「お象様」帝に謁見
動物園の人気者といえば、やっぱり象!
体はでかいのに、長い鼻を器用に使ってエサを食う様子はもうサイコー!
しかし野生の象はもちろん日本にはいません。
だから江戸時代に象がきた時は大騒ぎになりました。
象がやってきて大騒ぎになったのは享保13年のこと。将軍吉宗の時代です。桃山時代にも、象がきたことはあって秀吉が大喜びしたそうですが、享保13年の時はまさに大騒ぎ。
なんでかと言うと、長崎から江戸に象を輸送する最中、京都で中御門天皇が「象見たい」と仰せだから。
さあ大変だ。帝のご希望を却下はできないし、でも帝のおわす御所にはしっかりした身分の者しか入れない。
そこで、しょうがないので、なんと象に官位を与えることに。結局、そこそこ以上の大名クラスになる従四位を与えました。
象を見れて、帝はお喜びになられたそうですが、もう象ぐらい融通きかして身分とか抜きで入れてしまえばいいのにねえ。あんまり細かいことにこだわるとしまいにゃハゲるぜ。
ちなみにこの象、帝にお目見えの後は、もちろん江戸に向かいましたが、その道中でも一般庶民もやんやの大騒ぎだったそうな。まー珍しいからね。
10両盗めば首がとぶ
いやはやここ最近、政治と金の話題はつきませんな。
社保庁の年金問題なんて、もうマスゾエ先生に泥棒とまで言わせちゃいました。いや、でも先生の言うことも、ホントその通りだと思いますよ。なめんなよ!社保庁!…と思ってるヒトは私だけじゃないはず。
なんか農水相の遠藤氏もソッコー辞職しましたね。金で。あんたら目が¥か!って感じだね。
…おっといけねぇ。ついアツクなっちまったい。…しっかし…、どーも怒りがおさまらねえ。ようし、こうなりゃ言ってやるぜ!泥棒野郎ども、耳の穴かっぽじってよっく聞きやがれ!
江戸時代はなー、10両盗めばあの世行きだ!
■基本法に記される「10両盗めば首がとぶ」
さあ、クソ長い前置きを経て、ようやく本題に入りました。よく言いますよね。「10両盗めば首が飛ぶ」。ま、よーするに「10両盗んだら死刑!」というわけですが、これは前述の通り、江戸時代のオハナシ。実はこれ、江戸時代に作られた基本法典にも記述があります。
高校の歴史で習う「公事方御定書」というのを覚えているでしょうか?これは、8代将軍吉宗の時代に老中の松平乗邑などが中心となって編纂した幕府の法律書です。
当時の基本法ですから、裁判はこれを基準として執り行います。
その「公事方御定書」に、しっかり「10両もしくは、10両相当の品物を取ったら死罪」と書いてあります。ちなみにこれは一度に10両じゃなく、累計10両でも死罪だそうです。
でも、当時の裁判は、意外と被害者にも厳しいというか、例えば真っ昼間から空き巣に入られると、「被害者も無用心すぎる」と言われてしまい、例え被害額が10両を越えていても、犯人は死刑にならないことが多かったそうです(でも、夜の盗みは犯人が全面的に悪いとされたらしい)。江戸時代の裁判は、なかなかシビアなのだ。
ちなみに10両を今のお金に換算すると、150-200万円前後(諸説あり)だそうです。今、年金問題だなんだでよく聞く金額は…ウン千万とかウン億円…。
江戸時代だったら…軒並み死刑!
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江戸開発計画のこだわりとは?
江戸は、豊臣秀吉の配下だった時代の徳川家康が、1590年に秀吉の命令でこの地に来てから大々的な発展を遂げた土地です。
この江戸の町は、発展の過程で、もとは海だったところなども埋め立て、埋め立てして出来上がっていきました。
■千年の都に倣うべし!
江戸時代を通して、無類の発展をみた江戸ですが、家康が入ったばかりのころは、荒地や湿地が多いそれはそれは発展地とは程遠い土地だったそうです。
現代サラリーマンの聖地・新橋などの辺りも当時は海だったそうです。そういう現在の山手線界隈も埋め立てで生まれた地域が多いのです。
関東には他の戦国大名が発展させた城下町などもありましたが、家康はここを本拠として、発展させることに尽力しました。
そんな家康が発展途上で、気を使ったのがなんと風水。実は風水的な考え方は、平安時代以来、天皇陛下の居所として発展し続けていた京の都にも取り入れられているものでした。
京の都の場合は、東北が鬼門なので、その備えとして、東北には比叡山延暦寺があります。さらに、その後ろには琵琶湖。私は風水はよくわかりませんが、簡単に言うと、この配置によって邪気が入るのを防げるとか。
そこで、家康もこれに倣います。江戸の町でも風水を調べて、鬼門には徳川家の菩提寺・上野寛永寺を配置。さらにそばに不忍池。これらがそのまま延暦寺と琵琶湖の役目を果たすというわけです。
結果、江戸は何度か災害に見舞われたりしますが、みるみる発展。江戸時代を経て、明治に入ると、皇居も江戸に移され、現代では日本国の首都となったわけです。
ちなみに不忍池にある小島・弁天島は、琵琶湖竹生島に見立ててあるとか。
やっぱりこういう細かいところまでこだわっていかなくっちゃね。
いやー、家康すごい。
すごい…神経質…。
越後屋は本当に極悪商人なのか!?
