コミケにおけるコスプレの存在って、そもそも何だったのか?
 なぜ同人誌作家から見て、コスプレは必ずしも歓迎されないのか?
 コミケの文化とコスプレの文化、どうして離れていったのか?
 今回はそんな内容です。ちょっと古い話が多いんですけど。
 あ、もちろん個人の主観による部分も大きいんで、他の人には他の史観があると思いますが、ひとつの資料として。

 なお本稿は、12月7日にデータハウスさんから発行予定の「コミケの教科書」(別窓開きます)用に書かせて頂いたものですが、ご厚意により、このブログ記事としても使わせて頂けることになりました。
 いつもとちょっと書き方違ってたり、いつも以上に説明臭いのは、元の原稿が書籍用だからです。注釈が最後部に載ってたりして、読みづらいのはすみません。

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× × ×
 
 コミケではいつの間にか当り前の様になっている、コスプレの存在。それはどこから来たのか。
 仮装の文化自体は大昔から存在し、SF大会などでもあったそうですが、コミケにおいて起原とされるものは、C5(1977春)の「海のトリトン」…とされています。
 80年代以前、昭和の時代に関しては私は詳しくありませんので、準備会の発行している「コミックマーケット30’sファイル」や、別冊宝島「私をコミケにつれてって!」が良い資料になると思います。(※2)
 なお、現在まであらゆるコスプレイベントでのルールであり、マナーとして認識されている「コスプレのままの来場禁止」「会場外でのコスプレ禁止」が明文化されたのは、C23(1983春)。理由はやはり、警察からの「風紀を乱す」という自粛要請。コスプレは視認性の高さから、昔からトラブルの元になり易かったのです。
 その後、C34(1988夏)で女性用更衣室が、C37(1989冬)で男性用更衣室が作られました。それまでは物陰で着替えていたそうです。
 

[~1990年代:アナログの時代]

 そんなコスプレに、外の世界から…つまり、商業的な目が向けられる様になったのは、90年代前半~中盤にかけて起こった、俗にいうコスプレブーム。
 アニメでは「セーラームーン」「幽遊白書」
 ゲーム系でもスーパーファミコンや次世代機の普及でグラフィックが向上した事で、プレイするだけでなくそれに同化したいという欲求を掻き立てました。「キング・オブ・ファイターズ」「サムライスピリッツ」「ファイナルファンタジー」…。上記と併せて、これらが90年代中期までコスプレの人気作品5強でした。
 また、別々に活動していたロボットアニメのファンが、「スーパーロボット大戦」を媒介として集合する様子もありました。

 C40(1991夏)で男女合わせても一日200人程度だったという更衣室利用者は、C47(1994冬)では一日約3000人。つまりたった3年で15倍に膨らみました。
 ちなみにその17年後のC80(2011夏)では一日約6000人なので、90年代前半での急激な増加率がいかに凄かったかというのが分かると思います。(※3)
 あまりに急に増えた事で、情報交換や注意を呼びかける意味で、C48(1995夏)から小冊子「チェンジ」(更衣室登録許可証)が創刊されます。

 これらをアニメ雑誌だけでなく、一般向けゲーム雑誌が取り上げる様になり、熱に拍車をかけます。
 この時期、流行ったのはゲームメーカーによる“公式コスプレイヤー”企画。メーカー側にしてみれば、コスプレイヤーはまさに歩く広告塔だったのです。衣装も自前で用意しちゃうし。(※4)

 さて、長くコミケで使用されていた晴海(東京国際見本市会場。コスプレイベントで多用される客船ターミナルホールの目の前。現在は空地)は、ビッグサイト(東京国際展示場)へ機能を移すため、1996年3月で閉鎖されます。
 90年代コスプレブームの一つの頂点、そして「ガンダムW」「エヴァンゲリオン」旋風の吹き荒れる中、晴海最後のコミケとなったC49(1995冬)の夕刻…、南館2Fのスロープから延々と続く、更衣室待ちの女性コスプレイヤーの大行列は、次回まんがレポートで「コミケ史上最も華やかな行列」と表現されました。
(翌96年3月には、“さよなら晴海コミケットスペシャル”が小規模に開催されます。余談ですが2週間後の3/31にコミックシティが、晴海最後の日のイベントとして“HARUコミックシティ”を開催し、これが現在まで続くHARUコミの起原です)

