話せないし」。ふむふむ、「構ってちゃん」のようだ(笑)。これは心の声で、口には出せない。「なるほど、いつも助かるよ。有難う」と心にもないことをぬけ抜けと言った。家内はこうも言った。「パパの病名、まだ決まらんのかねぇ~」(広島弁)やはり気にしている。当の本人が一番気にしているのだが
(笑)

左画像 広島大学病院霞キャンパス全体図、オレンジ部分が病院関連施設。右図、アクセスマップ

3 病名特定 その2
 
 抜糸の翌日、動きがあった。真の疾患名が決まり告知したいので,家族の立ち合いを要請されたのである。そして書類に簡単なサインをした。書類サインは闘病生活をしているとよくあることだ。例えばCT撮影に臨む前に造影剤を飲まされる。この時にもサインが必要だ。少し後の話になるが、血液製剤の免疫グロブリン大量投与治療でも事前にサインを求められた。立ち合い者は、家内一択である。それを担当医に伝えた。この時の担当医は、最初の担当医で筋
生検を執刀した医師ではなかった。担当医は退院後、変わった。これを聞いた瞬間、身震いがした。それはそうだ。真の病名特定→身障者手帳申請→特定子会社出向回避のために離職→再就職 を想定していたからだ。これが全てのリ・スタートとなる。障害者仕様に自分自身をリセットしないと就職が出来ても、望む収入は得られない。人には現在の最低生活ラインを維持するレベルがある。許容の範囲内であれば、生活防衛で耐えれるがそれを超えるとさすがに無理だ。扶養家族がいる身では自分だけが食べられれば良いという訳にはいかない。当時は障害年金受給の発想が皆無というか、意識がゼロだった。

 家内にそれを伝えた。電話越しの声は何時にも増して緊張している。日時は2日後の18時、場所は入院棟8階の処置室である。当時小学校5年生だった息子の関係で、この日は夕方前から私の母に来てもらうこととした。私の母は、実家の安佐南区で優雅に豊かな年金生活を送っている。これぐらい頼んでも問題はないと思った。18時からの告知に違和感を覚える方もいるかも知れない。これは特別なことない限り、外来患者優先の方針からだ。いつでも検診・検査が可能な入院患者は、どうしてもその辺の割りを食ってしまう。第1希望は封入体筋炎としながらも、筋ジストロフィーだろうな、と考えていた。これまでの流れを読み解くと、そうなってしまう。「う~ん、筋ジスか‥‥‥。」と思いながら、物思いにふけった。ここまで来たら「矢でも鉄砲でも持って来い。」と割り切るしかなかった。


 
続く。



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