封入体筋炎患者闘病記

 封入体筋炎患者のヒロです。病歴は2019年で満11年、12年目に入りました。在宅勤務の仕事とリハビリの日々を送り、細やかながらも家族3人で暮らしています。ブログ記事は闘病記と広島地元ネタ、社会保障などの時事ネタ中心です。希少疾患の封入体筋炎の周知が目的です。関心があれば、ツイッターなどでご紹介していただければ幸いです。疾患関係で直コメントが苦手の方は、ツイッターのダイレクトメールを利用してください。封入体筋炎の闘病史は各進行段階の症状や生活障害、必要な社会保障制度等をまとめています。良ければ参考にしてください。最新の封入体筋炎の状況は『近況について色々と』、取り組んでいるリハビリについては『2019年春~夏 筋疾患(封入体筋炎)リハビリ』にて素人の体感目線で書いています。モバイル版で読みにくい場合は、PC版に転換してからお読みください。

Category:闘病記 > リメイク版 持病の始まり

シリーズ記事 闘病記 リメイク版 2008年の出来事
関連記事 特別版『将来の封入体筋炎患者へ ブログ主の闘病史


【注意!】

 このシリーズ記事は、ブログ主が08年春に封入体筋炎を発症した当時のことを振り返り、記事にしています。よって19年現在の心境とかではありません(笑)。その辺を十分に踏まえた上でお読み頂ければ幸いです。では、始めたいと思います。

【述懐その24】 09年春
やってきた『Xデー』その3
半年近くかかった疾患名特定

画像1 患者に真剣な眼差しで説明する医師
(画像 かわいいフリー素材集いらすとやより)

 脳神経内科の受診が午後14時からだったので、採血の結果待ち時間を1時間として逆算すると、遅くとも13時ごろまでには終わらせる必要がある。外での昼食をそそくさと済ませ、12時50分頃に採血をした。19年の今であれば、血液を抜き取られるときに今日のCK値が頭をよぎるのだだ、この時ばかりは完全に上の空だった。大学などの合格発表にも少し似ているがやはり違う。何とも形容し難いものだった。採血が終わり内科受付に13時ごろ向かった。家内と一緒であれば軽口を叩くのだが、とてもそんな心境ではない。大学病院に入った数時間前は適度な緊張と意味不明な高揚感が共存した感じだったが、高揚感が消え失せその分だけ緊張感が高まった。適当な例えではないが死刑判決を受ける気分でもある。事実それに近い事は事実だ。刑執行するまでの期間が長いだけの違いで他はそう変わらない。中待合で待つこと45分、14時前後となり名前を呼ばれ家内と共に診察室に入室した。家族同伴と言うこともあり椅子が2つ用意され、家内は私の横に座った。以下のやり取りはその時のものだ。

担当医ドクターT その1
『〇〇
さん(ブログ主の名前)、あなたの病気はミトコンドリア脳筋症です。ご存知でしょうが、この疾患は治療法が確立されておらず、進行を止める有効な手立てもありません。致死率が高く、進行を遅らせることが治療の主眼となります。差し当たり、食事療法と副腎皮質ホルモン剤投与を行います』
担当医ドクターT その2
食事療法は、水溶性ビタミン(ナイアシン、ビタミンB1、B2、リポ酸)、コエンザイムの摂取を心がけて、糖質の摂取を思いきり控える。これが基本です。食事の献立例などの冊子を帰り際に渡しますので、参考にしてください。ZONOさんも外食を控え、出勤時の昼食は弁当にするようにしてくださいね』
担当医ドクターT その3
他の日常生活については、体力の消耗を極力控えるようにお願いします。聞けば、お仕事はデスクワークとの事なので特に問題はありません。無理は決してしないように願います』
ブログ主
『日々の過ごし方などはよく分かりました。で、今後の進行の見通しをより具体的に教えてください。進むと杖歩行、車いす、寝たきりになりますよね?それぞれの
大雑把な到達年数をより詳しくお願いします』
担当医ドクターT その4
『進行速度は発症年齢や過ごし方による個人差が大きいので、現時点ではっきりとは言いかねます。寝たきりまで15年前後と思えば間違いはないでしょう』


画像2 私が通院開始した頃(2008年~)の広島大学病院診療棟、2013年9月に新診療棟が完成して臨床管理棟になった(画像 ブログ主撮影)

 であった。随分とざっくりとしたアバウト感満載で、満足な回答ではなかったが立場上、これが限界だろうと推察して妥協した。寝たきりまでの概ねの期間が分かっただけでも良しとした。家内は、食事療法と聞き、メモに筆記用具を走らせて真剣そのもの。自分が作る料理が旦那の命に係り、ひいては自分たちの生活にも直結するので恐ろしいほどの表情を見せていた。疾患名については、決定前にほぼ示されていたのでサプライズなどは一切なかった。想定の範囲だ。仕事だがこの当時は2店舗の支店の長をから本店に栄転して間もなかったので滅多に外回りはなく、しかもデスクワーク。問題視されなかったことは不幸中の幸いだった。作業服の力仕事だと転職を余儀なくされたかも知れない。いや、筋疾患では、勤務自体無理だ。今後の通院予定や処方薬の説明などが20分近くあり、14時40分頃に診察室を二人して出た。退室後、一気に疲れが押し寄せた。家内も同様だったようで互いに顔を見合わせて『ホント、疲れたな(笑)』と同時に囁き笑った。過度の緊張感からようやく解放された安堵感がそこには漂っていた。同時にブログ主の闘病生活の幕開けでもあった。それは何十年続くかは分からない。20年かも知れないし、もっと長いかも知れない。それは神のみぞ知るというやつだろう。内科受付で会計を済まし、処方箋と次回診察の予約券だけを手渡され、大学病院を出た。時間があり翌日が土曜日で休みだったので、調剤薬局に向かった。夫婦共に薬剤師の話も聞きたいと思ったからだ。処方薬を他渡される時にくどくどと説明を受けた、お薬手帳なるものも貰った(笑)。帰途の車の中で家内におどけながら『俺の生殺与奪権は〇〇(家内の下の名前)様次第だな(笑)』と軽口を叩いた。家内は半分笑い、半分真剣な面持ちで『とにかく、頑張るから』、と何か自分に言い聞かすような口ぶりで答えた。いきなりこんな思い責任を背負わされた日には、緊張するなというのが無理な話だ。自分の事ながら家内に少しだけ同情した。息子へは後日、ブログ主から直接話すことにした。隠す必要もないし、短期間で命が左右されることなはないのだから。言い方さえ気を付ければ問題はなかった。