 他の企業や団体なども動き出します。
 山一証券を脱サラした木谷高明社長の率いるブロッコリー社は、同人誌即売会“コミックキャッスル”とコスプレダンスパーティ“コスパ”を初期の二本柱として展開しました。
  1994年以降、コスパは六本木ヴェルファーレや神楽坂ツインスター(バブル終了後、これらディスコは凋落傾向であった。不振の商業施設がコスプレで集客を図るという最初期の例)を借り、最盛期は千人超の動員に成功します。これ以降、イベント開催や衣装制作へ、企業や業者が積極的に関わってくる様になりま す。
 後にコスパの運営はブロッコリーから、衣装製作会社“コスチュームパラダイス”に移行。現在「コスパ」の名称は、同社によるグッズやコスプレ衣装のブランド名として知られています。
 また1997年には後楽園ゆうえんち“ハロウィンフェスタ”が開催され、コスプレのまま遊んだり食事できる…という魅力は、後の遊園地・テーマパーク系の大型イベントの走りとなりました。(現在に続く東京ドームシティ・コスプレフェスタ)

 コスプレイヤーをモデルにしたムック本や写真集もいくつか出版されました。
 それらはどこか、エロスを感じさせる編集方針であったりしたので、コスプレイヤー向けではなく、素人物のエロに興味のある男性読者を想定していた感は否めません。最初は物珍しさで売れましたが、徐々に消えていきました。(※5)

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 そう。世の中、良い事だけは起こりません。

 この時期に増加したのが…エロ雑誌盗撮ビデオ深夜番組ワイドショー取材
 彼らの目的はもちろん、過激な露出系のコスプレ
 そのコスプレの裏にある、熱烈なファン意識やこだわりなんて、伝えようとはしてくれません
 うっかり取材に答えてしまったけど、後でとんでもない扱いをされていた…そんなトラブルも続発します。

 今も昔も、コスプレイヤーの多くは、風俗用語としての「コスチュームプレイ」と混同される事を、最も嫌います。(重要!)
 こうしてコスプレイヤーは、外のメディアに対して、不信感を募らせました。
 後にコスモード誌の大門太郎編集長はシンポジウムなどで「ちゃんとしたコスプレ専門雑誌を作るため、色んなレイヤーさんに声をかけたけれど、10人中8人は断られました。どうしても、えっちな雑誌だと思われて警戒されてしまって…」と回述しています。

「エロい衣装を着ていても、私生活や人格までエロエロって訳ではないのに…」
「好きな作品やキャラと一体化したい!っていうファン活動なのに…」
「痴女や風俗のイメージで見ないでほしい…」

 それは、コスプレイヤーの世界が永遠に抱え続ける、ジレンマなのかもしれません。

× × ×

 そして、コミケ関連のニュースや記事であっても、過激なコスプレばかり取り上げられて偏ったイメージが流布される状況は、同人作家から見ても気持ちの良いものではありませんでした
 また、コスプレ絡みで起きるトラブルも大小様々。
 危険な小道具の持込み・撮影による通行妨害・盗撮騒ぎ・怪文書etc…コミケ準備会内においても、コスプレ不要論が度々浮かんでは消えていたと言います。

