封入体筋炎患者闘病記

 封入体筋炎患者のヒロです。病歴は2019年で満11年、12年目に入りました。在宅勤務の仕事とリハビリの日々を送り、細やかながらも家族3人で暮らしています。ブログ記事は闘病記と広島地元ネタ、社会保障などの時事ネタ中心です。希少疾患の封入体筋炎の周知が目的です。関心があれば、ツイッターなどでご紹介していただければ幸いです。疾患関係で直コメントが苦手の方は、ツイッターのダイレクトメールを利用してください。封入体筋炎の闘病史は各進行段階の症状や生活障害、必要な社会保障制度等をまとめています。良ければ参考にしてください。最新の封入体筋炎の状況は『近況について色々と』、取り組んでいるリハビリについては『2019年春~夏 筋疾患(封入体筋炎)リハビリ』にて素人の体感目線で書いています。モバイル版で読みにくい場合は、PC版に転換してからお読みください。

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シリーズ記事 並行・if世界 封入体入筋炎

 このシリーズ記事は、201X年ひょんな事から持病の封入体筋炎の進行が止まり、止まるどころか筋回復現象が起きて、更には別の可能性まで示唆されたという妄想を記事にしている。いわゆるif世界の話だ。現実には絶対にあり得ないのだが、こんな世界もあったらいいな、みたいな遊び心から端を発している。読まれる方は、その辺を差し引いて読んで頂きたい。絶対に、本気に受け取らないように願いたい。このシリーズも今回で終わりとする。


〇前回までのあらすじ

  1.  希少難病の「封入体筋炎」(難病情報センター)を患っていたブログ主は、余命残り15~20年の状態だった。現代医学では如何ともし難く、進行を遅らせることを主眼に治療を行っていた。201X年9月中旬、突然足取りの軽さと安定感、そして上肢の可動範囲向上を感じる。その後も筋回復現象は続き、担当医に進行停止と別の可能性を示唆された。筋回復をアシストするために新たな処方箋薬と、リハビリにいそしむ日々を送っていた。そして再検査入院の手続きを取り、奇跡に向けた準備を始めていた。その奇跡の様子を学会にて報告され、マスコミにも取り上げられた。例年にない希望に満ちた年末年始を過ごし、201Y年が幕を開けた。同年初の通院に向け、リハビリにいそしんだ。筋能力値は5~6年前のレベルに戻った。そして201Y年初の通院に臨む。その診察で、完治の可能性と大まかな検査入院スケジュールを示唆された。2週間後、大学病院の事務方から連絡が入り、翌週再検査入院。懐かしい面々との再会を果たした。再検査入院2日目に筋電図検査を行った。その結果、神経、筋肉の異常性は確認されず、治癒の可能性も示唆される。そして検査のメインイベントの筋生検に臨んだ。術中の痛みに耐えながらも検査が終わった。その3日後、家内立ち合いの場で封入体筋炎の完治が生検執刀医から告げられた。満9年の死の恐怖から完全に解放された瞬間だった。家内は目に涙を溜めていたが、私は感動は少なく次なる目標に向けて発想を切り替えていた。

〇登場人物
○ブログ主(ヒロ)-ミオパチ-系疾患の封入体筋炎発症歴満8年半。年齢は40代後半(50代
 リーチ)。広島市在住。妻と息子の3人暮らし

○家内(妻)-ブログ主よりも8歳年下。性格はやや天然。ただ深い部分では、かなり聡明で
 頭は悪くない。自己主張はするが、基本的には従順。
○我が家の愚息(息子)-現在16歳。私の実母と家内曰く、私のクローン人間(笑)30歳以上
 年が離れた兄弟の噂もある。人としての出来は私よりも良い(親バカ)障害者になる前はほぼ
 没交渉だったが、ここ数年は親子仲は良い。
○(株)〇×△担当M氏-ブログ主の前職時代からの顔見知り。年齢40代前半。この物語の数年前
 の障害者合同面接会時に偶然再会。その縁もあり採用される。労務管理上の通称「家庭訪問」も
 彼が殆ど担当している。彼の叔父が筋ジストロフィー患者でもあり、筋疾患患者への理解が驚く
 ほど深い。


43 あれから2年 その1
激動の2年間

 
画像1 この物語で転院した広島市西区にある福島生協病院の外観(ひろしまナースネットより)
 
 持病の封入体筋炎の完治より2年が経過した。完治後の2年間をダイジェスト形式で語る。
封入体筋炎の完治宣言後の翌々日、私は退院した。その前年の201X年も、進行停止で一時期新聞紙上を賑わせた。今回は、不治の病の完治だ。国内はもとより海外のマスコミにも取り上げられ、顔画像など個人情報を隠す条件でインタビューに応じたりもした。新聞だけではなくテレビ、週刊誌や医療系雑誌などにも取り上げられ、一躍「時の人」になった。そうした喧噪も3カ月も続かず、収まった。別の新しい大きなニュースがあれば、世間の関心はそちらに移る。所詮マスコミなんぞ、面白ければ何でもいいのである。その喧騒が終わりかけていた頃、正式に広島大学病院から自宅と同区内の広島市西区にある福島生協病院脳神経内科に転院した。封入体筋炎はすでに完治。大学病院で診察する必要性がなくなっていた。総合的にみて広島大学病院は、広島県内の医療機関では最高ランクに位置する。他の医療機関から丸投げされることも多い。私の場合、既にその段階ではなくなくなっていた。福島生協病院脳神経内科には常駐医はおらず、週に2日(水・土)の午前中のみ、大学病院から医師が派遣されていた。私は3カ月に一度のペースで、土曜日に受診することとなった。土曜日であればわざわざ、有休消化で通院することもない。その受診で筋回復薬として、コエンザイムQ10の処方箋を出してもらっていた。リハビリは、同院の整形外科で3~4か月周期でメニューを組んでもらい日々、消化していた。これも脳神経内科とは別の土曜日に受診。仕事に影響しないように配慮した。


画像2 福島生協病院1階の様子(ブログ主撮影)

 筋回復現象は退院後も順調に進んだ。ストイックに取り組めば取り組むほど、目に見える形で結果ががついてきた。退院後半年(201Y年夏頃)には、発症前の55%程度までに快復。封入体筋炎発症初期よりも筋能力値が高くなっていた。
コエンザイムQ10の1日量は増えに増え、リハビリメニューもより負荷がかかるものに変わった。翌201Z年初頭(完治宣言から10か月後)には70%までに回復していた。その頃になると筋肉の絶対量がかなり増えていたので、回復筋肉量に大きな変動でもない限り、回復現象を感じなくなっていた。そろそろ伸びしろにも限界が見え始めていた。その頃の生活障害は、20㌔以上の重量物を持てないとか、小走りはできても全力疾走が少ししかできないとか、その程度で、日常生活にはほとんど影響するものではなかった。回復曲線がかなり緩やかになり、201A年まで続いたが最終的には、封入体筋炎発症前の80%程度で頭打ちとなった。予測を少し上回る回復で終わった。回復現象が完全に止まったの見定めて、通院は打ち切った。完全に通院する必要性がなくなった。障害年金更新の手続きの時のみ、お願いして意見書を書いてもらった。

 障害者手帳の級については完治当時は、3級だったが
201Z年に5級に戻す手続きをした。3級とは重度障害の軽めの級であり、さすがにそれはないだろうと思ったからだ。健常者復帰も考え,福島生協病院の医師とも相談したが、「現在の後遺症は手帳の級でいえば、5級が妥当ですし、無理して手放す必要もないでしょう」と言われた。よって、封入体筋炎発症で完治がしたが障害が残ったという認識のまま、身体機能障害5級で生涯を過ごした。障害年金については、現状のままだった。毎年誕生月の生計維持確認と3年に1度の更新手続きを滞りなく、行っていた。更新手続きでは、担当医師の意見書が必要となるが、ありのままの姿を記載していた。障害厚生年金3級へのランクダウン、最悪打ち切りを覚悟したが、障害厚生年金2級のまま認可され続けた。理由はよく分からない。結局、65歳まで支給され続け老齢年金支給開始時に選択制となり、支給額の多い老齢年金を選択した。まあこれは後の話。

