封入体筋炎患者闘病記

 封入体筋炎患者のヒロです。病歴は2019年で満11年、12年目に入りました。在宅勤務の仕事とリハビリの日々を送り、細やかながらも家族3人で暮らしています。ブログ記事は闘病記と広島地元ネタ、社会保障などの時事ネタ中心です。希少疾患の封入体筋炎の周知が目的です。関心があれば、ツイッターなどでご紹介していただければ幸いです。疾患関係で直コメントが苦手の方は、ツイッターのダイレクトメールを利用してください。封入体筋炎の闘病史は各進行段階の症状や生活障害、必要な社会保障制度等をまとめています。良ければ参考にしてください。最新の封入体筋炎の状況は『近況について色々と』、取り組んでいるリハビリについては『2019年春~夏 筋疾患(封入体筋炎)リハビリ』にて素人の体感目線で書いています。モバイル版で読みにくい場合は、PC版に転換してからお読みください。

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シリーズ記事 あれから5年 今思うこと
類似記事 2011年 病名が変わった日

 あれから5年が経った。疾患名が致死率100%のミトコンドリア脳筋症から、致死率が100%ではない封入体筋炎になった。致死率は俄然高いが、100%ではない。僅かな希望があれば可能性が低くとも、挑戦する価値がある。運に左右されるが、自身の努力の余地が残されている。そう考えた。「死ななくて済むかも知れない」 この言葉は、地獄を味わった人間しか理解出来ない。2016年現在の心境を交え、当時の様子を回顧したい。闘病記のシリーズ記事 2011年病名が変わった日とかなり内容が被るが、コンパクトにまとめたい。この種のシリーズ記事同様、テーマが重く、死のフレーズを簡単に使う。苦手な方や不快に思う方も多いと思うので、そうした方はここで引き返すことをお勧めする。今日は検査入院のメインイベントの筋生検と術後についてだ。

11 
2011年検査入院 その4
ついに筋生検

 筋生検の簡単な流れは以下の通りとなる。参考にしてほしい。

筋生検の流れ  
筋生検法~(病理と臨床)より
① 摘出部位中心に広範囲に消毒。穴開き布をかぶせる。
② 局所麻酔を皮膚と皮下組織に行う(脂肪・筋肉麻酔なし)
③ メスで3センチ程度皮切り。モスキト紺子で、皮下組織を開き鈍的に筋膜露出させる。
④ 開創器で十分な広さを確保させる。メスで筋膜を切開して、筋膜下を剥離。
⑤ 筋膜下も
開創器で十分な広さを確保した上で、筋表面を露出させる。
⑥ 筋繊維の走行と直角に浅く絹糸をかけ軽く結ぶ
⑦ メスで糸をかけた部分の下を筋繊維部分の沿い削ぐように剥離。剥離部分の上下を切断して筋組織を採取する。
⑧ 十分に止血をして、絹糸で筋膜と真皮を縫合する。最後にナイロン糸で表皮を縫合する。


 当日は昼の12時40分から執刀開始で、場所は入院部屋の8階にある処置室。執刀医(現在の担当医)と研修医2人。そして医学部学生約30人が、そう広くない処置室に来て見学。摘出部位は左足のハムレスリングス(太腿裏筋肉)の膝裏の少し上だ。幅のある長椅子のうつ伏せとなり始まった。この筋生検のえげつないところは、筋肉麻酔を行わない(皮膚麻酔等は行う)。メスで抉(えぐ)り取る筋肉の麻酔をしないと言うことは、空前絶後の痛みを伴うのだ。噂には聞いていてが、人生最高の痛みだった。これは治療目的の手術ではない。あくまでも検査。割り切れいない思いを抱きながら臨んだ。持参したハンドタオルが役に立つ。これに噛みつき痛みを紛らわせた。入院期間中スマホで筋疾患患者の方のブログで、
筋生検の何たるかを知っていたつもりでいた。正しく百聞は一見に如かずの例えの通り、二度と経験したくない代物だ(笑) 

 保健室紛いの処置室で、雑踏感満載の室内。理科室のカエル状態の私。何やら、間抜けと言うか自虐的に見れば笑える光景だ、などと自分を客観視する余裕はゼロ(笑)で、「早く終われ」と怒りと痛みと恨みを込めて念じていた(笑)こんな時ほど時間の経過は遅い。約1時間強で解放された。
筋膜・真皮・表皮の縫合が終わり、患部は包帯でグルグル巻きにされた。そこだけ見るとフランケンシュタイン状態だ。そして終了後、地獄の第二幕が始まる。

12 2011年検査入院 その5
車椅子生活体験と疾患名特定


画像2 よく大学病院などの置いている標準的な車椅子。これは手押しタイプ。

 生検後、部屋に戻る時から抜糸までの4日間限定の車椅子生活を余儀なくされた。左足を少しでも動かそうとすれば、歯ぎしりしたくなるほどの鈍痛。患部からハムレスリングス(太腿裏筋肉)全体が引き裂かれそうな痛みが生じる。当然、力を入れても同じ痛みが起きる。左足が使い物ならない。となると車椅子しかないのだ。車椅子から眺める世界は、これまでとは別の世界だった。何しろ目線が90㌢近く下がる。就学前の幼児と変わらない。身体が大柄なので人の頭の上を見ることはあっても腰・腹部辺りから見上げることはまずない。何とも言えない屈折感らしきものが湧き出るのが不思議だった。それを置いたとしても、車椅子生活は不便だ。買い物しようにも上の棚には手が届かず、歩道の段差、ひび割れ、傾斜の運転が結構難しい。足だけ悪い障害なら腕を鍛え上げ、足の代用物にすることも出来るが、筋委縮が同時進行なのでそれも難しい。4日間は入浴も禁止となり不便この上なかった。抜糸後、不自由な生活から解放された。 

