封入体筋炎患者闘病記

 封入体筋炎患者のヒロです。病歴は2023年で満15年、16年目に入りました。在宅勤務の仕事とリハビリの日々を送り、細やかながらも家族3人で暮らしています。ブログ記事は闘病記と広島地元ネタ、社会保障などの時事ネタ中心です。希少疾患の封入体筋炎の周知が目的です。関心があれば、ツイッターなどでご紹介していただければ幸いです。疾患関係で直コメントが苦手の方は、ツイッターのダイレクトメールを利用してください。封入体筋炎の闘病史は各進行段階の症状や生活障害、必要な社会保障制度等をまとめています。良ければ参考にしてください。最新の封入体筋炎の状況は『近況について色々と』、取り組んでいるリハビリについては『20年春~夏 筋疾患(封入体筋炎)リハビリ』にて素人の体感目線で書いています。モバイル版で読みにくい場合は、PC版に転換してからお読みください。

Category:闘病記 > あれから6年 当時を振り返る

前回記事 あれから6年 当時を振り返る その1
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あれから5年 今思うこと
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 2011年 病名が変わった日

4 自分を見つめ直す好機と捉えた。その2
価値観の大きな変化 その2


画像1 2017年現在の広島大学病院の診療棟と入院棟の様子

 『自分を見つめ直す』ことの重要性をよく言われる。言うのは容易いがやるのは難しだ。何もかも上手くいっている時にはその必要性がないし、そもそもそんなことなど考えはしない。ややもすれば現在と過去の自分自身の否定にもなるし、その事への抵抗感も強い。私もそうだった。必要となる状況に追い込まれ、ようやく立ち止まり色々と考える。私もそうしたその他大勢の一人だった。価値観とは、これまでの人生の経験値と環境で醸成されるもので、ある種の成功経験が続くともうそれは少々のことでは揺るがない信念となる。前回記事で、検査入院中に家族の価値を再確認したと書いた。これが変化の第一弾とすれば、第二弾として俗にいう社会弱者の人たちへの認識が変わった。封入体筋炎発症前、発症後の数年間はこうした人たちが周囲にいなかったので、特に意識することもなかったが改めて問われると、差別とまではいかないが自分とは違う世界の人たち。と区別-差別意識の一歩手前 していた。多様な生き方や価値観を表面上は認めるそぶりを見せながらも、自身を上位に置いていたことは否めなかった。この場合も弱者とは障害者や高齢者、世間一般的な考え・価値観を持たない人たちを指す。少数階層に属する人たちのことだ。さらに深堀りすると、強烈な自分教-能力・努力・結果 信者で競争大好き人間だったので競争の場から落ちこぼれた人間などはあからさまにバカにしていた。態度にこそ出さなかったが、家内曰く節々の言葉尻や表情でそれとなく出ていたらしい。特に後者は、競争こそ人間を進歩させる源泉と痛烈に割り切っていたので、私の価値観の最大なるものかつ、教義そのものだった。弁明ではないが、大学卒業後厳しい競争社会に身を置き、金融業に従事していたので数字とお金が絶対の特殊な世界にいたことも大きな影響を受けた。

 この業界は、現在働き方改革で残業がない就労を理想とする社会の実現が議論されているがそれとは真逆の世界。ただ、同年代のメーカー勤務のサラリーマンよりは所得が高く職種柄、間違った選民意識が植えつけられる。2000年、活躍の場を地方の金融機関に移した私は多少それも薄らいだが、拠り所となるコアの中には多く残っていた。それが20代前半~40代半ばまで続いた。検査入院当時(2011年10~11月)、その意識がずれて違うことを認識させられた。入院患者の多くは、60代以上の高齢者。しかも入院部屋があった8階西エリアは、脳神経内科患者専用。いわゆる難病の類の患者ばかりで、私がいた6人部屋のうち3人が筋疾患-ミオパチー系疾患患者だった。そして他を覗くと明らかに障害者然とした人も多く、別天地に放り込まれた気分だった。この当時、発症4年目で生活障害(ADL)は今ほどではなく、障害者手帳取得で障害者枠での再就職を視野に入れていた。就労のために方便の1つと自身に言い聞かせてもいた。これまで、自分とは違う世界の人たちと区別していた人たちの輪の中に入り、寝食を共にすることで自分を見つめ直した。検査入院当時の記事でも事あるごとに書くが、この空間は世間の喧騒とは完全隔離された異空間そのもので、ポジティブに受け取ればうってつけの場所だった。翌年(2012年)の4月には、障害者能力開発校に進むが様々な身体障害者を知るに至り、更に見聞は広まりこれまで一方に偏っていた価値観はほぼ浄化された。