 仕事は今更転職するする必要もなく、在宅仕事を障害者雇用のまま継続した。既に発症前の立身出世欲はなくなっていた。その代り、請負仕事の量は大幅に増やした。というのは、筋能力の回復で、作業効率が飛躍的に向上。あれほど感じていた疲労感も消え、「あるだけ下さいな」状態となった。
担当M氏も我がことのように私の回復を喜んでくれた。彼の発案で、週一の出社と大きな会社行事の参加など社内コミュニケーションを取るようになった。通勤は自身で車を運転して、西風新都(安佐南区)にあるオフィスまで通った。前回記事で書いた運転免許の再取得は、再検査退院後の3か月後に果たした。取得後、間をおかずに念願のフォルクスワーゲン 「ザ・ビートル」(黄色)を購入。カブト虫(通称)に最初に乗車した瞬間、封入体筋炎が完治した我が身の幸せを嚙み締めた。収入は完治後少し上がった。65歳までの就労が可能となったので、人生設計が大きく変わった。一家の総収入の大半を貯蓄に回す必要性が皆無となった。ただ、節約に努めていた習慣を、今更改めて華美に過ごす必要もないので、従来通り慎ましく家族3人過ごした。


画像3 実際の話、ブログ主が大好きなフォルクスワーゲン 「ザ・ビートル」(黄色) 通称 カブト虫(ユーチューブ画面撮影より)

 次は、家族の事を話す。家内との関係は完治後も変わらず良好だった。在宅仕事就労後、家にいる時間が圧倒的に増えコミュニケーションを取る時間が増えたのが最大の理由だが、完治後もそれは変わらない。身体機能の回復で家事の手伝いもするようになり、「10年前のパパに今の姿を見せてあげたい」とまで言われる始末だった(笑) 夫婦2人で出かける機会も増えた。週末の買い出しやお互いカープファンなのでマツダスタジアムにレプリカユニフォームを着こみカープ観戦した。毎週ではなかったが、ミオパチーの会「オリーブ」(公式HP)の活動にもボランティアとしても参加した。封入体筋炎発症によって起きた「失われた10年」を取り戻すかの勢いだった。得たものもそれなりにはあったが、やはり失ったものの大きさは得たものとはイコールには決してならない。

 息子は、私の封入体筋炎発症で一番大きな影響を受けた。何を思ったのか、医学への道を志すようになった。完治後も今更方向転換するわけにもいかず、そのまま突き進んだ。この時期より数年後、その夢を見事叶えた。本人の努力の賜物もあるが、私が受け渡した遺伝子によるところが大である(爆)痩せた大地(宜しくない遺伝子)に最高の種を植え、水や肥料
(良好な環境)を与えても限界がある。息子との直接的な関係は、闘病時代のような蜜月ではなくなった。これは、難病患者に対しての同情が入り交じり、そうなっていたと後から知った。しかし、悪いというほどでもなく「遠からず近からず」でほど良い距離感を保っていた。男同士が近過ぎるのも正直、気持ち悪い。最後にブログについても書いておく。闘病記改め、「封入体筋炎元患者の暇つぶしブログ」とURLそのままで、リニューアルさせた。広島系記事は、自身が出かけ撮影した画像中心に使い取材形式の記事を増やした。他には、カープの観戦記やボランティア活動などについても書いた。投稿頻度は忙しくなったので週3本程度だったが、日計2,000アクセスを維持した。ブログ更新も日々のライフワークの1つとなった。これは終生変わらず、数度のリニュアールを繰り返し、25年以上書き続けた。


画像4 
「封入体筋炎元患者の暇つぶしブログ」のイメージ画像

44 あれから2年 その2
筋疾患患者時代に得た新たな価値観

 今振り返ると、発症前と発症・完治後では私のメンタルに大きな変化があった。発症前は俗にいう社会的弱者と呼ばれる人たちに対して、差別とまで言わないが、多少軽侮の念を持っていた。障害者や高齢者、そして未成年者など対等のスタートラインに立てない人たちは競争社会の外に置き、配慮すべき存在との認識はあった。価値観や政治思想の多様性も尊重する気持ちも
当然あった。軽侮の対象は、対等のスタートラインに立て、人生の結果を出していない人たち-(健常者の)経済弱者に対しては手厳しかった。自己責任だろうと。収入が全ての判断基準とはさすがに思わないが、人生の結果の1つであることは言うまでもない。貨幣を商品として取り扱う業界に20年以上身を置き、数字と結果がこの世の全て。私自身-自分教(能力・努力・結果)信者でもあったので、考えがそちらに偏ってしまった。新自由経済主義?21世紀の世界経済の必須だよ、グローバリズム?大賛成、国境や関税なんて全て取っ払え、格差社会?資本主義だから当然、だった。表情や発言には注意していたので気取られることはなかったが、今思えば好ましい傾向ではなかった。

 そして自身が封入体筋炎という不治の生命予後不良の難病を発症。進行により交通弱者になり果てた。弱者になり、他の弱者の人たちの気持ちがようやく理解できた。自身で痛みを知って他人の痛みをようやく知る-子を持つ親として、それ以前に人として問題があったと言わざる負えない。前項目で書いた筋疾患患者を支援する
ミオパチーの会「オリーブ」の活動参加も、自身の経験を活かし、何らかの一助になりたいと思ったからだ。発症前の私なら、対価を得られないものなど労力の無駄だと切り捨てていた。就労-自己の能力を最大限に発揮して、高い社会的ステータスを得る場所。その対価として人よりも多くの給与を受け取る。それが最大かつ最高の価値観と考えていた。発症により、家族の絆、お金では買えないものの存在、同時にお金では解決できないものの存在などを知った。そして人の痛みも経験を踏まえ知った。そうこれまで最大かつ最高の価値観と思っていたものが、実は大した価値がないことを知った。知った以上は、発症前の価値観で行動は無理だった。それを知り得た闘病生活だったと言える。発症でこれまでの人生を一度清算したのだ。生まれ変わったともいえた。発症前の価値観と発症後闘病生活で得た新たな価値観、どちらが有意義で実りある人生を送れるだろうか?答えは当然後者だ。

 財貨はある水準まで蓄えたら、必要はない。死が間近に迫り土に還る時、持ってはいけない。最後は自分以外の他人に渡すのだ。勤務先で努力を重ね山の頂きを極めても、辞めたらただの一老人でしかない。生活の糧を得る労働の時間以外をいかに有効に過ごすのか、これが豊かな生活を送る上での肝と知った。この価値観を照らし合わせると、闘病生活の約10年間も別の輝きがあった期間と割り切れた。そしてその新たに得た価値観を後生大事にして、残りの人生を家族と共に送るだろう。
 

45 最後に当たり

 元々この記事は、1~2話で終わる予定だった。書き始めは今年の1月初旬、ブログ記事ネタがたまたま枯渇していて窮余の一策だった。まさか18回も長々と書く羽目になろうとは思わなかった。現実世界に目を移せば、希少疾患の封入体筋炎の進行が止まり、完治するなど絶対にあり得ない話だ。現実逃避の側面もあるが、if世界特有の妄想も面白かろうと思い、あれこれ考えて書いてみた。他のブログ記事とは異なり、素人小説感満載だったが私の文才のなさもあり結構苦労した。アイデアが分かりやすいテーマの割には、中々浮かばないことも多々あった。途中間が空いたのはそれが最大の理由だが、他の記事ネタが出てきたら、そちらに関心が移ったのも理由の1つだった。結末をハッピーエンドとするかバットエンドにするのか、少し考えたが楽しい夢想ついでに
ハッピーエンドとした。以前もこの形態の記事を投稿したが、面倒になり放置したので、今回は最後まで書く意思はあった。細かいところをチェックしている方はお気づきかも知れないが、闘病カテゴリーから並行・if世界カテゴリーを新設して移した。また病みつきになりそうなので、広島系都市問題記事の並行・if世界を書く予定だ。これは1回、多くても2回の単発記事にする。まだお題は決めていない。あまり期待しないで、お待ち頂きたい。今後も駄文、長文にお付き合い頂ければ幸いだ。