 生検後、数日して疾患名が特定された。2番目で30%の確率だった封入体筋炎に決まった。私の希望が叶った。告知の場には家内も同伴を求められた。当然二人して喜んだ。致死率100%の筋ジストロフィーや、遺伝性が強い遠位型ミオパチーよりはマシだったからだ。特定翌日から、血液製剤の免疫グロブリン大量投与による治療を始めた。他の記事でも事あるごとに書いているが5日間連続で1日5時間、見たことがない大きさの点滴袋を点滴台にセットして行う。張りを右手甲と手首の中間地点に刺すのだが、この場所は脂肪と筋肉が少なく、動かす度に刺した張りと骨が接触して、形容しようがない奇妙な痛みと嫌な感じが襲ってきた。暫くすると慣れたが、最初に点滴針をその場所に入れる瞬間の嫌な感じは最後まで慣れなかった。疾患名特定も終わり、点滴治療を始めると長い入院生活も終わりに近づいていた。生命保険・
勤務先から入院給付とを受けるための書類の準備、手荷物の整理なども退院日に向けて滞りなく行い、準備万端となった。入院期間中、職場の部下が3度、派閥上司が2度、妹夫婦も2度、家内は毎日、息子は4度見舞いに来てくれた。こんな時こそ普段自分が他人にどう思われているのか?がこの見舞い回数で分かった気がした。仕事には厳しく、時にはどやし声を張り上げたりしていたので、好かれてはいないだろうな、と思っていた。この頻度を見る限り、嫌われていないことが分かり、少し安心した(笑) 

3 2016年から当時を振り返る その4
封入体筋炎について その1


画像3 現在の広島大学病院の様子 左手は大学歯学部と同病院歯科、そしてタクシーエリア(待機場)。画像真ん中の渡り廊下の向こうは立体駐車場。右手は2013年完成の診療棟、その前がタクシー乗り場とバスターミナル。記事本文とは無関係だ(笑)

 検査入院当時の2011年、今から5年前は筋疾患進行ステージⅡ
「国試塾リハビリアカデミー」中島塾長のブログ)だった。その5年後の2016年はと言うと、ステージⅣで年々Ⅴに近づきつつある。車椅子生活も少し視野に入りつつある現状だが、この当時は何処の世界の話だ?、だった。この検査入院期間中、体験する事となった。自身の目線の低さがここまで屈折感をもたらし、車椅子だと高い場所からの圧迫感をこうも感じるのか、と思った。運転で難しいのは、傾斜と段差がセットなっていた場所だ。ステージⅡ段階の筋力でも割と大変だった。歩道自体、端と端が傾斜があったりと二足歩行では分からないことが、車椅子ではリアルに感じ、よく分かった。これって、車椅子障害者が通らないことを前提に設計されているからだ。前提であれば、こんな設計はしない。

 生検後、疾患名が特定されたが大学病院の脳神経内科医の中でも意見が割れたようだ。当時(2011年)の担当医は筋ジストロフィーを主張、現在(2016年)の担当医は封入体筋炎を主張したとの事だ。こうした疾患特定の検査は、消去法を採用する。検査を進め篩(ふるい)にかけるのだ。封入体筋炎否定の拠り所は、発症年齢だ。私は筋疾患を40.5歳で発症した。この疾患、主に50歳以上が発症年齢と言われている。そう発症するには若過ぎるが、否定の論拠。ただ症例委はゼロではないのが、肯定の論拠でもあった。特定前、家内と共にこれが一番マシだ、と話をしていたので、胸を撫でおろした記憶がある。筋疾患の場合、最も重要なのは致死率だ。私は経験上、「死に至らない疾患は疾患に値しない」と言った独自の哲学を持っている。難病に属する疾患であっっても、進行を完全に止められる場合もそうだと思っている。

 封入体筋炎の致死率をはっきりと書いている文献は何故か少ない。生命予後にはっきり触れているのは、ウキペディアだけだ。 封入体筋炎(ウキペディア) 生命予後に関する記述は、「生命予後良好」と書いているが、これはほぼ嘘である。生命予後良好とは、「疾患進行により命を落とす可能性はほぼない」の場合に使われる。では封入体筋炎はどうだろう?、になる。体幹筋-特に心筋、呼吸筋、脳筋が直接犯されにくいとされている。では永遠に無事かと言うと、決してそうではない。疾患に直接犯される部位(四肢、口腔)が萎縮すると当然活動量が減る。それに比例して、侵される筋肉部位と密接に繋がっている侵されていない
体幹筋も2次災害的な形で、筋委縮を引き起こす。その証拠に、筋疾患発症以前は腹部は板チョコとまではいかないが、割れていた。現在は大幅な体重増がないのにも関わらず、割れるどころかメタボ腹部となっている。再検査のきっかけは、会社の健康診断の肺活量の数値と以前書いた。40代の平均値並にあったが、疾患発症前よりは、落ちた数値だと容易に想像出来る。時間差で筋委縮を引き起こすのだ。ステージが、更に進めば何れは終わりが来る。
 
 封入体筋炎で他に注意すべき点は、嚥下障害進行による飲み込む力低下、誤嚥(ごえん)。そして誤嚥性肺炎の誘発だ。2016年現在、時々であるが肺に軽く詰まったような感覚を覚えることがある。これは、かみ砕記、飲み込む力がなくなり、摂取したものが残る。そして通常であれば食道経由で胃に行くものが、気管支経由で肺に行ってしまい、そこで肺炎を引き起こす(誤嚥性肺炎)。進行ステージがそれほどではない時は、体力で克服可能だが、ステージが進み体力で回復しない状況下だと死に至るケースとなる。この2点が封入体筋炎の死のシナリオとなる。

 ここで逆転の発想で捉えてみる。この2点が起こらない場合は絶対にないのか?私は可能性は低いが、あると踏んだ。体幹筋が直接犯されないことに重きを置いた見方をする人間だ。
体幹筋が直接犯される他の筋疾患よりは僅かだが可能性があると。家内にも事前にこの点を説明をしていた。我が事の様に喜び、試す価値があると賛同してくれた。封入体筋炎を望んだ理由もこれがあったからだ。この2つを回避するには、四肢口腔の筋委縮を遅らせる必要がある。そして、先に述べた2次災害となる体幹筋の筋低下を、リハビリでバリアしないと達成困難だ。