 C51(1996冬)、大使館職員を名乗る人物から、ナチス軍服の集団がいる事への抗議活動が予告され、急遽、軍装レイヤーには腕章などを外してもらう事態が発生しました。コスプレの視認性の高さが、悪意の標的となったのです。
 この経緯を説明したC52(1997夏)の更衣室小冊子「チェンジ」において。
 ついに米沢嘉博代表(2006年逝去。肩書は当時)により「コスプレも自分の肉体と衣装を使っての表現」と定義されました。コミケにおけるコスプレの存在が何なのか、ここでようやく、明確に定義されたのです。(※6)
 長らく更衣室担当を務めた牛島えっさい氏はこの時期、「僕がいる間は、コミケのコスプレは大丈夫です」と雑誌などで宣言してくれました…が、これらの言葉の裏を読むに、コミケにおけるコスプレ存続への危機感と、それを越えるために尽力した多くの人々がいたという事は、忘れるべきではありません。
 歴史にifはありませんが、コミケ以外にはコスプレ可能な大規模イベントがあまり存在しなかった時期、もしコミケが「コスプレ禁止」に踏み切っていたら…?
 コスプレの世界は、大きく違うものになっていたかもしれません。

 それでも、アナログ時代は今よりまだ、おおらかだったかもしれません。
 中には目立とうとして露出の多い衣装を着てカメラマンを煽る様な人達もいましたが(今も昔も)、昨今の男性向ROMに比べたら、カワイイ程度です。
 だってデジカメもネットも無い時代、コスプレを撮った写真なんて、撮った誰かのアルバムや本棚に並ぶだけでしたから。
 コスプレイヤーの側からしても、せいぜいカメラに囲まれて自己顕示欲を満たせるだけで、お金なんか動きませんし。
 また、このアナログ時代にも写真集サークルは若干、あるにはありましたが、写真を焼き増ししてファイルに貼り付けてたり、カラーコピーや家庭用プリンタだったりする、小規模なものでした。

× × ×

[2000年代~デジタルの時代]

 デジカメとインターネットの普及は、コミケの外で、コスプレにも進歩をもたらします。
 今まで知られていなかった、革新的なテクニックや完成度の高いコスプレイヤーの存在が、ハイスピードで情報共有されていきました。

 例えばウィッグ。昔は地毛をスプレーで立てたり着色していたのですが、手間がかかるし周りも汚れます。しかし、ウィッグなら着脱も簡単だし、発色も髪型も
(元の顔よりかは)二次元キャラに近づける事に気付きました。
 併せてメイク。ウィッグに顔が負けないよう、そこでビジュアル系バンドのファンがやっていた様なV系メイクや、ロリータ系ファッションのドールメイクの方法論が持ち込まれます。元を塗りつぶして、その上に新規で造型(…)するわけです。この時期以降、眉をウィッグと同色で描くために、女性レイヤーは自眉を全剃りする人も多くなりました。
 他、それっぽい生地や装飾品が何処で安く売られているかもすぐに情報交換されます。100均の玩具や掃除用具は、武器や魔法の杖に改造されました。
 いやもう、自作しなくても、衣装そのものがオーダーメイドや既製品で出回っていきます。(※7) 2000年代に入ってから中国では経済開放が進み、人件費の安い中国の工場で衣装製作が下請されたのも大きいでしょう。
 一眼レフカメラは買えなくても、フォトショップの廉価版や、フリーソフトを入手すれば、ある程度の画像加工や修正も可能です。
 この辺で完全に、写真写り(それをブログSNSで公開して見せ合う)を前提としたコスプレが主流となりました。

 この2000年代前半、新たにコスプレ人気を牽引したのは、ご存知、「テニスの王子様」
 Tシャツ短パンは自作するのも簡単ですし、公式の既製品のジャージなども広く販売されました。
 何より登場キャラクターが多いので、イベントの度に友達と担当キャラを入れ換えたり、他のグループとくっついたりして、横のネットワークが増えていく楽しさがありました。
 これは現在の「イナズマイレブン」などでもそうです。
 テニプリと同時期に人気を分け、中級者以上に人気だったのが「ガンダムSEED」「鋼の錬金術師」
 ロングコートや軍服や甲冑は少しハードルは高いのですが、故に自作派レイヤーの心を揺さぶりました。