 


終わり



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シリーズ記事 並行・if世界 封入体入筋炎

 このシリーズ記事は、201X年ひょんな事から持病の封入体筋炎の進行が止まり、止まるどころか筋回復現象が起きて、更には別の可能性まで示唆されたという妄想を記事にしている。いわゆるif世界の話だ。現実には絶対にあり得ないのだが、こんな世界もあったらいいな、みたいな遊び心から端を発している。読まれる方は、その辺を差し引いて読んで頂きたい。絶対に、本気に受け取らないように願いたい。このシリーズも次回で終わらせたいと思う。


〇前回までのあらすじ

  1.  希少難病の「封入体筋炎」(難病情報センター)を患っていたブログ主は、余命残り15~20年の状態だった。現代医学では如何ともし難く、進行を遅らせることを主眼に治療を行っていた。201X年9月中旬、突然足取りの軽さと安定感、そして上肢の可動範囲向上を感じる。その後も筋回復現象は続き、担当医に進行停止と別の可能性を示唆された。筋回復をアシストするために新たな処方箋薬と、リハビリにいそしむ日々を送っていた。そして再検査入院の手続きを取り、奇跡に向けた準備を始めていた。その奇跡の様子を学会にて報告され、マスコミにも取り上げられた。例年にない希望に満ちた年末年始を過ごし、201Y年が幕を開けた。同年初の通院に向け、リハビリにいそしんだ。筋能力値は5~6年前のレベルに戻った。そして201Y年初の通院に臨む。その診察で、完治の可能性と大まかな検査入院スケジュールを示唆された。2週間後、大学病院の事務方から連絡が入り、翌週再検査入院。懐かしい面々との再会を果たした。再検査入院2日目に筋電図検査を行った。その結果、神経、筋肉の異常性は確認されず、治癒の可能性も示唆される。そして検査のメインイベントの筋生検に臨んだ。術中の痛みに耐えながらも検査が終わった。

〇登場人物
○ブログ主(ヒロ)-ミオパチ-系疾患の封入体筋炎発症歴満8年半。年齢は40代後半(50代
 リーチ)。広島市在住。妻と息子の3人暮らし

○家内(妻)-ブログ主よりも8歳年下。性格はやや天然。ただ深い部分では、かなり聡明で
 頭は悪くない。自己主張はするが、基本的には従順。
○初代担当医ドクターTー筋疾患発症1~4年目までの担当医。前回検査入院後、現在の担当医
 ドクターKと謎の交代をした。理由は定かではない。物事をはっきり言わず,、奥歯に詰まった
 物言いが特徴である。年齢はブログ主とほぼ同年代。

41 
筋生検当日 その3
家内とのやりとり 


画像1 広島大学診療棟(手前)と入院棟(奥)の様子

 手動車いすで、病室に戻った。約5年ぶりの車いすから見る世界は新鮮だった。目線が立ち姿勢の時よりも80㌢以上も低く、ちょっとした圧迫感があった。2度目の経験なのですぐに慣れるだろうと思い気に留めなかった。特にやることもなく、ボッ~としていたらこの日はパート休みの家内が見舞いにやって来た。病室内で封入体筋炎の現状を会話することは、他の患者の手前憚られたので、デイルームに向かった。しかし、あいにくそこも患者とその身内の人間が何人か居たので、さすがに困った。そしてある場所を思い出し、そこに誘った。ある場所とは、病院敷地内にある「いこいの森」である。この場所は入院棟の裏手にあり、5年前の検査入院時の時も利用しなかった。というか、今場所があったと気づいたのは退院後だった。それを思い出し、家内を誘った。天気も雲一つなく雨の心配はなかった。この日は3月初旬だったが、4月上旬の気温まで(15℃以上)上昇しており、時間も時間だったので寒くなかったのだ。

 開口一番、検査の様子を伝えた。前回同様に「痛い、痛い」の連発だったが家内は大笑いして聞いてくれた。前回は今後の大きな流れについてかみ砕き説明した。今日は、数日家族の立ち合いが必要となる告知について話した。生検後の抜糸が4日後、この日の夕方以降から大学病院脳神経内科医を集め、私の封入体筋炎治癒について侃々諤々(かんかんがくがく)の議論が始まる。生検に至るまでの経緯で、80~90%の可能性で治癒している、となった。残りの10~20%の不確定要素を潰すための検査でしかなく、前回検査時の疾患名特定よりは容易だ。筋回復現象はこの年の前年の9月か現れ、半年後の現在も続いている。この客観的な事実もあり、どこをどう捻って考えても答えは一つしなかい。逆に治癒していないとなると、これまでの状況の説明がむしろできないのだ。理屈ではそうなる。家内も告知に備え、パートの出勤日の調整をしておく、と言ってくれた。家族の歴史的瞬間に立ち会いたい気分のようだ。生検後は、前回同様にリハビリはしない(出来ない)予定だったが、仮に封入体筋炎が完全治癒ともなれば、薬物療法(コエンザイムQ10など)、リハビリ療法の双方を今以上に加速さセル必要があった。特にリハビリが占めるウェートは大きい。しかし、在宅仕事の関係で週に何度も訪れる時間はない。よって、現在の筋能力値を把握しているトレーナーに、現時点で必要な筋トレメニューの作成を依頼していた。これまでも自身で、体感を頼みとしたそれらしきメニューは作成してほぼ完全に消化していたが、専門家の目線で回復期途上のピンポイントメニューが欲しいと思ったのだ。

 そのことも家内に説明。家内の反応はこんな感じだった。「目の前の事、少しだけ先の事、更に先の事を状況を上手く整理して、それに対応出来るパパは凄い!」 改めて言われると(それ普通の事だろ?)と反論したくもなるが口は出さなかった。治癒となった場合、いきなりすぐに転院になる可能性は低いと思っていたので、一度整形外科を受診する機会はあるだろうと。それまでにメニュー作成してもらえれば、問題はなかった。従来の筋トレメニューでも十分過ぎる成果が出ており、急ぐ必要もなかった。そして、家内にもう1つ大きな相談を持ち掛けた。自動車免許の再取得だった。実は
自動車免許は、当時の封入体筋炎の状況から返納していた。その代り、運転経歴証明書を交付してもらい顔写真付き身分証明として利用していた。その時はそれで十分だったが、まさかの疾患の進行停止、筋回復である。今後のことも考え、再取得するのが妥当だ。幸いに自宅より徒歩15分くらいのところに自動車学校があり、余裕で通える。取得後再び車を購入して足代わりにしたいと伝えた。家内は当然快諾した。現状でも、運転には支障は全くない。自身で運転していた末期の頃よりも筋能力値が高いのだから。1時間半ほど家内と話し込み、風が出てきて寒さを感じたのでニ人して病室に戻った。家内は洗濯したての着替えを置いて、病院を後にした。


画像2 大学病院敷地内にある「いこいの森」の様子(ユーチューブ画面撮影より)

