October 21, 2013

魂のこと

このブログに来てくださってありがとうございます。

実は先月母が亡くなりました。最初の脳卒中からおよそ12年、起きられず食べられず寝たきりになってから4年目、とうとうあちらの世界に召されました。医療ミスによる死と考えられるので未だに心の整理がつきませんが、今度の土曜日の納骨式、来月初めの四十九日、母の魂が完全にこの世から去るまでに、母と私の鎮魂のためにやるべきことをやりたいと思っています。そのことについて今はこれ以上記述することはできませんが…。

まずは、鎮魂の曲を聴いてください。
哀しみと衝撃を癒すために私がくり返しくり返し聞いている曲、メキシコ系アメリカンでありながら南アフリカ共和国独立に貢献した伝説のシュガーマン(Rodrigues)のアルバムと、イタリアの伝説のテノール歌手エンリコ・カルーソーへのオマージュ(Lucio Dala作詞作曲)を貼りつけます。たしかにたしかに、たしかに音楽には測り知れない癒す力がある。音楽は魂に伝わる。魂に伝わる音楽がある。

内容はヤバいが、詩とメロディーは爽やかに洗練されている。装飾を削ぎ落とし、素朴なまま洗練された人柄がそもそも奇跡だ。ロドリゲスはこのアルバムを1970年に出した後、行方がわからなくなっていました。見つかった彼は70代で現役の肉体労働者、ビルの解体作業員でした。復帰したシュガーマンは南アフリカでのコンサートをくり返し、何度でも熱狂的に満員にしました。「Sugarman」ではなく「Rich Falks Hoax」を聞いてください。ドキュメンタリー映画のタイトルは「奇跡に愛された男(Searching For Sugarman)」です。


エンリコ・カルーソーはもっとも有名なテノール歌手と言われていますが、興行的な成功とも幸せな家庭生活とも縁がなかったようです。ルチアーノ・デッラが捧げたこの曲は、世界中で錚々たる歌手がカバーしています。パバロッティもアンドレア・ボチェッリもララ・ファビアンも。でも作者であるこの人の、最初の頃の歌声がいちばん心に響きます。彼はこんな高音で歌えたのか!イントロの映像は不要、30秒ぐらいからの曲を聞いてみてください。どうしてこの人はこんな曲が作れたのか、どうしてこんなふうに歌えたのか。それほどまでにカルーソーが好きだからなのでしょう。



以前から魂のことを考え続けてきました。魂とは何か、魂はあるのか、肉体がなくなると魂が残るのか、どこにあるのか、どこへ行くのか…などなど。
訳されていないヘレン・ケラーの伝記を読んでいて、彼女が経験なクリスチャンであること、しかもスェデンボルジャン(魂の存在を生涯かけて人々に知らしめた、知る人ぞ知る超宗派のクリスチャン、哲学者、科学者でもあるスウェーデンボルグを信奉する人)であり、幼い頃から魂の存在を確信していたことを知りました。ヘレン・ケラーは、想像を超えた過激な人でした。
死によって終りにならない魂の存在を知ったのは、「死」を考え始めてむさぼり読んだエリザベス・キュプラー・ロス博士の著作からでもあります。ロス博士は死生学のパイオニアです。医療従事者や宗教者から激しい抵抗をぶつけられながら、死を迎える人間のあり方を、死に行くひとりひとりに添うようにしてインタビューし、それを長年月実践し続けて研究しました。証明することができないと思われている人間の死後の在りかたですが、死生学の発達、またクリスチャン・サイエンスやインド哲学や最新の物理学にも共通する知見を通して、私にとって次第にリアリティを増して来ています。