画像2 広島大学病院入院棟レイアウト図 HALリハビリで足繫く通うリハビリ科は5階、検査入院した時は8階西エリアの806号室に入った。

5 自分を見つめ直す好機と捉えた。その3
価値観の大きな変化 その3


 高齢者や障害者、そして治療法が確立されていない難病患者、いずれも世間では多数派階層ではない。それぞれの立場や置かれている環境で、信じて疑わない価値観を醸成する。こうしたものの価値観の〇✖論は不毛かつ無意味なものだ。世間の人間が皆等しく同じ生活環境にいる訳ではない。良い意味で人それぞれで様々。画一化された物差しで計るのはナンセンスだ。例えば、一つの目的を達成する集団組織(会社など)であれば、異論は言語道断だが人生-生き方とかの話まで広げるとまた別のものになる。特定の国、地域や階層を攻撃したり、卑下したりするものではない限り構わないと考える。21世紀に入り、人々の多様性を認め合う流れが定着しつつある。欧米先進国では、ごく当たり前で普通の考えだがアジア、いや日本でもその考えが広がってきた。一昔前までは、一部の人権意識の高い方々だけの占有物だったがそれも過去のものとなりつつある。検査入院当時
(2011年10~11月)、価値観の変化をここまで深く意識していた訳ではない。変化のきっかけを掴んだに過ぎない。しかし、考える時間は無限にあった。文頭に書いたか現在過去の否定に対する抵抗感は、不思議となかった。反省の色も濃かったが、同時に新たな自分にポジティブに生まれ変わる高揚感もあった。『新たな自分への挑戦』、この端緒となったのが検査入院だった。『清算』『リセット』etc・・・。行動と結果さえ伴えば、言葉は何でも良かった。

 他の闘病系記事で何度も繰り返しているが、2011年10月当時は発症4年目で生活障害(ADL)は2017年現在との比較では、軽微なものだった。当時は深刻にそれなりに受け止めていたが、走れない、重量物を持てなくなった。疲れやすくなり、休日前の疲労度が生半可ではない、ぐらいで健常者としての限界は超えつつあったが、障害者と捉えれば微妙だった。経済的な必要性もあったが発症前の就労形態は継続した。デスクワークで作業服仕事とかではなかったので、継続が可能だった。広義ではこの時期も闘病生活ではあったが、自分が難病患者という意識は転倒した時ぐらいだった。真摯に筋疾患と向き合っていたか問われると、『はいそうです』とは言えなかった。結果論だが、筋疾患を遅らせる意味合いではプラスに働いた。発症前の活動量維持は、メンタル面の影響もそうだが、廃用性筋委縮-使わなくなることで引き起こす筋委縮 を予防したからだ。発症初期や前半戦の残筋肉量で廃用性筋萎縮を予防する場合、リハビリや室内だけでの日常活動はだけでは心もとない(と思う)。生活スタイルの大きな変化のたびに廃用性筋委縮を感じた経験がある私は、患者としての信念に近い。ただそろそろ、中盤戦を控え、発症前のスタイルを捨て筋疾患患者モードへの切り替えが迫っていた。従来の価値観を持ってのそれでは、嘘になりそうだし痛い人になる。

風船を持つ子供と両親のイラスト(男の子)
画像3 仲の良い家族のイメージ図(かわいいフリー素材集いらすとやより)

 今まで本尊のように尊び、教義のように心のよりどころとしていたものを捨て、新たな価値観を見出しその代役にする。言葉で聞くとさぞ難しそうな印象が強い。私も苦戦すると思っていた。しかし、意外と容易かった。背負っていた腰が砕けそうなくらいな重い荷物を減らし、発想を少し変えるだけで事足りた。偏った価値観を醸成した環境を遠ざけ、今現在、そして将来の自分に見合った環境に身を置き、その環境で生きている人たちを係るだけで、少しづつだが変わっていった。完全に忘れ去っていたが、元々が環境に順応するのが早く得意だったことを。今回記事の題材の検査入院は2011年秋~初冬の出来事。もう6年が経つ。当時小学校5年だった息子は高校2年生になった。以前も書いたが、ご近所さんから我が家は明るいとよく言われる。一家の柱足る家長の私が、生命予後ほぼ不良の難病なのになぜ? である。無理に作り笑顔で過ごしている訳ではない。これでは痛過ぎる人だ(笑)。最大の理由は、健康は人の何倍も困りに困っているが経済的にはあまり困っていない事。『貧すれば鈍する』という諺があるが、この場合は『貧さなければ、決して鈍することはない』である(笑)。検査入院から退院した数か月後、前の仕事をやめた。その時期に、実母に管理を任せていた実家絡みの不動産収入を、私が直接管理するようにした。不動産名義は私だったが、何故か収入は実母の口座に(笑)。これを私の口座にした。