「越後屋、おぬしもワルよのう。」「いえいえ、お代官様ほどではございません。」
「ガーハッハッハ」「イーヒッヒッヒ」
はい、悪巧みからスタートしてまいりました。異様な雰囲気の今日の記事でございます。
それにしても、これほど有名な悪巧みシーンもないでしょう。時代劇にあまり馴染みのない人でもこのやり取りは知っているのではないでしょうか?
まあ、実際に時代劇を見ていると、別の屋号の悪徳商人も登場するんですが、やっぱりよく知られているのは「越後屋」ですよね。
では、ここでハテナポイント!
越後屋というのは、それほど極悪な商人だったのか?
■実はたくさんあった越後屋
これほど、悪役として浸透した越後屋ですから、相当筋金入りだろうと思うかもしれませんが、結論から言うと、別にそういうわけではないんですね。
そもそも「越後屋」という屋号の商店は実はたくさんあったのです。ですから、時代劇に登場する極悪商人「越後屋」は別に特定の一店をモデルにしているというわけではないようです。
では、なんで「越後屋」がそんなにたくさんあったのか、ということになるわけですが、これは、当時の屋号の決め方からそうなったと言えそうです。
当時は、屋号を決めるとき、出身地の国名をつけることが多かったそうですが、越後はことに江戸に出稼ぎに行く人が多い国だったのです。
それというのも、越後は冬場は雪深い地。冬になれば農作業もままなりません。となれば、生活が苦しい人ほど、出稼ぎに行くしかないわけです。
というわけで、江戸に出稼ぎに来た越後出身者たちが、やがて店を持つことになったので、みんな「出身国だから」と言って、「越後屋」を屋号としたんだそうです。だから、「越後屋」は商家の屋号の代表格なんですね。
よって、「越後屋」だから悪徳商人というわけではないようです。まあ時代劇はそもそもがフィクションなんですが、悪徳商人のイメージが定着してしまっている越後屋さんはちょっと気の毒ですね。
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ちょんまげのはじまり
今や力士くらいしか「ちょんまげ」の人はいませんが、江戸時代以前はちょんまげといえば、日本男児の基本スタイル。でも、ちょんまげは西洋人から見ると、相当ヘンなものだったようで、「日本人はなぜ頭にピストルを載せとるのだ?」などと言われたとか。
しかし不思議なのは、なんでそんなヘンな頭が定着したのかってことですね。いつの間にか流行するような髪形でもないだろうし。
ちゃんとありましたちょんまげ流行の理由。
■至極合理的なはじまり
日本の髪型の変遷を見ていくと、ちょんまげが広く浸透するのは鎌倉時代からだそうです。言われてみれば、平安貴族とかはちょんまげじゃないですね(月代がない)。束ねてしばる感じでしょうか。
なぜ鎌倉時代なのかというと、ずばりそれは武士の世の中になったというのが大きな理由です。
武士といえば、合戦で活躍するヤツラ。合戦といえば、あの重たい甲冑を身に着けないと、危なくて戦えません。当然ながら兜もかぶる…。←ココ!ココ重要!
えー、つまりですね、兜かぶると頭がムレるでしょ。時代も時代ですし、通気性なんか気にしてたら、一番大事な防御力を失うことにもなりかねません。そこで、とりあえず兜の方は防御力第一。
そうすると、やっぱり頭の方をなんとかしないといけません。そこで武士の皆さんが考えたのは…
「髪…剃っちゃえばよくね?」
確かに髪がなければそんなにムレないかも。
ってなわけで、髪を剃っちゃったので、それが月代になりました。そして、残りの髪は今までどおり束ねてしばる。これでちょんまげ完成というわけです。「ムレるなら失くす!」…うーむ、なんとも合理的な判断ですね。
時代の変遷と共に、多少は変化しますが、基本スタイルとなったちょんまげ。当時は当然のごとく、なんてことはない髪型なわけですが、現代でちょんまげを結ったら世間様の話題になれる!間違いない!
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生類憐れみの令に綱吉自身もひっかかりそうになった!
最強の動物愛護法であるものの、極端すぎて現実性に乏しく、「悪法」といわれるに至ってしまった生類憐れみの令。
生類を憐れまないといったいどんな刑罰が待ち受けていたのでしょう??
■犠牲者続々…
「生類憐れみの令」は、まず犬から始まり、やがて牛馬、鳥、貝、海老と続いていった法律で、要するに段々対象が増えていったものだそうです。
んで、この法令での犠牲者第一号は、江戸城台所だった天野正勝さん。彼は台所の井戸にネコが落ちて死んだので、その責任をとらされる形で、八丈島に流罪になったそうです。
続いて、犠牲者第二号。病気の馬を放置したグループ10人です。全員逮捕されて、これまた遠流。
その後も犠牲者は増えていくわけですが、例えば、犬を斬った下僕がいると聞くと、当人は遠流。さらにその主人は家禄召し上げという処分にしたりしています。
そんなわけで庶民に大層嫌がられた生類憐れみの令ですが、程なく、さらに「蚤や虱、蚊、蝿も殺すな」という命令まで出ました。そして、蚊殺しで流罪になった武士もいたとか…。もうここまでくるとヤケクソなようにしか見えんわ…。なめんなよ。
■綱吉も令を犯しそうになった!
ところが、この悪法を制定した当の本人・綱吉もこの法律にひっかかりそうになったことがあるそうです。
それは綱吉が城内を散歩していた時のことでした…。
ふいに綱吉の頭に、何やら白いのが落ちてきました。「なんじゃー?」と思って上を見てみたら、でっかいカラスが「アホー、アホー」。カラスの糞が降ってきたようです。
これには綱吉、さすがに激怒!