14 2016年から当時を振り返る その5
封入体筋炎について その2


動画1 封入体筋炎【指定難病15番】(ユーチューブより)

 致死率100%の疾患から70~80%の疾患に変わった。折れかかった心に、再び戦う気力を取り戻す結果となった。一言に闘病生活と言うが、小さな山あり谷ありの連続だ。気丈に振舞っていても、ほんの些細なことで心が折れそうになることが多々ある。これは健常者時代にはなかった。意識をするなと言うのは簡単だが、日常生活で患者であることを体感する疾患だ。無理がある。リハビリ(作業トレ、簡単な筋トレ)をCK値の変化を注意しながら行い、可能な限り進行を遅らせる。体幹筋への悪影響を極力抑える。嚥下障害による誤嚥性肺炎を避ける努力をする。この2つを行い、時間の余裕を作り医学の進歩を待つ。そして在宅勤務で働いている姿、闘病生活を送り封入体筋炎と闘う姿を息子に見せる。これが2016年現在の私のモチベーションになっている。預貯金や不動産等の現物資産よりも、遥かに価値が高いと考えている。

 「もしかしたら天寿(80歳)を全う出来るかも知れない」。65歳、よく持って70歳までとされた(発症25~30年で死去の場合)命が10~15年余分に生きられる、死刑判決を受けていた状況から、解放されたことを意味した。厳密には、解放される可能性が少し出てきたなのだが、闘病生活の大きなターニングポイントになった。そして筋疾患発症後、落ち続けていた深く広い谷から、這い上がる反転攻勢のきっかけとなった。家族関係は、私は障害者になったこと(2012年2月)でより絆が強固となり、良好だ。ご近所さんは我が家から、大きな笑い声がよく聞こえることを不思議に思っている。息子は、よく話しかけてくれる。私の高校時代を振り返ると、あり得ない奇跡である(笑) 特別の何かをした覚えはまるでないのだが、上手くいっている。偶然の産物かも知れない。

 難病を発症して失ったものは数多い。勤務先で栄達がその最大のものだ。しかし、得たものもそれなりに多い。失ったのであれば、失ったものを取り戻すのではなく、別の新しいものを獲得すればい良いだけの事。そしてそんな状態になっても残ったものを大事にすれば良い。この考えは、疾患名変更前にはなかった発想だ。現在も闘病生活の渦中にいる。現在進行形で今後何が起きるのか、予断を許さない。しかし、少々の事なら難なく乗り越えられる自信がついた。いい意味で怖いもの知らずとなった。そのきっかけは5年前の出来事、と私は声を大にして言いたい。




終わり




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シリーズ記事 あれから5年 今思うこと
類似記事 2011年 病名が変わった日

 あれから5年が経った。疾患名が致死率100%のミトコンドリア脳筋症から、致死率が100%ではない封入体筋炎になった。致死率は俄然高いが、100%ではない。僅かな希望があれば可能性が低くとも、挑戦する価値がある。運に左右されるが、自身の努力の余地が残されている。そう考えた。「死ななくて済むかも知れない」 この言葉は、地獄を味わった人間しか理解出来ない。2016年現在の心境を交え、当時の様子を回顧したい。闘病記のシリーズ記事 2011年病名が変わった日とかなり内容が被るが、コンパクトにまとめたい。この種のシリーズ記事同様、テーマが重く、死のフレーズを簡単に使う。苦手な方や不快に思う方も多いと思うので、そうした方はここで引き返すことをお勧めする。3回目の今日は、※注1筋生検前の事を中心に振り返る。

7 2011年検査入院 その3
検前の出来事 1


画像1 
入院棟スタッフステーションの様子 ここに事務スタッフや看護師が多数詰めていた(広島大学病院HPより)

 
 検査入院は検実施前提だったことは書いた。最初の2週間(前半戦)終了時点で、ゼロベースからの検査も疾患名が絞られた。筋ジストロフィー(50%)、封入体筋炎(30%)、遠位型ミオパチー(20%)の3つだ。パーセントは、簡単な資料らしきものを渡され、その中に表示されていた。前疾患名のミトコンドリア脳筋症が完全否定された形だ。誤診と聞けば、何やら医療事故のイメージが付きまとう。事実間違った診断の元での薬物投与や手術を伴う場合、命の危険もある。それはあくまでも他の診療科の話。脳神経内科-特に筋疾患の場合は、誤診でもあまり関係ない。どの疾患でも基本的には、治療法が確立されていない、進行を止めれない、生命予後不良が多い。この3点が不変だからだ。候補に挙がった3疾患のうち、第1希望は封入体筋炎(難病情報センター)だった。理由は遺伝性がほぼないからだ。遺伝性がある場合、子供が生まれた後に遺伝性の難病を発症しました、では不可抗力だが息子に劣等遺伝子を渡してしまった責任を問われても、どうしようもない。封入体筋炎にはそれがないのである。自分一代で、負の人生が終わる。筋ジストロフィー(タイプにより異なる)と遠位型ミオパチー(難病情報センター)は遺伝性で、劣等遺伝子受け渡しの負い目が出て来る。劣等と書くと、ヒトラー同様の優生学信奉者扱いされそうだが、当事者としては劣る遺伝子の1つでしかない。人の生死に関わる遺伝子など、必要としない。

