zusitto逗子■てくたく日記

海と山に囲まれた神奈川県逗子市から発信する日々の のほほん生活

忘れられない人の話

被災地からの手紙

東北自動車道にある、とあるサービスエリアのN支配人に仕事の関係で連絡をすることになった。そのサービスエリアは、東日本大震災でレストランの厨房が大きな被害を受けた。3月には東日本エリアのメニューコンテストで入賞するような魅力ある商品を企画して、お客様に提供をはじめていた。
でも、震災で、取引のあった農家や水産業者が被災して、食材が手に入らなくなってしまったそうだ。最近のサービスエリアのレストランは、地産地消にこだわった郷土料理のメニュー開発を進めている。だからそのサービスエリアは、魚介をたっぷり使ったメニューを中心にしていたのだけれど、そのため、今でも食材が思うように調達できない。しかし、高速道路を使ってやって来る多くのボランティアに食事を提供するために、豚汁や焼きそばなど、できる範囲の提供をはじめたのだという。
被災地の方に電話をしなくてはならないなんてどうしようと正直、気が重かった。「たいへんな時にそんな連絡するな」と怒られたらどうしようと気を揉んでいた。けれど悩んでいてもはじまらない。お詫びの言葉を添えて、電話をかけた。
もちろん、その仕事は「たいへんな時だから」という理由で断られたし、そんな状況で電話をかけた私も悪かった。それでも、心配している気持ちはわかって頂いたらしく、他の仕事でご一緒させて頂けることになった。
お礼と改めてのお見舞いを込めて、メールを打った。するとほどなくして返信が来た。
「今回の震災の惨状を目にして、心が休まる日はありません。二カ月経った今も、毎日どうしようもなく、涙が止まりません。それでも、昔のような気持ちを取り戻せるように努力したいと思います」と書かれていて、私もたまらなく涙があふれた。
節電、義援金、できる範囲で協力はしているけれど、被災地の方の心には寄り添ってこなかったと心が苦しくなった。どんな言葉をかけて良いのかどうにもわからなくて、「食を通じて、復興にお力をお貸しください」と書いた。一度だけお会いした事のあるN支配人の恥ずかしそうでいて人なつこい笑顔が浮かんだ。笑顔が消えていませんように、ふり絞るように「どうぞ笑顔でいてください」と書いて、送信ボタンをゆっくりと押した。

夏のさよなら

守爺はいつも
「キムラだよお」って、仕事中に電話をかけてきて
「俺は今日は冷たいビールが飲みたいから。お前、ちと付き合えよ」と話す
「これから大宮に来い」なんて驚きの指令で行くと
「これでけえれ」と新幹線の切符を渡された

あたしたちはいつも幹事のゴールデンコンビで
守爺の指令で、あたしはみんなに招集をかけてた

この夏、10日ぶりに帰国すると
携帯にはたくさんの留守電とメールが入っていて
それがいつものメンバーからのものだったから
すぐに嫌な予感がしてた

守爺は、大きな手術をしていて
もういちど事が起きれば
助からないってわかってたからね

案の定、守爺は亡くなっていて、その日はすでにお通夜だった
みんなは、あたしのことを探してばたばたしてるみたいだった
召集の指令を出すのはあたしの役と決まっていたのに
守爺の死を知らせる最後の召集を出すことは
どうしても叶わなかったからね

告別式では、あたしの右前の男性と隣の女性が
式の間中、号泣していた
私も号泣していたが、その号泣振りをみて
さらに泣けて仕方なかった

それくらい守爺はみんなにとって兄貴分だったんだ

守爺のいちばんの飲み友達の昌司さんは
終始にこにこしていたけれど
「精進落としでビールを飲もう」と焼肉を食べながら
「俺がいちばん守爺と飲んでたよな」と呟いた

そういえば、守爺と昌司さんと飲んでたとき
奥さんから「もう飲ませないでください」と
電話がかかってきたことがあったなあ

飲ませちゃいけないのはわかってた
わかってたけど
思うように頭も体も動かなくなって
それでも「酒が好きだなあ」って笑ってた
守爺に「飲んじゃだめ」って言う事はどうしてもできなかった

