11月3日、4日と、笑福会の仲間で宮城に行ってきた。
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新入会員の方も数名いらしていて、それはそれは珍道中になりました(笑)



宮城へ行くのは初めて。
去年の東日本大震災の後、我々日本人は苦難の道を進んできた。
多かれ少なかれ価値観が変わった日本人は多いだろう。
私はあの日、デイサービスの出勤日だった。
あの瞬間、横須賀はそれほど揺れなかった。
大きく大きくめまいを感じ「やっぱり疲れているんだ、主任に言って早退させてもらおう」と思った瞬間
「地震だ!」という声があがった。

テレビは最初、(フ〇テレビだったせいか)東京の火事の映像を流した。
「東京が被災している」と思った。
大々的に太平洋側に津波警報が発令されたにもかかわらず、デイサービスは利用者さんを自宅まで送り届けた。
インターホンを押しても停電で家の人が気付かないので家の中まで長い階段をのぼってお連れした。
15階に住む車いすのご利用者をどうしたらいいか止まってしまったエレベーターの前で途方に暮れた。
「海側の家に送っている」という恐怖感と「早く家に帰って安否確認をしたい」という焦燥感の中で自分を奮いだたせていた。
高校に行っている娘が心配で、それでも利用者を送り届けなければならず、
「学校からとぼとぼ歩いているところを友達のお父さんに見つけてもらって車に乗せてもらった」と聴いて涙が出るほどありがたかった。
あの時の「子どもに何かあったら」の不安は今でも忘れられない。

3月11日はそのデイの送迎のことを日記に書いていたが、時間が経つうちに阪神大震災の時のように、被害がとんでもなく甚大だということがわかってきた。
ブログのコメントに「宮城、福島、岩手の太平洋沿岸は壊滅状態」という言葉をやぎやんが書いたのを読んで、震えが出た。
大学の友達のHATくんにメールを送っても返事が来ない。
まさか・・・・
茨城や東北の笑福会メンバーも大丈夫だろうか?

笑福会でその頃から「何か出来ることがあったら」と声をあがってきた。
関西のみんなが義捐金を集め、まず山下さんの車でげんきさんやHATくんが中心になり、義捐金を集めて、オムツや日用品を宮城県のグループホームに送って下さった。
その後は、流されてしまったシルバーカートを寄贈した。

関東ではゆっちーが笑福会Tシャツを作成し、10万円の義捐金を集め、赤十字に送って下さった。
「何かしたいけれど動けない」状態の私は、そんな仲間の行動力に勇気づけられそれでも中継地点(会計報告)などで動くしか出来なかった。



想像もつかない津波の恐ろしさ・・・・

ニュースを見るたびに胸がつぶれる思いがした。




年が変わり、私は新しい仕事をするようになった。

介護職員基礎研修の仕事だ。

介護技術を教えることが決まり「介護技術講習指導者養成」を受けることにした。

1月に大阪へ。

授業が始まる前にきちんと自分自身が介護福祉士会の介護技術を取得しておきたかった。

ひょんなきっかけでfacebookで知り合った特養の介護職員のKくんと一緒に受講することになった。

ぎりぎりで2人で申し込みが通り(私は介護福祉士会に入っていなかったので本当にぎりぎりだった)2日間の講習を受けた。

彼は笑福会に興味を持っていた。

笑福会は「えらい人」や「役職にある人」でなくても「えらい人」や「役職にある人」と同じ勉強をしたい、と思っている人たちの集まりで、

介護は現場が、現場で働く人間がその質をあげていかなければ、その社会的地位も処遇も人間関係さえも(そして定着率も)劣悪なままだ、「もう待っていられない」との共通意識があった。

非常勤でも勉強をして経験が浅くてもコツコツ勉強をしてぺーぺーでも資格を取り知識と技術を深めたい。


大阪から帰る新幹線の出発前にそんな話をビールを飲みながらその介護技術講習の飲み会で私は語った。


Kくんがそれに共感をしてくださって「僕も笑福会のメンバーとして勉強を頑張りたい」と言ってくれた。

(口だけでなく彼はその後通信大学に入学し研究発表など経験を積み嬉しい活躍を見せてくれている。)

私が話した後に今度は彼が話し始めた。


彼がどうしてそんなに意欲的に勉強をしたがっているのか、私は好奇心を持って耳を傾けていた。

Ipadを操って数枚の写真を私に見せてくれた。




それは「津波で流された自宅の写真」だった。

意気揚々とした介護現場での活躍の話かと思った私は一瞬言葉を失った。



ぼーっとした頭の中にさまざまなフレーズが通り過ぎていく。


「自分が3月9日に里帰りをして11日の午後、仙台空港を出発した、飛行機が飛んだその直後に大地が揺れた。」

「厳格な父に、嫌がるのを承知で『杖を使ったらどう?』と介護保険の説明をする為に宮城に戻った。
父親とたくさん話した。いつもあんなに話さないのにあの日は何かが自分に親孝行をさせてくれたとしか思えない。」

「父が『元気でな』と最後に手を振った。」

「それが父を見た最後の姿だった。」

「自分が飛び立った直後に震災が起こった。」



私は言葉を失った。


ただ、「は?」「はあ」「えっ?」「そう・・・」と間の抜けた返事しか出来なかった。


普段コミュニケーション技法の授業でやっているような


「それはおつらかったでしょうね。」とか「哀しい気持ちでいっぱいなのですね。」


なんてそんな言葉なんか出てこない。


結局、何もろくな返事をせず、お別れを言って新幹線に乗り、ずーっと、彼の言った言葉を頭の中で整理していた。

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笑福会が全国大会をおこなう時は、私は事前にしっかりパンフレッドを用意し、プログラムもきちんと作るのだが、今回は前の日記の通り、仕事がわんさかあって6連勤、デイのちょい仕事、研修のレジュメ作成、書籍作成とがんじがらめだった。
笑福会関西のげんきさんに殆ど準備をお任せしてしまい、私は「ただ行くだけ」みたいな参加者だ(笑)

