2009年09月13日

レクリエーションを学ぶ日々

老健で「レクリエーションインストラクター求む」という求人広告を出していて、それに飛びついたのが約6年前。
面接で私は「レクリエーションインストラクターの資格は持っていませんが、レクリエーション援助の仕事がしたいです。」と話した。

「音楽療法士の補佐から入りたい、音楽を使ってレクリエーション援助の仕事がしたい。」と続けた。

当時から「認知症には音楽を道具にしたレクリエーションが向いている」と思っていた私は、都老研の「ヘルスリズムス」や打楽器を使った音楽レクリエーションに強い関心を持っていた。
お金がなくて資格を取るのは断念したけれど。

でも単発の講座なら自分の小遣いから参加費を捻出できる。
単発でなるべく安くて質の高い講座を探す為、県や市の広報やインターネットの講座情報などをチェックするようにしていた。

当時、私は市内の音楽療法士の卵に混ざって「音楽療法講座」を単発で半年間受けていた。
ワークショップで「介護職です。」と自己紹介をすると変な顔をされた。
でも「介護職が音楽療法やレクリエーション援助に関心を持つことはとても大事なことだと思う。」と周囲の音楽療法士は私を応援してくれた。いろいろなことを教えてくれた。
とても嬉しかった。

資格もないのに、施設で「レクリエーション担当」なんて周りにいなかった。
それでも「レクリエーション担当にして下さい」と言い切った自分に今さらながら「勘違いして生きているよなあ、それでも通してきたんだなあ」と笑ってしまう。
そして老健の就職(レクリエーション担当)が決まった頃、レクの師匠であるのりまき先生と出会った。
最初の講座でのりまき先生の話す「レクリエーション援助の奥深さ」に驚いた私は、ちょうどその感動を持って、新しい職場「老健」にレクリエーション担当としてデビューしていったわけだ。

ところが老健で勤務を開始するも、ふたを開けてびっくり。
もちろん非常勤という「勤務時間の少なさ」や「腰かけ状態中途半端な立場」「管理からは蚊帳の外」のジレンマがあったことは確かだが、勤務形態を超えた、深い深い部分にそれから6年間自分を苦しめてきた「矛盾」が根ざしていた。

まず、介護の現場というのは「回転の多い現場なんだ」ということに驚いた。
先輩がどんどん辞めていく。
後輩は教えて1人立ちしてもすぐ辞めていく。

レク担当どころではない(爆)

40人のトイレ介助を2人で、1時間で?

若い子たちが競争のように「今日は50分で終わらせた」と自慢をする。

そうなの?
それでいいの?

朝のトイレ、車椅子で立位さえ保持出来ない、そんな”自分で排せつの出来ない人”の排泄を全てコントロールしている介護職員。

「朝のトイレを大事にしたい。私らだって朝はゆっくりトイレに入りたいでしょう?」何度上司に訴えても聞いてもらえなかった。

上司に言ってしまった。

「人間は朝と食後が一番便意を催すんです。これをベルトコンベヤーでやられたらたまらない。トイレに連れていかれ立たされ座らされ、”はい、パットが濡れていたから交換”で無理やりトイレから出されます。次の人が並んで待っているから。
副交感神経をご存じですか?介護福祉士の勉強をすればわかりますよ。」と言ってしまった。
生意気な非常勤だ。介護福祉士をまだ持っていない上司は嫌な顔をした。

私も自己嫌悪でしばらくつらかった。こんな性格じゃないのに、あたし。
こんなこと言いたくないのに。どんどん自分が醜く変わっていく。
「ひとの生活」を左右する介護職だからこそ上に勉強して欲しかった。
だから生意気なことを言ってしまった。

こんな状態だ。レクリエーション援助どころじゃない。

私は次第に「介護福祉士」として「介護福祉士らしいこと」をしたいと強く思うようになってきた。



「レクリエーションなんて”ちーぱっぱ”だ、手遊びや童謡を無理やり歌わされる、人間の尊厳を無視した行為だ。」

「レクだって?職員さんが気の毒だからね、風船飛ばしたり、団子をこねたり、我慢してやっているよ」

みんなそんなことを言う。

単純な私は、「子供っぽいことはやりたくない」と思うようになった。

戦後の焼け野原から立ち上がり家族を守ってきたお母さん
高度成長期の引っ張り役だった社長さん
「ゆとり教育」とはかけ離れ「勉強出来ない環境」でも必死に学問に携わってきた先生たち

