前回記事 あれから6年 当時を振り返る その1
関連記事1 あれから5年 今思うこと
関連記事2 2011年 病名が変わった日
4 自分を見つめ直す好機と捉えた。その2
価値観の大きな変化 その2
画像1 2017年現在の広島大学病院の診療棟と入院棟の様子
『自分を見つめ直す』ことの重要性をよく言われる。言うのは容易いがやるのは難しだ。何もかも上手くいっている時にはその必要性がないし、そもそもそんなことなど考えはしない。ややもすれば現在と過去の自分自身の否定にもなるし、その事への抵抗感も強い。私もそうだった。必要となる状況に追い込まれ、ようやく立ち止まり色々と考える。私もそうしたその他大勢の一人だった。価値観とは、これまでの人生の経験値と環境で醸成されるもので、ある種の成功経験が続くともうそれは少々のことでは揺るがない信念となる。前回記事で、検査入院中に家族の価値を再確認したと書いた。これが変化の第一弾とすれば、第二弾として俗にいう社会弱者の人たちへの認識が変わった。封入体筋炎発症前、発症後の数年間はこうした人たちが周囲にいなかったので、特に意識することもなかったが改めて問われると、差別とまではいかないが自分とは違う世界の人たち。と区別-差別意識の一歩手前 していた。多様な生き方や価値観を表面上は認めるそぶりを見せながらも、自身を上位に置いていたことは否めなかった。この場合も弱者とは障害者や高齢者、世間一般的な考え・価値観を持たない人たちを指す。少数階層に属する人たちのことだ。さらに深堀りすると、強烈な自分教-能力・努力・結果 信者で競争大好き人間だったので競争の場から落ちこぼれた人間などはあからさまにバカにしていた。態度にこそ出さなかったが、家内曰く節々の言葉尻や表情でそれとなく出ていたらしい。特に後者は、競争こそ人間を進歩させる源泉と痛烈に割り切っていたので、私の価値観の最大なるものかつ、教義そのものだった。弁明ではないが、大学卒業後厳しい競争社会に身を置き、金融業に従事していたので数字とお金が絶対の特殊な世界にいたことも大きな影響を受けた。
この業界は、現在働き方改革で残業がない就労を理想とする社会の実現が議論されているがそれとは真逆の世界。ただ、同年代のメーカー勤務のサラリーマンよりは所得が高く職種柄、間違った選民意識が植えつけられる。2000年、活躍の場を地方の金融機関に移した私は多少それも薄らいだが、拠り所となるコアの中には多く残っていた。それが20代前半~40代半ばまで続いた。検査入院当時(2011年10~11月)、その意識がずれて違うことを認識させられた。入院患者の多くは、60代以上の高齢者。しかも入院部屋があった8階西エリアは、脳神経内科患者専用。いわゆる難病の類の患者ばかりで、私がいた6人部屋のうち3人が筋疾患-ミオパチー系疾患患者だった。そして他を覗くと明らかに障害者然とした人も多く、別天地に放り込まれた気分だった。この当時、発症4年目で生活障害(ADL)は今ほどではなく、障害者手帳取得で障害者枠での再就職を視野に入れていた。就労のために方便の1つと自身に言い聞かせてもいた。これまで、自分とは違う世界の人たちと区別していた人たちの輪の中に入り、寝食を共にすることで自分を見つめ直した。検査入院当時の記事でも事あるごとに書くが、この空間は世間の喧騒とは完全隔離された異空間そのもので、ポジティブに受け取ればうってつけの場所だった。翌年(2012年)の4月には、障害者能力開発校に進むが様々な身体障害者を知るに至り、更に見聞は広まりこれまで一方に偏っていた価値観はほぼ浄化された。
画像2 広島大学病院入院棟レイアウト図 HALリハビリで足繫く通うリハビリ科は5階、検査入院した時は8階西エリアの806号室に入った。
5 自分を見つめ直す好機と捉えた。その3
価値観の大きな変化 その3