 事前予測を聞き、聞き覚えがない封入体筋炎と遠位型ミオパチーについてスマホ検索で色々と調べた。そして、先に述べたような結論に達した。一番勘弁してほしいと思ったのは筋ジストロフィーだった。この疾患はニューロパチー系のALS(難病情報センター)と共に筋疾患の双璧と言うか、東西の両横綱的存在だ。語感から、発症したら最後、のイメージが非常に強い。詳しく調べると、そこまでの大きな違いはないのだが、イメージとしてそれがあった。差し詰め、前疾患名のミトコンドリア脳筋症は、関脇・小結クラスだろう。筋ジストロフィートロフィー(難病情報センター)にも遺伝性のものから、無関係のものまで、多くの種類がある。正直避けれるものなら、避けたいのが本音だった。可能性が半分だったので、こちらの希望は別としてこれに落ち着くかも知れない、とは考えていた。思いと現実は違うものだ。ただ、語感からのイメージの攻撃力は抜群だった。2011年時点で筋疾患歴4年目で、大概、この種のショックへの耐性は、出来上がっていた。「今更壊れるほどの軟なメンタルじゃねぇよ」があった。その耐性を、嘲笑うかのような破壊力を持っていた。やることが本当にない入院生活。考える時間が無限にあり、これも良くなかった。疾患名特定までの約1週間前後、色々と考え込む時間が増えた。

※注1 筋生検
 筋電図と共に神経・筋疾患の中では最も重要な検査の1つ。各種検査を進め、疾患特定に至らない場合筋生検を行い最終判断する事例が多い。方法は、骨格筋の筋組織の一部(1.0~1.5cm)を皮膚麻酔のみ(脂肪・筋肉麻酔なし)で手技で摘出する。摘出部位は、その他検査により疾患に侵されている部位を選択する。上腕二頭筋(力こぶが出る場所)や大腿四頭筋(太もも膝上)のケースが多い。摘出した筋組織を電子顕微鏡で観察、そして疾患特定を行う。筋組織は本人同意の上、国立精神・神経医療研究センター病院に送られる。
 
8 2011年検査入院 その3

検前の出来事 2


動画1 NCNP(国立精神・神経医療研究センター)病院 病院紹介 

 生検前に2つの事を担当医から依頼された。1つ目は、摘出した筋肉組織を国立精神・神経医療研究センター病院(公式HP 上記動画参照)へ送付、2つ目は筋生検に広島大学医学部学生の立ち合いの許可、この2点の了承を求められた。筋疾患を含め希少疾患と言われるものの治療薬開発が遅れている理由に、患者数が少ないために商業ベースに乗りにくく、開発に挙手する製薬会社が少ないこと、そして開発しように患者数が少ないので、データも比例して少ないことが挙げられる。筋肉組織の送付は研究開発の一助になればと思い承諾。学生諸君の立ち合いも将来への経験値の積み上げとなると思い、こちらも承諾した。まあ、断る理由がなかった。モルモット扱いへの抵抗感から、拒否する患者もいると聞く。これは了見が狭い。確かに自身の時代には、見返りとして返ってこないかもしれないが、将来の筋疾患患者の一助になると割り切るべきだ。これは希少疾患患者としての義務と考える。

 直前に異変が起きた。この生検の執刀に担当医が立ち会わないことが決まった。サポートする研修医2人はそのままだ。中的な事情でそうなったのか定かではないが、広島大学病院へ通院し始めて20011年時点で4年目に入っていた。単純に不安感が助長した。一口に脳神経内科医と言っても得手不得手がある。きっとそうなのだろう、と思うことにした。この時の担当医は私とほぼ同年代で、病院内での地位はそこそこのようだった。別に肩書に拘る訳ではないが、執刀する医師は30代後半(当時)で、若ぶりので30代前半に見えた。「この若造がやるのか?」、が正直な感想だった。前回記事で入院部屋は6人と書いた。時期にもよるが、同じ筋疾患患者が複数いた。ただ私と異なり、発症初心者でネット情報に接したことがない患者は、この疾患の困難さを詳しくは知っていない。他人事ながら、心配になった。完治後の生活に夢を馳せていた。う~んである(笑)「知らぬが仏」とよく言うが、知らなさ過ぎるのも考えものだ。この場合幸福なのか不幸なのか、判断がつき兼ねる。

 その中の1人が私の前日に筋生検を受けた。私の筋組織摘出部位は左足ハムレスリングス(太腿裏筋肉)の関節部少し上が予定されていた。その患者は、左腕の二の腕だった。術後の様子が思わしくなく、夜中になり傷口が開き出血が止まらず、看護師達が部屋とスタッフステーションを行き来していた。痛みも相当なものらしく、「痛い、痛い」を大声で連呼していた。翌日に同じ筋生検を控えていた私は、24時間後の自分の姿を見るようで不快な気分になったが、「男が女々しく呻き声を上げるなよ」とも思った(笑)。このドタバタは2時間近く続き、他の同部屋の5人はこの騒ぎに寝付けず睡眠不足となった。看護師が翌日、「昨夜はどうも済みませんでした」と謝って来た。そして、筋生検を迎えた。

9 2016年から当時を振り返る その3
 入院期間中、一番落ち込んでいた生検前

広島大学病院の写真です。 
画像2 広島大学病院の入院棟の様子。敷地裏庭より撮影(広島大学病院HPより)
 
 確かにサブタイトルで書いたように入院期間中で最も落ち込んだ時期ではあった。しかし、2008年発症当初のそれとは比較にならない程度のもので、病むほどではなかった。当時の担当医から手渡された事前予測の中に筋ジスが入っていたことは、かなりのインパクトがあった。と言っても筋ジスも色々とタイプがあり、進行が比較的早いものから相当遅いもの、遺伝性が強いものと遺伝性は皆無なもの様々だ。ただ、強烈な印象を放っているのは事実で、その先入観もあった。封入体筋炎と遠位型ミオパチーについては予備知識がか皆無だった。筋疾患自体希少難病で知名度は低い。その低いものの中でも、更にマイナーな疾患だった。情報は当時機種変したばかりのスマホを利用した。