書くのはやめようと思ったが、やはり書くことに決めた
最近、ほとほと忘れっぽい自分の脳みそのために

この半月、どうにもピンとこなくてぼやっと過ごしていたけれど
どうやらほんとのことらしい

忙しいときに限って電話が来るし
当日の誘いは迷惑だから
「無理〜〜〜」と断ってた

2カ月前のあの日、私は行けたのにドタキャンした
めんどくさかったから
どうして行かなかったかな
あれが最後のお誘いだったのに

もう「キムラだよお」の電話は来ない
来ることはない
泣いても叫んでも

この夏、4つのお葬式があった
みんな尊い人生をまっとうして
お空にかえっていく
友人のお父さん、友人のお母さん、恩師の奥様、そして守爺
いつかまた、お会いしましょう
高い高い平和な空の上で

春の一日

草むしり


昨夜の暴風雨と強風で布団も干せない。こんな時は草むしりだ。逗子婆が生きていたときには、「草むしりは雨が降った次の日にやると簡単だ」と言っていた。逗子婆の草仕事はていねいで、新聞紙に膝をついて、隅から一本一本抜いていた。時間はかかるけれど、彼女に時間はたっぷりあったから、大音量のラジオを聴きながら一日中続けてた。一時間でさえ、こんなに腰が痛いのに、彼女はどんなにたいへんだったろう。最初は勝手に庭を掃除する隣人に戸惑ったけれど、なんてありがたいことであったろうか。逗子婆のことを思い出しながら、どくだみや、こわいタンポポの葉を引き抜いてゆく。


山椒


きっと、この草達はこの数週間で一気に伸びたに違いない。2年前にK子さんからもらった山椒の芽がいきいきしてた。近づけると、いい香り。


珊瑚礁のカレーパン


大船のルミネで、ポンパドールと鎌倉・珊瑚礁のコラボレーションで完成したカレーパンを発見。昨日発売されたほやほやだ。1つ262円のそのパンは、カリッとしたパン生地が良い。カレーは辛さ控えめ。


天麩羅


かすどんから、シイタケとタラの芽を戴いたので、今夜は天麩羅。苦味がなくてやわ甘かった〜。


衣かつぎ


親戚から届いた里芋は、衣かつぎにして醤油でぱくり。

忘れない人

こころ

ともだちから、昔の恋の想い出がなんていう甘酸っぱいメール。私には、今でも思い出したくなるような恋の想い出はないけれど、どうしているかしらと繰り返し思い返すとくべつな友人はいる。

彼Kさんとはたぶん、15年前に出会った。きっかけについてはまったく覚えていない。同じビルに勤めているグループ会社の人だった。仕事のつながりはまったくないけれど、Kさんも私も路地裏をぷらぷらと歩くことが大好きだったので、秋葉原から上野、根津、千駄木と進む毎日の帰路のどこかで出会って、「いつも歩いてますね」なんていう他愛のない挨拶から仲が良くなったんだと思う。

工具なんかをデザインするプロダクトデザイナーだった。最初は偶然出会ったときだけ一緒に帰っていたけれど、映画の趣味や、絵の趣味、食べ物の好みなんかが同じだったから、約束してちょくちょく一緒に帰るようになった。

私はそのとき、つきあっている人はいたけれど、Kさんとの関係はあたたかくて、特別なものであったから、つきあっている人がいることもすべて話した上で、タイミングがあえば幼馴染とつきあうように彼との2−3時間に及ぶ散歩を楽しんだ。

時には暗闇の中、閉館した東大の霊安室に忍び込んだ。歩いてはいけないと書かれている終電間際のJRの線路を、スタンバイミーみたいに歩いた。誰もいなくなった保育園の遊具で馬鹿笑いしながら遊んだ。

2年たったある日、雑木林を枯葉を踏みしめながら歩いていたとき、「ぼくは君が好きだけれど、君にはつきあっている人がいる。ぼくはどうしたら良い」と突然訊かれた。びっくりしたような、びっくりしていないような、不思議な感情のなかで、「あなたのことは大好きだけれど、それは愛とは違うとおもう」とひどく冷静に答えてしまった。「わかりました。じゃあ、しばらくこうさせて」と抱きしめられて、「さよなら」と言われてそれきりだった。