 当時は障害年金受給など頭の片隅にもなく、光熱・通信費とマンションローン支払いの助けとなった。2012年は障害者能力開発校に1年間通校した。雇用保険が主な収入源だったがこの時期が一番経済的には大変だった。2013年初頭から障害年金が加わり、楽になった。今はそれを思うと経済的には楽で暗くなる必要がない。世の中お金が全てではないが、理想とする生活を維持する経済力はやはり必要だ。人間切羽詰まると余裕がなくなる。これが理由の
一つ目。次は、家内がそんなに背負い込まない性格なのも幸いしている。私も基本的は楽天家だが、家内のそれは私よりも桁一つ上回る(笑)。むしろ、家内の言うことを不自然に聞かない息子に対してよくイライラしている(笑)。最後は、私自身の当たりが柔らかくなったと言うか、背負う荷物を軽くして自然体に近づいたことも大きい。良くも悪くも影響力があり過ぎた。『話しやすくなった』『良い感じになった』と家内と息子によく言われる。意識して心掛けたことは一度もないが、家庭人として見た場合良い方向に流れているのは確かのようだ。社内の立身出世のバトルと残された寿命とのバトル、客観視すれば後者のほうが重く深刻な筈だが現実は逆になっている。歴史のIF世界のカルトチックな話となるが、『もし私が筋疾患を発症しなければどうなっていただろうか?』これは疾患発症直後、よく妄想したが少なくとも今よりは暗い家庭になっていただろう。進行を確信した時は暗澹(あんたん)した気分にはなるが、その日のうちに回復する。恐怖を克服したのではなく、正確には慣れたが正しい。検査入院後、身体機能障害5級に2013年夏には3級となった。2013年夏時点では、軽めの重度障害と知り驚いたがここ1~2年は実態が級に完全に追いついた。出来ないことや助けを求める場面も増えた。家族は嫌な顔一つしないで助けに飛んでくる。家族の日々の助けには本当に感謝している。つくづく人間は一人では生きていなのだな、と実感する。週に二度通院しているHALリハビリも家内と妹がサポートしてくれる。封入体筋炎の疾患環境は相変わらずで、予断を許さない。冷静に考えて残り10~15年程度の人生だろうが、ドンと来い、である。この家族がいれば怖いものはない(たぶん)。私が変わるきっかけと、価値観の変化、家族の絆の再認識など色々なものを与えてくれた6年前の検査入院だった。傍から見て失ったものが大きいと思う人が多数だと思うが、それ以上に得たものも多い。その意味合いでは現在は、障害者になる前より幸せだ(これ本当)。今後もこの状態が続くことを切に望む次第だ。


終わり


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2011年 病名が変わった日

1 まず最初に

 今年もこの記事を書きたいと思う。私がミオパチー系の筋疾患を発症したのが2008年の4月頃。年齢は40.5歳。人生の半分の折り返しがようやく過ぎて、これからが本番と思っていた矢先だった。男の人生の10~30代など子どもと変わらない。40代と50代が本当の勝負と考え、周到に用意もしてきた。それが全てこの疾患のせいで無駄となった。人生の大幅修正を余儀なくされた。それでも発症から3~4年ぐらいは、生活障害(ADL)も酷くなく発症前の仕事を続けた。しかし、それも限界を超えつつあった。自分の思いとは裏腹にほくそ笑みながら進行する疾患。進行するたびに感じる死の恐怖。どれだけヤワなメンタルだったら楽だったことか、語弊はあるが別の精神世界の住民になれば本人だけは救われる。もうすぐ40代も終わるが、封入体筋炎に振り回された40代だった。闘病生活は丸9年、10年目に入った。その闘病生活の大きな分岐点となったのが、2011年10~11月の検査入院だ。私の闘病生活は言うまでもなく、家族にとっても大きな出来事だったと言える。毎年類似記事を書くが、この時の気持ちを忘れず自身にハッパをかける意味合いもある(少しだけ)。時系列ごとに並べて書くのではなく、テーマに沿い当時を振り返りたい。

