封入体筋炎患者闘病記

 封入体筋炎患者のヒロです。病歴は2019年で満11年、12年目に入りました。在宅勤務の仕事とリハビリの日々を送り、細やかながらも家族3人で暮らしています。ブログ記事は闘病記と広島地元ネタ、社会保障などの時事ネタ中心です。希少疾患の封入体筋炎の周知が目的です。関心があれば、ツイッターなどでご紹介していただければ幸いです。疾患関係で直コメントが苦手の方は、ツイッターのダイレクトメールを利用してください。封入体筋炎の闘病史は各進行段階の症状や生活障害、必要な社会保障制度等をまとめています。良ければ参考にしてください。最新の封入体筋炎の状況は『近況について色々と』、取り組んでいるリハビリについては『2019年春~夏 筋疾患(封入体筋炎)リハビリ』にて素人の体感目線で書いています。モバイル版で読みにくい場合は、PC版に転換してからお読みください。

Category:ブログ主の趣味 日本の城 > 安土城

前回記事 ブログ主の趣味 日本の城 安土城 その1
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広島の都市問題 広島城の活用 


 これは別のいつもの考察系記事ではなく既出のものを拾い上げ、多少のブログ主の主観or客観を交え書いている。前回は
安土城の今と在りし日の姿を途中で終わっているので、山頂の姿をまず先にお伝えして、最後は簡単なまとめを書きたい。


画像1 現在の安土城位置図 琵琶湖の西の湖畔の水城だったが明治以降、干拓が進み当時の面影はない(近江八幡市HPより)

4 安土城の今と在りし日の姿 その2
各山頂曲輪
群 黒金門・二の丸・本丸・天守閣などなど~


画像2 特別史跡安土城跡平面図 ブログ主一部加筆(滋賀県HPより)


画像3 大手道より山頂曲輪全体を望むユーチューブ VR安土城シアター ダイジェスト 製作・監修 近江八幡市より )

安土城の安土山各曲輪などの地形模型 その2


画像4 安土城地形模型山頂主要曲輪拡大版(安土城考古博物館) ユーチューブ画面撮影より

5⃣ 天皇行幸用ジグザグ道・尾根道 


画像5 直線大手道を昇りきると一転して西へ90度曲がりこの道に入り尾根道に至るユーチューブ画面撮影より)

 大手道は大手門跡付近から180㍍ほど幅6㍍の直線道が続き、その後、現在の総見寺-1854年移設 旧徳川家康邸宅跡 を過ぎると西へ90度曲がりジグザグな道が続く。当時はこの道は使われておらず、天皇行幸用とされていた(推測)。ジグザグ道が終わると左手に織田信忠(信長嫡子)と森蘭丸(信長側小姓)の各邸宅跡が見え、尾根道(下記画像6)入り口に。この道を昇りきると、安土山頂の主要曲輪入り口に当たる(現在)黒金門と続く。当時は百々橋口からの登城ルート(現在閉鎖中)で、大手道口からはこの尾根道はあまり使われなかった。


画像6 現在の唯一の登山ルート(大手道コース)で、黒金門へと続く(ユーチューブ画面撮影より)

6⃣ 黒金門


画像7 登城石段から見た黒金門跡の様子ユーチューブ画面撮影より)


画像8 黒金門跡の枡形石垣ユーチューブ画面撮影より)

 尾根道を昇りきると安土山頂主要曲輪に入る。東西180㍍×南北100㍍の敷地には本丸、二の丸、三の丸などで構成されていた。主要曲輪群と言うだけあって他の区画よりも大きな石材を使い、一層高く幾重にも組まれ、複雑な曲輪構成となっているのが特徴だ。この主要曲輪の高石垣の裾を幅2~6mの外周路がめぐり、山裾から通じる城内道と結ばれ、外周路の要所には、隅櫓・櫓門等で守られた入り口が数カ所設置されていた。。この黒金門は、城下町と結ばれた百々橋口道・七曲口道からの入り口にあたった。八角平曲輪以外は1995~2000年にかけて発掘調査されたとの事だが、大手門跡周辺や大手道の整備・保存状態と比べ、お世辞にも良好とは言い難い。ファンの一人として、せめて、主要曲輪内の木の伐採くらいはしてほしいと思うのは、強欲だろうか?