高齢者や障害者、そして治療法が確立されていない難病患者、いずれも世間では多数派階層ではない。それぞれの立場や置かれている環境で、信じて疑わない価値観を醸成する。こうしたものの価値観の〇✖論は不毛かつ無意味なものだ。世間の人間が皆等しく同じ生活環境にいる訳ではない。良い意味で人それぞれで様々。画一化された物差しで計るのはナンセンスだ。例えば、一つの目的を達成する集団組織(会社など)であれば、異論は言語道断だが人生-生き方とかの話まで広げるとまた別のものになる。特定の国、地域や階層を攻撃したり、卑下したりするものではない限り構わないと考える。21世紀に入り、人々の多様性を認め合う流れが定着しつつある。欧米先進国では、ごく当たり前で普通の考えだがアジア、いや日本でもその考えが広がってきた。一昔前までは、一部の人権意識の高い方々だけの占有物だったがそれも過去のものとなりつつある。検査入院当時(2011年10~11月)、価値観の変化をここまで深く意識していた訳ではない。変化のきっかけを掴んだに過ぎない。しかし、考える時間は無限にあった。文頭に書いたか現在過去の否定に対する抵抗感は、不思議となかった。反省の色も濃かったが、同時に新たな自分にポジティブに生まれ変わる高揚感もあった。『新たな自分への挑戦』、この端緒となったのが検査入院だった。『清算』『リセット』etc・・・。行動と結果さえ伴えば、言葉は何でも良かった。
他の闘病系記事で何度も繰り返しているが、2011年10月当時は発症4年目で生活障害(ADL)は2017年現在との比較では、軽微なものだった。当時は深刻にそれなりに受け止めていたが、走れない、重量物を持てなくなった。疲れやすくなり、休日前の疲労度が生半可ではない、ぐらいで健常者としての限界は超えつつあったが、障害者と捉えれば微妙だった。経済的な必要性もあったが発症前の就労形態は継続した。デスクワークで作業服仕事とかではなかったので、継続が可能だった。広義ではこの時期も闘病生活ではあったが、自分が難病患者という意識は転倒した時ぐらいだった。真摯に筋疾患と向き合っていたか問われると、『はいそうです』とは言えなかった。結果論だが、筋疾患を遅らせる意味合いではプラスに働いた。発症前の活動量維持は、メンタル面の影響もそうだが、廃用性筋委縮-使わなくなることで引き起こす筋委縮 を予防したからだ。発症初期や前半戦の残筋肉量で廃用性筋萎縮を予防する場合、リハビリや室内だけでの日常活動はだけでは心もとない(と思う)。生活スタイルの大きな変化のたびに廃用性筋委縮を感じた経験がある私は、患者としての信念に近い。ただそろそろ、中盤戦を控え、発症前のスタイルを捨て筋疾患患者モードへの切り替えが迫っていた。従来の価値観を持ってのそれでは、嘘になりそうだし痛い人になる。
画像3 仲の良い家族のイメージ図(かわいいフリー素材集いらすとやより)
今まで本尊のように尊び、教義のように心のよりどころとしていたものを捨て、新たな価値観を見出しその代役にする。言葉で聞くとさぞ難しそうな印象が強い。私も苦戦すると思っていた。しかし、意外と容易かった。背負っていた腰が砕けそうなくらいな重い荷物を減らし、発想を少し変えるだけで事足りた。偏った価値観を醸成した環境を遠ざけ、今現在、そして将来の自分に見合った環境に身を置き、その環境で生きている人たちを係るだけで、少しづつだが変わっていった。完全に忘れ去っていたが、元々が環境に順応するのが早く得意だったことを。今回記事の題材の検査入院は2011年秋~初冬の出来事。もう6年が経つ。当時小学校5年だった息子は高校2年生になった。以前も書いたが、ご近所さんから我が家は明るいとよく言われる。一家の柱足る家長の私が、生命予後ほぼ不良の難病なのになぜ? である。無理に作り笑顔で過ごしている訳ではない。これでは痛過ぎる人だ(笑)。最大の理由は、健康は人の何倍も困りに困っているが経済的にはあまり困っていない事。『貧すれば鈍する』という諺があるが、この場合は『貧さなければ、決して鈍することはない』である(笑)。検査入院から退院した数か月後、前の仕事をやめた。その時期に、実母に管理を任せていた実家絡みの不動産収入を、私が直接管理するようにした。不動産名義は私だったが、何故か収入は実母の口座に(笑)。これを私の口座にした。