2 2011年当時の状況と障害者になる抵抗感
誰も障害を持った人間にはなりたくはない


画像1 2011年当時の広島大学病院診療棟工事の様子。左上に見えるのが入院棟(広島大学病院HPより)

 他の記事でも書いているが、2011年頃、最初の疾患名ミトコンドリア脳筋症への疑いが端緒だった。誤診と言えば医療事故のイメージがつきまとうが筋疾患に限ればよくあることで、特定後も他の疾患を疑う場合もある。現在の疾患名である封入体筋炎は2011年11月からである。その後も皮膚筋炎や遠位型ミオパチーの疑いを持たれたことがあった。当時の担当医はドクターT。患者である私も少し疑いを持ち、ドクターTもほぼ同じ見解だった。初回特定時(2009年4月)には検査入院をする必要はなく、外来での検査で特定された。本当であれば、もう少し早い時期での検査入院をしたかったが、当時行内でとあるプロジェクトの実質責任者の大役を仰せつかり、それが終わるまで身動きが取れなかった。そのプロジェクトは結果的に大成功だったが、大成功の見返りが障害者専用の特例子会社への出向だった。行内本店では、『収容所』『動物園』などと陰で揶揄され、本店ビル地下の一室にあるこの会社は、奇声と怒号が絶えない悪い意味での特別な場所。健常者が突然の傷病で障害を持ちここに放り込まれた場合、ほぼ100%の確率で鬱(うつ)を発症。障害の数が増え、心身共にズタボロになり1年以内に消えていく。私も行く気などさらさらなかった。完全に気持ちが切れ、むしろ決心がついた。当分先と考えていた障害者手帳の取得。障害者枠での再就職を果たすために、新たな疾患名特定と障害者手帳取得に目標を切り替えた。当時、一人息子はまだ小学校5年生。家に引き籠り、闘病生活だけ送るわけにはいかない。若年発症の辛いところだ。当時は、身体を動かす自由も現在よりも多くあり、車いすや寝たきりなど何れはなると心の片隅で意識をしながらも、まだ遠い世界の話、と認識していた。『完治は諦め、動けるうちにやるべきことをやる。そして、綺麗に人生を終える』

 終活の概念は皆無だったが、発症から10年ぐらい-2018年ぐらいまで働き、マンションローンを終わらせ、子どもの東京での大学通学資金と家内の生涯の生活費、自分の介護施設入居費を貯めに貯める予定だった。2013年初頭から障害年金が、相当額加わったので計画金額は予定よりも数年早く達成できた。就労も在宅仕事のお陰でもう少し勤められそうだ。この辺は嬉しい誤算で、家計を考えると助かっている。その一方で、肝心、要の筋疾患は、私の想定よりも早く進行しておりこればかりはどうしようもない。子育てと終活をほぼ同時期にやる羽目となった人生に、冷めた笑いしか起きないが神様が人を選んで高いハードルを課したと半ば本気でそう思っている。頑張ればクリアは決して不可能ではないので、モチベーションの1つになっている。で、その闘病生活のリ・スタートとなったのが2011年の検査入院。目的は先に書いた通りだ。障害者になる抵抗感は、かなりあった。別に障害を持つ人への偏見や差別の心は基本的にはない。健常者時代からも、車いすや杖歩行、明らかに見た目で判断できる人たちを見て、『色々と大変そうだな』と思っていた。ただ、それと自分がなるとでは大きく違う。語弊はあるが、普通ではない状態(これも差別になるのだろうか?)が公とされる屈辱。仕事面でも筋疾患進行で労働生産性が落ちに落ちて、無能化が進む情けなさ。挙げたらキリがない。それに反発したい気持ちも同時に沸き起こり、心の葛藤が凄かった。自らの積極的な選択で障害者になりたい人間など絶対にいやしない。
大方の中途障害者の人間は絶対にそう考えていたはずだ。仮にいたとすれば、既にメンタルが破綻、それ寸前の人たちだろう。よくネット界隈で、批判の対象とされる障害者福祉など重度障害の2級でもならない限り経済的な恩恵は殆どない。私とて、進行が2011年当時で止まり、勤務先から手帳申請を勧められ(殆ど強要)なければ、健常者として今も生きているだろう。