なんていやな言い方をしてしまったんだろうと思っても、もう後の祭り。私はたいせつな親友をたった5分でなくしてしまった。私はほどなく転職して、Kさんとは一度だけ一緒に歩いた。でも私たちの関係は以前とはまったく違ってしまった。

男と女は親友になれないのか悩んだけれど、今でも性懲りもなく、なれると信じている。Kさんからは毎年、年賀状が送られてくる。幸せそうな、2人の子供と奥さんに囲まれたファミリー写真をつけて。

あのとき、Kさんとつきあっていたらどうなっていたのかと考えたことはない。たぶん、あと何年一緒に過ごしたとしても、その気持ちが愛に変わることはなかったとなぜか思えてしまうのだ。

それでも、Kさんと歩いた路地のひとつひとつを思い出すときがある。かじったおせんべいや、喉を熱く潤した神社の甘酒の香りとともに。

なんだ今日の話は。まさに、たくのつぶやき。女心と秋の空というわけで今日は、備忘録としてご容赦ください。

あれからいちねん

紫陽花

今日は一日

はらはらとはらはらと波打つ鼓動がとまらなかった

いまのいままで忘れていた

あれからいちねん

天国からの贈り物

柿

逗子に越してきてはじめて仲良くなったのは、年上のお隣の奥さんだった。さつまいもをたくさんいただいて、その扱いに困っていたとき、庭を掃く小気味の良い音が聞こえて、のぞきこんだら感じの良い女性だった。「あの、さつまいもを食べていただけませんでしょうか」という唐突な私の申し出にちょっと驚いた様子で、それでもすぐに「いいの?」と返ってきた。「もちろんです」と渡して一週間後、手作りの黒糖ケーキが届いた。これが素朴で絶品だった。素直な気持ちを手紙にしたためてポストに投函して、それから私たちの文通ははじまった。

それは、贈りあったものに対する喜びやそれにまつわるエピソードを書いただけのものだったけれど、回を重ねるごとに葉書は饒舌になって、裏に表に言葉がもれた。

そんなこんなで2年が経った頃、奥さんの持病が重くなって、毎日こんこんと息苦しい咳が響くようになった。聞いているだけで辛くなるような咳だった。それが突然聞こえなくなって、奥さんは入院した。クリスマスになっても戻らない奥さんに花を届けようと門を叩くとご主人が静かに笑って「前に入院したときにもうだめだと言われたんだよ。家に戻れたのは奇跡だったの。でももうたぶん戻れないねえ」と言った。心臓がどきどきして家に戻って、半年が過ぎて、春を迎える頃に奥さんはとうとう亡くなってしまった。

それから何年もたったいまも、ご家族からこうして季節の風物詩をいただく。まるで天国から贈られる小包のように。

逗子婆の届け物

クロスロード

逗子警察署から電話。「紛失された鍵が出てきました」。一週間前に鍵をなくした。八方手を尽くして、探しても探しても出てこない。諦めていた矢先の電話。今日は、逗子婆のお通夜。お通夜の前に鍵を取りに行く。そのときにようやっと逗子警察が、逗子婆が昨日までいた逗子病院の裏だったことに気づく。

海でなくしたとばかり思っていた鍵は、革のキーケースにすらまったくなんの傷みもなく不思議なくらいだ。どこに落ちていたのですかと聞いたら、「昨日、新宿警察署の机に知らないうちに置いてあったのだ」と言う。

とぼとぼと歩いて大通りに戻る。逗子病院の前まで行く。対面に、生前、お見舞いに持って行ったら「ああ、なんていい海苔の香りだろう」と喜んだお寿司屋さんがあったから、今日は私が食べようと、同じ海苔巻きを買う。

ミイ様と二葉会館のお通夜へ。1週間ひどく苦しんだなんて思えないほど安らかな逗子婆は、一度だけ見せてもらった写真の、恐ろしく美しい若妻のときと同じような美しさだった。