「あれを捕まえろ!八つ裂きにしてくれるわ!」
綱吉の剣幕に驚いたお供の皆さんは、大慌てでカラスを捕らえましたが、「将軍様がこのカラスを殺したら、「生類憐れみの令」に抵触してしまう」ということで、そのように進言しました。
綱吉もそこはよくわかっていたようですが、どうにも怒りは収まらず、結局このカラスを処刑せず、流罪にとどめておいたそうです。なんじゃそら。
元をたどると、安産祈願に端を発するといわれる「生類憐れみの令」の発布。それでも綱吉自身は結構この法律を気に入っていたらしく、死に臨んで、時期将軍家宣に「生類憐れみの令はいい法律だから、私が死んでも残すように。」と言い残したとか。
とまあ、そこまで気にして手を回した綱吉公でしたが、綱吉没後、幕府が真っ先にやったのは「生類憐れみの令」の撤廃。庶民はニッコリですが、草葉の陰で綱吉公は泣いたであろうのう…。
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トップはつらいよ!将軍様の朝のご予定
江戸時代において将軍といえば、日本のトップ。しかも今と違って封建社会におけるトップなわけだから、さぞ威張り散らしていたことだろう…と思う人もいるのではないでしょうか。
たしかに将軍様は幕府のトップで権力もあるし、将軍様を公然と批判なんてしようものなら、当然のごとくお縄なわけですが、権力に任せて好き勝手をしていればいいわけではありませんでした。
まあ当然といえば、当然なんですが…むしろ将軍様の行動はがんじがらめだった、と言えなくもないかもしれません。
例えば朝なんてこんなカンジ…。
■なんでも予定に入れてある!
将軍様の起床時間はだいたい朝の6時くらいだったそうです。なかなか早起きですな。でも、眠いからと言って
「うーん、もうちょっと寝かせてよ、トニー…。」
なーんてわけにはいきませんでした。
なぜなら朝食の時間が決まっているからだ!
しかも、それだけじゃねぇ!
それまでにやることも決まっている!御髪をなおして、湯浴みをして、便所だー!
…。
えー、中には「便所」などの予定に入れるべきじゃない生理的な事柄も混じってますが、一応、これも「予定の一つ」となっていたようです。
なんだかラクじゃないねぇ、将軍やるのも。
■重要だけどクサイ仕事
でも、実はもっと大変なのは、お小姓さんたちなのでした。
ずーっと殿様の近くに控えていなければならないばかりか、風呂に入れば、洗うのは小姓の仕事。さらに、殿様の便所にもついていかなくてはなりません。
便所にまでついていって何すんじゃいと思うかもしれませんが、これが意外にも重要任務。というのも、小姓は将軍様の排泄音をよく聞いて、将軍様の体調に異常がないか確認しなくてはならなかったのです。
別にケツをふくために便所についていくわけではないんですなあ。
排泄音でどんな健康状態も判断できるものではないでしょうが、仮に下痢気味だとすれば放ってはおけません。ただの下痢じゃない可能性もありますし。異常な点は早めに発見し、侍医に報せるわけです。
れっきとした理由のある「お仕事」とはいえ、他人の排泄音を真剣に聞かなくてはならないというのは…なんとも言えないもんですなあ。
時代劇とかでここらへんもリアルに再現したら笑えるかもしれない(笑)。
というわけで、がんじがらめの将軍様とその側近さん。こんなリーダー生活ならむしろナンバー2の方が気楽でしょうかねぇ??
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老中自ら反省!盗みの原因は「政治が悪いから」
参院選で自民党が大敗を喫したのもついこないだのこと。安倍総理にとってはかなり苦しい状況が続いています。
不祥事連発の最近の自民党ですが、やっぱりいかに国民の目線に立つかというのは大事なようです。
そこで!江戸時代のとある老中を見習ってみよー。
■切り身盗みが発覚!
今日の見習いたい老中は酒井忠世という人です。酒井氏は徳川家の譜代家臣の家柄で、江戸幕府創業にも功のあった家系です。つまり…、多少態度がでかくなりうる可能性がある家柄なんですな。
この話は、そんな家系に生まれた忠世が江戸城から下城しようとしたときの話です。
下城する際には、必ず御台所口の前を通るのですが、そこの料理番の者たちが、忠世が通るのを見て慌てて平伏しました。
そのときです。料理番の下役のうちの一人の懐から魚の切り身がポロっと…。
「や、やべ…!」
慌てて切り身を後ろに隠してひたすら平伏す下役。しかし、忠世は確かにそれを見ていました。
■責任はいずこ
忠世の隣にいた側近は眉を寄せましたが、忠世はそのままその場を通り過ぎました。
そのまま通り過ぎるとは思わなかった側近は、後で忠世に言いました。
「大事な城の食べ物を盗もうとしたは歴然。かような不埒モノは厳重に罰すべきです。」
しかし、忠世は首を横に振りました。
「待て待て、あの料理番どもが悪いわけではない。かの下役がああいうことをしたのは、わしにも責任がある。」
「!?何を仰せられまする?」
「考えてみよ。かの者がああして切り身を盗んだは、満足に食えていないからではないか。給金が安いから満足に食えぬのではないか。」
「御老中、仰せになられていることはわかりますが、盗みは盗み。切り身一つといえど、城の物を料理番の役得で盗んだことには変わりはございませぬ。」
「なるほど、役得か。だが、役得で切り身を盗むほど喰うものに困っているということこそ問題ではないか。そうなってしまうのは、政治を預かる者に責任があると言うておるのよ。」
「し、しかし…。」
「わかったわかった。されば料理番に羽織を支給してやれ。」
「羽織??何ゆえにござりまする?」
「役得の切り身を落とさぬように…だよ。羽織があればうまく隠せる。うまく隠せば誰にも知られぬこと。問題あるまい。」
「いや、しかしそれは…。」
「言うたであろう。政治が善いほうに改まれば、かの者共とて城に詰める職人たちだ、切り身を盗もうとなど考えぬであろう。政治を善くするのは今後のわしの課題だ。ははは…。」
この後、政治は改まって、城中でこういう盗みが発生することもなくなったそうです。
家柄もよい忠世ですが、上から目線にならずにこういうことが言えるなんて大したお方ですね。
とはいえ、現代でこんなことをしたら、図に乗って盗み続けるヤツが出てきそうですし、これで必ず事態がいい方向に向くとは思えませんので、単純にこれを見習えばいいというものではないでしょうか。
…でもまあ、責任のなすりあいをしているように見える、一部の政治家のセンセイ方には、ちょっとこういう意識も持っていただけるといいなあと思いますがどうでしょうねぇ。
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盗人の憧れ!?江戸城御金蔵破り!