考えてみれば、人は自らの企画や意志で誕生した訳ではありませんね(意志を持って誕生したという人もいるようですが)。誕生にまつわる神秘的なプロセス、死にまつわる崇高なプロセスはどう考えてみても人知を超えています。もし私たちが知的な理解による以外に理解できないのであれば、私たちは死後に関しての理解を諦めざるをえませんが、どうもそうとは言えない状況がたくさん見受けられます。つまり、我々の理解できないことに対して、通常の理解の仕方ではない別種の理解がありうる可能性が示唆されています。それは脳による理解ではなく、細胞レベル、DNAレベルでの理解とでもいいましょうか、より深く全的な理解があり得ると考えるようになりました。
肉体という物理的な個別の存在が、我々の唯一の存在形態であるはずがないと思われます。偶発的な結合によって肉体を得て生まれ、病いや自然死を含めて、偶発的な理由で消滅する肉体が我々の存在の仕方のすべてであるはずがないのは当然ではありませんか。この肉体を持った個別的な存在は生命を維持するためにも、また精神のバランスをとるためにも、生命保存本能によって「私(エゴ)」を不可避的に持たざるをえません。そしてそのために言葉を使うようになりました。「私」と「言葉」はその存続のために我々の(知的/非知的)理解を産みだしましたが、存在のリアリティは「私」と「言葉」を超えているところにしかありません。「私」と「言葉」とは無縁なのです。
ですから、「私」と「言葉」を離れることができるものにしか、存在のリアリティは拓かれません。ですが、まだわたしは「私」と「言葉」を離れることができていないので、この先へは踏み出していません。それがブログの更新が間遠になってきている由縁です。書け続けたいと思っているのですが…。


zyrra at 13:09|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

October 18, 2012

白状すると

実は「うつ」だった!
非常に個人的なことを書くことをお許しください。精神が安定しないためにブログ更新ができませんでした。実は、自分は「うつ」とは無縁だと長い間なんとなく思い込んでいましたが、もしかしたらこれが「うつ」なのかも知れないと思うようになりました。だからどうだと言うことは何もありません。つまり精神科を受診しようとか、カウンセリングを受けようとか思うわけではありません。
もしこれが「うつ」だとすれば、実は私は幼い頃から「うつ」と共に生きて来ました。私は本当は「うつ」のエキスパートでした(表現がちがうような気もしますが、「うつ」をやり過ごすエキスパート、自分の「うつ」ととことんつきあうエキスパートというような意味です)。これはかなり辛いのですが、経験上、根を上げることはないと自信があります。「うつ」ではないかも知れませんしね!

お手玉と丹田呼吸で!
今は何か考えると「マイナス」でしか考えられないので、なるべく考えないようにしています。でも、考えてしまうので、お手玉を作りました。「お手玉をすると、うつ、パニック障害が治る」という本を読み、深く影響されたからです。中原和彦先生という、九州の精神科の医師の診療体験を元にした本です。さらに、自分の呼吸が浅いことにも気がついたので、白隠禅師の「夜船閑話」で知られている丹田呼吸で酸素を取り入れることにしました。酸素が充分に回らなければ、体も心も働きが鈍るのは当然と思われました。
今、私は(ゼッタイに逃げられない)やるべきことをやりながら、ストレスや不安から生じるマイナスの心の働きを消し去るために、自分をまるごと肯定していけるようにすることに全力を尽くします。「うつ」は、理解によって乗り越えられるものではないように思います。お手玉と丹田呼吸で、この状態の改善を試みます。状態が好転したら、お手玉と丹田呼吸について書き足します。
あまり芳しくないブログをここまで読んでくださって、ありがとうございました。感謝!

zyrra at 09:38|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

April 20, 2012

あなたが誰であろうと、あなたは奇跡の人

われわれは何者なのか
昨日、ゴーギャンの遺作のタイトル「われわれはどこから来たのかわれわれは何者なのかわれわれはどこへ行くのか」を取り上げ、神学校の教理問答「人間はどこから来たのか、どこへ行こうとするのか、人間はどうやって進歩していくのか」の「人間はどうやって進歩していくのか」の部分が「われわれは何者なのか」に代わっていることに着目しました。
神学校での「人間の進歩」にはキリスト教的な教化が必要でしょう。言うまでもないことかも知れませんが、教育が我々を何者かにするのではないでしょうか。

アマラとカマラ
1920年代にインドで、「乳児の時にさらわれて狼に育てられたふたりの少女」アマラとカマラが発見されたとされています。一節によれば、彼女たちは狼のように吠え、狼のように走り、狼のように行動したとも。助け出した牧師が人間的な教育を施したけれど、人間としての教化は難しいものがあったようです。アマラとカマラの報告の信憑性はともかく、この逸話が示唆するのは、人はもともと人間として生まれるのではなく、人間となるべく教育されるということです。狼の教育をされると狼のようになってしまいます。独裁者の教育をされれば独裁者、テロリストの教育をされればテロリスト…、になるのでしょうか。我々の可能性は、本当に教育の範囲内に限定されるのでしょうか。