【述懐その25】 09年春
長く辛い闘病生活の始まり
仕事、子育て、終活・・・

画像3 山のような書類に目を通して印鑑を押す管理職と思しき人
(画像 かわいいフリー素材集いらすとやより)

 半年間かけて、原因不明の謎の疾患の特定作業が終わった。これは決してゴールではなく、同時に闘病生活のスタートでもあった。ブログ主も経験したことがない未知なる世界の話で、模範となるものなど一切なかった。担当医と相談、自身の体調などと相談しながら手探りを繰り返しながら試行錯誤を続けてある筈の内最適解を求める旅だった。ブログ主は仕事については、進行速度もよく分からないし進行ごとに日常生活にどのような影響を与えるのかも判断がつかなかった。仕事についての得た結論は『行くところまで行くしかない。後のことはその時に考える』に至った。投げやりにも思うが、事実これしかなかった。先のことは考えてもどうしようもない。目の前の事だけに取りあえず傾注するのだ。そうすれば、思わぬ展開も今後開くかも知れないとの期待が僅かにあった。人知が遠く遠く及ばず、自身の努力など無関係の世界だ。出来る範囲のことをするしかないと腹を再び、括った。『人事を尽くして天命を待つ』ではないが、行き着くところこれしかない。終活については、とにかく自身の給与収入を含め、一家の総収入の半分~6割程度を貯蓄に回し、とにかく節約生活に徹することを家内と相談して決めた。担当医ドクターTが語った寝たきりまで15年を考えのベースに据え、就労可能な期間を10年前後とした。取りあえずの目安だ。進行ペースやそれが与える影響の予測がまるでつかないので、その時々で修正や追加をその都度加え、対応する事に。分からないので予定と言うか計画の立てようがないのだが、分かることに関しては、全力で取り組むつもりだった。この当時41.5歳で、終活など30年以上も早い話で
多少割り切れない複雑な思いはあるが動ける残された時間は思いのほか少ない。限られた期間をどう有効に使うのかが運命の分岐点になると思ったのだ。自分の家族を持ち扶養家族がいると、現実からは目を背けられない。格好をつけるつもりはないが、己の惨めな人生を嘆く暇があるなら、将来のためにどう動けばプラスになるのかを念頭に置いた。一度、この種の発想をし始めると良い方向転換することも経験上、知っていた。この時決意した終活は、家族などの周囲に支えられ18年前半に無事終了した。
 

述懐その26】19年初頭
今現在から筋疾患発症当時をを振り返る


画像4 拡大図  筋ジストロフィーデュシェンヌ型の進行レベルの障害分類。封入体筋炎と進行状況が似ているので参考として用いる。(画像『国試塾リハビリアカデミー』中島塾長のブログより)

 今、振り返ると筋疾患を発症して不治の病で生命予後すら覚束ないと知った08年後半~09年初頭辺りが人生最大の危機だった。自身では強いと過信していたメンタルが壊れそうになり、深い闇に落ちそうになった。仮に落ちていたらどのような現在になったのかを考えると、やはり人生最大の危機だったと言える。家族のアシストを受けこの難を辛うじて回避した。よっぽど移動困難者となった19年現在の方が、深刻な進行状態で日常障害的には大きな危機なのだが、そこまでは思っていない。進行の恐怖に慣れたことも大きいが、現実を前向きに受け止めそれを起点にどう打開するのかを考えるようになったことも大きい。この時ついた疾患名『ミトコンドリア脳筋症』(難病情報センター)はこの約2年半後、別の疾患名『孤発性封入体筋炎』(難病情報センター)にすり替わるのだがそれは後の話となる。何れにしても生命予後に関しては同じ結果なので、患者の気分からすれば大して変わらない。ただ、前者の方が治療法の確立が早いのでは?との観測はある。ブログ主に間に合うかどうかは別としてだが・・・。よくありがちな話で、得たものと失ったものとの比較がされる。価値観次第のところがあるので良し悪しの判断は非常に難しい。負け惜しみで言う訳ではないが、ブログ主の場合失ったものも果てしなく大きいが、得たものも等分とまでは思わないがそれなりにあると考える。それなりの中身だが、まずは家族の絆がより鮮明になり強固になった。次は、ブログ自身のメンタルが発症前よりも強くなった。そして、俗世の垢にまみれた欲望が少なくなり事象を達観と言うか、より厳しく客観視できるようになった。一昔で言えば、僧侶にでもなった気分だ(笑)。

 他記事でも触れているが、現在の進行ステージはこの物語当時(08~09年)は、進行ステージⅠ(1)だった。10~11年後の19年現在は、ステージⅣ(4)とⅤ(5)の間というか、4.8ぐらいのところにいる。色々と無駄な足掻きを繰り返しているが、患者当人の感覚では相当進んだ印象が強い。担当医曰く、これでも封入体筋炎の割には進行速度は遅いらしい。この見解に信を置くとブログ主の日々の過ごし方の努力の賜物と言えなくもない。きっとそうだろう(笑)。昨年の後半の大学病院の通院で、寝たきりまでの残された時間をストレートに聞いた。7~12年と随分と余幅が大きいものだった。今年で発症丸11年が経過しているのでそれを加えると、18~23年になる。当初の15年の見解よりも3~5年ほど伸びた。先は確かに不透明だが、個人的にはさらにこれを伸ばす野心的な計画を持っている。実現する可能性は決して高くないと思うが、この見解+3年とするのだ。仮にこれが実現すれば、21~26年となり言うことがないくらいの成功になるだろう。発症した08年、小学校2年生だった息子も3月には高校を卒業して、某地方国立大学医学部への進学が決まった。本当に月日が流れるのは早い。『十年一昔』とは、まさにこのことであっという間だ。現在の闘病生活を無事に過ごせるのもこの大変な時期を乗り越えたことが大きい。人生の折り返し地点で突如襲い掛かった不幸だが、決して不幸とは思わず乗り越えるべき高い壁と考えれば、また別の趣もある。このシリーズに続く『病名が変わった日』についても、近々リメイクして書き直したい。

