歴史かくれ話と今日は何の日

歴史のウラ話&「今日は何の日」です!

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動物園の人気者といえば、やっぱり象!
体はでかいのに、長い鼻を器用に使ってエサを食う様子はもうサイコー!

しかし野生の象はもちろん日本にはいません。
だから江戸時代に象がきた時は大騒ぎになりました。


象がやってきて大騒ぎになったのは享保13年のこと。将軍吉宗の時代です。桃山時代にも、象がきたことはあって秀吉が大喜びしたそうですが、享保13年の時はまさに大騒ぎ。

なんでかと言うと、長崎から江戸に象を輸送する最中、京都で中御門天皇が「象見たい」と仰せだから。

さあ大変だ。帝のご希望を却下はできないし、でも帝のおわす御所にはしっかりした身分の者しか入れない。
そこで、しょうがないので、なんと象に官位を与えることに。結局、そこそこ以上の大名クラスになる従四位を与えました。

象を見れて、帝はお喜びになられたそうですが、もう象ぐらい融通きかして身分とか抜きで入れてしまえばいいのにねえ。あんまり細かいことにこだわるとしまいにゃハゲるぜ。

ちなみにこの象、帝にお目見えの後は、もちろん江戸に向かいましたが、その道中でも一般庶民もやんやの大騒ぎだったそうな。まー珍しいからね。

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いやはやここ最近、政治と金の話題はつきませんな。

社保庁の年金問題なんて、もうマスゾエ先生に泥棒とまで言わせちゃいました。いや、でも先生の言うことも、ホントその通りだと思いますよ。なめんなよ!社保庁!…と思ってるヒトは私だけじゃないはず。

なんか農水相の遠藤氏もソッコー辞職しましたね。金で。あんたら目が¥か!って感じだね。

…おっといけねぇ。ついアツクなっちまったい。…しっかし…、どーも怒りがおさまらねえ。ようし、こうなりゃ言ってやるぜ!泥棒野郎ども、耳の穴かっぽじってよっく聞きやがれ!
江戸時代はなー、10両盗めばあの世行きだ!


■基本法に記される「10両盗めば首がとぶ」

さあ、クソ長い前置きを経て、ようやく本題に入りました。よく言いますよね。「10両盗めば首が飛ぶ」。ま、よーするに「10両盗んだら死刑!」というわけですが、これは前述の通り、江戸時代のオハナシ。実はこれ、江戸時代に作られた基本法典にも記述があります

高校の歴史で習う「公事方御定書」というのを覚えているでしょうか?これは、8代将軍吉宗の時代に老中の松平乗邑などが中心となって編纂した幕府の法律書です。
当時の基本法ですから、裁判はこれを基準として執り行います。

その「公事方御定書」に、しっかり「10両もしくは、10両相当の品物を取ったら死罪」と書いてあります。ちなみにこれは一度に10両じゃなく、累計10両でも死罪だそうです。

でも、当時の裁判は、意外と被害者にも厳しいというか、例えば真っ昼間から空き巣に入られると、「被害者も無用心すぎる」と言われてしまい、例え被害額が10両を越えていても、犯人は死刑にならないことが多かったそうです(でも、夜の盗みは犯人が全面的に悪いとされたらしい)。江戸時代の裁判は、なかなかシビアなのだ。


ちなみに10両を今のお金に換算すると、150-200万円前後(諸説あり)だそうです。今、年金問題だなんだでよく聞く金額は…ウン千万とかウン億円…。

江戸時代だったら…軒並み死刑


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edo_machinami

江戸は、豊臣秀吉の配下だった時代の徳川家康が、1590年に秀吉の命令でこの地に来てから大々的な発展を遂げた土地です。

この江戸の町は、発展の過程で、もとは海だったところなども埋め立て、埋め立てして出来上がっていきました。


■千年の都に倣うべし!