江戸時代の盗人最大の目標!それは御金蔵破りだ(知らんけど)!!
御金蔵とは江戸城本丸にある幕府の公金が収めてある蔵のことです。
セ○ムもア○ソックもない時代ですが、ここの警備は鬼のように厳重で、ベテランの盗人でも、リスクがでかすぎるため、盗もうとも思わないほどでした。
ところが!
この御金蔵破りを成功させた男たちがいました。
時は安政2年(1855)3月6日。世の中は1853年の黒船来航以来、上を下への大騒ぎ。当然、幕府もてんやわんやしていたころでした…。
■御金蔵破り犯人逮捕!
御金蔵から盗まれた金の総額はなんと4000両。2000両入りの小判箱が二つなくなっていました。
鍵は盗まれていないのに、御金蔵の錠前はことごとく開けられていたことや、警備の隙をついていること、犯行時間が短いことなどから、相当に周到な準備の末に実行された犯行と考えられました。
もちろん幕府は躍起になって犯人の捜索を進め、ついに二年後の1857年2月に犯人を逮捕しました。
逮捕されたのは、住所不詳、小人目付の藤岡藤十郎容疑者(39)とその相棒で中間(ちゅうげん)の富蔵容疑者(年齢不詳)の2人。
調べによると、藤岡藤十郎、富蔵の両容疑者は、かねてから江戸城に忍び込んでは犯行の下見をしていたほか、御金蔵の錠前の鍵も型をとって複製。さらに交代などで警備の人間に隙ができる時間まで把握し、きわめて慎重かつ周到に準備を進めていた模様。
容疑者らをよく知る人の話では、双方とも相当金に困っていたといい、貧しさから一攫千金を狙った可能性もあると見られています。
また、二人は取り調べに対して、「金に困ってやった。」と答え、犯行を認めているとのことです。
幕府からの公式発表によりますと、二人は市中引き回しのうえ、小塚原の刑場にて磔となるとのことです。
いつの間にか、ニュース風になった。
でもどういう事件だったかは伝わったでしょうか?ちなみに犯人逮捕の決め手は、富蔵の金遣いにあったそうです。金は盗みには成功しても、使うとバレるんですよねぇ…。うーむ、世の中ってヤツはうまくできてるのお。
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便所=「雪隠」の由来とは?
大江戸アルティメット屁コキスト!
「芸は身を助く」という言葉があります。意味としてはまあ「身につけた芸は、必ず後で生活に困ったときに助けになる」くらいのものでしょうか。
このことわざから教訓を得るなら、「ともかくなんでもいいから一芸を身に着けておきなさいよ」ということですね。
一芸といったら、やっぱり自分の得意なもの。うーん、うーん…。…考えた結果、とんでもない結論に達した男が江戸時代にいました。彼の達した結論!それは!!
俺には「屁」しかねーーー!!!!!
■屁コキスト降臨!
見世物小屋から茶屋、食べ物屋まで立ち並ぶ、現代で言うショッピングモール的な場所だった両国橋界隈。連日、大勢の人が集まり、江戸一の盛り場だったそうです。
そんな盛り場で、江戸時代も後半にさしかかる安永3年(1774)4月、妙な男が見世物を始めました。
彼の名は「霧降花咲男」。何を隠そう、彼の見世物こそが「屁」であります。彼はあらゆる音曲を屁で再現する、究極の屁コキストなのです!
梯子屁・数珠屁などのおなじみの技(おなじみかどうか知らんけど)は、言うまでもなく、動物の鳴き声や楽器の音なども「屁」で再現したというんだから、腕前は超一流。まさに屁のプロですね。観客も彼の奏でる(屁の)音色に聞き入ったことでしょう。
…実に奇妙な光景ですが…。
■源内先生も絶賛
えー、ちなみに当時、彼の屁は広く知れ渡っており、かの平賀源内先生などは、その屁に感動し『放屁論』なる本を書いています。
源内先生は、この著書のなかで彼の屁を大絶賛。「比類なき名人出でたり」とか「誠に屁道開基の祖師也」とか書いています。「屁道」…。深そうだな…。
ともかく、現代ではお下品な部類に入る屁に源内先生ほどのお方がここまで賛辞を送るんですから、彼の屁はさぞかしエレガントな音曲を奏でたのでしょうなあ。
ちなみに源内先生によると、彼のすばらしい屁芸には以下のようなラインナップがあるようです。
音曲:砧、七草、祇園ばやし
擬音:鶏の鳴き声、犬の吠える声、花火の音
長唄:道成寺、菊慈童
浄瑠璃:一中、半中、半太夫、義太夫節
どうですか、このマーベラスなバリエーション。でもこれ、ほんの一部ですよ?。もはや超一流のエンターテイナーといっても差し支えることあるまいて!