 コスプレできるイベントも、昔はコミケや同人誌即売会の片隅、あるいはダンパ位だったのが、様々な団体が立ち上がって多様化します。
 かつてコミケの準備会スタッフの一部が、コミケの外でコミックレボリューションテナッセンコミッククリエイションを立ち上げて行ったのと同じように、準備会の更衣室担当系のスタッフが、コミケの外でコスプレイベントを立ち上げて行ったのです。それ以外にも色んな団体が生まれ、様々な会場や形態を開拓して行きました。
(追記:テナッセンは主に赤ブー社からの分派であった。ウッカリ)

 バブルの頃に作ってしまい閑古鳥が鳴いていたテーマパークイベントホールが、コスプレイベントを開催した日だけは盛況になりました。
 郊外のテーマパークでも、旅行会社とタイアップして日帰りツアーを組めば、遠方からもコスプレイヤーが来ます。だって、「一般人が少なくて、キレイな背景で撮影できる」ってのが、コスプレイヤーの理想のイベントなんですもの。
 ついには村おこし・町おこしのためにアニメファン向けイベントを企画して、コスプレを歓迎する自治体も出てきました。(徳島マチアソビ富山こすぷれフェスタetc…)
 また逆に、他者の視線と隔離された環境で、じっくり凝った写真を撮影したいという欲求に応えて、スタジオ撮影会も広まりました。近年、不景気で閉鎖された工場や廃墟、旧日本家屋やラブホテルなどを利用したレンタルスタジオが増えており、これを少人数で借りて、撮影するのです。

 2001年にオープンしたコスプレSNS“cure”は、04年に運営がライブドア社に移譲され、その一大コンテンツとなりました。各国版に対応し、現在では国内外から登録者数が約20万人を超えています。
 2002年、インフォレストから創刊された初のコスプレイヤー向け専門雑誌「COSMO」(後のコスモード)は、しばやく後に隔月化します。以前と違いエロ目当ての男性読者ではなく、コスプレイヤーやコスプレを見るのが好きな女性読者を対象にした雑誌が、成功を収めたのです。
 2007年、男の娘ブームの中で一迅社から出版された「オンナノコになりたい!」は、男性による女装コスの人数と水準を飛躍的に上げました。
(ちなみに男性が増えたと言っても、コスプレイヤー全体に占める男性率は、1~2割程度です)
 2003年、テレビ愛知主催の「世界コスプレサミット」が開始され、11年には世界17カ国参加の一大イベントに成長しました。
 2008年、CSフジテレビで不定期ながら専門番組「コスコスプレプレ」放送開始。

 少なくとも国内だけでも数万人超の活動は、当然、社会に何らかの影響を与えます。
 肥大化したコスプレの世界は、その内側に、超巨大な“内需”を発生させていたのです。

 個人的には嫌いな言葉ですが、これらの事象をして「コスプレ業界」とも呼ばれる様になりました。
 そんな華やかさの影で、全体数の増加や低年齢化によるマナー違反やトラブルも多く出てくるのですが、全ての問題を話すと足りませんし、コミケと直接関わりが薄い部分なので省略します。

× × ×

 しかし…一方でコミケでのコスプレは2000年代以降、とっくに飽和状態を迎えていました。
 元々、コミケの趣旨はあくまで同人誌即売会です。コスプレ広場(撮影可能スペース)は、余剰スペースを利用していたのです。晴海では徹夜組を収容していたC館を昼頃から開放していて、ビッグサイト移行後は西3,4ホール屋上広場でした。
 しかし同じ西3,4ホールで始まった企業ブースの出展社が、次第に限定グッズを予告して集客を図る様になっていったので、その行列が回ごとに延びていきます。これを流すには屋上広場を使うしかありません。その為、コスプレ広場が徐々に狭くなっていったのでした…。
 C74(2008夏)からはコスプレ広場が移動し、中庭西地区駐車場(最終日のみ西屋上)に移行します。総面積は広がったものの、どうしても移動経路が複雑化してしまい、離れているので両方を回るのは困難になりました。