 検索先はブログ記事でもよくリンク貼りをする難病情報センター、国立病院機構、大規模な医療法人グループ、ウキペディア等である。4~5の入手先の情報で複数重複する内容は無条件に信用。見解が異なるものは、信用度が高い方の情報を「正」として低い方を「誤」とした。このやり方は2016年現在も変わらない。それプラスその情報を、受診時に担当医に確認する。これが一番安全で確かな方法だ。
ウキペディアの情報も100%の信用は置けない。ものにもよるが、より専門的で高度な分野の場合、事実誤認も多く、信用度で言えば60%ぐらいだそうだ。ただ、素人でも分かりやすく簡潔にまとめているものもあり、ザックリと知るには悪くはない。最も気になるキーワードは、遺伝性と生命予後だった。この2つが分かれば、語弊はあるが後はどうでも良かった。次は筋肉組織の送付だが、これに限らず事前に、患者や家族の了承を得るものが多い。CT検査の造影剤服用前、血液製剤の免疫グロブリン大量投与前も主旨説明を受けて、サインした。国立精神・神経医療研究センター病院は、国内の脳神経内科では権威的な存在だ。遺伝子検査も出来る。現在の封入体筋炎の家族性(遺伝性)、孤発性(遺伝なしの突発性)の区別もこのお陰で分かった。

 希少疾患の治療薬開発について触れたい。商業ベースに乗らないと先に書いた。商業ベースとは即ち採算性の問題だ。創薬費用は一説には500億円(諸説あり)、期間は9~17年。既に大きな市場があるとか、今後見込まれている場合はペイ出来るとして挙手する企業も出て来る。~くすりを創る~(中外製薬) 企業とてボランテイァで創薬するのではない。自分達の為にもなり、尚且つ世の中の為になることが大前提にある。封入体筋炎の専用治療薬として、BYM338が現在治験中だ。2013年9月から治験は始まった。当初2015年11月で終了する予定が、フェーズⅠ~ⅢのうちⅡがクリア出来ずに、2017年12がまで延長された。私の独自解釈では、封入体筋炎患者のみを対象とした開発ではない。実は加齢性の筋低下ー高齢者を市場と見做(な)しての創薬と思っている。封入体筋炎患者目線だと、専用薬としては画期的かも知れないが、効能は画期的ではない。その辺を現実的に見ないとダメだ。現在先進国中心に、少子高齢化が進行している。その市場を、見越しての創薬だと考える。封入体筋炎患者よりも残筋肉量が遥かに多い高齢者なら、筋力回復効果が体感可能だと思う。



続く




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前回記事 あれから5年 今思うこと 1
類似記事 
2011年 病名が変わった日

 あれから5年が経った。疾患名が致死率100%のミトコンドリア脳筋症から、致死率が100%ではない封入体筋炎になった。致死率は俄然高いが、100%ではない。僅かな希望があれば可能性が低くとも、挑戦する価値がある。運に左右されるが、自身の努力の余地が残されている。そう考えた。「死ななくて済むかも知れない」 この意味は、地獄を味わった人間しか理解出来ない。2016年現在の心境を交え、当時の様子を回顧したい。闘病記のシリーズ記事 2011年病名が変わった日とかなり内容が被るが、コンパクトにまとめたい。この種のシリーズ記事同様、テーマが重く、死のフレーズを簡単に使う。苦手な方や不快に思う方も多いと思うので、そうした方はここで引き返すことをお勧めする。2回目の今日は、検査入院時の心境と入院中の生活ぶりを2016年から振り返る。

4  2011年 検査入院 その1
病院時間軸に戸惑いを感じた


画像1 現在の広島大学病院の様子。後方の建物が入院棟になる。2011年当時は手前の診療棟は土台工事中であった(下記画像5参照) 広島大学病院HPより

 検査入院は当初から4週間の予定だった。通常は、CT・MRI・筋電図などの検査ー
筋生検(文光堂)以外の検査を2週間程度かけて行い、それでも疾患名が特定出来ない場合、最終手段として筋生検査を行う。術後の回復、その間疾患名特定に1週間程度かけ、特定後は院内薬物療法が必要な場合は行い、院外でも可能な場合は即退院となる。検査は、完全なゼロベースからスタートした。2009年についたミトコンドリア脳筋症は完全にリセットされた。全くの無の状態からの検査となったのだ。検査入院を前半と後半に分けると次の通りとなる。

・検査入院で行った検査(前半の2週間)
MRI(磁気共鳴画像診断)CT(コンピューター断層撮影)腹部エコー(日本人間ドック協会)、心臓超音波検査(心エコー)肺機能検査(病院の検査の基礎知識)、知能テスト、筋電図(医の達人)
・検査入院で行った検査(後半の2週間)ー筋生検(上記リンク参照)

 筋生検以外、すでに経験済みの検査ばかりで特に不安はなかった。私が入院したのは806号室(下記画像3参照)。広島大学病院は診療科毎に入院可能なスペースが決められていた。脳神経内科は8階の西エリアだった。部屋は6人部屋のだったが、建物が新しく、プライべートに配慮されたレイアウトだったので特に問題はなかった。同部屋の他の5人の患者は、皆男性で年齢も60代以上。40代の私が一番若かった。全県下の患者を対象としている大学病院なので、県北や県東部の本郷など様々な地域から集まっていた。入院した当初困ったことが幾つか出てきた。まず1つ目は、消灯時間だ。何と午後21時には部屋の明かりを消されるのだ。21時と言えば、早い時の帰宅時間。まだ行内に残っている日もある時間帯だ。今時の小学生でも、こんな時間には寝ない。当然寝れない。部屋の電気が消えるので、仕方なく機種変したばかりのスマホを触っていた。PCの持ち込みも可能だったが、この当時、我が家にはPCが1台しかなかった。それも専業主婦だった家内の専有物で、私など家でPCなんか触りもしなかった。と言うか家には寝るために帰っていた。