終わり

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シリーズ記事 闘病記 リメイク版 2008年の出来事
関連記事 特別版『将来の封入体筋炎患者へ ブログ主の闘病史


【注意!】

 このシリーズ記事は、ブログ主が08年春に封入体筋炎を発症した当時のことを振り返り、記事にしています。よって19年現在の心境とかではありません(笑)。その辺を十分に踏まえた上でお読み頂ければ幸いです。では、始めたいと思います。

【述懐その23】 09年春
やってきた『Xデー』その1
疾患名特定される日 数日前~当日朝の様子

画像1 疾患名特定日が近づくに連れて、焦りを隠せないブログ主のイメージ図 (画像 かわいいフリー素材集いらすとやより)

 疾患名特定の受診日が数日に迫り、考えないようにしてきたこと-想定外のものだったらどうしよう・・・-がしきりに脳裏をよぎる様になった。生命予後不良-確実な死-の意味合いでは、裁判での死刑判決にも等しい。少し異なるのが、死刑執行が数年後か20年後かの違いだけだ。クライマックスは変わらない。別に生命予後不良の筋疾患であることは理解していたし、それを正面から受け止め、抗うだけ抗ってやろうとモチベーションをこの頃になると持ち始めていた。たが、やはり公式に認定されるとなると又、別の面持ちがあった。相反する感情だが、まだこの時期は複雑に絡み合って共存していた。おバカな(笑)家内が何を考えてそうしたのか定かではないが、冷蔵庫左横に釣りかけているカレンダーに『パパの病名が決まる日』とその通院日に赤丸を丁寧に入れており、その事が輪をかけた(上記画像1参照)。『暇人が余計なことをしやがって』と少し思ったが、それぐらいで怒るほど狭量ではない。でも気になったのは事実である。その赤丸を入れた当人が、数日前になりしきりに気にするようになっていた。その姿を見て内心、『絶対にお前はバカだろう(笑)』と思い、その姿を冷ややかに楽しむ余裕はあった。この余裕こそ、立ち直った証拠でもあり今後、死まで続く闘病生活のエネルギーになると確信した。仕事でも部下などには、敢えてシークレットにはせず、『いよいよ来週だよ~』とおどけた感じで口にしていたし、部下も『正式に分かればいいですね』などと返した。受診日前日の夜、当時としては珍しく、20時頃に帰宅した。当時の平日の平均帰宅時間は22時以降だったので、2時間も早く帰宅できると、少し得した気分になった。筆記用具やメモ用紙などをリュックに詰め込み、『Xデー』に向けた準備をした。午前10時からMRI検査が入り、その診断画像によって担当医が最終判断を下す手筈だった。9時半頃までには大学病院に入るためには、自宅マンションを8時40分頃に出ようということになった。09年春当時、家内はまだ30代半ばだ。ふてぶてしいほどの肝っ玉などない。と偉そうに語っているブログ主も数日前とは比べものにならない緊張感があった。あったのだが、ブログ主以上に過緊張している家内を見てると、むしろ家内が心配になってきた。これだけを見ると立場がまるで逆だった。




画像2 亭主の難病の疾患名特定の日が近づくごとに緊張の色が隠せない女性 (画像 かわいいフリー素材集いらすとやより)

 19年現在では、家内はブログ主が通院する時には、『送迎+万が一に備えた介護人』として大学病院へ同行するのが当たり前になっているが、この当時はそんな通院慣習など一切なく、亭主を介しての大学病院デビューはそれなりに緊張感を伴うものだったようだ。しかもデビュー戦が亭主の難病の疾患名特定の場という大舞台。緊張するなというのが無理な話だった。
09年春当時、家内はまだ30代半ばだ。ふてぶてしいほどの肝っ玉などない。と偉そうに語っているブログ主も数日前とは比べものにならない緊張感があった。あったのだが、ブログ主以上に過緊張している家内を見てると、むしろ家内が心配になってきた。これだけを見ると立場がまるで逆だった。そのおかげで、ブログ主の緊張感の何割かはなくなった。笑いと軽い皮肉を込めて感謝したい(笑)。そして当日の朝になった。いつもは朝食は午前7時前後だったが、この日は少し遅めの8時前頃。格好もスーツ姿ではなく、薄手のパーカーに、Gパンという軽装だ。家内も既に準備万端だった。いつもは他愛もない会話を交わすのだが、この時に限ってはお互いに無口になった。『いよいよだな』と決戦に臨む古(いにしえ)の侍気分に浸っていた。気分は『矢でも鉄砲も持って来い』と腹を括った。と同時に『俎(まな)板の鯉』の気分でもあった。『ここまで来た以上は逃げも隠れもしないぞ』的な妙な高揚感に包まれた。家内も『もう行くしかないね』と何やら深そうな言葉を吐いた。ブログ主は『ここに来るまで、色々とあったけどようやくここまで辿り着いたね』と勝手に解釈した。朝食も取り終わり、身支度も済ませ8時半過ぎに自宅マンションを出た。運転はこの当時はブログ主だった。

【述懐その24】 09年春
やってきた『Xデー』その2
疾患名特定される日 大学病院入室まで



画像2 私が通院開始した頃(2008年~)の広島大学病院診療棟、2013年9月に新診療棟が完成して臨床管理棟になった(画像 ブログ主撮影)