江戸時代を通して、無類の発展をみた江戸ですが、家康が入ったばかりのころは、荒地や湿地が多いそれはそれは発展地とは程遠い土地だったそうです。

現代サラリーマンの聖地・新橋などの辺りも当時は海だったそうです。そういう現在の山手線界隈も埋め立てで生まれた地域が多いのです。

関東には他の戦国大名が発展させた城下町などもありましたが、家康はここを本拠として、発展させることに尽力しました。

そんな家康が発展途上で、気を使ったのがなんと風水。実は風水的な考え方は、平安時代以来、天皇陛下の居所として発展し続けていた京の都にも取り入れられているものでした。

京の都の場合は、東北が鬼門なので、その備えとして、東北には比叡山延暦寺があります。さらに、その後ろには琵琶湖。私は風水はよくわかりませんが、簡単に言うと、この配置によって邪気が入るのを防げるとか。

そこで、家康もこれに倣います。江戸の町でも風水を調べて、鬼門には徳川家の菩提寺・上野寛永寺を配置。さらにそばに不忍池。これらがそのまま延暦寺と琵琶湖の役目を果たすというわけです。

結果、江戸は何度か災害に見舞われたりしますが、みるみる発展。江戸時代を経て、明治に入ると、皇居も江戸に移され、現代では日本国の首都となったわけです。

ちなみに不忍池にある小島・弁天島は、琵琶湖竹生島に見立ててあるとか。
やっぱりこういう細かいところまでこだわっていかなくっちゃね。

いやー、家康すごい。

すごい…神経質…。


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etigoya

「越後屋、おぬしもワルよのう。」「いえいえ、お代官様ほどではございません。」
「ガーハッハッハ」「イーヒッヒッヒ」

はい、悪巧みからスタートしてまいりました。異様な雰囲気の今日の記事でございます。

それにしても、これほど有名な悪巧みシーンもないでしょう。時代劇にあまり馴染みのない人でもこのやり取りは知っているのではないでしょうか?
まあ、実際に時代劇を見ていると、別の屋号の悪徳商人も登場するんですが、やっぱりよく知られているのは「越後屋」ですよね

では、ここでハテナポイント!

越後屋というのは、それほど極悪な商人だったのか?


■実はたくさんあった越後屋

これほど、悪役として浸透した越後屋ですから、相当筋金入りだろうと思うかもしれませんが、結論から言うと、別にそういうわけではないんですね。

そもそも「越後屋」という屋号の商店は実はたくさんあったのです。ですから、時代劇に登場する極悪商人「越後屋」は別に特定の一店をモデルにしているというわけではないようです。

では、なんで「越後屋」がそんなにたくさんあったのか、ということになるわけですが、これは、当時の屋号の決め方からそうなったと言えそうです。

当時は、屋号を決めるとき、出身地の国名をつけることが多かったそうですが、越後はことに江戸に出稼ぎに行く人が多い国だったのです。
それというのも、越後は冬場は雪深い地。冬になれば農作業もままなりません。となれば、生活が苦しい人ほど、出稼ぎに行くしかないわけです。

というわけで、江戸に出稼ぎに来た越後出身者たちが、やがて店を持つことになったので、みんな「出身国だから」と言って、「越後屋」を屋号としたんだそうです。だから、「越後屋」は商家の屋号の代表格なんですね。


よって、「越後屋」だから悪徳商人というわけではないようです。まあ時代劇はそもそもがフィクションなんですが、悪徳商人のイメージが定着してしまっている越後屋さんはちょっと気の毒ですね。


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今や力士くらいしか「ちょんまげ」の人はいませんが、江戸時代以前はちょんまげといえば、日本男児の基本スタイル。でも、ちょんまげは西洋人から見ると、相当ヘンなものだったようで、「日本人はなぜ頭にピストルを載せとるのだ?」などと言われたとか。

しかし不思議なのは、なんでそんなヘンな頭が定着したのかってことですね。いつの間にか流行するような髪形でもないだろうし。
ちゃんとありましたちょんまげ流行の理由


■至極合理的なはじまり

日本の髪型の変遷を見ていくと、ちょんまげが広く浸透するのは鎌倉時代からだそうです。言われてみれば、平安貴族とかはちょんまげじゃないですね(月代がない)。束ねてしばる感じでしょうか。

なぜ鎌倉時代なのかというと、ずばりそれは武士の世の中になったというのが大きな理由です。

武士といえば、合戦で活躍するヤツラ。合戦といえば、あの重たい甲冑を身に着けないと、危なくて戦えません。当然ながら兜もかぶる…。←ココ!ココ重要!