 2つ目は病院特有の時間軸である。実は過去に、疑似体験をしていた。それは東京の金融機関から広島の金融機関に再就職した2000年当時だ。特に本店は、皇居お堀端に丸の内・大手町界隈にあり日本経済いや世界経済の中枢と言うべき場所にあった。ここでは、1分1秒を争う戦いを強いられていた。事務処理能力ー正確さ・速度や交渉能力を高いレベルで求められる。周りにいる人間も全てにおいてクオリティが高かった。それに比べ、Uターンし再就職した広島の金融機関は、そこまでのものは流石に求めなかったが、何しろ仕事の進め方も遅い上、取り組み全体が甘い。いい加減とまでは言わないが、のんびりとした放牧的なまったり時間の中で生きている。よく広島市の行政が各種事業の進め方が遅いと言われるが、行政だけではない民間もはっきり言うが遅い。広島全体が、東京とは別の時間軸があるかのようだった。再就職後1年近くこれに苦戦した。と言うかイラつき、ストレスが結構溜まった。まあ慣れれば、居心地が良く人も擦れていない。競争相手も少なく楽だった。元は広島人だし、「ムラ社会」の構成員になればいいと割り切った。この当時感じた時間軸の大きな違いを、大学病院でも感じた。この大学病院、時間が経つのがとにかく遅い。そんな感じだった。こんな所に長期間居たら人間がダメになる、と不安に思った。


画像2 広島大学病院入院棟各階基本レイアウト図(広島大学病院HPより)


画像3 広島大学病院各階ごとのレイアウト図

5  2011年 検査入院 その2
やることに困った入院生活
 
 次は、入院期間全般にいえることだが、基本やることがない。と言うのは、前後半の4週間の膨大な時間(当時はそう感じた)内で行った検査は上記に列挙したもののみ。大体1~4時間で終わる。定期的な予定は次の通りだった。

・午前
朝の検温(血圧測定も)、研修医2人とのコミュニケーション、検査(予定がある場合)
・午後
リハビリ、検査(予定がある場合)
※ 週に一度、脳神経内科診療科長、医学部教授陣、脳神経内科全医師による見回り診察(通称 大名行列)あり。

 こんな感じだ。担当医はこれまでと同じだ。外来患者優先の原則(?)があり、診察時間は入院棟には来ない。その代り、若い研修医(20代半ば)が、入院患者の相手をする。経験値を積む計らいだろう。若い研修医は、意欲と情熱を持っており、一般の会社では新入社員もしくは、入社2~3年の若手と言ったところだった。数少ない予定の検査も、外来患者の検査優先のため、午前が午後に伸びたり、その午後の予定が18時以降になったり、最悪の場合翌日になったり、とよく変更した。いつやって来るか分からない検査を、じっと素直に待つのも馬鹿らしいので、当時まだ存在した喫煙所に行き、時間を潰していた。ベットに携帯番号のメモだけ置いて、喫煙所に足繫く通った。喫煙所は当時新診療棟が工事中(下記画像5参照)で、病院内敷地と歩道の境界線に設けられていた。ここは絶えず、満員で座れないことが多かった。因みに今は時勢を鑑みて、撤去された。


画像4 入院棟の病室の様子。これは料金が高い個室広島大学病院HPより)

 次は何だろうと思い出してみた。食事時間だ。朝食(朝7時)、昼食(12時)これは別に問題なしだった。問題は夕食だ。先に述べたように入院前の夕食は21~22時台。しかし、入院中の夕食は午後18時だった。いきなり「食べろ」と言われても、体内時計は簡単に方針転換出来ない。無理して食べても消灯時間になるとお腹が「ぐぅ~」と鳴る。仕方がないので、入院棟2階にある売店で閉店1時間目前にお握りや菓子パンを購入していた。売店と言ってもサイズ的にはキヨスクとコンビニの中間くらいの規模で、品揃えは良かった。賞味期限切れが近い商品を、タイムサービスで半額で販売していた。ただ入院患者はそれを知っている。閉店1時間前になると、2階の売店に患者が多く集まっていた。餌を求めての競争だった(笑)入院1週目、ある失敗をした。土曜日も閉店が20時だと思い、19時頃売店に向かった。しかし、閉まっている。実は土曜日は17時までで、日曜日は休みだった。入院1週目はそれを知らず、間抜けな目に遭った。

 この日は仕方ないので、病院正門前のセブンイレブンに行き、夜食を購入した。缶コーヒーもよく飲んでいたので、1日1,500円近くは使っていたと思う。入院前、特別小遣いを4万円家内から貰っていた。入院は10月下旬からだが、その月の小遣いもまだ1万円以上あり、5万円で入院生活の臨んでいた。いざとなれば家計とは無関係の口座を1つ持っている。入院1週目は、割と散財していた。暫くして財布を覗くと諭吉さんが5枚から3枚になっていた。多少の危機感を覚え、当時専業主婦だった家内で毎日見舞いに来ていた家内に、ネスカフェゴールドブレンドとクリープを注文した。缶コーヒーの購入をやめると出費が驚くほど減った(笑) それでも帳尻が合わないのだが、諭吉が消えた行き先はよく覚えていない(笑)

 次は家族について。2011年当時、家内は専業主婦の暇人。一人息子は、今とは異なりサッカー少年で小学校5年生だった。その暇人家内は、毎日着替えと差し入れらしきもの持参していた。息子が学校に行っている空き時間を利用して、愛車のミニバン(当時)をすっ飛ばして来ていた。毎日来られても話すことがそんなにないのだが、とにかく家内は私に話しかけていた。思い返すと、結婚以来休みの日以外は中々密に話す機会がそうなかった。話す内容は息子の事が一番多く、次にご近所さんの事。私は聞き役に徹していた。そして元は同じ会社だったので、家内が在籍当時いた人間で今(2011年当時)もいる人間の話などもした。ほぼ毎日来る姿を見て、同室内の遠方の入院患者の方に「仲がいいんじゃね」と言われもした。

6 2016年から当時を振り返る その2


画像5 検査入院当時(2011年11月)の診療棟の建設現場の様子(広島大学病院HPより)