…しかし、なんだかんだ言っても結局は…屁なんですよね。うーむ、聞いてみたいような、臭そうなような…。
ちなみにこの「江戸のアルティメット屁コキスト」こと霧降花咲男は、さらにアピールしようという魂胆か、後に「曲屁福平」という名前に改名したそうです。まんまだな…。
…まあ…どっちにしても…名前はエレガントじゃない…。
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お茶は二日酔いに効く薬?
お久しぶりの更新になります。どうもすみませんでござる。
突然ですが、みなさん。二日酔いって経験あります?
これがけっこう厳しいんですよね〜。頭痛と吐き気に悩まされて、仕事なんか手につかなくて…。
そんなつらい二日酔いの時はキャ○ジンじゃなくて、お茶飲んでください!かの栄西氏がそう言うんだから間違いない!
■お茶マニア栄西和尚
栄西というのは、鎌倉時代の臨済宗の僧侶です。
高校時代の日本史で「鎌倉新仏教」と称して、なんかたくさん宗教名が出てきたでしょう。浄土宗とか日蓮宗とか曹洞宗とか…。
あのうちの一つが臨済宗であり、栄西はその日本での開祖です。「日本での」というのは、臨済宗の大本は栄西が宋(当時の中国)に渡った時に学んできたものだからです。
まあそれはさておき、この栄西、実は中国から臨済宗だけじゃなくて、お茶も持ち帰っているんですな。そして、お茶にハマる内に『喫茶養生記』なんていう本を書きました。
『喫茶養生記』なーんて、そのまんま体によさそうなことが書いてありそうなタイトルですが、序文にもしっかり「茶は健康維持の妙薬だ。寿命も延びる」とか書いてます。要するに、お茶を薬として紹介しているわけです。
■二日酔い将軍にお茶を勧める
そして、栄西は思いがけず、幕府のお役人にこんな命令をされます。
「将軍様が二日酔いに悩まされておる。快癒するよう加持を致せ。」
栄西はうーむと考えてしまいます。相手が相手だけに、「二日酔いで加持って…おめでてーな」…とはもちろん恐れ多くていえません。
あ、ちなみに二日酔いに悩んでいる将軍ってのは鎌倉幕府三代将軍・源実朝公であります。
そこで栄西はひらめいてこう返答しました。
「されば、茶を飲まれませ。」
栄西は茶とともに、自著『喫茶養生記』を実朝公にプレゼント。実朝は、お茶と『喫茶養生記』に大いに感心したそうです。
そして、これを機に、それまでほとんど飲まれなかった茶が、『喫茶養生記』と共に有名になったとか。
いやー、つまりこれはアレですな。実朝公が二日酔いしてなかったら、お茶はこんなに日本に広まっていなかったかもしれないってことですね。
いや、あっぱれ!実朝公!あんたは立派な将軍だ!立派な…二日酔い将軍だ!
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文明開化の馬車鉄道普及で東京がクソまみれ?
江戸時代の長い鎖国を突き破って、ついにニッポンにも新しい文明が…というのが、明治時代であります。まあ俗に言う文明開化ってヤツですね。
その文明開化の象徴の一つに、欧米でも普及していた「馬車鉄道」というのがあるそうです。
■馬車鉄道はこんなヤツ
馬車鉄道はあくまで鉄道ですから、言うまでもなくそれまでの人力車や普通の馬車と異なり、レールの上を走ります。すでにレールがしかれているので、あまり舵取りをする必要がなく、揺れも少なくてなかなか快適だそうです。
明治15年(1882)6月25日、東京馬車鉄道株式会社が、新橋〜日本橋間の2キロ半ほどの距離で開業したのがはじまり。
馬車鉄道には、現在の鉄道と同じようにちゃんと車掌が乗っています。また、そのほかに運転手として馭者が乗っていて、馬は基本的に2頭。30人乗りくらいの小さな箱型車体を引っ張って、路面レールのうえを走るというわけです。
車掌に申告すれば、乗降も割りと自由(駅などは特にない)なうえに、鉄のレールの上を鉄の車輪で走ることから、摩擦が少なく通常の馬車よりも速かったため、一般の人にはなかなか好評だったとか。
日本では、明治36年(1903)に電車に変わるまで、主に東京で路線を増やしましたが、とにかく人身事故が多いのも特徴でした。歩行者や人力車と接触なんてのはしょっちゅうだったようです。
まあ…でも…、そうやって馬車が普及したおかげで一番厄介だったのは…
やっぱり馬の糞!
東京に鉄道馬車の路線が増えれば増えただけ、馬糞地帯が増加…。
当時の東京はクソまみれだったりして!?
※ネットでカチカチ調べてみたところ、現在は、北海道札幌市の北海道開拓の村というところに再現されているそうです。近くに行くことがあったら寄ってみたいですね。
「北海道開拓の村」⇒URL:http://www.kaitaku.or.jp/
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長州藩は毎年打倒徳川を狙っていた?