7⃣ 二の丸


画像9 安土山頂主要曲輪の縄張り図(現地説明版より) 鮮明図

 黒金門(上記画像9左端)を過ぎると二の門跡(下記画像10右側石垣付近)となりその左手が二の丸となる。三の門跡(下記画像10中央石垣付近)跡付近の左手の石段を昇ると、低い石垣で区分されその上段部が二の丸跡となる。かってはこの場所に奥向き用(?)の二の丸御殿が造営され天主御殿と連結されていた。他には二重櫓と連結する多門櫓があったと推測されている。現在はこの場所には、織田信長公本廟(下記画像11参照)がある。


画像10 左側手前の石垣は二の丸跡、遠方中央の石垣は本丸の三の門跡、右手の石垣は二の門跡となる(ユーチューブ画面撮影より)


画像11 二の丸内にある織田信長公本廟の様子(ユーチューブ画面撮影より)

8⃣ 天主台(天主御殿跡)


画像12 本丸跡からみた天主台の様子(ユーチューブ画面撮影より)



画像13 天主台内部から見た礎石の様子(ユーチューブ画面撮影より)

 安土城が、近世城郭の先駆けとされた理由の1つに天主(天守閣)の存在がある。一般的には城郭の象徴ともいえる天守閣の起源は、織田信長が築いた岐阜・安土両城とされている。ただこれには諸説あり、それ以前の時代にも類似する建築物が存在した。1469前後の江戸城にあった太田道灌の静勝軒、伊丹氏の居城伊丹城、また松永久秀が築いた大和多聞山城信貴山城の四階櫓などである。古文献でその存在は確認できるが、詳細は不明である。ただ学術的な論争はさて置き、城郭に天主(天守閣)がその象徴として造営され始めたの岐阜・安土築城以降なのでこの記事では、織田信長が歴史上初の認識で話を進める。安土城の天主の存在は広く知られてはいたが、僅か3年で焼失し、その姿を伝える屏風が海を渡ったこともあり、その姿が長らくベールに包まれていた。1940~41年にかけて、天主跡初回調査が行われた。この時に、天主登口が発見され、天主台が不等辺八角形で石蔵内部は不規則なる六角形の平面を持ち南方八間半、北方約十間あり、且ほぼ平行している事が分かった。この平面内に東西十列、南北十列、縦横共推定柱眞々六尺九寸間隔に礎石が配列されており、中央部には当初より礎石がなかつたことも判明した。三菱財閥2代目の岩崎彌之助の手で静嘉堂文庫が蒐集され、その中にある「天守指図」が、この時の調査と外形がほぼ等しい事から、安土城のものとされた。今なお続く安土城天主復元論争の設計図がこれとなっている。1995~2000年の2度目の調査では、本柱に伴う側柱の礎石や礎石抜き跡が新たに数カ所確認された。この記事では、最新の2005年発表の佐藤大規氏案(下記画像14参照)を取り上げる。理由は最新の調査結果を最も反映していると思われるからだ。この復元案の詳細については 復元詳細1 復元詳細2 復元詳細3 復元詳細4(全て要拡大)を参考にしてほしい。この復元案を要約すると、五重六階地下一階、天守台石垣上の高さは約33㍍、後の姫路城とほぼ同じで現在のビル換算だと十階建て以上となる。

 安土城以降の天下普請の城郭-豊臣大坂城、伏見城や江戸城、名古屋城、徳川大坂城よりも低いが、現在の天下人が前時代の天下人が築いたものよりも大きなものを造るのは世の常だ。この辺は仕方がないだろう。安土城天主の特徴として城主が居住することだが、これは後の大坂城など近世城郭初期である織豊政権時に造営されたものに多く見られる傾向だ。徳川期になると太平の世となり、本来の役割であった軍事・居住・象徴の3機能のうち軍事と居住機能が省かれ、政治、行政といっった政庁機能の比率が高まった。一国一城令(天守建設許可制)や徳川第将軍3代家光の武家諸法度(原則禁止)の発布以降、高層天守造営は大きく制限を受けた。天守台はあるが造営されなかったり、五重の予定を変え実際には低く造営したり、火災で焼失して財政上の理由で再建されなかったりなど様々だが、17世紀半ばに入ると既に無用の長物と化していた。その多くは適地にある三重櫓を「ご三階櫓」と称して代用させていた。安土城天主は城主の居住機能の大半を担っていた。後の豊織政権時の天守が居住機能を有しながらも、あくまでも補完機能に過ぎなかったのに対して安土城のそれは違った(豊臣大坂城は例外)。山頂曲輪の敷地の制限もあるが、何に重きを置いて造営されたのか?何となくだが窺い知れる。