42 遂に告知の日 その1
遂に封入体筋炎完全治癒 その1

動画1  フォルクスワーゲン ビートルTVCM|2014 長谷川潤、所ジョージ

 生検の2日後、再
検査入院中の担当医ドクタ-Tが病室に参上した。「明日の18時に、ご家族立ち合いの元、重要なお知らせをしたい」と言った。顔は穏やかかつ優し気な表情、台詞と表情が反比例している。明るい雰囲気が全身から漂う。お付きの研修医2人も笑みがこぼれている。これ結果は分かったようなものだが、一応儀式なので、下唇を噛み笑いを堪えながら、「分かりました。どうのような結果でも厳粛に受け止めます」と返した。私を含め4人が笑いを堪えるのに必死だった。カーテンを閉め切り、やりとりをしていたので、カーテンの外の人たちはあそこで何が起きているのだ?さぞや不思議な気持ちになっただろう。話が前後して恐縮だが先の項目で、車を再購入したいと書いた。車種は決めていた。フォルクスワーゲン 「ザ・ビートル」かBMW「ミニクーパー」に決めていた。色はザ・ビートルは黄色、ミニクーパーは赤。それ以外の色は邪道である(笑)価格は日本車と変わらないし、車としたら手頃だ。封入体筋炎快気祝い(免許再取得後)として家内も反対しない(筈だ)。65歳までの就労が可能となり、自宅マンションのローンも既に終わっている。躊躇する理由が1つもない。


動画2 試乗:BMW ミニクーパー #lovecars #BMW #MINI 

 話を戻す。これを受けてパート帰宅時間を見計らって電話した。時間が18時なのでパートを休む必要もなく安堵した様子だった。その時の担当医などの表情も報告。「もう答えが出ているね」とも言っていた。事実その通りなのだが、告知は儀式としてやはり必要だ。入院8日目、この日は待ちに待った生検の結果を発表するである。術後の抜糸は、9日目の明日、退院は10日目の明後日と最終スケジュールが決定した。前回のような血液製剤投与の治療は当然ない。この日は18時まで予定は何もなかった。術後の抜糸がまだなので下肢の筋トレも出来ない。上肢の筋トレとストレッチはしているが、所要時間などたかが知れている。持ち込みPCでブログ記事を更新をするしかない。ブログについては、入院生活の細かなことや生検後の車いす生活などを取り上げ書いた。時間があったので5階にあるリハビリセンターを覗いた。例の退院後のリハビリメニュー作成の件だ。私の担当者が丁度いた。彼はドクターTから何かの支持を受けていた様子で、現在鋭意作成中との事だった。退院までは間に合わないが、かといって退院後数週間もかからないとも言った。好意的に受け止め、部屋に戻った。

42 遂に告知の日 その2
遂に封入体筋炎完全治癒 その2

 
 そんなこんなで、歴史的瞬間の時間が刻一刻と迫っていた。時間は17時半。家内が立ち会うために参上。息子はこの日は高校の特別補習と学習塾の梯子の日で、帰宅は21時半以降なので慌てて夕食の準備をする必要もないと笑っていた。緊張する、緊張するを何度も連呼していた。当の私は、99.9%答えが分かっていたので、前回のような緊張感は全くなかった。逆の場合の想像を楽しんでいた。「実はですね‥‥」と切り出された場合のシュミレーションを頭の中で密かに夢想した。まあ、これはほぼ100%ないと断定しているからこそ、楽しめる脳内余興の1つだ。そして看護士に呼ばれ、担当医が待つ処置室に向かった。ドアをノックして家内と共に部屋に入った。担当医ドクターTは満面笑みで座っている。私も正面の椅子に座った。彼は「〇〇さん、おめでとうございます。あなたを長年苦しみ続けてきた封入体筋炎は完治しています。もう医学の奇跡としか言いようがありません。当院、全脳神経内科医の意見が見事一致しました。」「そして、今後についてですが封入体筋炎の後遺症からの回復(筋力の回復)が主題で、従来通りの薬物・リハビリ療法に中心に取り組んでいただきます。」「うちのトレーナーに依頼されていたメニューの件は、急がせます。退院後、一度整形外科を受診してください」と続けざまに、こう言った。

 家内の様子が気になり横目で見てみた。目に涙を溜めて両手で口を押えている。(お前、まだ泣くよ少し早いよ)と心で唸った。そして私は既定事実感が強かったので、比較的冷静に受け止めていた。大事な儀式だが、既に答えが出ていた問題だし、一番分かっていたのは私自身だ。100%の医学的お墨付きがついただけの話ともいえた。この段階ではそこはさして重要ではなく、その後の方が重要だ。私がこう話を切り返した。「退院後の整形外科受診は了承しました。肝心の脳神経内科はどうなりますか?」と。すると、ドクターTは「先にお話しした通り、当院以外で通院が楽な病院に転院する選択肢もあります。その辺は、ドクターK(元々の担当医)と相談してください」と言った。聞きたいことがまだあったので聞いてみた。「封入体筋炎完治は分かりましたが、今後再発の恐れはありませんか?」「落ち込んだ筋力はどのレベルまで回復しますか?」
ドクターTは。少し間を置きこう言った。「再発の可能性は絶対にゼロとは言い切れませんが、限りなく低いと思われます」「筋回復度の予測ですが、理論上は、疾患発症しなかった状態での現在の〇〇さんの筋力水準まで可能です。理論上はです。実際にはその理論上の70~80%程度とみるべきでしょうね」 ドクターTの話を鵜呑みにすると、次の通りとなる。発症10年目なので加齢による筋低下を3%と設定(下記画像3参照)。発症前の筋力値を97%。その70~80%の回復だと発症直前の約68~77%まで回復する可能性があることとなる。再検査入院直前の筋能力回復が発症前の40%とした場合、1.7~1.9倍までさらに回復する可能性が高いとなる。思いのほか高く、退院後のリハビリに闘志に火がついた。そこまで戻るには2年はかかるだろうが、目標があればモチベーションも当然高い。日常生活に差しさわりがない範囲の回復であれば、何も問題はない。

 次回3月中旬の脳神経内科と整形外科への同時予約を入れて、処置室を出た。出ると家内は、いきなり泣き始めた。年を考えろよ、と少し思ったがこれは仕方がない。処置室を出て家内と少し会話した。退院後の生活-特にリハビリ、現在の仕事、息子のことなど多岐に渡った。意外に喜んでいない私の態度に家内は不信感をもったようだ。その点を聞かれると、私はこう答えた。「取りあえず、一安心だけど今後の事を考えると、勝負はこれから。喜ぶ暇があれば次の行動をしないとな」 家内は半分呆れ、半分頼もしそうに「まぁ、そうだね」と言った。進行を少しでも遅らせ、現在の筋力維持を保つことばかり考えていた過去の守勢一辺倒のメンタルから完全に脱却していた。身体の回復にメンタルの回復が追いつかずかい離していたが、この段階に至りやっと追いついた。病は気からではないが、こういう攻めのポジティブ発想が大事だし、私には似合っている。こうして我が家の歴史的瞬間(?)の一日が終わった。次回は、記事の大半を後日談形式で書きこのシリーズの締めとしたい。


画像3 年代ごとの筋肉量経年変化率(認知症ネットより)
 




続く




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シリーズ記事 並行・if世界 封入体筋炎

 このシリーズ記事は、201X年ひょんな事から持病の封入体筋炎の進行が止まり、止まるどころか筋回復現象が起きて、更には別の可能性まで示唆されたという妄想を記事にしている。いわゆるif世界の話だ。現実には絶対にあり得ないのだが、こんな世界もあったらいいな、みたいな遊び心から端を発している。読まれる方は、その辺を差し引いて読んで頂きたい。絶対に、本気に受け取らないように願いたい。


〇前回までのあらすじ

  1.  希少難病の「封入体筋炎」(難病情報センター)を患っていたブログ主は、余命残り15~20年の状態だった。現代医学では如何ともし難く、進行を遅らせることを主眼に治療を行っていた。201X年9月中旬、突然足取りの軽さと安定感、そして上肢の可動範囲向上を感じる。その後も筋回復現象は続き、担当医に進行停止と別の可能性を示唆された。筋回復をアシストするために新たな処方箋薬と、リハビリにいそしむ日々を送っていた。そして再検査入院の手続きを取り、奇跡に向けた準備を始めていた。その奇跡の様子を学会にて報告され、マスコミにも取り上げられた。例年にない希望に満ちた年末年始を過ごし、201Y年が幕を開けた。同年初の通院に向け、リハビリにいそしんだ。筋能力値は5~6年前のレベルに戻った。そして201Y年初の通院に臨む。その診察で、完治の可能性と大まかな検査入院スケジュールを示唆された。2週間後、大学病院の事務方から連絡が入り、翌週再検査入院。懐かしい面々との再会を果たした。再検査入院2日目に筋電図検査を行った。その結果、神経、筋肉の異常性は確認されず、治癒の可能性も示唆される。残す検査は筋生検だけとなった。