えー、つまりですね、兜かぶると頭がムレるでしょ。時代も時代ですし、通気性なんか気にしてたら、一番大事な防御力を失うことにもなりかねません。そこで、とりあえず兜の方は防御力第一

そうすると、やっぱり頭の方をなんとかしないといけません。そこで武士の皆さんが考えたのは…
髪…剃っちゃえばよくね?

確かに髪がなければそんなにムレないかも。
ってなわけで、髪を剃っちゃったので、それが月代になりました。そして、残りの髪は今までどおり束ねてしばる。これでちょんまげ完成というわけです。「ムレるなら失くす!」…うーむ、なんとも合理的な判断ですね。


時代の変遷と共に、多少は変化しますが、基本スタイルとなったちょんまげ。当時は当然のごとく、なんてことはない髪型なわけですが、現代でちょんまげを結ったら世間様の話題になれる!間違いない!


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最強の動物愛護法であるものの、極端すぎて現実性に乏しく、「悪法」といわれるに至ってしまった生類憐れみの令

生類を憐れまないといったいどんな刑罰が待ち受けていたのでしょう??


■犠牲者続々…

生類憐れみの令」は、まず犬から始まり、やがて牛馬、鳥、貝、海老と続いていった法律で、要するに段々対象が増えていったものだそうです。

んで、この法令での犠牲者第一号は、江戸城台所だった天野正勝さん。彼は台所の井戸にネコが落ちて死んだので、その責任をとらされる形で、八丈島に流罪になったそうです。

続いて、犠牲者第二号病気の馬を放置したグループ10人です。全員逮捕されて、これまた遠流

その後も犠牲者は増えていくわけですが、例えば、犬を斬った下僕がいると聞くと、当人は遠流。さらにその主人は家禄召し上げという処分にしたりしています。

そんなわけで庶民に大層嫌がられた生類憐れみの令ですが、程なく、さらに「蚤や虱、蚊、蝿も殺すな」という命令まで出ました。そして、蚊殺しで流罪になった武士もいたとか…。もうここまでくるとヤケクソなようにしか見えんわ…。なめんなよ。


■綱吉も令を犯しそうになった!

ところが、この悪法を制定した当の本人・綱吉もこの法律にひっかかりそうになったことがあるそうです。

それは綱吉が城内を散歩していた時のことでした…。
ふいに綱吉の頭に、何やら白いのが落ちてきました。「なんじゃー?」と思って上を見てみたら、でっかいカラスが「アホー、アホー」。カラスの糞が降ってきたようです。

これには綱吉、さすがに激怒!
あれを捕まえろ!八つ裂きにしてくれるわ!
綱吉の剣幕に驚いたお供の皆さんは、大慌てでカラスを捕らえましたが、「将軍様がこのカラスを殺したら、「生類憐れみの令」に抵触してしまう」ということで、そのように進言しました。

綱吉もそこはよくわかっていたようですが、どうにも怒りは収まらず、結局このカラスを処刑せず、流罪にとどめておいたそうです。なんじゃそら。


元をたどると、安産祈願に端を発するといわれる「生類憐れみの令」の発布。それでも綱吉自身は結構この法律を気に入っていたらしく、死に臨んで、時期将軍家宣に「生類憐れみの令はいい法律だから、私が死んでも残すように。」と言い残したとか。

とまあ、そこまで気にして手を回した綱吉公でしたが、綱吉没後、幕府が真っ先にやったのは「生類憐れみの令」の撤廃。庶民はニッコリですが、草葉の陰で綱吉公は泣いたであろうのう…。


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江戸時代において将軍といえば、日本のトップ。しかも今と違って封建社会におけるトップなわけだから、さぞ威張り散らしていたことだろう…と思う人もいるのではないでしょうか。

たしかに将軍様は幕府のトップで権力もあるし、将軍様を公然と批判なんてしようものなら、当然のごとくお縄なわけですが、権力に任せて好き勝手をしていればいいわけではありませんでした。

まあ当然といえば、当然なんですが…むしろ将軍様の行動はがんじがらめだった、と言えなくもないかもしれません。

例えば朝なんてこんなカンジ…。


■なんでも予定に入れてある!