画像14 安土城天主御殿CG復元図(日本の城5⃣改訂版の撮影画像より)

9⃣ 本丸跡と三の丸跡


画像15 本丸跡の様子 分かりづらいが画像中央に高石垣があり、そこが三の丸跡になる(ユーチューブ画面撮影より)

 天主台を眼前に仰ぐこの場所は千畳敷と呼ばれ、安土城本丸御殿-行幸の間があったとされる(南殿)の跡と伝えられてきた。東西約50㍍、南北約34㍍の東西に細長い敷地は、三方を天主台.本丸.帯廓三の丸の各石垣で囲まれ、過去の2度の調査でも東西約34㍍×南北約24㍍の範囲で碁盤目状に配置された119個の建物礎石が発見されている。この本丸御殿は天皇の御所の内裏の清涼殿と酷似したものだったと言う。大田牛一書の「信長公記」には天主近くに「一天の君.万乗の主の御座御殿」である「御幸の御間」と呼ばれる建物があり、内に「皇居の間」が設けられていたことを記されている。本丸にはこの御殿の他に、二重櫓複数と御殿と天主御殿を結ぶ渡櫓(?)、三の門などの櫓門など多くの建物があった。本丸の隣接する一段高いところ(上記画像15参照)に、三の丸があった。この場所は家臣屋敷があったとする説もあるが、この記事では、主が住む場所より高いところにある筈もないとする。江雲寺御殿が造営されていたと推察する。三の丸下には台所や米蔵が配置されていた。天主など主要曲輪の北側に八角平曲輪がある。ここは平成の調査でも手つかずの場所で、今後の調査に委ねられた。
 
A 総見寺跡


画像15 総見寺跡に現存する三重塔(ユーチューブ画面撮影より)


画像16 夕暮れ時の在りし日の総見寺の様子(ユーチューブ VR安土城シアター ダイジェスト 製作・監修 近江八幡市より )

 総見寺跡につい失念していたので書きたい。総見寺は、織田信長によって安上城内に創建された本格的な寺院で、天主と城下町を結ぶ百々橋口道の途中にあるため、城内を訪れる人々の多くがこの境内を横切って信長のところへ参上したことが数々の記録に残されている。1854年に惜しくも伽藍の中核部を焼失してしまった。その後、大手道脇の伝徳川家康邸跡に寺院を移し、現在に至るまで法灯を守り続けている。平成の発掘調査でも旧境内地の全域から時代を異にする多くの建物跡が発見された。敷地内に三重塔(上記画像15) 、仁王門、金剛力士立像が現存する。


画像17 観音寺城方面(安土城左側から)から望んだ安土城全体の様子(ユーチューブ VR安土城シアター ダイジェスト 製作・監修 近江八幡市より )

5 最後に
もし本能寺の変がなかったら?

 「信長公記」によると、信長はこの安土城を居城の最後とするつもりはなかった。中・四国平定後(1583年頃?)、天下布武の覇府として大坂築城する意思があったと伝えられる。時の政治状況で居城を移転させておりその例に倣うと思われる。織田政権の大部分を継承した豊臣政権で実現した。大坂築城の構想は、安土築城開始以前(1576年~)よりあったが、信長の最大の抵抗勢力である石山本願寺がこの地に存在した。旧石山本願寺跡が織田氏所有となったのは1580年8月。道半ばで横死したので想像するしかないが、征夷大将軍または関白赴任後、大坂築城、本丸、二の丸、西の丸などの主要部分が完成。その後職を嫡子の信忠に譲り、後の徳川家康の駿府城同様に隠居城としてこの安土城を今一度拡張・改修して活用した筈、と推測する。安土の地は現在の姿をみても分かるように、現代の大都市に発展する要素がこの当時からも少なかった。琵琶湖の水運は利用出来たが、海に面していないので海外との交易は難しい。安土山の背後は琵琶湖の西の湖でその反対側は湿・沼地帯が多かった。右手側は近江守護だった六角氏の居城があった観音寺山や箕作山が連なっており遮っている。、南部もまた同様である。城下が発展するには、西方面に細長く伸びるしかない。発展性に限界を感じる場所である。本能寺の変がなく織田政権が継続したとする。構想通り、大坂城が織田政権の拠点となり実質、首都化。安土は築城当時の戦略価値を失い、豊臣政権下におる大和郡山城や徳川幕府における甲府城的な存在になっただろうと推察する。それでも現在の感覚でいえば、人口20万人台の県庁所在地ぐらいには発展したかも知れない、安土山麓に広がる田園風景を見てそう思った次第だ。