 一方、2002年から始まっていた別団体の“となりでコスプレ博”は、回を追うごとに拡大し、コスプレイヤーの受け皿として人気イベントへと成長します。
 これはコミケ同日に東京ファッションタウンビル(TFT)やディファ有明を使用し、コミケに便乗する形でコスプレイベントを開催。ついには入場規制が起こる規模まで発展しました。
 だって、コミケに比べて長物アイテム持込み可だし、冷暖房あって快適だし、何より勝手に撮影された写真がネットに晒されて、在宅評論家の方々から叩かれるリスク減るし。
 …純粋な同人作家や同人誌ファンは、知らないと思います。
 コミケのすぐ脇で、そんな大規模なコスプレイベントが行われているなんて。(ゆりかもめの駅から、ちょっと見えるかな?)

 それにより、コスプレイヤーにとっては、「コミケでコスプレする」という事への意味や憧れが、少しずつ、薄らいでいったのも事実だと思います。
 人気レイヤーのブログや予定表には、「◯日はコミケで買い専と挨拶回り。その後、となコス」みたいな表記が多くなりました。コスプレ雑誌の取材でもコミケではなく、となコスを優先的に取材する様になります。
 同人誌を売るなら会場内に人が多い方が良いに決まってますが、コスプレイヤーは必ずしも多くの人に現物を見てほしい訳ではないので、正直、コミケの過酷な環境は忌避されたのです。

 コスプレイヤーの参加人数で見ればコミケはまだ日本一ですし、勿論コスプレイヤーだって、同人誌は大好きです。コミケは大好きです。でも、コスプレする場所としては…コミケしか無かった時代に比べるとやっぱり、そこまで特別なイベントでは、無くなってしまう訳です。※3のアンケート回収数を再見)
 他イベントでは居場所を失いがちな、着ぐるみ昔のアニメネタ系コス、そして女装軍装などは、あくまでコミケでのコスプレ参加にこだわり続けていますが…。
 C80(2011夏)、コミケット準備会は「物ではなく行動を規制する」という新方針を打ち出し、長物規制の大幅緩和や露出基準の明確化を行い、それは好評だったのですが、根本的な混雑(や無断撮影の多さ)の問題はどうしても解決困難です。
 くどい様ですがコミケは同人誌即売会であり、コスプレ撮影会ではないのですから。

 「昔は良かった」なんて言いたくないですし、今の方が楽しいですし、これから先だって、もっと良くして行けば良いのだと思います。
 しかし、取り戻せないほど変わってしまったものがあるのも、事実です。
 こうして、コミケとコスプレの文化は、少しずつ分かれていきました。
 それはコスプレが、父母であるコミケから、一人歩きを始めたのかもしれませんが。

 写真文化が発展した事・コミケが特別視されなくなった事などは、この後に起こるROMの問題にも絡んでくるかもしれません。


[関連記事]
コミケにおける18禁コスプレROMに関する,ざっくりとした小史[第三回/わいせつ図画問題編]
資料: 91年,コミケ幕張メッセ追放事件 

文中の注釈■(1が無いのは、書籍原稿を再構成しているという事情なのである)

※2:
別冊宝島358「私をコミケにつれてって!」(宝島社・1998年刊)
90年代までのコミケ…いや同人誌やコスプレの文化を読み解くには、最高レベルの資料となる筈。本稿でも資料として使わせて頂いた。
初期コミケにおけるコスプレの盛り上がりや、コスプレイヤーが持ち込んだボールで照明を割ったり、真剣を抜刀したりしたトラブル、そして対応に苦慮した準備会が「更衣室担当」を部署として新設した経緯などが詳しく書かれている。