〇登場人物
○ブログ主(ヒロ)-ミオパチ-系疾患の封入体筋炎発症歴満8年半。年齢は40代後半(50代
 リーチ)。広島市在住。妻と息子の3人暮らし

○家内(妻)-ブログ主よりも8歳年下。性格はやや天然。ただ深い部分では、かなり聡明で
 頭は悪くない。自己主張はするが、基本的には従順。
○初代担当医ドクターTー筋疾患発症1~4年目までの担当医。前回検査入院後、現在の担当医
 ドクターKと謎の交代をした。理由は定かではない。物事をはっきり言わず,、奥歯に詰まった
 物言いが特徴である。年齢はブログ主とほぼ同年代。

39 筋生検当日 その1
再検査入院最大のイベント


画像1 広島大学病院の診療棟(手間の建物)と入院棟(後方の建物)の様子(広島大学病院HPより)

 入院五日目、遂に再検査入院最大のイベント(?)の筋生検(以下生検)の日となった。封入体筋炎完治を証明づける最大の検査となる。
筋組織摘出部位は前回同様、左足ハムレスリングス(太もも裏)の関節部少し上。術後数日は車いす生活を余儀なくされるが、椅子からの立ち上がりに不安がない私は「ドンと来い!」だった。時間は昼の12時半~13時の間の開始、所要時間は1時間前後、遅くとも14時過ぎに終わる予定。場所は8階の処置室。執刀するのは再検査入院中の担当医ドクターT。2人の研修医は付き人として立ち会い、付き添う。その辺を、当日担当の看護師から、朝の検温時に聞かされた。格好は前回同様短パンで臨む。朝からその格好だったが、入院棟は身体が弱く、高齢者が多いのに配慮して暖房も高めの設定なので、筋回復現象が顕著で活動量豊富な私には、厚着では動くと汗ばむのだ。だから短パンでも問題なしだった。

 本番前なので、入院中実践していた独自の筋トレや喫煙時の階段昇降はこの日に限り、取りやめ検査に臨もうと思った。別に深い理由はないが、なんとなくそう思い実践した。
生検を待つ数時間、時間の経過が異様に遅い。2度目の経験とはいえ、やはりそれなりの緊張感が私を包んでいた。完治を諦め、進行を体感するたびにある種の恐怖を感じていた1年前、発症当初、人生の絶望を味わった9年前のことを人生の走馬燈の如く、筋疾患の走馬燈として振り返っていた。筋回復現象が出始めて約半年。闇が張少し消えて、空に虹が走り光が差し始めた。今に至る理由は定かではなかったが、悪魔に愛され希少疾患の封入体筋炎を発症して、そして神様に愛され進行が完全に止まった。運命に弄ばれている感が強いが、その都度その現実に真摯に立ち向かわなければならない。デイルームでの昼食は、今日の予定を鑑みて、10分早くとった。病室に戻ったのは12時10分、看護師が呼びに来る12時半まで後20分ぐらいある。それまで待つ時間も異様な長さだったが、30分を切ったこの時間帯の長さは尋常ではなかった。もう思い出すこともなくなり、何も考えず待つことにした。そして12時35分、看護師が参上、食いしばり用の簡単なハンドタオル持参で処置室に向かった。


動画1 
難病指定 封入体筋炎症の取り組み(1回目)


動画2 
難病指定 封入体筋炎症の取り組み(2回目)
※ 記事本文とは無関係だが、動画1,2共に通常の薬物療法(免疫グロブリン大量投与、プレドニン服用など)では改善傾向がみられないため、民間療法に活路を見出す患者の様子。興味のある方は、自己責任の範囲でご参考に。私個人の見解は、短期的に効果らしきものがあっても、中長期的に見て効果が継続可能なのか?疑問が残る。治験薬BYM338が露と消えた現在では、こういうのもありかも。これを見て抱く感想は,人それぞれだ。

40  
筋生検当日 その2
いよいよ、始まり~(笑)



画像2 実際の広島大学病院高度
救命救急センターの様子。広島市南・中区辺りで救急車を呼ぶと広大病院へ搬送される。

 今回は前回と異なり、広大医学部学生の見学はなかった。あれは殆ど、理科の実感室のカエル状態でマジ勘弁だ。上記の「
筋生検の流れ」に沿って話を進める。この検査の肝は、皮膚麻酔はするのだが脂肪・筋肉麻酔は検査の性質上、しないことだ。麻酔を打った状態の筋組織を調べても意味がないのだ。あくまでも普段の状態の筋組織を調べるのが目的なのだ。これが何を意味するのか?敏い方ならこの時点で察しがつく。そう麻酔なしで、筋肉をメスで切開して切り出す。例えようがない痛みが襲う、そしてそれに耐えなければならない。前回同様、摘出部位は 左足ハムレスリングス(太もも裏)の関節部少し上なので、うつ伏せ姿勢で生検を受ける。よって、切り開いている様子などは視界に入らない。不幸中(?)の幸いである。担当医(執刀医)と研修医の計3人がそそくさと、準備を始める。私は支持された幅広の長椅子にうつ伏せとなり待った。担当医が「〇〇さんは稀有な2度目経験者なので、余裕でしょう?」と軽口を叩く。内心「バカ言ってんじゃないよ。この野郎!」と舌打ちするが、立場上「・・・、え~まぁ」と返す。何度経験しても痛いものは基本的に痛い(笑)後に希望の有無が違うだけだ。

 ここで、筋生検の説明と大まかな流れを説明する。
-① 
筋生検
 筋電図と共に神経・筋疾患の中では最も重要な検査の1つ。各種検査を進め、疾患名特定に至らない場合、筋生検を行い最終判断する事例が多い。方法は、骨格筋の筋組織の一部(1.0~1.5cm)を皮膚麻酔のみ(脂肪・筋肉麻酔なし)で手技で摘出する。摘出部位は、その他検査により疾患に侵されている部位を選択する。上腕二頭筋(力こぶが出る場所)や大腿四頭筋(太もも膝上)のケースが多い。摘出した筋組織を電子顕微鏡で観察、そして疾患特定を行う。筋組織は本人同意の上、国立精神・神経医療研究センター病院(公式HP)に送られる。

-② 筋生検の流れ
  
筋生検法~(病理と臨床)
① 摘出部位中心に広範囲に消毒。穴開き布をかぶせる。
② 局所麻酔を皮膚と皮下組織に行う(脂肪・筋肉麻酔なし)
③ メスで3センチ程度皮切り。モスキト紺子で、皮下組織を開き鈍的に筋膜露出させる。
④ 開創器で十分な広さを確保させる。メスで筋膜を切開して、筋膜下を剥離。
⑤ 筋膜下も
開創器で十分な広さを確保した上で、筋表面を露出させる。
⑥ 筋繊維の走行と直角に浅く絹糸をかけ軽く結ぶ
⑦ メスで糸をかけた部分の下を筋繊維部分の沿い削ぐように剥離。剥離部分の上下を切断して
  筋組織を採取する。
⑧ 十分に止血をして、絹糸で筋膜と真皮を縫合する。最後にナイロン糸で表皮を縫合する。