 障害者になることを意識した時期ではないが、発症2~3年目(2009~10年)頃に当時の担当医ドクターTに障害者制度を軽く聞いたことがあった。耳知識の一つとして聞いた。ドクターTの見解だと『あまり早く申請すると、後の級更新が滞る』である。真意は量りかねたが、額面通りの意味と受け取った。2011年当時だが、前年に聞いた時とは状況が一変した。綺麗ごとや建前では済まされない状況に。この時もドクターTに相談したが、そこまでの障害ではないと思ったらしく、いい顔はしなかった。私的には、医師の大局的な判断などどうでもよく障害者手帳枠で再就職目当てだったので、7級でも1級でも何でも良かった。 ~身体機能障害認定等について~(厚生労働省HP) その辺の事情を説明しても、あまりいい顔はしなかった。(空気読めや)と内心カチンときた私は、丁寧な言葉遣いを心掛けながら雰囲気で威嚇した(笑)。押しに弱いドクターTは、あっさりと陥落。検査入院後のリハビリ科通院を勧めてくれた。当時の障害レベルは障害者以上、健常者未満ぐらいで大したことはなかったが、今後の進行を考慮すると障害者就労が最適だった。その意味で中途半端な状態にいる人で、就職に悩んでいる人も多いだろう。その場合は割り切り手帳取得をお勧めする。ただし勘違いしてほくないのが、生活障害理由で職種が限定される人に限っての話だ。それ以外の理由で、就労が難しい人間は手帳を取れば万事解決とはならない。障害者就労の世界も健常者同様に非正規就労が大半。正規社員は、若年者やコネ、特殊スキルを持つ人間のみとなる。私は伝手があったのとこの翌年(2012年度)通校した障害者能力開発校で視覚を10以上取得し、これが幸いした。日本の社会は格差が広がっているとよく言われる。私が思うに、資本主義を標榜する以上ある程度は仕方がない。格差のない社会など、犯罪が1件も起きない社会と同じであり得ない。日本も決して捨てたものではなく。正しい方向で適切な努力をすれば、必ず報われる。


広島大学病院の写真です。
画像2 広島大学病院の入院棟の様子。敷地裏庭より撮影(広島大学病院HPより)

3 自分を見つめ直す好機と捉えた。その1
価値観の大きな変化 最終的な帰属はやはり家族

 検査入院の詳細は過去記事に譲るとして、検査入院は約4週間の長きに渡った。この場所だけ特別の時間が流れている印象すら持った。検査と言っても2~3日に1検査。30分で終わるものもあれば、MRIのように数時間に及ぶものもあり様々。まさに暇との戦いだった。それまで朝の7時に自宅を出て、22時以降に帰宅する日々で月の残業時間は、残業定義にもよるが月平均60時間以上。最近教師の残業問題が問題視されているが、数字のノルマもないのに何を甘えてんだよ、と突っ込みたくなる(笑)。まあ父兄のプレッシャーも凄いと思うが・・・。で、この悠久とも思えた時間で自分というものを問い直してみた。大学卒業後、23~45歳までの22年間、日々数字に追われる毎日を送ってきた。直近の手短な必達目標、その年度の必達目標、2~3年先、5年先、最後に10年先と絶えず自身にプレッシャーをかけて奮い立たせた。管理職に就いてからは部下も自身ほどではないが締め上げた。結果を出さない人間は、返り血を浴びない範囲で全て飛ばした。自分教-能力・努力・結果 の強烈な信者である私は、その時その時で必要な努力を最大限した。馬車馬のように全力で走り続けた。『これって本当に正しかったのか?』と問われたら、『絶対に正しい』と言い張る自信はないが、後悔はなかった。しかし、『今後もこのやり方でいいのか?』と再度問われたら『否!』と答えるだろう。筋疾患発症で、新たな生き方をそれまでも模索してきたが、生活サイクル自体は発症前と変わらなかった。逃げていた訳ではないが、自分がいた痕跡らしきものを会社に残したかった思いのほうが強かった。それもほぼ終わり、散り際を考えるタイミングとなった。
(健常者として)燃え尽きたのである。年々進行する筋疾患。筋委縮と共に落ちる労働生産性、週末に大波のように襲い掛かる疲労。人知を超えた世界で、個人の能力や努力が遠く及ばない。もう無理だった。発想自体を根底から変える必要性があった。