将軍様の起床時間はだいたい朝の6時くらいだったそうです。なかなか早起きですな。でも、眠いからと言って
「うーん、もうちょっと寝かせてよ、トニー…。」
なーんてわけにはいきませんでした。

なぜなら朝食の時間が決まっているからだ!

しかも、それだけじゃねぇ!

それまでにやることも決まっている!御髪をなおして、湯浴みをして、便所だー!

…。
えー、中には「便所」などの予定に入れるべきじゃない生理的な事柄も混じってますが、一応、これも「予定の一つ」となっていたようです。

なんだかラクじゃないねぇ、将軍やるのも。


■重要だけどクサイ仕事

でも、実はもっと大変なのは、お小姓さんたちなのでした。

ずーっと殿様の近くに控えていなければならないばかりか、風呂に入れば、洗うのは小姓の仕事。さらに、殿様の便所にもついていかなくてはなりません

便所にまでついていって何すんじゃいと思うかもしれませんが、これが意外にも重要任務。というのも、小姓は将軍様の排泄音をよく聞いて、将軍様の体調に異常がないか確認しなくてはならなかったのです。
別にケツをふくために便所についていくわけではないんですなあ。

排泄音でどんな健康状態も判断できるものではないでしょうが、仮に下痢気味だとすれば放ってはおけません。ただの下痢じゃない可能性もありますし。異常な点は早めに発見し、侍医に報せるわけです。

れっきとした理由のある「お仕事」とはいえ、他人の排泄音を真剣に聞かなくてはならないというのは…なんとも言えないもんですなあ。
時代劇とかでここらへんもリアルに再現したら笑えるかもしれない(笑)。


というわけで、がんじがらめの将軍様とその側近さん。こんなリーダー生活ならむしろナンバー2の方が気楽でしょうかねぇ??


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参院選で自民党が大敗を喫したのもついこないだのこと。安倍総理にとってはかなり苦しい状況が続いています。

不祥事連発の最近の自民党ですが、やっぱりいかに国民の目線に立つかというのは大事なようです。

そこで!江戸時代のとある老中を見習ってみよー


■切り身盗みが発覚!

今日の見習いたい老中は酒井忠世という人です。酒井氏は徳川家の譜代家臣の家柄で、江戸幕府創業にも功のあった家系です。つまり…、多少態度がでかくなりうる可能性がある家柄なんですな。

この話は、そんな家系に生まれた忠世が江戸城から下城しようとしたときの話です。

下城する際には、必ず御台所口の前を通るのですが、そこの料理番の者たちが、忠世が通るのを見て慌てて平伏しました

そのときです。料理番の下役のうちの一人の懐から魚の切り身がポロっと…
「や、やべ…!」
慌てて切り身を後ろに隠してひたすら平伏す下役。しかし、忠世は確かにそれを見ていました。


■責任はいずこ

忠世の隣にいた側近は眉を寄せましたが、忠世はそのままその場を通り過ぎました

そのまま通り過ぎるとは思わなかった側近は、後で忠世に言いました。
「大事な城の食べ物を盗もうとしたは歴然。かような不埒モノは厳重に罰すべきです。」

しかし、忠世は首を横に振りました。
「待て待て、あの料理番どもが悪いわけではない。かの下役がああいうことをしたのは、わしにも責任がある。
「!?何を仰せられまする?」
「考えてみよ。かの者がああして切り身を盗んだは、満足に食えていないからではないか。給金が安いから満足に食えぬのではないか。」
「御老中、仰せになられていることはわかりますが、盗みは盗み。切り身一つといえど、城の物を料理番の役得で盗んだことには変わりはございませぬ。」
「なるほど、役得か。だが、役得で切り身を盗むほど喰うものに困っているということこそ問題ではないか。そうなってしまうのは、政治を預かる者に責任があると言うておるのよ。」