⑨ 術後の様子を観察し、特に問題がなければ3~4日後に筋膜、
真皮の抜糸を行う。
 
 準備が終わり、
① 摘出部位中心に広範囲に消毒。穴開き布をかぶせる ② 局所麻酔を皮膚と皮下組織に行う(脂肪・筋肉麻酔なし)の作業が始まる。終わると③の皮膚切開に。引き続き筋膜切開。①~⑤までの作業はサクサクと進む、私の身体的な負担も少ない。所要時間は、20分程度。いわば前座的な作業に過ぎない。⑥以降が、本番だ。私の負担も莫大なものとなる(笑)④の作業も麻酔なしの筋膜の切開なので痛みはそれなりにあるが、許容範囲で涙は出ない。前回はこの段階でも驚いた。今回の執刀医のドクターT、前回のドクターKとでは本人の手際の良さはほぼ互角だが、研修医に対しての指示がことの他上手い。経験値と性格の違いなのかな、と思った。5年前の最初の生検の記憶を頭の中で辿りながら、最大限の痛みが襲ってくるのに備えた。ハンドタオルは顔の横に置いている。いよいよ痛み本番の⑦の作業に入る。執刀医の筋繊維の剥離を始めます」の合図が室内に響く。メスの力の入れ加減が私の身体を通して伝わる。その後、あの恐怖ともいえる痛みが襲い掛かってきた。「よっ!、お久しぶり」などと楽しむ余裕など当然ない。ハンドタオルの出番で、口の中にいれて痛みに耐える。5年ぶりの再会の余韻に浸る暇なく、「これから筋肉を取り出しますよ」との合図が発せられた。うつ伏せなので、時間を確認することが出来ない。この時に腕時計をしていないことを激しく後悔した。前回も同じ後悔があったが、すっかり忘れていた。

 先ほどと同様にメスの力の入れ加減が伝わる。今度は筋肉組織の摘出だ。頭の中が真っ白になる痛みが襲う。理屈抜きで本当に痛い。2度目だが、身体と神経が痛みを覚えておらず、初体験のような新鮮さだ。この痛みを発した瞬間、研修医の表情が伺えたが能面そのもので、無性に腹が立つ。まあ、同情している表情でもしていたら、それはそれで「お前、人を馬鹿にしているだろ?」と思ったに違いない。何かに転嫁して、痛みをまぎわらすとかが可能なレベルではない。比喩する言葉すらない。そして地獄の時間がようやく終わり、止血をして、絹糸で筋膜と真皮を縫合して、最後にナイロン糸で表皮を縫合する作業に入った。仕上げは、患部を大判の粘着力のある絆創膏で塞ぎ、左足のひざ上全体を包帯でグルグル巻きにする。これで全ての予定が完了。左足を動かすたびに筋肉全体が引っ張られるような鈍痛が走る。上半身の自らの筋力で起こし、長椅子に座ったまま、車いすの到着を待つ。待つこと5分、看護師が車いすを持ってきた。立ち上がり乗ろうと試みるが、筋力不足ではなく術後の痛みからそれが不可能。看護師と若い研修医の助けを借りて、乗り移った。処置室を出る際に、申し合わせたように「お疲れ様でした!」の声がかけられた。看護師が病室まで送ろうとするが、「大丈夫です。出来ますから」と断りを入れた。腕の筋力回復も順調で、5年前よりも筋力値は高い。足が生検後で使えないのであれば、抜糸までの数日間は、腕を集中的に鍛えようと思った。それには手動の車いす走行はもってこいだ。時計を見ると13時45分。この時間を以て、再検査入院最大のイベントは終わりを告げた。



画像2 中規模以上の病院に置いている手動式車いす(ネット拾い画像より)





続く



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シリーズ記事 並行・if世界 封入体筋炎

 このシリーズ記事は、201X年ひょんな事から持病の封入体筋炎の進行が止まり、止まるどころか筋回復現象が起きて、更には別の可能性まで示唆されたという妄想を記事にしている。いわゆるif世界の話だ。現実には絶対にあり得ないのだが、こんな世界もあったらいいな、みたいな遊び心から端を発している。読まれる方は、その辺を差し引いて読んで頂きたい。絶対に、本気に受け取らないように願いたい。


〇前回までのあらすじ

  1.  希少難病の「封入体筋炎」(難病情報センター)を患っていたブログ主は、余命残り15~20年の状態だった。現代医学では如何ともし難く、進行を遅らせることを主眼に治療を行っていた。201X年9月中旬、突然足取りの軽さと安定感、そして上肢の可動範囲向上を感じる。その後も筋回復現象は続き、担当医に進行停止と別の可能性を示唆された。筋回復をアシストするために新たな処方箋薬と、リハビリにいそしむ日々を送っていた。そして再検査入院の手続きを取り、奇跡に向けた準備を始めていた。その奇跡の様子を学会にて報告され、マスコミにも取り上げられた。例年にない希望に満ちた年末年始を過ごし、201Y年が幕を開けた。同年初の通院に向け、リハビリにいそしんだ。筋能力値は5~6年前のレベルに戻った。そして201Y年初の通院に臨む。その診察で、完治の可能性と大まかな検査入院スケジュールを示唆された。2週間後、大学病院の事務方から連絡が入り、翌週再検査入院。懐かしい面々との再会を果たした。再検査入院2日目に筋電図検査を行った。その結果、神経、筋肉の異常性は確認されず、治癒の可能性も示唆される。残す検査は筋生検だけとなった。


〇登場人物
○ブログ主(ヒロ)-ミオパチ-系疾患の封入体筋炎発症歴満8年半。年齢は40代後半(50代
 リーチ)。広島市在住。妻と息子の3人暮らし

○家内(妻)-ブログ主よりも8歳年下。性格はやや天然。ただ深い部分では、かなり聡明で
 頭は悪くない。自己主張はするが、基本的には従順。
○初代担当医ドクターTー筋疾患発症1~4年目までの担当医。前回検査入院後、現在の担当医
 ドクターKと謎の交代をした。理由は定かではない。物事をはっきり言わず,、奥歯に詰まった
 物言いが特徴である。年齢はブログ主とほぼ同年代。

37 
 再検査入院の日々 その4
入院2~3日目の出来事 3



画像1 広島大学病院診療棟から入院棟を望む。中央の歩道はブログ主の喫煙コースの動線になる

 再検査3日目、この日は大きな予定は何もなかった。朝の採血と検温を終えると、午後からのリハビリだけ。何をして時間を潰すのか?思案していた。妙案はなく、持ち込んだPCとの睨めっこと自己作成した筋トレぐらいしかやることがなかった。ブログ投稿用の画像収集も撮りまくり、「何かの役に立つかもしれない」的な画像も撮り、その数は100画像を超えた。撮り過ぎて、撮影場所がなくなるくらいであった。昼食前の午前11時過ぎ、入院中の担当ドクターTとお付きの若い研修医2人が私のもとを訪れた。そして、検査入院最大のメインイベント筋生検について語り始めた。検査日は明後日(入院5日目)、筋組織摘出部位は前回同様、左足ハムレスリングス(太もも裏)の関節部少し上。検査後3~4日(皮膚、筋肉の抜糸するまで)は車いす生活で、入浴、リハビリ等は禁止。検査終了後、1週間以内に封入体筋炎治癒の判断を、複数の脳神経内科医で判断を下し、私に伝える。結果関係なく再検査入院は12日間で終了、との見通しを述べた。可能性が高い1つのシュミレーションとして、仮に治癒が判明した場合、今後は後遺症ー封入体筋炎で低下した筋力 の回復が主眼となるので広島大学病院ではなく、別の医療機関へ紹介、そして通院になる。薬物・リハビリの両療法からアプローチする。逆に治癒していない場合は、進行停止を鑑みて従来通り、広島大学病院の通院となる。
退院後の見通しまで語った