 この日のブログ主は、決戦に臨む修行侍の如く適度な緊張感、原因不明の高揚感、知りたいけど知りたくないような弱い自分など多くの複雑な感情が入り乱れていた。週末の金曜日だったが、朝の渋滞に巻き込まれる時間でもなく、晴天だったので道路は全く混んでいなかった。9時過ぎに大学病院に到着した。あれこれと考える時間などない方が、良いと思ったがこうなった以上はや無得ない。立体駐車場に当時の愛車『デミ蔵君』を置き診療棟(上画像3参照)に家内を伴い入った。家内は、初めて来た大学病院の古臭さに驚いていた。『中はこんな感じなんだ~』と。患者は親世代以上の高齢者ばかり、車いすなどの障害者も数多くいて、家内には表現は適切でないが良い現物教育になった。ブログ主も間髪入れず『これが俺がこれから生きるかも知れない世界だよ』と付け加えた。時折鼻から管を通しているベビーカーに乗った乳幼児もいて、家内はその姿に少しショックを受けたようだ。顔に出やすいタイプなので、心の動揺ぶりが手に取る様に分かる。『この現物教育は、かなり効果があるな』と内心悦に浸った。別に現物教育のために来たのではない。これはついでだ。時間も少し押して来てので、MRI検査室に2人して向かった。何度か通院しているブログ主は院内の勝手が分かっているが、家内は初めて訪れたのでよく分からないらしい。発症前は、ブログ主は東京生活が長かったせいか、歩行速度が速い。典型的な地方人の家内は遅いので、少しイラっとしたものだ。この日もそうだ。この時は、既に筋萎縮が進み歩行速度はかなり低下していた筈だが、まだブログ主のほうが少しだけ速かった。検査開始15分前に、手続きを済ませた。しばらくすると、別室に誘導されバスローブのような検査服に着替えるように指示を受けた。貴金属類はNGである。時計を外し、私服から検査服に着替えた。


画像4 12年に
広島大学病院に導入された3台目のMRI。09年当時は、こんな最新鋭な器具ではなく、それこそ棺桶に閉じこまれたかのような錯覚になる代物だった(画像 広島大学病院HPより)

 看護師が何人かいて外部の検査技師が指示をしてテキパキと動く。MRI検査は、この時で2回目だったが地元の病院でのそれと比較するとサイズが大きかった。『さすが大学病院、スケールが違うぜ!』などと子どものように心躍ったが、それはすぐ消え去った。寝台に乗り、ベルトで固定され中が空洞となっている卵型の検査器具に寝台ごと突っ込まれるのだが、検査部位の真上の天井部分が下りてくる。圧迫感というか棺桶に閉じこまれたような感覚にとらわれた。それが慣れないうちは恐怖に感じた。検査部位はこの日は身体中の筋肉全てだったが、一度の検査で5~10分ぐらいかかる。その間、ヘッドホンのようなものを装着していたが『ドン、ドン、ドン』とヘッドフォンから聞こえてくる。古いタイプなのでこうなのか、それとも本格的なものは全てこうなのかはよく分からなかったが、とにかく閉口した。時間が経つのが異常に遅く感じる。仕方ないので、『羊一匹、二匹、三匹・・・』と数え時間が過ぎ去るのを待った。部位ごとの検査時間の遅さは次第に慣れたが、天井が下りてくる特有の圧迫感は最後まで慣れなかった。大地震で家屋に閉じこまれた被害者の人たちの気持ちが少しだけ分かってしまった(笑)。地途中で、もうどれだけ時間が経ったのかが非常に気になった。感覚的には3時間ぐらい閉じ込められていた気がしないでもない。多くの検査で一番これが苦痛を伴うものになった。早く終わることだけを祈った。祈りの甲斐があり(笑)、検査は無事に終わった、室内の時計を見ると11時半だった。1時間半もしていた。検査部位が増えるとこうも時間がかかるのかと不思議に思った。ちょっとした地獄から解放され、私服に着替え直し中待合で待っていた家内と合流した。結構いい時間だったので、内科で受け付けだけを済まし昼食を取るために外に出た。


その13へ続く


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シリーズ記事 闘病記 リメイク版 2008年の出来事
関連記事 特別版『将来の封入体筋炎患者へ ブログ主の闘病史


【注意!】

 このシリーズ記事は、ブログ主が08年春に封入体筋炎を発症した当時のことを振り返り、記事にしています。よって19年現在の心境とかではありません(笑)。その辺を十分に踏まえた上でお読み頂ければ幸いです。では、始めたいと思います。


【述懐その21】 09年春
終活の開始とその目標

画像1 見たまんま(笑)。人間の最終的な拠りどころになるものは家族の存在とこれだと考える
(画像 かわいいフリー素材集いらすとやより) 

 通常、結婚が30歳前後として子育てが30代から子どもが大学を卒業する50代前半、半ばまで続き、その後老後の準備などを子育てと並行させ進めていたものを一気に加速させる。そして60代半ばとなり、晴れて現役を引退して隠居生活に入る。現在の男性の平均寿命が81歳程度なので、死を迎える準備として70代半ばぐらいから、これまで生きてきた後始末と言うべき終活を始めるのが常だろう。ブログ主の場合、40.5歳での筋疾患の発症により、命の賞味期限が残念ながら分かってしまった。悲嘆にくれる気持ちは気持ちとして横に置いておいて、予定を急遽変更と言うか追加して行う必要があると考えた。これがお気楽な単身者であれば、自分の事だけ考えていれば問題はない。ブログ主の場合はそうも言ってられない事情がある。家族の存在だ。お気楽との表現に語弊はあるかも知れないが、事実お気楽に見えて仕方がないので遠慮なくこの言葉を使わせてもらう。終活とはブログ主の場合、何を指すのかを考えた。①自宅マンションローンの支払い完済 ②ブログ主が近い将来就労不可能となった場合の生活費の確保(不労所得で足りない部分の補足) ➂手持ち不動産資産管理方法の伝達
④財産分与についての振り分け方 などである(09年当時)。息子の進学パターンとして、09年当時、一浪でもして東京の私大進学を想定していた。それに係る諸費用-学費、仕送りなどの蓄えも同時にする必要性があったので、同時進行になる。当時はブログ主の勤労収入だけでもかなりの金額で、収入相応の生活をしていた。預貯金も他の家よりはあったが、今よりは浪費も多かった。節約一辺倒の生活では息が詰まるし、相応の生活を享受しないと何のために生きているのかが分からなくなる、と朧げに考えていた。一気に始めるのもさすがに無理があるので、段階を踏んで生活費をカットし続けた。理想は一家の総収入の6~7割を預貯金に回す。世間の目に触れるものだけは基本的にはカットしない。この方針に切り替えた。最初に切り込んだのは食費や光熱費である。高級食材のみ取り扱っているスーパーでの購買をやめ、ディスカウントの安売り店のみの購入に改めた。光熱費も無駄なものは一切カットした。これだけでも、6万円以上浮いた。