長州といえば毛利家。毛利家は、かの関ヶ原の合戦の時に、徳川家康に敵対して西軍の総大将を勤めたために、戦後領地を没収されてしまいましたが、一族の吉川広家の嘆願もあって、何とか36万石を保った大名です。
でも、それだけに!
徳川家が大嫌いであります。
■恨みの一問一答
徳川大嫌い毛利家。江戸時代にはおとなしく従ってはいたものの、打倒徳川の思いは常に持ち続けておりました。
長州毛利家には奇妙な習慣があるのです。
毎年1月1日の夜明け前、萩城の大奥にて行われる家臣と当主の一問一答…。
家臣「殿、あけましておめでとうございます。」
殿 「うむ。」
家臣「徳川家征伐の準備、あい整いましてござる。いざや出陣の御下知を!」
殿 「ふむ…。」
(しばし沈黙)
殿 「いや、いまだその時機にあらず。自重して時を待ち、武芸に怠りなきように致せ。」
家臣「ははー。」
これを、殿が代わろうが家臣が代わろうが、毎年毎年やっていたというんですから、長州の徳川家への恨みっぷりがわかりますなあ…。
幕末に徳川幕府を倒したのは長州&薩摩が中心だったので、260年以上この問答を繰り返した意味は大いにあったというところでしょうかねぇ?
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早雲流!!小田原城の落とし方
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北条早雲といえば、戦国時代の下剋上大名の先駆けとして知られていますね。ともかく下剋上するぐらいですから、頭のキレが違います。
というわけで、本日は、早雲の鮮やかな城乗っ取り作戦をば。
■堅牢な小田原城を簡単に落とす謀略とは?
早雲がそのころ目をつけたのは、のちの北条氏の本拠地・小田原城。
といっても、当時は後世のような一大城郭ではなく、砦のような城でした。早雲はここを取ることにして計画を練ります。
当時の小田原城主は大森藤頼という男でした。
まず手始めに、早雲は何度かこの男と狩りに出かけたり、進物を送ったりして、とりあえず安心させました。
そして、安心したところで、次はいよいよ騙し作戦のスタートです。
ある日、小田原城を訪れた早雲は藤頼にこう言いました。
「鹿狩りをやっていたら、鹿どもが、おたくの城の裏山に逃げてしまった。ちょっとウチのモンを城内に入れさせてもらえんですか?」
家中の者じゃあるまいし、普通ならさすがに許可されないであろう申し出ですが、藤頼は、早雲の用意周到な事前工作により、早雲を完全に信じてしまっていたため、
「いいとも〜!!」
と答えて門を開けてしまいます。
その途端!しめた、と言わんばかりに早雲の手勢が城に入り、一気に藤頼を追いやって、小田原城を乗っ取ってしまったとか。
下剋上の大名には謀略家が多いようですが、早雲も例外なくかなりの謀略家ぶりですね。悪い男…。ちなみに当時の早雲は伊勢新九郎と名乗っていました。
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北条早雲といえば、戦国時代の下剋上大名の先駆けとして知られていますね。ともかく下剋上するぐらいですから、頭のキレが違います。
というわけで、本日は、早雲の鮮やかな城乗っ取り作戦をば。
■堅牢な小田原城を簡単に落とす謀略とは?
早雲がそのころ目をつけたのは、のちの北条氏の本拠地・小田原城。
といっても、当時は後世のような一大城郭ではなく、砦のような城でした。早雲はここを取ることにして計画を練ります。
当時の小田原城主は大森藤頼という男でした。
まず手始めに、早雲は何度かこの男と狩りに出かけたり、進物を送ったりして、とりあえず安心させました。
そして、安心したところで、次はいよいよ騙し作戦のスタートです。
ある日、小田原城を訪れた早雲は藤頼にこう言いました。
「鹿狩りをやっていたら、鹿どもが、おたくの城の裏山に逃げてしまった。ちょっとウチのモンを城内に入れさせてもらえんですか?」
家中の者じゃあるまいし、普通ならさすがに許可されないであろう申し出ですが、藤頼は、早雲の用意周到な事前工作により、早雲を完全に信じてしまっていたため、
「いいとも〜!!」
と答えて門を開けてしまいます。
その途端!しめた、と言わんばかりに早雲の手勢が城に入り、一気に藤頼を追いやって、小田原城を乗っ取ってしまったとか。
下剋上の大名には謀略家が多いようですが、早雲も例外なくかなりの謀略家ぶりですね。悪い男…。ちなみに当時の早雲は伊勢新九郎と名乗っていました。
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貴族なのに大盗賊!掟破りなヤツの名前は藤原保輔!