 この見通しは、広島県内における医療業界の分担制の観点から端を発している。広島大学病院、県立広島病院、広島市民病院、日赤・原爆病院の4医療期間を頂点に県内の各医療機関がその規模や、特性に応じてピラミッド型に階層化されている。特定疾患に分類される希少難病治療は、頂点である広島大学病院で行うが、治癒して必要性がない場合ー
リハビリなどの回復後期の処置は別の医療機関に任せる。私の場合も、筋生検で封入体筋炎治癒が証明されれば、これに該当した。担当医師による告知(?)は、約9年大学病院、県病院に通院した私にとって一抹の寂しさを感じたが、新たなステージに入った裏返しでもある。感傷に浸らず、前を向いて歩かないといけない。過去は過去、現在は現在だからだ。封入体筋炎に限らず、希少疾患である筋疾患で悩み苦しんでいる患者を思うと、恵まれているどころか奇跡の人なのだから。ドクターTはわざわざ、診療の合間をみてこれを私に言いに来た。そうこうしていたら、昼食時間の12時になっていた。完全に忘れていたが、昼から家内が見舞いに参上する。筋電図の結果や、明後日に行われる筋生検、治癒した時の今後の予定など上手く伝える必要がある。

38 
再検査入院の日々 その5
入院2~3日目の出来事 4



画像2 入院棟のデイルームイメージ図(実際の広大病院ではない) 

 デイルームで昼食を取り、喫煙&自己筋トレ(階段1階~3階昇り)に向かう。喫煙所までの移動も片道300~400㍍あり、往復で600~800㍍。これを1日10回消化すれば、かなりの量だ。そして階段で3階まで昇る。わざわざ、リハビリをしなくても生活の日常の中にリハビリ要素を取り入れる。無理なく難なく出来る。これが目的である。昼過ぎに家内が来るので13時前に病室に戻った。10分もしないうちに家内がやって来た。この日はパートは休み、既に午前中に夕食の仕込みは終わっているとの事だった。性格は天然要素満載だが、手際は良く仕事も早い。着替えの下着類を持参している。そして洗い物を持ち帰り、次回の見舞いの時にまた持ってくる。今回は前回と違い、パート仕事の関係で毎日は来れないので、その数は少ない。で、昨日の筋電図の結果と担当医の見解、筋生検の日程、そして午前中に言われた今後の通院形態について話した。家内は話の急展開に驚きを隠せない様子だった。私自身も退院後の展開を読みあぐねていた。専門的な知識がないのが最大の理由だ。そして私は、家内にこう付け加えた。医師の表情や語感から、封入体筋炎の治癒の可能性は現段階で80~90%以上。残りの10~20%の不確定要素を0にするための筋生検だと。

 かみ砕いて説明したので、家内も納得した様子だった。書き忘れたが、病室内ではこの種の会話が出来ないのでデイルームに場所を移している。周囲に多くの人がいないことを確認して、話した。以前の記事でも書いたが、他の筋疾患患者への配慮だ。筋疾患を強く疑われている患者が、疾患名特定のために検査入院している。進行が止まり、治癒の可能性が高い患者の存在が明らかになると、少々マズいことになる。私は何かのものの弾みで、進行が止まり治癒の可能性が高いのだが、それに導く治療法は謎のままだ。患者に医療サービスとして病院側も提供できないのである。私個人は、神経内科医から見れば食指がわく患者だが、その存在を他の患者には知られたくない病院側の立場もある。矛盾といえば矛盾だが、原因がはっきりしない以上は致し方がない。誰だって、同じ筋疾患患者なのに、他人は治癒して自分は治癒どころか進行する、と知ったら複雑な感情を抱く。運命を呪うほかに、病院にその怒りの矛先を向ける。向けてもどうしようもないことは分かっていても、そうしてしまうのが人の情だ。これも家内に説明した。「パパも大変じゃね」と意味不明の反応だが、私は別に大変ではない。疾患特定され、今後闘病生活余儀なくされる他の患者の今後のほうが大変である。


 私自身も同室内の患者との会話で、このことを悟られないようにしていた。まさか、そんな奇跡の人間はここにるとはさすがに思わないので、そこの部分は上手く隠し通せた。特に家内には、その点を念を押した。まあ、四六時中病室にいないので大丈夫だろうと思った。家内に筋生検の不安を聞かれたが、これはあまりなかった。過去に一度経験しているし、あの痛みと術後の車いす生活さえクリアできればどうということはなかった。1時間近い痛みさえ我慢すれば、今回はその先に明るい未来が待っている。そのための生みの苦しみと思えば、あれ以上の痛みすら我慢できる(たぶん)。そして家内は先走って、最終的な回復についても聞いてきた。これは私に聞かれても「神のみぞ知る」の世界の話で過去に症例がゼロなので、脳神経内科医でもはっきりとしたことが分からない。おおよその診たてでは、封入体筋炎発症前の筋力レベルは望めないとしても、70~80%程度は回復するかも知れない、何年かかるかは分からないとしても。現在の筋回復状態は疾患発症前を100としたら、45%前後。回復現象が出る前は、10~15%、今後もこのペースで進むかも謎だし、ある程度回復したら大幅なペースダウンもあり得る。あれこれ考えても仕方がないので、目の前のことを懸命に消化するしかない、と伝えた。個人的には就労のことも考え、障害者以上健常者未満の中途半端な状態が、一番宙ぶらりんで困る。入院期間中も、独自リハビリの効果が出始め、筋回復傾向は続いている。廃用性症候群による筋委縮など微塵など感じなかった。

 リハビリ開始の時間が近づいたので、家内は筋生検後にまた来ると言って院内を後にした。一人になり退院後の闘病(リハビリ)生活を想像してみた。近場の比較的大きな病院ー脳神経内科がある病院(常駐医はいない)に2~3カ月に一度通院。リハビリは仕事があり週に何度も通えないので、自身の独自のもので十分。障害の程度は、現状の級ー3級より軽くなり5~6級程度。現行の障害者就労は変わらない。これが私が描く、退院後の理想像だった。目前のことに集中したいのだが、周囲がわき立ち、それを許さない状況が生まれつつあった。

 


続く



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シリーズ記事 並行・if世界 封入体筋炎

 このシリーズ記事は、201X年ひょんな事から持病の封入体筋炎の進行が止まり、止まるどころか筋回復現象が起きて、更には別の可能性まで示唆されたという妄想を記事にしている。いわゆるif世界の話だ。現実には絶対にあり得ないのだが、こんな世界もあったらいいな、みたいな遊び心から端を発している。読まれる方は、その辺を差し引いて読んで頂きたい。絶対に、本気に受け取らないように願いたい。


〇前回までのあらすじ

  1.  希少難病の「封入体筋炎」(難病情報センター)を患っていたブログ主は、余命残り15~20年の状態だった。現代医学では如何ともし難く、進行を遅らせることを主眼に治療を行っていた。201X年9月中旬、突然足取りの軽さと安定感、そして上肢の可動範囲向上を感じる。その後も筋回復現象は続き、担当医に進行停止と別の可能性を示唆された。筋回復をアシストするために新たな処方箋薬と、リハビリにいそしむ日々を送っていた。そして再検査入院の手続きを取り、奇跡に向けた準備を始めていた。その奇跡の様子を学会にて報告され、マスコミにも取り上げられた。例年にない希望に満ちた年末年始を過ごし、201Y年が幕を開けた。同年初の通院に向け、リハビリにいそしんだ。筋能力値は5~6年前のレベルに戻った。そして201Y年初の通院に臨む。その診察で、完治の可能性と大まかな検査入院スケジュールを示唆された。2週間後、大学病院の事務方から連絡が入り、翌週再検査入院。懐かしい面々との再会を果たし、初日が終わった。


〇登場人物
○ブログ主(ヒロ)-ミオパチ-系疾患の封入体筋炎発症歴満8年半。年齢は40代後半(50代
 リーチ)。広島市在住。妻と息子の3人暮らし

○家内(妻)-ブログ主よりも8歳年下。性格はやや天然。ただ深い部分では、かなり聡明で
 頭は悪くない。自己主張はするが、基本的には従順。
○リハビリトレーナーWー他のトレーナを統括する立場にある。年齢は30前後。
○初代担当医ドクターTー筋疾患発症1~4年目までの担当医。前回検査入院後、現在の担当医
 ドクターKと謎の交代をした。理由は定かではない。物事をはっきり言わず,、奥歯に詰まった
 物言いが特徴である。年齢はブログ主とほぼ同年代。