※3:
コミケにおけるコスプレイヤー数=更衣室利用者数なのだが、昔は正確な人数は数えられていなかった
数字的根拠として「私をコミケにつれてって!」内の、「1991年でコスプレイヤーは1日におよそ200人」「1994年冬になると、とうとうコスプレ登録は6000人を数えるほどになる」という記述がよく引用されるが、後者C47はあくまで2日間合計の人数だと思われる。
当時は更衣室利用者には「チェンジ」ではなくアンケート用紙のみ配られていたので、アンケート回収率はかなり高かったのだが、それでも回収数はこのC47の2日間合計で4479枚程度だったので。
また、コミケ全体の参加者数が現在の半分程度だった94年頃に、コスプレイヤーだけ現在とほぼ同数だったとは、考えにくい。
ちなみに最近はアンケート回収率がかなり下がっており、C78(2010夏)は3日間合計でも489枚。レイヤーは2倍以上に増えたが、アンケート回収数は1/10に。コミケへの参加意識の変化が見える。

※4:
ゲームとコスプレの親和性が特に高いのは、著作権が複数社に渡って複雑に絡むアニメと違い、ゲームは自社の著作物なので、公認しやすかったから、とも言われる。
例として、1997年に始まった“東京ゲームショウ”では、初期において同人誌即売会(ただし性表現を含まない全年齢向なもの)、そしてコスプレ1000人パレードなどの企画があった。つまりゲームショウはおもちゃショー等の見本市イベントと違い、最初からオタクの動員を見越していたと言える。
2010年からゲームショウはコスプレを公式催事としたが、それによって動員を図っている面も否めない。コスプレ歓迎を謳いつつ、撮影可能スペースが非常に狭いのである。
(参考記事: 1997年~東京ゲームショウ小史

※5:
ゲーム雑誌で最初に扱ったのは、リイド社が1994年に創刊した「GAME遊Ⅱ」。そこから他誌も目を向ける様になった。
写真集としてはリイド社の「コスプレ天国」、キャロット出版の「コスプレイヤー大集合」などがヒット。コスプレ天国は1,2巻合わせて5万部も発行したというが、2号はかなり部数が落ちていたそうな。企画ものは、飽きられるのも早いのだ。
(参考記事: コスプレ雑誌の光と影の15年史

※6:
文脈としては…前回のナチス軍服への対応の説明と、本来、コスプレを含むあらゆる表現はコミケにおいて同価値に存在しなければならないが、それには今のままの意識ではダメ。例えば軍服が好きなら、歴史や意味も考えてこそ…というレイヤーへの自覚をうながすもの。
なお通常、チェンジに米沢代表からの言葉は載らないので、コスプレイヤーを驚かせた。
またこのC52においては、カタログでもコスプレを「個人の表現」「表現の一形態」と定義している。

※7:
版権元から正規ライセンスを取得して既製品コスプレ衣装を販売…といえば、まず1995年設立のコスチュームパラダイス(コスパ)が先駆者。
またアニメイトも独自のコスプレブランド“ACOS”を有している。
玩具最大手のバンダイは2001年「百獣戦隊ガオレンジャー」から劇中ジャケットの一般販売を始め、戦隊や仮面ライダーのアパレル販売は毎年の恒例となった。
ついに今年、コスプレSNS内のバナー広告にまで、バンダイ通販サイトが登場。度肝を抜いた。
(参考記事: 中国とコスプレ


[追記1:どうでもいいことですが]
「なんでコスプレイヤーって化粧濃いの?」ってよく聞かれるのですが…その答えの一説を。
「アレは顔ではなく小道具だからです。剣や鎧を塗装しまくるのと同じです。通常のファッションは本人を美しく見せるのが目的ですが、コスプレの場合は顔・衣装・武器などトータルでキャラや世界を表現するのが目的なので、通常のファッションの概念で見るとおかしくなります」
(画像加工に関しては、個人的には「加工美」「フォトショ美」って美の概念をですね…モゴモゴ)


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