当時は障害年金受給など頭の片隅にもなく、光熱・通信費とマンションローン支払いの助けとなった。2012年は障害者能力開発校に1年間通校した。雇用保険が主な収入源だったがこの時期が一番経済的には大変だった。2013年初頭から障害年金が加わり、楽になった。今はそれを思うと経済的には楽で暗くなる必要がない。世の中お金が全てではないが、理想とする生活を維持する経済力はやはり必要だ。人間切羽詰まると余裕がなくなる。これが理由の一つ目。次は、家内がそんなに背負い込まない性格なのも幸いしている。私も基本的は楽天家だが、家内のそれは私よりも桁一つ上回る(笑)。むしろ、家内の言うことを不自然に聞かない息子に対してよくイライラしている(笑)。最後は、私自身の当たりが柔らかくなったと言うか、背負う荷物を軽くして自然体に近づいたことも大きい。良くも悪くも影響力があり過ぎた。『話しやすくなった』『良い感じになった』と家内と息子によく言われる。意識して心掛けたことは一度もないが、家庭人として見た場合良い方向に流れているのは確かのようだ。社内の立身出世のバトルと残された寿命とのバトル、客観視すれば後者のほうが重く深刻な筈だが現実は逆になっている。歴史のIF世界のカルトチックな話となるが、『もし私が筋疾患を発症しなければどうなっていただろうか?』これは疾患発症直後、よく妄想したが少なくとも今よりは暗い家庭になっていただろう。進行を確信した時は暗澹(あんたん)した気分にはなるが、その日のうちに回復する。恐怖を克服したのではなく、正確には慣れたが正しい。検査入院後、身体機能障害5級に2013年夏には3級となった。2013年夏時点では、軽めの重度障害と知り驚いたがここ1~2年は実態が級に完全に追いついた。出来ないことや助けを求める場面も増えた。家族は嫌な顔一つしないで助けに飛んでくる。家族の日々の助けには本当に感謝している。つくづく人間は一人では生きていなのだな、と実感する。週に二度通院しているHALリハビリも家内と妹がサポートしてくれる。封入体筋炎の疾患環境は相変わらずで、予断を許さない。冷静に考えて残り10~15年程度の人生だろうが、ドンと来い、である。この家族がいれば怖いものはない(たぶん)。私が変わるきっかけと、価値観の変化、家族の絆の再認識など色々なものを与えてくれた6年前の検査入院だった。傍から見て失ったものが大きいと思う人が多数だと思うが、それ以上に得たものも多い。その意味合いでは現在は、障害者になる前より幸せだ(これ本当)。今後もこの状態が続くことを切に望む次第だ。
終わり
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関連記事1 あれから5年 今思うこと
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4 自分を見つめ直す好機と捉えた。その2
価値観の大きな変化 その2
画像1 2017年現在の広島大学病院の診療棟と入院棟の様子
『自分を見つめ直す』ことの重要性をよく言われる。言うのは容易いがやるのは難しだ。何もかも上手くいっている時にはその必要性がないし、そもそもそんなことなど考えはしない。ややもすれば現在と過去の自分自身の否定にもなるし、その事への抵抗感も強い。私もそうだった。必要となる状況に追い込まれ、ようやく立ち止まり色々と考える。私もそうしたその他大勢の一人だった。価値観とは、これまでの人生の経験値と環境で醸成されるもので、ある種の成功経験が続くともうそれは少々のことでは揺るがない信念となる。前回記事で、検査入院中に家族の価値を再確認したと書いた。これが変化の第一弾とすれば、第二弾として俗にいう社会弱者の人たちへの認識が変わった。封入体筋炎発症前、発症後の数年間はこうした人たちが周囲にいなかったので、特に意識することもなかったが改めて問われると、差別とまではいかないが自分とは違う世界の人たち。と区別-差別意識の一歩手前 していた。多様な生き方や価値観を表面上は認めるそぶりを見せながらも、自身を上位に置いていたことは否めなかった。この場合も弱者とは障害者や高齢者、世間一般的な考え・価値観を持たない人たちを指す。少数階層に属する人たちのことだ。さらに深堀りすると、強烈な自分教-能力・努力・結果 信者で競争大好き人間だったので競争の場から落ちこぼれた人間などはあからさまにバカにしていた。態度にこそ出さなかったが、家内曰く節々の言葉尻や表情でそれとなく出ていたらしい。特に後者は、競争こそ人間を進歩させる源泉と痛烈に割り切っていたので、私の価値観の最大なるものかつ、教義そのものだった。弁明ではないが、大学卒業後厳しい競争社会に身を置き、金融業に従事していたので数字とお金が絶対の特殊な世界にいたことも大きな影響を受けた。