貴族…といったら、こう…何ですか。蹴鞠で遊んで、おじゃるでごじゃるなセレブ的イメージがあるじゃないですか。実際にlivedoorの辞書で検索すると、「身分や家柄の尊い人。また、社会的な特権を世襲している上流階級に属する人。」と出てきます。こりゃ紛れもなくセレブ。
そして、貴族といえば平安時代。さぞかし優雅だろうなあ、貴族の皆さん…と思ったら、とんでもないヤツがいた。貴族なのに大盗賊という掟破りなアウトローがいました。
■貴族だけど極悪人
その男の名は藤原保輔。『今昔物語』という説話集では、袴垂保輔という大盗賊の話が登場するのですが、そのモデルとなったのが藤原保輔だそうです。
この保輔、官位も右兵衛尉で、れっきとした貴族です。兄の保昌などはかの藤原道長の家司を勤めたこともある人物だとか。
それなのに保輔は子分たちと共に、しばしば盗賊行為を働いていたみたいです。お金持ちの屋敷を襲って略奪したかと思えば、自邸に商人を呼んではあらかじめ掘っておいた床下の穴に突き落として殺害していたという話が残っているそうです。
それでも表向きは風雅漂う貴族どの。いやー、窃盗犯、殺人犯である他に、これはある意味詐欺でもありますよ。悪い男ですなあ。さぞかし悪いツラだったんでしょう。
■極悪人の末路
しかし、やがて保輔も郎党に密告されて、今までの悪事を暴かれてしまいます。最初は悪党らしく、捕縛される前に逃亡して姿をくらませたようですが、そのせいで、父親の致忠が捕まって拷問にかけられてしまいます。
さすがの悪党・保輔もこれには参っていたところ、子分にも裏切られ、ほどなく捕らえられ牢屋にぶちこまれてしまいました。
一説には、捕縛直前に自殺しようと切腹したものの死にきれず、腸が飛び出したまま牢獄に入れられ、翌日に死んだそうです。悪党の末路は、なんとも悲惨なものですね…。
しかし…貴族ならそれなりの生活が出来るだろうに。なんで盗賊なんてやっていたんだろう。当時(10世紀末期)の京都は盗賊が横行していたそうですから、保輔も影響されてしまったんですかね。現代でも事件の報道を見て、影響されて似たような犯罪をする輩がいるじゃないですか。保輔もそんな感じだったのだろうか。
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後から穴埋めなど許さん!新撰組、公金横領で隊士を斬首
新撰組には隊規違反や内部粛清で死亡した人が40名以上いますが、中には気の毒な人もいます。河合耆三郎もその一人です。
■なくなった50両
河合は天保九年(1839)播磨国(兵庫県)の塩問屋の長男として生まれました。新撰組への入隊がいつ頃なのかははっきりとはわからないそうですが、隊の編成記録にはかなり早い段階で名前が挙がっているので、けっこう古株だったようです。
商人の倅ということで、計数に明るく、新撰組でも勘定方の役職につきましたが、池田屋事件にも参加しており、計算だけの男ではありませんでした。
その河合が慶応2年(1866)2月2日、隊費のうちから50両(500両ともいう)が紛失しているのに気がつきます。どこをどう探しても、何度計算しなおしても50両紛失しているのです。
河合は勘定方ですから、隊費に関しての責任はすべて河合が負うことになります。このまま事態が発覚したら処分されるのは明白です。切腹もありうると考えて怖くなった河合は一つ打開策を思いつきます。
「そうだ、実家に事情を説明して穴埋めの金を送ってもらおう。」
幸い河合の実家は商家ですから、急な用立ても可能でした。報せを聞いた実家の方も急いで金を用意し、京都に向かわせました。
■金はまだ届かないか
ところが、河合にとっての不幸は、こんな時に限って、土方副長がやってきたことでした。
「金がいる。」
土方はまとまった金の支出を河合に命じます。このことがきっかけで、たちまち50両紛失は隊内に知れ渡ることになります。
河合は当然の如く疑われ、公金横領の罪で謹慎を命じられました。とはいえ、隊規に厳しい新撰組ですから、謹慎くらいで処分が済むわけがありません。
河合は、泣きながら
「10日だけ待ってください。穴埋めの金が実家から届くはずなのです。10日だけ待っていただければ必ず…!」
と訴えますが、願いは聞き届けられず、処分は斬首と決まりました。商人の子だからか、その罪状ゆえか、切腹すら許されませんでした。
河合は2月12日、沼尻小文吾という隊士に斬られました。河合は斬られる直前まで、
「播磨からの飛脚はまだ来ないか。」「金はまだ届かないのか」
と、泣き叫び、いざ斬首執行の合図が出てからも叫びどおしだったため、斬る沼尻の方も心を乱され、一撃で首を落とすことができませんでした。即死しなかったため、河合は地獄の痛みを味わったようです。
■河合は悪くなかった??
河合の斬首執行の3日後、河合の実家から金が届きました。
その後、河合の斬首を知った父親や親類が播磨からやってきて、屯所付近で騒ぎたてたそうです。隊士らがこれを脅して追い払うと、今度は1ヶ月後にやってきて、新撰組へのあてつけかのように、屯所前を葬列を組んで練り歩いたうえ、壬生寺に立派な墓を建てました。
河合が気の毒なのは、このとき土方がまとまった金の支出を命じた理由が、「局長である近藤勇が島原の御幸太夫を請け出すのに金が必要だったため」という話があるからです。
もし、この話が本当だとすれば、金がなくなった責任もさることながら、私的な用に隊費を使おうとした近藤も責めを受けなくてはならないのでは…と思ってしまいますが、それは素人考えというものなのでしょうか…。
※写真は新撰組が最初に河合を葬った光縁寺です。
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前漢のロクでなし親父
いやー、最近ミステリ小説に魅せられまして。「今さら」という方もいるのでしょうが、綾辻行人氏の『十角館の殺人』と、『水車館の殺人』を読みました。面白いですねぇ。ワタシは、こういう非日常的なミステリが好きみたいです。すでに次作『迷路館の殺人』も買ってきたので、近いうちに読み始めたいと思います。
…と前置きしたのは、要するに、ブログをほったらかしにしていた言い訳です。すみません。ごめんなさい。
それでは、本題に入りましょう。…え〜……、本日はロクでもない親父の話でも聞いてください。
■前漢建国の英雄!?