「し、しかし…。」
「わかったわかった。されば料理番に羽織を支給してやれ。
「羽織??何ゆえにござりまする?」
役得の切り身を落とさぬように…だよ。羽織があればうまく隠せる。うまく隠せば誰にも知られぬこと。問題あるまい。」
「いや、しかしそれは…。」
「言うたであろう。政治が善いほうに改まれば、かの者共とて城に詰める職人たちだ、切り身を盗もうとなど考えぬであろう。政治を善くするのは今後のわしの課題だ。ははは…。」

この後、政治は改まって、城中でこういう盗みが発生することもなくなったそうです。


家柄もよい忠世ですが、上から目線にならずにこういうことが言えるなんて大したお方ですね。

とはいえ、現代でこんなことをしたら、図に乗って盗み続けるヤツが出てきそうですし、これで必ず事態がいい方向に向くとは思えませんので、単純にこれを見習えばいいというものではないでしょうか。

…でもまあ、責任のなすりあいをしているように見える、一部の政治家のセンセイ方には、ちょっとこういう意識も持っていただけるといいなあと思いますがどうでしょうねぇ。


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edojyou

江戸時代の盗人最大の目標!それは御金蔵破りだ(知らんけど)!!

御金蔵とは江戸城本丸にある幕府の公金が収めてある蔵のことです。
セ○ムもア○ソックもない時代ですが、ここの警備は鬼のように厳重で、ベテランの盗人でも、リスクがでかすぎるため、盗もうとも思わないほどでした。

ところが!
この御金蔵破りを成功させた男たちがいました

時は安政2年(1855)3月6日。世の中は1853年の黒船来航以来、上を下への大騒ぎ。当然、幕府もてんやわんやしていたころでした…。


■御金蔵破り犯人逮捕!

御金蔵から盗まれた金の総額はなんと4000両。2000両入りの小判箱が二つなくなっていました。

鍵は盗まれていないのに、御金蔵の錠前はことごとく開けられていたことや、警備の隙をついていること、犯行時間が短いことなどから、相当に周到な準備の末に実行された犯行と考えられました。

もちろん幕府は躍起になって犯人の捜索を進め、ついに二年後の1857年2月に犯人を逮捕しました

逮捕されたのは、住所不詳、小人目付の藤岡藤十郎容疑者(39)とその相棒で中間(ちゅうげん)の富蔵容疑者(年齢不詳)の2人。

調べによると、藤岡藤十郎、富蔵の両容疑者は、かねてから江戸城に忍び込んでは犯行の下見をしていたほか、御金蔵の錠前の鍵も型をとって複製。さらに交代などで警備の人間に隙ができる時間まで把握し、きわめて慎重かつ周到に準備を進めていた模様

容疑者らをよく知る人の話では、双方とも相当金に困っていたといい、貧しさから一攫千金を狙った可能性もあると見られています。

また、二人は取り調べに対して、「金に困ってやった。」と答え、犯行を認めているとのことです。
幕府からの公式発表によりますと、二人は市中引き回しのうえ、小塚原の刑場にて磔となるとのことです。



いつの間にか、ニュース風になった。
でもどういう事件だったかは伝わったでしょうか?ちなみに犯人逮捕の決め手は、富蔵の金遣いにあったそうです。金は盗みには成功しても、使うとバレるんですよねぇ…。うーむ、世の中ってヤツはうまくできてるのお。


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みなさん、お久しぶりです。
すいません、またしばらくほったらかしにしてしまいました。

今日は豆知識をお一つご紹介しようと思って、キーボードを叩きました。

何かというとですね…

便所の話です。