新幹線に乗って仙台駅へ。
PT田中さんとくっちゃべっていたらあっという間に仙台に着いてしまった。
仙台駅には介護職員基礎研修で初めて受け持った時の生徒さん(私を師匠を呼んで下さっていますw)が待っていてくださった。
元気な姿が見られて嬉しい。
仕事も頑張っていらっしゃるとのこと。
また一緒に勉強が出来るといいな。

「蔵っしっくパーク」という研修会場に向かうが大幅に時間が遅れ、結局PT田中さんと私はセミナーがカット、HATくんも大急ぎで喋るという駆け足研修になってしまった。

それでも私は「自分は削られてもいい」と思い、田中さんも「大事な時間が流れていた」と仰ってくれた。

それが、今回の「笑福会 in 宮城」だった。


1番最初はげんきさんによる「新人教育研修」についての発表だった。
現在、デイサービスで新人教育の仕事をされているげんきさんの研修内容などについてのお話。
今回、参加者はデイサービス職員が多かったので必死にメモを取っている姿がみられた。

2番目、あしすけさんの「フットケア」についての研修。
私はあしすけさんの「足の状態もよくみないのに何がリハビリだ、何が歩行訓練だ」という言葉が大好き。
やぎやんがしきりに「どうして巻き爪になるのか」を教えてもらって本当に良かった。目からうろこだった、と興奮気味に話しておりました(笑)

ここで、さきほどお話した特養の介護職員Kくんの計らいで、Kくんのお母さんとKくんの幼馴染が、
スペシャルゲストで登場して下さった。(笑福会全国は毎回スペシャルゲストが登場するのだ)
「あの日のこと」を話して下さった。

お母さんはとてもお若く見えた。
お父さんが杖がどうのという話をKくんから聴いていたのでおばあちゃんが登場するのかと思いきやとても若くてきれいなお母さんだった。

足を悪くされていて65歳以上ではあったけれどきっとお父さんも見た目若いお元気な方だったのだろう。


震災の日のこと。


お父さんの遺体を発見された時の話をされる。


淡々と話し、ご自分でも「悲しい、泣きたい」というより、「信じられない」「放心」状態だった、と仰る。


人間はあまりに痛みが大きいと自分を鈍感にするのだろうか。


「自分でも馬鹿みたいだと思ったが、毎日、家の中のがれきを掃除して、花に水をやっていた。」


誰もいなくなった家の中の思い出の品を片付け、そしてもうお父さんがいない庭の鉢に水をやっているお母さんの姿を想像すると涙がこぼれそうになった。


淡々と話すのだけれど


切なすぎて辛すぎて胸がつぶれそうになった。




Kくんのお友達もご自分の家に安否確認をしに戻った時の話をしてくれた。


「職場から家に戻る間に道路で2人遺体を見たんです。2人とも知っている人でした。近所の人です。


驚くとか悲しいとか、そういう感情ではないんです。


ただただ不思議な感じがした」


Kくんのお母さんもお友達も思い出したくない話を笑福会で話して下さいました。


質問で「被災地以外の人に何か言いたいことはありますか?」と聴かれ、


「ただ、見て欲しい、聴いて欲しい」


と答えていらっしゃった。


他人事ではないこの現実・・・・風化されてはならない。


まだまだ復興は終わっていない。


私たちが出来ることは何か、困った時はお互い様、そして自分達の震災時の危機管理は????


みんなでいろいろなことを話し合う有意義な時間が流れていった。


笑福会がシルバーカートを贈ったり、げんきさんが訪ねて支援を続けてきたグループホームの管理者さんの話は


「被災者」でありながら「介護現場の管理者」という2つの立場が作り出した葛藤が、


その絞り出すような話し方から感じられた。


立場上、言わなければならなかった言葉、自分の家族を放置して優先しなければならなかった福祉の仕事、そのことを振り返っては


涙をぽろぽろこぼす。


本当につらかった。


本当に哀しかった。


今まで封印していた「自分の感情」をこの場で解きほぐしていたようなその涙にみんな沈黙で受け止めるしかなかった。


話して下さってありがとう。


私たちに本当に大事な時間を下さってありがとう。



帰りは全員で大川小学校を見てきました。


すぐ近くが海だと思ったのにそうじゃなかった。


すぐ裏が山だった。この極端に急な崖をよじのぼった人が助かった。


モダンな小学校の作り。


壁が津波で流され、教室がむき出しになっている。


可愛い黒板、可愛い教室、、、、


プールの跡、


卒業生の世界平和を謳った可愛らしい壁画。


3月11日のその時まで


笑いの絶えなかったであろう、



子どもの走り回る姿を



思い浮かべると



胸がしめつけられる思いだった。



わたしたちは生かされているんだ。



生きて何かの意味を感じて、亡くなった人たちの分も精いっぱい生きなくてはならない。



1月の介護技術講習指導者養成講習の後、新幹線待ちの時にKくんが言った言葉が



頭をよぎった。



「僕は宮城県の復興に福祉という形で貢献したい。その為にもっと勉強をして実力をつけたい。」



出会いが作った、笑福会 in 宮城。



笑福会なんて実態もなくてただの自主勉強団体だけれど



学びたいという人が学べる場があるという



その空間を大事にしていきたいなと思ったそんな2日間だった。


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