そんな方の人生に触れるにつれ

「レク担当」ではなく「教えて下さい」の立場に自分が変わっていくのがわかった。

そして、この人たちの「出来る部分」「わかる部分」を引き出し、もっともっと自信を持っていただきたいと思うようになってきた。

集団処遇、時間割り生活に身を置くこととなり、十把一絡げで無意味に潰されてしまう「人生の終末」がそこにたくさんあることを


この6年で私は見てきた。


下でわいわい騒いでいてもどうにもならない失望感に苦しんできた。


そんな中でこのブログで知り合った人たちが自分と同じようなことを考えていることを知り

「自分ひとりじゃない」と勇気が湧いてきた。



自分が6年以上も「認知症の人」と触れ合うことになったのはたまたまだったのだけれど、


認知症の人の戸惑いや涙、声にならない訴えを全身で受け取っているうちに、

「変えなくちゃいけない、変えないとこの人たちは地獄だ」

と思うようになってきた。


だから「障害を理解し」「ひとの尊厳を守る」

認知症ケアや社会福祉士の勉強にのめり込んでいったのだと思う。



人の生活を左右するケアプランに関わるケアマネージメントを学びたくなったのだと思う。


先日、福祉レクの運営委員会でのりまき先生と飲んだ時に、先生が


「レクリエーションはユニバーサルデザイン」と仰った言葉に深く感銘を受けた。

ユニバーサルデザイン」は社会福祉士の勉強で学んだことがらだ。

ユニバーサルデザインの7原則 [編集]
The Center for Universal Design, NC State Universityによる原文

1.どんな人でも公平に使えること
2.使う上で自由度が高いこと
3.使い方が簡単で、すぐに分かること
4.必要な情報がすぐに分かること
5.うっかりミスが危険につながらないこと
6.身体への負担(弱い力でも使えること)
7・接近や利用するための十分な大きさと空間を確保すること


もちろん大学なんか行かなくても常識として知っている人はたくさんいると思うが、確かに自分は「社会福祉を学ぶ大学」でユニバーサルデザインの意義を障害者福祉論を通して学んできた。

そしてそれは「認知症ケア」や「人権尊重」に結びつくものである、ということが確認出来た。


シャンプーのぎざぎざ

障害者に優しいものは健常者にも優しいものだということ。

(以下引用)
ユニバーサルデザインは、バリアフリーの発展型。
「できるだけ多くの人が利用可能であるようなデザインにすること」が基本コンセプトである。デザイン対象を障害者に限定していない点が一般に言われる「バリアフリー」とは異なる。

どうしてもユニバーサルデザインにできない場合は多様な選択ができること、付加・調整できること、それでも無理な場合のみバリアフリーにすることも必要である。あるいは、生活必需品やみんなで使う公共空間や交通機関がすべてユニバーサルデザインであるならば、そもそもバリアフリーにする必要はない。「もともとバリアのない世界を最初から構築すること」を目指すのがユニバーサルデザインの真の狙いであり、バリアフリーはその世界への移行期間中における、あくまで臨時措置であることを作り手は認識しておくことが重要である。

ユニバーサルデザインを具体的に展開するためには、国民各層の「参画・連携・継続の仕組み(プロセスとしてのユニバーサルデザイン)」が重要である。そこでは、ひとりでも多くのひとの利用を念頭に、みんなでニーズや問題を調べ尽くし、考え抜き、解をつむぎ出すこと、さまざまな特性をもった使い手と作り手の各種の事業者・行政との豊かなコミュニケーション(コラボレーション)、ユニバーサルデザイン化への強い意志と地道で継続的な努力、改善が大切である。ユニバーサルデザインは「みんなをつなぐデザイン」でもある。

とある。

すると、全ての点と点が繋がる。

障害者に優しいレクリエーション援助は健常者にも優しいレクリエーション援助なのだ。

目の見えない人、耳の聞こえない人、体のどこかが使えない人、表現が出来ない人、
言われてもすぐ忘れてしまう人、新しい事がおぼえられない人、勘違いしてしまう人、自分の感情をコントロール出来ない人、すぐ疲れてしまう人、集中出来ない人、逆に何かに固執してしまう人、二つのことがいっぺんに出来ない人、ものがわかっても使い方がわからない人、見えているけれど認識出来ない人、自分の思い通りに体が動かない人・・・・・。