薄くなった髪をいつも気にして、震える手で鬘を結い上げていた。入院しているときは、剥げた頭を恥ずかしそうに、「汚い面を見せて悪いねえ」と繰り返した。出かけるときには「ちょっとは“まし”になったろう」と鮮やかなピンクの紅をひいた。今夜はカールした鬘をつけて、生き生きとしたピンクの紅がとてもきれい。とてもきれいよ逗子婆。

連れの墓参りに行かなくちゃと、先に亡くなった旦那さんのお参りを彼岸のたびに気にしていた。今月の七回忌が終わったから、安心して逗子婆も逝くのね。もうこれで、お墓参りの心配はずうっとずうっとしなくていいんだよ。

鍵を拾ってくれたのは逗子婆ね。ありがとう、ありがとう。最期の最後までありがとう。

明日、骨をいっしょに拾ってほしかったんだけれどと娘さん。ごめんなさい。私は明日は行けません。今日の美しい逗子婆のことだけをいつまでも覚えていたいから。ごめんね、ごめんね。ありがとう。

さよなら逗子婆

PARADISE ALLEY

今朝、母が亡くなりました

いままでどうもありがとう

逗子婆の娘さんから

PARADISE ALLEYに訃報が届く

ねえ逗子婆

2人で出かけるときはたいていが鎌倉だった

真空パックの沢庵と

芥子の付いた黒豚の焼売

赤い小粒の梅は

京急ストアじゃなきゃだめなんだと言って

あしなやでサンマー麺を食べた

だからお別れも鎌倉なのね

そうなんでしょ

もうなにも考えたくない

雨

ゴールデンウィークの終日。朝からひどい雨。濡れた洗濯物を呆然と眺めている。

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元気のない逗子婆に真っ赤な夕陽

病室から

逗子の病院に転院した逗子婆のお見舞いに。だいぶ元気になった逗子婆だけれど、会うやいなや「今日でお別れなんだよ」とさめざめと泣いている。「家に帰ったら、家財道具もお仏壇も全部なくなってしまったんだよ。さびしくてさびしくて、もうみんなとはお別れするときだねえ」。そんな哀しいことを言われてさびしくて、がんばって大笑い。一人ぽっちの個室はほんとうにさみしいねえ。これからはもっと頻繁にお見舞いに来るよと約束して病院を出る。

夕焼け

夕方からは雨という予報だったのに大きな大きなはっとするような真っ赤な夕陽。せめてこの夕陽を、毎日あの病室に届けられたら、逗子婆の元気ももどってくるんじゃないかなあ。

ありがとうの空

天頂

<photo/photoribrary>

ゼニスブルーの空に

つきぬけるような高音が響く

それは祝福の喇叭

とめどなく落ちる涙

姿のないあなたの声

予感

逗子婆の娘さんから携帯が鳴った。嫌な予感がして、とるのをためらっている間も電話は震える。観念して、出ると彼女は言った。 「お仕事中にごめんなさい。あのね、実は母が回復して、逗子の病院に転院することになったのよ」。 驚きと喜びで声が出ないでいると、「死んだっていうかと思ったでしょ」と言うから、2人でようやく大笑いした。

あれからしばらく、逗子婆は生死の境をさまよった。でも、ある日突然、自力で管を外してしまった。もしかしたらと食事をさせてみたら、みるみる元気が戻ったそうだ。「すごい」と私が叫ぶと「すごいでしょ」と明るい声が返ってきた。 「まだ水は飲めないし、認知症も少しあるの。でもね、行くと泣いて喜ぶのよ。明日には逗子に戻るから、また会いに行ってやってね」。喜びを分かち合いながら電話を切ったのが15時。明日なんて待ちきれないから、大船の病院に向かってる。

これまで、逗子婆の話にたくさんのコメントをお寄せくださった皆さん、どうもありがとうございます。皆さんの声援が大きな力になったのだと思います。とにかく皆さんにも早くお知らせしたくて、携帯電話からご報告させていただきます。

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小さなコロッケと逗子婆のこと

コロッケ

たまねぎとひき肉だけを塩コショウで丹念に炒めて、ふかしたジャガイモにざっくりとまぜる。そんなシンプルなコロッケが、家庭料理の中でいっとう好きなんだ。大きいコロッケと、直径3センチほどの小さなコロッケをいくつもいくつもつくる。小さいコロッケは逗子婆とお弁当用。大きいコロッケだけでは足りない場合の調整としても重宝するから、たくさんつくってしまう。