この業界は、現在働き方改革で残業がない就労を理想とする社会の実現が議論されているがそれとは真逆の世界。ただ、同年代のメーカー勤務のサラリーマンよりは所得が高く職種柄、間違った選民意識が植えつけられる。2000年、活躍の場を地方の金融機関に移した私は多少それも薄らいだが、拠り所となるコアの中には多く残っていた。それが20代前半~40代半ばまで続いた。検査入院当時(2011年10~11月)、その意識がずれて違うことを認識させられた。入院患者の多くは、60代以上の高齢者。しかも入院部屋があった8階西エリアは、脳神経内科患者専用。いわゆる難病の類の患者ばかりで、私がいた6人部屋のうち3人が筋疾患-ミオパチー系疾患患者だった。そして他を覗くと明らかに障害者然とした人も多く、別天地に放り込まれた気分だった。この当時、発症4年目で生活障害(ADL)は今ほどではなく、障害者手帳取得で障害者枠での再就職を視野に入れていた。就労のために方便の1つと自身に言い聞かせてもいた。これまで、自分とは違う世界の人たちと区別していた人たちの輪の中に入り、寝食を共にすることで自分を見つめ直した。検査入院当時の記事でも事あるごとに書くが、この空間は世間の喧騒とは完全隔離された異空間そのもので、ポジティブに受け取ればうってつけの場所だった。翌年(2012年)の4月には、障害者能力開発校に進むが様々な身体障害者を知るに至り、更に見聞は広まりこれまで一方に偏っていた価値観はほぼ浄化された。
画像2 広島大学病院入院棟レイアウト図 HALリハビリで足繫く通うリハビリ科は5階、検査入院した時は8階西エリアの806号室に入った。
5 自分を見つめ直す好機と捉えた。その3
価値観の大きな変化 その3
高齢者や障害者、そして治療法が確立されていない難病患者、いずれも世間では多数派階層ではない。それぞれの立場や置かれている環境で、信じて疑わない価値観を醸成する。こうしたものの価値観の〇✖論は不毛かつ無意味なものだ。世間の人間が皆等しく同じ生活環境にいる訳ではない。良い意味で人それぞれで様々。画一化された物差しで計るのはナンセンスだ。例えば、一つの目的を達成する集団組織(会社など)であれば、異論は言語道断だが人生-生き方とかの話まで広げるとまた別のものになる。特定の国、地域や階層を攻撃したり、卑下したりするものではない限り構わないと考える。21世紀に入り、人々の多様性を認め合う流れが定着しつつある。欧米先進国では、ごく当たり前で普通の考えだがアジア、いや日本でもその考えが広がってきた。一昔前までは、一部の人権意識の高い方々だけの占有物だったがそれも過去のものとなりつつある。検査入院当時(2011年10~11月)、価値観の変化をここまで深く意識していた訳ではない。変化のきっかけを掴んだに過ぎない。しかし、考える時間は無限にあった。文頭に書いたか現在過去の否定に対する抵抗感は、不思議となかった。反省の色も濃かったが、同時に新たな自分にポジティブに生まれ変わる高揚感もあった。『新たな自分への挑戦』、この端緒となったのが検査入院だった。『清算』『リセット』etc・・・。行動と結果さえ伴えば、言葉は何でも良かった。
他の闘病系記事で何度も繰り返しているが、2011年10月当時は発症4年目で生活障害(ADL)は2017年現在との比較では、軽微なものだった。当時は深刻にそれなりに受け止めていたが、走れない、重量物を持てなくなった。疲れやすくなり、休日前の疲労度が生半可ではない、ぐらいで健常者としての限界は超えつつあったが、障害者と捉えれば微妙だった。経済的な必要性もあったが発症前の就労形態は継続した。デスクワークで作業服仕事とかではなかったので、継続が可能だった。広義ではこの時期も闘病生活ではあったが、自分が難病患者という意識は転倒した時ぐらいだった。真摯に筋疾患と向き合っていたか問われると、『はいそうです』とは言えなかった。結果論だが、筋疾患を遅らせる意味合いではプラスに働いた。発症前の活動量維持は、メンタル面の影響もそうだが、廃用性筋委縮-使わなくなることで引き起こす筋委縮 を予防したからだ。発症初期や前半戦の残筋肉量で廃用性筋萎縮を予防する場合、リハビリや室内だけでの日常活動はだけでは心もとない(と思う)。生活スタイルの大きな変化のたびに廃用性筋委縮を感じた経験がある私は、患者としての信念に近い。ただそろそろ、中盤戦を控え、発症前のスタイルを捨て筋疾患患者モードへの切り替えが迫っていた。従来の価値観を持ってのそれでは、嘘になりそうだし痛い人になる。