 当時の私は今時の40代の割には、古いタイプで『仕事>>>>家庭>闘病生活>>>>その他(趣味・実家など)』だった。それを『家庭>>>>闘病生活>>仕事>>>>>>その他(
趣味・実家など)>>>国や地域への思い』に改めようと思った。私のブログをよく読まれている方は、家族が登場人物のように出てくることに少し違和感をお持ちだろう。不特定多数の閲覧者がいるこの空間、そして匿名の個人ブログ。生活背景をある程度晒すデメリットは十分心得ている。他の方の闘病ブログを見ても家族の存在抜き(いない人は別)などあり得ない。家族との結びつきの強さも闘病生活も1つだからだ。難病を患っている人たちの場合、普通の感覚で言えば非常事態である。で、家族はどうなるのか?両極端の傾向が見られる。これを契機に絆が強まるか、それとは真逆で一家離散するかである。私は前者だが、後者の場合、難病発生は離散の直接の理由ではなくきっかけの1つに過ぎないと思う。発症前から、そうした因子が至るところにあったと言える。表面化していないと言うか、本人がその点に気付いていなかっただけだろう。きつい言い方だが事実は事実だ。検査入院当時に話を戻す。家内は今と違い専業主婦だった。パートに行き始めるのは私が正式に退行した2012年からだ。家内は何を思ったのか、毎日見舞いに参上した。しかも嬉しそうだった(笑)。当時で結婚して約11年、こんな長時間顔を突き合わせたことは殆どなかった。週末は家族サービスにいそしみ、平日も息子の話などは積極的に耳を傾けていた。しかし、時間がないので限界がどうしてもある。息子との関係性もそうだ。検査入院をきっかけに家族関係を闘病生活仕様に再構築した。したというよりは自然にそうなった。


画像4 仲の良い家族4人の団欒のイメージ図(かわいいフリー素材集いらすとやより)

 一家の主たる夫が寝るためだけに帰宅する家庭では、長時間いないことが大前提となり、夫の居場所がないケースが多々ある。特に女性の社会的地位向上に伴い、それとは反比例して父権が低下。家族の力関係の昭和の時代に比べ大きく変わった。自慢するわけではないが、我が家の場合少し変わっていて、家内が割と私を立て、息子に絶えず私の存在を意識させる躾をしていたらしい。一例を挙げると『私たちがこうして生活できるのは、パパがお外でお金を稼いでくれるからだよ』みたいなことを、事あるごとに吹き込んでいた。私自身、21世紀のマイホームパパタイプではなく一昔前の威厳に満ちた父親(と言うか親父)タイプだったので、居場所があったのが幸いした。それに私自身、家庭のことにそれなりの興味があり、家のことに参加する意思は強くあった。この辺が昭和親父と少し違うところかも知れない。この検査入院時、思ったことは家族の絆の重要性だ。どれだけ仕事で頑張り地位を極め、年収が上がろうとも会社を辞めればただの人。人間の最終的な帰属する場所は家族だということ。中程度の生活を維持するお金さえあれば、それ以上は不要。むしろ、仕事も含めた経済力、資産、家族関係、趣味余暇の類などバランスが取れた過ごし方をしているかのほうが大きな問題ではなかろうか、と思うに至った。当時小学校5年生だった息子もスポ-ツ少年団のサッカーの練習や試合がない日は、見舞いに参上した。最近では結婚しない人(出来ない人?)が、圧倒的に増えた。その良し悪しは、本人の価値観なのであれこれと言う資格は私にはない。言えば、多様性の否定とお叱りを受ける(笑)。人生において苦楽を共にしたパートナーがいない人生も味気なく、空しいだろうな、と思ったりする。趣味やペットは心の隙間や風穴を多少は埋めてくれる。しかし、全ては埋まらない(と思う)。このブログをお読みになっている20~30代の方で、経済的に何の問題もなく彼女(彼氏)がいる方は、タイミングさえ合えば結婚することをお勧めする。結婚が可能な時期は永遠にはない。精々、30代半ばまでだ。家族の存在は重荷になるものでは決してない。普段は忙しい日常生活に追われ意識することはあまりない。窮地に陥るとその存在が大きく輝く。その重要性に気付き、再認識した6年前の検査入院だった。


続く


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