宿敵・項羽を破って漢帝国をたてた前漢の高祖・劉邦。時代的には紀元前ですから、昔々の大昔ですね。
それはさておき、劉邦は農家の子で、もともとはしがないフリーター的生活をしていた人物でした。奇妙な人徳から段々地位が高くなり、部下を従えて項羽と戦うようになりましたが、性格的には小心者とでもいいましょうか。自己中心的なフリーター時代の性格が治ってないような性格でした。こんな話があります。
■息子たちを突き飛ばす
紀元前205年。
劉邦は大軍で項羽の本拠である彭城というところを攻め、これを奪いました。彭城には、項羽が貯めていた財宝や、美女たちがいっぱい。もとがもとだけに、劉邦はこれらに食らいついて、連日飲めや歌えと大騒ぎしました。
しかし、敗走していったはずの項羽はすぐさま軍勢を整えて、彭城奪回にやってきます。酒びたり生活だった劉邦軍ですから、さあ大変。油断しまくりで蹴散らされ、今度は立場が逆になってしまい、劉邦が敗走するハメに。
大慌てで馬車に乗って逃げ出した劉邦は、途中で孝恵と魯元という二子に出会い、これを乗せました。ところが、劉邦は、ちらちら後ろを見ながら、落ちつかない様子。
その時!
「え〜い!!!!」ドンッ!
劉邦は突然、さっき乗せた自分の息子を馬車から突き落としました。御者の夏侯嬰は驚いて馬車を止め、「何をしてるんですか!」と言ってすぐさま突き落とされた劉邦の息子たちを拾い上げ、再び馬車に乗せました。
すると、劉邦は、「こんな不忠者どもが乗っているせいで、馬車の速度が落ちて、追手に追いつかれたらどうするんだ!」と夏侯嬰に言いました。火急の事態なのに自分のために何にもしない息子たちなど、「不忠者」だと。やれやれ。
その後も、劉邦は何度も息子たちを馬車から突き落とそうとし、その度に夏侯嬰が二人をかばったとか。しかも劉邦は二人をかばう夏侯嬰も「気に入らない」と言い出し、始末しようとする始末。やれやれ。
夏侯嬰は、二人を抱きかかえて逃げ切ったそうですが、劉邦ってヤツァ意外ととんでもないヤツだったんですねぇ。まったく。
しかし、夏侯嬰はたいしたもんだ。彼はのち皇帝になった孝恵に「命の恩人」として優遇されたそうです。父に救ってもらったんじゃなくて、父から救ってもらったの。
……。
…やれやれだぜ。
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頼朝の死因は落馬?病気?
1192(いいくに)つくろう鎌倉幕府!
…でおなじみの源頼朝公。
皆さんも学生時代に鎌倉幕府の初代将軍として、(テストのせいで)その名を胸に刻んだことでしょう。
ところで、この頼朝公、実は幕府創設から7年たった正治元年(1199)正月13日に死亡します。死因はなんだかご存知でしょうか?
一般的には頼朝の死因は落馬によるものとされています。
■「落馬が死因」とする根拠は?
鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』には、頼朝の死因について、「建久9年(1198)12月27日相模川の橋供養に臨席した帰路、突然落馬して重傷を負った。そして、その傷がもとで、翌正治元年(1199)正月13日に53歳で絶命した」…とまあ、そんなような内容のことが書かれています。
しかしですね…。武門の棟梁ともあろうお方が、高齢(53歳)とはいえ、落馬して致命傷というのは解せん!…という意見もあるのですよこれが。そして、根拠も意外としっかりしてます。この根拠を見ると、落馬の方が胡散臭いということがわかります。
それというのも、『吾妻鏡』は鎌倉幕府編纂によるもので、一言で言ってしまえば、幕府的に都合の悪いことは書かなくてよかったわけです。となると、まず『吾妻鏡』そのものがウソを書いているのでは…ということに。
もちろんこれは、『吾妻鏡』が最初から最後までウソで書かれた書物というのではなく、編纂にあたって、のちのち幕府の風評に悪影響を与えそうな話だけはカットしたり、捏造しようとしたのではということです。
でも、これだけでは吾妻鏡を疑っているだけで、落馬死因説否定の根拠自体は「武門の棟梁が落馬なんておかしい」という自己中心的な推論にすぎません。そこで、同時期に書かれた別の史料や記録が役に立ちます。
■違う史料でも探ってみる
同時代の別の記録には、どうやら頼朝の死因を「落馬によるもの」とはしていないようです。多くの記録には病名までは記されていないそうですが、「所労」とか「頓病」とか書かれているとか(『明月記』『愚管抄』などによる)。これを見ると、どうやら死因は落馬ではなかったように感じますね。
病名まで書いてある記録として『猪隈関白記』(近衛家実著)というのもあるらしく、そこには「飲水の重病(=糖尿病)」と書かれているそうです。
でも、糖尿病で死んだのなら『吾妻鏡』でもそう書けばいいのに…。
史料や記録によって頼朝の死因にバラつきが見られるのは、当時事実上の幕府の最高権力者だった執権北条一族の黒い陰謀があったから、と考えられています。頼朝の死後、次々にライバル御家人を葬り去っていく北条一族…。つまり、極端な話、「頼朝は北条一族によって暗殺されたのでは…!?」とも推測できるということです。(そういうことを記した史料は一切ないので、立件のしようのない推論ですが)
そもそも北条時政は、頼朝が平清盛によって蛭ヶ小島に幽閉されている時の監視役だった男です。頼朝の旗揚げに協力したのも実は自分が権力を手に入れるための目論見だったと考えれば……。
北条一族か…犯罪の匂いがプンプンするぜ…。
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