逗子婆が隣に住んでいたとき、天ぷらや煮物を私にいろいろおすそ分けしてくれた。逗子婆のつくるものはどれも美味しい上に、彼女は好き嫌いが多く、固いものも食べられなかったから、私がお礼できるものといえば、好きなお茶の葉くらい。それでも何回か、コロッケをおすそ分けした。逗子婆は手に力が入らないから、こねる作業は大の苦手だったんだ。

揚げたてを食べてほしいから、パン粉のついた状態で持っていく。すると翌日逗子婆は朝一番にチャイムを鳴らす。「あんまり美味しいから夢中で食べたよ」。それが、お世辞でないとわかるくらいに感情にあふれた声だった。今こうして、たくさん揚げすぎたコロッケを見つめながら、病院のベッドで寝ている逗子婆のことを思う。

「逗子婆はなにを考えて寝続けているんだろう」と大切な友人に訊く。すると彼女は「楽しい夢を見続けているのよ」と応える。だとしたら、美味しいものが好きだった逗子婆は、揚げたてのコロッケをいくつもいくつも頬ばるような、幸せの湯気がまっしろに上っていくような、楽しい夢を見ているだろか。

逗子婆の音

誰もいないはずなのに、棚から物を下ろしたり、蛇口をひねる音がする。

あ、逗子婆が片付けものに来てる。

静かな夜に。でもなんとなくそんな気がする。

湘南鎌倉病院

椅子に座ったまま動けない。夕方になった私に「逗子婆の見舞いに行くよ」とミイ様@旦那。行きたいような行けないような私の背中を押す。

大船富士見台「湘南鎌倉病院」へ。大船から1駅の病院に逗子婆を訪ねた。「もう意識はありません」という逗子婆がベッドに寝ていた。胸がいっぱいで声が出ない。 鼻から管を通されて逗子婆は苦しそうに寝ていた。逗子婆、わかる? と声を出すので精一杯だ。

布団の中にある腕を触ったら、燃えるように熱かった。目を閉じたまま、口をぱくぱくさせている逗子婆。右を向いた口から泡のように涎が流れて苦しくなった。 20分ほど横にいた。逗子婆と大きく声をかけたら、目を大きく見開いて、「あー、あー」と言った。「わかるのかなあ」とミイ様を振り返ったら「わかってるよ、俺にはわかる」と言った。

湘南深沢の天狗で、逗子婆の回復を願って乾杯。「なんど天ぷらを揚げてもらったと思う?」

ミイサマも私も、涙が止まらない。逗子婆の娘に電話。「分かったみたいなんです。だから治ると思うのです」と万感の思いでやっと伝える。 彼女は一拍おいて、「ありがとう、どうかそう願い続けてください」。そう静かに言った。

かなしい知らせ

今日は逗子の市長選。なのに頭がフリーズしている。

 チャイムが鳴った。玄関を開けると隣に住む逗子婆の娘さんだった。「母はもう戻れません」と言った。 金曜の深夜に倒れて大船の病院に運ばれた。「多分、年は越せません」。淡々と話し、「もう意識はありませんが、もし意識が戻ったらどうか最期に会ってください」とぽろぽろと泣いた。彼女が帰ってから、逗子婆のことばかり考えている。

カレンダーが大好きで年末は伊勢佐木町に買い出しに出かけていた。殺風景な独り暮らしの部屋はいつも賑やかなカレンダーがいたるところに貼られ、毎月を彩った。外出できなくなったここ数年は、私が会社からもらってきたのをあげていた。それは社名の入った無粋なものだったけれど、それでも満面の笑みで喜んでくれていた。

元気な頃はいろいろなところに連れだった。大船のフラワーセンターや巣鴨のとげぬき地蔵。大嫌いな焼き芋だけど、鎌倉宮で歩きながら半ぶんこしたあの味は一生忘れないよ。鎌倉行きのバスに乗って席を譲られたら心底驚いて、「そんな年寄りに見えるかね」と囁いた。「80だもん、当然よ」と言えず、「疲れてるように見えたのよ」と慰めた。かといえば、「こんな汚いババアと歩くのは恥ずかしいだろ」といつも言っていた。いいえ、粋な逗子婆との外出は私にとって誇らしく、常に生き方の勉強だったのですよ。