みんなみんな

「ひとと触れ合っていたい」

「自分のことを話したい、知ってほしい」

「役割や目標を、作られたものでなく自分の意思でかち得たい」

「みんなの笑いの中に混じっていたい」

想いは一つ。

でも出来ないから、補うのだ。

援助とは補うということなのだ。



「障害」を補うレクリエーション援助が全てのレクリエーション現場での笑顔を引き出せる時間作りに結びつくのだ、ということ。

そして、

「認知症」の障害を補うケアは全ての介護現場でのケアの基本である、ということ。


を先生の「レクリエーションはユニバーサルデザイン」という言葉と共に学んだ。



9月の一週は私が企画したレク(物送りゲーム)をデイで行った。

最初、上にだいぶ叩かれて落ち込んだが、ふたを開けたらとても評判のいいレクになり、

「新しい職場で新しいことをするのは、理解を得るまで辛抱が必要だ」と思った。


実はこのレクは他のデイ(前勤めていた老健のデイ)では成功していたので、もしここで失敗したら、それはレクの計画が悪いのではなくて、進行の失敗だとわかっていた。

それでも1週間このレクをやってみて非常に面白かった。
老健では経験できなかったことだ。

自分の持ってきたレクネタをいろいろな人が変えていく。

「レク担当が変わる」事によりレクの雰囲気が全く変わっていくのを感じたからだ。

今週は4日出勤したので、4日分体験したが、「ああ、この人はこういうやり方をするんだ、面白いなあ」と感動しながらレクを見てきた。


「レクネタは関係ない」


そのレクを道具として、利用者をどう楽しませるのか、どう工夫して楽しませるのか、




もはやレクリエーションは、「デザイン」として存在するのだろう。



利用者さんを知っていれば「どんなところで得意げになるのか」「どんなところで笑うのか」「どんなところでプライドを傷つけるのか」

わかるようになってくる。


レクリエーションは人と人を結び、人と環境を結び、人に活気と安らぎを提供する。



活気と安らぎを提供するレクリエーションこそ「生活にかけがえのない」存在なのだ。


そんな大事な時間を6年間、共有するにあたって、失敗して理解できなくてさびしい顔をされるより、自信満々で得意げに話す利用者の笑顔を引き出せる時間をたくさん作りたいと思うようになってきた。



子供扱いは利用者が拒否する。

人権無視は利用者が失望して諦めの目をこちらに向ける。


障害を持った方が誰でも楽しく参加出来るよう、工夫をされたデザインが、「楽しい時間」を共有させるのだ。


6年くらいレクリエーション援助の勉強をしてきて、少しずつ少しずつ「人間」というものが「福祉」というものが、

わかってきた気がする。

zunasea39 at 19:57コメント(2) この記事をクリップ!
レク*施設レクって・・・。 | 自分のレク*飲み会

コメント一覧

1. Posted by のりまき   2009年09月14日 00:48
「カバーする」という言葉に、健常者の傲慢を感じますが、仕事への意欲を喚起できたなら、一緒に飲んだ甲斐があったのかもしれません。
ユニバーサルデザイン、ユニバーサルケアの考え方は、認知症ケア専門士の学習課程で触れなかったのかな?テキストのどこかに書いてありませんか?

9月30日の例会について、RLYブログの方に上げました。リンクしてくださいませ。
2. Posted by JUNKO   2009年09月14日 00:59
>のりまき先生
傲慢な気持ちで「カバー」と言う言葉を使ったつもりはなかったので、ただの知識不足です。
「補う」という表現に変えたのですが、これでもまだ違うかな。
「ユニバーサルデザイン」は認知症ケア専門士のテキストにもありますが、自分の印象に残ったのはやはり社会福祉士の勉強で、ですね。
どちらにしてもあまり「レクリエーション」と結びつけないで考えていたので、先生の仰った言葉に強く反応しました。

老健とデイでのレクリエーション援助の違いにだいぶ戸惑うところがありましたが最近ようやく慣れてきました。
まだまだ勉強が足りないなあと思っています。
9月30日例会のリンク、ありがとうございます。近々こちらでもリンクさせて頂きます。

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