   
終わり



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1 戦国山城や織豊政権の城郭には夢がある(笑)


画像1 安土城の山頂の各曲輪の様子を百々橋方面(西)から望んだ姿(ユーチューブ VR安土城シアター ダイジェスト 製作・監修 近江八幡市 より )

 広島城の記事の時も書いたが、マニアまではいかないが、かなりの城好きである。徳川期の城郭も好きだが、前時代の織豊政権時や戦国期の山城、さらにその前時代の室町期の守護館、足利将軍家の居館だった「花の御所」など発掘調査が必要とされるものが特に食指を誘う。その中でも豊臣大坂城、聚楽第、伏見城や織田信長の安土城は別格だ。織豊政権時の城郭が好きな理由に、建造物が残らず地下に深く埋まっていることに何かロマンを感じること。次は、徳川期に築城された城郭と異なり、縄張りが複雑かつ緻密で実践前提を考慮されていること。織豊政権時の城郭は、戦国期山城からの移行期でもありその設計思想が一部残り、徳川期城郭に見れられる機能美の雛形と混在している。徳川期は政庁機能の要素が非常に強いが、織豊政権時は当然その機能もあるが権威の象徴、先に話した実戦前提の縄張りで軍事要素も。そして、現在の都市につながる城下町の形成などもブログ記事内で、都市問題を取りあげる私の趣向に一脈も二脈も通じる。

 織豊政権時の城郭は、前時代の戦国期山城よりも巨大化している。昆虫で例えると、室町期の守護館、戦国期山城が幼虫とすれば織豊政権時の城郭はさなぎ。徳川期城郭は成虫かも知れない。今日取り上げる織田信長が築城した安土城は、織豊政権・徳川期の近世城郭(平城、平山城)のパオイオニアともいえるものだ。安土城は築城後10年経ずして廃城となった。その当時を偲ばせる安土城屏風(狩野永徳作)もローマ法王に贈ったとされるが、現在は粉失してないらしい。旧安土町時代(現近江八幡市)1984、2005年の二度調査団を送ったが、見つからなかった(献上記録は確認済み)。これが専門家諸氏による天守閣論争の原因となっている(天守指図は現存)。これまたロマンを感じる。昭和に入りようやく発掘調査がされ、1989~2009年にかけて大々的に発掘調査が行われた。近年のCG技術の進捗でその全容が明らかになりつつある。今日はそのパイオニアの安土城を探ってみる。

2 安土城の歴史と果した役割


画像2 現在の安土城位置図 琵琶湖の西の湖畔の水城だったが明治以降、干拓が進み当時の面影はない(近江八幡市HPより)

画像3 安土城と城下町鳥瞰図(ユーチューブ VR安土城シアター ダイジェスト 製作・監修 近江八幡市より )

◎概要と果たした歴史的役割

 安土城建設前の安土山(目賀田山 標高199㍍)には、当時明智光秀の配下で、近江守護佐々木氏(六角氏)に仕えた御家人格の目加田(目賀田)氏の居城であり、観音寺城の支城であった目加田(目賀田)城があった。 織田信長に安土城建設のための用地提供を要請された目賀田貞政は信長に明け渡した。1576年、信長築城を開始。普請奉行木村高重、大工棟梁には岡部又右衛門、縄張奉行には羽柴秀吉、石奉行には西尾吉次、小沢六郎三郎、吉田平内、大西某、瓦奉行には小川祐忠、堀部佐内、青山助一があたった。築城目的は、岐阜城よりも当時の首都だったに近く、琵琶湖の水運利用、加えて北陸街道から京への要衝に位置していること。北陸の一向一揆や上杉氏への備えなど政治的な事情もあった。城郭の規模やその外観は、天下布武(信長の天下統一事業)の権威の象徴として畏怖させる目的もあった。1579年5月、完成した天主に信長が移り住む。全体の完成は1580年の暮れで、それを記念して1581年正月に安土馬揃えが行われている。