「昔の逗子は年寄りを大切にしていたよ」。いつもの悪態が聞こえる。とにかく投票に出かけなくては。でもからだが動かない。

逗子婆の話 1 2 3 4

逗子婆の急須が変わると逗子の季節も変わるんだ

急須

こたつの天板を変えたら急須も替えるよ

隣に住む逗子婆は、引き出しの中から色とりどりの急須をひろげる

春には明るい花を

夏には清冽な白を

秋には色とりどりの紅葉を

冬には柄の詰まった温かな紋様を選ぶ

その変化が彼女の生活だ

 

なにもすることがなくなったら占いをするよと

薄汚れたトランプを取り出してソリティアをはじめる

カードがなくなれば、今日はきっといいことがある

なくならなければ何度だって繰り返してみせる

こんなことでもしなければ時間がちっともたたないからね

 

やることもないからお茶を何杯も飲むからさ

がっぽがっぽのお茶っぱらさ

でもあんたと飲むお茶はまた、格別だねえ

逗子婆は誰も来ない時間、誰もいない時間を

旦那さんを亡くして以来こうして何年もクリアしてきたのだ

それを思うと、私はどうにかして逗子婆に届く言葉をさがしたくなる

 

家の土鍋が割れたから

いつも贔屓にしている九段下・花田へ

土鍋をさがしにきたはずなのに

急須ばかりに目がいってしまう秋の日

逗子の天ぷら物語

ししとう

こないだテレビ番組を見ていたら、「ししとうはダイエットに良い」と言っていたので、「この夏はししとうだな」と決めている。ところで、この年までししとうのワタをひとつひとつはずしていた。親もそうだったから。なのに周りに聞くとワタは残したままだという。番組でも「ワタに効果がある」という。今までの苦労はなんだったのか、むなしくなる。

天麩羅

夏の定番料理は素麺に天ぷらだ。子どもの頃からそう決まってた。揚げたての天ぷらの油の香りをかぐと、夏が来たなと思う。実家にいるとき、天ぷらを揚げるのは私の役目だったのだが、逗子に来てからの3年間は、隣に住んでいる逗子婆が天ぷらを揚げてくれていた。

「あんたにしてあげられることは、これしかないんだよ」。「あんたは忙しいからね。言えばいつだって揚げられるように、いつだって冷蔵庫に釜揚げの海老を冷凍してあるんだ」。

実際に、仕事で遅くなったときに「食べるものはあるのかい。今からだって揚げてあげるよ」と、逗子婆はニコニコしながら天ぷらを揚げてくれた。逗子婆はなにをやっても手早くて、手間のかかる天ぷらがものすごく簡単なものに見えた。葱と釜揚げの海老、もやし、蓮。今では私の定番になった珍しい天ぷらは、逗子婆が教えてくれた。

病気になって、手も言うことがきかなくなって、逗子婆は天ぷらを揚げられなくなった。だから今は食べたくなったら自分で揚げる。でも逗子婆と同じにならない。逗子婆は、1リットル1000円の菜種油を使うんだ。それに、からりと揚げるためのべーキングパウダーひとすくい。

ううん、でもそれだけじゃない。何年も継ぎ足して使っている油、油の凝り固まった鍋、雑巾にさわってしまう野菜、そのどれもがやっぱり正直、衛生上気になったんだけれど、もしかしたらそれが旨みの素だったのかもしれないなあ。ねえ、逗子婆。

逗子婆の話  

真鍋先生 ありがとう

真鍋耳鼻咽喉科の真鍋先生が鬼籍に入られた。今は訃報にふれ、言葉もありません。風邪のときも、アレルギーのときも、真鍋先生は信頼のおけるお医者さまでした。「早く治して」と懇願すると「無理だ。安静にしろ」とぶっきらぼうにおっしゃって、それでもすぐにニッカリと「これを飲んで静かにしてれば5日できれいに治るぜ」と笑ってくださった。どんなにひどい病でも真鍋先生のところに行けばすぐによくなると思っていたのに、私はこれからどうしたらいいのですか。もう風邪もひけない。先生にも会えない。こんなせちがらい世の中で、先生は唯一「だいじょうぶ」と患者に太鼓判を押してくれる方でしたのに。