自己教育とは
我々を個として成り立たせている要素には先天的なものと後天的なものがあります。遺伝と教育です。そして教育には公教育や社会教育などの時代が要請する外的なものと、自発的な学習による自己教育があります。親の教育や影響は外的でもあり内的なでもあります。自己教育は一般的な教育から明確に分かれているわけではなく、外的な教育の中からある要素を選択して受け入れたり反発したりしながら、影響され感化され、また求めたり深めたりしてなりたっていると言われます(フェルデンクライス著「Awareness Through Movement/フェルデンクライス身体訓練法」より)。

サリバンの教育
自己教育の程度には非常に大きな違いがあるので、これによって人間の可能性が開かれたり開かれなかったりします。その最たる例がヘレン・ケラーです。ヘレンはサリバン先生がいなかったら、言葉の世界に知的に参入することができなかったと言えます。ところで、彼女に言葉にひらかれた瞬間をテーマに、映画や舞台となった「奇跡の人」の原題は『Miracle Worker/奇跡を起こした人」です。日本では「奇跡の人」はヘレン・ケラーだとする人が圧倒的に多いようですが、私が欧米人に聞いた限りでは「奇跡を起こした人」はサリバンだそうです。つまり、見えない聞こえない話せない闇の中でもがいていたヘレンを知的な世界に教育によって救い出した、アン・マンスフィールド・サリバンが奇跡の人だと言うのです。
ヘレンがヘレン・ケラーになったのは教育によるのは確かですが、この場合の教育はサリバンが徹底して導いた「ヘレンの自己教育」を意味します。サリバンは慎重にかつ断固として、ヘレンに教育を押しつけることを回避しました。ヘレンの自発性を最重要視したサリバンの教育、それが「ヘレンの自己教育」として結実したのです。この事情はヘレン・ケラーの自伝を読んでもわかりません。サリバンは研究者ではなく教師として優れていたので、ヘレンを研究対象と見て報告書や記録を残したりしなかったのです。唯一の記録は、彼女がケラー家に雇われてから、自分が育った盲学校の寮母(母親代わりのような人)に、週に一度送っていた手紙が記録として相当します。それによると、サリバンがいかに周到にヘレンの自発性を成長の要にしたかがわかります。ポンプの水で言葉の世界にひらかれる、あのことさら有名な場面も例外ではありません。彼女の手紙には、あの場面に至るプロセスが臨場感を持って書かれていますが、あの瞬間はジグソーパズルの最後のワンピースであって、それまでの布石が統合された瞬間でもあります。それについては長くなりますので、また改めて書くことにします。

自己教育の原動力は自発性
人間の発達の鍵は自己教育にあるようです。本屋の棚の一角を占める成功本、スピリチュアル本、自己啓発、コーチングなどの類いもこの自己教育による変革を目指しているのではないでしょうか。この種の本をどれほど読んでも変革が成就しないとしたら、そのやりかたが自発性に根ざしたものではないからです。「効果的なすばらしい方法」を押しつけられても自発性は作動しません。

維新後に福沢諭吉の「学問のすすめ」とともにベストセラーになった「西国立志編」は英国人サミュエル・スマイルズの「自助論(Self Help)」の翻訳です。これは、志をいかにして現実化するかを説いた自己啓発の源流です。この時代、人々には現代の我々にはない燃えるような自発性がありました。仮に、組織の一因としての人生を目指さないとしても、芸術家であっても、組織に組み込まれずには生きられないのが高度にシステム化された現代の我々の社会です。我々は組織に適合しなければ生きる術がないかの如く教育されます。実際、生きることは非常に困難になります。我々にとって、自由や自発性は最初から枠づけられていますが、それに疑問を持つことは歓迎されません。一度その道筋から外れてしまうと、犯罪者になるか、引きこもるより他に道がなくなるのが日本の現状に思えます。ですから、失われた自発性をなんとかして回復しようとする試みは、無数の成功本や自己啓発本の出版として後を絶ちません。自発性の鍵はどこにあるのでしょうか。この他に、自発性の欠如と依存についても、改めて稿を起こすこととします。

さて、本日の口直しは、孤児として五歳の時からひとりで路上で暮らし、クラブでキャンディを売って生活しながら、オペラに感動して独学でオペラを自己教育した韓国の青年です。字幕の日本語訳に少々難点がありますが、誰にも学ばずに覚えた歌によって彼の人生が一転する珠玉の瞬間は感動的です。自発性こそが、人が何者かになる自己教育の原動力と言えます。



zyrra at 01:53|PermalinkComments(0)TrackBack(0)