 この安土城、近世城郭の新たな幕開けとなる要素を多分に含んでいた。総石垣づくり、日本初の石垣に天守閣(地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートル)の上がる城、城下町と一体化した都市計画など防御主体の戦国期山城が主流の時代にあって、軍事のみならず、行政・商業都市機能を併せ持たせた。旧来の戦国期山城では領主の一族一門衆、上級武士のみが屋敷を構え、それ以下の武士は領地内に小規模な屋敷を構え半農半士だった。それを直臣化の兵農分離を行い、城下に住まわせた。武士人口を増加させ、中世以降勃興していた商工業の発展のため楽市楽座を導入した。 ~安土山下町中掟書~(彦根市HP) 楽市令は近江の守護大名六角定頼が最初で、別に信長の発案ではない。安土城以前の居城だった岐阜城、家臣が築城した長浜城、坂本城でもこうした要素は取り入れられていたが、規模において次元を異にした。その規模は僅か6年で廃城され、その機能をお隣の近江八幡山城下に移されたので、想像の域を超えないが当時の文献で窺い知ることができる。前居城の岐阜城下が、信長の岐阜入城二年後(1569年頃)に同地を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、町の様子を「人口は八千ないし1万人、バビロンの混雑」と本国に報告している。その当時とは、支配地域も抱える家臣団の規模も違うので岐阜城下以下とは考えにくい。近隣の近江石場寺地区が『長享年後畿内兵乱記』によると、1563年に石場寺家屋3千家屋焼失とあり、推定人口1万5千人。『イエズス会日本通信』によると、1581年の安土城下町は5~6千人の住民がいるとの記載があるので計2~3万人規模だったと推測する。後の時代の城下町と比べると、かなり少ないが、この時期多くの戦場を抱え織田家の兵力(武士)が中国、北陸、関東など多方面に分散しており、安土常駐の武士人口が少なかったことも影響している(と思う)

 楽市楽座のイメージは現代の規制緩和や特区に近い。現実は流通機構を寺社・公家勢力の支配から切り離し直接統治。寺社門前町や宿場、農村に散在する商工業者を城下に集住させ、『兵農分離』と共に『町農分離』させることもあった。関所の撤廃も流通の阻害要因の除去でもあるが、寺社・公家勢力の権限剥奪、武士政権下に置くことを主目的としていた。信長は分国内の家臣大名にもこの政策を徹底させた。安土城が1つの導入モデルとなり、家来の各大名が類似した城郭と城下町を建設、織田政権をそのまま継承した豊臣政権でも、豊臣大坂城(元々信長の構想にあった)は安土城を意識して築城され、その後聚楽第、肥前名護屋城、伏見城と続いた。豊臣政権下の各大名はその影響を受けた。特に豊臣子飼いの大名、旧織田系大名にその傾向が強かった。ただ残念なのは、全国平定後(1590~)、2度の朝鮮出兵や天下普請-各大名家が豊臣家直轄の城普請をすること の手伝いで各大名家は、莫大な出費を強いられ自身の新機軸の新たな城郭、城下町建設は後手に回った。畿内、北陸、東海、中国、一部九州にとどまり、経済力で劣る東日本には伝播しなかった。旧来の城郭に近世城郭の新機能を加えた改修で、お茶を濁す例も多々あったが、天下普請の手伝いにより最新技術が全国に広まった側面はあった。これが後の近世城郭の徳川期城郭に発展する。

 安土城は1582年の本能寺の変から12日後、天守と本丸部分が火災で焼失した(理由は諸説あり)。清須会議で織田家当主となった織田秀信(信長嫡孫)が二の丸に居を移し、しばらく在城した。1585年、豊臣秀吉の甥、羽柴秀次(のちの豊臣秀次)が安土の隣地の八幡山に築城、城下町造成に伴い、安土城と城下町の機能を全てこの地に移され廃城となった。後年のこの地から数多くの近江商人を輩出した。
安土城はその近世城郭発展の端緒となった。安土城⇒豊臣大坂城(安土城を強く意識)⇒江戸城(豊臣大坂城を強く意識) となりその影響を受けた各大名が城郭・城下町を建設して現在の都市の源流となった。それを思うとこの城が歴史的に果たした役割は非常に大きい。

-1⃣ 戦国(中世)期山城から平・平山城に移転した一例(織豊時代)
◎吉田郡山城⇒広島城(毛利氏) ◎小谷城⇒長浜城(浅井氏⇒羽柴氏) ◎一乗谷城⇒北ノ庄(福井)城(朝倉氏⇒柴田氏) ◎天神山城⇒岡山城(浦上氏⇒宇喜多氏) ◎一宮城⇒徳島城(長曾我部氏⇒蜂須賀氏)◎馬ヶ岳城⇒中津城(長野氏⇒黒田氏) ◎筒井城⇒大和郡山城(筒井氏) ◎七尾城⇒小丸山城(能登畠山氏⇒前田氏) ※古くからあった砦、城郭を拡張・改修して居城にした場合も含む