35 再検査入院の日々 その2
入院2~3日目の出来事 1



画像1(左)食堂&デイケアルーム 画像2(右)スタッフステーション(ともに広島大学病院HPより)

 再検査入院2日目の朝、6時過ぎに起きた。洗顔、歯磨きをする前に寝起きのニコチン補給に向かう。補給し終わり、病室に戻る。入院時のノルマの2階まで階段使用、そこから8階までエレベーターで戻る。この日の予定は、廃用性症候群予防のリハビリと筋電図検査の2つ。世間の喧騒とはかけ離れた独自空間での日々が本格的に始まる。前回(5年前)は、そのギャップに驚き、退院後元に戻すのに苦労したが、今回は違う。1度経験した上に在宅仕事に就労しているのでそのギャップは少ない。前回よりもより近い日々を送っている。戻ると朝食まで、ストレッチと洗顔、整髪、コンタクトレンズ装着などの普段と変わらない日常を消化する。自身に課したリハビリとて、頻繁に行うわけではない。1日の分量なるものを決めて消化する。回復基調にあるとはいえ、オーバー筋トレは、避けなければならない。

 午前7時になりデイケアルームに向かう(画像1参照)。軽めの朝食を取る。午前の検温、血圧測定まで時間が余る。持ち込んだPCを開き、ブログページを検索。ブログは前年の新聞報道以来、活況を呈している。それまで、アクセスする読者層の大半は広島都市開発系目当てが多かったが、新聞報道後は圧倒的に、闘病記事目当ての読者が増えた。アクセスはこの前後で、日々2,000アクセスを超えていたが、その後収まり、1,000アクセス程度になった。コメントも増えた。概ね、好意的なものが多く、当事者でない場合は激励系の内容だった。時折、やっかみというか妬み系コメントがあるにはあったが、対応するのは面倒なので発見次第、即削除、そしてコメント禁止処置を取った。この種の人間には説明不要で、労力の無駄でしかない。あり余る時間を、ブログ記事更新に充てる。これも再検査入院の目的に1つとした。この種の記事で一番困るのは、記事に貼り付ける画像だ。なかなかタイムリーな画像がないのが悩みの種だ。今回に限っては、それはなかった。院内外に画像撮影のネタは転がっている。撮影目的で前スマホを持ち込んだぐらいだ。副産物としての期待は、画像撮影に動けば日々の活動量増加につながり、廃用性症候群(筋委縮)の予防にもなる。一度回りだした正のスパイラルは、そう簡単には止まらない。再検査入院期間中、撮影場所がなくなるぐらい撮影しまくった。後々、闘病系記事を書くときに、画像探しに困らないようにした。

 朝の検温と血圧検査が終わり、午後の筋電図検査とリハビリまで手持無沙汰となる。リハビリを兼ねて喫煙に向かう。そのほかの時間は、PCと睨めっこだ。やることがないのである。午前に研修医の2人が揃って参上してきた。再検査入院中の担当医ドクターTは、この日の午前は外来患者にかかりきりとなる。二人ともまだ20代半ばで、若い。脳神経内科でも今話題の患者が目の前にいる。問診の雨嵐である。なぜ、封入体筋炎の進行が止まり、筋回復現象に転じたのか? これを探ろうとする気満々だ。いくつかの偶発的なことが重なり合い、その結果そうなったとしか言いようがない。奇跡に近い偶然の産物だが、その原因を探求することで、他の封入体筋炎患者の治療の一助にしたいのだろう。何か特別なことをやって、こうなったわけではない。自発的には何もしていない。力になりたいのだが、こちらも的確なことが言えない。ただ日常の過ごし方などは事細かく説明した。


画像3 広島大学病院の診療棟(手前)と入院棟(奥)の様子(広島大学病院HPより)

36 再検査入院の日々 その3
入院2~3日目の出来事 2



動画1 
神経内科学 臨床検査シリーズ 第4巻 針筋電図検査

 昼食後の13時半、病室に看護師がやってきた。これから筋電図検査を行う、と伝えにきたのだ。前回入院時、前日の予定通り検査などした試しがなく、時間がずれるのは当たり前で、下手したら翌日にスライドしたことも多かった。今回もそんな感じだろうと漠然と考えていた。ただ予定通り事が進むのは悪いことではない。8階の処置室に急いで向かった。入室すると、担当医と研修医の3人が、私を待っていた。ここでは針筋電図検査について説明する。平たく言いうとこの検査は、筋肉の異常が筋肉自体の異常なのか?それとも神経由来なのかを調べる検査である。
個々の筋肉の変化が、判定できる針電極法が一般的で、細い針を適切な筋肉部位に刺して、検査する。ただ、鈍痛のような痛みが走る。針を深く刺したまま、筋肉の動きを調べる。その際にその動きを見るため、刺した部位を動かす。それで痛みが生じるのだ。痛みと言っても筋生検に比べれば、こんなもの痛いうちに入らない(笑)

 検査部位は四肢(左右の手足)である。長~い針を左足の甲の部分から刺し始め、検査開始。この検査自体は3回目。もう手慣れたものだ。 検査部位が次第に上に移動する、左が終わると今度は右からリ・スタート。動かすたびに、鈍痛が走るが「うっ!」とうめき声が少し出る程度のものだ。検査は1時間で終了。医師3人が口を揃えて「お疲れ様でした!」と言う。気のせいかもしれないが、以前より扱いが良いのだ。普段の担当医ドクターKは、現在の所属が国立呉医療センターで、週一度の午後だけ広島大学病院へ出張診察に来る。要は広島大学病院のスタッフではない。その辺の温度差みたいなものがあるのだろうか?素人なので、詳しくはよく分からない。特別待遇を受け入ている気がして、いい感じである(笑)見方を変えれば、格好のモルモットでもある。こんな検体、滅多にお目にかかれないのだから。モルモットでも、疾患が治れば別に構わない、というのが私の基本スタンスだ。タバコを病室に取りにいった。15時からリハビリ訓練が入っている。5階のリハビリ室に向かった。
エアロバイク・トレッドミルの有酸素運動中心のメニューを消化した。トレーナー曰く、筋回復の状態を見極めるまで比較的軽めのメニュー構成で行くとの事だった。私自身、物足りなさMAXで正規の施設で訓練できる少ない機会なので、もう少し時間を割いてほしいのが本音だった。その気持ちをトレーナーW氏に伝えた。自分の一存では、どうにもならないので聞いてみる、と保留されたが、顔色を見ると半分同意している。時間はすでに16時を過ぎていた。前回のニコチン補給より、6時間以上が経過。カラータイマーが(ニコチン補給注意報)が鳴っている(笑)。なので、いつもの喫煙場所に向かった。

 ギリギリでニコチン補給を済まし、1~3階まで階段昇りで病室に戻る。大きな検査が入ると、本当に時間が経つのが早い。17時になり、ドクターTに呼び出しを食らう。先ほどの処置室に慌てて向かう。入るなり彼はこう言った。「筋電図検査で見た限りだと、筋肉の異常性はありません。当然、神経性の異常もなく極めて良好な動きを示しています。5年前とは明らかに違います」 彼のこの発言は、暫定封入体筋炎治癒宣言ともいえた。ただ、あくまでも「暫定」の前置きが入る。そしてこう続けた。「最終的な判断はやはり筋生検になりますが、別の可能性がより高くなったことだけは事実のようです」と。奥歯に詰まった物言いがその特徴の彼が、ここまで踏み込んだ発言をした。一連の流れから既定路線だが、いよいよ現実味が増し、妄想の世界の話が現実のものになりつつある。軽い興奮を覚えたが、まだ最終決定ではない。これを引き締め材料とした。明日は家内が、見舞いに来るのでどう伝えよか、それを考えていた。自分に訪れようとしている幸運が少し怖くなった。封入体筋炎をはじめ、他の筋疾患で、まだ生きていたいという希望を持ちながら、死を迎える多くの患者に申し訳ない気持ちが、心の片隅にあった。




続く



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