 前回記事で良好な家族関係について触れた。前職時代の家族関係が悪かったと言うのではない。ただ、平日は寝るために帰宅するような生活を結婚以来して来た。息子の就学前など平日は寝顔しか見たことがない。休日にその穴埋めをするために家族サービスに徹するのだが、どうしても限界がある。高い水準の家族サービスの提供は時間がないと無理だ、というのが私の持論だ。一家の稼ぎ頭である父親が、家族とのコミュニケーションが時間が余るくらい取れるのも逆に問題があると思う。この辺が個々の考え方だし、正解はない。ただ家内を通じて息子の近況については、知っていた。間違ってもその話を持ち掛けられて、「〇〇(息子の名前)の教育は、お前に全て任せるから話さなくてもいいよ」とか「家の事は、お前の仕事なので俺は知らない」等とは言わなかった。私自身、自己愛が人よりも強い。良し悪しは別として、自己愛の変形が子供に対しての愛情と考える。余所の家は知らないが、息子の事で分からないことがあればよく聞いていたし、その成長ぶりが面白く、楽しみだった。

 入院中に見舞いに訪れた家内の話で、一番心に突き刺したのは私が検査入院してから、息子の様子が少し変わったことだ。居て当たり前の人間が、理由はどうであれ急にいなくなった。その影響で、表情も暗くなり言葉数も減った。何か本人なりに考え込むようになったとの事だ。小学生のメンタルで考えると、父親が大学病院ような大病院に長期入院すれば、十中八九「もしかしたら父さんは、死ぬかも知れない」と考える。当時、私の筋疾患の事は詳しくは伝えていなかった。多方面への影響を考えての処置だった。前回記事でも書いたが、傍から見て2011年当時、難病患者、身体障害者に見えなかった。息子のショックは相当なものがあったと予測出来た。この件がきっかけで息子はある人生を左右する一大決心をする。これは機会があれば話したい。

 2011年の検査入院時の生活全般の様子を書いたが、入院前と入院中の時間軸の違いに戸惑った。「病院外時間軸6時間=病院内時間軸1時間」が大げさに感じない時の流れだった。ただ人間は不思議なもので、どんな人間にもそれなりの適応力と言うものがある。最初の1週目は、慣れずに苦戦したが徐々に慣れてきた。ただ、永遠にこの時間軸内で暮らすのであれば問題ないが、退院後また病院外時間軸世界に戻る。軽い危機感を覚えた。2016年現在の在宅勤務仕事も、少しそれに近いが通常の職場と異なり衆人環視下ではない分、自己管理能力を問われる。ある意味、厳しい世界でもある。人間はつい、楽な方に流れやすい。流れそうになる自分を鞭を打って、引き戻すのだ。見た目よりは楽ではない。次回も入院生活を2016年の心境で振り返りたい。




続く




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類似記事 2011年 病名が変わった日

 あれから5年が経った。疾患名が致死率100%のミトコンドリア脳筋症から、致死率が100%ではない封入体筋炎になった。致死率は俄然高いが、100%ではない。僅かな希望があれば可能性が低くとも、挑戦する価値がある。運に左右されるが、自身の努力の余地が残されている。そう考えた。「死ななくて済むかも知れない」 この意味は、地獄を味わった人間しか理解出来ない。2016年現在の心境を交え、当時の様子を回顧したい。闘病記のシリーズ記事 2011年病名が変わった日とかなり内容が被るが、コンパクトにまとめたい。この種のシリーズ記事同様、テーマが重く、死のフレーズを簡単に使う。苦手な方や不快に思う方も多いと思うので、そうした方はここで引き返すことをお勧めする。では始める。

1 2011年 運命の転換点 その1
それは、ミトコンドリア脳筋症の疑いから始まった


画像1 筋ジストロフィーデュシェンヌ型の進行レベルの障害分類 拡大図
「国試塾リハビリアカデミー」中島塾長のブログより


 2016年現在、筋疾患発症丸8年で安佐南区のとある企業に在宅勤務と言う形で就労している。持病の 封入体筋炎は進行が遅いと言われながらも着実に進み、上記の分類ではステージⅣに差しかかっている。手帳も5級から3級となり、障害厚生年金2級でもある。移動の制限は年々酷くなり、リハビリを兼ねた散歩以外では、外に出る機会もめっきりと減った。色々と試行錯誤して疾患進行に抗(あらが)っているが、その他大勢の患者が経(へ)た道を順調に辿っていると言えなくもない。個人の思いと現実はまた別物である。

 2011年当時、筋疾患発症丸3年でまだ別人だった。当時は広島市の都心部のとある金融機関の本店に勤務していた。肩書は明かせないが、部下は数多くいた。まあ管理職に就いていたとだけ言っておく。進行ステージは上記表だとステージⅡ辺りだった。ⅡとⅣ大してい変わらないだろう、と思うかも知れない。それは大きな間違いだ。生活障害の程度が違う。ステージⅡレベルの生活障害は、走れない。重いものが持てない。以前よりも疲れやすくなった、そんな程度だった。ステージⅣだと、立ち上がりが条件付きでないと出来ない。脱・着衣方法が限られる。洗顔、歯磨きだけで疲労する。転倒リスクが数倍跳ね上がった。など挙げればきりがない。生活障害が当たり前で障害を感じないものが少ない。

 とは言うものの、2011年当時も疾患発症時の2008年と比較して、無理が利かなくなっていた。健常者としての就労の限界を感じつつあった。この年の会社の健康診断で、ふとした疑問を抱いた。肺活量の数値だ。この数値が通常の40代の平均並みにあった。20年以上の喫煙歴があり、全身の筋肉が萎縮する疾患。この2点を考えるとあり得ない事だ。大柄で高校まで運動をしていた点を差し引いても、奇怪な現象だった。2カ月に一度広島大学病院に通院していたが、当時の担当医もミトコンドリア脳筋症の診立てに疑問を持っていた。最初の疾患名特定では、する必要がなかった
筋生検(文光堂)まで行い、再検査することになった。大学病院のような大病院の場合、「では来週の月曜日に入院しましょう」には絶対にならない。無数の診療科があり、他の病院の入院を引き受けることも多い。脳神経内科に限れば、この筋生検は広島県内では、広島大学病院でしか行えない。広島県内の国立病院機構の頂点に立つ旗艦病院なのだ。入院予約を入れても数か月待ちはざらだった。短期間で命を脅かす緊急性もなく、どうしても後回しにされる。当初8月と言われた予約が、予想に反して7月前半に回って来た。予定よりも1か月半近く早かった。この時は思い悩んだ挙句、一回飛ばしをした。