-2⃣ 戦国(中世)期山城から近世山城に昇華させた一例(織豊時代~)
◎竹田城 山名氏(1431年頃)築城⇒赤松氏(1580年代?)拡張・改修 ◎高取城 越智氏築城(1332年頃)⇒筒井(1584年~)・本多氏(1589年~)拡張・改修 ◎津和野城 吉見氏築城(1295年)⇒坂崎氏(1600年代初頭~)拡張・改修 ◎鳥取城 但馬山名氏築城(1532年~)⇒吉川氏(1580年代初頭~)・池田氏(1600年代初頭~)
拡張・改修 ◎備中松山城 秋庭氏(1240年)築城⇒水谷氏(1680年代~)

3 安土城の今と在りし日の姿 その1
大手前付近・大手道・百々橋


 次の項目3と4では、ユーチューブ画面撮影画像を使い安土城の各曲輪の現状と在りし日(1581年頃)のCG復元画像を並べ、そして簡単な説明も加え進める。

安土城の安土山各曲輪地形模型


画像4 安土城地形模型(安土城考古博物館より) ユーチューブ画面撮影より

1⃣ 大手門跡と大手口の様子  


画像5 大手門跡と大手口の空撮図(ユーチューブ画面撮影より)

 かってここには、最大幅100㍍程度の広大な内堀があった。すっかり埋め立てられたリ、水田化され堀跡の区画で往時を偲ぶしかない。大手門付近の東西110㍍は累々と続く石塁が1989~2009年の発掘調査・周辺の石塁の復元で明らかになった。画像4-1⃣が大手門とされ、大手門を含む4ヵ所の虎口(ウキペディア)があった(画像5参照)。西虎口2(櫓門)-西虎口1(薬医門or唐門?)-大手門(櫓門)-東虎口(薬医門or唐門?)で南側の防御線を構成していた。これより少し先の百々橋方面にも南山裾帯郭の虎口も2カ所発見され、大手門付近の虎口同様に復元された。~安土の歴史散歩つ風景 安土山の全貌~ 特別史跡安土城跡の調査と整備~(滋賀県HP)


画像5 安土城西虎口の石塁(復元)の様子(ユーチューブ画面撮影より)



画像6 1⃣の往時(1581年頃)大手道側からみた大手門の様子(ユーチューブ VR安土城シアター ダイジェスト 製作・監修 近江八幡市より )

2⃣ 大手道の様子
 
 大手門から総延長180㍍、幅約6㍍の大手道が続く。羽柴(豊臣)秀吉、前田利家などの家臣団や徳川家康(現総見寺仮本堂)の屋敷が連なり曲輪を形成していた。大手門付近や大手道の各曲輪の発掘調査は、大手門跡付近同様に1989~2009年に滋賀県の手で行われ、詳細が明らかになった。この近隣一帯は整備されて、安土山唯一の登山口となっている。この直線道を昇ると、大手道は現在の総見寺仮本堂-1854年移設 旧徳川家康邸跡 画像7の高台の石垣 を過ぎた辺りから一転して西へ90度曲がりジグザグ道に変わり、尾根道に至る。 


画像7 2⃣大手道の様子 近年整備されただけあって、石垣などは良好な保存状態だ(ユーチューブ画面撮影より)


画像8 2⃣
の往時(1581年頃)の大手道の復元CG(近江八幡市HPより)

3⃣・4⃣ 百々橋及び、百々橋口(現在閉鎖中)
 
 大手道とは異なり信長公記(ウキペディア)で百々橋口だけとしか記述がない。旧総見時跡まで続くが大手道に家臣団屋敷を軒を連ねているのに対し、百々橋口には家臣の屋敷が一軒もない。現在の百々橋は、1956年完成のもので当時のものではない。2006年9月より、安土入山が有料化(500円)に伴い、この百々橋口からの入山は不可能となっている。安土城外堀とされる水路を中心に期間限定(G・W)の「安土城お堀めぐり」が開催されている。



画像9 現在の百々橋付近の様子 唯一往時の湖城の面影を残すエリア(ユーチューブ画面撮影より)







続く。





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