画像2 家計簿を楽し気につける主婦のイメージ
(画像 かわいいフリー素材集いらすとやより) 

 ブログ主は小遣いの減額を聖域なき家計の構造改革として自ら申し出たが、これは家内に却下された。さすがに家族にひもじい思いをさせるのに自分だけ、楽するわけにはいかない、と思ったのだ。よくあるパターンの逆だが、折衷案として月末にもし残高があれば、その残高分を月初の支給することに。当時の小遣いは5万円だったが、月末に1万円残れば、月初は4万円の支給で計5万円という形にした。自慢ではないが、この時から5万円満額を使ったことはない。1~2万円残すように心掛けた。09年当時は、障害年金の受給は、発想自体なく給与収入と実家絡みの不動産の収入で何とかやりくりしていくつもりでいた。元々家内は低所得者家庭の出身で、抵抗感なく受け入れてくれたのは本当に助かった。通常であれば、ひと悶着があっても不思議ではない場面だ。『そっちの方が性に合っているかも(笑)』と言った時にはブログ主は、顎が外れるくらい大笑いした。例えば欲しいものを探していて、
予算を3万円用意、候補が2つ見つかったとする。右の商品は2万円、左の商品は1万2千円の場合、家内は迷わず安い方を選ぶ。勿体ないお化けが恐れているのかも知れない(笑)。まあ家計を任せるのだから、これぐらいのほうがこちらとしても安心だ。話を戻すと、ブログ主はまともに働ける期間を今後10年弱とこの時、試算した。確たる根拠はないが、ネットで他の筋疾患患者の方のブログなどを読むと目安としてそんなものだったし、10年+-1~2年が辛うじて動ける残された時間と予測したのだ。これはブログ主の願望もかなり入っていたが・・・。まだこの時期の終活は、取りあえずお金を1円で多く残すことだけに主眼にを置き、これにこれだけ用意するなどのより具体的なものではなかった。進行するうちに将来像がイメージできるようになり、より具体的なものに昇華させた。まあこれは後の話だ。例の黒いモヤモヤがほぼ消え去り、メンタルの状態だけはいつもの自分に戻り、残された時間を逆算して、いま何をなすべきなのかを見据えられるようになったのは不幸中の幸いだったと言える。

【述懐その22】 09年春
Xデーに向けて

画像3 疾患の説明を患者に熱心にする医師の様子
(画像 かわいいフリー素材集いらすとやより)

 ブログ主の性格的特徴として、良し悪しは別として新たな目指すべき方向性を見出し、自分の頭の中で現在位置の確認、現在なすべきこと、短・中・長期的な必達目標などを一通り整理して自身で納得すると妙な高揚感を感じて、嬉しくなることがある。この時もそうだった。サラリーマンと目指した夢は筋疾患発症で挫折せざる負えない状況に追い込まれたが、それに代わる別の大きな目標が見つかり、体中の全細胞が喜びに満ちていた。この時から約10年経過した現在では、笑い話の類だが少なくともこの当時はそうだった。やっと病名が決まる、そしてその瞬間から別の人生がスタートする、と考えると
居ても立っても居られない心境になった。論理的な思考を行動の中心に置く割には、ブログ主の場合単純なところがある。高校まで運動をしていたので、基本的には脳みそ筋肉男なのだろう。そんな自分が嫌いではないが・・・。発想を180度転換させると、これまでうじうじとしていた自分がくだらない愚か者に感じて、『あんなの俺じゃないよ』と軽く軽侮するようになる。何よりも非生産的なことが嫌いな性分だ。残された時間も限られている。いじけて同じ考えをループする暇などない。極論すれば1分1秒さえ惜しい気持ちにすらなった。この発想をし始めると、黒いモヤモヤなどが現出する余地など皆無となりこの時期を最後に2度と出なくなった。あれは、自分の弱さと言うか心の隙間に入り込んだ邪悪な存在で、完全に追い払った。疾患名告知のXデーに向け、意味不明な妙なヤル気と言うかそこから力が湧いてくるような気がした。
 
 仕事もいつものブログ主の戻り、部下などには『〇〇長(当時の役職)、何か完全復活ですね。何か良いことでもあったのですか?』と聞かれるぐらいだった。答えは決まって『まあな』で適当にお茶を濁したがヤル気とこれまた意味不明な幸せ感(?)の空気を醸し出していたのかも知れない。前回書き忘れていたことを補足したい。実母への報告はブログ主よりも先に、家内が報告していたらしい。この時期に黙っておくのバツが何となく悪く、報告する必要性は感じていた。休みの日に電話で報告しようと思い色々と頭の中を整理して臨んだが、その時に実母の反応が意外と鈍いことに疑いを持ち問い詰めると家内が大学病院通院当初に報告していたらしい。『あの馬鹿たれが(笑)』と思ったが、責めるほどの事もないので不問にした。実母も心配だったらしく、ブログ主の通院日は大体把握していた。と言うか家内が、通院のたびに自ら報告したり向こうから様子を聞いてきたりしていたようだ。そこの部分ではブログ主は蚊帳の外に置かれていたようだ(笑)。因みにブログ主の実母と家内は親子のように仲が良い。嫁姑問題は我が家に関しては縁がない。妹とも同様でその点は満足している。まあ、離れて暮しているとはいえ、実の息子がそんな難病らしきものを疑われていたら、心配もするだろう。実母に心配をかけている自分自身を少しだけ恥じた、こればかりは不可抗力でどうしようもないのだが。先に説明したような妙な高揚感を数か月維持したまま、あっという間に時間が過ぎ去り、クライマックスのXデーが近づいた。