先生、これまで何度も元気を授けてくださいましたね。感謝を言葉にしきれません。ほんとうにありがとうございました。これからは天国で思い切りドラムをたたいて、たまには私たちにエールを送ってくださいね。先生のはにかんだようなとびきりの笑顔が大好きでした。

ただただ、御冥福をお祈り申し上げます。

哀しいトランプ

トランプ久しぶりに、隣に暮らす逗子婆について話そう。

80歳を過ぎて、逗子に一人住む逗子婆の一日はとても長い。会社が早く終わってお茶を飲みに訪ねようものなら、息急き切って玄関を開け「1週間ぶりに声をだしたよ」と笑いながら涙ぐむ。

「さあ、おあがり」と招かれて家に入ると、万年炬燵の上には薄汚れたトランプが置かれている。これが逗子婆の生活。起きてから寝るまでの恐ろしく長い15時間を、一人でなんとかやり過ごせるようにと、ソリティアを何回も何回も繰り返している。

「これは占いだよ」

全部なくなったら、良い事が起こる兆しだという。だから彼女は、全部一度でなくなるまで、何度も何度も繰り返す。

「さっき、全部なくなったから、あんたに会えた」

涙がこぼれそうになるから、聞こえなかったふりをして炬燵の中に足をさしいれる。

逗子婆とお茶

逗子婆

私の家の隣には、私が心の中で逗子婆と呼んでいる齢82歳の女性が一人で暮らしている。年を越えて、なぜか気があって、たまに世間話をしながらお茶を飲む。

去年までは週に1度の割合でお茶していたのだけれど、今年に入ってから公私ともに忙しく、なんと3カ月も音沙汰なくしてしまった。朝から気になって「今日こそは逗子婆に会わねば」と、夕方お宅にお邪魔したら、とてもびっくりして泣き出してしまった。

「私、あんたにすごく会いたかったんだよ。会いたかったから毎日仏様にお願いしてたんだ」って、涙をぬぐう。
とても悪いことをしてしまったような気がして「ごめんね」って謝った。
「私、あんたに悪いことしたんじゃないかい」って、何度も何度も聞くから、「そんなことないよ」って笑い飛ばした。一人ぼっちは淋しいから、悲しいことばかり考えてしまうんでしょう。
二人で飲むお茶は、安くてもとても美味しくて。蕎麦ボーロをお茶請けに、何杯も何杯もお茶を飲む。

ありがとうNEDさん

掲示板や日記に何度か遊びに来ていただいたことのある「鎌倉雑記帳」のNEDさんが亡くなった。お会いしたこともないのに、はらはらと涙がとまりません。NEDさんの撮る澄んだ花の写真や、温かく、深く切り込んだ言葉が大好きでした。お会いしたことはないけれど、この出会いに感謝。天国への階段を昇るNEDさん、逗子の桜は見えますか。
プロフィール

たく

好きなもの。詩集、平屋、旬の味覚、太極拳、ヨガ、ブローティガン、マイケルナイマン、ボブディラン、トムウェイツ、友部正人、ハワイアン、あてのない散歩、あてのない旅、迷子、健康診断、空、海、雲、焼鳥、茶碗蒸し、卵、採れたて野菜、おじいさん、おばあさん、聞き分けの良い子ども、子どもらしい子ども、名水、縁起の良いもの、効率的なもの、不便なもの、エクセル、テプラ、ファイリング、家計簿、昔から継続して愛されているもの、美しい文字、味のある文字、マメな男、楽天的な男、アメリカン、赤城もち豚、酒、大川の干物、魚平の刺身、手書きの手紙、その人の癖のついた万年筆、針を使わないホチキス、掃除機、職人さんがつくったもの、カリッとしたもの、シャキシャキしたもの、ふんわりとしたもの、濃厚なチョコレートケーキ、屈託のない笑顔、傷だらけのカメラ、人を傷つけない言葉

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