画像3 仲の良い家族のイメージ図(かわいいフリー素材集いらすとやより)
今まで本尊のように尊び、教義のように心のよりどころとしていたものを捨て、新たな価値観を見出しその代役にする。言葉で聞くとさぞ難しそうな印象が強い。私も苦戦すると思っていた。しかし、意外と容易かった。背負っていた腰が砕けそうなくらいな重い荷物を減らし、発想を少し変えるだけで事足りた。偏った価値観を醸成した環境を遠ざけ、今現在、そして将来の自分に見合った環境に身を置き、その環境で生きている人たちを係るだけで、少しづつだが変わっていった。完全に忘れ去っていたが、元々が環境に順応するのが早く得意だったことを。今回記事の題材の検査入院は2011年秋~初冬の出来事。もう6年が経つ。当時小学校5年だった息子は高校2年生になった。以前も書いたが、ご近所さんから我が家は明るいとよく言われる。一家の柱足る家長の私が、生命予後ほぼ不良の難病なのになぜ? である。無理に作り笑顔で過ごしている訳ではない。これでは痛過ぎる人だ(笑)。最大の理由は、健康は人の何倍も困りに困っているが経済的にはあまり困っていない事。『貧すれば鈍する』という諺があるが、この場合は『貧さなければ、決して鈍することはない』である(笑)。検査入院から退院した数か月後、前の仕事をやめた。その時期に、実母に管理を任せていた実家絡みの不動産収入を、私が直接管理するようにした。不動産名義は私だったが、何故か収入は実母の口座に(笑)。これを私の口座にした。
当時は障害年金受給など頭の片隅にもなく、光熱・通信費とマンションローン支払いの助けとなった。2012年は障害者能力開発校に1年間通校した。雇用保険が主な収入源だったがこの時期が一番経済的には大変だった。2013年初頭から障害年金が加わり、楽になった。今はそれを思うと経済的には楽で暗くなる必要がない。世の中お金が全てではないが、理想とする生活を維持する経済力はやはり必要だ。人間切羽詰まると余裕がなくなる。これが理由の一つ目。次は、家内がそんなに背負い込まない性格なのも幸いしている。私も基本的は楽天家だが、家内のそれは私よりも桁一つ上回る(笑)。むしろ、家内の言うことを不自然に聞かない息子に対してよくイライラしている(笑)。最後は、私自身の当たりが柔らかくなったと言うか、背負う荷物を軽くして自然体に近づいたことも大きい。良くも悪くも影響力があり過ぎた。『話しやすくなった』『良い感じになった』と家内と息子によく言われる。意識して心掛けたことは一度もないが、家庭人として見た場合良い方向に流れているのは確かのようだ。社内の立身出世のバトルと残された寿命とのバトル、客観視すれば後者のほうが重く深刻な筈だが現実は逆になっている。歴史のIF世界のカルトチックな話となるが、『もし私が筋疾患を発症しなければどうなっていただろうか?』これは疾患発症直後、よく妄想したが少なくとも今よりは暗い家庭になっていただろう。進行を確信した時は暗澹(あんたん)した気分にはなるが、その日のうちに回復する。恐怖を克服したのではなく、正確には慣れたが正しい。検査入院後、身体機能障害5級に2013年夏には3級となった。2013年夏時点では、軽めの重度障害と知り驚いたがここ1~2年は実態が級に完全に追いついた。出来ないことや助けを求める場面も増えた。家族は嫌な顔一つしないで助けに飛んでくる。家族の日々の助けには本当に感謝している。つくづく人間は一人では生きていなのだな、と実感する。週に二度通院しているHALリハビリも家内と妹がサポートしてくれる。封入体筋炎の疾患環境は相変わらずで、予断を許さない。冷静に考えて残り10~15年程度の人生だろうが、ドンと来い、である。この家族がいれば怖いものはない(たぶん)。私が変わるきっかけと、価値観の変化、家族の絆の再認識など色々なものを与えてくれた6年前の検査入院だった。傍から見て失ったものが大きいと思う人が多数だと思うが、それ以上に得たものも多い。その意味合いでは現在は、障害者になる前より幸せだ(これ本当)。今後もこの状態が続くことを切に望む次第だ。
終わり
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