その9へ続く

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シリーズ記事 闘病記 リメイク版 2008年の出来事
関連記事 特別版『将来の封入体筋炎患者へ ブログ主の闘病史


【注意!】

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【述懐その19】 09年初頭
家内への報告


画像1 大粒の涙を流す女性
(画像 かわいいフリー素材集いらすとやより)

 大学病院を後にして車中で、どう話を切り出そうかと悩みに悩んだ。息子を部屋に追いやり、ありのままをそのまま報告するしかないと決めた。方法は決めても、最初の切り出し文句が浮かばない。当事者であるブログ主も心の整理がまだ終わっていないのだから、当然だ。こんな時というのは得てして時間の経過が驚くほど早い。あっという間に自宅マンションに到着した。帰宅は15時半頃で、夕食にはまだかなり早い。息子はまだ小学校から帰宅していなかった。これを幸いに思い、一気に家内に報告した。①現状では
『ミトコンドリア脳筋症』(日本筋ジストロフィー協会HP)が最有力 ②次点で、『筋ジストロフィー』(難病情報センター)の可能性も否定出来ないこと ➂3月のMRI検査で疾患名を特定し、宣告するので家族同伴が必要な事 ④この疾患理由で少し遠い先には確実に死に至る事 を声のトーンを極力落とし、冷静かつ義務的に報告した。痛恨な気持ちを出して言うのは、立場上憚られた。家内の様子は最初は、厳かな表情だったが後半から目から大粒の涙が溢れていた。最後まで聞き終えると目頭を押さえ、寝室に走った。それを見てもらい泣きをしたくなったが、ギリギリで踏み留まった。別に泣いても構わないのだが、理由は定かではないがなぜかそうした。家内は閉じこもりは意外と長く1時間以上に及んだ。寝室の前に立つと家内の泣き声が聞こえてきた。09年当時、ブログ主は40歳を過ぎたばかりで家内は30代半ば、結婚して10年目に入ったばかり。そんな夫婦に突き付けられた現実は、重く厳しいものだった。いきなり、宣告され『はい、分かりました』などと簡単に受け入れられるものではなかった。そうこうしていると息子が小学校から帰宅してきた。いつもいる筈の母親がおらず、いない筈の父親だけがリビングに呆然と立っている。非日常的な風景に、驚いていたが『母さんは体調が悪いから』とか意味不明なことを言い、最後に『まあ気にせず、宿題でもしろ』と子ども部屋に追いやった。ブログ主もまだ宣告から数時間で、酷いダメージを食らい立ち直っていない。

 17時近くになり、家内が真っ赤な目をして腫れた状態で出てきた。かける言葉は探したが、見つからなかった、ブログ主としても泣きじゃくる姿はさすがに想像しなかった。きびきびとした動きで、夕食の準備を始めた。手伝っても邪魔になりそうなので、手持無沙汰気味にリビングに立っていたが家内は重苦しい沈黙を破るようにこう言った。『一番大変なのは、パパ(ブログ主のこと)だよね。頑張るパパを支える』だった。確かに言われるとその通りなのだが、悲しませて泣かせた自責の念もあり罪の意識が少しだけあった。機嫌が直ったと言うか、無理やり感はまだ満載だが、気持ちの切り替えをする家内になぜか心を打たれた。同時に結婚相手に間違いはなかった、と再確認もした。息子がいなければ抱きしめたくなる衝動を抑えかねただろう。ただ、気を緩めた時に見せる表情はいつものものではなく、やはり落胆したメンタルの回復には時間がかかりそうだった。息子への報告については、家内が折を見て、『少し難しい病気になった』とだけ知らせるに留めることにした。死など感情のさざ波が大きくなる言葉は今の段階では伏せることに。さすがに小学校2年生では、無理があり過ぎる。その後、一人で入浴をして浴槽に浸かっている時に、今日の出来事は簡単に振り返った。ここ10年で最大の出来事があった日に違いないと確信した。『俺って、ドラマや小説の世界の主人公みたいだな』とも思った。別に悲劇の主人公を気取るつもりは毛頭ないが、冷静に考えても確率的にそうだと思ったのだ。ミトコンドリア脳筋症の国内内患者数は、後から知ったが1000人未満。希少性で言えばそうなる。思いにふけることがあり過ぎてつい長湯になってしまった。久々の一番湯の気持ち良さにも、少し気を許したようだった。ただ、この日を境にメンタル蓄積ダメージは徐々に減り始める。

【述懐その20】 09年初頭
『黒いモヤモヤ』からの解放と難病の受け入れ
時間を逆算してなすべきことを探す発想に切り替わる


画像2 
『黒いモヤモヤ』を的確にイメージさせる画像がなかったのでこれでご容赦を(画像 かわいいフリー素材集いらすとやより)