2 2011年 運命の転換点 その2
今振り返ると最高のタイミングだった

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画像2 2011年当時の広島大学病院診療棟(現在の臨床管理棟)

 1回飛ばし理由は、この時私は行内挙げてのプロジェクトに携わっていた。携わっていたどころでは無く、実質リーダーだった。佳境の佳境に入っている段階で、どう考えても抜け出せない状況だった。本店の俊英をメンバーに集め、それを補助するメンバーも支店の精鋭を揃えた。若手・中堅クラスの行内オールスターだった。名目上の最高責任者は専務だったが、名義貸しでしかなくプロジェクトメンバー内序列ナンバー2だった私が全て取り仕切った。この専務、本当に使えない極潰しで、時々顔を見せていたが自慢話と仕事の邪魔しかしなかった。顔を見ているだけで虫唾が走るタイプだ。プロジェクトは正直面白くもあり、やり遂げたい気持ちが強かった。8月にプロジェクトが終わり、大成功となった。行内の評価はかってないほどで、会う人全てに祝福された。

 その後、人生2番目の大きな谷が待ち受けていた。まさかの障害者雇用専用の特定子会社出向を示唆された。多くは言わないが、就労環境としては最悪と噂があり、出向組の末路も今の電通には遠く及ばないが、幸せなものではなかった。これには実は裏があった。当時私は行内2番手の派閥らしきものに属していた。2011年春の人事で政権交代があり、行内野党に転落した。当然粛清人事の対象となり、私より立派な肩書持ちの人間は、各支店・子会社に飛ばされた。本店に残った人間も格下げされた。私だけこのプロジェクトもあり、無事だった。私もプロジェクトを成功に導くことで、回避するつもりでいたが、成功の可否関係なく飛ばされる運命にあったようだ。失敗すればその責任を取らされる。逆に成功すれば「成功花道論」で将来を考え(疾患進行)、働きやすい環境(特定子会社)に移ってもらう、こんなシナリオだったらしい。

 ここで完全に気持ちが切れた。そもそもこの金融機関、私自身がハローワークや求人誌の募集を見て受けたのではない。1990年代末の金融ビックバン時分に、勤務していた金融機関が上位2行救済のため養分にされた。この時でも、多くの行員はリストラ対象とされたが、、私の椅子は
一応確保されていた。その当時、いくつかの地方の金融機関からお誘いを受けていた。その中の1つだったが、一番条件も良く熱意があったので都落ち覚悟で広島にUターンした。そうした過去があった。どうせ筋疾患進行で、長くは居られない。それならばこれを好機と捉え、障害者手帳取得、障害者としての就労を目指す事に切り替えた。そして2011年10月に検査入院をした。

 2016年から当時を振り返る その1
1つ間違っていたら空恐ろしい事になっていた


画像3 2012年1年間通校した広島県障害者能力開発校(公式HPより)

 当時の状況が書いているうちにフラッシュバックして、つい熱くなってしまった(笑) 結論から言うとこの時期ー2011年秋口に退行するきっかけを与えてくれて、皮肉を込めて感謝している。仮にあのまま勤務していたとする。2012~14年の封入体筋炎の進行度合いで判断したら、2013年途中で勤務不可能となっただろう。2013年途中で退行しても、障害者能力開発校には中途入校は出来ない。2014年月からとなる。2014年の状態で1年間通校出来たのか?と問われたら、答えは「NO」だ。資格取得もままならず、その状態で就職活動は出来なかっただろう。障害年金受給をしているだろうが、1年間の雇用保険受給が終われば、待っているのは地獄である。現在の勤労収入がすっぽりと抜ける事を考えると空恐ろしい。

 我が家は、他人様からよく明るいと言われる。これは、一家の主が、生命予後も定かではない難病患者なのに、相応の暗さがない、との意味である。悲壮感や生活難からくる暗さが何故ないのかを考えてみた。まず健康には困っているが、
左程、生活には困っていない。お金も努力の甲斐があって、健常者時代の9割程度確保出来ている。次は、家内の存在。基本的に楽天家である。正しい方向でのポジティブ思考の持ち主で、好影響を与えている。私が2013年より在宅勤務となり、健常者時代より家族とのコミュニケーションを取る時間が圧倒的に増えた。息子に限れば、以前よりも遥かに良好な関係を築いている。この3点が非常に大きい。こうした良好な家族関係を築けるのは、経済的な基盤があればこそである。家で例えると、土台部分に相当する。これが不安定で脆い場合は、良好な関係構築は不可能な筈だ。封入体筋炎以外の好循環をもたらした理由を探ると、2012年通校した障害者能力開発校に行き着く。ここでの1年間のリセット期間が、再スタートの源となった。再スタートを決意した、いや決意せざる負えなかった状況を生み出した特定子会社出向の示唆は人生の大転換だった。人生何が幸いするのか、分かったものではない。

 特定子会社への出向は、最初から拒否するつもりだった。健常者から何かしらの傷病のため、中途障害者となり出向をした行員は、皆ある理由で1年以内に消えていた。ここは、メンタルの健康に甚大な影響を及ぼす可能性があると噂されていた。真偽は定かではないが、「火のない所に煙は立たぬ」である。2008年筋疾患発症後、半年~1年単位で何となくだが進行を体感することがあった。いずれ勤務が難しくなり、退行する日が来ると思っていた。その反面、いつ来るのか分からない「その日」ばかり考えても仕方がない。行けるところまで行くしかない、とも腹を括っていた。相反する思いと現実を包容し生きていた2011年前半だった。




続く。

 



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