 可能性が高い疾患名を担当医から示されたことで、
ミトコンドリア脳筋症に完全に絞ったネット検索を開始した。正直なところ、希望的な観測を一つも持てない情報ばかりで、この点は途方に暮れたが、大きな変化が実はあった。以前であれば、絶望的な情報に触れ、メンタル蓄積ダメージがさらに跳ね上がるところだったが、冷静に受け止め内容を消化する自分がそこにいた。ダメージはそれなりに受けている筈だが、軽微に近かった。メンタルの健康を害しかけている頃には、正直なところ自分の今後ばかり考えていた。報告時の家内の様子に触れ、我に返った。ブログ主が一番大変なのは言うまでもないが、家族も同じぐらいの重荷を背負うことを遅まきながら知った。自分は決して一人ではなく、親身になり支えてくれる家族がいると。過度の負担を強要するのはご法度だが、負担しきれない時には、少しだけ手伝ってもらえればいい、とも思った。1から100まで全て背負いこむ必要はない、と発想を転換した。同時に不安もよぎった。私がどちらかと言うと利己主義かつ打算的な性格の人間だ。始末が悪いことにそんな性質を覆い隠す術も心得、『人間はだます人間よりもだまされる人間のほうが非がある』と本気で思っていた。そんな気質だからこその杞憂だが、先が見えた男と小さな子供を抱えて結婚生活を継続するのか?その不安があったのだ。家内は09年当時家内は30代半ば、その気になれば人生のやり直しなどいくらでも可能だ。利害がない第3者からすれば、窮地に陥っている時こそ家族が手を取り合い頑張るのが当然だと言うだろうが、現実はそんな理想論で進まないことも多々ある。この時期にはさすがに怖くて聞けなかったが、10年近く経った頃(17年頃)に思い出すかのような口ぶりでそれとなく聞いたことがある。家内は毅然としてこう答えた。『パパは私が知らない多くの世界を教えてくれて、人並み以上の生活させるために死に物狂いで頑張ってきた。そのパパが窮地に陥ったら出来ることはして支えるのが当然』と。さすがに目頭が熱くなり、感涙を誘った。これまでの結婚後の人生の評価点が100点満点で90点以上に採点されたようで、嬉しかった。09年に話を戻す。

画像3 高齢者の死への準備『終活』のイメージ図
(画像 かわいいフリー素材集いらすとやより)
 
 家内に報告した日を境に例の厄介な『黒いモヤモヤ』の登場回数が劇的に減り始めた。登場しても時間が短かったり、モヤモヤの濃度が薄かったり、規模が小さいなど小規模なものになった。ブログ主のメンタル蓄積ダメージを反比例させるかのような存在だった。そしてその数か月後、完全に現れなくなった。完全に撃退した。これは自己努力とかではなく、自然回復の過程で勝手にいなくなった(笑)。ネット検索をしているうちにとあることを考えるようになった。この時点で現状では治療方法が皆無で、希望的な観測は別として今後の出てくる可能性は皆無に等しい。生命予後は100%不良。この事実はブログ主がいかなる努力をしようと変えられない。であれば、この事実を悲しいことではあるが受け止めそこから逆算して、筋疾患進行の過程で何をなすべきなのか、である。時間を逆算して今必要なことを身体が動くうちに最大限行うしかないと。ここまでポジティブに発想が転換出来た原因は ①報告した日の家内の態度にいつもの自分を取り戻す機会となった ②急激に現実を真摯に受け入れる耐性が出来つつあった ➂克服したとは言い難いが状況に慣れつつあった 以上3点があった。典型的な時間が薬だった。サラリーマン世界で最終的な目標地点を定め、そこに達するには何をすればよいのか?この発想で人生を歩み、ほぼ達成しつつあったのだが、それを諦めざる負えない状況になったのは非常に残念だったが、こちらの方は当時はまだ日常生活障害が軽微なものだったので、『その気はその時だ』と漠然と考えていた。では、何を現時点ですればよいのか?その答えは中々見つからなかった。実家の実母がたまたまブログ主の家に遊びに来た時に、高齢者の『終活』の話をしていたのはふと思い出した。心の中で『これだ!これ!』と手を打った。

その11へ続く
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シリーズ記事 闘病記 リメイク版 2008年の出来事
関連記事 特別版『将来の封入体筋炎患者へ ブログ主の闘病史


【注意!】

 このシリーズ記事は、ブログ主が08年春に封入体筋炎を発症した当時のことを振り返り、記事にしています。よって19年現在の心境とかではありません(笑)。その辺を十分に踏まえた上でお読み頂ければ幸いです。では、始めたいと思います。


【述懐その17】 09年初頭
3度目の大学病院通院 その1
午前の検査-CT検査と知能検査


画像1 正月に玄関や車に飾る正月飾り(しめ飾り・輪飾り)のイラスト(画像 かわいいフリー素材集いらすとやより)

 結婚後、史上最悪なメンタル状態のまま09年正月を迎えた。御用納めまでは、年末特有の気忙しさもあり仕事にいい意味で傾注し、自身の身に起きている異常の事を考える時間が少なかった。『黒いモヤモヤ』の登場も自ずと減ったが、休みに入り自由な時間が増えると狙いすましたように奴は、ほくそ笑みを浮かべ必ず現れた。登場当初は、真正面から受け止めなすがままにされた。どうバリヤを張ろうが来る時にはこちらの都合などお構いなしに来る。防ぎようがなく、正直怯えた。途中から、対策を講じること自体、いや、考えることさえも無駄と悟りやめた。『不可抗力でどうしようもない。来たいなら、ご勝手にどうぞ?』と思うようにした。良くも悪くも匙を投げた。クソ真面目に受け止めても、バカを見るのはこちらだとやっと気づいた。無理して明るく振舞っても、痛々しさだけが周囲に伝わり逆効果だとも思い、さすがに心のままに振舞うことはなかったが、必要以上に気を遣うのは家ではしなくなった。ただ、影響を考慮して息子の前だけは注意した。『去年の今頃は・・・』とどうしても考えてしまった。その正月休みもあっという間に過ぎ去り、3度目の大学病院受診が訪れた。この日は午前の検査にCT検査(国立国際医療研究センター病院HP)と知能検査があり、午後から受診という前回同様のパターンだった。この日の食事は、午前10時からCT検査の関係上、7時前までに朝食を済ますことを義務付けられた。9時過ぎにヨード造影剤注射を行い、10時からCT検査、11時からが知能テストが午前の予定となっていた。多少の時間の余裕を以て8時45分頃に大学病院に入った。この日も会社は有給消化で休みを取り万全を期した。そして半日仕事が始まった。

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画像2 09年当時の広島大学病院の診療棟(現臨床管理棟)の様子 (画像 ブログ主撮影)

 CT検査はよく聞く言葉だが、X線を検査部位に当ててコンピューター解析をして断層写真を画像化するものだ。こうした検査は、ランダムに行わず検査入院して一気に行うほうがベストだ。疾患名特定も早くなる。当然、当時の担当医にも検査入院を勧められた。しかし、その時の私の状況がそれを許さなかった。管理職の立場にあり、2~4週間の休みなど物理的に不可能だ。そんなことをしたら自分のサラリーマン人生に禍根を残すと考えていた。1~2か月に1度の有給消化が関の山だった。当時はそのような俗世間的なことを当たり前のように考えていた。定刻通り、9時頃に造影剤注射を処置室で打ちCT検査器具が置かれている検査室付近で待機した。9時半頃に受付を済ませ、バスローブのような専用服に着替えた。当然、時計のような貴金属類は外した。撮影の邪魔になるからだ。特定の検査部位はなく上肢や下肢関係なく調べた。所要時間は、30分強で済んだ。検査器具もMRIほどのサイズではなく、棺桶に入れられたというか閉じ込められたような圧迫感はなく、許容の範囲だった。検査技師の指示に従い、滞りなく検査は進みそして終わった。着替え直し、次の検査が行われる場所へとそそくさと向かった。意外と時間の余裕がない。工場の流れ作業のベルトコンベヤーに乗らされている気分だ。2階の処置室に向かった。何とか予定の11時の間に合い、簡単な説明の後にすぐに始めた。そんなに難易度は高くなく、一問ごとにストップウォッチで時間を計測しながら進める形式だ。懐かしいものを感じたが、そんな感傷はすぐさまなくなり、本気モードに入った。遊びではなく、真剣そのものの疾患特定の検査なのだから。話だとテスト後、すぐに採点され午後の検査までに結果を出すようだった。要領を何となく得て頃にそのテストは終わった。出来栄えは自分で言うのもなんだがそう悪くはないと、根拠不明の確信があった(笑)。割と簡単な問題などが多く、予想よりも楽だったからだ。こうして午前の予定は終了した。


画像3 一般的なCT(画像 医療法人徳洲会HPより)

【述懐その18】 09年初頭
3度目の大学病院通院 その2
午後からの受診

画像4 シリアスな問診を患者にする医師(画像 かわいいフリー素材集いらすとやより)

 段原サティ(現広島段原ショッピングセンター)で簡単な昼食を取り、13時前に再び大学病院に戻った。すぐさま採血室に向かい血液検査を行った。検査結果が判明するまで約1時間ほどかかる。脳神経内科の受診室付近で待機した。予約時間は14時からだった。前回受診で、担当医が何かしらの確信らしきものを得た様子を思い出し、『疾患名特定も意外と早いかも・・・』と考えた。まあどちらにしても今後はいばらの道が続くのは、安易に予測できた。腹を括るしかないと覚悟を決めないといけない場面だが、まだメンタルに相当のダメージが蓄積されているブログ主は、決める覚悟が出来ていなかった。我ながらメンタルの弱さにうんざりした。予想もしなかった弱い自分を再発見して、同時に自己嫌悪にも墜ちた。こんな悪循環を繰り返し、ダメージを知らないうちに蓄積するのだが、こればかりはこの時期ではどうしようもなかった。色々と物思いにふけっていると名前を呼ばれ診察室に入った。書き忘れたが、この日はあるものを持参していた。それは、この疾患で一番最初に受診した近所の整形外科で撮影したMRI検査画像である。借りて持参した訳だが、早く特定を行いたいと思いそうした。それを入るなり担当医に渡した。受け取った担当医は、それを凝視していた。そしてこう言った。『この画像をしばらくお借りしてよろしいでしょうか?』。異存はなかったので了承した。前回の筋電図検査の結果説明から始まった。この筋電図検査は検査技師の所見も報告されるらしい。技師の見解は、この時点で一番疑わしい『ミトコンドリア脳筋症』(日本筋ジストロフィー協会HP)が第1候補となっており、次に『筋ジストロフィー』(難病情報センター)の可能性も否定出来ないといった感じだった。この時点で、担当医と検査技師の予測がほぼ一致した。正体不明だったものが、不明でなくなりつつあった。いやほぼ判明した。

 後から聞いた話だが、私を担当した検査技師の所見の信頼度は、大学病院でも最高レベルにあったようだ。私としては、何れも20~25年で死に絶える病気なので複雑だった。今回の血液検査でも、乳酸値とピルビン酸数値の高さが際立っていた。担当医に手渡した下肢部分だけのMRI画像を見ながら、私にこう言った。次回はMRI検査を行います。検査部位は身体中の筋肉の全てです。お借りした画像を見ても、やはりミトコンドリア脳筋症の疑いが濃厚です。これはまだ確定ではありません。現時点での所見です。最終検査の筋生検の予定は現時点でありません』と。この時はこんなものだろう疑問もなく受け入れたのだが、今振り返ると恐るべきスピード診断なのだが、その時は知る由もなかった。この担当医の所見で、ほぼ死刑判決を受けたのと同然だった。刑の執行こそ数年後ではないが、この疾患理由で結局は死に至る。命の賞味期限を宣告されたようなものだった。まあ、この時点ではあくまでも所見という言葉で包まれていたが、実際はそうである。予測されていたことだが、やはり担当医に直接言われるのはメガトン級の重みがある。私のメンタルに与えるダメージを考えていた。『絶対に当分は立ち直れない』と思った。こんなことを考える余裕が出てきているので、最悪期からは脱していた。恐怖を克服したのではなく、多少慣れて耐性が出来つつあるといった感じだった。克服と慣れるでは似て非なるものだ。要はメンタルダメージさえ減れば、どちらでも問題はないが。最後に次回の受診には家族の同伴を求められ、承諾書らしきものにサインを求められた。季節は09年1月、筋疾患の初期症状が現れ始めて、9カ月が経過していた。担当医は次回のMRI検査で最終判断を下すつもりだった。これを聞き、家内にどう説明しようかと頭を悩ませた。これはどう考えても、大変なことになると思った。そんなことを考え家路に着いた。

その10へ続く

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